最終更新日 2025-09-01

飯山城の戦い(1553~64)

飯山城は武田信玄の北信濃侵攻に対する上杉謙信の最重要拠点。川中島の戦いを支え、謙信自らの大改修により不落の要塞となり、信玄存命中はついに落城せず、信長の天下統一を間接的に助けた。

北信濃の不落城:飯山城を巡る攻防の軌跡(1553年~1564年)

序章:北信濃の風雲前夜 ― 救援要請に至る道

戦国時代の日本列島が群雄割拠の様相を呈する中、甲斐国(現在の山梨県)を統一した若き虎、武田晴信(後の信玄)の目は、必然的に隣国信濃(現在の長野県)へと向けられた 1 。父・信虎の時代とは一線を画し、晴信はまず豊かな諏訪盆地を足掛かりに信濃経略を開始 2 。その狙いは、肥沃な穀倉地帯の確保と、さらなる西方・北方への進出拠点を築くという二重の戦略的意図に根差していた 3


【表1】飯山城を巡る攻防 詳細年表(1553年~1568年)

西暦(和暦)

武田軍の動向

上杉軍の動向

飯山城および北信濃国人衆の動向

1553年(天文22年)

4月、北信濃へ侵攻。村上義清の葛尾城を攻略。

9月、長尾景虎(謙信)が自ら出陣(第一次川中島の戦い)。布施の戦いで武田軍先鋒を破る。

4月、村上義清が葛尾城を追われ越後へ脱出。高梨政頼らも謙信に救援を要請。

1555年(弘治元年)

7月、川中島へ進出。旭山城の栗田氏を支援。

7月、善光寺横山城に入る(第二次川中島の戦い)。

高梨政頼が本拠の中野を追われ、飯山城へ退去。

1557年(弘治3年)

2月、葛山城を攻略。飯山城に迫る。調略を活発化。

3月、高梨政頼の救援要請に応じ出陣(第三次川中島の戦い)。5月、戦果なく飯山城へ後退。

2月、高梨一族が武田の調略を受ける。3月、飯山城の高梨政頼が謙信に救援を要請。

1559年(永禄2年)

3月、高梨氏の本拠・高梨氏館(中野城)を攻略。

北信濃の支配を強化し、国人衆を実質的な家臣化。

高梨政頼、飯山城へ完全に後退。

1561年(永禄4年)

海津城を築城。8月、2万の兵で川中島へ。9月10日、八幡原で激突(第四次川中島の戦い)。

8月、1万3千の兵を率いて妻女山に布陣。飯山城を後方拠点とする。

永禄4年、高梨政頼は春日山城へ移り、以後は地元衆が飯山城を守備。

1564年(永禄7年)

8月、塩崎城に布陣し、決戦を避ける。

飛騨侵攻を牽制するため川中島へ出陣(第五次川中島の戦い)。60日の対陣後、飯山城へ撤退。

10月1日、上杉謙信が自ら指揮を執り、飯山城を大規模に修築。

1568年(永禄11年)

7月、2万の兵を率いて飯山城を攻撃するも、攻略に至らず。

飯山城の守備隊が武田軍の猛攻を撃退。

永禄7年の改修により強化された飯山城が、その防御能力を証明。


甲斐の虎、信濃へ

武田晴信の信濃侵攻は、謀略と武力を巧みに組み合わせたものであった。天文11年(1542年)、諏訪頼重を謀殺して諏訪郡を制圧すると 2 、その矛先は信濃府中を抑える小笠原氏、そして北信濃に覇を唱える村上氏へと向けられた。晴信は敵の城外に討ち取った将兵の首を並べるなど、心理的な圧迫を加えて戦わずして勝つことを目指したが、信濃の国人衆の抵抗は根強く、その道は平坦ではなかった 1

北信濃の雄、村上義清の抵抗と敗走

晴信の前に最大の障壁として立ちはだかったのが、北信濃の猛将・村上義清であった 5 。天文17年(1548年)の「上田原の戦い」において、義清は武田軍を撃破し、板垣信方、甘利虎泰といった宿老を討ち取る大勝利を収める 1 。さらに天文19年(1550年)には、要衝・砥石城を包囲した武田軍を再び大敗させた(砥石崩れ) 6 。これらの敗北は、晴信にとって生涯初の屈辱であり、村上義清という存在の大きさを骨身に沁みて知らしめることとなった。

