最終更新日 2025-09-06

西条・国分寺口の戦い(1585)

天正十三年、伊予の烈火 ― 「天正の陣」における金子元宅、最後の三週間

序章:天下人の掌中、抗う四国の雄

天正13年(1585年)、日本の統一は最終段階に入っていた。本能寺の変(1582年)で織田信長が斃れた後、その実質的な後継者として羽柴秀吉が急速に台頭した。山崎の戦いで明智光秀を討ち、翌年の賤ヶ岳の戦いでは柴田勝家を破り、さらにその翌年の小牧・長久手の戦いで徳川家康と和睦することで、秀吉は天下人としての地位を盤石なものとしつつあった 1 。紀州征伐を終えた秀吉の次なる視線は、海を隔てた四国に向けられていた 1

その頃、四国には「土佐の出来人」と称された長宗我部元親が一大勢力を築いていた。土佐一国を統一した元親は、破竹の勢いで阿波、讃岐へと侵攻。天正10年(1582年)の中富川の戦いで阿波を、天正12年(1584年)には讃岐を平定した 3 。そして天正13年の春には、伊予の名門・河野通直を降伏させ、事実上の四国統一を成し遂げていた 3 。これは、戦国乱世の「下剋上」を体現する地方大名の、地域統一事業の集大成であった。

しかし、この長宗我部氏による四国統一は、中央で新たな秩序を構築しつつあった秀吉にとって、看過できない事態であった。秀吉の秩序とは、天下人たる彼が各地の大名の領国を公認し、その権威のもとに統制するという中央集権的なものであった。元親が自力で達成した四国統一は、この秀吉の構想に対する根本的な挑戦と見なされたのである。

当初、両者は外交交渉による解決を模索した。元親は秀吉に進物を贈って和解を試みたが、秀吉は元親が平定したばかりの讃岐・伊予両国の返上を命じた 3 。これは単なる領土問題ではなかった。秀吉の要求は、元親が自らの権力が秀吉の下位にあることを認め、その裁定に従うことを求めるものであった。これに対し、元親は伊予一国を割譲しての和睦を提案するも、秀吉はこれを拒否 5 。自らの武力で勝ち取った覇権を、戦わずして手放すことは、戦国大名としての元親の誇りが許さなかった。

交渉は決裂し、秀吉は元親に降伏を勧告。元親がこれを拒絶すると、秀吉は10万を超える大軍を編成し、四国征伐を断行するに至った 5 。この戦いは、もはや避けられないものであった。それは、旧来の戦国時代的秩序を代表する地域覇者・長宗我部元親と、新たな統一国家の支配者たらんとする羽柴秀吉という、二つの相容れない国家観の衝突だったのである。秀吉が動員した圧倒的な兵力は、もはや独立した地域覇者の時代が終わり、天下人の権威に服属すべき新時代が到来したことを、四国全土に、そして全国の未だ服さぬ大名たちに見せつけるための、壮大な示威行動でもあった。

第一章:黒潮のごとく ― 毛利軍、伊予侵攻

三方面同時侵攻作戦

羽柴秀吉が立案した四国征伐は、長宗我部軍の戦力を分散させ、連携を断ち切ることを目的とした、大規模な三方面同時侵攻作戦であった。総大将には弟の羽柴秀長を据え、その指揮下に以下の三軍団が編成された 5

  1. 阿波方面軍: 総大将・羽柴秀長および甥の羽柴秀次(後の豊臣秀次)が率いる主力部隊。淡路島を経由して阿波に上陸し、長宗我部氏の東の玄関口を衝く。
  2. 讃岐方面軍: 宇喜多秀家を主将とし、黒田孝高(官兵衛)、仙石秀久らが加わった部隊。備前から海を渡り、讃岐に上陸する。
  3. 伊予方面軍: 毛利氏の重鎮・小早川隆景を主将とし、吉川元長らが率いる部隊。安芸・備後から伊予に上陸し、西から圧力をかける。

