道南十二館の乱(1512)
北の謀略 ― 永正九年「道南十二館の乱」の真相と松前藩黎明への道程
序章:永正九年、蝦夷地に走った激震
永正九年(1512年)、本州が戦国の動乱に深く沈み込む中、北の辺境、蝦夷地(現在の北海道南部)においても、その後の歴史を決定づける激震が走った。松前藩の公式史書である『新羅之記録』によれば、この年の四月、アイヌ勢力が蜂起し、和人の拠点であった宇須岸館(うすけしだて、現在の函館市元町)、志苔館(しのりだて、同市志海苔町)、そして与倉前館(よくらまえだて、同市高松町)が相次いで攻め落とされ、各館主は討死を遂げたとされる 1 。この事件は、表面的には和人とアイヌの民族対立が再び燃え上がったものとして記録されている。
しかし、この動乱は本当に単なる「夷狄蜂起」だったのであろうか。史料を深く読み解き、当時の政治力学を分析すると、そこにはより複雑で、冷徹な権力闘争の構図が浮かび上がってくる。すなわち、この事件は、当時上ノ国(かみのくに)を拠点としていた蠣崎光広(かきざきみつひろ)が、道南における和人社会の覇権を確立するために仕組んだ、壮大な謀略であったとする説が有力視されているのである 3 。
本報告書は、この永正九年の動乱を、単なる民族紛争としてではなく、戦国時代という日本史の大きな文脈の中に位置づけ、蠣崎氏による道南統一戦略の画期をなす「謀略」として再解釈することを目的とする。その分析にあたっては、唯一無二の詳細な記録である『新羅之記録』の記述を尊重しつつも、それが蠣崎氏、すなわち後の松前藩の視点から編纂された後世の史書であることを常に念頭に置かねばならない 6 。考古学的知見や他の記録と照らし合わせ、事件の多層的な構造を解き明かし、この北の謀略が、いかにして松前藩の黎明へと繋がっていったのか、その道程を徹底的に検証する。
第一部:「乱」前夜 ― 緊迫する北の大地
永正九年(1512年)の事件は、突発的に発生したものではない。その根底には、半世紀以上にわたって醸成されてきた和人とアイヌの緊張関係、そして和人領主たちの間での熾烈な主導権争いが存在した。この動乱が起こるべくして起こった必然性を、15世紀半ばまで遡り、その歴史的背景から解き明かす。
第一章:和人たちの砦「道南十二館」― 交易と緊張の最前線
14世紀から15世紀にかけて、本州から渡来した和人(当時シャモと呼ばれた)は、蝦夷地南部の渡島半島沿岸に「館(たて)」と呼ばれる fortified settlements を次々と築いた 9 。これらは松前藩の史書『新羅之記録』に12の主要な館が記されていることから、「道南十二館」と総称される 5 。これらの館は、アイヌとの交易によって莫大な利益を生み出す経済拠点であると同時に、アイヌの襲撃から身を守るための軍事拠点という二面性を持っていた 5 。
名目上、十二館の館主たちは津軽を本拠とする安東氏の被官であり、その権威の下で統制されていた 13 。当時の道南は、安東氏によって「上ノ国」(上ノ国町周辺)、「松前」(松前町周辺)、「下ノ国」(北斗市周辺)の三つの地域に分けられ、それぞれに守護が置かれるという分轄統治体制が敷かれていた 14 。しかし、この体制は各館主の自立性を許し、彼らが群雄割拠する不安定な権力構造を生み出す土壌ともなった。
考古学的な調査は、これらの館が単なる辺境の砦ではなかったことを雄弁に物語る。例えば、志苔館の発掘調査では、15世紀前半を主体とする中国産の青磁や白磁、珠洲焼といった高級陶磁器が多数出土している 5 。さらに特筆すべきは、1968年に館の近隣から発見された、3つの大甕に納められた約37万枚にも及ぶ古銭である 5 。これは一箇所からの出土量としては日本国内最大級であり、道南が日本海交易の重要な結節点として、活発な経済活動の中心地であったことを示している。和人たちは、アイヌがもたらす毛皮や海産物を仲介し、本州との交易で巨万の富を築いていたのである。
表1:道南十二館一覧
館名 |
所在地(現在地名) |
主要な館主(コシャマインの戦い当時) |
1512年の乱における動向 |
志苔館 |
函館市志海苔町 |
小林太郎左衛門尉良景 |
攻撃対象、陥落 |
宇須岸館(箱館) |
函館市元町 |
河野加賀右衛門尉政通 |
攻撃対象、陥落 |
