播磨の要衝、上月城は三国の境に位置し、織田・毛利の激突の最前線となる。尼子再興軍が籠城するも、織田信長の非情な戦略により見捨てられ落城。尼子氏は滅亡し、悲劇の舞台となった。
播磨国佐用郡に位置する上月城は、戦国時代の歴史において、特異な光芒を放つ山城である。物理的な規模としては決して大きくなく、その構造も複雑なものではない 1 。にもかかわらず、天正年間という織田信長の天下統一事業が最終段階を迎える重要な時期に、西国の雄・毛利輝元と織田信長という二大勢力がその覇権を賭けて激突する最前線となった。そして、名門・尼子氏が再興の夢を懸けて最後の抵抗を試み、その息の根を止められるという歴史的悲劇の舞台となったのである 3 。
一介の山城に過ぎないはずの上月城が、なぜこれほどまでに重要な戦略拠点となり、歴史の転換点に立ち会うことになったのか。その謎を解き明かす鍵は、城そのものの堅固さや規模ではなく、それが置かれた「位置」にあった。播磨、美作、備前という三国の国境が接する地政学的な要衝に築かれたことこそが、この城に絶大な戦略的価値を与え、同時に数多の悲劇を引き寄せる根源となったのである 5 。
本報告書は、この地理的・戦略的重要性という観点から上月城の歴史を再評価し、その築城から廃城に至るまでの変遷を詳細に追うものである。第一章では、城郭の構造とそれが持つ地理的特性を分析し、その戦略的価値の源泉を明らかにする。第二章では、戦国時代以前、在地領主・上月氏の拠点として始まった城の揺籃期から、播磨国内の動乱に巻き込まれていく過程を概観する。続く第三章と第四章では、本報告書の核心部分として、上月城の歴史的クライマックスである二度の上月城の戦いを、織田・毛利双方の戦略的意図、関わった武将たちの思惑、そして戦闘の経過を詳細に分析する。最後に第五章において、尼子氏滅亡と共に歴史の表舞台から姿を消した上月城の歴史的意義を考察し、史跡として現代に何を伝えているのかを論じる。これにより、上月城がなぜ悲劇の舞台とならざるを得なかったのか、その構造的な要因を多角的に解明することを目的とする。
和暦(西暦) |
主要な出来事 |
延元元年(1336年) |
赤松氏一族の上月景盛により築城される 7 。 |
嘉吉元年(1441年) |
嘉吉の乱が勃発。赤松満祐に与した上月氏の嫡流が幕府軍に討たれ滅亡する 7 。 |
室町中期~戦国中期 |
播磨国の支配を巡り、山名氏と赤松氏による争奪戦の舞台の一つとなる 8 。 |
弘治3年(1557年) |
赤松一門の赤松政元が入城。その子・政範の代には「西播磨殿」と称される 7 。 |
天正5年(1577年) |
【第一次上月城の戦い】 羽柴秀吉の攻撃により落城。城主・赤松政範は自刃。その後、尼子勝久・山中幸盛が入城する 7 。 |
天正6年(1578年) |
【第二次上月城の戦い】 毛利輝元率いる大軍に包囲され落城。尼子勝久は自刃し、尼子氏が事実上滅亡。これを以て廃城となる 7 。 |
文政8年(1825年) |
赤松政範の末裔とされる大谷義房により、二百五十回忌の慰霊碑が本丸跡に建立される 10 。 |
この年表は、上月城の役割が時代と共に劇的に変化したことを明確に示している。築城から約240年間にわたる第一期は、播磨の一在地領主の拠点としての時代であった。しかし、天正5年(1577年)から天正6年(1578年)にかけてのわずか1年余りの期間に、城主は赤松政範、尼子勝久と目まぐるしく入れ替わり、二度の壮絶な籠城戦の舞台となった 7 。これは、上月城が単なる地方の城から、織田・毛利という巨大勢力の国境線上に位置する「天下統一戦争の最前線基地」へと、その役割が強制的に転換させられたことを意味する。この急激な役割の変化こそが、上月城に数々の悲劇をもたらした根源であり、在地領主の城であった時代には経験し得なかった国家規模の巨大な戦略に翻弄される存在へと変貌した瞬間を、この年表は克明に記録しているのである。
