雑賀崎城の戦い(1585)
天正十三年 紀州征伐詳報:雑賀崎城陥落に至る軍事行動の時系列的再構築
序章:天下人の前に立ちはだかる独立惣国
天正13年(1585年)の羽柴秀吉による紀州征伐、そしてその過程における雑賀崎城の降伏という出来事は、単なる一地方の制圧戦としてではなく、戦国時代そのものの終焉と、新たな統一権力による近世の幕開けを象徴する、極めて重要な軍事行動であった。この戦役の真の標的は、雑賀衆が誇る鉄砲隊の武力のみならず、彼らが体現していた「惣国」という、天下人の支配を拒む独立自治の思想そのものであった 1 。
雑賀衆の実像:地侍たちの連合国家
紀伊国北西部に位置する雑賀の地は、特定の戦国大名による支配を受けず、地侍たちが「惣」と呼ばれる共同体を基盤に合議制で地域を運営する「惣国」を形成していた 1 。彼らは平時は漁業や農業に従事し、有事の際には卓越した団結力で強力な軍事集団へと変貌した 2 。その力の源泉は二つあった。一つは、国内有数の生産地であった種子島(鉄砲)と、それを扱う高度に訓練された射撃技術 3 。もう一つは、沿岸部で培われた巧みな操船術を駆使する水軍の存在である。この二つの力を背景に、雑賀衆は「雑賀衆を味方にすれば必ず勝ち、敵にすれば必ず負ける」とまで評される、戦国最強の傭兵集団として名を馳せた 4 。
また、彼らの多くは浄土真宗本願寺教団の熱心な信徒(門徒)であり、石山本願寺とは極めて強い連帯関係にあった 4 。この宗教的結束が、織田信長との10年にも及ぶ石山合戦において、本願寺を支える主力部隊として彼らを長きにわたる抗争へと駆り立てる原動力となったのである 4 。
信長との抗争と惣国に刻まれた内部亀裂
天正5年(1577年)、石山本願寺への兵站を断つべく、織田信長は10万ともいわれる大軍を率いて紀州へ侵攻した(第一次紀州征伐) 1 。雑賀衆は地の利を活かしたゲリラ戦と鉄砲の一斉射撃でこれを迎え撃ち、織田軍に多大な損害を与えて撤退させるという、驚くべき戦果を挙げた 6 。しかし、この勝利は大きな代償を伴うものであった。信長の調略により、雑賀衆内部で信長に与する勢力(宮郷の太田党など)と、本願寺と共に徹底抗戦を主張する勢力(雑賀庄の鈴木党など)との間に対立が生じ、惣国の結束に修復しがたい亀裂が入ったのである 4 。
天正10年(1582年)の本能寺の変は、この内部対立をさらに深刻化させた。信長の後ろ盾を得ていた親織田派の鈴木孫一(重秀)は一時雑賀から逃亡を余儀なくされ、反織田派が勢力を盛り返すなど、雑賀衆の指導者層は常に不安定な権力闘争に明け暮れることとなった 1 。
小牧・長久手の戦いと秀吉の敵意:紀州征伐、不可避への道
天下統一への道を歩む羽柴秀吉にとって、この紀州の独立勢力は看過できない存在であった。その敵意が決定的となったのが、天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いである。この戦いで雑賀衆は、同じく紀州に拠る鉄砲集団・根来衆と共に徳川家康・織田信雄に呼応し、秀吉の留守を狙って和泉国の岸和田城を攻撃した 1 。これは大坂の背後を直接脅かす行為であり、秀吉に紀州勢力の危険性を改めて認識させた。家康との和睦が成立すると、秀吉は後顧の憂いを断つべく、最優先で討伐すべき対象として紀州に照準を定めた 11 。
この紀州征伐は、単なる岸和田城攻撃への報復に留まるものではなかった。それは、秀吉が目指す中央集権的な天下統一事業において、真っ向から対立する「惣国」や寺社勢力といった自治的共同体の存在そのものを根絶やしにするという、強い政治的意志の表れであった。雑賀衆の鉄砲は脅威であったが、それ以上に彼らが体現する「支配を拒む思想」こそが、天下人にとっての真の標的だったのである 1 。
第一章:開戦前夜 ― 自壊する雑賀惣国(天正13年3月22日以前)
