最終更新日 2025-09-01

稲葉山城前面戦(1556~57)

弘治元年、斎藤道三は義龍に家督を譲るも実権を保持し、義龍は弟たちを謀殺し道三を追放。翌年、長良川の戦いで道三は壮絶な最期を遂げ、義龍が美濃を掌握。この戦いは信長の美濃攻略の契機となった。

稲葉山城前面戦(1556-57年)の詳報:長良川の戦いと美濃の支配権を巡る内乱の全貌

序章:下剋上の果て、美濃に燻る火種

戦国時代の美濃国(現在の岐阜県南部)は、一人の男の野望によって激動の渦中にあった。「美濃の蝮」と恐れられた斎藤道三である。一代、あるいは父子二代にわたる謀略の末、美濃守護であった土岐氏を追放し、国主の座を簒奪した道三の統治は、旧来の秩序を破壊する急進的なものであった 1 。毒殺や裏切りを駆使して成り上がったその手法は、美濃の在地領主層である国人衆の間に、根深い不満と不信を蓄積させていた 4 。この国人衆の反発こそが、後に勃発する斎藤家の内乱を、単なる親子の確執から美濃一国を揺るがす大規模な紛争へと昇華させる土壌となったのである 5

天文23年(1554年)、道三は嫡男・義龍に家督を譲り、自身は稲葉山城から麓の鷺山城へ移り隠居した 6 。しかし、この権力移譲は形式的なものに過ぎなかった。道三は実権を保持し続け、むしろこの隠居を自らの政治構想を完成させるための一手と考えていた節がある。彼は義龍の器量を低く評価する一方で 7 、寵愛する次男・孫四郎や三男・喜平次、そして何よりも娘婿である尾張の織田信長に並々ならぬ期待を寄せていた 9 。鷺山城から長良川を挟んで稲葉山城が真正面に見える地理的関係は、隠居後も息子を監視し、美濃を掌握し続けようとする道三の意志と、両者の間の抜き差しならない緊張関係を象徴していた 11

この道三の行動は、自身の権力を安泰にするための「失敗した権力移譲」であったと言える。戦国大名が隠居後も後見人として実権を握り続ける例は多いが、道三の場合、後継者である義龍を公然と軽んじ、廃嫡すら示唆した。これは義龍に「このままでは父に排除される」という強烈な危機感を抱かせると同時に 12 、道三に反感を抱く国人衆に「義龍を担げば道三を排除できる」という絶好の機会を与える結果となった。道三の隠居は事態を沈静化させるどころか、義龍と反道三派を結集させ、大規模なクーデターの引き金を引く決定的な要因となったのである。

第一部:決裂への道程 ― 弘治元年の政変

第一章:父子の確執、その深層

道三と義龍の確執を決定的にしたのは、道三の露骨な寵愛の差であった。道三は義龍を「耄者(おいぼれもの)」と見なし、次男の孫四郎や三男の喜平次を「利口者」として溺愛した 12 。特に喜平次には、足利一門の名門である一色氏を名乗らせるなど、長兄である義龍の面目を完全に踏み躙る処遇を行った 9 。父の寵愛を笠に着た弟たちが義龍を侮るようになったことで、家中における義龍の立場は著しく不安定になった 12

時を同じくして、道三は正徳寺での会見以降、娘婿である織田信長の非凡さを見抜き、「我が子らは、いずれあのうつけ(信長)の門前に馬を繋ぐことになるだろう」と高く評価していた 10 。この評価が美濃国内に広まることは、義龍の権威をさらに失墜させるものであった。

このような状況下で、義龍の周囲には道三の独裁的な統治に反発する勢力が結集しつつあった。特に、後に「西美濃三人衆」と称される稲葉良通(一鉄)、安藤守就、氏家直元(卜全)といった有力国人衆は、義龍を支持する中核となった 6 。彼らにとって道三は、旧主・土岐氏を追放した簒奪者であり、その統治は予測不可能で自領の安寧を脅かすものであった 4 。対照的に、義龍は彼ら国人衆との関係が深く、その利害とも一致していた 13 。義龍を新たな国主に据えることは、道三という「異物」を排除し、美濃に旧来の秩序と安定を取り戻すための、彼らにとって必然的な政治的選択だったのである。