茂別館 |
北斗市矢不来 |
下国安東八郎式部家政 |
不明(コシャマイン戦では残存) |
中野館 |
木古内町中野 |
佐藤三郎左衛門尉季則 |
不明 |
脇本館 |
知内町涌元 |
南條治郎少輔季継 |
不明 |
穏内館 |
福島町館崎 |
蒋土甲斐守季直 |
不明 |
覃部館 |
松前町東山 |
今井刑部少輔季友 |
不明 |
大館 |
松前町神明 |
下国山城守定季、相原周防政胤 |
蠣崎氏による後の拠点 |
禰保田館 |
松前町館浜 |
近藤四郎右衛門尉季常 |
不明 |
原口館 |
松前町原口 |
岡辺六郎左衛門尉季澄 |
不明 |
比石館 |
上ノ国町石崎 |
厚谷右近将監重政 |
不明 |
花沢館 |
上ノ国町上ノ国 |
蠣崎修理大夫季繁 |
蠣崎氏の当初の拠点 |
典拠:
5
第二章:コシャマインの戦いと蠣崎氏の黎明
道南十二館を基盤とする和人社会の繁栄は、常にアイヌとの緊張関係の上に成り立っていた。そして康正二年(1456年)、和人の鍛冶屋とアイヌの青年との間の些細な口論が引き金となり、蓄積された不満が爆発する 4 。翌長禄元年(1457年)、アイヌの首長コシャマインを総大将とする大規模な蜂起が発生した 6 。これは「コシャマインの戦い」と呼ばれ、和人とアイヌの間に起こった最初の全面戦争であった 21 。
アイヌ軍の勢いは凄まじく、道南十二館のうち、西端の花沢館と茂別館を除く10の館が次々と陥落し、和人社会は壊滅の危機に瀕した 22 。この絶望的な状況を覆したのが、当時、花沢館主・蠣崎季繁(かきざきすえしげ)の客将であった武田信広(たけだのぶひろ)である。信広は敗走する和人軍を巧みに指揮し、コシャマイン父子を討ち取るという大功を挙げた 4 。
この戦いは、道南の勢力図を根底から塗り替える契機となった。まず、10もの館が有効な連携を取れずに各個撃破された事実は、従来の館主連合体制が軍事同盟として極めて脆弱であったことを露呈した。この大敗北は和人社会に強烈な危機感を植え付け、乱世を収拾できる強力な単一のリーダーシップを待望する空気を作り出した。その期待を一身に背負ったのが、英雄・武田信広であった。彼はその功績により蠣崎季繁の婿養子として迎えられ、蠣崎氏の家督を継承する 4 。ここに、後の松前藩へと続く蠣崎氏の支配が実質的に始まったのである。
信広は花沢館の西に、より大規模で堅固な勝山館を新たに築城し、ここを政治・軍事・交易の中心とした 27 。これにより、蠣崎氏は他の館主たちから頭一つ抜け出た存在となり、その権力基盤を確固たるものにした。蠣崎氏の支配者としての正当性は、当初から「アイヌを制圧する武力」に依拠していた。このアイデンティティは、信広の子であり、父が築いた基盤の上に道南統一という野望を抱くことになる光広へと、色濃く受け継がれていくのである 30 。
第二部:合戦の時系列再現 ― 永正九年の動乱
永正九年(1512年)の動乱は、複数の史料や状況証拠から、蠣崎光広によって周到に計画された政変であった可能性が極めて高い。ここでは、その経過を時系列に沿って再現し、事件のリアルタイムな様相に迫る。
第一章:謀略の火蓋 ― 光広、動く
16世紀初頭、蠣崎氏の勢力は伸長したとはいえ、道南は依然として複数の和人勢力が割拠する状態にあった。父・信広の遺志を継ぎ、道南の完全統一を目指す光広にとって、最大の障害は、旧来の権威である松前守護職を世襲する相原氏、そして津軽海峡に面し、太平洋側の交易利権を独占する宇須岸館の河野氏と志苔館の小林氏であった 4 。
彼らを自らの手で直接攻撃すれば、他の和人館主たちの反発を招き、内乱に発展しかねない。そこで光広は、より狡猾な策を巡らせたと考えられている。すなわち、和人との交易において不満を募らせていた東部のアイヌ勢力を密かに扇動し、その怒りの矛先を政敵である河野・小林両氏に向けさせるという、「夷を以て夷を制す」の策である 4 。『新羅之記録』がこの事件をアイヌの自発的な蜂起として描いているのは 2 、この光広の謀略を隠蔽し、後の蠣崎氏による「鎮圧」と「統一」という行為を正当化するための、巧みな歴史叙述であったと解釈できる。
第二章:東部三館、炎上 ― リアルタイム再現
【永正九年(1512年)四月】
(時系列1)蜂起の狼煙
