最終更新日 2025-09-05

田辺浦海戦(1582)

天正十年、紀伊田辺浦にて小規模な海戦勃発。これは織田の天下統一戦略と本能寺の変後の権力空白が交錯し、紀伊の在地勢力が激動の時代を生き抜くための闘争の一端であった。

天正壬午(1582年)における紀伊水道の戦略的動態と「田辺浦海戦」の実像に関する考察

第一章:序論 - 「田辺浦海戦」への問い

天正10年(1582年)、紀伊国田辺浦において「沿岸小海戦」が発生し、その結果「制海権が保持された」という記録が存在する。本報告書は、この断片的な情報を起点とし、当該事象の歴史的背景、関係勢力、戦闘の具体的な推移、そしてその歴史的意義を、学術的厳密さをもって徹底的に解明することを目的とする。

初期調査の段階で、主要な一次史料や後代の編纂史料において、「田辺浦海戦」という固有名詞を冠する独立した大規模な合戦の記録は、極めて限定的であることが判明している 1 。この事実は、当該事象が歴史の主流において大きな影響を及ぼす規模のものではなかったか、あるいはより広範な軍事行動の中に埋没した一局面であった可能性を示唆する。

したがって、本報告書は単一の戦闘記録の探索に留まらない。むしろ、「なぜ、天正10年という激動の年に、紀伊国田辺浦という場所で、制海権を巡る武力衝突が発生し得たのか?」という、より本質的な問いを新たに設定する。この問いに答えるため、本報告書は、当時の紀伊国に割拠した諸勢力の複雑な動向、天下統一の最終段階にあった織田信長の戦略、そして日本史の転換点である本能寺の変という未曾有の激変が、紀伊水道の軍事バランスにいかなる影響を及ぼしたかを、時系列に沿って多角的に分析する。

このアプローチを通じて、「田辺浦海戦」の不明瞭さそれ自体が、天正10年の紀伊国が中央の巨大な政局の奔流に飲み込まれつつも、在地の諸勢力の複雑な利害が渦巻く、混沌とした「辺境」であったことの証左であると論じる。記録に残りにくい性質の小規模紛争が頻発する戦略的環境そのものを解明することこそが、提示された問いに対する最も誠実かつ深甚な回答となると考える。

第二章:天正10年、動乱前夜の紀伊国 - 独立と相克の坩堝

「田辺浦海戦」の背景を理解するためには、まず天正10年当時の紀伊国が、いかに特異で複雑な政治的・軍事的環境にあったかを把握する必要がある。この地は、特定の戦国大名による統一的支配を受けず、多様な勢力が独立を保ちながら相克する、まさに「坩堝」のような様相を呈していた。これらの勢力は、織田信長が目指す中央集権的な「天下布武」の理念とは真っ向から対立する存在であり、紀伊国は信長にとって最後の「聖域」であると同時に、最大の「火薬庫」でもあった 1

鉄砲と自治の民 - 雑賀衆・根来衆の実態

紀伊国を象徴する勢力が、雑賀衆と根来衆である。彼らは、戦国時代の軍事史を塗り替えた鉄砲をいち早く導入し、その運用において他の追随を許さない先進的な集団であった。

雑賀衆は、紀ノ川河口域に拠点を置く地侍たちの連合体であり、その実態は単一の武士団ではなかった 4 。彼らは漁業や廻船業、海上交易に従事する一方で、依頼に応じて各地の戦場に赴く傭兵集団としての側面も持っていた 4 。彼らの最大の特徴は、特定の主君を持たず、「惣国」と呼ばれる合議制に基づく自治共同体を形成し、自由と独立を何よりも重んじた点にある 3 。この自治の精神こそが、信長の支配体制と根本的に相容れないものであった。軍事的には、数千挺ともいわれる鉄砲で武装し、戦国最強の鉄砲隊として恐れられた 9 。さらに、機動力に優れた小型船を中心とする強力な水軍を擁し、紀伊水道の制海権にも大きな影響を及ぼしていた 3

