三本松城は吉見氏が築き、陶晴賢を退け毛利元就の天下取りを助けた。坂崎氏が石垣で大改修し、亀井氏が治めた。中世と近世の城郭が共存する。
本報告書は、石見国津和野(現在の島根県鹿足郡津和野町)に築かれた三本松城、後の津和野城を対象とする。その目的は、特に日本の戦国時代における当城の戦略的価値と構造的特徴を深く掘り下げ、中世山城から近世城郭へと変容を遂げた歴史的過程を、多角的な視点から明らかにすることにある。
津和野城は、津和野盆地の南西に横たわる標高367メートルの霊亀山に築かれた山城である 1 。山麓からの比高は約200メートルに及び、その峻険な地形は天然の要害をなしている 2 。築城当初は「一本松城」と呼ばれ、少なくとも室町時代後期(戦国時代)までには「三本松城」の呼称が定着した 1 。この三本松城という名こそ、戦国乱世における当城の姿を象徴するものである。
この城の歴史的特異性は、その長大な生命力にある。鎌倉時代末期に築城の槌音が響いて以来、石見の国人領主・吉見氏、関ヶ原の戦い後の新領主・坂崎氏、そして江戸時代を通じて津和野藩を治めた亀井氏と、城主を変えながら明治維SHINまで約550年もの長きにわたり、地域の政治・軍事の中心として機能し続けた 2 。この稀有な歴史の積層は、城跡そのものに深く刻印されている。すなわち、吉見氏時代に完成された土塁と空堀を主体とする中世山城の遺構と、坂崎氏によって導入された壮大な高石垣を持つ近世城郭の遺構が、同一の城域に共存しているのである 2 。この特徴により、津和野城跡は日本の城郭史の変遷を体感できる、学術的にも極めて価値の高い史跡となっている。
以下の表は、三本松城から津和野城に至るまでの歴代主要城主と、城の歴史における重要な出来事を時系列で整理したものである。この年表は、後続の各章で詳述する城の変遷を理解するための一助となるだろう。
【表1】三本松城(津和野城)歴代城主と主要事項年表
時代区分 |
年代(西暦) |
主要城主 |
石高 |
主要事項 |
鎌倉~南北朝 |
1295年 |
吉見頼行 |
- |
築城開始(当初は一本松城) 2 |
|
1324年 |
吉見頼直 |
- |
城の完成、三本松城へ改称か 2 |
室町~戦国 |
1554年 |
吉見正頼 |
- |
三本松城の戦い 。陶晴賢率いる大内軍の猛攻を5ヶ月にわたり撃退 6 |
|
1600年 |
吉見広長 |
- |
関ヶ原の戦後、主君毛利氏の防長移封に従い萩へ移る 7 |
安土桃山~江戸初期 |
1601年 |
坂崎直盛 |
3万石 |
入封。近世城郭への大改修を開始(総石垣化、天守・出丸の築造) 2 |
|
1616年 |
(坂崎氏) |
4万石 |
千姫事件により坂崎直盛が改易 9 |
|
1617年 |
亀井政矩 |
4万3千石 |
亀井氏が入封。以後11代の居城となる 2 |
江戸中期~幕末 |
1686年 |
亀井茲親 |
4万3千石 |
落雷により天守が焼失。以後再建されず 2 |
|
1786年 |
亀井矩賢 |
4万3千石 |
藩校「養老館」を創設 11 |
明治 |
1871年 |
亀井茲監 |
- |
廃藩置県 |
|
1874年 |
- |
- |
廃城令により建造物が解体される 13 |
この年表が示すように、吉見氏による約320年間の長期支配は、中世山城としての三本松城の防衛機能を極限まで高めた。関ヶ原の戦いを境とする城主の交代は、城郭の性質を「土の城」から「石の城」へと劇的に変化させた。そして、亀井氏による約250年間の安定した治世は、城と城下町の成熟をもたらし、津和野を山陰の小京都たらしめる礎を築いたのである。