上月城の歴史的運命を理解するためには、まずその物理的な構造と、それが置かれた地理的環境という二つの側面から、この城が有していた本質的な価値を分析する必要がある。一見すると、その小規模な構造と絶大な戦略的重要性は矛盾しているように映るが、この矛盾こそが上月城の性格を最も的確に物語っている。
上月城は、現在の兵庫県佐用郡佐用町上月に位置し、佐用川が東へと大きく蛇行する地点に舌状に突き出した、標高約190メートル、比高約100メートルの丘陵(荒神山)上に築かれた中世山城である 1 。その縄張りは、山頂の主郭(本丸)を中心に、南北に伸びる尾根筋に沿って二の丸、三の丸といった曲輪を直線的に配置する「連郭式」と呼ばれる典型的な構造をとっている 5 。
防御施設としては、敵の侵攻を阻むために尾根を人工的に断ち切った堀切が北西側と南東側に設けられているほか、土を盛り上げて障壁とした土塁、斜面を削平して兵を配置するスペースを確保した腰曲輪などが確認できる 5 。これらの遺構は、戦国時代後期の度重なる実戦を想定した、実用本位の山城の様相を色濃く残している 5 。
しかしながら、その歴史的な知名度とは裏腹に、城全体の規模は「比較的小規模」であり、構造も「ごくごく素朴」と評価されているのが実情である 1 。尾根上を削平して数箇所の小さな曲輪を並べただけの単純な構造であり、防御の要となる堀切も非常に小規模なものに過ぎない 1 。この物理的な脆弱性は、後に繰り広げられる籠城戦において、籠城側に絶望的な状況を強いる一因となった。
上月城の真の価値は、その物理的な堅固さではなく、それが置かれた地理的な位置にあった。この地は、播磨(兵庫県南西部)、美作(岡山県北東部)、備前(岡山県南東部)という三つの国が国境を接する、古くからの交通の要衝であった 5 。山間部の谷筋に築かれた小さな城が歴史に頻繁に登場するのは、この地理的特異性に起因する 5 。
天正5年(1577年)、織田信長による本格的な中国攻略が開始されると、この地政学的な価値は決定的な意味を持つことになる。東から進出する織田勢力と、西からそれを迎え撃つ毛利勢力。上月城は、この二大勢力の勢力圏が直接的に衝突する、事実上の最前線、国境要塞へと変貌したのである 12 。毛利方にとっては、ここを拠点として播磨へ進出することができ、織田方にとっては、ここを足掛かりとして中国地方の心臓部へと侵攻できる。両者にとって、上月城は絶対に敵の手に渡すことのできない戦略拠点であった。
この「小規模な城」と「絶大な戦略価値」という一見矛盾した二つの事実は、上月城が「領国を恒久的に防衛するための拠点城郭」ではなく、特定の戦略目的のために前線に進出した軍が、一時的に確保し利用する「陣城」あるいは「前線基地」としての性格が極めて強かったことを示唆している 1 。その価値は城壁の高さや堀の深さにあるのではなく、その地点を「押さえている」という事実そのものにあった。この「前線基地」という性質こそが、後の悲劇に直結する。恒久的な拠点ではないがゆえに、大局的な戦略状況が変化すれば、容易に「放棄」されうる運命にあったのである。尼子氏の悲劇は、この城が生まれながらにして抱えていた構造的、かつ本質的な限界に起因していると言っても過言ではない。
織田・毛利の激突の舞台となる以前、上月城には約240年にわたる独自の歴史が存在した。それは播磨の有力守護大名・赤松氏の一族である上月氏の興亡の物語であり、やがて播磨国全体が戦国の動乱に巻き込まれていく過程で、城の性格が在地領主の拠点から国境の戦略拠点へと変質していく歴史でもあった。
