碓氷峠の戦い(1582)
天正十年、碓氷峠にて真田昌幸は北条氏の兵站を断ち、徳川家康の勝利を導いた。これは天正壬午の乱の帰趨を決した、知略とゲリラ戦術の結晶である。
碓氷峠の戦い(1582年)の全貌:天正壬午の乱の帰趨を決した真田昌幸の兵站破壊作戦
序章:天正壬午の巨大な渦―権力の空白と野望の衝突
天正10年(1582年)は、日本の歴史が大きく揺れ動いた激動の年でした。同年3月、織田信長と徳川家康の連合軍による甲州征伐によって、名門・武田氏が滅亡します 1 。これにより、甲斐・信濃・上野西部という広大な旧武田領は、信長の支配下に組み込まれました。しかし、そのわずか3ヶ月後の6月2日、天下統一を目前にした信長が京都・本能寺で家臣の明智光秀に討たれるという未曾有の事変が発生します 1 。
この「本能寺の変」は、中央の権力構造を根底から覆すと同時に、旧武田領を突如として主無き「権力の真空地帯」へと変貌させました 3 。この千載一遇の好機を逃さず、己の領土と覇権を拡大せんと、三人の有力大名が牙を剥きます。これが、約5ヶ月にわたって東国を揺るがした大争乱「天正壬午の乱」の幕開けでした 2 。
一人は、堺から命からがら「伊賀越え」を果たし、本拠地三河へ帰還した 徳川家康 。駿河国を得たばかりの家康にとって、隣接する甲斐・信濃の確保は、東海地方に一大勢力圏を築き、天下への道を切り拓くための絶対条件でした 1 。
二人目は、関東に覇を唱える相模の 北条氏政・氏直父子 。甲州征伐で織田方に協力したにもかかわらず、恩賞が与えられなかったことへの不満を募らせていた北条氏は、この機に乗じて上野国を完全に掌握し、さらに信濃へと勢力を伸ばすことを画策します 2 。
三人目は、越後の 上杉景勝 。かつて武田勝頼と同盟関係にあった景勝は、信長の死を好機と捉え、父・謙信以来の宿願の地である北信濃、すなわち川中島四郡の奪還へと乗り出しました 2 。
この三頭の龍が旧武田領という巨大な獲物を巡って争う中、真田昌幸や木曽義昌といった、かつて武田氏に属した「国衆」と呼ばれる在地領主たちも、自らの生き残りを賭けて激しい権謀術数の渦中へと身を投じます 2 。彼らの動向は、時に三大勢力の戦略をも左右する重要な変数となりました。
本報告書では、この天正壬午の乱という巨大な戦略的文脈の中に「碓氷峠の戦い」を位置づけ、それが単なる局地的な戦闘ではなく、全体の帰趨を決した極めて重要な「特異点」であったことを明らかにします。兵力で圧倒的に劣る徳川家康が、いかにして強大な北条氏を退けたのか。その鍵を握る真田昌幸の知略と、碓氷峠を舞台に繰り広げられた壮絶な兵站線を巡る攻防の全貌を、リアルタイムな時系列に沿って徹底的に解明していきます。
【表1】天正壬午の乱 関連年表(1582年6月~11月)
年月日 |
主要な出来事 |
徳川家康の動き |
北条氏直の動き |
真田昌幸の動き |
6月2日 |
本能寺の変、織田信長自刃 |
堺に滞在中。変を知り伊賀越えを開始 6 |
- |
織田家臣・滝川一益に属す |
6月19日 |
神流川の戦い |
浜松へ帰還 6 |
滝川一益を破り、上野国を制圧 4 |
一益から沼田城を譲り受ける 7 |
6月末 |
- |
- |
- |
上杉景勝に服属を申し出る 4 |
7月9日 |
- |
甲府に入城。甲斐・南信濃を掌握 6 |
北条本隊が上野国を出発 6 |
北条氏に服属し、先鋒を務める 6 |
7月12日 |
- |
- |
碓氷峠を越え、信濃国へ侵攻 6 |
北条軍として信濃入り |
7月14日 |
- |
- |
川中島で上杉軍と対峙後、和睦 4 |
- |
8月7日 |
若神子対峙開始 |
- |
若神子城に本陣を設置 4 |
- |
8月10日 |
- |
8,000の兵を率い新府城に本陣を設置 6 |
- |
- |
8月12日 |
黒駒合戦 |
鳥居元忠隊が北条別動隊を撃破 4 |
北条氏忠隊が敗北 4 |
- |
9月上旬 |
- |
依田信蕃を介し、真田昌幸を調略 6 |
- |
北条氏を離反し、徳川氏に寝返る 6 |
9月中旬 |
- |
佐竹義重らに北条領攻撃を要請 4 |
佐竹軍の侵攻を受ける 6 |
- |
10月上旬 |
碓氷峠の戦い開始 |
依田信蕃が佐久郡の諸城を攻略 6 |
- |
依田信蕃と連携し、碓氷峠を封鎖 6 |
10月28日 |
- |
北条氏からの和睦申し入れを受諾 6 |