しかし、天正10年当時、この雑賀衆は一枚岩ではなかった。長年にわたる石山合戦を経て、織田信長との関係を巡り、内部は二つに分裂していた。一つは、信長の力を背景に雑賀衆の統一を図ろうとする現実主義的な鈴木孫一(孫市)派。もう一つは、あくまで雑賀の独立を貫こうとする土橋若大夫を中心とした反信長派である 4 。この路線対立は、天正10年1月に鈴木孫一が土橋若大夫を暗殺するという内部抗争にまで発展し、織田家の支援を受けた鈴木派が一旦は主導権を握るに至った 1 。この内部対立の力学は、本能寺の変を境に劇的に反転することになり、天正10年の紀伊情勢を読み解く上で最も重要な鍵となる。

一方、根来寺の僧兵集団である根来衆も、雑賀衆と並び称される鉄砲集団であり、両者は紀伊国における二大勢力として、時には協力し、時には敵対するという複雑な関係にあった 9

聖域にして要塞 - 高野山金剛峯寺

紀伊国の中央部に聳える高野山金剛峯寺は、単なる宗教的権威に留まらず、広大な寺領と数万と称される僧兵を擁する一大軍事勢力であった 12 。信長に反旗を翻した荒木村重の残党を匿うなど、反信長勢力の重要な拠点の一つと見なされており、天正9年(1581年)秋からは、信長による大規模な包囲攻撃(高野攻め)に晒されていた 1 。高野山は、紀ノ川流域に「高野七砦」と呼ばれる防衛網を築き、織田軍に対して頑強な抵抗を続けていた 1

紀南の在地領主 - 田辺周辺の国衆

「田辺浦海戦」の舞台となる紀伊国南部、いわゆる紀南地方には、雑賀衆や高野山とはまた異なる在地領主、すなわち国衆が割拠していた。中でも、一ノ瀬の龍松山城を本拠とする山本氏や、湯川氏などは、室町幕府の奉公衆に連なる家柄であり、在地に深く根差した支配権を維持していた 2

彼らは、守護畠山氏の内紛など、中央の政争に翻弄されながらも、熊野地方の要地を抑え、独自の勢力を保ってきた 2 。彼らの立場は、織田信長に対して明確な恭順も反抗も示さない、日和見的なものであったと考えられる。しかし、信長の紀州平定の動きが本格化する中で、彼らは雑賀衆や高野山といった巨大勢力と、圧倒的な力を持つ織田権力との間で、自らの存続を賭けた難しい選択を迫られる状況にあった。田辺浦という良港を擁する山本氏にとって、紀伊水道の制海権の行方は、自らの経済的基盤と安全保障に直結する死活問題であった。

これら紀伊国の諸勢力は、それぞれが独立した存在でありながら、「対織田」という共通の課題を前に、複雑な連動性を見せていた。高野山が攻められれば反信長派の雑賀衆が勢いづき、信長が四国を攻めようとすれば親信長派の雑賀衆が動員される。この巨大なパワーゲームの狭間で、紀南の国衆は常に自らの立ち位置を測らねばならなかった。この絶え間ない緊張状態こそが、偶発的な武力衝突を生みやすい土壌を形成していたのである。

表1:天正10年における紀伊国関連勢力図

勢力名

主要拠点

主要人物

推定兵力(陸・海)

対織田スタンス

備考

雑賀衆(鈴木派)

雑賀荘・十ヶ郷

鈴木孫一(孫市)

陸:数千、海:百艘以上

恭順

親織田派。織田信孝の四国征伐軍へ参加予定 1

雑賀衆(土橋派)

雑賀荘・粟村

土橋氏遺児

陸:数千(潜勢力)

抗戦

反織田派。天正10年初頭の内紛で敗北するも勢力は温存 4

根来衆

根来寺

泉識坊、杉坊

陸:数万(僧兵含む)

分裂(親織田・反織田)

