最終更新日 2025-09-10

田丸城の戦い(1600)

慶長五年「田丸城の戦い」の真相:関ヶ原合戦における伊勢方面戦役の時系列分析

序章:関ヶ原前夜、伊勢国の戦略的価値と勢力配置

慶長5年(1600年)、天下分け目の関ヶ原の戦いが勃発した際、その広範な戦役の一環として伊勢国(現在の三重県)で繰り広げられた一連の戦闘群は、しばしば「田丸城の戦い」という呼称で言及されることがあります。しかしながら、史料を詳細に分析すると、この呼称は特定の城を巡る単一の攻防戦を指すものではなく、戦後に田丸城主となる**稲葉道通(いなば みちとお) の動向を核とした、より広域的かつ複合的な 「関ヶ原の戦い 伊勢方面戦役」**の実態を指し示すものであることが明らかになります。本報告書は、この伊勢方面戦役の全貌を、合戦のリアルタイムな状況が把握できるよう時系列に沿って再構築し、「田丸城の戦い」の歴史的真相を徹底的に解明することを目的とします。

伊勢国の地政学的重要性

伊勢国は、東国と畿内を結ぶ伊勢街道や熊野街道が交差する交通の要衝であり、経済的・軍事的に極めて重要な地域でした 1 。また、伊勢神宮を擁するこの地は、全国の武将にとって象徴的な意味合いも持ち合わせていました。徳川家康が本拠を置く関東と、豊臣秀頼が座し石田三成らが蜂起した大坂の中間に位置するため、関ヶ原の戦いにおいて伊勢を制することは、東西両軍にとって補給線の確保と敵勢力の分断に直結する死活問題でした。

伊勢国における東西両軍の勢力配置

開戦前夜、伊勢国は小規模な大名がモザイク状に配置され、その向背は複雑に入り組んでいました。徳川家康率いる東軍に与する者、石田三成を中心とする西軍に与する者、そして日和見を決め込む者まで、その立場は様々でした。この複雑な勢力図こそが、伊勢方面戦役が局地戦の連続となった根本的な要因です。

表1:慶長5年 伊勢国および周辺における東西両軍の主要勢力配置

城主名

居城

石高(推定)

所属軍

関ヶ原戦役における主な動向

稲葉 道通

岩出城

2万石

東軍

会津征伐に従軍後、帰国。九鬼嘉隆勢と交戦 3

富田 信高

安濃津城

5万石

東軍

会津征伐に従軍後、帰国。西軍主力に対し籠城戦を展開 3

分部 光嘉

伊勢上野城

1万石

東軍

会津征伐に従軍後、帰国。安濃津城に入り共に籠城 3

古田 重勝

松坂城

3万7千石

東軍

会津征伐に従軍後、帰国。西軍鍋島勝茂の攻撃を受け降伏 3

九鬼 守隆

鳥羽城

3万石

東軍

会津征伐に従軍後、帰国。父・嘉隆と対立し畔乗城に拠る 3

筒井 定次

伊賀上野城

20万石

東軍

居城を一時奪われるも奪還し、関ヶ原本戦に参加 3

九鬼 嘉隆

鳥羽城

5千石(隠居料)

西軍

息子・守隆の鳥羽城を占拠。稲葉道通の岩出城を攻撃 3

氏家 行広

桑名城

2万5千石

西軍

人質を取られ西軍に加担。桑名城に籠城 3

岡本 宗憲

亀山城

2万2千石

西軍

桑名の氏家行広に合流 3

堀内 氏善

新宮城

2万7千石

西軍

九鬼嘉隆と行動を共にし、鳥羽城に入る 3

対立の火種―稲葉道通と九鬼嘉隆の確執

伊勢方面戦役の力学を理解する上で、稲葉道通と九鬼嘉隆の間に存在した個人的な確執は見過ごせません。慶長3年(1598年)、木材の海上輸送税を巡る紛争が発生した際、徳川家康の裁定により稲葉道通が勝訴しました。これにより、海賊大名の異名を持つ九鬼嘉隆は面目を潰され、道通に対して深い遺恨を抱くに至ったとされています 5