上月城の歴史は、南北朝時代の延元元年(1336年)に遡る 8 。播磨守護であった赤松円心の流れを汲む赤松氏の一族、上月次郎景盛が築城したのがその始まりとされる 3 。当初の城は、現在の城跡(荒神山)から谷を一つ隔てた北側の太平山に築かれたと伝えられており、その後、二代目の盛忠の代に現在の地へ本城を移したと考えられている 10 。以降、景盛、盛忠、善景、景満と四代にわたり、上月氏は西播磨に勢力を有する在地領主としてこの地を治めた 2 。この時代の上月城は、あくまで上月氏一族の領地を統治するための拠点であった。
上月氏の運命を大きく変えたのが、嘉吉元年(1441年)に勃発した「嘉吉の乱」である。赤松本家の当主であった赤松満祐が室町幕府六代将軍・足利義教を自邸に招いて暗殺するという、前代未聞の事件が発生した。この際、上月氏は赤松一門として本家に与し、幕府が派遣した山名宗全率いる追討軍と戦った 7 。
しかし、乱は赤松方の敗北に終わり、満祐は自刃。これに伴い、幕府軍の追討を受けた上月氏の嫡流もまた滅亡の憂き目に遭った 7 。これにより、上月城は一時的に主を失うこととなる。ただし、上月氏の一族が完全に断絶したわけではなく、分家などが存続し、後に赤松氏が播磨の支配権を回復する過程で功績を挙げた人物もいたことが記録されている 8 。
嘉吉の乱による赤松氏の没落後、播磨は山名氏の支配下に入った。その後、赤松氏が勢力を回復して播磨の支配権を取り戻すも、一度失われた権威は完全には戻らず、播磨国内は不安定な情勢が続いた。特に、三国国境に位置する上月城周辺は、西から山名氏、さらには出雲から勢力を拡大してきた尼子氏といった外部勢力の侵攻を受けやすく、絶えず攻防が繰り返される地域となった 8 。
この過程で、上月城の性格は大きく変質していく。もはや一在地領主の安住の地ではなく、大国間の勢力争いの最前線、すなわち「国境線を規定する戦略拠点」へとその意味合いを変えていったのである。戦国時代中期の弘治3年(1557年)、赤松一門の赤松政元が置塩城から上月城に入城し、その子・政範の代には佐用、赤穂など西播磨五郡を領し、「西播磨殿」と呼ばれるほどの有力な独立勢力となっていた 8 。弱体化した赤松本家から半ば自立した政範は、自らの勢力を維持するため、西から迫る巨大勢力・毛利氏と手を結ぶという選択をする。この決断こそが、上月城を織田信長の中国侵攻軍と直接対峙させ、天下の趨勢を決する戦いの最前線へと押し出す直接的な原因となったのである。
天正5年(1577年)、織田信長の天下統一事業は、ついに西国の雄・毛利氏との全面対決の段階へと移行した。この織田・毛利の激突の最初の舞台となったのが、毛利方についた赤松政範が守る上月城であった。この戦いは、羽柴秀吉の冷徹な戦略と、信長の巧みな「代理戦争」という、織田政権の二つの側面を象徴する戦いとなった。
信長の命を受け、中国方面軍の総大将に任じられた羽柴秀吉は、同年10月、大軍を率いて播磨国へと進駐した 12 。秀吉は巧みな調略を用いて播磨の国人領主たちを次々と味方に引き入れつつ、毛利方として抵抗の意思を明確にした赤松政範の居城・上月城の攻略を最初の目標に定めた。
秀吉は、軍師として名高い竹中半兵衛と黒田官兵衛を先陣とし、まず上月城の北約4kmに位置する支城・福原城を攻略 5 。その後、上月城の東側に位置する高倉山に本陣を構え、城を完全に包囲する態勢を整えた 5 。
秀吉が率いる1万5千の軍勢に対し、赤松政範は城に籠り、徹底抗戦の構えを見せた 10 。政範は、毛利氏との同盟関係にあった備前の戦国大名・宇喜多直家に援軍を要請。これに応じ、直家は弟の宇喜多忠家(掃部介広維)を大将とする3千の兵を援軍として派遣した 18 。
宇喜多の援軍は上月城に迫ったが、秀吉はこれを予期しており、黒田官兵衛らを迎撃部隊として差し向けた。両軍は下秋里一帯で激突し、激戦の末、兵力で勝る織田軍が宇喜多軍を撃退 10 。上月城は外部からの救援を断たれ、完全に孤立した。
援軍という最後の望みを絶たれた上月城は、秀吉軍の総攻撃の前に長くは持ちこたえられなかった。天正5年12月3日、ついに城は落城し、城主・赤松政範は城中で自刃して果てた 4 。