織田方に味方する一派と、反発する一派が混在 5

高野山金剛峯寺

高野山

南蓮上院弁仙、花王院快応

陸:3万6千(動員兵力)

抗戦

天正9年より織田軍の攻撃を受け交戦中 1

山本氏

一ノ瀬・龍松山城、田辺

山本主膳康忠

陸:数百、海:十数艘

日和見

紀南の有力国衆。在地支配権の維持を最優先 2

湯川氏

亀山城

湯川直春

陸:数百

日和見

紀南の有力国衆。山本氏としばしば連携・対立 2

織田家(紀州方面軍)

鉢伏山城、和泉・岸和田城

織田信孝、筒井順慶ら

陸:十数万(動員予定含む)

高野攻めと四国征伐を同時に計画 1

第三章:織田信長の最終戦略と紀伊水道(天正10年1月~5月)

天正10年(1582年)前半、本能寺の変に至るまでの数ヶ月間は、織田信長の天下統一事業が最終段階に入った時期であった。武田氏を滅ぼし、東国をほぼ平定した信長の次なる目標は、西国、特に毛利氏と四国の長宗我部氏の制圧であった 14 。この壮大な戦略構想において、紀伊水道は極めて重要な戦略的価値を持つ舞台となっていた。この時期の織田軍の動向こそ、「田辺浦海戦」が起こり得た第一の蓋然的シナリオの背景を形成する。

二正面作戦 - 高野攻めと四国征伐計画

信長の西国攻略は、二つの大きな作戦が連携して進められていた。一つは紀伊半島内部に向けられた「高野攻め」、もう一つは海を越えた「四国征伐」である。これらは独立した作戦ではなく、紀伊水道を挟んで相互に連携した、陸海一体の巨大な軍事行動と見なすことができる。

天正10年初頭の段階で、織田軍は紀ノ川流域において高野山勢力と一進一退の攻防を繰り広げていた 1 。筒井順慶らの大和衆や、織田方の根来衆を動員して高野山を陸路から圧迫するこの作戦は、来るべき四国征伐の際に、背後を脅かされる危険を排除するための不可欠な地ならしであった 1

それと並行して、信長は三男の織田信孝を四国方面軍の総大将に任命し、当時、土佐から阿波・讃岐へと急速に勢力を拡大していた長宗我部元親の討伐を厳命した 1 。信孝は方面軍の拠点として大坂・堺に布陣し、伊勢・伊賀・甲賀衆に加え、紀伊の雑賀衆など、総勢十数万にも及ぶ大軍を動員するべく、大規模な準備を進めていた 19 。この四国征伐軍の主力が渡海するためには、紀伊水道の安全確保が絶対的な前提条件であった。

制海権確保へ - 紀伊水道の海上封鎖

大規模な渡海作戦を成功させる鍵は、制海権の掌握にある。信孝の麾下には、織田家譜代の水軍である九鬼嘉隆の志摩水軍を中核に、淡路を拠点とする水軍衆、そして紀伊の雑賀水軍といった、紀伊水道周辺の海上戦力が集結しつつあった 19

ここで重要な役割を担ったのが、雑賀衆内部の抗争に勝利し、信長の後ろ盾を得た鈴木孫一であった。孫一は織田方への恭順の証として、信孝の四国攻めに「船百艘」を提供することを約束していた 1 。これは、雑賀水軍の主力が、織田方の先兵として紀伊水道で活動を開始したことを意味する。彼らの任務は、単に兵員を輸送することに留まらない。渡海作戦の安全を確保するため、紀伊水道全域において、敵対勢力の偵察、海上交通路の哨戒、そして反織田的な海上活動の妨害、すなわち「制海権の保持」そのものであった。

この文脈において、「田辺浦海戦」の発生メカニズムが浮かび上がる。鈴木孫一率いる親織田派の雑賀水軍が、四国征伐の先遣隊として紀伊水道に展開する。彼らの哨戒範囲が、紀南の要港である田辺浦にまで及ぶことは十分に考えられる。田辺浦は、山本氏のような在地国衆の拠点であり、彼らが反織田勢力である高野山や、あるいは海の向こうの長宗我部元親と何らかの連携を取っていた可能性も否定できない。