秀吉の紀州侵攻は、軍事行動が開始される以前に、その圧倒的な圧力によって敵の内部崩壊を誘発するという、周到な戦略に基づいて遂行された。雑賀衆は、秀吉軍の兵刃を交える前に、自らの手で崩壊への道を突き進んでいったのである。
秀吉、十万の大軍を動員:紀州包囲網の形成
天正13年3月、徳川家康との和議を成立させた秀吉は、間髪入れずに紀州討伐の大号令を発した 11 。動員された兵力は6万から10万という、一地方勢力を殲滅するには過剰ともいえる規模であった 8 。甥の羽柴秀次を総大将格の先鋒とし、その麾下に筒井定次、細川忠興、蒲生氏郷といった歴戦の武将を配置 13 。弟の羽柴秀長が後詰めとして全体を統括し、自身は岸和田城に本営を構えるという万全の布陣であった 1 。さらに、水軍の将・九鬼嘉隆を動員し、海上からの補給路遮断と陸上部隊への支援を担当させ、陸海両面から紀州を完全に包囲する作戦を展開した 8 。
軍の動きは迅速を極めた。3月20日には秀次率いる先陣が大坂を発って和泉国の貝塚に到着。翌21日には秀吉本隊も大坂を出陣し、岸和田城に入った 1 。この圧倒的な軍事力と進軍速度は、紀州の諸勢力に凄まじい心理的圧迫を与えた。
侵攻前日に勃発した内部抗争:「岡の衆、湊衆を撃つ」
秀吉の大軍が目前に迫る中、雑賀衆内部の緊張は限界に達していた。そして天正13年3月22日、ついにその均衡が崩れる。当時の記録である宇野主水の『貝塚御座所日記』には、この日の出来事として「雑賀の岡の衆が湊衆に鉄砲を撃ちかけ攻めた」と生々しく記されている 15 。
この「岡の衆」を率いる岡吉正らは、以前より秀吉方に内通していたとみられている 4 。彼らは、秀吉の侵攻を、惣国内の主導権を争う抗戦派の「湊衆」(土橋氏ら)を排除し、新たな支配者である秀吉に恭順の意を示すことで生き残りを図る絶好の機会と捉えたのである。この内紛は雑賀衆の指導者層を直撃し、抗戦派の主軸であった土橋氏は抵抗を断念。四国の長宗我部元親を頼って土佐へと逃亡した 4 。
自滅への序曲:「雑賀も内輪散々に成りて、自滅之由風聞あり」
『貝塚御座所日記』は、この内紛の結末を「雑賀も内輪散々に成りて、自滅之由風聞あり」と記している 15 。まさに、外部からの攻撃を受ける前に、雑賀惣国は内部から崩壊したのである。この致命的な分裂により、雑賀衆は組織的な防衛体制を構築する能力を完全に喪失した。
この内紛は、決して偶発的なものではない。それは、信長時代から続く内部対立の火種を秀吉が巧みに利用し、10万という大軍の接近という究極の選択を迫ることで、親秀吉派に反旗を翻させた、高度な政治工作と心理戦の帰結であった。秀吉は、本格的な戦闘を開始する前に、敵の指揮系統と結束を内部から破壊することに成功していた。翌23日に秀吉軍の先手が雑賀庄に踏み込んだ際、土橋氏の居館などがもぬけの殻で、全く抵抗を受けなかったのは、この「自滅」が全ての序曲であったからに他ならない 15 。
第二章:怒濤の進撃 ― 根来・雑賀北部の制圧(3月23日~24日)
雑賀衆が内部崩壊に陥る中、秀吉軍は計画通りに侵攻を開始した。その進撃は、かつて信長を手こずらせた紀州勢の抵抗を全く意に介さない、圧倒的な速度と破壊力をもって行われた。これは、敵に再編の時間を与えず、その精神的支柱を叩き折るという、秀吉の明確な戦略の表れであった。
【1585年3月23日】
和泉国での前哨戦の終結と根来寺陥落
秀吉軍はまず、紀州への玄関口である和泉国南部に根来・雑賀衆が築いていた防衛拠点群(千石堀城、積善寺城など)に猛攻をかけた。羽柴秀次や筒井定次らの部隊はこれらの城をわずか数日で攻略し、紀州本国への進撃路を確保した 11 。
和泉の防衛線がかくも容易く突破されたことで、紀州勢の主力部隊は前線に出払ったまま帰還できず、本拠地は深刻な兵力不足に陥っていた 8 。同日、秀吉軍の先手は、雑賀衆と並ぶ紀州のもう一つの中核、根来衆の本拠地である根来寺へと雪崩れ込んだ。巨大な寺院城郭を誇った根来寺であったが、主力を欠いた状態では組織的な抵抗は不可能であり、ほぼ無抵抗のうちに制圧された 8 。
