奥州の要衝、不来方城は南部信直が秀吉の命により築城を開始。九戸政実の乱を契機に、三代40年をかけ総石垣の巨城として完成。その石垣は東北の築城史に画期をもたらし、盛岡藩の礎となった。
現在の岩手県盛岡市の中心部、北上川と中津川が合流する地に、今なお壮麗な花崗岩の石垣を残す盛岡城跡。その前身である「不来方城(こずかたじょう)」は、戦国時代の末期、天下統一の奔流が奥州の地に及ぶ中で産声を上げた。本報告書は、この城の単なる沿革を追うことに留まらない。南部氏一族の命運、中央政権の地政学的戦略、そして西国からもたらされた最新の築城技術が交差した一大事業の実像を、歴史的、地理的、技術的、そして文化的な側面から多角的に解明することを目的とする。
歌人・石川啄木が「不来方のお城の草に寝ころびて 空に吸はれし 十五の心」と詠んだ牧歌的な情景の背後には、血で血を洗う権力闘争と、国家規模の戦略的意図が隠されている 1 。当時、東北地方においては極めて異例であった総石垣の巨城は、なぜこの地に必要とされ、いかにして築かれたのか。本報告書は、築城以前の土地の記憶から、城の誕生、その構造的特徴、そして近世を通じて果たした役割までを徹底的に検証し、不来方城が持つ重層的な歴史的意義を明らかにするものである。
南部信直による大規模な築城が開始される以前から、「不来方」の地は独自の歴史と文化を育んでいた。その名は伝説と地形の両面に由来を持ち、この土地が持つ重層的な性格を物語っている。
南部信直が近世城郭としての不来方城を築く以前、この丘陵には中世的な館が存在した。これは南部氏の家臣であった福士氏(一説には米内氏、日戸氏とも)の居館であり、室町時代からこの地を治めていたとされる 2 。この館は「不来方城」、あるいは館の主の名から「慶善館(けいぜんだて)」や「淡路館(あわじだて)」とも呼ばれていた 3 。
特筆すべきは、この福士氏が、後に南部宗家と激しく対立することになる有力庶家・九戸氏と縁戚関係にあった点である 6 。この政治的関係性は、九戸政実の乱後、信直が新たな領国支配体制を構築する上で、福士氏を不来方の地から移転させ、この地を直轄の築城拠点とする遠因となった。信直による築城事業は、全くの更地に新たな拠点を設けるという単純なものではなく、領国内の旧来の勢力構造を刷新し、信直を中心とする新たな支配体制を物理的に誇示する行為であった。特に、敵対した九戸氏と繋がりのある福士氏を移転させることは、乱後の「戦後処理」の一環であり、築城そのものが信直の権威を絶対的なものにするための政治的パフォーマンスであった側面が強い。
「不来方」という雅な響きを持つ地名には、二つの異なる由来が伝えられている。一つは地域に根差した伝説であり、もう一つは土地の地理的特徴に基づくものである。これら二つの由来は、単なる異説として対立するのではなく、この土地が持つ二重の性格、すなわち精神的・文化的な意味合いと、物理的・経済的な機能とが重なり合って形成された歴史の深層を示している。
最も広く知られているのは、盛岡市内に現存する三ツ石神社にまつわる「鬼の手形」伝説である 7 。その昔、この地に羅刹鬼とよばれる鬼が現れ、住民を苦しめ、悪事を繰り返していた。困り果てた人々が三ツ石の神に祈願したところ、神は鬼を捕らえ、境内にある三つの巨岩に縛り付けた。降参した鬼が、二度とこの地には来ないこと、そして悪さをしないことを誓ったため、神は鬼を許した。この「鬼が二度と来ない場所」という誓いが転じて、この一帯を「不来方」と呼ぶようになったと伝えられている 7 。
この伝説は、鬼が誓いの証として岩に残した手形が「岩手」という県名の起源になったという話や、鬼の退散を喜んだ人々が踊ったことが盛岡名物「さんさ踊り」の始まりであるという伝承にも繋がっており、地域のアイデンティティ形成に不可欠な物語として深く根付いている 9 。