戦国時代の三本松城を理解するためには、まずその成り立ちと、約300年以上にわたり城主であった吉見氏の時代における城の姿を把握する必要がある。この章では、鎌倉時代末期の築城背景から、戦国期に完成された「土の城」としての構造的特徴までを詳述する。
三本松城の歴史は、鎌倉時代後期にまで遡る。1274年(文永11年)と1281年(弘安4年)の二度にわたる元寇(蒙古襲来)は、日本の国防意識を根底から揺るがし、特に西国の沿岸防備体制の強化が急務となった 8 。この国家的な要請を受け、鎌倉幕府は能登国(現在の石川県)の御家人であった吉見頼行を、日本海に面する石見国の地頭として派遣した 2 。
頼行が新たな本拠地として選んだのが、霊亀山の峻険な地形であった。彼は永仁3年(1295年)にこの地で築城を開始し、その事業は息子の頼直に引き継がれ、約30年の歳月を経て正中元年(1324年)に完成したと伝えられている 2 。
この地が選ばれた理由は、その卓越した地理的・戦略的条件にあった。第一に、城が築かれた霊亀山の西麓から南端を回り込み、東から北へと流れる津和野川が、城を三方から包み込むようにして天然の水堀、すなわち内堀の役割を果たしていた 1 。これにより、敵の接近を物理的に困難にすると同時に、城方にとっては防衛線を画定しやすかった。第二に、津和野盆地そのものが周囲を高い山々に囲まれており、盆地全体が一個の巨大な要塞のような地形をなしていた 17 。そして第三に、この地は山陽地方と山陰地方を結ぶ交通の結節点に位置しており、この街道を押さえることは、経済的にも軍事的にも極めて重要な意味を持っていたのである 16 。
戦国期に至るまで、吉見氏の支配下にあった三本松城は、石垣を多用する後の時代の城とは一線を画す、典型的な中世山城であった。その本質は、自然地形を最大限に活用した「土の城」という言葉に集約される 1 。
城の構造は、霊亀山の尾根筋やそこから派生する支尾根上に、大小様々な平坦地である「曲輪(くるわ)」を無数に配置し、それらを土を盛り上げた「土塁」と、地面を掘り下げた「空堀」によって防衛するというものであった 1 。その縄張り(城の設計)は南北約2kmにも及ぶ長大な規模を誇り、山全体を要塞化する壮大な構想に基づいていた 2 。
吉見氏が構築した防御施設は、地形の特性を巧みに利用したものであった。尾根筋を人工的に断ち切って敵の進軍を阻む「堀切」、山の斜面を垂直に掘り下げて敵兵の横移動を妨げる「竪堀」などが、城内の至る所に設けられていた 1 。特に、後述する天文23年(1554年)の「三本松城の戦い」を前にして、城の防御力は大幅に強化され、複数の竪堀を並行して設ける「連続竪堀(放射状竪堀)」といった、より高度な防御施設が導入された 1 。これらの遺構は、現在も城跡の南側、特に中荒城の周辺に顕著に残されている 1 。
この中荒城は、本城の南西に位置する独立した城郭で、築城初期に南方の監視を目的として造られたと考えられている 1 。また、その麓には「南出丸」と呼ばれる小規模な砦も築かれており、城の南側からの攻撃に対する備えとなっていた 1 。
さらに、吉見氏の防衛構想は三本松城単体で完結するものではなかった。当時、吉見氏は南に周防・長門を支配する大内氏(実質的にはその重臣である陶氏)、北に石見西部の雄である益田氏という、二つの強大な勢力に挟まれるという厳しい地政学的環境に置かれていた 1 。この脅威に対抗するため、吉見氏は三本松城を中核として、南の国境地帯に賀年城、北の国境地帯に下瀬城といった支城を配置し、相互に連携する広域防衛ネットワークを構築していた 1 。特に、本城から北へ約10kmの距離にある下瀬城とは、山々の尾根伝いに連絡する間道が存在したとされ、有事の際には相互に支援しあう体制が整えられていたのである 1 。
