最終更新日 2025-09-05

長久手の戦い(1584)

信長没後、秀吉と家康が唯一直接対決した長久手の戦い。家康は軍事的勝利も、信雄の単独講和で秀吉が政略勝ちし、天下統一を加速させた。

長久手の戦い(1584年):秀吉と家康、唯一の直接対決の全貌

第一章:天下人への道程:小牧・長久手の戦い、開戦に至る経緯

天正12年(1584年)に勃発した長久手の戦いは、単発の戦闘ではなく、織田信長の死によって生じた巨大な権力の空白を巡る、必然的な衝突であった。この戦いの根源を理解するためには、本能寺の変以降、羽柴秀吉が如何にしてその地位を築き上げ、そして徳川家康がなぜ彼と対峙するに至ったのか、その複雑な政治力学を解き明かす必要がある。

1-1. 本能寺の変後の権力闘争:羽柴秀吉の台頭

天正10年(1582年)6月2日、織田信長が本能寺にて明智光秀の謀反により自刃すると、日本の政治情勢は一気に流動化した 1 。この未曾有の危機に対し、中国地方で毛利氏と対陣中であった羽柴秀吉は、驚異的な速度で軍を反転させ(中国大返し)、山崎の戦いで光秀を討伐。主君の仇を討ったことで、織田家内での発言権を飛躍的に増大させた 2

信長亡き後の織田家の後継者を決定する清洲会議において、秀吉は信長の嫡孫・三法師(後の織田秀信)を擁立することで主導権を握る 2 。これに反発した織田家の筆頭宿老・柴田勝家は、信長の三男・織田信孝を担ぎ対抗姿勢を鮮明にする。両者の対立は翌天正11年(1583年)4月の賤ヶ岳の戦いで頂点に達し、秀吉はこの戦いに勝利。敗れた勝家は自刃し、信孝も兄である織田信雄によって攻められ、自害に追い込まれた 2 。これにより、秀吉は織田家中で対抗しうる勢力を一掃し、事実上の信長後継者としての地位を確立した。

1-2. 織田信雄と徳川家康の同盟:反秀吉包囲網の形成

秀吉の権勢が日に日に強まる中、信長の次男である織田信雄は、自らが父の後継者であるという自負と、秀吉への強い警戒心を抱いていた。秀吉が信雄を安土城から退去させ、さらに信雄の重臣たちを懐柔しようと画策したことで、両者の関係は修復不可能なレベルまで悪化する 2

そして天正12年(1584年)3月6日、信雄は秀吉に内通したとして、自身の家老であった津川義冬、岡田重孝、浅井長時の三名を処断。これは秀吉に対する明確な宣戦布告であった 2 。単独では秀吉の大軍に対抗できないと判断した信雄は、父・信長の盟友であり、当時五カ国を領する大名となっていた徳川家康に救援を要請した 3

家康にとって、この要請は単なる隣国からの救援依頼以上の意味を持っていた。彼はこれを、信長との旧交を重んじ、その遺児を助けるという「大義名分」を掲げる絶好の機会と捉えた 6 。家康の家臣・榊原康政が起草したとされる檄文には、「秀吉は信長公への大恩を忘れ、その子らを虐殺する大逆無道者であり、我が主君家康は信義を重んじて信雄公を助けるために決起した」という趣旨が記されており、この戦いを「義戦」として位置づけようとする徳川方の強い意志がうかがえる 1

この織田・徳川同盟の結成に呼応し、各地で反秀吉の気運が高まる。紀州の雑賀衆・根来衆、四国の長宗我部元親、北陸の佐々成政、そして関東の北条氏政・氏直といった大名たちが連携し、広域にわたる「秀吉包囲網」が形成された 3 。この戦いの本質は、単なる秀吉と家康の二者間の対決ではなく、秀吉を新たな天下人と認めるか、あるいは織田家の正統な血筋の下で体制を再建するかの、「織田政権の再定義」を巡る全国規模の争いであった。家康の行動原理は、あくまで「織田信雄の援軍」という立場にあり、この大義名分こそが、後の戦役全体の帰趨を決定づける重要な鍵となる。

