赤坂・細野の戦い(1600)
慶長五年九月十四日、美濃杭瀬川の激闘 ― 関ヶ原前夜、島左近が描いた勝利の残光 ―
序章: 「赤坂・細野の戦い」から「杭瀬川の戦い」へ ― 歴史的同定と本報告の視座
慶長5年(1600年)、天下分け目の関ヶ原の戦いを目前に控えた美濃国において、「赤坂・細野の戦い」と称される要地争奪戦があった。本報告書は、この合戦について、戦国時代という歴史的文脈の中で徹底的な調査を行い、その全貌を時系列に沿って詳らかにすることを目的とする。
まず、調査の起点となる合戦の名称について、厳密な歴史的同定を行う必要がある。「赤坂」という地名は、この戦いの地理的中心地を正確に示している。東軍総大将・徳川家康は、関ヶ原決戦の前日である9月14日、美濃赤坂に存在する岡山(おかやま)と呼ばれる丘陵に本陣を構えた 1 。この事実は、数多の史料や現地の伝承によって裏付けられており、この戦いが赤坂周辺で発生したことは疑いのない事実である 3 。
一方で、「細野」という地名が、この特定の戦闘と直接的に関連する主要な史料や地誌において確認することは困難である 6 。これは、後世における誤伝や、あるいは戦闘が行われたごく限定的な地域の呼称が伝わった可能性も考えられるが、歴史学的に一般化された名称ではない。
しかしながら、時期(慶長5年9月14日)、場所(美濃赤坂と西軍の拠点・大垣城の中間地点)、そして性格(布陣期における要地争奪と士気高揚を目的とした局地戦)といった諸条件を照合すると、この戦いが歴史的に「杭瀬川の戦い(くいせがわのたたかい)」として知られる戦闘と完全に合致することが明らかになる 8 。杭瀬川は、赤坂と大垣城の中間を流れる河川であり、まさしく両軍が睨み合う最前線であった 9 。
したがって、本報告書では、ご依頼の意図を正確に汲み取り、この「杭瀬川の戦い」について、その背景、戦略、戦闘経過、そして歴史的意義のあらゆる側面を徹底的に解明する。この戦いは、単なる前哨戦という言葉で片付けられる小競り合いではない。それは、石田三成の懐刀・島左近の軍才が閃光のように輝いた戦術的傑作であり、西軍の士気を一時的にせよ劇的に回復させ、関ヶ原での最終決戦へと歴史を動かした、極めて重要な一戦であった。本報告は、その視座に立ち、天下分け目の戦いの前夜に起きた知られざる激闘の真実に迫るものである。
第一章: 決戦前夜の対峙 ― 美濃における東西両軍の戦略配置
杭瀬川の戦いが勃発するに至った背景には、関ヶ原決戦直前の美濃国における、東西両軍の極めて緊迫した戦略的状況があった。この戦いがなぜ、この場所で、このタイミングで起きる必要があったのかを理解するためには、両軍が置かれた対照的な立場をまず把握せねばならない。
東軍は、徳川家康の会津征伐の隙を突いて挙兵した石田三成に対し、驚異的な速さで反転し、西進を開始した。その進路上で行われた前哨戦において、東軍は連戦連勝を重ねていた。宇都宮での軍議「小山評定」を経て結束を固めた東軍先発隊は、まず西軍の重要拠点であった岐阜城を、わずか一日で陥落させるという圧倒的な戦果を挙げた 11 。これに続く米野・新加納の戦いや河渡川の戦いでも勝利を収め、西軍の防衛線を次々と突破していった 13 。この勝利に乗じ、東軍諸将は美濃西部に続々と集結し、大垣城に籠る西軍主力に圧力をかける体制を整えたのである 11 。