徳川氏に和睦を申し入れる 6 |
- |
10月29日 |
徳川・北条和睦成立 |
甲斐・信濃の領有を確定させる 2 |
上野国の領有を確定させる 2 |
- |
11月 |
- |
家康の次女・督姫が氏直に嫁ぐ 8 |
督姫を正室に迎える 8 |
沼田領問題で徳川氏と対立が始まる 6 |
第一部:若神子の対峙―膠着する戦線と兵站の限界
北条の疾風怒濤
本能寺の変の報が関東に届くと、最も迅速かつ大胆に行動を起こしたのは北条氏でした。当主・北条氏直は父・氏政の後見のもと、天正10年(1582年)6月19日、織田家の関東管領として上野国・厩橋城にいた滝川一益に決戦を挑みます。神流川において、氏直率いる5万ともいわれる大軍は、一益の1万8,000の軍勢を圧倒 4 。この「神流川の戦い」での圧勝により、北条氏は上野国一帯の国衆を瞬く間に傘下に収め、旧武田領への進撃の足掛かりを完全に固めました。
その勢いは止まらず、7月9日には真田昌幸らを先鋒に加え、4万3,000の大軍を率いて上野国を出立。同月12日には中山道の要衝・碓氷峠を越え、信濃国佐久郡へと雪崩れ込みます 6 。北信濃では、川中島の領有権を主張する上杉景勝の軍と千曲川を挟んで対峙しますが、ここで北条方が仕掛けていた上杉家臣・春日信達の寝返り工作が事前に露見し、信達が処刑されるという誤算が生じます 4 。これにより決戦の機を逸した氏直は、上杉方との和睦を選択。北信濃の領有を事実上黙認する代わりに、自軍の進路を南へ転じ、徳川家康との直接対決に全戦力を集中させる戦略的判断を下しました 2 。
徳川の粘り強い防衛
一方、九死に一生を得て本拠地に戻った徳川家康は、周到に旧武田領の切り崩しを進めていました。武田家の旧臣たちを巧みに懐柔し、彼らの協力を得ることで、7月9日には甲府へ無血入城。甲斐一国と信濃南部の諏訪郡などを早々に掌握します 6 。
南下してくる北条の大軍に対し、家康は正面からの決戦が不可能であることを熟知していました。そこで彼は、武田勝頼が築城した未完の城・新府城(山梨県韮崎市)を本陣と定め、防御を徹底的に固める策に出ます。8月10日、家康はわずか8,000の兵を率いて新府城に入り、北条軍を迎え撃つ態勢を整えました 4 。
八十日間の睨み合い
北条軍の主力部隊は、新府城の目と鼻の先にある若神子城(山梨県北杜市)に本陣を構え、ここに両軍合わせて6万近くの兵が対峙する、壮大な睨み合いが始まりました 9 。この対峙は約80日間にも及び、戦線は完全に膠着状態に陥ります 6 。
この長期対陣は、兵力で5倍以上優位に立つ北条氏にとって、実は致命的な弱点を内包していました。5万もの大軍を前線で維持するためには、膨大な量の兵糧や武具を絶え間なく供給し続けなければなりません。その補給路、すなわち兵站線は、本国である相模国小田原を起点とし、武蔵国、上野国を縦断し、そして最大の難所である碓氷峠を越えて、信濃国佐久郡を経由し、最前線の若神子まで到達するという、極めて長く、無防備なものでした 11 。
徳川方は、8月12日の「黒駒合戦」で鳥居元忠らが北条軍の別動隊を打ち破るなど、局地的な戦闘で奮戦を見せますが 4 、大局を覆すには至りません。しかし、家康と彼の謀臣たちは、この北条軍の長大で脆弱な兵站線こそが、大軍を内部から崩壊させうる唯一にして最大の弱点であることを見抜いていました。この膠着した戦況を打破する鍵は、正面からの武力衝突ではなく、敵の生命線を断つ非対称な戦略にあったのです。そして、その作戦を実行できる唯一の人物が、この時、北条軍の先鋒として信濃にいた真田昌幸でした。
第二部:盤上の駒、動く―真田昌幸の決断
天正壬午の乱という巨大な盤上において、戦況を根底から覆す「神の一手」を放ったのが、信濃の小領主・真田昌幸でした。彼の決断を理解するためには、まず彼が置かれていた絶体絶命の状況と、その中で培われた類稀なる生存戦略を知る必要があります。
【表2】碓氷峠の作戦に関与した主要武将
勢力 |
武将名 |
役職・立場 |
役割 |
徳川方 |
真田 昌幸 |
信濃の国衆、元武田家臣 |
作戦の立案・総指揮 、調略、ゲリラ戦術の実行 |
|
依田 信蕃 |
信濃の国衆、元武田家臣 |
佐久郡方面の現場指揮官 、諸城の攻略、兵站破壊の実行 |
|
大久保 忠世 |
徳川家重臣 |
真田昌幸への調略工作を担当 |
|
鳥居 元忠 |