この個人的な対立が、両者の東西両軍への帰属を決定づけた一因となった可能性は極めて高いと考えられます。九鬼嘉隆が西軍に与した動機は、豊臣家への旧恩のみならず、家康の裁定によって煮え湯を飲まされた稲葉道通への報復という側面が強かったと推察されます。事実、嘉隆の軍事行動は、西軍の伊勢方面全体の戦略目標よりも、宿敵である稲葉道通の居城・岩出城への直接攻撃に主眼が置かれていました 3 。関ヶ原の戦いという大義名分が、私的な遺恨を晴らすための絶好の機会として利用されたのです。この根深い対立が、伊勢の戦局を大きく左右することになります。

第一章:開戦―西軍、伊勢国へ侵攻

戦乱の序曲:家康の会津征伐と三成の挙兵

慶長5年(1600年)6月18日、徳川家康は豊臣政権への反抗姿勢を明確にした会津の上杉景勝を討伐すべく、諸大名を率いて大坂を発向しました 6 。稲葉道通をはじめ、富田信高、分部光嘉といった伊勢の多くの大名もこの会津征伐軍に従軍していました。

家康が大坂を離れたこの機を捉え、五奉行の石田三成は毛利輝元を総大将に担ぎ上げ、反家康勢力の結集を図ります。7月12日頃、三成の兄・石田正澄が近江の愛知川に関所を設け、会津へ向かおうとしていた鍋島勝茂らの軍勢の通行を阻止 8 。これは西軍による事実上の軍事行動の開始であり、天下はにわかに緊張状態に陥りました。そして7月18日、宇喜多秀家、小早川秀秋らを主力とする西軍の大軍が、家康の家臣・鳥居元忠が守る伏見城への攻撃を開始し、天下分け目の戦いの火蓋が切られました 8

稲葉道通、領国への急行

伏見城攻撃の報は、下野国小山に布陣していた家康のもとにもたらされます。家康は直ちに会津攻めを中止し、反転して西軍を討つことを決断(小山評定)。この時、家康は伊勢国の戦略的重要性を鑑み、稲葉道通、富田信高、分部光嘉らに領国へ引き返し、西軍の侵攻に備えるよう直接指示を下しました 3

稲葉道通の伊勢への帰還は、困難を極めたと伝えられています。『藩翰譜』によれば、道通は帰国の途上、すでに西軍方として動き出していた九鬼嘉隆の勢力圏を通過する際に銃撃を受けるなど、生命の危険に晒されたとされています 5 。彼の帰国は単なる部隊移動ではなく、敵意に満ちた地域を突破する、まさに戦闘の序章でした。

西軍伊勢方面軍の編成と進発

大坂では、西軍首脳部が伊勢平定のための方面軍を編成し、派遣を決定します。8月1日には、奉行衆連署の書状で蒔田広定らに伊勢への出陣が命じられました 9 。続いて8月2日以降、毛利輝元の養子・毛利秀元を総大将格とし、吉川広家、五奉行の一人である長束正家、安国寺恵瓊、長宗我部盛親、そして一度は東上を試みた鍋島勝茂といった西軍の主力部隊が、次々と伊勢方面へと進軍を開始しました 9

その軍勢の規模は絶大であり、当時の公家の日記である『義演准后日記』には「伊勢へ八万人が出陣したらしい」との記述が残るほどでした 9 。これは誇張を含む可能性はあるものの、伊勢に残留する東軍諸将が感じたであろう軍事的圧力の大きさを物語っています。

しかし、この大軍には当初から不協和音の兆しが見られました。伊勢方面軍に加わっていた小早川秀秋は、8月17日には突如として軍から離脱し、近江石部に留まってしまいます 9 。秀秋のこの不可解な行動は、西軍に対する不信感や、すでに始まっていた東軍からの内通工作の影響を強く示唆するものです。西軍にとって、秀秋が率いる大軍は伊勢平定の切り札となるはずでした。しかし、緒戦の段階でこの戦力が計算から外れたことは、方面軍全体の士気と作戦遂行能力に少なからず悪影響を及ぼし、後の安濃津城攻めにおける時間的浪費の一因となったのです。西軍敗北の萌芽は、この伊勢侵攻の時点ですでに内包されていました。

第二章:伊勢の防衛線―岩出城の攻防

西軍の伊勢侵攻が本格化する中、稲葉道通の居城・岩出城とその周辺は、局地的ながらも極めて重要な攻防の舞台となりました。この戦いは、伊勢方面戦役全体の趨勢を左右する、見過ごすことのできない戦略的意義を持っていました。