伝説とは別に、より実利的な地形的要因を語源とする説も有力である 12 。不来方の地が、北上川と中津川という二つの大河が合流する地点に形成された河岸段丘であることに着目した説である。この場所が、川を渡るための要衝、すなわち渡し場としての機能を持っていたことから、川を「越す潟(こしかた)」という言葉が時を経て「こずかた」へと転訛した、というものである 12 。
また、アイヌ語で「小谷の上にあるところ」を意味する「コッ・カ・タ」が語源であるとする説も存在する 13 。いずれの説も、不来方が古代から交通の結節点として重要な役割を果たしてきたことを示唆している。
このように、「不来方」という地名は、古代から続く人々の信仰や物語の世界と、交通の要衝という現実的な地理的価値が重なり合って形成された、土地の記憶そのものである。城が築かれる以前から、この地が単なる未開の地ではなく、文化的にも戦略的にも重要な場所であったことが、その名のうちに示されているのである。
不来方城の築城は、南部氏一族の内部対立という「内なる要因」と、豊臣秀吉による天下統一事業という「外なる要因」が複雑に絡み合った末に実現した、戦国末期の必然的な産物であった。
南部家第24代当主・南部晴政が没すると、その養子であった石川(南部)信直が第26代当主として家督を継承した 14 。しかし、晴政の実子である晴継が父の死後すぐに急逝したこと(信直による暗殺説も囁かれた)などを巡り、一族内には深刻な対立の火種が燻っていた 15 。
この信直の家督相続に対し、公然と不満を表明したのが、一族の中でも屈指の実力者であった九戸政実である 15 。政実は南部一族としての誇りが高く、信直の出自や家督継承の経緯に強い疑念を抱き、両者の関係は抜き差しならないほどに悪化していた 16 。派手さはないものの堅実な手法で権力基盤を固めようとする信直にとって、政実は領国経営における最大の障害であった 19 。
天正18年(1590年)、豊臣秀吉は小田原の北条氏を滅ぼして天下統一を成し遂げ、その勢いのまま奥州仕置に着手した。信直は、いち早く秀吉に臣従することで南部宗家としての地位と所領の安堵を得ることに成功する 14 。しかし、この中央政権による奥州への直接的な介入は、現地の諸勢力、特に独立性の高かった九戸政実の強い反発を招いた 17 。
天正19年(1591年)、政実は「奥州とは無縁の者に領土の口出しをされることは我慢ならない」として、5000の兵を率いて挙兵する(九戸政実の乱) 16 。信直は独力での鎮圧を試みるも、逆に配下の国人衆が政実方に寝返るなど苦戦を強いられ、鎮圧に失敗する 17 。窮地に陥った信直は、豊臣秀吉に援軍を要請した。
秀吉にとって、この乱は自らの天下統一事業を総仕上げする絶好の機会であった。彼は蒲生氏郷、浅野長政(長吉)らを総大将とする6万ともいわれる大軍を奥州へ派遣した 16 。圧倒的な兵力差の前に、難攻不落を誇った九戸城もついに落城し、政実は降伏の末に処刑された。この乱の鎮圧をもって、秀吉の天下統一は名実ともに完成したのである 20 。
乱の鎮圧後、豊臣軍の総大将であった蒲生氏郷と浅野長政は、南部氏の領国経営に対して重要な助言を行った。それは、当時の本拠地であった九戸城(乱後に信直が三戸城から移転)が、広大になった南部領の北に偏りすぎており、統治上非効率であるという指摘であった 6 。
