最終更新日 2025-08-23

亀迫城

備中亀迫城の研究 ― 毛利元清の東進戦略と陣城の構造分析

序論:戦国期備中における亀迫城の位置づけ

岡山県井原市西江原町に所在した亀迫城(かめざこじょう)は、室町時代末期の元亀元年(1570年)、安芸の戦国大名・毛利氏によって築かれた山城である 1 。通説では、毛利元就の四男・毛利元清が指揮を執り、備中東部への勢力拡大を図るための戦略拠点、すなわち橋頭堡として機能したとされている 2 。その構造は山頂の主郭を中心に複数の帯曲輪を配した比較的簡素なものであり、短期間でその役割を終え、慶長5年(1600年)の関ヶ原合戦後に廃城となったと推定されている 1

しかし、この城の歴史的意義は、単なる概要の確認に留まるものではない。なぜこの城は、元亀元年という特定の時期に、西江原という場所に、そしてこれほどまでに簡素な構造で築かれなければならなかったのか。これらの問いに答えるためには、城そのものを静的な「史跡」として捉えるだけでなく、当時の備中地域を席巻していた激しい権力闘争のダイナミズムの中に位置づけ、毛利氏の広域戦略を体現する動的な「軍事装置」として分析する必要がある。

本報告書は、この視座に基づき、亀迫城を徹底的に解明することを目的とする。具体的には、第一章で築城の直接的な引き金となった「備中兵乱」の動向を整理し、第二章では築城を担った毛利元清、城主とされた宍戸隆家ら指揮系統の分析を通じて毛利氏の統治戦略を考察する。続く第三章では、城郭考古学の知見からその縄張り(構造)を分析し、特定の軍事目的に特化した「陣城」としての性格を明らかにする。第四章では、この城を拠点として展開された具体的な軍事行動を追跡し、毛利氏の侵攻戦術を論じる。そして最終章で、城の終焉と史跡としての現代的価値、さらに諸説を検討し、総合的な結論を導き出す。これにより、一見小規模なこの城郭が、戦国大名・毛利氏の高度な戦略思想をいかに凝縮して体現していたかを明らかにしていく。

第一章:築城前夜 ― 備中兵乱の胎動と後月郡の情勢

亀迫城の築城は、決して突発的な軍事行動の産物ではない。それは、数十年にわたり備中地域で繰り広げられた複雑な権力闘争の帰結であり、毛利氏による周到な勢力圏再編プロセスの一環であった。本章では、築城に至るまでの備中、特に西江原を含む後月郡の政治・軍事情勢を詳述する。

1-1. 庄氏による長期支配

亀迫城が位置する井原市西江原地域は、室町時代末期、長きにわたり備中松山城(現・高梁市)を本拠とする庄氏の支配下にあった 5 。現地の説明板や複数の資料によれば、その支配は天文2年(1533年)から元亀元年(1570年)までの38年間に及んだとされ、庄為資(しょう ためすけ)とその長男・高資(たかすけ)の父子がこの地を治めていた 1 。庄氏は鎌倉時代初期に関東から備中国草壁郷の地頭として入部したとされる伝統的な国人領主であり、猿掛城(現・矢掛町)などを拠点として備中中部に強固な地盤を築いていた 6 。この38年という長期支配は、西江原地域における庄氏の影響力が根深いものであったことを示唆しており、後の毛利氏による介入が、単なる領土の奪取だけでなく、既存の支配秩序そのものを覆す行為であったことを理解する上で重要な前提となる。

1-2. 三村氏の台頭と毛利氏との連携

庄氏が備中中部で勢力を維持する一方、備中西部では川上郡成羽(現・高梁市成羽町)を本拠とする三村家親(みむら いえちか)が急速に台頭した 2 。三村氏は当初、庄氏と同様に備中の有力国人の一人であったが、家親の代に中国地方最大の勢力であった安芸の毛利元就と結びつくことで、その勢力を飛躍的に拡大させる 1 。毛利氏という強力な後ろ盾を得た三村家親は、備中統一の野望を抱き、同じく毛利氏の支援を受けていた庄氏と次第に対立を深めていった。永禄4年(1561年)には、毛利氏の支援の下、三村家親が庄高資に替わって備中松山城主となるなど、備中の覇権は三村氏へと傾いていった 7 。しかし、永禄9年(1566年)、家親は備前国の宇喜多直家の謀略により暗殺され、備中情勢は再び流動化する 7