しかし、力攻めに失敗した晴信は、戦略を調略へと転換する。真田幸隆らを用い、村上方の国人衆を巧みに切り崩し、内部からその結束を蝕んでいった 6 。そして天文22年(1553年)4月、ついに村上義清は本拠地・葛尾城を支えきれず、北へ、そして越後へと落ち延びることを余儀なくされた 6

高梨政頼と謙信の縁

時を同じくして、武田の圧力は村上氏の同盟者であった高梨政頼にも及んでいた。政頼は本拠地であった中野の高梨氏館を追われ、飯山城へと退去していた 11 。この高梨氏は、古くから越後の長尾氏(後の上杉氏)と縁戚関係にあり、この繋がりが歴史を大きく動かすことになる 10 。故郷を追われた村上義清と高梨政頼は、この縁を頼りに越後の長尾景虎(後の上杉謙信)に救援を要請した。

越後へ落ち延びた村上義清や高梨政頼は、単なる亡命者ではなかった。彼らは信玄を二度までも打ち破った猛将であり、信濃の地理と人心を熟知した在地勢力そのものであった 1 。彼らが長尾景虎(謙信)にもたらしたのは、単なる大義名分だけではない。それは、武田への復讐心に燃え、信濃奪還の先鋒となりうる、強力な「現地協力者」という実利であった。この亡命国人衆の存在こそが、景虎の介入を促し、以降12年にわたる川中島での死闘を支え続ける原動力の一つとなったのである。


【表2】主要関連武将一覧

所属勢力

武将名

役職・立場

飯山城の戦いにおける主な役割

武田軍

武田信玄(晴信)

総大将

北信濃侵攻及び飯山城攻略の最高指揮官。

武田信繁

副将

第四次川中島の戦いで戦死。信玄の弟。

山本勘助

軍師

第四次川中島の戦いで戦死。

高坂昌信

重臣

海津城城代。対上杉の最前線を担当。

真田幸隆

重臣

北信濃の調略で活躍。

山県昌景

重臣

武田四天王の一人。赤備えを率いる猛将。

上杉軍

上杉謙信(長尾景虎)

総大将

北信濃国人衆を救援し、飯山城を拠点化。

柿崎景家

重臣

上杉軍の先鋒を務める猛将。

直江実綱

重臣

兵站などを担う重臣。

宇佐美定満

軍師

謙信の軍略を支えたとされる。

北信濃国人衆

村上義清

葛尾城主

武田軍に敗れ、謙信を頼る。上杉軍の先鋒として戦う。

高梨政頼

高梨氏館城主

謙信と縁戚。武田に追われ飯山城に籠城。

泉氏

飯山周辺の土豪

飯山城の元々の城主。上杉方として戦う。

島津氏

長沼城主

当初上杉方だったが、武田の圧力で城を追われる。


第一章:対武田の最前線拠点、飯山城(1553年~1554年)

北信濃の国人衆からの救援要請は、越後の長尾景虎にとって、座視できない事態であった。武田の勢力が信越国境にまで及ぶことは、越後本国の安全保障を直接的に脅かすからである 1 。景虎は義によって立つことを掲げ、信濃への出兵を決意する。この決断により、飯山城はにわかに歴史の表舞台へと躍り出ることとなった。

飯山城の戦略的価値:「繋ぎの城」「糧道の城」

飯山城は、千曲川西岸の丘陵に位置し、川を天然の外堀とする堅固な平山城であった 12 。その立地は、越後と信濃を結ぶ街道を押さえる軍事交通の要衝であり、景虎にとってまさに死活的に重要な拠点であった。

この城は二つの重要な役割を担っていた。一つは「繋ぎの城」としての役割である。本国である越後・春日山城から、主戦場となる川中島平原まで、軍勢を円滑に移動させるための中継基地として不可欠であった 17 。もう一つは「糧道の城」としての役割だ。数千、時には一万を超える大軍を敵地で長期間維持するためには、兵糧や武具の安定した補給が生命線となる。飯山城はこの兵站線を確保するための最重要拠点であり、この城の確保なくして、景虎の継続的な川中島出兵は不可能であった 17

