越後の要衝、与板城は飯沼氏から直江氏へ受け継がれ、直江兼続が領国経営の拠点として整備。御館の乱で景勝方を支え、治水や産業振興で繁栄するも、上杉氏の会津移封に伴い廃城。兼続の功績を今に伝える。
戦国時代の越後国を語る上で、与板城は単なる一介の山城として片付けることのできない、極めて重要な歴史的座標を占めている。その価値を理解するためには、まず、この城が置かれた越後という国の特異な政治情勢と、与板という土地が持つ地理的・戦略的な意味を解き明かす必要がある。
当時の越後は、名目上の最高権力者である守護・上杉氏と、実質的な国政を担う守護代・長尾氏の二重権力構造の下にあり、さらに国内各地には独立性の高い国人衆が割拠するという、極めて複雑で流動的な情勢にあった 1 。このような状況下で一国を掌握するためには、単に軍事力で圧倒するだけでなく、経済と交通の動脈を支配下に置くことが不可欠であった。
与板は、まさにその要衝に位置していた。信濃川左岸、西山丘陵が越後平野に接する東端にあり、越後中央部を貫流する信濃川の舟運を直接的に管理できる地勢を有していたのである 3 。これは、平時においては物資輸送の結節点として経済的利益をもたらし、戦時においては兵員や兵糧を迅速に輸送するための軍事的な生命線となることを意味した。したがって、与板を支配下に置くことは、周辺の国人衆に対する物理的・経済的な圧力を強化し、ひいては越後中央部の支配権を確立するための決定的な布石であった。与板城の歴史は、この地を巡る権力闘争の歴史そのものであり、長尾氏、後の上杉氏による越後統一事業という、より大きな歴史的文脈の中で捉えなければ、その本質を見通すことはできない。
与板の地に最初に確固たる支配を築いたのは、守護・上杉氏の重臣であった飯沼氏であると伝えられている。彼らが拠点としたのが、後に与板城が築かれる城山から北へ約2kmに位置する「本与板城」であった 5 。本与板城は、典型的な中世の山城であり、飯沼氏はここを拠点として周辺地域に権勢を振るっていた。
しかし、16世紀初頭の越後は、下剋上の嵐が吹き荒れる激動の時代であった。守護・上杉房能とその権力強化に反発する守護代・長尾為景(上杉謙信の父)との対立が先鋭化し、国中を二分する内乱「永正の乱」が勃発する 1 。この大乱において、飯沼頼清は旧来の主家である守護・上杉方に与した 6 。この選択が、飯沼氏の運命を決定づけることになる。永正十一年(1514年)、長尾為景との戦いに敗れた飯沼氏は没落し、与板の支配権は事実上、為景の手に帰した 6 。これは単なる一豪族の興亡に留まらず、越後の権力構造が、旧来の守護体制から、実力で覇権を握った守護代・長尾氏の体制へと大きく転換したことを象徴する画期的な出来事であった。
飯沼氏の没落後、長尾氏の重臣である直江氏が与板の新たな支配者となる。しかし、その具体的な経緯については、複数の記録が存在し、歴史の複雑な綾を物語っている。
一つの記録によれば、永正の乱で飯沼氏が敗れた直後、長尾為景に与した直江氏がその所領を受け継ぎ、本与板城に入城したとされる 6 。これは、永正の乱の論功行賞として与板が直江氏に与えられたと解釈できる。
一方で、より多くの記録が伝えるのは、天文年間(1532年~1554年)の出来事である。父・為景の跡を継いで越後の国主となった長尾景虎(後の上杉謙信)が、改めて飯沼頼清を討伐し、自らの腹心である直江景綱(実綱)を本与板城に入城させたとされている 5 。この時点から、景綱、その養子・信綱、そして兼続へと続く直江氏三代による与板支配が本格的に始まったと伝えられている 5 。
これら二つの記録は、一見すると矛盾しているように思えるが、むしろ半世紀近くにわたる権力移行のプロセスとして捉えることで、より深い歴史的実像が浮かび上がる。永正の乱によって飯沼氏は決定的な打撃を受け、長尾氏の支配下に組み込まれたものの、その勢力が完全に一掃されたわけではなく、限定的ながらも在地領主としての地位を保っていた可能性が考えられる。その後、景虎(謙信)が越後統一を盤石なものとする最終段階において、旧守護方の残存勢力である飯沼氏を完全に排除し、最も信頼の厚い重臣である直江景綱を送り込むことで、与板の直接的かつ完全な掌握を成し遂げたのではないか。
この城主交代劇は、単なる領主の入れ替えではない。それは、越後における「守護体制から戦国大名体制へ」という巨大な地殻変動の縮図であり、上杉謙信による新たな支配体制が、旧勢力を完全に払拭し、確立された瞬間を象徴する出来事だったのである。