九鬼嘉隆の蜂起と岩出城への攻撃

西軍への加担を決意した九鬼嘉隆は、素早く行動を開始します。家督を譲り東軍に与していた息子・守隆が会津征伐で不在の隙を突き、熊野水軍を率いる堀内氏善と共に、九鬼家の本拠である鳥羽城を占拠しました 3 。これにより志摩半島一帯を掌握した嘉隆は、西軍の海軍力の中核として、その矛先を長年の宿敵である稲葉道通へと向けました。

攻撃の時期は、稲葉道通が会津征伐軍から離脱し、岩出城への帰還途上にあった慶長5年8月中旬から下旬にかけてと推定されます 10 。主君不在という最大の弱点を突かれた岩出城でしたが、城内に残された留守居の兵はわずか960名余りでした 3 。数で勝る九鬼勢の攻撃に対し、籠城側は絶望的な状況にありました。しかし、岩出城の留守部隊は奮戦し、寡兵ながら見事に九鬼勢の猛攻を撃退したのです 3 。この籠城戦の具体的な経過を記した詳細な史料は乏しいものの、兵たちの士気の高さと城の堅固さが勝利の要因であったと推察されます。

稲葉道通の帰還と中島砦攻略

九死に一生を得て岩出城に帰還した稲葉道通は、籠城による防戦一方に甘んじることなく、すぐさま反撃に転じました。彼は、九鬼嘉隆に呼応して岩出城の近傍にある中島に砦を構えていた、山田の住人・北庄蔵の勢力に攻撃を仕掛けます 5 。史料には「田丸より稲葉蔵人大夫(道通)発向し、中島を攻破る」と簡潔に記されていますが 12 、この一文は道通の果断な指揮と、岩出城の兵の精強さを如実に示しています。この迅速な反撃により、道通は自領周辺の脅威を排除し、防衛体制を再構築することに成功しました。

この岩出城を巡る一連の攻防は、関ヶ原の戦い全体から見れば小さな戦闘に過ぎません。しかし、その戦略的価値は計り知れないものがありました。もし岩出城が早期に陥落していれば、九鬼嘉隆率いる水軍は伊勢湾を北上し、陸路を進む西軍本隊と連携して、安濃津城や桑名城を海陸から挟撃することが可能でした。そうなれば、伊勢の東軍拠点はまたたく間に掃討されていたでしょう。

しかし、岩出城が持ちこたえ、さらに道通が反撃に成功したことで、九鬼嘉隆の軍事行動は志摩半島周辺に事実上封じ込められました。その結果、西軍の陸軍と海軍の連携は完全に阻害され、戦力が分断されることになったのです。安濃津城が海からの脅威に晒されることなく、陸からの攻撃だけに集中して籠城戦を展開できたのは、稲葉道通と岩出城の将兵によるこの「見えざるファインプレー」があったからに他なりません。この局地戦の勝利が、伊勢戦線全体の維持に決定的な役割を果たしたのです。

第三章:伊勢戦線の主戦場―安濃津城の激闘

稲葉道通が九鬼嘉隆の攻勢を食い止めている頃、伊勢戦線の主戦場は、伊勢中部の拠点である安濃津城へと移っていました。ここで繰り広げられた攻防戦は、伊勢方面戦役における最大規模の戦闘であり、その壮絶さは後世にまで語り継がれています。

西軍主力の集結と安濃津城包囲

慶長5年8月23日、毛利秀元、長束正家、安国寺恵瓊、鍋島勝茂らが率いる西軍の主力部隊約3万が、安濃津城を完全に包囲しました 9 。対する籠城側は、城主・富田信高と、援軍として馳せ参じた伊勢上野城主・分部光嘉の兵、そして周辺から集まった地侍や義勇兵を合わせても、その数わずか1,700名 9 。兵力差は15倍以上という、まさに絶望的な状況下で、安濃津城の死闘は始まりました。

リアルタイム戦闘描写(8月23日~25日)