この三方向からの包囲網は、四国の中央に位置する白地城に本陣を置く長宗我部元親にとって、全方位に兵力を割かざるを得ない悪夢のような状況を生み出した 2

伊予方面軍の陣容

この三軍団の中でも、伊予方面軍は特に重要な役割を担っていた。その指揮官には、毛利元就の三男であり、知勇兼備の名将として知られる小早川隆景が任命された 8 。隆景は慎重かつ智略に長けた将であり、秀吉は彼に絶大な信頼を寄せていた 4 。その証拠に、秀吉は四国出兵前の天正13年6月18日付の書状で、戦後の恩賞として伊予一国を与えることを隆景に約束している 4

隆景の麾下には、甥(兄・吉川元春の子)である吉川元長、外交僧として名高い安国寺恵瓊といった毛利家の重臣たちが名を連ねた 10 。その兵力は、諸記録では3万余と公称されているが、当時の毛利氏の総石高(約120万石)から動員可能な兵力を計算すると、全軍を国外に出兵させることは考えにくく、実数はその半数の1万5千程度であったと推測される 10 。それでもなお、迎え撃つ東予の在地勢力にとっては、絶望的な大軍であった。

この伊予侵攻は、単なる軍事作戦以上の意味合いを持っていた。つい数年前まで、秀吉と毛利氏は高松城で対峙した敵同士であった。毛利氏が秀吉の軍門に降ってから日の浅いこの時期に、共同で軍事作戦を遂行することは、毛利氏が秀吉の家臣として新たな秩序に組み込まれたことを内外に示す政治的な意味合いが強かった。

瀬戸内の制海権と水軍の役割

1万5千もの大軍を、武器弾薬、兵糧と共に瀬戸内海を渡海させるには、制海権の確保が絶対条件であった。ここで決定的な役割を果たしたのが、かつて日本最強と謳われた村上水軍である 11

しかし、この時の村上水軍は一枚岩ではなかった。村上三家のうち、来島通総が率いる来島村上氏は、早くから秀吉の調略に応じて毛利氏から離反し、豊臣方についていた 13 。今回の四国征伐において、来島水軍は小早川軍の先鋒として、渡海のための安全な航路確保と水先案内という極めて重要な役目を担った 11 。かつての主家である毛利氏が、その元家臣でありながら今や秀吉直参となった来島氏の助けを借りて作戦を遂行するという構図は、秀吉が旧来の主従関係を解体し、自らを中心とする新たな権力構造を再構築していることを象徴していた。

一方で、能島村上氏の当主・村上武吉は秀吉への従属を拒んだため、旧領を追われることとなった 11 。秀吉と毛利は、来島氏の協力によって、能島村上氏の勢力圏を避けつつ、安全な上陸地点を確保することが可能となったのである。

天正13年6月27日、今治上陸

天正13年(1585年)6月下旬、安芸の三原や忠海の港は、伊予を目指す毛利の将兵で埋め尽くされた 14 。そして6月27日、小早川隆景率いる先発隊は、来島水軍の先導のもと、伊予国今治浦(現在の今治市)への上陸を果たした 11 。この地は、かつて来島氏の同族である能島村上氏が支配した唐子山城の城下であり、来島氏にとっては勝手知ったる海域であった。この上陸地点の選定は、航海の安全性を最大限に確保すると同時に、東予地方、すなわち今回の主目標である金子元宅の勢力圏(現在の西条市・新居浜市)へ進軍するための戦略的拠点として、極めて理に適ったものであった。黒潮のごとき大軍団の第一波が、伊予の地に確かな足がかりを築いた瞬間であった。

第二章:死闘、東予の地 ― 合戦のリアルタイム詳報

東予の防衛体制

毛利の大軍を迎え撃つことになったのは、伊予国東部の新居・宇摩二郡を束ねる国人領主、金子備後守元宅であった 12 。金子氏は、もとは伊予守護の河野氏に属していたが、長宗我部元親が東予に勢力を伸ばすと、その傘下に入り強固な同盟関係を築いていた 15

金子元宅は、毛利氏とも旧交があったため、降伏してその軍門に降るという選択肢も考えられた 6 。しかし、彼は徹底抗戦の道を選ぶ。その理由の一つは、長宗我部氏に人質を送っていたこと、そしてもう一つは、日和見的に主君を変えることを潔しとしない武将としての矜持であった 6 。元宅は、この戦いが勝ち目のないものであることを覚悟の上で、自らの「義」を貫くことを決断したのである 17