直江氏の支配下で、与板の地には二つの城が存在した。古くからの拠点である「本与板城」と、新たに築かれた「与板城」である。この二つの城郭の構造を比較分析することは、戦国時代における築城技術の発展と、城に求められる役割、すなわち戦略思想そのものの進化を理解する上で、極めて重要な示唆を与えてくれる。
本与板城は、比高約60mの丘陵に築かれた、典型的な中世山城である 11 。その縄張りは、山頂の主郭を中心に、尾根筋に沿って複数の曲輪を配置し、それらを土塁や堀切で防護する構造となっている。特に、主郭の西側には二重の堀切が設けられるなど、防御への強い意識が窺える 11 。山麓には、城主の平時の居館があったとされる光西寺が存在し 11 、有事の際には山城に立て籠もり、平時は山麓の館で政務を執り行うという、当時の武士の生活様式を色濃く反映している。その構造は、あくまで敵の攻撃から身を守る「防衛拠点」としての性格が強いものであった。
これに対し、新たに築かれた与板城は、より大規模かつ洗練された構造を持っていた。この城は、本与板城から南へ約2km離れた城山(標高104m、比高85m)に、天正年間(1573年~1593年)に直江景綱、あるいはその子・信綱の代に築城されたとされている 13 。
与板城の最大の特徴は、その縄張りにある。山頂に実城(本丸)を置き、そこから南の尾根筋に沿って二ノ郭、三ノ郭を一直線に配置する「直線連郭式」と呼ばれる形態を採用している 13 。そして、それぞれの郭は、深さ10m近くにも達する極めて鋭利で大規模な堀切によって厳重に分断されていた 11 。これは、敵の侵攻を段階的に食い止め、各個撃破を可能にする、より高度な防御思想の表れである。また、城内には直江兼続の妻・お船の方が用いたと伝わる「おせん清水(お船清水)」と呼ばれる井戸跡も現存し 13 、籠城戦にも耐えうる設計であったことがわかる。
堅固な防御力を有する本与板城を放棄し、莫大な労力と費用をかけて新たな与板城を築いた理由は、史料上明確にはされていない 11 。しかし、二つの城の構造と立地を比較することで、その背景にある戦略思想の変化を読み解くことができる。
第一に、軍事技術の進化への対応が挙げられる。戦国後期の戦闘はより激しさを増し、鉄砲などの新兵器も導入されつつあった。これに対応するため、堀切を多用し、より高所に城を構えるなど、当時の最新築城術を取り入れた、より防御能力の高い城郭が必要とされた可能性は高い 11 。
しかし、より決定的だったのは、政治・経済的な理由であろう。本与板城が山中に孤立した防衛拠点であったのに対し、与板城の麓には、現在の与板市街地の基礎となる城下町が計画的に形成されたと推察されている 11 。これは、城が単なる軍事施設ではなく、領国経営の中心地としての機能を強く意識して築かれたことを示唆している。新たな城の麓に商工業者を集住させ、町を整備することで、領国の経済を活性化させ、統治の効率化を図る狙いがあったと考えられる 17 。
本与板城から与板城への移転は、単なる城の建て替えではない。それは、城郭に対する「思想」そのものの進化を物語っている。本与板城が純粋な「防衛拠点」である中世的な山城であるのに対し、与板城は高い防御力を備えつつも、麓の城下町と一体化して「領国経営の政治経済的中心地」としての機能を担う、近世城郭への過渡期の姿を明確に示している。この移転は、直江氏、ひいては上杉氏が、単に土地を軍事的に支配する領主から、民政や経済をも統括する「戦国大名」へと質的に変化していく過程を、城郭という物的な証拠で示しているのである。
比較項目 |
本与板城 |
与板城 |
所在地 |
長岡市与板町本与板 15 |
長岡市与板町与板(城山) 13 |
標高/比高 |
不明/約60 m 11 |
104 m/85 m 14 |
縄張り形態 |
丘陵を利用した中世山城 11 |
直線連郭式山城 13 |
防御施設の特徴 |
土塁、二重堀切 11 |
大規模で鋭い堀切、土塁 11 |
推定される主要機能 |
軍事防衛拠点 11 |
軍事拠点兼領国経営の中心地 11 |
城下町との関係性 |
山麓居館と分離 11 |
城下町と一体化した計画的配置 11 |
与板城の名を戦国史に不朽のものとしたのは、何と言ってもその最後の城主、直江兼続の存在である。彼の城主時代、与板城は単なる軍事拠点に留まらず、疲弊した上杉家の再建を支える領国経営の先進地として、そして兼続自身の為政者としての能力を開花させる揺りかごとして、その絶頂期を迎えることとなる。