この東軍の最終的な集結地として選ばれたのが、美濃赤坂であった。そして慶長5年9月14日、満を持して総大将・徳川家康がこの地に到着し、本陣を「岡山」と呼ばれる丘陵に定めた 3 。この岡山は、海抜わずか53メートルの小高い丘ではあるが、その戦略的価値は計り知れないものであった 4 。眼下には西軍が拠点とする大垣城が一望でき、その距離はわずか一里(約4キロメートル)に過ぎなかった 1 。つまり、家康は敵主力の目と鼻の先に本陣を据え、その一挙手一投足を監視下に置いたのである。これは単なる布陣ではなく、西軍将兵に対する強烈な心理的圧迫を意図した、計算され尽くした戦略であった。後に家康が天下分け目の戦に勝利したことを記念し、この地を「勝山(かちやま)」と改名したという逸話は、この場所が持つ戦略的重要性を見事に物語っている 4 。
一方、西軍の状況は絶望的であった。石田三成、宇喜多秀家、小西行長といった主力部隊は、前哨戦での相次ぐ敗北により、大垣城に退却を余儀なくされていた 11 。城自体は堅固であったが、東軍の圧倒的な兵力によって周囲を固められ、事実上の包囲下にあるも同然であった。兵士たちの士気は地に落ち、閉塞感が陣営全体を覆っていた。東軍の連戦連勝と赤坂岡山への布陣は、西軍に「このままでは城に籠ったまま、戦わずして瓦解する」という強烈な焦燥感を生み出していた。この物理的な包囲網と心理的な閉塞感こそが、島左近による大胆な奇襲作戦という「起死回生の一手」が渇望される土壌を形成したのである。
第二章: 「内府、赤坂に着陣す」 ― 西軍を揺るがした心理的衝撃
慶長5年9月14日、美濃の空気を一変させる出来事が起こる。それは、物理的な戦闘ではなく、一つの「情報」からもたらされた。東軍総大将・徳川家康、その本人が赤坂の本陣に着陣したという事実である。この報は、すでに意気消沈していた西軍に決定的な心理的衝撃を与え、杭瀬川の戦いの直接的な引き金となった。
家康は9月1日に江戸を出陣すると、三万を超える本隊を率いて東海道を西進 11 。清洲城、岐阜城を経て、14日の正午前に赤坂の岡山に到着した 1 。家康の到着とともに、赤坂に布陣する東軍の陣営は俄かに活気づき、徳川軍の指物である白旗や幟が林立し始めた 1 。
この異変を、大垣城から監視していた西軍の斥候が見逃すはずはなかった。彼らは直ちに城へ駆け戻り、「赤坂本陣の幟の数が一気に増え、家康が着陣した模様」と急報した 1 。この一報は、瞬く間に大垣城内を駆け巡り、西軍将兵の間に深刻な動揺を引き起こした。前哨戦での敗北続きで萎縮していた兵士たちにとって、敵の総大将、当代随一の実力者である家康の登場は、「最後の希望が断たれた」と感じさせるに十分な威力を持っていた。その衝撃は凄まじく、一部の兵士は恐怖のあまり持ち場を捨てて逃亡し始める始末であった 8 。
事態を憂慮した石田三成の家老・島左近や蒲生郷舎といった首脳部は、兵たちの動揺を鎮めるべく、火消しに走った。「家康は会津の上杉景勝と対峙しているはず。こんなに早く美濃に到着するわけがない。あれは美濃の小大名、金森法印(長近)の旗に違いない」と触れ回り、情報の打ち消しを図った 11 。これは、情報の持つ破壊的な力を熟知していたが故の、必死の対応であった。
しかし、その努力も虚しかった。三成は宇喜多秀家らと協議の上、改めて偵察を派遣。その結果、家康の鉄砲隊の指揮官である持筒頭・渡辺半蔵の姿が明確に確認され、家康本人の着陣は動かぬ事実として確定した 11 。この最終報告は、西軍兵士たちの動揺を恐慌へと変えた。戦いは物理的な衝突が始まる前に、すでに心理戦の領域で西軍は完敗を喫していたのである。このままでは、戦わずして軍が崩壊しかねない。この絶望的な状況こそが、次なる一手、島左近による乾坤一擲の策を必要としたのである。
第三章: 鬼才・島左近の献策 ― 士気回復を賭けた一世一代の奇襲計画
西軍全体が総大将の登場という心理的衝撃によって崩壊の危機に瀕する中、一人の武将がこの絶望的な状況を打開すべく立ち上がった。石田三成の懐刀、島左近清興(しまさこんきよおき)である。彼の献策は、単なる戦術の提案に留まらず、崩れかけた西軍の士気を回復させるという、極めて高度な戦略目標を内包したものであった。