元宅が立てた防衛戦略は、圧倒的な兵力差を考慮し、ゲリラ戦や散発的な抵抗ではなく、二つの拠点に兵力を集中させる籠城策であった 11 。すなわち、本拠地である金子城(現・新居浜市)と、西条平野の入り口を固める要害・高尾城(現・西条市)である。ここに新居・宇摩二郡の全兵力を集結させ、毛利軍の進軍を食い止め、その間に土佐から長宗我部本隊の援軍が到着するのを待つという、唯一の勝機に賭けた作戦であった。しかし、二郡の兵力と土佐からの援軍を合わせても、その総数は2,000から2,600名程度に過ぎず、1万5千と見積もられる侵攻軍との差は絶望的であった 10

【6月27日~7月1日】緒戦:隆景の誤算と戦略転換

今治に上陸した小早川隆景は、まずこの地域の制海権を完全に掌握するため、金子方の海上拠点である御代島城の攻略に取り掛かった 11 。しかし、城主の加藤民部正は長宗我部元親の支援を受けて城を強固に要塞化しており、毛利水軍の猛攻を2、3日にわたって凌ぎ切った 11

緒戦におけるこの予想外の抵抗は、慎重居士である隆景の計画に最初の狂いを生じさせた 11 。隆景は、金子軍の主力がすべて高尾城に集結しており、それ以外の拠点は容易に制圧できると考えていた節がある 11 。しかし、御代島城一つを落とせないとなると、正面からの上陸と進軍には大きな危険が伴う。隆景は作戦の変更を余儀なくされ、海上からの拠点制圧を断念。7月2日、別動隊である「東兵」(福原氏、宍戸氏ら)を東の垣生湾から、自らの本隊を高尾城の正面にあたる中山川河口の八幡(現在の石岡神社付近)から、それぞれ敵の抵抗を排除しつつの強行上陸に踏み切った 11 。これは、緒戦の失敗を取り返すための、より大胆で危険な一手であった。

【7月2日~14日】血戦、金子城:十二日間の攻防

7月2日、上陸を果たした毛利軍であったが、彼らを待ち受けていたのは、さらなる誤算であった。隆景は、兵力が集中する二城以外はもぬけの殻だと予測していたが、現実は異なった 11 。福原・宍戸らが率いる東兵が新居郡に侵攻すると、空になったはずの城砦や、果ては神社仏閣にまで立てこもった在地武士や農民兵による、執拗なゲリラ戦に遭遇したのである 11 。これは、兵農未分離の長宗我部氏が導入した「一領具足」制度がこの地域にも浸透していたこと、あるいは、常に他国の脅威に晒されてきたこの地方の民衆が持つ、根強い自衛の気風の表れであったとも考えられる 11

ゲリラ戦に手を焼いた毛利軍は、当初は禁じていた神社仏閣への焼き討ちを敢行せざるを得なくなった 11 。この結果、新居郡の一宮神社をはじめとする多くの社寺が兵火によって灰燼に帰した 18

時を同じくして、金子元宅の弟・金子元春が約700の兵で守る金子城に対し、吉川元長が指揮官として加わった東兵約6,000による総攻撃が開始された 10 。土佐からの援軍・片岡光綱隊も城に駆けつけ、城の外堀である金子川や、内堀の尾尻川(おじりがわ)周辺で、連日血で血を洗う激戦が繰り広げられた。特に、城の飲料水でもあった内堀の池は、夥しい数の死傷者の血で真っ赤に染まり、後世「血塗(ちぬ)の池」と呼ばれるようになったと伝えられる 19

金子城の守りは固く、毛利軍は10日以上にわたって攻めあぐねた。しかし、7月12日頃から城の外郭が次々と破られ、土佐の援将・片岡光綱も討死 20 。衆寡敵せず、ついに7月14日の夕刻、12日間にわたる抵抗の末に金子城は落城した。守将・元春らは辛くも城を脱出した 10 。この戦闘がいかに熾烈であったかは、7月14日付で隆景らが秀吉に宛てた戦勝報告の書状や、それに対する秀吉からの賞賛の返書からも窺い知ることができる 10