後世の軍記物においては、義龍の父殺しを正当化するため、「義龍の実父は道三ではなく、旧主・土岐頼芸である」という出生の秘密が創作された 10 。頼芸の愛妾であった深芳野が懐妊したまま道三に下げ渡され、生まれたのが義龍であるというこの逸話は、『信長公記』のような同時代の信頼性の高い史料には一切見られず、江戸時代以降に作られた物語である可能性が極めて高い 15 。しかし、この種の噂が当時から流布し、義龍が自らの挙兵を正当化するプロパガンダとして利用した可能性は否定できない。

第二章:稲葉山城の密計

弘治元年(1555年)10月、父・道三が自身を廃嫡し、寵愛する弟を後継に据えることを確信した義龍は、先手を打つことを決意する 12 。彼は重病を装って居城である稲葉山城の奥に籠もり、周囲の油断を誘った 12 。これは、来るべきクーデターに向けた周到な偽装工作であった。

そして同年11月22日、道三が鷺山城、あるいは山下の居館に滞在している隙を突き、義龍は計画を実行に移す。まず叔父の長井道利を使者として送り、弟の孫四郎と喜平次を「今生の別れに一言申し上げたい」という口実で稲葉山城に呼び寄せた 12 。城内に入った弟たちに対し、道利は一計を案じ、控えの間で自らがまず刀を置くことで、彼らにも武装解除を促した 12 。そして、対面の場で酒を振る舞い、二人を酔わせたところを、義龍の腹心である日根野弘就が斬殺したのである 12 。この計画性と冷徹さは、道三が「耄者」と侮っていた義龍が、実は優れた策略家であったことを示している。

弟二人を謀殺した後、義龍はあえて使者を道三のもとへ送り、事の顛末を伝えた。これは父に対する明確な宣戦布告であった 2 。報告を受けた道三は驚愕し、急ぎ兵を集めようとしたが、時すでに遅く、稲葉山城は完全に義龍の手に落ちていた。抗戦は不可能と判断した道三は、追手の足を止めるために城下の町に火を放つと、長良川を渡り、かつて自らが攻め滅ぼした土岐氏の拠点であった山県郡の大桑城へと逃走した 2 。道三が旧敵の城に籠もったのは、旧土岐氏勢力の支持を期待したためかもしれないが、それは自らの下剋上の過去をなぞる皮肉な結末の始まりであった。

第二部:長良川の激闘 ― 弘治二年四月、運命の日

第一章:両軍の対峙

冬の間、両者は睨み合いを続けたが、弘治2年(1556年)の春、雪解けと共に軍事行動が活発化し、美濃の覇権を賭けた決戦は不可避となった 12 。道三は大桑城を拠点に兵を集めるが、美濃国人衆のほとんどは義龍を支持しており、道三の下に馳せ参じる者はごく僅かであった。

4月18日、道三は鶴山に布陣 12 。これに対し、義龍は稲葉山城を拠点に美濃全土から大軍を集結させた。最終的な兵力は、義龍軍が西美濃三人衆をはじめとする国人衆の圧倒的な支持を得て約17,500に達したのに対し、道三軍は旧来の側近らのみで約2,700と、絶望的な差があった 6 。この兵力差こそ、美濃国内の支持が完全に義龍にあったことの何よりの証左であった。

この危機に際し、道三は娘婿の織田信長に援軍を要請した。信長は舅の窮地を救うべく尾張から出陣し 7 、木曽川を渡って美濃南部の**大良(おおら、現在の羽島市)**にある戸島・東蔵坊に陣を構えた 12 。しかし、主戦場である長良川とは距離があり、また当時の木曽三川は流路が複雑で容易に渡河できなかったため 21 、信長軍は決戦に間に合わない可能性が高い状況にあった。

長良川合戦 両軍勢力比較表

項目

斎藤道三軍

斎藤義龍軍

総大将

斎藤道三(山城守)

斎藤義龍(高政)

兵力

約2,700名 6

約17,500名 6

主要武将

側近、旧臣(明智光秀なども含まれていた可能性 7

西美濃三人衆(稲葉、安藤、氏家)、長井道利、竹腰道鎮など 6

支持基盤

道三直属の兵、一部の旧臣

美濃国人衆のほぼ全て 4 、旧土岐氏家臣団

援軍

織田信長(尾張)※合戦には間に合わず

なし(単独で圧倒的多数)