島左近は、当時すでに戦国武将としてその名を広く知られた存在であった。「治部少(三成)に過ぎたるものが二つあり、島の左近と佐和山の城」と謳われたことからも、その評価の高さが窺える 17 。三成が自身の禄高四万石の半分、二万石という破格の待遇で召し抱えたという逸話は、左近の器量がそれだけの価値を持つと三成が見抜いていた証左である 19 。左近は、ただ勇猛なだけの武辺者ではなかった。主君である三成に対しても、その戦略の誤りを臆することなく諫言するほどの気骨と、大局を見通す戦術眼を兼ね備えた、当代屈指の将器であった 19 。
眼前に広がる兵士たちの動揺と逃亡を目の当たりにした左近は、これ以上の士気の低下は致命的であると判断。主君・三成のもとへ進み出て、こう進言した。「もはやこの動揺を鎮めるには、まず一戦に及んでこちらの戦力を示す他に道はありますまい。敵を誘い出して攻め、状況を打診してみるべきかと存じます」 8 。これは、心理的な劣勢を、目に見える形での戦術的勝利によって覆すという、明確な目的意識に基づいた提案であった。敗北感に打ちひしがれる兵士たちに、再び「我々はまだ戦える、そして勝てるのだ」という自信を取り戻させることこそが、左近の真の狙いであった。
三成の承認を得た左近が立案した奇襲計画は、彼の戦術家としての才能が凝縮された、実に見事なものであった。その骨子は、敵の心理と地形を巧みに利用する三段構えの作戦から成っていた。
- 挑発と誘出: まず、少数の精鋭部隊で敵陣に接近し、敵を侮辱する行為(稲刈り)を行う。これにより、血気にはやる敵の一部、特に経験の浅い若い兵士たちを挑発し、陣からおびき出す。
- 誘引(偽装退却): 挑発に乗って突出してきた敵部隊と意図的に交戦し、ある程度のところで敗走を装う。敵に「勝っている」と錯覚させ、追撃の勢いを加速させることで、敵を自軍が有利な戦闘領域(キルゾーン)へと深く誘い込む。
- 伏兵と挟撃: あらかじめ杭瀬川の西岸、草むらや林の中に伏兵を配置しておく。敵部隊がこの地点まで到達した瞬間、伏兵が側面から奇襲をかけ、退路を遮断する。同時に、敗走を装っていた本隊が反転して正面から攻撃を加え、完全に包囲・挟撃して殲滅する。
この計画は、兵力で劣る側が、局地的に数的優位を作り出し、敵の油断と驕りを突いて勝利を得るための、戦術の教科書とも言うべきものであった。左近は、物理的な戦力差だけでなく、人間の心理という見えざる要素をも戦術に組み込んでいた。彼の献策は、崩壊寸前であった西軍にとって、まさに一縷の望みの光であった。
第四章: 合戦のリアルタイム再現 ― 杭瀬川の戦い、その詳細な時系列
主君・石田三成の承認を得た島左近の計画は、慶長5年9月14日の午後、実行に移された。関ヶ原決戦の前夜、美濃の地で繰り広げられたこの戦術的傑作の経過を、時間の流れと共に詳細に再現する。
表1:杭瀬川の戦いにおける両軍の主要部隊と推定兵力
この戦闘の全体像を把握するため、参戦した主要部隊を以下に示す。兵力については諸説あるが、各種記録から推定される数値を記す。
軍 |
主要指揮官 |
所属 |
役割 |
推定兵力 |
典拠資料 |
西軍 |
島 清興(左近) |
石田三成 家老 |
主攻・誘引部隊 |
約500 |
9 |
|
蒲生 郷舎(備中) |
石田三成 家臣 |
左近隊に所属 |
(左近隊に内数) |
1 |
|
明石 全登(掃部) |
宇喜多秀家 家臣 |
後詰・支援部隊 |
約800 |
9 |
東軍 |
中村 一栄 |
豊臣恩顧大名 |
前線部隊 |
(総兵力の一部) |
8 |
|
有馬 豊氏 |
豊臣恩顧大名 |
前線部隊 |
約900 (関ヶ原兵力) |