【7月12日~17日】最後の砦、高尾城

金子城で東兵が激しい攻防を繰り広げている間、小早川隆景率いる毛利本隊は、金子元宅自らが指揮を執る高尾城と対峙していた。7月12日、毛利軍は高尾城への本格的な攻撃を開始する 12

まず、高尾城の前衛拠点である丸山城が、城主・黒川広隆の降伏によって戦わずして開城した 12 。これにより、高尾城は完全に孤立。毛利軍は城を幾重にも包囲し、土塁や鹿垣といった攻城施設を築いて、徐々に包囲の輪を狭めていった 22

7月14日に金子城が陥落すると、東兵が隆景の本隊に合流。全戦力がついに高尾城へと集中された。7月17日、毛利軍による総攻撃が開始される。高尾城の出城である里城では、守将の高橋美濃守政輝らが奮戦するも討死 22 。本城も猛攻に晒され、もはや落城は時間の問題となった。

その夜、亥の刻(午後10時頃)、金子元宅はこれ以上の籠城は無意味と判断。武士として最後の華を咲かせるべく、玉砕を決意する。元宅は自ら城に火を放ち、燃え盛る炎を背に、残った兵を率いて城外へと最後の出撃を敢行した 6


表1:金子城・高尾城 攻防戦 時系列

日付(天正13年)

戦局の焦点

毛利軍の動向

金子・郷土軍の動向

6月27日~7月1日

上陸・緒戦

今治浦に上陸。御代島城を攻撃するも攻略に失敗 11

御代島城にて加藤民部正らが毛利水軍を撃退。上陸を水際で阻止しようと試みる 11

7月2日

強行上陸・二正面作戦開始

作戦を変更し、本隊(隆景)は高尾城正面へ、東兵(吉川元長ら)は垣生湾へ強行上陸 11

上陸阻止のため抵抗するも、大軍の前に後退。金子城(元春)、高尾城(元宅)での籠城戦を開始 11

7月3日~6日

ゲリラ戦と金子城攻防

東兵はゲリラ戦に苦慮し、神社仏閣を焼き討ちしつつ西進。金子城への攻撃を開始 11 。吉川元長が東兵の指揮を執るため合流 20

在地武士・農民兵が空城や社寺に籠りゲリラ戦を展開。金子城では土佐援軍(片岡隊)が到着し、初期の攻撃を撃退 11

7月7日~11日

金子城の激戦

金子城への総攻撃を繰り返す。城方の抵抗は激しく、攻城戦は膠着 20

金子城にて必死の防戦。土佐援軍の将・片岡光綱が奮戦の末、討死 20

7月12日~13日

高尾城攻撃開始と金子城の危機

隆景本隊が高尾城への本格的な攻撃を開始 12 。金子城では外郭を突破し、城方は中央出丸まで後退 20

高尾城でも戦闘が開始される。金子城は連日の戦闘で疲弊し、防衛線が次々と破られる 20

7月14日

金子城落城

金子城本丸に迫り、夕刻に陥落させる 20 。隆景、秀吉に戦勝を報告 10

金子元春らは城を脱出。東予の防衛網の半分が崩壊する 20

7月15日~16日

高尾城包囲の強化

金子城を攻略した東兵が合流。全軍で高尾城を包囲し、総攻撃の準備を進める 22

完全に孤立。援軍の望みも絶たれ、最後の抵抗を準備する。

7月17日

高尾城落城

総攻撃を敢行し、里城を陥落させる。夜、本城も炎上し落城 22

守将・高橋美濃守らが討死。夜、金子元宅は城に火を放ち、残兵を率いて野々市原へ脱出 12


第三章:義に散る ― 野々市原の最終決戦

7月17日深夜~18日未明、闇夜の進軍

高尾城から立ち上る黒煙が夜空を焦がす中、金子元宅は残された兵を率いていた。高尾城の残兵に加え、主城である高峠城の守備兵も合流し、その数はおよそ800名 6 。彼らは生きて土佐へ落ち延びる道を選ばず、最後の決戦の地として定めた野々市原(現在の西条市野々市)へと、闇に紛れて向かった。この決断は、単なる絶望から来たものではなかった。元宅は開戦前から、この戦に勝利することはないと悟っていた 17 。彼の目的は、軍事的な勝利ではなく、自らの家と土地、そして武士としての誇りを、後世に「記憶」として遺すことにあった。敗北が必至であるならば、逃げ延びて汚名を着るよりも、圧倒的な敵を前にして華々しく散ることこそが、その目的を達成する唯一の道であった。野々市原での決戦は、金子元宅が自らの手で作り上げる、壮大な物語の最終章だったのである。