1-3. 元亀元年の軍事衝突

父の跡を継いだ三村元親(もとちか)は、毛利氏との同盟関係を維持しつつ、父の悲願であった備中統一を目指した。そして元亀元年(1570年)、ついに三村氏は毛利氏の全面的な援軍を要請し、宿敵であった備中松山城の庄高資への攻撃を開始する 1 。この戦いで庄高資は討たれ、庄氏による西江原地域の長期支配は終焉を迎えた 2

この軍事衝突こそが、亀迫城築城の直接的な引き金となった。毛利氏は、三村氏を前面に立てて庄氏を排除することに成功したが、それは同時に、庄氏旧領という権力の空白地帯を生み出すことを意味した。毛利氏にとって、この機を逃さず備中における支配権を確固たるものにすることは最重要課題であった。三村氏の力がこれ以上強大になることを牽制しつつ、自らの直接的な影響力をこの地域に浸透させる必要があったのである。

そのための具体的な手段こそが、庄氏旧領の中心部を扼し、かつ備中東部の要衝・猿掛城や、その先に勢力を張る宇喜多氏方面への進出路を確保する戦略的要衝に、新たな城を築くことであった 2 。亀迫城の築城は、単なる戦勝記念の構築物ではなく、この地がもはや三村氏の勢力圏ではなく、毛利の直接管理下に置かれたことを内外に示す、極めて政治的な意味合いを持つ軍事行動だったのである。


表1:亀迫城築城に至る備中地域の主要な動向(年表)

年代(西暦)

元号

主な出来事

関連勢力

1533年

天文2年

庄為資が備中松山城主となり、西江原地域の支配を開始する 7

庄氏

1561年

永禄4年

三村家親が毛利氏の支援を受け、庄高資に替わり備中松山城主となる 7

三村氏、毛利氏、庄氏

1566年

永禄9年

三村家親が宇喜多直家の刺客により暗殺される 7

三村氏、宇喜多氏

1567年

永禄10年

庄高資が宇喜多氏の支援を得て、一時的に備中松山城を奪還する 8

庄氏、宇喜多氏

1570年

元亀元年

三村元親が毛利氏の援軍を得て庄高資を討つ(備中兵乱) 1

三村氏、毛利氏、庄氏

1570年

元亀元年

上記の戦いに際し、毛利元清を大将とする毛利軍が後月郡に進軍し、亀迫城を築城する 1

毛利氏


第二章:亀迫城の誕生 ― 策源地としての築城と指揮系統

元亀元年の軍事行動において、亀迫城は毛利氏の備中東部攻略の策源地として誕生した。その築城と運営には、毛利元就の子や重臣が名を連ねており、一見小規模な城砦に過ぎない亀迫城が、毛利本家にとって極めて重要な意味を持っていたことを示している。本章では、この城に関わった人物たちの役割を分析し、そこに見て取れる毛利氏の巧みな人事戦略と権力構造を明らかにする。

2-1. 総大将・毛利元清

亀迫城築城を現場で指揮した総大将は、毛利元就の四男・毛利元清(もときよ)であった 1 。元清は天文20年(1551年)生まれ、母は元就の側室である乃美大方(のみのおおかた)であった 9 。元就が三人の息子(隆元、元春、隆景)に宛てた有名な「三子教訓状」において、側室の子らは「虫けらなるような子どもたち」と表現されるなど、正室の子である兄たちとは明確に区別された立場にあった 10

しかし、その立場とは裏腹に、元清は武将として優れた能力を発揮した。永禄11年(1568年)には、宇喜多直家の離反によって毛利方の手から離れた備中猿掛城を、三村元親と共に奪還する功績を挙げている 10 。この備中東部戦線での豊富な実戦経験と実績が、今回の亀迫城築城とそれに続く一連の攻略戦の総大将として彼が抜擢された大きな理由であろう。失敗の許されない最前線の指揮官として、しかし本家の後継者争いとは一線を画す立場の元清は、この任務にまさに適任であった。彼の存在は、亀迫城が単なる防御拠点ではなく、積極的な攻撃作戦の拠点として構想されていたことを強く示唆している。