したがって、織田方の雑賀水軍が田辺浦沖で山本氏の船団と遭遇し、威嚇や臨検を試みた結果、小規模な武力衝突に至るというシナリオは、極めて高い蓋然性を持つ。この場合の「田辺浦海戦」とは、信長の壮大な四国征伐計画という巨大な歯車が回転する際、その最前線で生じた、いわば「必要不可欠な摩擦」であったと解釈できる。それは、中央の巨大な戦略が、地方の複雑な現実に着地する際に発生した、小さな、しかし極めて象徴的な火花だったのである。

第四章:激震、本能寺の変と紀伊国の権力真空(天正10年6月以降)

天正10年(1582年)6月2日、京都本能寺における織田信長の横死は、日本の歴史の流路を大きく変えただけでなく、紀伊国の勢力図をも一瞬にして塗り替えるほどの衝撃をもたらした 12 。信長という絶対的な権力者の消滅は、紀伊国に巨大な「権力の真空」を生み出し、それまで抑圧されていた在地勢力間の対立や野心を一気に噴出させた。これは単なる「織田からの解放」ではなく、紀伊における「新たな戦国時代の始まり」を意味した。この激変は、「田辺浦海戦」が起こり得た第二の、そして全く性質の異なるシナリオの背景を構築する。

信長の死と戦略の崩壊

本能寺の変の報は、瞬く間に紀伊国の各勢力に伝播した。これにより、信長が進めていた紀州平定戦略は、根底から崩壊した。

まず、大坂・堺で四国への出征準備を進めていた方面軍は、その存在意義を失った。総大将の織田信孝は、父の仇である明智光秀を討伐するため、準備中であった軍を率いて急遽京へ向かい、羽柴秀吉らと共に山崎の戦いに参加した 19 。これにより、長宗我部元親を標的とした四国征伐計画は完全に頓挫し、紀伊水道における織田方の軍事プレゼンスは事実上消滅した。

時を同じくして、高野山を包囲していた織田軍も、総大将信長を失い、指揮系統が混乱。背後を断たれることを恐れた諸将は撤退を開始した。この機を逃さず、高野山勢力は追撃に転じ、一年近くに及んだ包囲戦に勝利し、危機を脱したのである 1

反織田派の逆襲と秩序の崩壊

織田権力という外部からの巨大な圧力が消滅したことで、紀伊国内部のパワーバランスは劇的に変動した。特に大きな変化を見せたのが雑賀衆である。

信長という絶対的な後ろ盾を失った鈴木孫一は、急速に求心力を失い、雑賀の地から追放されるに至った 3 。一説には、本能寺の変の直後に忽然と姿を消したとも言われる 11 。代わって雑賀衆の主導権を完全に掌握したのは、これまで逼塞を余儀なくされていた土橋氏の残党ら、旧来の反織田派であった 4 。これにより、雑賀衆は再び反中央権力の旗幟を鮮明にする。

さらに、この混乱は紀伊国に新たなプレイヤーを呼び込んだ。本能寺の変に際して明智方についたことで、羽柴秀吉に居城の淡路・洲本城を追われた水軍の将・菅達長(かん みちなが)である 26 。彼は手勢を率いて紀伊へ逃亡し、再起を図るべく、雑賀衆をはじめとする紀伊の反秀吉(旧反織田)勢力と連携した 1 。これにより、淡路を拠点としていた練度の高い水軍勢力が、新たに紀伊水道の反中央勢力に加わることになった。