徳川家重臣 |
甲斐方面での防衛、黒駒合戦での勝利 |
北条方 |
北条 氏直 |
北条家当主、総大将 |
若神子城にて徳川本隊と対峙 |
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大道寺 政繁 |
北条家重臣、松井田城主 |
碓氷峠方面の防衛責任者 、補給路の維持 |
|
北条 氏邦 |
北条家重臣 |
上野国方面の統括 |
|
北条 氏忠 |
北条家一門 |
甲斐方面への別動隊を指揮(黒駒合戦で敗北) |
表裏比興の者、昌幸の選択
「表裏比興(ひょうりひきょう)の者」—後に豊臣秀吉からそう評された真田昌幸は、まさにその言葉通り、時勢を読み、巧みに主君を変えることで乱世を生き抜いてきました 14 。武田氏が滅亡すると、彼はすぐさま織田信長の重臣・滝川一益に属します。しかし、本能寺の変後、一益が神流川の戦いで北条氏に敗れ上野から敗走すると、昌幸は一益から巧みに沼田城を譲り受け、自力で確保することに成功しました 4 。
その後、北からの上杉、東からの北条という二大勢力に挟まれた昌幸は、まず上杉景勝に服属を申し入れます 4 。しかし、北条氏が圧倒的な軍事力で信濃に侵攻してくると、今度は即座に北条氏に鞍替えし、その先鋒となって信濃入りするという離れ業を演じました 6 。これは単なる日和見主義ではありません。自領が三大勢力の草刈り場となることを避けるため、常に最も有利な立場を選択し続ける、極めて合理的で冷徹な生存戦略でした 15 。
水面下の調略
徳川家康は、この昌幸の類稀なる知略と、彼が持つ信濃・上野の地理的知識、そして北条軍の内情にも通じているであろう情報網の価値を正確に見抜いていました。家康は重臣の大久保忠世を通じ、昌幸の旧友であり、同じく元武田家臣であった依田信蕃を交渉役として、水面下で執拗な調略を開始します 17 。
家康が昌幸に提示した条件は、「現有領地の安堵」、すなわち真田家が実力で支配している土地の所有権を徳川家が保証するというものでした 6 。常に大国の脅威に晒され、領地の安寧を渇望していた昌幸にとって、これは抗いがたい魅力を持つ提案でした。
徳川への寝返り―神の一手
天正10年(1582年)9月、昌幸はついに決断します。北条氏を離反し、徳川方へ寝返ることを決めたのです 6 。この決断は、膠着した戦況を一変させる、まさに「ゲームチェンジャー」となりました。
昌幸の選択は、単に有利な側についたという単純なものではありません。当時、兵力では徳川が最も劣勢でした。しかし、昌幸は三大勢力の中で最も地理的に遠く、直接的な支配の及ぶ危険性が低い徳川を選ぶことで、自らの独立性を最大限に保とうとしました。さらに、徳川が最も困窮しているこのタイミングで味方となり、決定的な戦功を挙げることで、戦後の論功行賞において最大の評価を得ようとしたのです。これは、目先の安泰よりも将来の発展を見据えた、高度な「戦略的投資」でした 16 。彼が駆使した「透波(すっぱ)」と呼ばれる忍者集団による情報収集も、この重大な決断を支えたことは想像に難くありません 20 。昌幸は、徳川家康という最大の買い手に対し、自らの価値を最高値で売り込むことに成功したのです。
第三部:【本編】碓氷峠の戦い―兵站線を巡るリアルタイム・ドキュメント
真田昌幸の寝返りにより、天正壬午の乱は新たな局面を迎えました。ここから、北条氏の長大な兵站線を断ち切るための、精密かつ大胆な作戦が開始されます。これは、もはや「戦い」というよりも、敵の動脈を狙った「外科手術」と呼ぶにふさわしいものでした。
序盤(10月上旬):前哨戦―佐久郡の制圧
作戦の第一段階は、碓氷峠へ至るまでの地域、すなわち信濃国佐久郡から北条方の勢力を一掃し、作戦行動の自由を確保することでした。この任務の主役を担ったのが、徳川方についたもう一人の旧武田家臣、依田信蕃です。
信蕃は、元々佐久郡を本拠とする国衆であり、この地の地理と人脈を誰よりも熟知していました。家康から「切り取り次第」、つまり実力で奪還した土地の領有を認められていた彼は、自らの旧領回復という強い動機を持っていました 22 。10月に入ると、信蕃は電光石火の勢いで行動を開始。北条方が押さえていた佐久郡の拠点、岩村田城や内山城などを次々と攻略していきます 6 。