2-2. 城主・宍戸隆家

亀迫城の城主(もしくは守将)には、宍戸安芸守隆家(ししど あきのかみ たかいえ)が任命された 1 。宍戸隆家は安芸国五龍城を本拠とする有力国人領主であったが、毛利元就の次女・五龍局を妻に迎えたことで毛利氏の一門衆に組み込まれた人物である 14 。その地位は、元就の両翼とされた吉川氏、小早川氏に次ぐ重鎮とされ、「四本目の矢」とも称されるほどであった 14

このような毛利一門の重鎮が、築城されたばかりの最前線の小城の城主に任じられたことには、重要な政治的意図があったと考えられる。隆家自身が本拠地である五龍城を長期間離れて亀迫城に常駐したとは考えにくく、この任命は多分に象徴的なものであった可能性が高い。しかし、宍戸隆家という重石を据えることで、毛利本家がこの城をいかに重視しているかを内外に示し、周辺の国人衆への睨みを利かせるとともに、同盟者である三村氏に対する牽制ともなった。亀迫城は、軍事的には元清が、そして政治的には隆家がその権威を保証するという二重の構造を持っていたのである。

2-3. 現地管理者・木村平内と神田六郎兵衛

総大将・元清と名目上の城主・隆家の下で、城の実務的な管理・運営を担ったのが、宍戸隆家の家臣であった木村平内(きむら へいない)と神田六郎兵衛(かんだ ろくろうべえ)の二人であった 2 。彼らは「郡代」として亀迫城に常駐したと記録されており、城の維持管理、兵糧の集積、周辺地域の統治などを担当していたと考えられる 2 。『井原市史』やその他の資料によれば、彼らは亀迫城だけでなく、近隣の高越山城の管理にも関わっていたとされ、この地域の毛利方支配の最前線を担う実務官僚であったことがうかがえる 16

この指揮系統は、毛利氏の極めて合理的で洗練された統治システムを反映している。すなわち、①実戦経験豊富な方面軍司令官(毛利元清)、②毛利本家の権威を象徴する政治的重石(宍戸隆家)、③現地に常駐し実務を執行する管理者(木村・神田)、という三層構造である。この役割分担により、軍事、政治、行政の各側面を効率的に機能させることが可能となった。小規模な前線基地に過ぎない亀迫城に、これほど重層的な指揮系統が適用されたという事実は、毛利氏の組織運営能力の高さを物語っている。

第三章:城郭の構造と機能 ― 縄張りに見る「陣城」の特質

亀迫城の構造は、その築城目的と軍事的機能を理解する上で極めて重要な手がかりとなる。一見すると単純で防御性に乏しいように見えるその縄張り(城の設計)は、しかし、特定の目的に特化した場合、非常に合理的で機能的なものであった。本章では、亀迫城の立地と構造を分析し、それが恒久的な支配拠点ではなく、短期決戦型の軍事作戦を遂行するための「陣城(じんじろ)」としての性格を色濃く持っていたことを明らかにする。

3-1. 立地と規模

亀迫城は、岡山県井原市西江原町三本森、字亀迫に位置する 3 。東西に流れる小田川の北岸にあり、近隣の甲山の北東に位置する独立丘陵上に築かれている 6 。標高は約70メートル、麓からの比高(高低差)は20メートルから30メートル程度であり、大規模な山城ではなく、いわゆる「丘城」に分類される 1 。この規模は、大軍の長期駐屯には向かないが、数千人規模の部隊が迅速に展開し、麓との連絡を密に保ちながら活動するには最適な立地であったと言える。南には小田川と旧山陽道を望み、東の猿掛城方面への進出路を扼する交通の要衝でもあった 5

3-2. 縄張りの分析

亀迫城の縄張りは、山頂部に主郭を置き、その周囲に帯曲輪(おびぐるわ)や腰曲輪(こしぐるわ)と呼ばれる細長い平坦面を数段にわたって削平した、比較的単純な構造を特徴とする 4 。『岡山県中世城館跡総合調査報告書』などの調査によれば、主要な遺構は山頂の主郭部と、その北東方向に二段、南方向に一段設けられた曲輪群であるとされている 13 。これらの曲輪は、兵士が駐屯し、物資を集積するためのスペースとして機能したと考えられる。