  • 8月23日(戦闘初日)
    西軍が城下に迫る中、戦端を開いたのは籠城側でした。綾井・斎田の両隊長が率いる鉄砲隊が城から打って出て、西軍の先鋒に奇襲的な射撃を加えました。さらに、西軍が追撃してきたところを、鉄砲の名手・弓削忠左衛門が指揮官と思しき武将を狙撃し、見事討ち取るという戦果を挙げます 10。緒戦は、寡兵ながらも地の利と高い士気を活かした籠城側の見事な勝利に終わりました。
  • 8月24日(戦闘二日目)
    この日、西軍は総攻撃を開始します。鍋島・宍戸らの部隊が城下町へ侵攻。籠城側は、西軍の拠点となることを防ぐため、城下の西来寺に火を放ちました。この火はたちまち燃え広がり、城下町は黒煙と炎に包まれます 10。

    この混乱に乗じ、西軍は四方から城郭へ殺到。南からは長束・安国寺勢が、北からは宍戸勢が外郭を突破しようと猛攻を加えました。籠城側も分部光嘉が獅子奮迅の働きを見せ、激しい白兵戦が繰り広げられます。さらに西軍は、城の北に位置する塔世山に大砲を据え、城内へ向けて砲撃を開始。轟音と共に打ち込まれる砲弾が、城兵たちの恐怖を煽りました 10。
  • 周辺城砦の陥落
    安濃津城が死闘を繰り広げているのと並行して、西軍の別動隊を率いる鍋島勝茂は松坂城を攻撃。城主の古田重勝は衆寡敵せずと判断し、降伏しました 9。これにより安濃津城の孤立は一層深まり、籠城側の士気にも影を落としました。

8月25日 和議と開城

分部光嘉が負傷し、外郭も次々と破られ、城主・富田信高が最後の突撃を覚悟したその時、西軍側から意外な提案がなされます。攻撃の主将であった長束正家が、高野山の僧侶・木食応其を仲介役として和議を持ちかけてきたのです。

籠城側の奮戦により、西軍もまた備中高松城の英雄・清水宗治の子である清水宗之が戦死するなど、決して軽微ではない損害を被っていました 10。圧倒的な兵力を持ちながら力攻めにすれば、安濃津城の陥落は時間の問題でした。しかし、西軍側から和議を提案したという事実は、彼らがこの伊勢での足止めに焦りを感じていたことの証左に他なりません。西軍の当初の計画では8月26日までに城を落とす予定でしたが 10、予想外の抵抗による時間と兵力の損耗は、東軍主力との決戦を急ぐ彼らにとって大きな戦略的誤算でした。

富田信高はこの和議を受け入れ、8月25日、安濃津城は開城しました。戦術的には敗北でしたが、わずか1,700の兵で3万の大軍を3日間にわたり釘付けにし、多大な損害を与えたこの籠城戦は、東軍全体の勝利に大きく貢献する戦略的成功であったと言えるでしょう。

第四章:伊勢平定と関ヶ原への道

伊勢方面軍の転進と南宮山への布陣

安濃津城と松坂城を制圧したことにより、西軍は伊勢国の主要部を平定しました。これ以上の遅滞を許されない伊勢方面軍は、すぐさま軍を転進させます。彼らは伊勢街道を北上し、美濃国へと進軍。関ヶ原の本戦場を見下ろす戦略的要地、南宮山に布陣しました 9 。毛利秀元、吉川広家、安国寺恵瓊、長束正家ら、伊勢を戦い抜いた諸将が率いるこの大部隊は、関ヶ原における西軍の南翼を担う重要な戦力となるはずでした。

伊勢戦線が関ヶ原本体に与えた影響

伊勢方面戦役が関ヶ原の戦い全体に与えた影響は、計り知れないものがあります。最大の貢献は、稲葉道通、富田信高ら伊勢の東軍諸将の奮戦によって、西軍の主力部隊約3万が、8月下旬から9月上旬にかけての約2週間、伊勢国に釘付けにされたことです。

この時間的猶予は、徳川家康にとってまさに天佑でした。この間に家康率いる東軍主力は美濃に進出し、8月23日には西軍の重要拠点であった岐阜城を攻略 14 。石田三成らが籠る大垣城と直接対峙する態勢を、余裕をもって整えることができたのです。もし伊勢方面軍が抵抗を受けることなく美濃に到着していれば、東軍はより困難な状況で決戦に臨まなければならなかったでしょう。

さらに、伊勢での経験は、南宮山に布陣した西軍諸将の心理に微妙な影響を与えた可能性も否定できません。関ヶ原の本戦において、毛利秀元らが最後まで動かず、西軍の敗因の一つとなった故事は「宰相殿の空弁当」として有名です。この消極的な態度の最大の要因は、東軍と内通していた吉川広家の妨害にあったことは間違いありません。しかし、それに加えて、安濃津城での経験が彼らの判断に影響したと考えることもできます。