夜明けの突撃と壮絶な最期

天正13年7月18日(一説には17日)、夜が明け始めた野々市原には、小早川隆景率いる1万5千以上の毛利軍が布陣していた 6 。その眼前に現れたのは、わずか800の金子軍であった。兵力差は約20倍。勝敗は戦う前から決していた。

しかし、金子軍の士気は天を衝くばかりであった。「武士は一代、名は末代」の覚悟を胸に、金子元宅を先頭に最後の突撃を敢行する 24 。『澄水記』や『天正陣実記』といった後世の軍記物は、この時の壮絶な戦いぶりを伝えている。金子軍は何度も毛利軍の陣に突入し、獅子奮迅の働きを見せた。しかし、大軍の前に一人、また一人と倒れていく。それでも彼らは降伏することなく、「刀折れ矢尽きるまで」戦い続けたとされ、最後には手勢がわずか13人になったと伝えられる 6

奮戦の末、総大将・金子備後守元宅は、この野々市原の地に斃れた 19 。彼の死をもって、東予における長宗我部方の組織的抵抗は完全に終結した。金子元宅は戦には敗れた。しかし、その壮絶な最期は、敵将である小早川隆景の心をも深く打ち、彼が意図した通り、単なる敗北を超えた不滅の伝説として、この地に刻み込まれることになったのである。

第四章:戦塵の果てに

勝者の敬意:小早川隆景の戦後処理

野々市原の戦いが終わった後、戦場には数多の将兵の亡骸が残された。敵将である小早川隆景は、金子元宅とその家臣たちの、絶望的な状況下で見せた勇猛果敢な戦いぶりに深く感銘を受けた 6 。彼は武人としての敬意を表し、戦死した金子軍の将兵の首級を丁重に集め、一箇所に葬った。これが現在も野々市原に残る「千人塚」である 6 。勝者が敗者の死を悼み、その武勇を称えるというこの行為は、隆景の武将としての器の大きさを示す逸話として、地域に長く語り継がれている。

戦後、秀吉との約束通り、隆景は伊予一国三十五万石を与えられ、旧河野氏の居城であった湯築城(現・松山市)に入った 4 。彼は国内の安定化を図るため、軍勢による無法な行いを禁じる制札を出すなど、統治に着手した 4 。しかし、間もなく秀吉による九州征伐が始まり、隆景もそれに従軍することになる。そのため、彼の伊予統治は実質2年ほどの短期間で、名目的なものに終わった 4


表2:両軍の戦力比較

項目

羽柴・毛利軍

長宗我部・金子軍

総大将

小早川隆景

金子元宅

主要指揮官

吉川元長、安国寺恵瓊、宍戸元孝、福原元俊

金子元春、石川通清、高橋政輝、片岡光綱(土佐援軍)

総兵力

約15,000~30,000余 6

約2,000~2,600 12

兵站・補給

秀吉政権の全面支援。兵糧・武具共に潤沢 3

四国統一間もない不安定な基盤。補給線は限定的。

装備の質

上方勢の武具・馬具は光り輝き、装備は最新かつ良好 3

鎧は使い古され、麻糸で補修したものも多い。馬も小柄な土佐駒が中心で、見劣りしたと記録される 3

支援勢力

来島水軍(海上輸送・案内)、寝返った在地勢力(黒川氏など) 11

長宗我部元親からの援軍(数百名規模) 10


長宗我部元親の降伏

東予の防衛線が、金子元宅らの玉砕によって完全に崩壊したという報は、白地城の元親のもとに届いた。阿波・讃岐方面でも秀長・宇喜多軍の猛攻の前に諸城が次々と陥落しており、これ以上の抵抗は無益であることは誰の目にも明らかであった 2 。家臣たちの説得もあり、元親はついに降伏を決断。7月25日に和睦の意思を伝え、8月6日までに講和が成立した 2 。秀吉は元親の降伏を受け入れ、土佐一国のみの安堵を認めた 3 。これにより、元親の四国統一の夢は潰え、秀吉による四国平定は完了した。