1 |
|
野一色 助義(頼母) |
中村一栄 家老 |
現場指揮官 |
(中村隊に内数) |
1 |
午後:出陣と布陣
島左近は、蒲生郷舎らを含む手勢約500を率いて大垣城を出陣した。これに呼応し、西軍の副将格である宇喜多秀家も、歴戦の勇将として知られる重臣・明石全登に約800の兵を与え、後詰部隊として出撃させた 9 。左近は計画通り、まず自軍の一部を杭瀬川の西岸、笠木村付近の草むらや森林に伏兵として巧みに潜ませた 8 。戦場の霧は、彼らの存在を完璧に隠したであろう。
刻一刻:挑発と誘引
準備を整えた左近は、自らが率いる本隊を前進させ、池尻口から杭瀬川を渡河した。そして、東軍の最前線に布陣する中村一栄の陣営の目前まで進み出ると、悠然と稲を刈り取り始める「苅田働き(かりたばたらき)」という、極めて侮辱的な挑発行為を開始した 8 。これは、敵の兵糧を奪うという実利以上に、敵の武威を公然と蔑む意味合いが強く、武士にとって耐え難い屈辱であった。
この光景を目の当たりにした中村隊の若い兵士たちは、案の定、激昂した。彼らは柵を乗り越えてでも討って出ようと殺気立つ。この時、中村家の家老であり、現場の指揮を執っていた野一色頼母(のいっしきたのも)助義は、これが敵の罠であることを見抜き、「川を越えて追ってはならぬ」と必死に制止しようとした 1 。しかし、左近の巧妙な挑発によって燃え上がった兵たちの血気は、老将の冷静な制止の声をもかき消してしまった。
衝突:偽装退却戦の妙技
ついに、抑えの効かなくなった中村隊の一部が突出を開始。これを見た隣の有馬豊氏隊も呼応し、杭瀬川の河原で西軍との戦闘の火蓋が切られた 8 。島左近は、しばらくの間、激しく応戦して見せた。両軍の鬨の声が響き渡り、鉄砲の硝煙が立ち込める。しかし、これも全ては彼の計算の内であった。左近は、あたかも敵の猛攻に「支えきれず」といった体で、計画通りに敗走を開始する 1 。この真に迫った退却戦に、中村・有馬の両隊は完全に欺かれた。勝利を確信した彼らは、勢いに乗って杭瀬川を渡り、深追いを開始したのである。
クライマックス:伏兵起動と挟撃
東軍部隊が杭瀬川を渡り、伏兵が潜む西岸に足を踏み入れた瞬間、戦場の様相は一変した。左近が合図の声を上げると、それまで息を殺して潜んでいた伏兵部隊が、追撃部隊の側面と背後から猛然と襲いかかった 1 。完全に退路を断たれた東軍は、不意の奇襲に狼狽する。さらに、敗走していたはずの左近本隊が突如として反転し、正面から挟撃を開始。そこへ後詰の明石全登隊も満を持して参戦し、東軍は三方から包囲される絶望的な状況に陥った 8 。
猛将の死:野一色頼母の最期
この乱戦の中、自らの制止を振り切って突出した部下たちを救うべく、最後まで踏みとどまって奮戦したのが、中村家家老・野一色頼母であった 1 。彼は禄高8,000石を食む猛将であり、金の三幣という派手な指物を掲げ、鳥毛の馬印を立てていたという 24 。しかし、衆寡敵せず、乱戦の中でついに討ち取られてしまった 8 。彼の死は、東軍の組織的抵抗力を完全に奪い、敗北を決定的なものにした。その亡骸は後に赤坂に手厚く葬られ、「兜塚」として今にその名を伝えている 2 。
終息:西軍の完勝
指揮官を失い、完全に包囲された東軍は総崩れとなり、一説に40名以上の死者を出すなど甚大な被害を受けて敗走した 8 。島左近と明石全登は、士気回復という当初の目的を十二分に達成したこと、そしてこれ以上の深追いは家康本隊の出撃を誘発する危険があると判断し、追撃を厳に戒めた。両将は悠々と兵をまとめ、勝ち鬨を上げながら大垣城へと凱旋したのである 9 。
第五章: 勝利の代償と失われた好機 ― 戦後の動向と軍議