1-3. 開戦初期の動向:尾張を巡る攻防

天正12年3月13日、家康が信雄の居城・清洲城に到着したその日、秀吉方への寝返りを決断した池田恒興が、織田方の重要拠点である犬山城を奇襲し占拠した 3 。これにより、戦いの火蓋は尾張国で切られることとなった。

家康の反応は迅速であった。彼は犬山城陥落の報を受けると、すぐさま翌々日の15日には、かつて信長が美濃攻略の拠点とした戦略的要衝・小牧山城に入城 12 。ここに本陣を構え、秀吉軍の南下を阻止する断固たる姿勢を示したのである。

第二章:尾張対陣:小牧山と楽田の睨み合い

開戦初期の機動戦を経て、両軍の主力は尾張北部で対峙し、長期間にわたる睨み合いへと移行した。この時期、戦いは大規模な陣城の構築と、相手の出方を探るための小競り合いに終始し、戦役は膠着状態に陥った。

2-1. 家康の小牧山要塞化

小牧山城に入った家康は、圧倒的な兵力で勝る秀吉軍に対抗するため、徹底した防御戦略を採用した。彼は徳川四天王の一人、榊原康政に命じ、小牧山城の大規模な改修に着手させる 14 。驚くべきことに、わずか5日間で高さ最大8メートルにも及ぶ長大な土塁や幾重もの空堀が築かれ、小牧山一帯は難攻不落の一大要塞へと変貌を遂げた 3

さらに家康は、小牧山城単体での防御に留まらず、蟹清水砦、北外山砦、宇田津砦といった支城を周辺に配置し、それらを連携させることで、清洲城や本国三河との補給線を確保する重層的な防衛ネットワークを構築した 5 。これは、兵力差を地の利と防御施設で補い、持久戦に持ち込もうとする家康の明確な戦略意図の現れであった。

2-2. 秀吉の楽田着陣と対抗陣地

家康の動きに対し、秀吉もまた迅速に対応する。3月28日、秀吉は自ら大軍を率いて大坂を発ち、小牧山から北へ約4.5キロメートルの地点にある楽田城に本陣を構えた 4 。秀吉もまた、二重堀、岩崎山、青塚といった地に砦を築き、小牧山を圧迫・包囲するための陣城群を構築。これにより、両軍は巨大な要塞群を挟んで対峙するという、壮大な光景が出現した 5

この時点での両軍の兵力差は歴然としていた。織田・徳川連合軍が約1万7千から3万程度であったのに対し、秀吉軍は6万から10万という大軍を動員しており、戦力比は3倍以上であったと推定される 4

2-3. 羽黒の戦い:徳川軍の機先を制した奇襲

膠着状態が続く中、最初の本格的な衝突は3月17日に発生した。秀吉軍の先鋒である森長可が、味方の池田恒興隊と連携しようと犬山城から南下し、突出した形で羽黒に布陣した 12

この動きを徳川方の情報網は即座に察知した。家康は好機と判断し、同日夜半、酒井忠次や松平家忠ら約5,000の兵を密かに出陣させる。翌17日未明、徳川軍は羽黒の森勢を奇襲した。森勢は奥平信昌隊の攻撃を一度は押し返したものの、側面から回り込んだ松平家忠の鉄砲隊による一斉射撃を受け混乱。さらに酒井忠次隊が背後に回り込もうとする動きを見せたため、森長可は敗走を余儀なくされた。この戦いで森勢は300名以上の死者を出す手痛い敗北を喫した 3

この羽黒の戦いにおける勝利は、兵力で劣る織田・徳川連合軍の士気を大いに高めるものであった。それと同時に、家康の卓越した情報収集能力、迅速な意思決定、そして的確な奇襲戦術の実行能力を、秀吉陣営に見せつける結果となったのである 19

第三章:乾坤一擲の奇策:「三河中入り」作戦の全貌

小牧山での対陣が約一ヶ月に及び、戦況が完全に膠着する中、秀吉陣営はこの状況を打破すべく、大胆不敵な大規模迂回奇襲作戦を立案する。後に「三河中入り(なかいり)」と呼ばれるこの作戦は、戦役全体の転換点となる長久手の戦いを引き起こす直接の原因となった。