その夜、根来寺から火の手が上がった。炎は三日三晩燃え続け、その壮麗な堂塔伽藍の大半を灰燼に帰したという 8 。この炎は、遠く和泉国の貝塚からも望見できたと伝えられており 19 、周辺地域の諸勢力に秀吉への抵抗が無意味であることを知らしめる、強烈な見せしめとなった。この壊滅的な打撃により、一大武装勢力であった根来衆は事実上、歴史からその姿を消した。時を同じくして、根来寺と並ぶ紀ノ川北岸の拠点であった粉河寺も炎上し 19 、紀州北部の主要な抵抗拠点は、わずか一日で完全に無力化された。
【1585年3月24日】
秀吉本隊、雑賀庄へ
根来寺を制圧した翌24日、秀吉の本隊は紀ノ川の北岸(右岸)を進軍し、雑賀衆の本拠地である雑賀庄の中心地、粟村を占領した 15 。しかし、そこには敵の姿はなかった。前々日の内紛によって指導者である土橋氏が逃亡し、指揮系統が崩壊していたため、その本拠地はもぬけの殻となっていたのである 15 。雑賀の兵たちは大混乱に陥り、多くは戦わずして船で海へと脱出を図る有様で、防衛組織は完全に麻痺していた 19 。
この2日間の電撃的な侵攻は、秀吉が信長の第一次紀州征伐の教訓を深く学んでいたことを示している。信長が苦しめられた雑賀衆得意のゲリラ戦や籠城戦に持ち込ませる時間的猶予を一切与えず、まず彼らの精神的な支柱である根来寺・粉河寺といった寺社勢力を物理的に、かつ視覚的に破壊する。この「衝撃と畏怖」とも言うべき戦略によって、紀州全体の戦意を根底から打ち砕くことこそが、秀吉の真の狙いであった。
第三章:沿岸諸城の圧迫と雑賀崎城の運命(3月24日以降)
雑賀衆の中枢が崩壊し、秀吉軍が雑賀庄を制圧した後、戦いの焦点は沿岸部に点在する雑賀衆の諸城へと移った。利用者様の主たる関心事である「雑賀崎城」も、この過程でその運命が決せられることとなる。しかし、その結末は壮絶な攻防戦ではなく、雑賀惣国という共同体の崩壊がもたらした、静かな終焉であった。
雑賀城(妙見山城)と雑賀崎城の区別
まず、紀州征伐における雑賀衆の城を理解する上で、混同されがちな二つの城を明確に区別する必要がある。
- 雑賀城(妙見山城) : 鈴木孫一の父である鈴木重意(佐大夫)が築いた城で、雑賀衆鈴木党の本拠地であった 2 。現在の和歌山市和歌浦中に位置する妙見山に築かれ、周囲には侍屋敷や町屋が広がり、中世の城下町を形成していたとされる 2 。雑賀衆の政治・軍事の中心拠点である。
- 雑賀崎城 : 雑賀崎の岬の先端、現在の雑賀崎灯台付近にあったとされる城砦である 22 。石山合戦後、織田信長に追われた本願寺の教如を匿うために鈴木孫市が築いたとの伝承が残る 24 。本拠地である雑賀城とは別に、見張りや避難場所といった特殊な役割を担っていたと考えられる 2 。
雑賀諸城の無力化
秀吉本隊が雑賀庄の中心部を無抵抗で占領した後、軍勢は各方面に展開し、雑賀衆が支配する沿岸部の諸城に次々と圧力をかけた 27 。しかし、すでに指導者層は逃亡・内通し、惣国としての指揮命令系統は完全に失われていた。このような状況下で、個々の城が組織的な抵抗を行うことは不可能であった。結果として、「雑賀の諸城はことごとく落城した」 7 という記録が示すように、これらの城は大規模な戦闘を経ることなく、戦わずして降伏するか、あるいは放棄されたとみられる 16 。
雑賀崎城の「戦い」の実態
この一連の流れの中で、雑賀崎城単体での具体的な戦闘を記録した史料は見当たらない。本拠地である雑賀城ですら、内紛と指導者の逃亡によって事実上放棄された可能性が高い状況で、その支城に過ぎない雑賀崎城が単独で抵抗することは現実的に考え難い。
したがって、「雑賀崎城の戦い」とは、特定の攻城戦を指すものではなく、紀州征伐という巨大な軍事行動の圧力を受け、雑賀崎城が戦うことなく降伏、または放棄され、最終的に廃城へと至った一連のプロセスそのものを指すと結論付けるのが妥当である 23 。城主とされる鈴木孫一自身も、最終的には秀吉に降伏し、後に豊臣家の鉄砲頭として仕えていることから 27 、早い段階で恭順の道を選んだ可能性が高い。