永正九年四月、蠣崎光広による長年の調略がついに実を結び、東部のアイヌ勢力が一斉に蜂起した。彼らの最初の目標は、函館湾の入り口に位置し、太平洋側交易の要衝である宇須岸館であった。
(時系列2)宇須岸館の攻防
館主・河野季通(こうのすえみち)は、突如として押し寄せたアイヌ軍の猛攻に晒される。宇須岸館は「箱館」の語源ともなった交易拠点であり、経済的には繁栄していたが、大規模な軍事侵攻を想定した堅固な城塞ではなかった 10。数日にわたる必死の攻防も虚しく、衆寡敵せず館は陥落。季通は父・政通らを落ち延びさせた後、燃え盛る館の中で自害して果てたと伝えられる。
(時系列3)志苔館の悲劇
宇須岸館を攻略し、勢いに乗るアイヌ軍は、間髪入れずに次なる目標、志苔館へと殺到した。館主・小林良定(こばやしよしさだ)にとって、これは悪夢の再来であった。彼の父・良景もまた、半世紀前のコシャマインの戦いでこの地を守り、命を落としていたからである 25。志苔館は二重の堀と高い土塁を備えた、当時としては屈指の堅城であった 5。しかし、宇須岸館からの敗残兵を吸収する間もなく、圧倒的な兵力差の前に防衛線は次々と破られ、良定もまた父の後を追うように討死を遂げた 1。
(時系列4)与倉前館の運命
東部における二大拠点を相次いで失ったことで、和人たちの戦線は完全に崩壊した。志苔館の支城であった与倉前館も、もはや抵抗する術なく陥落し、館主の小林季景も戦火の中に消えた 1。
(時系列5)西部の静寂
この間、上ノ国に本拠を置く蠣崎光広は、一切軍を動かさなかった。東部が阿鼻叫喚の地獄と化している中、彼の勢力圏である道南西部は、不気味なほどの静寂を保っていた。これは、彼がこの動乱の黒幕であり、政敵がアイヌの手によって排除されていく様を、静かに見届けた最大の受益者であったことを、何よりも雄弁に物語っている。
この一連の攻撃は、軍事行動であると同時に、極めて合理的な経済戦略であった。宇須岸館と志苔館は、本州から太平洋ルートで蝦夷地へ向かう交易船を掌握する「チョークポイント」に位置していた。蠣崎氏は日本海側の交易は抑えていたものの、太平洋側はライバルの手にあった。この三館を物理的に消滅させることで、光広は蝦夷地への全ての交易ルートを独占する体制を築き上げたのである。この事件は、表面上は和人とアイヌの民族紛争でありながら、その実態は蠣崎氏による他の和人領主の打倒、すなわち「下剋上」を目的とした、二つの対立軸が複雑に絡み合ったハイブリッド型の戦乱であったと言える。
第三部:北の覇者、誕生す ― 乱後の新秩序
永正九年の動乱は、一つの時代の終わりであり、新たな時代の始まりであった。この事件は終着点ではなく、蠣崎氏による道南完全掌握という、壮大な物語の序章に過ぎなかった。乱がもたらした権力構造の不可逆的な変化は、その後の北海道史を大きく規定していくことになる。
第一章:「用済み」の駒 ― ショヤコ-ジ兄弟の戦い
永正九年の蜂起を主導し、光広の政敵排除に「貢献」したアイヌの首長、ショヤコウジ兄弟は、その功績ゆえに、今や光広にとって危険な存在となっていた。彼らの武力と影響力は、いつ蠣崎氏自身に向けられるか分からない諸刃の剣であった。自らの覇権を盤石にするため、光広は非情な決断を下す。用済みとなった駒を排除するための、謀略の第二幕が始まった 25 。
永正十二年(1515年)、光広は松前の大館にショヤコウジ兄弟を招いた。表向きは、これまでの戦功を労い、和睦を固めるための酒宴であった。何の疑いも抱かずに館を訪れた兄弟を、光広は手厚くもてなした。しかし、宴がたけなわとなり、兄弟が酒に酔い、完全に油断したその瞬間、光広は自ら抜刀し、彼らを斬殺したと伝えられる 3 。この卑劣な騙し討ちにより、蠣崎氏は自らの覇権確立に利用したアイヌの有力勢力をも完全に制圧し、道南における絶対的な地位を確立したのである。
この時、光広が用いた刀は、父・信広が蠣崎季繁から受け継いだ家宝「来国俊」であったという 3 。殺されたアイヌたちは館の近くに埋められ、その場所は「夷塚」と呼ばれた。後年、蠣崎氏がアイヌに出兵しようとすると、この塚から呻き声が聞こえたという伝説が残っている 3 。この逸話は、この謀殺がいかに凄惨で、人々の記憶に深く刻まれた出来事であったかを物語っている。