これに呼応するように、真田昌幸も自領に近い小県郡で北条方に与していた国衆・禰津氏を攻撃し、背後の脅威を取り除きました 13 。依田信蕃という「現場の専門家」が佐久郡を平定することで、昌幸という「戦略の専門家」が碓氷峠という主戦場に集中できる環境が整えられたのです。二人の見事な連携プレーが、作戦成功の盤石な土台を築きました。
中盤(10月中旬):生命線の遮断―碓氷峠の占拠
佐久郡の平定が完了すると、いよいよ作戦は核心部へと移行します。目標は、関東と信濃を結ぶ唯一の大動脈であり、北条軍の生命線そのものである碓氷峠の完全封鎖です 6 。
碓氷峠は、険しい山道が続き、「刎石坂(はねいしざか)」や「堀切(ほりきり)」といった天然および人工の難所が連続する、中山道最大の障壁でした 24 。道は狭く、大軍の移動や物資の輸送には多大な困難が伴います 27 。昌幸はこの地形を最大限に利用しました。
真田・依田連合軍は、碓氷峠の各所に部隊を配置し、これを完全に占拠。大規模な軍勢同士がぶつかり合う野戦ではなく、彼らが最も得意とする戦術が展開されたと考えられます。それは、地形を熟知した兵によるゲリラ戦でした。おそらく、峠道の各所に伏兵を潜ませ 28 、防御が手薄な北条軍の輸送部隊、いわゆる「小荷駄隊」を狙い撃ちにしたのでしょう。奇襲によって輸送中の兵糧や武具を奪い、護衛の兵を討ち取る。この種の攻撃が、峠の至る所で執拗に繰り返されたはずです 13 。
この作戦の効果は絶大でした。若神子城で徳川軍と対峙する北条軍本隊への補給が、完全に途絶したのです。日に日に兵糧は尽き、武具の補充もままならない。5万という大軍は、その規模ゆえに、飢えという内部からの崩壊に直面することになりました。最前線にいる兵士たちの士気は低下し、陣中には焦りと混乱が広がっていったことでしょう 11 。
終盤(10月下旬):戦略的包囲網の完成
碓氷峠の封鎖は、北条軍を物理的に孤立させるだけでなく、戦略的にも完全に手詰まりの状態へと追い込みました。
碓氷峠の関東側、上野国の入り口には、北条方の重要拠点である松井田城がありました。城主は北条家の重臣・大道寺政繁です 31 。政繁は、若神子の本隊を救うべく、峠を突破して補給路を再開させようと何度も試みたと考えられます。しかし、地の利を得て待ち構える真田・依田軍の堅い守りを打ち破ることはできず、松井田城もまた孤立無援の状態に陥りました 32 。
さらに、この好機を逃さず、家康はもう一つの手を打ちます。かねてより連携していた常陸国の佐竹義重に対し、北条領の背後を突くよう要請したのです。これに応じた佐竹軍は、徳川軍との対峙で手薄になっていた北条領の館林城などを攻撃 4 。これにより、北条氏は甲信戦線と関東戦線という、二つの戦線を同時に戦わなければならない絶望的な状況に陥りました 33 。
前線では兵糧が尽き、飢えに苦しむ兵士たちが脱走を始める。後方の本国では、領土が敵に侵食されていく。もはや、北条氏直と氏政に残された道は一つしかありませんでした。
第四部:終局―チェックメイトと新たなる火種
窮地の北条氏と講和への道
前線での兵糧枯渇と、後方での領土侵犯という二重の危機に直面し、北条氏は軍事的に完全に「詰み」の状態に追い込まれました。当主・北条氏直と、依然として実権を握っていた父・氏政は、これ以上の戦闘継続は不可能と判断。屈辱を呑んで、徳川家康に和睦を申し入れることを決断します 12 。
天正10年(1582年)10月29日、織田信長の次男・信雄の仲介という形をとり、両者の間で講和が成立 2 。これにより、約5ヶ月にわたる天正壬午の乱は、ついに終結の時を迎えました。
天正壬午の乱の終結と領土分割
講和の条件は、現状を追認する形となりました。すなわち、甲斐国と信濃国の大部分は徳川家康の領土とし、上野国は北条氏の領土とする、というものです 2 。さらに、この和睦を確固たるものにするため、家康の次女である督姫が氏直の正室として嫁ぐことが決まりました 8 。これにより、敵対していた徳川と北条は一転して婚姻同盟を結ぶことになり、家康は東方の安全を確保。三河・遠江・駿河・甲斐・信濃の五カ国を領有する、名実ともに関東随一の大大名へと飛躍を遂げたのです。
戦後の遺産―沼田領問題
しかし、この華々しい勝利の裏で、次なる戦乱の火種が静かに燻り始めていました。徳川・北条間の和睦交渉において、家康は北条氏との大同盟を優先するあまり、非情な政治的判断を下します。それは、今回の勝利における最大の功労者である真田昌幸が、自らの実力で滝川一益から譲り受け、支配していた上野国の要衝・沼田領を、北条氏へ引き渡すという密約を交わしてしまったのです 6 。