この時、秀吉は降伏を一切認めず、城兵の首をことごとく刎ねるという厳しい処置をとった。さらに、その後の播磨平定を有利に進めるための見せしめとして、城内にいた女子供200人余りを捕らえると、播磨・備前・美作の三国国境に連行し、串刺しや磔にして晒したのである 3 。この残虐な行為が行われた場所は、後に「地獄谷」と呼ばれるようになったと伝えられている 10 。これは単なる戦の勢いによるものではなく、織田と毛利の間で日和見を続ける播磨の国人領主たちに対し、毛利につけばどのような運命が待っているかという強烈な政治的メッセージを送りつけるための、計算された「恐怖による恫喝」であった。
焦土と化した上月城に、秀吉は新たな城主を配置した。それは、かつて毛利元就に滅ぼされた出雲の名門・尼子氏の再興を悲願とする、尼子勝久と山中幸盛(鹿介)ら尼子再興軍であった 5 。
山中鹿介らは、毛利氏打倒のためには強大な後ろ盾が必要であると考え、畿内で勢力を拡大していた織田信長に接近し、その麾下に入っていた 20 。信長にとって、毛利氏への復讐心に燃える尼子再興軍は、決して裏切ることのない信頼できる駒であり、対毛利戦線の尖兵として利用価値が非常に高かった 4 。
秀吉が尼子再興軍を上月城に入れたのは、この信長の戦略に沿ったものであった。彼らを対毛利の最前線に配置することで、その復讐心を毛利への防波堤として利用する。これは、自軍の兵力を直接消耗させることなく、現地の反毛利勢力を利用して毛利の勢力を削ぐという、極めて合理的な「代理戦争」の手法であった。第一次上月城の戦いは、秀吉の「恐怖による支配」と信長の「代理戦争による勢力削ぎ」という、織田政権の二つの冷徹な戦略が同時に展開された舞台であり、赤松氏も尼子氏も、その巨大な戦略の駒として利用され、翻弄される運命の始まりであった。
尼子再興軍が上月城に入ってからわずか半年後、城は再び歴史の激流に飲み込まれる。今度は毛利氏が総力を挙げて城の奪還に乗り出し、戦国史上最も悲劇的な籠城戦の一つが繰り広げられた。この戦いは、織田信長の大局的な戦略の前では、一つの城、一つの勢力の運命がいかに脆いものであったかを如実に物語っている。
合戦名 |
時期 |
籠城方 |
兵力(籠城方) |
攻城方 |
兵力(攻城方) |
織田方援軍 |
結果 |
第一次上月城の戦い |
天正5年(1577年) |
赤松政範 |
不明(宇喜多援軍3千) |
羽柴秀吉 |
1万5千 |
- |
籠城方敗北・落城 |
第二次上月城の戦い |
天正6年(1578年) |
尼子勝久 |
2,300~3,000 11 |
毛利輝元 |
3万~6万 4 |
1万(後に撤退) 11 |
籠城方敗北・尼子氏滅亡 |
この表が示す兵力差は、尼子再興軍が置かれた状況の絶望性を明確に物語っている。第二次上月城の戦いにおいて、籠城側の兵力はわずか3千弱。対する毛利軍は少なくともその10倍以上という圧倒的な大軍であった。この状況で籠城側が生き残る唯一の道は、織田からの大規模な援軍であったが、その頼みの綱は、信長の非情な戦略的判断によって断ち切られることになる。
上月城を尼子氏に奪われたことは、毛利氏にとって勢力圏の東端を脅かされる重大事であった。天正6年(1578年)4月、毛利氏は当主・毛利輝元自らが出陣し、一族の重鎮である吉川元春・小早川隆景といった主力部隊を総動員した3万(一説には6万)を超える大軍を編成し、上月城の奪還へと向かった 4 。
毛利軍は、小規模な上月城に対して力攻めを避け、長期的な兵糧攻めを選択した。これは、無用な損害を避けつつ、確実に城を陥落させるための周到な戦術であった。吉川元春の書状によれば、毛利軍は城の周囲に「仕寄(しよせ)」と呼ばれる攻撃拠点を築き、城兵の逃亡を防ぐための「帰鹿垣(きろくがき)」と呼ばれる逆茂木を三重四重に巡らせ、さらに堀を掘るなど、蟻一匹這い出る隙もないほどの厳重な包囲網を構築した 7 。これにより、上月城は外部との連絡と補給を完全に遮断された。