天正6年(1578年)、上杉謙信の急死は、越後を再び戦乱の渦に巻き込んだ。謙信の二人の養子、上杉景勝と上杉景虎の間で勃発した家督相続争い「御館の乱」である 18 。この内乱において、当時の与板城主・直江信綱は一貫して景勝方に属し、景虎方の拠点であった栃尾城への牽制や攻撃を担うなど、軍事的に極めて重要な役割を果たした 15 。与板城は、景勝方が中越地域を確保するための戦略的拠点として機能し、乱の勝利に大きく貢献した。
しかし、乱の終結からわずか2年後の天正9年(1581年)、信綱は悲劇的な最期を遂げる。論功行賞への不満を募らせた毛利秀広によって、春日山城内で斬殺されてしまったのである 16 。嫡子のいなかった直江家は断絶の危機に瀕したが、主君・上杉景勝はこれを座視しなかった。名門・直江家の存続を強く願い、自らの最も信頼する側近であった樋口兼続に、信綱の未亡人・お船の方を娶らせ、直江家を継がせるという決断を下した 19 。こうして、22歳の若き兼続は、上杉家屈指の名門の当主となり、与板城主としてそのキャリアの第一歩を踏み出したのである。
天正9年(1581年)から慶長3年(1598年)に至る17年間、与板城主・直江兼続は、この地を拠点として驚くべき内政手腕を発揮する。彼の施策は、単なる領地の管理に留まらず、地域の未来を見据えた総合的な地域開発であった。
兼続は与板城主という立場にありながら、その活動範囲は一地域に留まらなかった。彼は上杉家の執政として、主君・景勝を補佐し、中央政権との外交交渉を一手に担っていた 20 。豊臣秀吉への臣従、佐渡平定、奥羽仕置といった重要局面において、兼続は常に上杉家の中枢として活躍した。その間、春日山や上洛後の伏見と与板を頻繁に行き来する多忙な日々を送っていたが 3 、与板は常に彼の本拠地であり、領国経営のモデルケースであり、そして彼を支える家臣団「与板衆」の拠点であり続けた。
一般に直江兼続の功績は、関ヶ原の戦い以降の米沢藩経営において高く評価されることが多い 21 。しかし、その卓越した為政者としての手腕の原型は、すべてこの与板城主時代に形成されている。治水事業、産業振興、城下町整備といった内政手腕、そして与板衆という効率的な統治機構の構築と運用。これらは、後に米沢で展開される大規模な藩政改革の、いわば「試行版」であり、成功モデルであった。御館の乱で疲弊した上杉家を立て直すため、景勝が軍事を、兼続が内政と外交を担うという役割分担が確立されていく中で、その内政の実験場となり、輝かしい成功を収めたのが与板だったのである。したがって、与板城主時代は兼続のキャリアにおける単なる一時期ではなく、彼の為政者としての能力を証明し、上杉家における絶対的な地位を築き上げた、決定的に重要な「原点」と位置づけるべきである。
西暦(和暦) |
与板城・本与板城での出来事 |
関連人物の動向 |
越後国内および中央の情勢 |
1514年(永正11) |
本与板城主・飯沼氏が没落 6 |
長尾為景が飯沼氏を破る 6 |
永正の乱 |
1532-54年(天文年間) |
直江景綱が本与板城主となる 5 |
長尾景虎(上杉謙信)が飯沼氏を討伐 5 |
謙信による越後統一が進む |
1573-93年(天正年間) |
与板城 が築城され、本与板城から移転 15 |
城主:直江景綱、信綱 |
織田信長が勢力を拡大 |
1578年(天正6) |
与板城は景勝方の拠点として機能 16 |
直江信綱が景勝方で参戦 |
御館の乱が勃発 |
1581年(天正9) |
直江兼続 がお船の方を娶り、 与板城主 となる 19 |
直江信綱が殺害される 19 |
新発田重家の乱が始まる |
1582年(天正10) |
|
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本能寺の変 |
1586年(天正14) |
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兼続、景勝と共に上洛し秀吉に臣従 19 |
豊臣秀吉が天下統一を進める |
1595年(文禄4) |
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兼続、「藤井堰の掟書」を発布 19 |
太閤検地が実施される |
1598年(慶長3) |
与板城が廃城 となる 14 |