彼らは、領国のほぼ中央に位置し、南の伊達政宗への備えともなる不来方の地へ本拠を移すことを強く勧告した 6 。これは単なる助言というよりも、豊臣政権の奥州支配戦略の一環であり、事実上の命令に近いものであった 23 。不来方は、北上川と中津川が合流する天然の要害であり、水運を利用した物流の拠点としても最適地であった 1 。また、当時の米作の北限地帯でもあり、経済的にも極めて重要な意味を持つ場所だったのである 25 。
不来方城の築城は、南部信直の自発的な領国経営計画という側面以上に、「九戸政実の乱という内乱の帰結」と「豊臣政権という中央権力の介入」という二つの力が作用して生まれたものであった。信直にとって、この新城は一族内の反対勢力を完全に沈黙させ、自らの権威を不動のものとするための象徴であった。一方、豊臣政権にとっては、奥州支配を確実なものにするための戦略的拠点であった。この城は、誕生の瞬間から、南部氏の城であると同時に、「豊臣の城」としての性格を色濃く帯びていたのである 23 。
不来方城の築城は、南部信直、利直、重直の三代、およそ40年の歳月を要した壮大な事業であった。それは度重なる自然災害との戦いであり、中央の最新技術を東北の地に移植する一大プロジェクトでもあった。
不来方城の設計には、豊臣政権の中枢が深く関与していた。
築城は、まさに苦難の連続であった。
この40年にわたる築城期間は、単なる工期の長さを示すものではない。それは、南部氏の権力が信直、利直、重直へと世代を超えて継承され、確固たるものになっていく過程そのものを象徴している。同時に、浅野長政の設計、内堀伊豆の指揮、そして割普請という工法に見られるように、中央の最新土木技術が人的交流を通じて体系的に東北へ移植されたことを示す動かぬ証拠である。この城は、石や木材だけでなく、「技術」と「権力」を組み上げて造られたと言えよう。
盛岡城を最も特徴づける要素は、その壮麗な総石垣である。東北地方の近世城郭としては異例の規模と技術を誇り、南部氏の権威と財力を象徴するものであった。
戦国時代から江戸時代初期にかけて、関東・東北地方の城郭は、依然として土を盛り上げた土塁を防御の主体とすることが多く、城全体を石垣で囲む「総石垣」の城は極めて珍しい存在であった 33 。そのような中で築かれた盛岡城の総石垣は、大坂城や名古屋城といった西国の巨大城郭に匹敵する威容を誇り、南部氏の権威を内外に強く誇示する目的があったと考えられる 21 。
この大規模な石垣普請を可能にした最大の要因は、地理的な優位性にあった。城が築かれた丘陵自体が、良質な花崗岩の岩盤で形成されていたため、石材を遠方から運ぶことなく、現地で豊富に調達することができたのである 23 。これにより、資材コストを大幅に抑制し、長期にわたる大規模な工事を継続することが可能となった。
盛岡城の石垣は、約40年にわたる築城期間と、その後の江戸時代を通じた改修・修復の歴史を反映し、複数の時代の石積み技術が混在している。そのため、「石垣の野外博物館」とも評され、その変遷をたどることで、南部藩の技術力の発展を読み取ることができる 24 。
この石垣技術の変遷は、単なる建築様式の変化ではない。それは、戦国末期の混乱期に発足した盛岡藩が、江戸時代の泰平の世を通じて藩体制を安定させ、技術力を蓄積し、財政基盤を確立していく過程そのものを物語る「物言わぬ歴史書」である。初期の野趣あふれる石垣は戦国の記憶を、後期の整然とした美しい石垣は泰平の世の権威を、それぞれ体現しているのである。
専門的で複雑な石垣技術の変遷を、時期、場所、技法、石材といった複数の要素で整理し、一目で理解できるよう以下にまとめる。
構築時期 |
年代(目安) |
主な場所 |
石材 |
積み方 |
矢穴長(目安) |
備考 |
第1期 |
慶長3年(1598)~ |
本丸、二ノ丸等の基底部 |
野面石、割石 |
乱積A |
9~13cm |