この雑賀崎城の無血開城は、戦国時代の城が持つ役割の多様性を示唆している。城の価値は、籠城戦の有無だけで測られるものではない。雑賀崎城の場合、それを支えるべき雑賀惣国という政治共同体が崩壊した時点で、城としての存在意義を失った。その「戦わずしての終焉」は、物理的な戦闘の欠如を通じて、雑賀衆という組織の完全な瓦解を何よりも雄弁に物語る、「政治的な死」であったと言える。
第四章:最後の抵抗 ― 太田城攻防戦(3月下旬~4月22日)
雑賀衆の主力が瓦解し、諸城が次々と降伏する中、紀州の地で最後の組織的抵抗を試みたのが、太田左近宗正であった。彼が率いた太田城での籠城戦は、紀州征伐における最大の激戦となり、戦国最強と謳われた鉄砲集団の意地と、天下人の新しい戦争の形が激突する、象徴的な戦いとなった。
太田左近、残存兵力を結集し籠城
太田左近は、かつて信長の第一次紀州征伐の際に信長に与した宮郷の頭領であったが、この時は反秀吉の旗幟を鮮明にし、抵抗勢力の最後の旗頭となった 5 。彼の許には、壊滅した根来寺や雑賀の諸城から逃れてきた兵士たち、そして秀吉軍による乱妨(乱暴狼藉)を恐れて逃げ込んできた地侍や農民らが集結し、その数はおよそ5,000人に達したという 8 。彼らは雑賀川と宮川に挟まれた湿地帯に築かれた堅固な平城、太田城に籠城し、天下人の大軍を迎え撃つ覚悟を決めた。
紀ノ川渡河地点での伏兵戦
秀吉軍が太田城へ向かうため紀ノ川を渡ろうとした際、太田左近はその軍事的手腕を遺憾なく発揮する。彼は渡河点に伏兵を巧みに配置し、油断して進軍する秀吉軍の先鋒部隊を奇襲した 20 。この一撃は秀吉軍に多大な損害を与え、太田左近という将の力量と、雑賀衆の鉄砲隊の脅威が未だ健在であることを天下に示した 20 。この戦いは、地侍と農民で構成された「民の軍」が、天下人の大軍に一矢報いた記念すべき戦いとして語り継がれている 20 。
天下人の水攻め:巨大堤防の建設と城の孤立化
しかし、この戦術的勝利も、戦役全体の大局を覆すには至らなかった。伏兵による損害と、太田城が湿地帯に位置する難攻不落の城であることを鑑みた秀吉は、力攻めによる兵の損耗を避け、自身の得意戦術である「水攻め」に切り替えることを決断した 12 。
秀吉は圧倒的な動員力を投入し、太田城の周囲約10キロメートルにわたって巨大な堤防を築き始めた 8 。そして紀ノ川の水を引き込み、城を完全に水中に孤立させるという壮大な作戦を実行した。この太田城水攻めは、備中高松城、武蔵忍城と並び、「日本三大水攻め」の一つとして後世に知られることになる 4 。工事の途中、堤防の一部が決壊して味方の宇喜多秀家勢に多数の溺死者が出るというアクシデントもあったが 1 、秀吉はそれをものともせず、包囲を完成させた。
一ヶ月の攻防と開城
水に浮かぶ孤城となった太田城では、約1ヶ月にわたる絶望的な籠城戦が続いた 4 。城内の兵糧は尽き、士気は日に日に低下していった。最終的に和議が結ばれ、天正13年4月22日、太田左近ら主だった者の切腹を条件に、太田城は開城した 8 。これにより、雑賀衆による組織的抵抗は完全に終焉を迎えた。
この太田城攻防戦は、戦国時代の価値観の衝突を象徴するものであった。太田左近の伏兵戦は、個人の武勇や戦術眼に頼る「旧来の戦」であった。対する秀吉の水攻めは、直接的な戦闘を避け、圧倒的な経済力、土木技術、兵站能力といった国力そのもので敵を屈服させる「近世的な戦」であった。太田城を囲んだ長大な堤防は、単なる土塁ではなく、秀吉の絶対的な権力を可視化した巨大なモニュメントであり、未だ服従しない全国の諸大名に対する強烈な示威行為でもあったのである。
第五章:紀州平定の完了
太田城が水中に沈められていくのと並行し、秀吉は紀伊半島全域の完全な平定を着々と進めていた。本隊が雑賀衆の最後の抵抗を封じ込めている間に、別働隊を南へ、そして使者を山へと送り、紀州に残る全ての抵抗勢力を屈服させていった。