杭瀬川における島左近の鮮やかな勝利は、その夜の西軍に大きな影響を及ぼした。それは、地に落ちた士気を劇的に高揚させるという正の側面と、その後の戦略決定において致命的な判断を誘発しかねない負の側面を併せ持つ、諸刃の剣であった。
大垣城に凱旋した西軍は、城下の牛屋村遮那院の門前で、戦で討ち取った敵兵の首を検分する「首実検」を大々的に執り行った 1 。古記録によれば、「大垣方よき首三十二取り、また雑兵首は石田の手へ八十四、浮田の手へ六十四取りたり」とあり、その戦果の大きさが窺える 1 。徳川家康の着陣という報に震え上がっていた兵士たちにとって、この目に見える勝利の証は、何よりの妙薬であった。西軍の士気は、この首実検によって劇的に回復したのである 1 。
この勝利の勢いに乗り、その夜、大垣城では重要な軍議が開かれた。この席で、島左近、そして薩摩の島津義弘が、赤坂の家康本陣への夜襲を強く進言したという逸話が、後世の編纂物である『落穂集』などに記されている 27 。島津義弘の代理として出席した甥の島津豊久が、「今宵の勝利で油断しているであろう家康の旗本へ夜襲を掛けるべきであり、島津がその先鋒を務めましょう」と提案したというのである 27 。
しかし、石田三成はこの大胆な提案を却下したとされる。その理由として、「天下分け目の戦に夜襲のような小細工はふさわしくない」という三成の潔癖さを示すものや、諸将の統制が取れておらず夜襲の成功はおぼつかないという現実的な判断があったなど、諸説が語られている 29 。
ただし、この夜襲提案の逸話には、歴史的信憑性の観点から慎重な検討が必要である。第一に、九州の大名である島津氏が、土地勘の全くない美濃の地で、闇夜に乗じた夜襲の先鋒を務めるというのは、戦術的に極めて不自然かつ危険である 31 。第二に、局地戦で手痛い敗北を喫した直後の東軍が、警戒を怠って油断しているとは考え難い。家康ほどの老練な武将が、敵の追撃や夜襲に備えないはずはなく、むしろ警戒網は厳重になっていたと考えるのが自然であろう 31 。これらの点から、この逸話は、関ヶ原の本戦で島津軍が積極的に動かなかったことを正当化するため、あるいは三成の器量の小ささを強調するために、後世に創作された可能性が高いと分析される。
結局、夜襲案は採用されることなく、西軍首脳部は最終的な戦略決定を下す。それは、堅固な大垣城を放棄し、全軍を西方の関ヶ原盆地へ移動させ、そこで陣を構えて東軍を迎え撃つというものであった 10 。その夜、降りしきる雨に紛れて、西軍は関ヶ原への大移動を開始した。
この西軍の動きは、赤坂の家康の許へ即座に報じられた 32 。家康にとって、これはまさに待ち望んだ展開であった。彼の最大の懸念は、西軍が大垣城に籠城し、戦いが長期化することであった。杭瀬川での局地的な敗北は、結果として西軍に「野戦でも勝てる」という自信(あるいは過信)を植え付け、彼らを城から誘い出すことに成功したのである 5 。島左近の戦術レベルでの大勝利は、皮肉にも、家康が描いた戦略レベルでの大目標の達成に貢献してしまった。戦史における、局所的成功が大局的失敗に繋がるという逆説的な一例が、ここに見られるのである。
結論: 関ヶ原前夜に放たれた一閃の光芒 ― 杭瀬川の戦いの歴史的意義
慶長5年9月14日に行われた杭瀬川の戦いは、関ヶ原の戦いという巨大な歴史叙事の中に埋もれがちな、わずか半日ほどの局地戦に過ぎない。しかし、その歴史的意義を深く考察する時、この戦いが単なる前哨戦という言葉では到底表現しきれない、決定的な重要性を持っていたことが明らかになる。
第一に、この戦いは「鬼才・島左近」という稀代の戦術家の軍事的才能を、後世に鮮やかに伝える最高の証明である。家康着陣によって崩壊寸前に陥った軍の心理状態を正確に見抜き、「士気回復」という明確な戦略目標を設定。その達成のために、挑発、偽装退却、伏兵、挟撃という戦術の定石を完璧に組み合わせ、兵力で優る敵を完膚なきまでに打ち破った。その手腕は、戦国時代屈指の妙技と評価して過言ではない。