金子一族、その後

壮絶な最期を遂げた金子元宅であったが、彼が未来に遺そうとした「血と地」は、完全に途絶えたわけではなかった。

  • 弟・金子元春: 金子城落城後に脱出し、生き延びた元春は、後に出家して関奄本徹(かんがんほんてつ)と号した。元和年間(1615-1624)に故郷に戻り、戦火で焼失した金子氏の菩提寺・慈眼寺を再興し、その開山となった 27
  • 子息たち: 元宅の子どもたちは、戦の前に人質として、あるいは庇護を求めて土佐の長宗我部氏のもとに送られていたため無事であった 17
  • 嫡男の金子宅明は、長宗我部氏改易後、伊予に戻り加藤嘉明に仕え、その後は土佐の山内氏に仕官するなどして家名を保った 27
  • 次男の元雅は長宗我部盛親に従い、大坂夏の陣で豊臣方として戦い討死した 27
  • 他の子息たちも、それぞれ別の家に仕えるなどして、戦国の世を生き抜いた 25

金子一族は、当主の犠牲と引き換えに、離散しながらもその血脈を未来へと繋いでいったのである。

終章:歴史に刻まれたもの

「天正の陣」の歴史的意義

伊予の東部、現在の西条市・新居浜市一帯で繰り広げられたこの一連の戦いは、地元では「天正の陣」として記憶されている 12 。この戦いは、羽柴秀吉の天下統一事業における一つの象徴的な出来事であった。それは、中央の圧倒的な軍事力と物量によって、最後まで抵抗を試みる地方勢力を制圧するという、「豊臣の平和(Pax Toyotomiana)」がどのようにしてもたらされたかを示す典型例である。この東予での勝利が長宗我部氏の降伏を決定づけ、四国平定を完了させたことで、秀吉は次なる目標である九州征伐へと、後顧の憂いなく進むことができた 7

敗者の記憶:郷土の英雄、金子元宅

歴史は多くの場合、勝者によって語られる。しかし、この地域においては、敗者である金子元宅と新居・宇摩の将兵こそが、郷土の英雄として今なお深く敬愛されている 24 。圧倒的な大軍を前に一歩も引かず、信義のために命を懸けて戦い抜いた彼らの姿は、地域の誇りとして語り継がれてきた。野々市原の千人塚や、金子氏の菩提寺である慈眼寺に残る元宅の墓、金子城跡に整備された滝の宮公園の石碑などは、その記憶を現代に伝える物理的な証となっている 6 。これらの史跡は、地域の歴史教育の場としても活用され、世代を超えて天正の陣の物語を継承する役割を担っている。

弔いの舞から生まれた「トンカカさん踊り」

天正の陣の記憶を最も鮮やかに、そして生き生きと伝えているのが、新居浜市金栄地区などに伝わる郷土芸能「トンカカさん踊り」である 6 。この踊りは、敵将であった小早川隆景が、金子元宅らの見事な戦いぶりを称え、その霊を弔うために鎧の上に法衣をまとって舞ったのが起源とされる 30 。その際に家臣が陣太鼓を打ち鳴らした調子が「トン、カカ、トン、カカ」と聞こえたことから、この名がついたという 30

その歌詞には、「頃は天正十三年」「隆景軍の参萬騎」「武士は一代名は末代と 義理の義の字の花と散る」といった文句が並び、合戦の状況や金子元宅の覚悟が明確に歌い込まれている 24 。この踊りの存在は、単なる歴史の伝承にとどまらない。それは、金子元宅が最後の決戦に託した「記憶の戦略」が、400年以上の時を超えて見事に成功したことの証左と言える。戦に敗れ、命を落とした武将の物語が、敵将への敬意というフィルターを通して、地域の祭りや芸能という形で生き続け、人々のアイデンティティの一部として深く根付いているのである。