この結果、本能寺の変後の紀伊水道の紛争は、その性質を根本的に変化させた。変以前の紛争が「織田の制海権確立 vs 反織田勢力の抵抗」という、比較的単純な構図であったのに対し、変後は織田という共通の敵が消滅した。主導権を握った雑賀衆(土橋派)、紀伊に流入した菅達長水軍、そして山本氏のような在地国衆は、もはや一枚岩ではない。彼らは互いに、権力の真空地帯となった紀伊水道の覇権、交易ルートの利権を巡って争う、新たなライバルとなったのである。この状況下で想定される「田辺浦海戦」は、もはや中央の戦略に組み込まれた戦闘ではなく、各勢力が自らの生存と権益拡大をかけて繰り広げる、より混沌とした「地域紛争」の一環であった可能性が濃厚となる。

第五章:「田辺浦海戦」の再構築 - 時系列による二つの蓋然的シナリオ

これまでの分析を踏まえ、利用者からの「合戦中のリアルタイムな状態が時系列でわかる形」という要望に応えるべく、「田辺浦海戦」の具体的な情景を、蓋然性の高い二つのシナリオとして再構築する。これらは歴史の空想ではなく、史料的根拠に基づき、当時の軍事技術や戦術を考慮に入れた「可能性の描写」である。

シナリオA:【本能寺の変以前】四国征伐前哨戦としての「田辺浦制圧戦」

  • 想定時期: 天正10年(1582年)4月~5月頃
  • 想定勢力:
  • 攻撃側(織田方): 鈴木孫一率いる雑賀水軍の先遣隊(数十艘)。織田信孝の四国征伐軍の一部として、紀伊水道の制海権確保任務に従事。
  • 防御側(紀南在地勢力): 山本氏の水軍(警備船数艘~十数艘)。田辺浦の領主として、自領の権益を防衛。
  • 時系列による戦闘推移の再現:
  1. 黎明: 紀伊水道南部を哨戒中の鈴木孫一艦隊の一部が、紀南の要衝・田辺浦に停泊する船団を発見。四国征伐の障害となりうる反織田勢力との連携を断つため、艦隊は田辺湾への進入を開始する。目的は、武力による威力偵察と、山本氏に対する織田方への服属、あるいは中立の確認である。
  2. 午前: 孫一の艦隊が湾口に到達し、陣形を整える。湾内には、山本氏の警備船が停泊し、陸上の見張り台からも狼煙が上がる。孫一側は使者の小舟を出し、四国渡海の安全確保を名目に、湾の明け渡しか、少なくとも織田軍への協力を要求したであろう。
  3. 正午: 在地領主としての独立を維持したい山本氏側は、この高圧的な要求を拒否。交渉は決裂し、田辺湾内に緊張が走る。山本氏の警備船は戦闘態勢に入り、陸上では鉄砲隊が沿岸部に配置される。
  4. 午後: 鈴木艦隊は、圧倒的な戦力差を示すため、威嚇攻撃を開始する。大型の安宅船からではなく、機動力のある小早船を前面に押し出し、山本氏の警備船に向けて鉄砲を斉射。さらに、陶器の容器に火薬を詰めた投擲兵器である焙烙火矢(ほうろくひや)を投げかけ、敵船の甲板を炎上させ混乱を誘う 28 。山本氏側も必死に応戦するが、数と火力で勝る雑賀水軍が徐々に湾内を制圧していく。
  5. 夕刻: decisiveな打撃を避けたい山本氏の船団は、陸岸の味方鉄砲隊の援護を受けながら、湾奥へと後退。鈴木艦隊は湾内の制海権を一時的に確保し、「制海保持」という当初の目的を達成する。大規模な陸戦に発展させ、無用な損害を出すことは本意ではないため、日没と共に湾外へ撤収し、哨戒任務を継続する。