第二章:合戦詳報 ― 時系列で追う戦闘の推移

  • 4月20日 辰の刻(午前8時頃):開戦
    義龍軍が長良川南岸に展開したのに応じ、道三軍も鶴山を下り、長良川北岸に布陣。両軍は川を挟んで対峙し、遂に激突した 12。戦端を開いたのは、義龍軍の先鋒・竹腰道鎮が率いる5,000の兵であった。彼らは円陣を組んで長良川を押し渡り、道三の本陣目指して猛然と突撃を開始した 12。
  • 緒戦の攻防:道三、奮戦す
    兵力で7倍近く劣る道三軍であったが、「蝮」と呼ばれた老将の戦術眼は未だ健在であった。道三自身の巧みな指揮により、竹腰勢の猛攻を凌ぎ、乱戦の末に道三の旗本が奮戦。先鋒大将の竹腰道鎮を討ち取るという大金星を挙げる 12。先鋒隊は敗走し、緒戦は道三軍の優勢で終わった。この時、敵である義龍の巧みな采配を見た道三が「さすがは我が子じゃ」と感嘆したという逸話も残されている 2。
  • 義龍、渡河 ― 戦局の転換
    先鋒の敗北を知った義龍は、しかし臆することなく、自ら本隊を率いて長良川を渡り、前線に陣を固めた 12。総大将が最前線に姿を現したことで、兵の士気は一気に高まった。この時、義龍軍の長屋甚右衛門が一騎打ちを挑み、道三軍の柴田角内がこれに応じた。柴田が長屋を討ち取ると、これを合図に両軍は総攻撃を開始。戦場は全面的な乱戦へと突入した 12。
  • 道三の最期
    緒戦の奮闘も虚しく、圧倒的な兵力差が徐々に道三軍を圧し潰していく。道三の本陣に敵兵が雪崩れ込む中、義龍の重臣・長井道利の子である長井忠左衛門道勝が道三に組み付き、生け捕りにしようと揉み合った 2。その時、小牧源太という武者が横から割って入り、道三の脛を薙ぎ払って体勢を崩すと、倒れたところを首を掻き切った 2。享年63。下剋上を体現した「美濃の蝮」は、実の子に討たれるという、まさに戦国乱世を象徴する壮絶な最期を遂げた。手柄を横取りされたことに激怒した長井忠左衛門は、自らが最初に組み付いた証として、道三の鼻を削いで懐に入れたと伝えられている 2。

第三部:戦後の新秩序

第一章:大良口の攻防 ― 義龍と信長の初対決

長良川での勝利と道三の首実検を終えた義龍軍は、その勝利の余勢を駆って、大良口に陣取る織田信長軍にも兵を差し向けた 12 。これは、美濃へのいかなる外部からの介入も許さないという、新国主・義龍の断固たる意志表示であった。

大良の河原で両軍は激突。不意を突かれた信長軍は苦戦を強いられ、山口取手介、土方彦三郎といった家臣が討死し、猛将・森可成も膝を斬られるほどの負傷を負って退くという大きな損害を被った 12 。舅・道三の討死の報が届く中、信長は冷静に全軍撤退を命令。自らは舟一艘で川に残り、「殿(しんがり)は信長が引き受ける」と宣言して、最も危険な最後尾の守りを固めた 12 。追撃してくる義龍軍の騎馬武者に対し、鉄砲を効果的に撃ちかけて渡河を躊躇させ、その隙に全軍を無事に尾張へと撤退させたのである 12

この大良口での戦いは、信長にとって極めて重要な教訓となった。舅を救うという目的が失われた時点で、戦いは「いかに損害を少なくして撤退するか」という敗戦処理へと移行した。信長はこの状況を即座に理解し、自ら最も危険な殿を務めることで家臣の犠牲を最小限に食い止めた。これは、リーダーとしての卓越した危機管理能力の現れである。さらに、追撃阻止に鉄砲という最新兵器を戦術的に使用した点は、彼の合理性と新技術への関心の高さを示す。この「負け方を知る」という経験と、そこで試された戦術は、後の桶狭間や長篠での革新的な戦いの萌芽となったと言えるだろう。