飯山城の価値は、単なる防御拠点に留まるものではなかった。上杉謙信の軍事思想の神髄は、神速とも評される軍隊の移動速度にあったが、本国から遠く離れた信濃でその機動力を維持するには、兵を休息させ、食料と武具を補給し、情報を集約する前線基地が不可欠であった 18 。飯山城は、春日山城から川中島への行程の中間点にあり、この要求を完璧に満たす場所であった。いわば、謙信にとって飯山城は「遠征先における本拠地」であり、彼の神出鬼没な戦術を支える「発射台」そのものであった。武田信玄がこの城を執拗に狙ったのは、単に国境の砦だからではなく、謙信の戦術の根幹を支える戦略的プラットフォームであったからに他ならない。

第一次川中島の戦いと飯山城

天文22年(1553年)9月1日、景虎は自ら兵を率いて北信濃へ出陣する 10 。これが「第一次川中島の戦い」の幕開けである。この遠征において、飯山城は出撃の拠点として機能した。景虎は布施の戦いなどで武田軍の先鋒を破り、荒砥城を落とすなど戦果を挙げた 10 。しかし、塩田城に籠もる晴信が決戦を避けたため、景虎は深追いをせず、9月20日に越後へと引き揚げた 10 。この戦いでは大規模な衝突こそなかったものの、景虎は飯山城という確固たる足場を北信濃に確保した。これが、以降10年以上にわたる武田・上杉の死闘の序章であり、飯山城がその中心に位置づけられた瞬間であった。

第二章:膠着と前哨戦(1555年~1557年)

第一次合戦後、両雄の睨み合いは膠着状態に陥る。しかし、水面下では飯山城を中核とする上杉方の勢力圏を巡り、地味だが熾烈な前哨戦が繰り広げられていた。それは、武田方による執拗な「浸食」と、それに対する上杉方の必死の「防遏」のせめぎ合いであった。

第二次川中島の戦いと兵站の重要性

弘治元年(1555年)、再び両軍は川中島で対峙する(第二次川中島の戦い)。この戦いは、犀川を挟んで実に200日にも及ぶ長期のにらみ合いとなった 7 。両軍の本隊が動けない中、勝敗の鍵を握るのは兵站の維持能力であった。特に甲斐から遠征してきている武田軍の兵糧調達は困難を極めたと言われる 19 。一方の上杉軍は、飯山城を「糧道の城」としてフル活用し、後方からの補給を維持し続けた。最終的にこの対陣は、駿河の今川義元の仲介によって和睦が成立し、両軍は撤退する 7

武田方の浸透戦術と飯山城の孤立化

武田信玄は、和睦の盟約を意に介さず、北信濃への圧力を緩めなかった 6 。堅固な飯山城を力攻めにするリスクを避け、その周辺の支城や国人衆を調略によって切り崩し、飯山城を孤立させる「枯死」作戦を展開したのである。弘治2年(1556年)には葛山城の落合氏を内部分裂させ、さらに真田幸隆が要衝・尼厳城を攻略するなど、飯山城を取り巻く上杉方の拠点を一つ、また一つと蚕食していった 21

第三次川中島の戦いと飯山城防衛

弘治3年(1557年)、武田軍の圧力はついに飯山城そのものに及び始める。信玄は2月に葛山城を完全に制圧すると、その勢いを駆って飯山城に迫った 10 。城に籠もる高梨政頼は、ただちに謙信に急を告げた 7

信玄の盟約違反に怒った謙信は3月に出陣(第三次川中島の戦い)。武田方に寝返った城を奪還しつつ善光寺平に進出するが、信玄はまたもや甲府から動かず、決戦を避けた 21 。謙信は決定的な打撃を与えられぬまま、5月には飯山城へと兵を返している 7

この間、武田軍は飯山城だけでなく、その支城である上倉城にも攻撃を仕掛けている 22 。謙信はこれに対し、新発田氏、五十公野氏といった越後の精鋭を救援部隊として飯山城へ急派 22 。さらに、信越国境の関山に新たな城を築いて防衛線を強化し、辛うじて飯山城を確保することに成功した 22

この時期の攻防は、大規模な野戦こそないものの、武田方の巧妙な浸食作戦と、それを寸断し防衛線を再構築しようとする上杉方の対応の連続であった。この地道な消耗戦こそが、後の第四次合戦という未曾有の大激突へと繋がる土壌を形成していったのである。

第三章:永禄年間の激化する攻防(1561年~1564年)

永禄年間に入ると、両雄の対立は新たな局面を迎える。戦国史上最も激しい野戦と語り継がれる第四次川中島の戦いを経て、一連の抗争は最終局面である第五次合戦へと至る。この過程で、飯山城の役割は大きく変貌し、それは謙信の対武田戦略そのものの転換を意味していた。