特筆すべきは、虎口(こぐち、城の出入り口)などに複雑な防御上の工夫が見られない点である 4 。戦国時代後期の城郭に見られるような、石垣や枡形(ますがた)、横矢掛かり(側面攻撃のための仕掛け)といった高度な防御施設は確認されておらず、構造は極めて簡素である。この構造的単純さは、技術の未熟さを示すものではない。むしろ、この城が長期間の籠城を想定した防御拠点ではなく、あくまで攻撃のための出撃拠点として、迅速に築城される必要があったことを物語っている。恒久的な防御施設に時間と労力を費やすよりも、兵力を展開させるための広い平坦面を確保することが優先されたのである。

一方で、土木工事に頼らない実戦的な防御策が講じられていたことも記録されている。それは、先端を尖らせた木の枝を外に向けて並べた一種のバリケードである「逆茂木(さかもぎ)」の設置である 2 。伝承によれば、この逆茂木は城の周囲だけでなく、南方の小田川を渡って木之子(きのこ)の祢屋ヶ端(ねやがばな)まで広範囲にわたって立て巡らされたという 2 。これは、敵の騎馬隊や歩兵の突撃を効果的に阻害するための野戦陣地的な発想であり、亀迫城が恒久的な「城」というより、一時的な「砦」や「陣」であったことを強く裏付けている。

3-3. 遺構の現状と公園化の影響

現在の亀迫城跡は「亀迫城山公園」として整備されており、市民の憩いの場となっている 1 。しかし、この公園化は城郭遺構の保存という観点からは、大きな影響を及ぼしている。特に南側斜面は桜が植えられ、階段状に造成されているが、これが築城当初からの帯曲輪なのか、公園化の際に作られたものなのか、判別は非常に困難な状況にある 6 。多くの訪問者が、公園化によって城としての雰囲気が失われているとの感想を抱いている 1

それでも、山頂部の主郭や、その北東および南に広がる曲輪群は、城の中心的な遺構として現在でもその形状を比較的よく留めている 13 。主郭の規模は約20メートル四方と推定され、その周囲には長さ100メートル、幅7~8メートルほどの帯曲輪が巡っていたことが確認できる 6 。また、東側の麓には切崖(きりぎし)状の急斜面が残り、当時の防御の名残を伝えている 6

なお、城跡の一角には「城山箱型石棺」が復元展示されているが、これは古墳時代の遺物であり、戦国時代の城郭とは直接的な関係はない 1 。しかし、この土地が古代から戦略的、あるいは象徴的に重要な場所であったことを示唆しており、歴史の重層性を感じさせる存在である。


表2:亀迫城の概要と構造的特徴

項目

内容

典拠

所在地

岡山県井原市西江原町三本森字亀迫

1

別名

なし

13

築城年

元亀元年(1570年)

1

築城者

毛利元清

1

城主

宍戸隆家(及びその家臣 木村平内、神田六郎兵衛)

1

形式

丘城

1

規模

標高:約70m、比高:約20m~30m

1

主要遺構

主郭、曲輪(北東二段、南一段)、腰曲輪、帯曲輪、切崖

16

防御施設

逆茂木(広範囲に設置)

2

現状

亀迫城山公園として整備、遺構の改変あり

1


第四章:毛利氏の橋頭堡 ― 亀迫城を拠点とした軍事行動

亀迫城の真価は、その構造ではなく、それが果たした軍事的機能にある。元亀元年(1570年)に築かれたこの城は、毛利氏の備中東部侵攻作戦におけるまさしく「橋頭堡」として機能し、短期間のうちに目覚ましい戦果を挙げるための拠点となった。本章では、亀迫城を起点として展開された一連の軍事行動を具体的に追跡し、そこに見て取れる毛利氏の合理的な侵攻戦術を分析する。

4-1. 備中東部への進撃

毛利元清率いる軍勢は、亀迫城を拠点とすると、直ちに周辺地域への攻略作戦を開始した。その主たる攻撃目標は、備中東部の小田郡に点在する反毛利勢力の諸城であった 2 。記録によれば、亀迫城から出撃した毛利軍は、中山城、船ヶ迫城、奥ノ城といった城砦を次々と攻略していったと伝えられている 2