第二章:美濃新国主、斎藤義龍

父を討ち、名実ともに美濃国主となった義龍は、その統治基盤を固めるために矢継ぎ早に政策を実行した。道三の首実検の際、義龍は「我が身の不徳より出た罪」と述べ、出家して「范可(はんか)」と名乗ったとされる 12 。これは、やむを得ず父を討った古代中国の人物になぞらえたものだが、実際には合戦以前からこの名を用いており 12 、父との対決を正当化するための準備を周到に進めていたことが窺える。

義龍は、道三の独裁政治から大きく転換し、安藤守就ら6人の側近による連署体制を敷き、合議制に近い形で国政を運営した 2 。これは、自らを支持した国人衆の意向を汲んだ現実的な政策であった。内政面では、旧来の荘園制を解体し、検地に基づいて土地の収穫量を数値化する「貫高制」を導入 15 。これにより、家臣団への知行給付と軍役負担を近代化し、戦国大名としての支配力を飛躍的に強化した。これらの改革は、為政者としての義龍の非凡な能力を示している。

さらに義龍は、自らの権威を盤石にするため、中央の室町幕府との関係強化に努めた。永禄2年(1559年)には将軍・足利義輝に謁見して御相伴衆に列せられ 15 、さらに幕府から足利一門の名門「一色氏」の家督を公認させ、「一色左京大夫義龍」と名乗った 15 。これは、簒奪者である斎藤氏の出自を乗り越え、旧美濃守護・土岐氏をも上回る家格を得ることで、自らの支配の正統性を内外に誇示するための、高度な政治戦略であった。

第三章:「美濃国譲り状」の謎

道三は長良川で対陣している最中、信長に宛てて「美濃国は信長に譲り渡す」という趣旨の譲状を書いたとされている 12 。この書状は、道三の信長への絶大な信頼と期待を示す逸話として、後世に広く知られている。

しかし、この譲状の信憑性には疑問が呈されている。現存するものは複数あるが、その書式などから後世に創作された偽文書であるという説も根強い 24 。道三の劇的な最期を演出し、信長の美濃侵攻を正当化するために作られた物語である可能性も指摘されている。

だが、この譲状が本物であるか偽物であるかにかかわらず、後の歴史に与えた影響は計り知れない。信長は、この「道三の遺言」を大義名分として掲げ、執拗に美濃への侵攻を繰り返すことになる 6 。これにより、信長の美濃侵攻は単なる領土的野心による侵略ではなく、「正当な後継者による故人の遺志の実現」という正義の物語性を帯びることになった。これは、義龍の死後に美濃国内の反龍興(義龍の子)勢力を取り込む上で、極めて有効なプロパガンダとして機能したのである。

結論:長良川が変えた歴史の流れ

稲葉山城前面戦、すなわち長良川の戦いは、斎藤道三という稀代の梟雄の時代の終わりを告げた。勝利した義龍は、優れた為政者として美濃に安定をもたらしたが、1561年に34歳の若さで病死 7 。後を継いだ息子の龍興は若年で器量に乏しく、西美濃三人衆らの離反を招き 25 、最終的に信長によって美濃を追われる運命を辿る。長良川の戦いは、結果的に斎藤氏三代の滅亡への序曲となったのである。

一方、織田信長にとって道三の死は、強力な後ろ盾の喪失を意味し、一時的に尾張国内での立場を危うくさせた 9 。この苦境が、信長に尾張統一を急がせ、また今川義元に尾張侵攻の好機を与える遠因となった可能性も否定できない 9

しかし、より長期的な視点で見れば、この戦いは信長に「美濃攻略」という明確かつ正当な次なる目標を与えた。義龍の死後、信長は遂に美濃を平定。稲葉山城を「岐阜城」と改め、「天下布武」の印を用い始める 26 。美濃という肥沃な濃尾平野と、東西を結ぶ戦略的要衝を手に入れたことで、信長の勢力は飛躍的に増大し、上洛、そして天下統一へと続く道が拓かれた。長良川の戦いは、織田信長が尾張の一地方領主から天下人へと飛翔する、まさにその出発点となったのである。そして、信長がこの地で築いた城、町、そして文化は、今日の岐阜市にも脈々と受け継がれている 27