吉見氏時代の三本松城の縄張りは、単に静的な防御区画の集合体ではなかった。築城が城域の南端から始まり、時代と共に北側へと拡張していったという歴史的経緯 1 と、竪堀群をはじめとする高度な防御施設が特に南部に集中しているという考古学的知見 1 を重ね合わせることで、吉見氏の防衛思想そのものの進化が見て取れる。当初、最大の脅威は南の大内氏であり、それゆえに城の南側(中荒城方面)に、敵主力の正面攻撃を想定した徹底的な防御網が敷かれた。しかし、時代が下り、北の益田氏との緊張が高まると城は北へ拡張され、最終的には「三本松城の戦い」を前に城全体が強化された 1 。これは、特定の方面からの脅威に対応するだけでなく、全方位からの攻撃を想定した、より立体的で高度な防衛思想へと吉見氏が到達していたことを示唆している。すなわち、吉見氏時代の三本松城の縄張りは、周辺勢力との関係性の変化に応じて約300年間にわたり「成長」し続けた、動的な防衛システムの記録そのものなのである。
戦国時代の三本松城を語る上で、天文23年(1554年)に繰り広げられた「三本松城の戦い」は避けて通れない。この戦いは、単に一つの城の存亡を賭けた攻防戦に留まらず、西国全体の勢力図を塗り替える大きな歴史の転換点に深く関わるものであった。
この戦いの発端は、天文20年(1551年)に周防・長門国で発生した「大寧寺の変」にある。西国随一の大名であった大内義隆が、その重臣である陶隆房(後の陶晴賢)の謀反によって討たれるという下剋上の大事件であった 6 。
三本松城主であった吉見正頼にとって、これは単なる主家の内紛ではなかった。正頼の正室は大内義隆の姉であり、二人は義兄弟という極めて近しい関係にあった 7 。加えて、正頼自身が吉見家の家督を継承する際、義隆から多大な後援を受けており、深い恩義を感じていた 21 。一方で、吉見氏と陶氏は長年にわたり領地を巡って対立してきた仇敵関係にあった 6 。
主君であり義兄でもある義隆を討ったのが、宿敵・陶晴賢であったという事実は、正頼の義憤に火をつけた。陶晴賢が大友氏から大内義長を新たな当主として迎え入れ、大内家の実権を掌握すると、正頼は公然と反旗を翻す。天文22年(1553年)10月、正頼は「主君・義隆公の仇討ち」という、誰もが否定し得ない大義名分を掲げ、陶晴賢打倒の兵を挙げたのである 6 。
正頼の挙兵に対し、陶晴賢は直ちに討伐軍を差し向けたが、緒戦では吉見軍の頑強な抵抗に遭い、戦果を挙げられなかった 6 。事態を重く見た晴賢は、雪解けを待って自ら大軍を率いての親征を決意する。
天文23年(1554年)3月、陶晴賢は大内義長を奉じ、石見の益田藤兼らの軍勢と合流、数万(兵力には諸説ある)と号する大軍を率いて津和野領へ侵攻した 6 。3月19日、連合軍は三本松城の包囲を開始。晴賢は、津和野川を挟んで城の南側にそびえ、城内を見下ろすことができる陶ヶ岳(標高420メートル)に本陣を構え、万全の態勢で攻城戦に臨んだ 6 。
対する吉見軍の兵力は1,200名程度であったとされ、城下の村人らも城に籠もって徹底抗戦の構えを見せた 6 。4月17日、陶軍による最初の総攻撃が行われたが、吉見方は前章で述べたような竪堀や堀切といった防御施設を駆使し、要害堅固な地形を最大限に生かしてこれを撃退。その後も8月2日までに大小12回に及ぶ激しい攻防戦が繰り返されたが、三本松城は一度も敵の侵入を許さなかった 6 。この間、正頼は敵の猛攻が集中する三本松城から一時的に本陣を北の支城・下瀬城に移すなど、広域防衛網を活用した柔軟な指揮を執り、敵を翻弄した 1 。