3-1. 作戦の発案と目的:誰が奇策を主導したか

天正12年4月4日、秀吉は楽田の本陣で軍議を開いた 14 。通説によれば、この席で羽黒の戦いで敗北を喫した池田恒興が、汚名返上を期して熱心に献策したとされる 17 。その内容は、「家康主力が小牧山に釘付けになっている今、その本拠地である三河・岡崎城を別働隊で奇襲すれば、家康は必ずや動揺し小牧山から動かざるを得ない。そこを秀吉本隊と挟撃すれば、勝利は確実である」というものであった 6 。羽黒で同じく敗れた森長可も、この作戦に強く同調したと見られている 22

しかし、近年の研究では、この作戦の主導権が本当に恒興にあったのか、疑問が呈されている。秀吉が重臣の丹羽長秀に宛てた書状などから、この作戦は元々秀吉自身が構想しており、恒興はその意を汲んで進言したに過ぎない、という見方である 12 。あるいは、結果的に作戦が失敗したため、秀吉がその責任を恒興に転嫁した可能性も指摘されている 21 。いずれにせよ、この奇策は秀吉の承認のもと、実行に移されることとなった。

3-2. 別働隊の編成と兵力

秀吉は「三河中入り」作戦の実行を許可し、総勢約2万から2万4千にも及ぶ大規模な別働隊を編成した 6 。その陣容は、秀吉軍の中でも屈指の精鋭部隊で構成されていた。

各部隊の序列と推定兵力は以下の通りである。

  • 第一隊:池田恒興・元助・輝政 (兵力 約6,000) 14
  • 第二隊:森長可 (兵力 約3,000) 14
  • 第三隊:堀秀政 (兵力 約3,000) 14
  • 第四隊(総大将):羽柴秀次(三好信吉) (兵力 約8,000) 14

総大将には、秀吉の甥である羽柴秀次(当時17歳)が任じられた。そして、その脇を織田家譜代の重臣である池田恒興、「鬼武蔵」の異名を持つ猛将・森長可、そして戦巧者として知られる堀秀政といった歴戦の将たちが固めるという、強力な布陣であった。

3-3. 進軍開始と徳川方の情報察知

4月6日の夜半、秀次を総大将とする別働隊は、楽田の陣を密かに出発した 1 。小牧山の徳川軍にその動きを悟られぬよう、彼らは東部の丘陵地帯を大きく迂回する進軍路を選択し、一路岡崎を目指した 12

しかし、この大規模な軍勢の移動を完全に秘匿することは不可能であった。作戦の成否は、その秘匿性に大きく依存していたが、家康の情報網は秀吉方のそれを遥かに凌駕していた。4月7日、別働隊が尾張東部の上条村に砦を築き宿営していた際、その様子を目撃した篠木村の住民が、小牧山の家康本陣に急報を届けたのである 5 。この迅速な情報伝達には、家康が組織していた伊賀衆などの忍者集団も関与していた可能性が指摘されている 25

この作戦の成否は、軍事行動そのものよりも、この「情報戦」の段階で既に決していたと言える。奇襲をかける側であったはずの秀吉軍の動きは、家康に完全に看破されていた。情報を得た家康の決断は迅速かつ的確であった。彼は即座に迎撃を決定。4月7日の夜には水野忠重、榊原康政らを将とする先遣隊を小牧山から出撃させ、自身も翌8日の夜には信雄と共に主力を率いて出陣、小幡城へと駒を進めた 14 。これは、敵の奇襲作戦の、さらにその側面を突くという、家康の卓越した戦術眼を示すものであり、戦いの主導権は完全に家康の手に渡ったのである。

第四章:天正十二年四月九日:長久手合戦、刻一刻

天正12年4月9日、この日の戦いは、複数の戦場が連動して展開する、極めて複雑かつ流動的な様相を呈した。夜明け前の岩崎城での衝突を皮切りに、白山林、桧ヶ根、そして仏ヶ根へと、戦火は次々と場所を移しながら拡大していく。ここでは、刻一刻と変化する戦況を、各部隊の動きと将帥の意思決定に焦点を当て、時系列に沿って再現する。

【表1】長久手の戦い 主要両軍戦闘序列表

勢力

部隊

主要指揮官

推定兵力

当日の初期目標・役割

羽柴軍別働隊

第一隊

池田恒興、池田元助、池田輝政

約6,000

岡崎城への進軍(先鋒)