シナリオB:【本能寺の変以後】権力真空下における「田辺浦利権争奪戦」

  • 想定時期: 天正10年(1582年)7月~9月頃
  • 想定勢力:
  • 侵攻側(新興反中央勢力): 紀伊に逃亡した菅達長の淡路水軍と、主導権を奪還した雑賀衆(土橋派)の連合艦隊。新たな活動拠点の確保と交易利権の掌握が目的。
  • 防御側(紀南在地勢力): 山本氏の水軍。信長の死による混乱の中、自領の権益を狙う新たな侵略者から拠点を防衛。
  • 時系列による戦闘推移の再現:
  1. 早朝: 織田権力の統制が消滅した紀伊水道において、新たな糧道と交易ルートを確保すべく、菅・雑賀連合艦隊が南下。紀南の交易拠点である田辺浦の支配を目論み、夜陰に乗じて湾に接近する。
  2. 午前: 連合艦隊が田辺湾に突入。奇襲を察知した山本氏の警備船団が緊急出動し、これを迎撃する。双方ともに関船や小早といった機動力に優れた小型船が中心となり、湾内で激しい海戦が展開される 3
  3. 正午: 戦局は、侵攻側に有利に進む。菅達長の率いる元・正規水軍の巧みな操船術と、雑賀衆の圧倒的な鉄砲火力が、山本氏の警備船を次々と無力化していく。焙烙玉が飛び交い、海上は硝煙に包まれる。
  4. 午後: 劣勢に立たされた山本氏の船団は、湾奥の複雑な入り江や岩礁地帯に退避。陸上からのゲリラ的な鉄砲射撃で粘り強く抵抗を続ける 3 。連合艦隊も、不慣れな地形で深追いすれば陸からの反撃で大きな損害を被る危険性があるため、決定的な打撃を与えきれないまま、戦況は膠着状態に陥る。
  5. 夕刻: 双方ともに少なからぬ損害を出し、日没が近づく。連合艦隊は、田辺浦の完全掌握は困難と判断し、一定の戦果(略奪など)を挙げた上で撤退を開始する。山本氏側は多大な犠牲を払いながらも、侵略を撃退し、かろうじて拠点を守り抜く。これもまた、結果として「沿岸小海戦で制海(権)保持」したと評価できる。

これら二つのシナリオは、同じ「田辺浦海戦」という事象が、本能寺の変という歴史の分水嶺を挟むことで、その戦略的意味合いと戦闘の性質がいかに根本的に異なるものであったかを示している。

第六章:結論 - 歴史の転換点に埋もれた「沿岸小海戦」の意義

本報告書で展開した分析の結果、「田辺浦海戦」は、特定の固有名詞を持つ単一の大規模な合戦ではなく、天正10年(1582年)という日本史の激動期に、紀伊水道という戦略的要衝で発生したであろう、無数の小規模な武力衝突の総称、あるいはその一例を象徴する言葉であったと結論付けるのが最も妥当である。この「沿岸小海戦」が持つ歴史的意義は、その発生要因が本能寺の変を境として、二つの全く異なる文脈で解釈できる点にある。

第一に、 本能寺の変以前 の文脈においては、この海戦は織田信長の天下統一事業という巨大な戦略の末端で発生した「摩擦」であった。信長の四国征伐計画を遂行するため、紀伊水道の制海権を確保しようとする中央の論理が、在地領主の独立と権益を守ろうとする地方の論理と衝突した結果、必然的に生じた武力衝突である。この段階では、紀伊国の諸勢力は「織田に従うか、抗うか」という二元論的な選択を迫られていた。

第二に、 本能寺の変以後 の文脈においては、この海戦は信長の死によって生まれた権力の真空地帯で、在地勢力が自らの生存と権益拡大をかけて繰り広げた「秩序再編」のための闘争であった。共通の敵を失った雑賀衆、高野山、紀南国衆、そして新たに流入した菅達長水軍といったプレイヤーたちが、新たな覇権を巡って相争う、より混沌とした地域紛争の一局面へとその性質を変えたのである。

すなわち、「田辺浦海戦」という一つの事象は、織田信長から豊臣秀吉へと中央権力が移行する歴史の過渡期において、紀伊国の独立志向の強い在地勢力が、いかに激しい時代の荒波に揉まれ、自らの生き残りを模索したかを示す、貴重なミクロの視点を提供する。