この三本松城での激しい攻防が繰り広げられている間、安芸国では一人の武将が虎視眈々と機を窺っていた。毛利元就である。
陶晴賢は、吉見討伐にあたり、同じく大内傘下であった毛利元就にも出兵を要請していた。しかし元就は様々な理由をつけてこれを先延ばしにし、態度を明確にしなかった 6 。そして、陶軍の主力が遠く石見国の三本松城に釘付けにされている状況を千載一遇の好機と捉えた元就は、天文23年5月、突如として陶氏との決別を宣言。電撃的に安芸国内に存在した陶方の諸城を攻略し、安芸一国をほぼ手中に収めたのである(防芸引分) 6 。
背後を突かれた陶晴賢は驚愕し、狼狽した。三本松城は依然として陥落せず、一方で本拠地である周防・長門が毛利の脅威に晒されるという、二正面作戦を強いられる絶体絶命の窮地に陥ったのである。一方、籠城を続ける吉見方も、5ヶ月にわたる戦いで兵糧の枯渇が深刻な問題となっていた 6 。
この状況下で、両者の利害は一致した。陶晴賢は毛利との決戦に全力を注ぐため、吉見正頼は城兵の命を救うため、和睦交渉が開始される。同年9月、正頼が嫡子・亀王丸(後の吉見広頼)を人質として山口に送ることを条件に和睦が成立。三本松城は、ついに落城を免れた 6 。
この戦いの歴史的意義は極めて大きい。それは単なる吉見氏の籠城成功譚ではない。中国地方の勢力図を根底から覆す、より大きな戦略の一部として機能した点にこそ、その本質がある。吉見正頼の挙兵は、毛利元就にとって陶晴賢を打倒するための絶好の口実と時間を与えた。正頼が5ヶ月もの長きにわたり、陶軍の主力を三本松城に引きつけ、その足を止めさせたという事実が、元就が安芸を平定し、来るべき決戦に備えるための決定的に重要な「時間」を稼ぎ出したのである。もし三本松城が早期に陥落していれば、陶晴賢は全軍を安芸に向けることが可能となり、元就の立場は極めて危険なものになっていたであろう。
そして歴史は、この戦いの翌年、弘治元年(1555年)にクライマックスを迎える。毛利元就が、歴史上名高い「厳島の戦い」で陶晴賢を討ち滅ぼしたのである。この報を受けるや、吉見正頼は直ちに毛利に呼応して人質を奪還し、毛利軍の一翼として旧主・大内氏の領国へ侵攻(防長経略)。毛利氏の中国地方制覇に大きく貢献することとなった 6 。
結論として、「三本松城の戦い」における吉見正頼の獅子奮迅の籠城戦は、意図せずして毛利元就の天下取りへの戦略における、最も重要な布石の一つとして機能した。この戦いなくして厳島の勝利はなく、厳島の勝利なくして毛利氏のその後の飛躍はなかったと言っても過言ではない。一地方の城を巡る攻防が、より広範な歴史の潮流を決定づけた、まさにその好例と言えよう。
戦国乱世が終焉を迎え、徳川の世が始まると、三本松城もまた大きな変革の時代を迎える。それは、戦いのための「要塞」から、統治のための「居城」への転換であった。この章では、関ヶ原の戦い後に城主となった坂崎氏と、その後江戸時代を通じて津和野を治めた亀井氏による城の大改修と、それに伴う城下町の発展について詳述する。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで西軍に与した毛利氏は、周防・長門の二国へ減封される。これに伴い、毛利氏の家臣であった吉見氏もまた、約320年間守り続けた三本松城を去り、新たな本拠地である萩へと移った 7 。
城主不在となった三本松城に、翌慶長6年(1601年)、新たな領主として入封したのが、徳川家康の家臣・坂崎直盛(出羽守)であった 2 。3万石の大名として津和野に入った直盛は、旧態依然とした中世山城であった三本松城を、新たな時代にふさわしい近世城郭へと生まれ変わらせるべく、大規模な改修事業に着手した 8 。