この一連の動きは、毛利氏が得意とした「一点集中・段階的侵攻」という戦術を如実に示している。彼らは、いきなり広範囲に戦線を拡大し、兵力を分散させる危険を冒すことはなかった。まず、亀迫城という安全な前進基地を確保し、兵站線を確立する。次に、その基地から兵を繰り出し、最終目標に至るまでの経路上に存在する小規模な敵拠点を、一つずつ着実に排除していく。これにより、主目標への進撃路を確保し、側面や背後を脅かされる危険性を最小限に抑えながら、主たる敵に対して戦力を集中させることが可能となる。亀迫城から開始されたこの一連の掃討作戦は、この極めて合理的で損耗の少ない攻略法の典型例であった。

4-2. 猿掛城攻略という戦略目標

毛利元清が進めた一連の攻略戦には、明確な最終目標があった。それは、当時の備中東部における最重要拠点の一つ、猿掛城(現・岡山県小田郡矢掛町)の奪取である 2 。猿掛城は、庄氏の本拠の一つであり、備中中部と東部を結ぶ交通の要衝に位置する堅固な山城であった。この城を支配下に置くことは、備中東部における毛利氏の覇権を確立し、さらに東の宇喜多氏への圧力を強める上で不可欠であった。

亀迫城を拠点とした毛利軍は、周辺の障害を排除した後、満を持して猿掛城への総攻撃を開始した。当時の猿掛城主は穂井田実近(ほいた さねちか)であったが、毛利軍の猛攻の前に抗しきれず、ついに攻め滅ぼされた 2 。そして天正3年(1575年)には、この作戦を成功に導いた毛利元清自身が、穂井田氏の名跡を継ぐ形で新たな猿掛城主となり、この地を治めることとなった 1 。これにより、亀迫城に与えられた「猿掛城攻略の橋頭堡」という戦略的任務は、完全に達成されたのである。

4-3. 橋頭堡としての役割の終焉

猿掛城という、亀迫城よりもはるかに大規模で恒久的な支配拠点を手に入れたことで、亀迫城の最前線基地としての戦略的価値は相対的に低下した。毛利氏の備中東部における支配の中心は、猿掛城へと移行したのである。その後の亀迫城がどのように利用されたかについての詳細な史料は乏しい。しかし、猿掛城の後方支援拠点として、あるいは井原地域における連絡・監視拠点として、一定期間は維持された可能性が考えられる。いずれにせよ、元亀元年の築城から数年のうちに、その最も重要な役割は終焉を迎えたと見て間違いないだろう。この城は、特定の軍事作戦を成功させるためだけに生まれ、その目的が達成されると同時に、歴史の表舞台から静かに姿を消していったのである。

第五章:終焉と現代への継承 ― 廃城の経緯と史跡としての価値

特定の戦略目的のために築かれた亀迫城は、その目的が達成され、さらに毛利氏を取り巻く政治情勢が激変する中で、その歴史的役割を終えることとなる。本章では、城の廃城に至る経緯と、史跡として現代に受け継がれるまでの過程を述べるとともに、一部で語られる異説についても検討を加える。

5-1. 関ヶ原合戦と毛利氏の退去

亀迫城がその存在意義を完全に失う決定的な出来事は、慶長5年(1600年)に起こった「天下分け目の戦い」と称される関ヶ原合戦である 2 。毛利輝元を総大将として西軍に与した毛利氏は、徳川家康率いる東軍に敗北した。その結果、毛利氏は備中を含む中国地方8か国の広大な領地を没収され、周防・長門の二国(現在の山口県)に大減封されることとなった 1

これにより、備中における毛利氏の支配は完全に終焉を迎えた。毛利氏の勢力がこの地から一掃されたことで、彼らが築いた亀迫城をはじめとする多くの城砦は、その軍事的価値を失った。この頃、亀迫城は廃城となり、再び歴史の中に埋もれていったと推定されている 1 。築城からわずか30年後のことであった。