第二隊

森長可

約3,000

岡崎城への進軍

第三隊

堀秀政

約3,000

岡崎城への進軍

第四隊

羽柴秀次(総大将)

約8,000

岡崎城への進軍(本隊)

徳川・織田軍

迎撃別働隊

水野忠重、榊原康政、大須賀康高、丹羽氏次

約4,500

羽柴軍別働隊の側面奇襲

本隊(右翼)

徳川家康

約3,300

羽柴軍別働隊の迎撃(主力)

本隊(左翼)

井伊直政

約3,000

羽柴軍別働隊の迎撃(先鋒)

本隊(北方)

織田信雄

約3,000

羽柴軍別働隊の迎撃

注:兵力については諸説あり、主要な記録を基に再構成 12

4-1. 黎明(午前4時~6時):岩崎城の悲劇と戦略的遅滞

岡崎への進軍路の途上にあった徳川方の岩崎城。4月9日の夜明け前、この城の前を池田恒興率いる羽柴軍の先鋒が通過しようとしていた 14 。城主の丹羽氏次は家康に従い小牧山へ出陣中であり、城内には弟でわずか16歳の城代・丹羽氏重と、長久手城主・加藤景常、そして200から300名ほどの城兵がいるのみであった 27

眼前に数千の敵大軍が通過していくのを目撃した若き氏重は、玉砕を覚悟で決断する。「この大軍を見過ごすは末代までの恥辱。ご恩に報いるのは今日この一戦にあり」と兵を鼓舞し、城門を開いて池田勢に攻撃を仕掛けた 29

当初、岡崎へ先を急ぐ恒興はこの小城を無視するつもりであったが、氏重らの執拗な挑発に激高し、進軍を停止して岩崎城への総攻撃を命じてしまう 21 。大手門と搦手門から伊木忠次、片桐俊忠らが攻めかかり、氏重はこれを三度にわたって撃退するなど、寡兵ながらも凄まじい抵抗を見せた 27 。しかし、多勢に無勢は明らかであり、第二隊の森長可隊も加わった猛攻の前に、約2時間から3時間にわたる激戦の末、氏重と景常は討死。岩崎城は落城した 21

この戦闘は、池田・森の両隊にとって、戦術的には勝利であったが、戦略的には致命的な時間的損失となった。この足止めがなければ、彼らは徳川軍本隊が到着する前に長久手の地を通過できていた可能性が高い。後に家康は、「此度の第一の戦功者は、池田勢を足止めさせた岩崎城代・丹羽氏重である」と、その犠牲を最大級に称賛した 28 。16歳の若武者の決死の抵抗が、徳川軍に迎撃態勢を整えるための、かけがえのない時間を稼ぎ出したのである。

4-2. 早朝(午前5時~7時):白山林の奇襲と羽柴秀次の潰走

池田・森隊が岩崎城で足止めを食らっている頃、家康が放った迎撃別働隊(水野忠重、榊原康政、大須賀康高ら)は、羽柴軍別働隊の最後尾を進む総大将・羽柴秀次隊に忍び寄っていた 14

午前5時頃、約8,000の兵を率いる秀次隊が、現在の尾張旭市にあたる白山林で朝食のために休息を取っていた 32 。徳川軍はこの油断を見逃さなかった。榊原康政を一番槍とし、徳川別働隊は林中の秀次隊に一斉に襲いかかった 14

完全に不意を突かれた秀次隊は、組織的な抵抗もできぬまま大混乱に陥り、わずか1時間ほどで総崩れとなった 35 。総大将である秀次は、あまりの混乱に自身の馬を見失い、配下の木下勘解由から馬を借りて辛うじて戦場を離脱するという醜態を晒した 32 。この奇襲により、羽柴軍別働隊は後方を完全に遮断され、指揮系統は麻痺。作戦全体が破綻へと向かう決定的な一撃となった。

4-3. 午前(午前7時~9時):桧ヶ根の攻防と堀秀政の妙技

秀次隊の前方を進んでいた第三隊の将・堀秀政は、後方から聞こえる銃声と混乱の報に、即座に事態の深刻さを察知した 36 。秀吉軍きっての戦巧者として知られる秀政は、少しも動揺することなく軍を反転させ、迎撃態勢を整える 17