兵力で15倍以上も優りながら、小城一つを落とすのに多大な犠牲と時間を要したという苦い経験は、指揮官たちに「この寄せ集めの大軍で、本当に東軍主力を打ち破れるのか」という疑念を抱かせたかもしれません。特に、大軍の統率の難しさを痛感したであろう総大将・毛利秀元にとって、広家の「今は動くべきではない」という進言は、渡りに船であった可能性もあります。伊勢での苦戦は、彼らの積極的な戦闘意欲を削ぎ、関ヶ原での日和見主義的な態度に繋がる、一つの心理的伏線となっていたと解釈することもできるのです。

終章:戦後の論功行賞と「田丸藩」の誕生

慶長5年9月15日、関ヶ原での決戦はわずか半日で東軍の圧倒的勝利に終わりました。戦後、徳川家康による大規模な論功行賞が行われ、戦役における各武将の功績が厳正に評価されました。その中で、伊勢方面で孤軍奮闘した稲葉道通の功績は、高く評価されることになります。

稲葉道通の戦功評価

稲葉道通の功績は、主に以下の三点に集約されます。

第一に、家康の命にいち早く応じ、会津から困難な道のりを経て領国へ帰還したその忠誠心。

第二に、主君不在の岩出城を守り抜いた家臣たちの奮戦と、帰還後に九鬼嘉隆の勢力を自領周辺に封じ込めた卓越した防衛能力。

第三に、中島砦を攻略するなど、単なる防戦に留まらず、機を見て反撃に転じたその積極性です 5。

これらの働きは、西軍の戦力を伊勢国内で分断・遅滞させ、東軍全体の勝利に大きく貢献したものと認められました。

田丸城の拝領と田丸藩の立藩

戦功を認められた稲葉道通は、2万石の加増を受け、合計4万5700石を領する大名へと昇進しました 4 。そして、本拠地をこれまでの岩出城から、より広大で戦略的価値の高い

田丸城 へ移すことを命じられます 15 。これにより、伊勢田丸藩が正式に立藩し、道通はその初代藩主となりました。

田丸城の大改築

田丸城は、かつて織田信雄の居城として三層の天守を備えていましたが、天正8年(1580年)の火災で主要部を焼失して以来、本格的な城主を迎えていませんでした 16 。新たな城主となった道通は、この田丸城の大規模な修築に着手します。その際、旧居城であった岩出城を廃城とし、その石垣や建造物の一部を田丸城に移築したと伝えられています 19 。道通の手によって、田丸城は石垣を多用した堅固な近世城郭として見事に蘇り、現在我々が目にする城跡の縄張りの基礎が、この時に完成したとされています 16

総括:「田丸城の戦い」の歴史的意義の再定義

結論として、慶長5年(1600年)の関ヶ原戦役において、「田丸城」そのものを舞台とした大規模な攻城戦は存在しませんでした。しかし、その未来の城主である稲葉道通が、伊勢国岩出城を拠点として繰り広げた一連の戦闘こそが、本報告書の主題である「田丸城の戦い」が本質的に指し示す歴史的事象です。

それは、関ヶ原という巨大な戦役の中で、一人の武将が自領と主君のために奮闘し、その功績によって新たな城と領地を勝ち取るという、戦国乱世のダイナミズムを象徴する物語でした。したがって、「田丸城の戦い」とは、物理的な城の攻防戦ではなく、稲葉道通がその武功によって**「田丸城を勝ち取った戦い」**として再定義することこそ、最も歴史的実態に即した理解であると言えるでしょう。この伊勢方面戦役は、関ヶ原の勝利を陰で支えた、知られざる重要な前哨戦だったのであり、その中心には常に稲葉道通の姿があったのです。

引用文献

  1. 関ヶ原の戦いがあった場所とは/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/41102/
  2. 田丸城 - KemaAkeの全国城めぐり https://kemaake.com/c_toukai/c_tamaru.html
  3. 関ヶ原の戦い@安濃津城2 戦前の伊勢周辺の動向 - ダイコンオロシ@お絵描き https://diconoroshi.hatenablog.com/entry/2024/09/22/000009
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