「西条・国分寺口の戦い」の名称再考察

利用者が提示した「西条・国分寺口の戦い」という名称は、一般的な史料では確認されないものの、この戦いの地理的・戦略的側面を的確に捉えた呼称として考察することができる。

  • 「西条」: 主戦場となった高尾城や、最終決戦の地である野々市原は、いずれも現在の西条市に属する。したがって、「西条」はこの合戦の中核となった地域を指す広域地名である 19
  • 「国分寺口」: 毛利軍が上陸した今治から、西条平野へと進軍するルート上には、伊予国分寺(現・今治市)が存在する。古来、国分寺はその地域の中心的な寺院であり、交通の要衝に置かれることが多かった。毛利軍の進軍経路において、国分寺周辺は西条平野への「入口(口)」にあたる戦略的に重要な地域であった。伊予国分寺自体も、この時代の戦乱で焼失した記録があり、毛利軍の進軍経路上の重要な目標、あるいは通過点であったことは間違いない 34

これらの点から、「西条・国分寺口の戦い」という名称は、「天正の陣」という伊予側から見た時間軸(天正年間の一大戦役)での総称とは異なり、侵攻軍の視点、あるいはより局地的な地理観に基づき、「国分寺口から侵攻し、西条で繰り広げられた戦い」として名付けられた、地域的な呼称であった可能性が考えられる。それは、この壮絶な戦いが、地域の地理と人々の記憶に、いかに深く結びついているかを示す、もう一つの証と言えるだろう。