別働隊による南紀侵攻
秀吉は、本隊を太田城の包囲に集中させる一方、仙石秀久、中村一氏、小西行長らを将とする数千の別働隊を編成し、紀伊半島南部(南紀)の平定へと向かわせた 1 。
南紀には、湯川氏や山本氏といった古くからの国人衆が割拠していた。彼らの一部は亀山城主・湯川直春を盟主として連合し、豊臣軍を迎え撃つ姿勢を見せた 36 。山深い地形を利用し、巨木や大岩を投じて必死の抵抗を試みたが、天下人の軍勢の前に衆寡敵せず、その拠点は次々と陥落していった 13 。湯川直春のように、巧みなゲリラ戦で秀吉軍を手こずらせ、結果として本領安堵を勝ち取るという稀な例も見られたが 37 、大勢は覆せず、南紀の有力国人衆の多くは滅亡、あるいは秀吉への服従を余儀なくされた 16 。
高野山への圧力と降伏
雑賀・根来という二大勢力を制圧した秀吉は、次なる標的として、紀州のもう一つの聖域である高野山に目を向けた。秀吉は高野山に使者を送り、「僧でありながら広大な寺領を持ち、浪人どもを匿って天下の安泰を妨げるとは言語道断である」と、武装解除と寺領の没収を迫る恫喝を行った 13 。
根来寺が焼き尽くされた惨状を目の当たりにしていた高野山側に、秀吉と事を構える選択肢はなかった。寺の代表として交渉に当たった木食応其は、全面的な降伏を受け入れ、高野山は秀吉の支配下に入った 13 。これにより、紀州における大規模な抵抗勢力は全て掃討された。
戦後処理:和歌山城の築城
紀州全域の平定を完了した秀吉は、この地の新たな支配体制の象徴として、雑賀衆の本拠地であった雑賀の地に、壮大な城を築くことを命じた。これが現在の和歌山城である。築城総奉行には弟の羽柴秀長を、普請奉行には築城の名手として知られる藤堂高虎を任命した 30 。
雑賀衆の故地に、天下人の権威を象徴する近世城郭を築くという行為は、旧体制の完全な終焉と、新たな支配の時代の到来を内外に宣言する、極めて強力な政治的メッセージであった。この和歌山城の築城に伴い、雑賀城や雑賀崎城といった旧来の城はその歴史的役割を終え、廃城となったのである 24 。
終章:雑賀衆の終焉と新たな支配体制
天正13年の紀州征伐は、戦国最強と謳われた一傭兵集団の滅亡という結末以上に、日本の歴史における大きな転換点を画する出来事であった。それは、中世的な自治共同体が、中央集権的な統一権力の下に収斂していく時代の不可逆的な流れを決定づけた戦役だったのである。
独立惣国の消滅が意味するもの
雑賀衆の滅亡は、地侍や民衆による合議制を基盤とした「惣国」という中世的な自治共同体が、天下人の統一権力の前にはもはや存続し得ないことを証明した 1 。信長や秀吉と雑賀衆の戦いは、まさに「中世の終わりと近世のはじまり」を象徴する出来事であり 34 、この戦役によって、秀吉が進める中央集権化への道から、大きな障害が一つ取り除かれた。
歴史の舞台から消えた者、新たな支配者に仕えた者
戦後、雑賀衆という共同体は完全に解体された。多くの者は武器を置き、農民へと帰っていく「帰農」の道を選んだ 16 。一方で、その卓越した鉄砲技術を活かし、新たな活躍の場を求めて諸大名に仕官する者も少なくなかった 16 。彼らが培った技術は、雑賀衆という集団が消滅した後も、新たな支配者の下で、あるいは各地に散らばる形で生き続けたのである。鈴木孫一(重秀)もまた、秀吉に降伏した後はその家臣団に組み込まれ、豊臣家の鉄砲頭としてその後の戦役で活躍している 31 。
紀州征伐が戦国史に与えた影響の総括
秀吉にとって、紀州征伐の成功は計り知れない戦略的価値を持った。畿内における最大の反抗勢力を排除し、本拠地である大坂の背後を完全に安定させたことで、彼は後顧の憂いなく、四国征伐、九州平定、そして小田原征伐へと続く天下統一事業を本格的に推進する体制を整えることができた。紀州は弟・秀長、後には桑山重晴が治める豊臣政権の重要拠点となり、和歌山城を中心とした新たな支配体制が確立された。