第二章:松前への道 ― 新時代の拠点
永正九年の動乱と並行して、光広はもう一つの重要な布石を打っていた。永正十一年(1514年)、彼は本拠地を、それまでの山城である上ノ国・勝山館から、港湾都市である松前・大館へと移転したのである 7 。
この本拠地移転は、単なる居城の変更以上の、極めて重要な戦略的意味を持っていた。第一に、防御を主眼とした山城から、交易の中心地である港湾部へ拠点を移すことで、蠣崎氏の支配体制が軍事優先から経済優先へと大きく舵を切ったことを内外に示した 33 。第二に、移転先の大館は、かつて光広が滅ぼした松前守護・相原氏の拠点であった 2 。その地へ堂々と入城することは、旧来の権威を完全に過去のものとし、自らが名実ともに道南の新たな支配者となったことの力強い宣言であった。そして第三に、松前は津軽の十三湊と海を挟んで向き合う絶好の位置にあり、本州の中央政権との連携を強化し、より大きな政治的舞台へ進出するための窓口としての役割を担うことになる 36 。
第三章:戦国大名・松前氏の礎
永正九年の乱と、それに続くショヤコウジ兄弟の粛清を経て、かつて道南に割拠した十二館の館主たちは、蠣崎氏に臣従するか、歴史の闇に消えるかの道を辿った。館主たちの連合体制は完全に崩壊し、蠣崎氏を頂点とする一元的な支配体制がここに確立された 5 。
蠣崎氏の成功の要因は、本州の戦国大名とは全く異なる、独自の「ビジネスモデル」を確立した点にある。米の収穫が期待できない蝦夷地において、彼らは米の石高ではなく、アイヌとの交易から生まれる莫大な利益を権力の源泉とした 38 。永正九年の乱は、このビジネスモデルの根幹である「交易ルートの独占」を完成させるための、いわば敵対的買収(M&A)であったと言える。
武力と謀略でアイヌを制圧した後、蠣崎氏は一方的な支配者として新たな秩序を構築していく。光広の孫・季広(すえひろ)の代には、アイヌの有力者との間に「夷狄の商舶往還の法度」が定められ、和人とアイヌの交易は蠣崎氏の厳格な管理下に置かれることになった 26 。これは、後の松前藩によるアイヌ交易の独占支配体制の原型となる。この一連の出来事を通じて、蠣崎氏は蝦夷地における「和人の代表者」から、和人もアイヌも統べる「蝦夷地の支配者」へと、その自己認識と権力構造を大きく変容させた。この変化こそが、後の松前藩による「和人地」と「蝦夷地」の境界設定と、アイヌに対する間接統治体制へと繋がっていくのである 42 。
道南の支配を盤石にした蠣崎氏は、その経済力を背景に、豊臣秀吉、徳川家康といった中央政権へ積極的に接近し、蝦夷地における交易独占権の公的な承認を取り付けることに成功する 7 。これにより、蠣崎氏は単なる一地方豪族から、中央に公認された「戦国大名」へと脱皮を遂げ、近世大名・松前藩への道を完全に切り拓いたのであった。
結論:「道南十二館の乱」が歴史に刻んだもの
永正九年(1512年)に蝦夷地を揺るがした「道南十二館の乱」は、松前藩の公式史書が語るような、単純な民族紛争の再燃ではなかった。それは、蠣崎光広という一人の武将の冷徹な野心と周到な謀略によって引き起こされ、半世紀にわたって続いた道南の群雄割拠時代に終止符を打った、決定的な政変であった。
この事件を通じて、蠣崎氏は、交易利権を争うライバルの和人勢力を一掃し、潜在的な脅威であったアイヌの有力者をも屈服させた。そして、蝦夷地における全ての交易ルートを掌握することで、経済的にも軍事的にも絶対的な支配者へと飛躍を遂げたのである。この一連の出来事は、後の松前藩成立に至る道筋を決定づけた、いわば「北の関ヶ原」とも言うべき重要性を持つ。
本州の戦国史が土地(石高)を巡る争いであったのに対し、この北の戦国史は、交易という「利権」を巡る争いであった。そこには、和人同士の下剋上と、和人とアイヌの民族関係が複雑に絡み合っており、辺境ならではの権力闘争の特質が色濃く表れている。永正九年の謀略がなければ、蠣崎氏の覇権確立は大幅に遅れ、あるいは全く異なる勢力が台頭していた可能性も否定できない。その意味で、この事件はその後の北海道史の潮流を決定づけた分水嶺であり、その歴史的意義は計り知れない。
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