兼続、景勝に従い会津へ移封 14 |
上杉家が会津120万石へ移封 |
栄華を極めた与板城であったが、その終焉は突如として、そして戦によってではなく、巨大な政治の力学によってもたらされた。それは、戦国という時代の終わりを告げる象徴的な出来事であった。
慶長3年(1598年)、天下を統一した豊臣秀吉は、全国的な大名配置の転換を断行する。その一環として、上杉景勝は長年支配した越後の地を離れ、会津120万石へと加増移封されることとなった 14 。主君の移封に伴い、筆頭家老である直江兼続もまた、与板の地を去ることを余儀なくされた。兼続には、景勝の領国の中から米沢6万石(与力を含めると30万石)が与えられ、新たな領国経営の任に就くこととなる 29 。
主を失った与板城は、その軍事的・政治的な役割を完全に失い、この時に廃城となった 14 。兼続が与板を去る際、家臣がその別れを惜しんで杉を植えたという「城の一本杉」の伝承は 14 、領主と領民の間に築かれた深い絆を今に伝えている。
与板城の廃城は、落城や老朽化といった物理的な要因によるものではない。それは、豊臣中央政権による国家規模の政策決定の結果であり、個々の戦国大名が自らの意志で領地を定め、城を築いた時代が終わりを告げたことを明確に示している。大名の運命が中央政権の意向によって左右される、近世封建体制への移行を象徴する出来事であった。
戦国時代の山城としての与板城が歴史の舞台から姿を消した後、江戸時代に入ると、与板の地には新たな支配の拠点が築かれた。寛永11年(1634年)、長岡藩主・牧野忠成の次男・康成が与板藩を立藩し、平地に「与板陣屋」を構えたのがその始まりである 15 。その後、藩主は井伊氏に代わり、文化元年(1804年)には城主格となって「与板城」とも称されるようになったが、これは直江氏の山城とは全く別の、行政庁としての性格が強い城館であった 15 。この近世の与板城(陣屋)は、幕末の戊辰戦争の戦火によって、大手門などを除き焼失した 31 。
現在、新潟県史跡として保存され、我々が「与板城跡」として訪れることができるのは、直江氏三代が居城とした戦国時代の山城の遺構である 14 。山城である「与板城」の廃城と、平地に築かれた「与板陣屋」の出現は、日本の歴史における大きな時代の転換を物理的に示している。すなわち、「戦の時代」の象徴であった山城がその役目を終え、「治の時代」の行政拠点である陣屋がそれに取って代わったのである。
城跡には、往時の姿を偲ばせる深い堀切や曲輪跡が良好な状態で残り、実城跡には城山稲荷神社が祀られている 11 。そして麓には、与板の歴史と文化、そして直江兼続の功績を伝える「与板歴史民俗資料館(兼続お船ミュージアム)」が設けられ 31 、与板城が刻んだ記憶を未来へと継承している。
越後の山城、与板城。その歴史を深く掘り下げることで見えてくるのは、単なる一地方城郭の興亡史ではない。それは、戦国という激動の時代を映し出す、多層的で豊かな歴史の物語である。
第一に、与板城の歴史は、 上杉家の興亡を映す鏡 であった。飯沼氏に象徴される旧守護体制の崩壊から、謙信による越後統一の完成、御館の乱という内部分裂の危機、そして景勝・兼続体制による再建と中央政権への従属に至るまで、上杉家の戦国史における重要な転換点は、常に与板城の城主交代や役割の変化と軌を一にしていた。
第二に、与板城は、 名将・直江兼続の「義」と「愛」の原点 であった。若き兼続が城主として初めて領国経営の全責任を負い、治水、産業振興、統治機構の整備といった、後の米沢藩政の礎となる諸政策を実践し、成功を収めた地である。彼の理想とした為政者の姿は、この与板の地で育まれたと言っても過言ではなく、兼続という人物を理解する上で不可欠な場所である。
第三に、与板城は、 戦国城郭の進化を示す標本 としての価値を持つ。中世的な防衛拠点であった本与板城から、領国経営の中心地としての機能を併せ持つ近世的な与板城への移転は、城郭が単なる軍事施設から、政治・経済をも包含する領域支配の拠点へと変貌を遂げる、戦国時代後期の重要な移行期を体現する貴重な事例である。
結論として、与板城は、戦国越後の政治的縮図であり、名将・直江兼続を育んだ揺りかごであり、そして時代の変化を体現した歴史の証人として、日本の戦国史において特筆すべき重要性を持つ城郭である。その遺構は、今なお訪れる者に、乱世を駆け抜けた武将たちの息吹と、新たな時代を切り拓こうとした為政者の情熱を雄弁に物語っている。