第四次川中島の戦いにおける後方拠点

永禄4年(1561年)、謙信は関東管領職に就任し、関東へ出兵していた。この隙を突いて信玄が北信濃の割ヶ嶽城を攻略すると、謙信は激怒。8月、1万3千の兵を率いて川中島へ急行した 1

謙信は飯山城を経由し、武田方の拠点・海津城と対峙する妻女山に布陣 19 。これに対し、信玄も2万の大軍を率いて海津城に入り、両軍は千曲川を挟んで対峙した 19 。この戦いにおいて、飯山城は謙信の本隊が出撃した後の、越後本国との連絡を維持し、万一の際の退路を確保する最重要後方拠点として機能した。

9月10日未明、世に名高い「八幡原の激戦」が勃発。謙信は信玄の「啄木鳥の戦法」を看破し、夜陰に乗じて妻女山を下山、八幡原の武田本陣に猛攻を仕掛けた 19 。激戦の末、武田軍は副将の武田信繁や軍師の山本勘助など多くの将兵を失い、上杉軍もまた甚大な被害を被った 19 。この壮絶な戦いの間、飯山城は後方で静かに、しかし確実に上杉軍の生命線を支え続けていたのである。

第五次川中島の戦いと謙信による大改修

第四次合戦から3年後の永禄7年(1564年)、信玄が飛騨国へ侵攻する動きを見せると、謙信はこれを牽制すべく再び川中島へ出陣した(第五次川中島の戦い) 10 。しかし、信玄は長野盆地南端の塩崎城に布陣するのみで、またも決戦を避ける 19

約60日間にわたる睨み合いの末、冬の訪れと共に謙信は兵を飯山城へと引き上げた 7 。そして10月1日、春日山城へ帰還する直前、謙信は自ら指揮を執り、飯山城の大規模な改修を行わせたのである 5

この永禄7年の大改修は、単なる城の補強に留まるものではなかった。それは、上杉謙信の対武田戦略における重大な転換点を象徴するものであった。これまでの戦いが北信濃の失地回復を目的とした「攻勢」であったのに対し、この時点をもって、川中島平原の実効支配を武田方に認めつつ、飯山城を国境の絶対防衛線とする「拠点防御」へと戦略の重心が移ったことを示している。飯山城は、もはや川中島への出撃基地ではなく、越後本国を守るための不落の要塞としての役割を恒久的に担うことになったのである 5 。これは、12年にわたる川中島の戦いの事実上の終結と、信越国境における新たな冷戦構造の始まりを意味していた。

第四章:戦いの実相 ― 攻城と籠城の戦術分析

飯山城を巡る12年間の攻防は、戦国時代の築城技術と攻城技術が真正面からぶつかり合った「技術戦」の様相を呈していた。特に、上杉謙信の築城思想が、攻城の名手と謳われた武田信玄の多様な戦術を凌駕した稀有な事例として特筆される。

守る側(上杉方)の視点:後堅固の城・飯山

飯山城は、本丸を丘陵の最高所に置き、二の丸、三の丸を階段状に配置した「梯郭式」の縄張りを持つ平山城であった 16 。東は千曲川の断崖を天然の要害とし、容易に大軍を近づけさせない「後堅固の城」の典型である 12 。平城としての兵の展開のしやすさと、山城としての堅固な防御力を兼ね備えていた。

永禄7年(1564年)の謙信による大改修では、丘の傾斜はさらに削られて急になり、その上には土塁が築かれ、防御力は格段に向上したと推測される 27 。籠城戦においては、これらの強化された防御施設を最大限に活用し、高所からの弓や鉄砲による射撃が防衛の主軸となったであろう 28 。城兵は、高梨政頼が率いる地の利に明るい地元国人衆と、謙信が派遣した新発田氏ら越後の精鋭部隊で構成されており、郷土と主君を守るという高い士気を維持していたと考えられる 12