毛利の大軍が上月城に迫るのとほぼ時を同じくして、織田方の戦況を根底から揺るがす大事件が勃発する。播磨で最大の勢力を誇り、一度は秀吉に臣従していた三木城主・別所長治が、突如として毛利方に寝返り、織田に反旗を翻したのである 11 。東播磨の豪族の大半がこれに同調したため、播磨の奥深くに進出していた秀吉軍は、敵中に孤立する危機に瀕した。
秀吉は上月城救援と三木城攻略という二正面作戦を強いられることになり、安土の信長に大軍の派遣を要請した。しかし、信長が下した決断は、冷徹かつ合理的であった。「上月城は見捨てよ。全軍の力を結集し、三木城の攻略に専念せよ」 3 。信長にとって、播磨平定という大戦略の鍵を握るのは、国境の小さな「点」である上月城ではなく、播磨の中心に位置し、周辺豪族に絶大な影響力を持つ「核」である三木城であった 7 。
この命令を受け、秀吉は上月城の毛利軍と対峙していた高倉山の陣を引き払い、全軍を三木城の包囲へと転進させた 24 。これにより、上月城の尼子再興軍は、味方であるはずの織田軍によって見捨てられ、完全に孤立無援となったのである。
織田軍の撤退は、籠城する尼子勢にとって死の宣告に等しかった。それでもなお、山中鹿介らの巧みな指揮のもと、彼らは士気を失わず、攻め寄せる宇喜多勢を何度も撃退するなど、絶望的な状況下で善戦を続けた 22 。しかし、兵糧と水は日に日に尽き、城兵の疲労は限界に達していた 22 。
秀吉は、撤退に際して尼子勢に城を放棄して脱出するよう促す書状を送ったとも伝えられるが、尼子勝久と山中鹿介らは、主家再興という最後の悲願をこの地に懸け、最後まで戦い抜く道を選んだ 7 。
天正6年7月3日、万策尽きた尼子勝久は、毛利方に対し、自らの首と引き換えに城兵たちの命を助けることを条件として降伏 4 。辞世の句を詠んだ後、一族と共に自刃して果てた。その際、忠臣・山中鹿介に対し、「一時なりとも尼子家を再興できたことに感謝する」との言葉を残したと伝えられている 13 。
降伏後、捕虜となった山中鹿介の運命もまた悲劇的であった。彼は毛利輝元の本陣へと護送される途中、備中国の高梁川に架かる阿井の渡しで、護送役の毛利兵によって謀殺された 4 。彼の死をもって、尼子再興の夢は完全に潰え、戦国大名としての尼子氏は歴史からその姿を消した。尼子勢は、信長の戦略通り、毛利主力を70日近くも上月城に釘付けにするという「捨て駒」としての役割を、その命と引き換えに完璧に果たしてしまったのである。
天正6年(1578年)の落城と尼子氏の滅亡をもって、上月城はその軍事的・戦略的な役割を終え、歴史の表舞台から静かに姿を消した。しかし、その跡地と、そこで繰り広げられた悲劇の物語は、戦国という時代の非情さと、それに翻弄された人々の生き様を現代に伝え続けている。
第二次上月城の戦いの後、織田と毛利の主戦場は備中高松城などさらに西へと移動していった。播磨・美作・備前の国境地帯という上月城の位置はもはや最前線ではなくなり、その戦略的価値は急速に失われた。結果として、城は再建されることなく、この落城をもって廃城となった 5 。その後、佐用郡における地域の中心的な拠点は、より規模の大きい利神城などへ移ったと考えられている 7 。近世を迎えることなく、上月城は再び静かな山へと還っていったのである。
上月城の戦いは、織田・毛利双方の戦略に大きな影響を与えた。
織田方にとって、上月城の失陥と尼子氏の滅亡は、戦術的には一つの敗北であった。しかし、大局的に見れば、それは計算された犠牲であった。尼子氏が毛利の主力軍を長期間にわたり上月城に足止めしてくれたおかげで、羽柴秀吉はその間に播磨平定の最重要課題であった三木城の包囲網を完成させることができた 7 。結果として、織田方は播磨を平定し、中国攻略をさらに前進させるという大きな戦略的利益を得たのである。