引用文献

  1. [合戦解説] 10分でわかる長良川の戦い 「美濃のマムシ斎藤道三の最後!斎藤氏骨肉の争いと斎藤義龍出生の秘密」 /RE:戦国覇王 - YouTube https://m.youtube.com/watch?v=25n-gSEQHu4
  2. 父を討ち、信長の前に立ちはだかった!マムシの子・斎藤義龍の数奇な生涯に迫る https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/80404/
  3. ザ・下克上の代表的人物、斎藤道三「戦国武将名鑑」 - Discover Japan https://discoverjapan-web.com/article/57601
  4. 敵を作りすぎた「美濃のマムシ」斎藤道三は息子にも領民にも嫌われた⁉ - 歴史人 https://www.rekishijin.com/35287
  5. 斎藤道三とは何者なのか~一代ではなく、二代で成し遂げた「国盗り物語」 https://rekishikaido.php.co.jp/detail/7562?p=1
  6. 長良川の戦いから信長の美濃侵攻 - よしもと新聞舗:岐阜県瑞穂市情報お届けサイト http://www.yoshimoto-shinbun.com/history/%E9%95%B7%E8%89%AF%E5%B7%9D%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84/
  7. 斎藤道三の歴史 /ホームメイト - 戦国武将一覧 - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/7564/
  8. 織田信長の才を見抜いた男〝美濃の蝮〟斎藤道三 - ノジュール https://nodule.jp/info/ex20200403/
  9. 長良川の戦いこそ その後の歴史を変えた? - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=uu0KsOltmB4
  10. 斎藤義龍はなぜ父・道三を討ったのか?ドラマで描かれない実像を探ってみよう - note https://note.com/takamushi1966/n/n7f5a092addb7
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  12. 長良川の戦い - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E8%89%AF%E5%B7%9D%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
  13. 【漫画単行本発売中】斎藤義龍に生まれ変わったので、織田信長に国譲りして長生きするのを目指します!【本編完結】 - 第30話 鷹司御家騒動と初めての反抗(上) - 小説家になろう https://ncode.syosetu.com/n1980eh/30/
  14. 戦国時代に宇宙要塞でやって来ました。 - 第三百話・困惑する義龍とあまり関心がない信秀 - 小説家になろう https://ncode.syosetu.com/n9798ei/301/
  15. 斎藤義龍 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%8E%E8%97%A4%E7%BE%A9%E9%BE%8D
  16. 斎藤義龍は何をした人?「毒をもって毒を制す、マムシの息子は父・道三を殺した」ハナシ https://busho.fun/person/yoshitatsu-saito
  17. 加納口の戦い - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A0%E7%B4%8D%E5%8F%A3%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
  18. 長良川の戦い (道三追悼・義龍との壮絶な長良川の戦い) - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=dOOCjymJY7Y
  19. 第41回 シリーズ信長① 信長と斎藤道三・同盟の行方 - BS11 https://www.bs11.jp/lineup/2024/04/41-420-31-1560-bs11youtube-ijin-mg.html
  20. 織田信長と斎藤義龍!大浦の戦い - 戦国女士blog https://rekijoshi.hatenablog.com/entry/2020/01/30/081110
  21. 実際の陣営地はどこだった?信長が整備した木曽川沿い「承久の乱古戦場」を巡り検証してみた https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/131107/
  22. 大良の戦い - 歴旅.こむ http://shmz1975.cocolog-nifty.com/blog/2017/04/post-38c9.html
  23. 斎藤龍興 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%8E%E8%97%A4%E9%BE%8D%E8%88%88
  24. 【国譲り状】美濃は婿殿のモノ!斎藤道三が織田信長に遺言状を書く【クイズ!きょうのれきし・4月19日】 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=o8Kr_ww4v3o
  25. 美濃三人衆とは?信長に美濃を取らせた西美濃の実力者が辿る三者三様の運命 https://hono.jp/sengoku/mino-triumvirate/
  26. 森部の戦い/古戦場|ホームメイト https://www.touken-collection-kuwana.jp/mie-gifu-kosenjo/miribe-kosenjo/
  27. 織田信長公と岐阜 |特集記事 - エエトコタント岐阜市 https://cool-gifucity.jp/feature/%E3%81%9D%E3%81%AE%E4%BB%96/p4826/
  28. 日本遺産巡り#14 「信長公のおもてなし」が息づく戦国城下町・岐阜 https://japan-heritage.bunka.go.jp/ja/special/104/
  29. 【日本遺産ポータルサイト】「信長公のおもてなし」が息づく戦国城下町・岐阜 https://japan-heritage.bunka.go.jp/ja/stories/story006/