結論として、「雑賀崎城の戦い」とは、単一の城を巡る攻防戦ではなく、秀吉の周到な戦略、圧倒的な国力、そして新しい戦争の様式の前に、戦国最強と謳われた鉄砲傭兵集団とその自治共同体がいかにして滅び去ったかを示す、壮大な歴史劇の結末の一場面であった。その静かなる終焉は、火花散る合戦以上に、時代の大きなうねりを物語っているのである。
付録
【表1】紀州征伐 関連年表(天正12年~13年)
年月日 (西暦) |
秀吉・豊臣軍の動向 |
雑賀・根来衆の動向 |
備考 |
天正12年 (1584) 3月 |
小牧・長久手の戦いで徳川家康・織田信雄と対峙 |
家康らに呼応し、和泉岸和田城を攻撃 10 |
紀州征伐の直接的な原因となる |
天正12年 (1584) 11月 |
織田信雄と和睦、翌月には家康とも事実上の和睦 |
- |
秀吉が東方の脅威を取り除く |
天正13年 (1585) 3月10日 |
紀州征伐を発令 33 |
- |
|
天正13年 (1585) 3月20日 |
先鋒の羽柴秀次勢が貝塚に到着 1 |
- |
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天正13年 (1585) 3月21日 |
秀吉本隊が岸和田城に入る 1 |
和泉の諸城で抵抗を試みる |
|
天正13年 (1585) 3月22日 |
- |
雑賀衆内部で内紛が勃発(岡の衆が湊衆を攻撃) 15 |
指導者層が逃亡し、組織的抵抗が不能となる |
天正13年 (1585) 3月23日 |
根来寺を制圧、同日夜に炎上。粉河寺も制圧・炎上 8 |
主力を欠き、ほぼ無抵抗で本拠地を失う |
根来衆が事実上壊滅 |
天正13年 (1585) 3月24日 |
秀吉本隊が雑賀庄の中心部を占領 15 |
内紛により抵抗なく本拠地を失う。諸城も次々降伏 |
雑賀衆の中枢が崩壊 |
天正13年 (1585) 3月下旬 |
太田城の包囲と水攻めを開始。別働隊を南紀へ派遣 34 |
太田左近が残存兵力を率いて太田城に籠城 8 |
最後の組織的抵抗が始まる |
天正13年 (1585) 4月22日 |
太田城を開城させる 8 |
太田左近らが切腹し、降伏 |
紀州における全ての組織的抵抗が終結 |
天正13年 (1585) 4月以降 |
高野山を降伏させる。和歌山城の築城を開始 13 |
- |
紀州全域の平定が完了 |
【表2】紀州征伐における両軍の兵力と主要指揮官
勢力 |
総兵力 |
主要指揮官 |
主な役割・動向 |
豊臣軍 |
6万~10万 8 |
羽柴秀吉 |
総大将として岸和田城から全軍を指揮 |
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羽柴秀長 |
副将として全軍を統括、戦後は和歌山城を築城 |
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|
羽柴秀次 |
先鋒軍の総大将として和泉の城砦群や根来寺を攻略 |
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筒井定次、細川忠興、蒲生氏郷 |
先鋒軍の主力として各地で戦闘 |
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仙石秀久、中村一氏、小西行長 |
別働隊を率いて南紀を平定 |
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九鬼嘉隆 |
水軍を率いて海上を封鎖 |
紀州勢 (雑賀・根来連合) |
約9,000 8 |
(雑賀衆) |
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土橋平丞 |