直盛の改修は、城の性格を根本から変えるものであった。その最大の特徴は、吉見氏時代の「土の城」から、壮麗な「石の城」への転換である。
しかし、この壮大な城を築いた坂崎直盛の治世は、わずか16年で突如終わりを告げる。元和元年(1615年)の大坂夏の陣において、直盛は燃え盛る大坂城から徳川家康の孫娘・千姫を救出した。この功績を巡り、千姫の身柄の扱いや恩賞について幕府との間に行き違いが生じ、憤慨した直盛が千姫の輿入れ行列を襲撃しようと計画したとされる「千姫事件」が発生 28 。この事件の責を問われ、元和2年(1616年)、直盛は自害(あるいは家臣により殺害)に追い込まれ、坂崎家は一代で改易となった 9 。
坂崎氏による大改修は、単なる防御力の強化に留まるものではなかった。特に大手門の位置を、山城として閉鎖性の高かった西側から、城下町が広がる東側へと変更したことは、城と町の関係性を根本的に再定義する、極めて政治的な意味合いを持つ行為であった。これにより、城は単なる軍事拠点から、城下町を支配し、その権威を「見せる」ための象徴へと、その性格を大きく変えたのである。高石垣や天守の建造も、実用的な防御機能に加え、領民や他藩に対して藩主の権威を視覚的に誇示する目的が大きかった。坂崎氏の改修は、「戦うための城」から「治めるための城」へのパラダイムシフトを体現しており、戦国時代の国人領主の城から、近世大名の居城へと、その社会的・政治的役割が根本的に転換されたことを物語っている。
坂崎氏の改易後、元和3年(1617年)、因幡国鹿野城(現在の鳥取市)から亀井政矩が4万3千石で新たに入城した 2 。これ以降、明治維新に至るまでの約250年間、11代にわたり亀井氏が津和野藩主としてこの地を統治し、城と城下町に安定と成熟をもたらした 2 。
亀井氏は、坂崎氏が築いた近世城郭を継承しつつ、さらなる整備を進めた。
しかし、貞享3年(1686年)、津和野城を悲劇が襲う。落雷による火災が発生し、坂崎直盛が築いた三重の天守が焼失してしまったのである 2 。太平の世が続き、財政的な負担も大きかったことから、天守が再建されることはついになかった 14 。これにより、津和野城は天守を持たない城として、幕末を迎えることとなる。
津和野城跡の最大の魅力は、中世と近世という二つの時代の城郭思想が、一つの山の上に重層的に存在している点にある。この章では、坂崎氏による大改修を経て完成した近世城郭としての津和野城の具体的な構造を分析し、吉見氏時代の中世山城の縄張りと比較することで、その変遷の意義を考察する。
近世化された津和野城の中核部は、本城と呼ばれ、主に三つの主要な曲輪から構成されていた。その配置は、山の地形を巧みに利用した独特のものであった。
本城の北側、尾根筋が一度落ち込んで再び盛り上がった場所に、独立した曲輪群である出丸(織部丸)が設けられていた。本城と出丸が堀切状の地形で隔てられているこのような構造は「一城別郭」と呼ばれ、極めて実戦的な縄張りとされる 2 。
この出丸は、吉見氏時代に原型が築かれ、坂崎直盛によって石垣で堅固に改修されたものである 9 。その戦略的価値は多岐にわたる。第一に、本城の弱点となりうる北側からの攻撃に対する前線基地としての役割である。第二に、山麓から本城へ至る新たな大手道を防衛する上で、鍵となる位置を占めていた 3 。第三に、もし敵軍が出丸を無視して本城へ攻めかかった場合、出丸の城兵が敵の側面や背後を攻撃する、いわゆる「横矢掛かり」の陣形を形成することが可能であった 34 。このように、織部丸は津和野城の防御システムにおいて、不可欠な要素であった。