一方の毛利方にとって、上月城の奪還は戦術的な目標を達成した勝利であった。しかし、そのために輝元、元春、隆景といった首脳部を含む主力軍を長期間拘束されたことで、反旗を翻した別所長治への効果的な支援を行う機を逸し、播磨全域へ積極的に軍事介入する機会を失った。これは、広大な領土を防衛するという毛利氏の戦略の限界を示すものでもあった 12 。
現在、上月城跡は国の史跡には指定されていないものの、地元の人々によって大切に保存されている 8 。山中には、往時の激戦を物語る土塁や堀切といった遺構が良好な状態で残されており、訪れる者は戦国時代の山城の雰囲気を肌で感じることができる 5 。
城跡には、この地で散った者たちを弔う数多くの石碑が建立されている。本丸跡には、第一次上月城の戦いで自刃した赤松政範とその家臣たち132名の名を刻んだ二百五十回忌の慰霊碑が静かに佇んでいる 5 。また、麓の沢沿いには、尼子勝久と山中鹿介の追悼碑をはじめ、神西元通ら尼子家臣やその他の戦没者を祀る合同慰霊碑など、計6本もの石碑が並び、この地が多くの悲劇の舞台であったことを今に伝えている 5 。
麓に設置された「上月歴史資料館」では、上月城の戦いに関するパネル展示などを通じて、その詳細な歴史を学ぶことができる 5 。これらの史跡や施設は、上月城の記憶を風化させることなく、後世へと継承していくための重要な役割を担っている。
この戦いが、単なる局地戦として忘れ去られることなく後世に強い印象を残しているのは、何よりも山中鹿介という人物の存在が大きい。主家再興のため、「願わくば、我に七難八苦を与えたまえ」と三日月に祈ったという逸話は、彼の生き様を象徴している 30 。下剋上が常識であった戦国時代において、滅びゆく主家のために勝ち目のない戦いに身を投じ、あらゆる苦難を自ら引き受けようとしたその姿は、非合理的でさえある。しかし、人々が彼の物語に惹かれるのは、まさにその非合理的なまでの一途さと忠義の心にある 37 。上月城跡に数多く残る慰霊碑は、単なる戦没者供養だけでなく、鹿介に代表されるような、大国の論理に翻弄されながらも自らの義を貫こうとした者たちへの共感と鎮魂の念が、時代を超えて受け継がれている証左と言えるだろう。
上月城の歴史、とりわけその終焉は、戦国時代という非情な時代の論理を凝縮した縮図である。播磨・美作・備前の国境に位置するという地政学的な宿命は、この城を在地領主の安住の地から、天下統一を目指す巨大勢力の戦略盤上における一つの「駒」へと変貌させた。
第一次上月城の戦いにおける赤松政範の滅亡と、それに続く羽柴秀吉による女子供の惨殺は、織田政権の支配が圧倒的な「力」と計算された「恐怖」によって推し進められたことを示している。そして、第二次上月城の戦いにおける尼子再興軍の見殺しは、織田信長の戦略が、個人の運命や忠臣たちの悲願をも度外視した、極めて冷徹な「合理性」に基づいていたことを何よりも雄弁に物語っている。尼子氏は、織田方にとって対毛利戦線の有用な道具であったが、戦略的価値が三木城へと移行した瞬間、躊躇なく切り捨てられる運命にあった。
上月城は、その戦略的価値が失われた瞬間に歴史の表舞台から姿を消した。しかし、山中鹿介の不撓不屈の物語と共に、その名は日本の戦国史に深く刻まれている。それは、歴史が単なる勝者の記録によってのみ紡がれるのではなく、大義のために散っていった敗者たちの記憶によっても豊かになることを示している。静寂に包まれた上月城の跡地に立つとき、我々は天下統一という大義名分の下に繰り広げられた戦略の非情さと、それに抗い、翻弄されながらも自らの義と情念を貫こうとした人間たちの姿という、戦国時代の二つの側面を同時に目の当たりにするのである。