抗戦派の指導者であったが、内紛により戦わずして土佐へ逃亡 16 |
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鈴木孫一 (重秀) |
動向は不明瞭だが、最終的に秀吉に降伏し家臣となる 27 |
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岡吉正 |
親秀吉派として内紛を引き起こし、雑賀衆崩壊のきっかけを作る 4 |
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太田左近 |
最後の抵抗拠点となった太田城で籠城戦を指揮し、切腹 8 |
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(根来衆) |
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|
(指導者不詳) |
主力が和泉に出払っている間に本拠地を急襲され、壊滅 |
引用文献
- 紀州征伐 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%80%E5%B7%9E%E5%BE%81%E4%BC%90
- 雑賀城 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%91%E8%B3%80%E5%9F%8E
- 雑賀合戦(紀州征伐)古戦場:和歌山県/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/dtl/kisyuseibatsu/
- 雑賀衆 と 雑賀孫市 https://kamurai.itspy.com/nobunaga/saiga.htm
- 戦国最強の鉄砲集団と謳われた「雑賀衆」ゆかりの地をめぐる~和歌山の旅 - 歴史人 https://www.rekishijin.com/18662
- 信長6万の軍勢をも退けた雑賀孫一と鉄砲衆...秀吉・家康も恐れた「雑賀衆」の強さとは? https://rekishikaido.php.co.jp/detail/9889?p=1
- 根来衆と雑賀衆の最新兵器鉄砲の威力をいかした戦法! (2ページ目) - まっぷるウェブ https://articles.mapple.net/bk/22731/?pg=2
- まちかど探訪 : 信長も恐れた雑賀の人々 ~本願寺鷺森別院と雑賀衆 その1 https://shiekiggp.com/topics/%E3%81%BE%E3%81%A1%E3%81%8B%E3%81%A9%E6%8E%A2%E8%A8%AA-%E4%BF%A1%E9%95%B7%E3%82%82%E6%81%90%E3%82%8C%E3%81%9F%E9%9B%91%E8%B3%80%E3%81%AE%E4%BA%BA%E3%80%85%EF%BD%9E%E6%9C%AC%E9%A1%98%E5%AF%BA/
- 續日本100名城:大阪「岸和田城」巡禮!一窺刺激驚險的「岸和田山車祭典」 - 日本關西旅遊,大阪 https://osaka.letsgojp.com/archives/437942/
- 根来と雑賀~その⑧ 紀泉連合軍の大阪侵攻 岸和田合戦と小牧の役 https://negorosenki.hatenablog.com/entry/2022/12/16/050650
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- [合戦解説] 10分でわかる紀州征伐 「秀吉は得意の水攻めで太田城を包囲した」 /RE:戦国覇王 https://www.youtube.com/watch?v=K6OGD4Jx-fM
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