彼は香流川を前にした桧ヶ根の丘陵地という絶好の防御地点に布陣。白山林での勝利の勢いに乗り追撃してきた徳川軍の先鋒(榊原康政、大須賀康高ら)を十分に引きつけると、高所から鉄砲の一斉射撃(つるべ撃ち)を浴びせた 17 。地形を巧みに利用したこの戦術は完璧に成功し、徳川軍先鋒は隊列を乱され、約500名もの死者を出す大打撃を受けて敗走した 17 。この桧ヶ根の戦いは、4月9日における羽柴方の唯一の戦術的勝利であった。

しかし、秀政の優れた戦況判断はここで終わらない。彼は徳川軍を撃退した直後、東方の色金山に家康本隊が出現し、その馬印である金扇が朝日を浴びて輝いているのを視認した 39 。自軍が戦闘で疲弊していること、そして家康本隊との圧倒的な兵力差を冷静に分析した秀政は、これ以上の深追いは自軍の壊滅を招くと即座に判断。池田・森隊からの救援要請を無視し、軍を巧みにまとめて北方へと撤退を開始した 17 。この的確な状況判断が、彼の部隊を全滅の危機から救ったのである。

4-4. 正午~午後2時:仏ヶ根の決戦、両雄激突

岩崎城を攻略し、秀次隊の敗走と堀隊の撤退の報を受けて北へ引き返してきた池田恒興・森長可の両隊は、長久手の仏ヶ根(現在の古戦場公園付近)で、満を持して待ち構える家康・信雄の本隊とついに正面から対峙することとなった 6

徳川・織田連合軍は、前山や御旗山(当時の富士ヶ根)といった高地を完全に占拠し、地形的優位を確保していた 24 。その布陣は、右翼に家康本隊3,300、左翼の先鋒に井伊直政が率いる精鋭部隊「赤備え」3,000、そして北方に織田信雄隊3,000という鉄壁の構えであった 12

対する池田・森隊は、合計約9,000の兵力を有していたが、雨池(仏ヶ根池)を挟んだ谷間の湿地帯という、極めて不利な地形で陣を構えざるを得なかった 26 。布陣は、左翼に森長可隊3,000、右翼に池田恒興の長男・元助と次男・輝政の隊4,000、そして後方に恒興本隊2,000という配置であった 12

午前10時頃、両軍は激突。戦端が開かれると、高所に陣取る井伊直政隊の鉄砲衆が火を噴いた。300挺ともいわれる鉄砲から放たれる弾丸の雨は、低地に布陣する羽柴軍に甚大な被害を与え、戦いの主導権は序盤から徳川方が握った 12

4-5. 終結:猛将たちの死と徳川軍の勝利

戦闘は2時間以上にわたって一進一退の攻防が続いたが、戦局を決定づけたのは一発の銃弾であった 12 。午後2時頃、自ら先頭に立って槍を振るい、徳川軍に突撃を敢行していた猛将・森長可が、井伊隊の鉄砲兵に眉間を撃ち抜かれ、即死した 12 。大将を失った森隊は統制を失い、羽柴軍左翼は総崩れとなった 41

この混乱を収拾すべく、老将・池田恒興が自軍の立て直しを図ろうと前線に出たところを、徳川方の永井直勝の槍に突かれ討死 12 。さらに、父の死を知り敵陣に斬り込んだ長男の池田元助も、安藤直次に討ち取られた 17

主要な指揮官を立て続けに失った羽柴軍別働隊は、完全に壊滅した。池田恒興の次男・輝政のみが、家臣の説得により戦場を離脱し、辛うじて命永らえた 39

この日の長久手における一連の戦闘での死傷者数は、羽柴軍が2,500名以上にのぼったのに対し、織田・徳川連合軍の損害は590名余りに留まったと記録されている 12 。戦いは、情報戦、地形利用、そして指揮官の冷静な判断力において勝った徳川方の大勝利に終わった。

【表2】天正十二年四月九日 合戦時系列表

時刻(推定)