5-2. 史跡公園としての現在

江戸時代を通じて顧みられることのなかった亀迫城跡は、近代以降、地域の歴史を物語る史跡として再評価されるようになる。特に、地元の西江原史蹟顕彰会などの尽力により、その歴史的価値が明らかにされ、保存活動が行われてきた 6 。現在では「亀迫城山公園」として美しく整備され、無料駐車場や案内板も設置されており、市民や歴史愛好家が気軽に訪れることができる憩いの場となっている 1 。公園化による遺構の改変という課題はあるものの、この城が戦国時代の備中を揺るがした動乱の舞台であったことを、今に静かに伝えている。

5-3. 異説の検討

亀迫城については、元亀元年の毛利氏による築城という通説の他に、いくつかの異説も存在する。

一つは、より古い時代、鎌倉期にまでその起源を遡らせる「鎌倉期築城説」である 6 。この説では、築城者を那須氏あるいは庄氏としており、亀迫城が毛利氏以前から何らかの形で存在していた可能性を示唆している。戦略的な要衝は、時代を超えて繰り返し利用されることが城郭の歴史において珍しくない。毛利氏は、この地に存在した既存の古い砦を再利用し、元亀元年に自らの戦略目的に合わせて大規模な改修・拡張を施した可能性も完全には否定できない。しかし、現存する遺構の全体的な特徴、すなわち単純な曲輪構成や逆茂木の使用といった要素が、短期決戦型の「陣城」としての性格をあまりに強く示していることから、この城の歴史的価値を決定づけるのは、やはり元亀元年の毛利氏による築城であると結論付けるのが妥当であろう。

もう一つは、近隣の「小菅城(こすげじょう)の支城であった」とする説である 6 。小菅城は亀迫城の北方に位置する山城で、那須氏によって築かれたと伝わる 20 。地理的な近接性から、毛利氏が介入する以前の庄氏支配時代、あるいはさらに遡る時代において、亀迫城が小菅城を中心とする地域防衛ネットワークの一部を構成する支城、あるいは出城として機能していた可能性は十分に考えられる。この説は、毛利氏による築城説と必ずしも矛盾するものではなく、この土地が持つ戦略的重要性の歴史的連続性を示すものとして興味深い。

結論:亀迫城が物語る毛利氏の備中支配戦略

本報告書を通じて、岡山県井原市に所在した亀迫城の多角的な分析を行ってきた。その結果、この城は単なる小規模な山城跡ではなく、戦国大名・毛利氏の極めて高度な戦略思想が凝縮された、歴史的に非常に重要な城郭であったことが明らかになった。

第一に、亀迫城の築城は、庄氏の長期支配が終焉した直後の権力の空白を突き、備中東部における支配権を確立するという、周到な政治的・戦略的判断に基づいていた。それは、同盟者である三村氏の勢力拡大を牽制しつつ、毛利の直接支配をこの地に浸透させるための楔であった。

第二に、毛利元清、宍戸隆家、そして木村・神田といった人物を配した指揮系統は、実戦部隊、政治的権威、実務管理という三層構造を持つ、極めて合理的で洗練された統治システムであった。これは、毛利氏の高い組織運営能力を示す好例である。

第三に、城郭の構造は、一見簡素でありながら、その軍事目的に完全に特化していた。恒久的な防御施設を排し、兵力の展開と迅速な築城を優先した縄張り、そして逆茂木という実戦的な防御策は、この城が長期間の籠城ではなく、短期決戦のための攻撃拠点、すなわち「陣城」として設計されていたことを明確に示している。

第四に、亀迫城を拠点として展開された一連の軍事行動は、安全な橋頭堡を確保し、そこから段階的に周辺の敵を排除して主目標に戦力を集中させるという、毛利氏の合理的な侵攻戦術を体現していた。この城は、猿掛城攻略という戦略目標を達成するための、完璧な「軍事装置」として機能した。

以上の点から、亀迫城はその物理的な規模や現存する遺構の華やかさで評価されるべき城ではない。むしろ、その築城から廃城に至るわずか30年の歴史の中に、戦国時代の権力闘争のダイナミズム、毛利氏の広域戦略、そして目的に特化した城郭の機能美が凝縮されている点にこそ、その本質的な価値が見出される。一過性の陣城でありながら、その存在は備中地域、ひいては中国地方全体の戦国史の転換点を雄弁に物語る、貴重な歴史遺産であると結論付けることができる。

引用文献

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