以下の表は、吉見氏時代の中世山城「三本松城」と、坂崎氏以降の近世城郭「津和野城」の構造的な特徴を比較し、その性格の変容を明確にしたものである。
【表2】三本松城(中世)と津和野城(近世)の構造比較
比較項目 |
三本松城(中世・吉見氏) |
津和野城(近世・坂崎氏以降) |
主な防御施設 |
堀切、竪堀、連続竪堀、土塁 |
高石垣、櫓、門、出丸 |
主な建材 |
土、木 |
石、瓦、漆喰 |
大手門の位置 |
西側(喜時雨方面、閉鎖的) 1 |
東側(城下町方面、開放的) 1 |
城の中心 |
南北に連なる尾根上の曲輪全体 |
本城(本丸・二ノ丸・三ノ丸)と出丸 |
象徴的建造物 |
特になし |
三重天守(焼失後も天守台が残る)、三段櫓 |
城の性格 |
周辺勢力との攻防を主眼とした実戦本位の軍事要塞 |
藩の統治と権威の象徴を兼ねた政治・経済の中心拠点 |
この比較から明らかなように、津和野城の歴史的変遷は、単なる増改築の連続ではなかった。それは、城に求められる役割の変化に伴う、設計思想そのものの根本的な転換であった。土と自然地形に依拠した「戦うための城」から、石垣と天守で権威を可視化した「治めるための城」へ。このダイナミックな変容の痕跡を、今もなお城跡の随所に見ることができるのである。
霊亀山に築かれた三本松城、後の津和野城は、その長大な歴史の幕を明治維新と共に閉じた。明治7年(1874年)、政府の廃城令により、山上にあった櫓や門などの建造物はすべて解体され、往時の威容を誇った石垣のみが残されることとなった 9 。しかし、その歴史的価値が失われることはなかった。残された石垣の雄大さと保存状態の良さから、昭和17年(1942年)には近世城郭部分が国の史跡に指定され、その後、中世山城部分や山麓の藩邸跡なども追加指定を受け、現在では約15ヘクタールに及ぶ広大な城域全体が国の重要な文化遺産として保護されている 8 。さらに平成18年(2006年)には、公益財団法人日本城郭協会によって「日本100名城」の一つにも選定された 8 。
津和野城が後世に残した遺産は、物理的な城跡だけではない。亀井氏の治世下、津和野藩は文教政策に力を注ぎ、天明6年(1786年)には藩校「養老館」を創設した 11 。この藩校は、明治時代に日本の文壇を牽引した文豪・森鷗外や、「哲学」「芸術」といった数多くの訳語を生み出し近代日本哲学の父と称される啓蒙思想家・西周など、日本の近代化に多大な影響を与えた幾多の俊才を輩出した 16 。この事実は、近世における城が、単なる軍事・政治施設に留まらず、地域の知的・文化的中心地として機能していたことの何よりの証左である。
総括すれば、三本松城(津和野城)は、鎌倉期から戦国期にかけての「土の城」の様相と、安土桃山期から江戸期にかけての「石の城」の様相を、一つの山というキャンバスの上に見事に留める、日本の城郭史の変遷を物語る類稀な「生きた博物館」である。戦国時代には、吉見正頼の不屈の籠城戦が毛利元就の飛躍を助け、中国地方の勢力図を動かす戦略的要衝として歴史の表舞台に立った。そして近世には、泰平の世の中で優れた人材を育む文化の揺りかごとなった。
今日、秋から冬にかけての早朝、気象条件が整うと、津和野盆地を埋め尽くす朝霧の雲海に城跡の石垣が浮かび上がり、幻想的な「天空の城」の姿を現す 13 。その静謐な光景は、戦国の烽火と、近世の文化の薫りが幾重にも折り重なった、この城が持つ七世紀にわたる歴史の重層性を、現代に生きる我々に静かに物語りかけているのである。