場所

主要な出来事

関連部隊・武将

結果と戦術的意義

午前4時頃

岩崎城

池田・森隊が岩崎城付近を通過。丹羽氏重隊が攻撃を開始。

池田恒興、森長可、丹羽氏重

激戦の末、岩崎城は落城するも、羽柴軍先鋒を約2~3時間足止めすることに成功。

午前5時頃

白山林

徳川別働隊が、休息中の羽柴秀次隊を奇襲。

榊原康政、水野忠重、羽柴秀次

秀次隊は壊滅・潰走。羽柴軍別働隊の指揮系統が麻痺し、後方を遮断される。

午前7時頃

桧ヶ根

堀秀政隊が反転し、丘陵地に布陣。徳川別働隊の追撃を迎撃。

堀秀政、榊原康政、大須賀康高

堀隊が徳川軍先鋒を撃退。しかし家康本隊の出現を察知し、戦略的撤退を開始。

午前9時頃

色金山・御旗山

家康本隊が到着・布陣。金の扇の馬印を掲げ、全軍の士気を鼓舞。

徳川家康、織田信雄、井伊直政

地形的優位を確保し、堀隊を牽制・撤退させ、池田・森隊を孤立させることに成功。

午前10時頃

仏ヶ根

徳川・織田本隊と、池田・森隊が激突。主力決戦が開始される。

全主力部隊

高所からの鉄砲攻撃により、徳川方が序盤から優位に立つ。

午後2時頃

仏ヶ根

森長可が狙撃され戦死。続いて池田恒興、元助親子も討死。

森長可、池田恒興、井伊直政、永井直勝

羽柴軍の主要指揮官が全滅し、部隊は壊滅。戦闘は徳川方の大勝利で終結。

第五章:合戦後の動向と秀吉の戦略転換

長久手における別働隊の壊滅という衝撃的な敗報は、戦役全体の流れを大きく変えることになった。この局地的な大敗北を受け、羽柴秀吉は力押しによる決着を断念し、その戦略を大きく転換させることを余儀なくされた。

5-1. 敗報と秀吉本隊の動向

4月9日の昼過ぎ、楽田に構えられた秀吉の本陣に、別働隊が壊滅し、池田恒興・森長可といった宿将たちが討死したとの報せが届いた 6 。秀吉は激怒し、即座に自ら3万とも6万ともいわれる本隊を率いて救援に出撃した 12

しかし、秀吉の行動は時すでに遅かった。彼が戦場近くの龍泉寺まで進軍した頃には、家康は既に巧みに兵をまとめており、小幡城まで後退した後であった 1 。この時、龍泉寺の前面で、わずか500騎を率いた本多忠勝が秀吉の大軍の前に立ちはだかり、見事な遅滞戦術を展開してその進軍を妨害したという逸話は、徳川家臣団の武勇を象徴するものとして後世に語り継がれている 1

秀吉は、家康が小幡城にいるとの情報を得て翌朝の総攻撃を決意するが、家康はその夜のうちに秀吉本隊との直接対決を回避。夜陰に紛れて小幡城を抜け出し、庄内川を渡って本陣である小牧山城へと無事に帰還した 12 。翌朝、家康の巧妙な撤退を知った秀吉は追撃を断念し、4月10日に楽田の陣へと引き返した 5

5-2. 戦役の長期化と秀吉の政略

長久手での決戦に敗れた秀吉は、家康の堅固な小牧山要塞を力攻めにすることの不利を悟った。ここから、戦いの様相は再び変わり、尾張西部での蟹江城を巡る攻防や、伊勢・美濃といった周辺地域での戦闘へと拡大し、長期的な膠着状態が続くこととなる 44

家康との軍事的な直接対決での勝利が困難と判断した秀吉は、その戦略の軸足を、軍事から政治・外交へと大きく転換させる。彼の狙いは、徳川軍そのものではなく、家康が掲げる「大義名分」の源泉である織田信雄を切り崩すことにあった。秀吉は、信雄の所領である伊勢や美濃に対して執拗な軍事的圧力をかけ、経済的にも精神的にも彼を追い詰めていく作戦に切り替えた 1

5-3. 信雄の単独講和と戦いの終結

秀吉の執拗な圧力は、徐々に効果を現し始めた。自らの領地が次々と侵食され、戦いの長期化に疲弊した織田信雄は、ついに秀吉の圧力に屈してしまう。

天正12年11月、信雄は同盟者である家康に一切の相談なく、単独で秀吉との和睦交渉に応じた。その条件は、伊勢国の大部分と伊賀国を秀吉に割譲するという、事実上の降伏であった 1