第二に、西軍にとって、この勝利は関ヶ原の戦いにおける「最後の勝利」であった。前哨戦での連敗と家康の登場によって絶望の淵にあった西軍に、一瞬ではあったが「我らはまだ戦える」という強烈な光をもたらした。この一瞬の輝きは、翌9月15日に訪れる、小早川秀秋の裏切りに端を発する組織的崩壊と悲劇的な結末との対比を、より一層際立たせる効果を持つ。
第三に、そして最も重要な点は、この戦いが東西両軍を決戦の地、関ヶ原へと向かわせた直接的な導火線となったことである。杭瀬川での勝利がなければ、西軍は士気低いまま大垣城に籠城し続け、関ヶ原であのような大規模な野戦が行われることはなかったかもしれない。戦術的勝利によって得た自信が、西軍首脳部に「関ヶ原での野戦」という戦略的決断を促し、それが結果として家康の思う壺にはまるという皮肉な結末を迎えた。この意味において、杭瀬川の戦いは、まさに歴史の歯車を大きく回した転換点となる出来事であった。
歴史に「もしも」は許されないが、もし三成が左近や島津の夜襲案(その真偽はともかく)を採用していたら、あるいは籠城戦を継続していたら、天下の趨勢は変わっていたかもしれない。杭瀬川の戦いは、そうした歴史の可能性を我々に想起させると同時に、一人の卓越した武将が放った一閃の光芒が、いかに大きな歴史のうねりを生み出すかを見事に示している。それは、関ヶ原前夜の暗闇に輝いた、西軍最後の、そしてあまりにも見事な勝利の残光であった。
引用文献
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- 関ケ原の戦い「最後の前哨戦」軍師・島左近、東軍勢をほんろう 杭瀬川の戦い(大垣市) - 岐阜新聞 https://www.gifu-np.co.jp/articles/-/312705
- 関ヶ原合戦岡山本陣跡 - 大垣市赤坂町/観光名所 | Yahoo!マップ https://map.yahoo.co.jp/v3/place/77qHr8p5ZbM
- 勝山(家康本陣跡):赤坂宿 - 岐阜県十七宿美濃中山道散策ガイド https://www.nakasendo.gifu.jp/guide/spot.php?p=14&s=00232
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- “三成に過ぎたるもの”と称された猛将!「島左近」の家紋とは? | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/1211
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- 島左近(嶋左近)の歴史 /ホームメイト - 戦国武将一覧 - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/37254/
- 島左近・石田三成陣地跡及び最後決戦跡 | なんとなく城跡巡り https://siroatomeguri.blog.fc2.com/blog-entry-692.html
- 島津義弘と石田三成について⑩-関ヶ原の戦い、島津退き口 - 古上織蛍の日々の泡沫(うたかた) https://koueorihotaru.hatenadiary.com/entry/2018/12/02/070503
- (わかりやすい)関ヶ原の戦い https://kamurai.itspy.com/nobunaga/sekigahara.htm