それは、やがて天正13年(1585年)に豊臣秀吉が断行する、圧倒的な物量を伴った紀州征伐によって、根来寺は焼き払われ、雑賀衆は壊滅し、山本氏をはじめとする紀南国衆も制圧されるという結末を迎えることになる 2 。その意味で、天正10年の田辺浦で繰り広げられたであろう小競り合いは、紀伊国における「自由な時代」の、最後のきらめきであったと位置づけることができるであろう。

表2:天正10年(1582年) 紀伊水道周辺 年表

中央(織田家・羽柴家)の動向

紀伊北部(雑賀・高野山)の動向

紀伊南部(田辺周辺)の動向

淡路・四国の動向

1月

武田攻めの準備を進める。

鈴木孫一が土橋若大夫を暗殺。雑賀衆の内紛は鈴木派の勝利に終わる 1 。高野山、織田軍の攻撃を受ける 1

山本氏ら国衆、情勢を注視。

長宗我部元親、讃岐への侵攻を続ける。

2月

武田攻めのため大和衆に出陣命令。一部は高野山の抑えに 1

鈴木孫一、織田信孝の四国攻めに船百艘の提供を約束 1

-

-

3月

甲州征伐。武田氏滅亡 14

高野山、織田軍と一進一退の攻防を続ける 1

-

-

4月

織田信孝、四国攻めの大将に任命され、大坂・堺で準備開始 1

高野山、麻生津口の戦いで織田方を撃退し勝利 1

【シナリオA】 鈴木孫一の水軍が田辺浦沖で山本氏と小競り合いか。

-

5月

信長、安土城で徳川家康を饗応。羽柴秀吉は備中高松城を水攻め 14

鈴木孫一の水軍、四国征伐の先遣隊として紀伊水道で活動。

-

信長、元親に対し土佐・阿波以外の割譲を要求するも元親は拒否。

6月

2日、本能寺の変。織田信長・信忠自害 20 。13日、山崎の戦いで羽柴秀吉が明智光秀を破る 25

変の報を受け、高野攻囲軍は撤退。高野山は危機を脱す 1 。鈴木孫一は雑賀から追放され、土橋派が復権 4

織田権力の消滅により、自立性を強める。

四国征伐軍の消滅により、元親は危機を脱し、四国統一を加速 32

7月

清洲会議。織田家の後継体制が決定。

雑賀衆(土橋派)、根来衆と連携し、反秀吉の動きを強める。

【シナリオB】 紀伊水道の権力真空化に伴い、周辺勢力との緊張が高まる。

-

8月

-

-

-

淡路の菅達長、秀吉に追われ紀伊へ逃亡。雑賀衆らと連携 26

9月以降

秀吉、信孝・柴田勝家との対立を深める。

雑賀衆・根来衆、和泉の岸和田城周辺で秀吉方と小競り合いを始める 1

【シナリオB】 菅・雑賀連合水軍が田辺浦を襲撃し、山本氏と交戦か。

-

引用文献

  1. 紀州征伐 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%80%E5%B7%9E%E5%BE%81%E4%BC%90
  2. 武家家伝_紀伊山本氏 http://www2.harimaya.com/sengoku/html/ki_yamamoto.html
  3. 紀伊国・雑賀の里 - 和歌山市観光協会 https://www.wakayamakanko.com/img/pdf_saika.pdf
  4. 織田信長に勝利した戦国一の地侍集団・雑賀衆とは? 紀州の民の力 - 歴史人 https://www.rekishijin.com/18645
  5. 雑賀衆 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%91%E8%B3%80%E8%A1%86
  6. 【戦国奇跡】雑賀衆が信長・秀吉・家康から生き残れた5つの理由 - note https://note.com/dear_pika1610/n/n5117a5e589e5
  7. ~紀州征伐~ 雑賀衆たちの戦い - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=67HJjzcHQVY
  8. 和歌山市歴史マップ 秀吉の紀州征伐2 根来焼討 | ユーミーマン奮闘記 https://ameblo.jp/ym-uraji/entry-12304935355.html
  9. 雑賀合戦(紀州征伐)古戦場:和歌山県/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/dtl/kisyuseibatsu/
  10. まちかど探訪 : 信長も恐れた雑賀の人々 ~本願寺鷺森別院と雑賀衆 その1 https://shiekiggp.com/topics/%E3%81%BE%E3%81%A1%E3%81%8B%E3%81%A9%E6%8E%A2%E8%A8%AA-%E4%BF%A1%E9%95%B7%E3%82%82%E6%81%90%E3%82%8C%E3%81%9F%E9%9B%91%E8%B3%80%E3%81%AE%E4%BA%BA%E3%80%85%EF%BD%9E%E6%9C%AC%E9%A1%98%E5%AF%BA/