この信雄の単独講和により、家康は梯子を外された形となった。「織田信雄公の援軍」という、この戦いに参加するための唯一の大義名分が消滅したのである 1 。もはや戦いを続ける理由を失った家康は、浜松城へと兵を引き、約8ヶ月にわたって続いた小牧・長久手の戦いは、こうして幕を閉じた。

第六章:勝者なき戦いの真実:歴史的意義と後世への影響

小牧・長久手の戦いは、局地戦である長久手での徳川軍の大勝利と、戦役全体を終結させた政治交渉における羽柴秀吉の勝利という、二つの異なる結末を持つ極めて複雑な戦いであった。この軍事的勝敗と政治的帰結のねじれこそが、この戦いの歴史的意義を深く、そして多角的なものにしている。

6-1. 「戦に勝ち、政略に敗れた」家康

戦術レベルにおいて、徳川家康は長久手で完璧な勝利を収めた。圧倒的な兵力差を情報戦と巧みな戦術で覆し、敵の宿将を多数討ち取ったこの一戦は、「徳川家康は戦上手」という評価を全国に轟かせ、その軍事的な名声を不動のものとした 17

しかし、戦役全体の勝敗という観点で見れば、家康は政治的に敗北したと言わざるを得ない。大義名分であった織田信雄が秀吉に屈服したことで、家康もまた和睦に応じざるを得なくなった。その結果、自身の次男・於義伊(後の結城秀康)を、名目上は養子としながらも、事実上の人質として秀吉に差し出すことになった 1 。これは、秀吉の優位を認めざるを得なかった証左である。

6-2. 天下人への地位を固めた秀吉

一方の秀吉は、長久手での手痛い軍事的敗北を喫したものの、最終的には戦役全体の目的を達成した。最大の対抗勢力であった織田信雄を事実上臣従させ、信長の後継者としての自身の地位を内外に決定づけたのである 6 。これにより、旧織田家臣団は秀吉の下に再編され、織田政権は実質的に解体。秀吉を中心とする新たな「豊臣政権」への道が完全に開かれた。翌天正13年(1585年)の関白就任は、この戦いの政治的勝利の延長線上にある出来事であった 17

さらに、家康との和睦によって東方の憂いを断った秀吉は、その矛先を、かつて家康の同盟者であった勢力へと向けた。翌年には四国の長宗我部元親を、そして紀州の雑賀衆らを次々と討伐し、天下統一事業を急速に加速させていった 3

6-3. 「もう一つの天下分け目」としての再評価

この戦いは、単なる一地方での攻防に留まらない、日本の歴史の大きな転換点であった。それは、後の世を創る二人の巨人、羽柴秀吉と徳川家康が、生涯で唯一、互いの軍を率いて直接雌雄を決した戦いであったからに他ならない 47

近年、この戦いは「もう一つの天下分け目の戦い」として再評価されている 47 。その理由は、長久手での軍事的勝利が、その後の豊臣政権下における家康の地位を決定づけた点にある。秀吉は、家康の恐るべき軍事的能力を身をもって知り、彼を単なる一配下として扱うことの危険性を痛感した。その結果、家康は豊臣政権下において他の大名とは一線を画す「別格」の存在として扱われることになった 17 。両者の関係は、単純な主従関係ではなく、秀吉を頂点としながらも、家康を事実上のパートナーとして認めざるを得ないという、特殊な二元構造を形成したのである。

江戸後期の歴史家・頼山陽は、その著書『日本外史』の中で、「家康の天下取りは、大坂に在らずして関ヶ原にあり、関ヶ原に在らずして、小牧にあり」と喝破した 12 。まさにこの言葉が示す通り、小牧・長久手の戦いで家康が得た軍事的名声と、それによって確立された政治的地位こそが、後の関ヶ原の戦いでの勝利、そして260年続く徳川幕府の創設へと繋がる、遠大なる布石となったのである。この戦いは、秀吉の天下を確定させると同時に、次代の覇者である家康の天下への道筋をつけた、真の「天下分け目の戦い」であったと結論付けられる。

引用文献

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  50. 『小牧・長久手合戦 秀吉と家康、天下分け目の真相』|感想・レビュー・試し読み - 読書メーター https://bookmeter.com/books/22268352