この決定は、昌幸にとって到底承服できるものではありませんでした。徳川の窮地を救い、勝利をもたらしたのは自分であるという自負があったからです。自分を勝利に導いた最大の功臣を、政治的都合でいとも簡単に切り捨てた家康に対し、昌幸が抱いた不信感は決定的となりました。
昌幸は沼田領の引き渡しを断固として拒否。徳川家からの離反を決意し、今度は北の上杉景勝の庇護下に入ることで、自家の独立を維持する道を選びます。この一連の出来事が、3年後の天正13年(1585年)、真田昌幸がわずか2,000の兵で7,000を超える徳川の大軍を上田城に誘い込み、完膚なきまでに叩きのめすという、戦国史に名高い「第一次上田合戦」の直接的な原因となるのです 37 。
皮肉なことに、「碓氷峠の戦い」における輝かしい勝利は、真田と徳川という二人の稀代の戦略家の間に、修復不可能な亀裂を生み出す結果となりました。一つの戦いの終わりは、また新たな戦いの始まりを告げていたのです。
結論:一戦術が戦略を覆した瞬間
天正10年(1582年)の「碓氷峠の戦い」は、日本の戦史において特筆すべき事例として記憶されるべき戦いです。それは、単なる一地方での戦闘ではなく、兵力で1対5以上という圧倒的な劣勢を覆すために、知略の限りを尽くした結果でした。
第一に、この戦いは**「兵站破壊」という戦術が、方面全体の戦略的状況を覆しうる**ことを証明しました。5万の大軍を擁しながらも、その生命線である補給路を断たれた北条軍は、一度も決戦を行うことなく撤退を余儀なくされました。これは、近代戦にも通じる兵站の重要性を、戦国時代の武将たちが深く理解していたことを示す画期的な事例です。
第二に、この一連の作戦は、 知将・真田昌幸の真骨頂が遺憾なく発揮された舞台 でした。「透波」を駆使したであろう卓越した情報収集能力、碓氷峠の険しい地形を完璧に利用したゲリラ戦術、そして徳川・北条・上杉という大国の力関係を見極め、最も効果的なタイミングで寝返りを実行する大局観。その全てが完璧に組み合わさった結果が、この奇跡的な勝利をもたらしたのです。この戦いこそ、真田昌幸の名を「稀代の知将」として天下に知らしめた決定的な出来事であったと言えるでしょう 7 。
最後に、この戦いは 歴史の皮肉とダイナミズム を我々に教えてくれます。徳川家康に天正壬午の乱における最大の勝利をもたらした真田昌幸の知略が、その直後から、両者の間に消えることのない対立の炎を燃え上がらせました。碓氷峠での勝利がなければ、徳川の信濃・甲斐領有はなく、その後の第一次上田合戦も起こりえませんでした。一つの出来事が次の出来事の遠因となり、複雑に絡み合いながら歴史を紡いでいく。碓氷峠の戦いは、まさにその歴史の連鎖を象徴する、深く、そして示唆に富んだ一戦だったのです。
参考文献
- 平山優『増補改訂版 天正壬午の乱 本能寺の変と東国戦国史』戎光祥出版、2015年。 2
- 『歴史人 関東戦国争乱 2016年3月号』ベストセラーズ、2016年。 4
- 『三河物語』 2
- 『上毛古戦記』 27
- 『大日本史料』 4
- 『伊賀者由緒書』 4
引用文献
- 天正壬午の乱~武田氏の旧領をめぐる争い~ - 中世歴史めぐり https://www.yoritomo-japan.com/sengoku/ikusa/tensho-jingo.html
- 天正壬午の乱 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E6%AD%A3%E5%A3%AC%E5%8D%88%E3%81%AE%E4%B9%B1
- 天正壬午の乱とは、どんな戦いだったのか? #どうする家康 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=UmnCV2852rI
- 1582年(後半) 東国 天正壬午の乱 | 戦国時代勢力図と各大名の動向 https://sengokumap.net/history/1582-4/
- 【読者投稿欄】「本能寺の変」は誰が真犯人だと思いますか - 攻城団 https://kojodan.jp/enq/ReadersColumn/18