  11. 雑賀孫一:謎めいた戦国スナイパーの生涯を解き明かす - note https://note.com/sengoku_irotuya/n/n7101ed0d6e33
  12. 「根来寺を解く」の本から見た「秀吉の紀州攻め」をAIに文句いいつつも納得。 - note https://note.com/ideal_raven2341/n/nff3be30fba2e
  13. 秀吉の紀州征伐 https://green.plwk.jp/tsutsui/tsutsui2/chap2/02kishuseibatsu.html
  14. 織田信長の合戦年表 - 戦国武将一覧/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/84754/
  15. 紀伊 龍松山城-城郭放浪記 https://www.hb.pei.jp/shiro/kii/ryushozan-jyo/
  16. 南北朝の分立と山本氏 - 上富田町文化財教室シリーズ http://www.town.kamitonda.lg.jp/section/kami50y/kami50y14001.html
  17. 戦国!室町時代・国巡り(9)紀伊編|影咲シオリ - note https://note.com/shiwori_game/n/n773451d5658f
  18. 足利義材と畠山政長を幕府から追放するクーデター(明応の政変)を決行した。このため - 上富田町文化財教室シリーズ http://www.town.kamitonda.lg.jp/section/kami50y/kami50y14005.html
  19. 織田信孝は何をした人?「報いを待てや羽柴筑前。信長の三男は無念の切腹をした」ハナシ|どんな人?性格がわかるエピソードや逸話・詳しい年表 https://busho.fun/person/nobutaka-oda
  20. 本能寺の変 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E8%83%BD%E5%AF%BA%E3%81%AE%E5%A4%89
  21. 織田信孝は織田信長(1534-1582)の三男で 1582 年から 1583 年のあいだ岐阜城の城主 https://www.mlit.go.jp/tagengo-db/common/001552219.pdf
  22. もし織田軍が四国へ攻め入っていたら?幻に終わった四国遠征をシミュレート! - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=IjLbCevZct4
  23. 菅達長 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%85%E9%81%94%E9%95%B7
  24. 朝鮮役における水軍編成について https://nagoya.repo.nii.ac.jp/record/8169/files/jouflh_20th_267.pdf
  25. 『天正記』(てんしょうき) - 筒井氏同族研究会 https://tsutsuidouzoku.amebaownd.com/posts/7690885/
  26. 1582年(後半) 西国 中国大返しと山崎の戦い | 戦国時代勢力図と各大名の動向 https://sengokumap.net/history/1582-3/
  27. 瀬戸内海の水軍 - 歴女を探す旅に出る http://rekio.seesaa.net/article/196267134.html
  28. 安宅船 あたけぶね - 戦国日本の津々浦々 ライト版 https://kuregure.hatenablog.com/entry/2024/10/29/231200
  29. 焙烙火矢 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%99%E7%83%99%E7%81%AB%E7%9F%A2
  30. 信長・秀吉・家康が恐れた紀伊国...一大勢力「雑賀衆」の消滅とその後 - WEB歴史街道 https://rekishikaido.php.co.jp/detail/9886?p=1
  31. 雑賀年表・戦国グッズ紀州雑賀孫市城 https://mago8.web.fc2.com/rekisi/03.htm
  32. 四国攻め - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E5%9B%BD%E6%94%BB%E3%82%81