攻める側(武田方)の視点:多角的攻城術

一方、攻城の名手である信玄は、飯山城に対して多角的な戦術で挑んだ。

  • 付城(つけじろ)戦術 : 信玄は飯山城を直接攻撃するだけでなく、その機能を麻痺させることを狙った。千曲川の対岸に替佐城や壁田城といった「付城」を築き、恒常的な圧力を加えた 5 。これらの城は、飯山城の兵站線を脅かし、城兵の自由な出撃を牽制する上で極めて効果的であった。
  • 多様な攻城術 : 武田軍は、力攻め一辺倒ではなかった。甲斐の金山経営で培われた技術者集団「金堀衆」を動員し、城壁の下に坑道を掘って破壊する「もぐら攻め」や、城内の井戸水を枯渇させる水の手断ち、そして長期包囲による兵糧攻めなど、多彩な攻城術を駆使した 29 。堅固な飯山城に対しても、これらの戦術が幾度となく試みられたことは想像に難くない。

クライマックス:永禄11年(1568年)の攻防

川中島の戦いが終結した後も、信玄の北信濃、ひいては越後への野心は消えていなかった。永禄11年(1568年)7月、信玄は2万と号する大軍を動員し、飯山城に総攻撃を仕掛けた 5 。これは、永禄7年の大改修の真価が問われる最大の試練であった。

しかし、結果は武田軍の敗退に終わる。飯山城は、この圧倒的な兵力を前にしても、ついに落城することはなかった 5 。この事実は、単に城兵が奮戦したという精神論だけでは説明できない。謙信自らが縄張りを施し、度重なる改修によって強化された飯山城の防御システムが、武田軍のあらゆる攻城術(力攻め、兵糧攻め、水攻め、もぐら攻め)に対して有効に機能したことを証明している。飯山城の不落伝説は、謙信の築城家としての非凡な才能が、信玄の戦略家の才能に打ち勝った証左と言えるだろう。

終章:飯山城の戦いが残したもの

天文22年(1553年)に始まり、永禄7年(1564年)に事実上の終結を見るまで、12年間にわたって断続的に続いた飯山城を巡る攻防。この長き戦いは、北信濃の勢力図を決定づけるとともに、戦国時代全体の大きな流れにも看過できない影響を及ぼした。

勢力図の確定と両雄の戦略転換

一連の戦いの結果、川中島平原を含む北信濃の大部分は武田氏の実効支配下に入り、上杉氏の勢力は飯山城、市川城、野尻城といった信越国境地帯に封じ込められる形で決着した 3 。飯山城は最後まで落城しなかったものの、謙信は北信濃の失地回復という当初の目的を達成することはできなかった。

この北信濃での戦線の膠着は、両雄に戦略の転換を促した。信玄はこれ以降、矛先を西の上野国や、今川氏が衰退した駿河・遠江方面へと本格的に向け、上洛への道を模索し始める 6 。一方の謙信も、関東管領としての責務を果たすべく関東経営に、そして一向一揆が蜂起する越中方面へと、それぞれ主戦場を移していった 6 。飯山城での攻防の終焉は、二人の英雄が全国戦略における新たな段階へと踏み出す転換点となったのである。

飯山城の歴史的意義と戦国史への影響

飯山城は、信玄存命中はついに武田の手に落ちることなく、越後防衛の最後の砦として、その役割を完璧に果たしきった。この城の存在が、戦国最強と謳われた武田軍団の北上を阻み続けたことの歴史的意義は計り知れない。

しかし、よりマクロな視点からこの戦いを俯瞰した時、その真の帰結は別の場所に見出すことができる。「飯山城の戦い」の真の勝者は、城を守り抜いた上杉謙信でも、北信濃の大部分を制した武田信玄でもなかった。それは、この長期にわたる大国間の抗争によって漁夫の利を得る形で台頭し、最終的に天下を統一した織田信長であった。

1553年から1564年という12年間、当代屈指の二人の英雄は、北信濃という限られた地域でお互いの国力を激しく消耗し続けた。この間、尾張の織田信長は桶狭間の戦いで今川義元を討ち取り(1560年)、美濃を攻略して(1567年)、着実に天下への布石を打っていた。もし信玄と謙信が北信濃で争っていなければ、どちらか、あるいは両者がより早い段階で上洛を目指し、信長の前に巨大な壁として立ちはだかった可能性は高い。

その意味で、飯山城を巡る攻防は、二人の英雄を信濃の地に釘付けにする「楔(くさび)」として機能した。結果として、信長の天下統一事業にとって最大の障壁となり得た二大勢力の西進を遅らせ、信長が中央で地歩を固めるための貴重な時間を与えたのである。北信濃の一城塞を巡る攻防は、意図せずして、戦国時代の終焉を早める遠因の一つとなったと言えるだろう。

引用文献

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