- 天正壬午の乱/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/99866/
- 真田昌幸 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E7%94%B0%E6%98%8C%E5%B9%B8
- 信長の死で各地激震、家康が領土拡大できた背景 北条氏と徳川氏による「天正壬午の乱」が勃発 https://toyokeizai.net/articles/-/685957?display=b
- 徳川家康の願い「信長亡き今、東国を渡してはならない!」 天正壬午の乱とは? - 歴史人 https://www.rekishijin.com/26848
- 山梨県北杜市・天正壬午の乱~市指定史跡 若神子城 - 季節の話題(長野県内の市町村) http://wingclub.blog.shinobi.jp/%E3%80%90short%20trip%E3%80%91%E5%B1%B1%E6%A2%A8%E7%9C%8C/%E3%80%90%E5%B1%B1%E6%A2%A8%E7%9C%8C%E5%8C%97%E6%9D%9C%E5%B8%82%E3%83%BB%E5%A4%A9%E6%AD%A3%E5%A3%AC%E5%8D%88%E3%81%AE%E4%B9%B1%EF%BD%9E%E5%B8%82%E6%8C%87%E5%AE%9A%E5%8F%B2%E8%B7%A1%20%E8%8B%A5%E7%A5%9E%E5%AD%90%E5%9F%8E%E3%80%91
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- 天正壬午の乱2ページ目|城写真と知的旅なら日本の旅侍 https://www.tabi-samurai-japan.com/story/event/166/2/
- 真田昌幸・信尹兄弟の謀略と碓氷峠遮断 - WEB歴史街道 https://rekishikaido.php.co.jp/detail/2871?p=1
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- 上田合戦起こりの事 https://museum.umic.jp/uedagunki/uedagunki/uedagunki-01.html
- 車山高原レア・メモリーが語る真田昌幸 https://rarememory.sakura.ne.jp/justsystem/masayuki/masa.htm
- 真田昌幸が「信用」されても「信頼」されなかった理由 - 歴史人 https://www.rekishijin.com/22043
- 真田家臣団 - 未来へのアクション - 日立ソリューションズ https://future.hitachi-solutions.co.jp/series/fea_sengoku/06/
- 真田昌幸|国史大辞典 - ジャパンナレッジ https://japanknowledge.com/introduction/keyword.html?i=53
- 曽根昌世、岡部正綱、依田信蕃、下条頼安~「天正壬午の乱」で ... https://rekishikaido.php.co.jp/detail/10528?p=1
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- 第4章 「中山道碓氷峠越」の歴史的資産 https://www.city.annaka.lg.jp/uploaded/attachment/7594.pdf
- 【登山と旅 碓氷峠(中山道)】登山初心者 古の旅人となり峠を越えて「釜めしを食べる」 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=rqoeR3gwc70
- 碓氷峠の戦い - 箕輪城と上州戦国史 - FC2 https://minowa1059.wiki.fc2.com/wiki/%E7%A2%93%E6%B0%B7%E5%B3%A0%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
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