引用文献

  1. [合戦解説] 10分でわかる四国征伐 「秀吉に打ち砕かれた長宗我部元親の夢」 /RE:戦国覇王 https://www.youtube.com/watch?v=yymhdsME8Kk
  2. 1585年 – 86年 家康が秀吉に臣従 | 戦国時代勢力図と各大名の動向 https://sengokumap.net/history/1585/
  3. 四国攻め - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E5%9B%BD%E6%94%BB%E3%82%81
  4. 一 小早川隆景の支配 - データベース『えひめの記憶』|生涯学習情報提供システム https://www.i-manabi.jp/system/regionals/regionals/ecode:2/64/view/8023
  5. 四国平定とは? わかりやすく解説 - Weblio辞書 https://www.weblio.jp/content/%E5%9B%9B%E5%9B%BD%E5%B9%B3%E5%AE%9A
  6. 天正の陣古戦場:愛媛県/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/dtl/tensyo-no-jin/
  7. 四国平定戦 / 抵抗むなしく屈辱の降伏。/ 天正の陣 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=7S8nKOXAeeA
  8. 羽柴秀吉御内書 六月廿四日付 小早川左衛門尉宛 - 文化遺産データベース https://bunka.nii.ac.jp/db/heritages/detail/610440
  9. 小早川隆景 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%97%A9%E5%B7%9D%E9%9A%86%E6%99%AF
  10. 天正の陣 戦記 https://tenshonojin.jimdofree.com/%E5%A4%A9%E6%AD%A3%E3%81%AE%E9%99%A3-%E6%88%A6%E8%A8%98/
  11. 毛利家 小早川軍上陸による天正の陣開戦 https://tenshonojin.jimdofree.com/%E5%A4%A9%E6%AD%A3%E3%81%AE%E9%99%A3-%E6%88%A6%E8%A8%98/%E9%96%8B%E6%88%A6/
  12. 天正の陣 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E6%AD%A3%E3%81%AE%E9%99%A3
  13. 日本の海賊【村上水軍】の歴史やライバルに迫る! 関連観光スポットも紹介 - THE GATE https://thegate12.com/jp/article/494
  14. 天正の陣 https://dayzi.com/zisyo/tenzin.html
  15. 長宗我部元親 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E5%AE%97%E6%88%91%E9%83%A8%E5%85%83%E8%A6%AA
  16. 金子備後守元宅と天正の陣 - 金子備後守元宅と天正の陣 - Jimdo https://tenshonojin.jimdofree.com/
  17. 【考察】金子元宅はなぜ天正の陣に臨んだのか https://tenshonojin.jimdofree.com/%E5%A4%A9%E6%AD%A3%E3%81%AE%E9%99%A3/%E9%87%91%E5%AD%90%E5%85%83%E5%AE%85%E3%81%AE%E6%80%9D%E3%81%84-%E7%8B%AC%E8%87%AA%E8%80%83%E5%AF%9F/
  18. 愛媛県史 年表(平成元年2月28日発行) - データベース『えひめの記憶』|生涯学習情報提供システム https://www.i-manabi.jp/system/regionals/regionals/ecode:2/67/view/8392
  19. 天正の陣 http://www2.dokidoki.ne.jp/tomura/tensyo.htm
  20. 金子城の激戦 - 金子備後守元宅と天正の陣 https://tenshonojin.jimdofree.com/%E5%A4%A9%E6%AD%A3%E3%81%AE%E9%99%A3-%E6%88%A6%E8%A8%98/%E9%87%91%E5%AD%90%E5%9F%8E%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84/
  21. 野々市原古戦場 http://www2.dokidoki.ne.jp/tomura/nonoichi.htm
  22. 高尾城の激戦 - 金子備後守元宅と天正の陣 https://tenshonojin.jimdofree.com/%E5%A4%A9%E6%AD%A3%E3%81%AE%E9%99%A3-%E6%88%A6%E8%A8%98/%E9%AB%98%E5%B0%BE%E5%9F%8E%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84/
  23. 西条歴史発掘 ~大喜多のいちょうと高橋美濃守~ http://verda.life.coocan.jp/s_history/s_history36.html
  24. 天正の陣とトンカカさん踊り ~ふるさとの歴史を継ぐ金栄太鼓台~ [PDFファイル - 新居浜市 https://www.city.niihama.lg.jp/uploaded/attachment/57571.pdf
  25. 刀折れ矢尽きるまで…勝ち目のない戦に挑んで散った金子元宅 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=uy_VQ-wU-i4
  26. 小早川隆景は何をした人?「父ゆずりの頭脳と確かな先見性で毛利の家を守り抜いた」ハナシ|どんな人?性格がわかるエピソードや逸話・詳しい年表 https://busho.fun/person/takakage-kobayakawa
  27. 金子元宅 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E5%AD%90%E5%85%83%E5%AE%85
  28. 伊予金子氏系譜 http://kansai-kuratakekai.jp/nws_Folder1/loman7.html
  29. 新居浜市の郷土芸能 - 愛媛県新居浜市ホームページ|四国屈指の臨海工業都市 https://www.city.niihama.lg.jp/soshiki/bunka/niihamashi-kyoudogeinou2.html
  30. kinnei.jimdofree.com https://kinnei.jimdofree.com/%E3%83%88%E3%83%B3%E3%82%AB%E3%82%AB%E3%81%95%E3%82%93%E8%B8%8A%E3%82%8A/#:~:text=%E6%94%BB%E6%92%83%E8%BB%8D%E3%81%AE%E7%B7%8F%E5%A4%A7%E5%B0%86,%E3%81%9F%E3%81%A8%E8%A8%80%E3%82%8F%E3%82%8C%E3%81%A6%E3%81%84%E3%81%BE%E3%81%99%E3%80%82
  31. 金栄太鼓台・飾り幕など https://kinnei.jimdofree.com/%E9%87%91%E6%A0%84%E5%A4%AA%E9%BC%93%E5%8F%B0-%E9%A3%BE%E3%82%8A%E5%B9%95%E3%81%AA%E3%81%A9/
  32. 金栄トンカカさん踊りの唄 https://kinnei.jimdofree.com/%E3%83%88%E3%83%B3%E3%82%AB%E3%82%AB%E3%81%95%E3%82%93%E8%B8%8A%E3%82%8A/
  33. 戦国の記憶とともに ― 西条市民納涼花火大会 ― - 【LOVE SAIJO】愛媛県西条市への移住・定住サポートサイト|暮らし・お仕事・子育て情報 https://www.lovesaijo.com/life/machibrog2025-01/
  34. 第63番札所 密教山 胎蔵院 吉祥寺 - ツーリズム四国 https://shikoku-tourism.com/spot/13240