築城初期。自然石の風合いが残る。 |
第2期 |
元和3年(1617)~ |
城内全域(大規模改修) |
割石主体 |
乱積B |
14~22cm |
本格的な石垣普請。加工度向上。 |
第3期 |
元和6年(1620)~ |
天守台、隅部等の補強 |
割石 |
乱積C |
14~17cm |
細部の整備・補強。 |
第4期 |
寛文8年(1668)~ |
本丸南西部、二ノ丸西部 |
規格材(方形) |
布積A |
5~10cm |
高度な加工技術。垂直に近い勾配。 |
第5期 |
宝永元年(1704)~ |
各所の修復 |
転用材、規格材 |
布積B |
5~6cm |
維持・修復期。より精密な布積み。 |
城の完成と共に、その名もまた時代の要請に応じて変化し、新たな都市のアイデンティティを形成していった。不来方城は盛岡城となり、盛岡藩の政治・経済・文化の中心として明治維SHINまでその役割を果たした。
地名の変更は、領主の強い意志の表れであった。
この下の句にある「盛り上がり栄える岡」という未来への願いが、新しい地名「盛岡」に込められたのである 6 。この改称は、単なる名称変更ではない。それは、土地に刻まれた古い記憶(鬼伝説や旧勢力)を一度リセットし、南部藩主の権威と繁栄への意志を基盤とする新たな「公的な記憶」を上書きする、高度な政治的・文化的行為であった。城の物理的な建設が領土の支配を確立する行為であるならば、地名の改変は人々の意識と思想を支配する行為であったと言える。
寛永10年(1633年)の全城竣工以降、盛岡城は明治維新に至るまでの約240年間、南部氏が治める盛岡藩の藩庁として、北奥羽支配の中枢を担った 3 。藩の石高は当初10万石であったが、新田開発などにより、幕末には20万石にまで高直しされている 26 。
城の築城と並行して、城下町の建設も進められた。中津川以北の湿地帯が埋め立てられて市街地が形成され、中津川には物流と交通の動脈となる「上ノ橋」「中ノ橋」「下ノ橋」の盛岡三橋が架けられた 6 。これにより、盛岡は政治の中心であると同時に、経済の中心地としても大きく発展していった。
時代の変遷と共に、城の役割も終わりを迎える。
不来方城の築城は、南部氏一族の内部抗争という地域的な動乱と、豊臣政権による天下統一という全国的な大変動が交差する中で生まれた、戦国末期の必然的な帰結であった。この城は、単なる軍事拠点という一面的な存在に留まらない、極めて多義的な性格を帯びていた。
第一に、それは南部信直の権威を領内外に確立するための「政治的モニュメント」であった。敵対勢力と繋がりのあった旧来の館を排し、全く新しい規模と構造の城を築くことで、自らの支配の正統性と絶対性を誇示したのである。
第二に、中央の先進技術が東北の地にもたらされたことを示す「技術的シンボル」であった。浅野長政の設計、割普請という工法、そして時代と共に進化を遂げた石垣技術は、この城が閉鎖的な北の城ではなく、天下の動向と密接に連動した、開かれた城であったことを物語っている。
第三に、近世都市・盛岡の誕生を促した「経済的・文化的中心地」であった。城の建設は、大規模な城下町の整備を伴い、人、物、情報が集積する新たな都市の核を形成した。「不来方」から「盛岡」への改称は、この新しい都市に未来への繁栄というアイデンティティを与える象徴的な出来事であった。
明治維新によって建物が失われた今もなお、その壮大な石垣は400年以上の風雪に耐え、我々の前にその姿をとどめている。それは、築城に関わった名もなき人々の苦難、南部氏三代の野心と栄枯盛衰、そして戦国という時代の終焉を、雄弁に物語る「歴史の証人」である。その石一つ一つに、北の国の激動の歴史が、確かに刻まれているのである。