遠江の要衝、二俣城は今川・武田・徳川が争奪を繰り広げた。信玄の水攻め、家康の包囲網、そして信康自刃の悲劇。戦国大名の戦略と城郭技術の変遷を映す歴史の縮図なり。
本報告書は、遠江国に位置した二俣城について、戦国時代という特定の時代区分に焦点を当て、その歴史的意義を多角的に解明することを目的とする。単に城の沿革を追うに留まらず、戦国大名の戦略思想、城郭技術の変遷、そして徳川家中を揺るがした政治的悲劇が凝縮された「歴史の縮図」としてこの城を捉え直す試みである。
二俣城は、戦国史において極めて多面的な役割を担った。今川・武田・徳川という当代きっての三大勢力がその領有を巡って激しい攻防を繰り広げた角逐の最前線であり 1 、徳川家康の嫡男・信康が非業の死を遂げた悲劇の舞台でもある 3 。さらに、天下統一が進む織豊政権下においては、中世的な山城から石垣と天守を備えた近世城郭へと変貌を遂げ、時代の転換点を象徴する存在となった。本報告書では、これらの歴史的変遷を、地理的条件、主要な合戦、政治的背景、そして考古学的知見を交えながら深層的に分析する。
報告書全体の理解を助けるため、まず二俣城に関連する主要な出来事を時系列で以下に示す。
表1:二俣城 関連年表
年代 (西暦) |
元号 |
主要な出来事 |
関連勢力 |
16世紀初頭 |
文亀年間頃 |
今川氏が斯波氏との抗争の中で、前身となる笹岡古城を築いたとされる。 |
今川氏、斯波氏 |
1560年 |
永禄3年 |
桶狭間の戦いで今川義元が討死。城主格の松井宗信も戦死する。 |
今川氏、織田氏 |
1569年 |
永禄12年 |
今川氏が滅亡。徳川家康が遠江に侵攻し、二俣城を支配下に置く。 |
徳川氏、武田氏 |
1572年 |
元亀3年 |
武田信玄が西上作戦を開始。12月、水の手を断つ奇策により二俣城は開城。 |
武田氏、徳川氏 |
1575年 |
天正3年 |
長篠の戦いで武田軍が大敗。勢いに乗る家康は鳥羽山に本陣を置き、二俣城を包囲。半年にわたる籠城の末、武田方は開城し家康が奪回。大久保忠世が城主となる。 |
徳川氏、武田氏 |
1579年 |
天正7年 |
9月15日、徳川家康の嫡男・松平信康が二俣城にて自刃する。 |
徳川氏、織田氏 |
1590年 |
天正18年 |
家康の関東移封に伴い、豊臣家臣の堀尾吉晴が遠江の領主となる。二俣城には弟の宗光が入城し、石垣や天守台を備えた近世城郭へと大改修を行う。 |
豊臣氏、堀尾氏 |
1600年以降 |
慶長5年以降 |
関ヶ原の戦いの後、堀尾氏が出雲へ転封。城の戦略的価値は失われ、江戸時代初期(遅くとも元和元年まで)に廃城となる。 |
徳川氏 |
二俣城が戦国大名たちの争奪の的となった根源的な理由は、その傑出した地理的条件と、そこから生まれる戦略的価値にあった。
二俣城は、その名の通り天竜川と二俣川の合流点に位置する 2 。天竜川は信濃国伊那谷から遠州灘へと至る長大な河川であり、当時は物資輸送の重要な動脈であった。二俣城はこの水運の結節点を押さえる位置にあり、経済的にも軍事的にも大きな意味を持っていた。
加えて、陸路においても重要な拠点であった。北の信濃方面から見れば、山間部を抜けて遠州平野へ進出するための入り口にあたる 2 。ここを支配することは、信濃と遠江を結ぶ軍事・経済ルートを掌握することに等しかった。さらに、南へ向かえば気賀を経由して、東海道の脇街道である本坂通(姫街道)に接続し、東西交通へのアクセスも容易であった 1 。このように、二俣城は南北と東西の交通路が交差する要衝であり、この地を制する者は遠江北部から信濃南部にかけての広域に影響力を行使することが可能だったのである。
二俣城は、標高約40メートルの台地上に築かれている 1 。城の東側は険しい崖、西側は天竜川に面した切り立った岩盤となっており、三方を川と断崖に囲まれた、まさに天然の要害であった 1 。この地形は、大規模な軍勢による力攻めを極めて困難にし、「難攻不落」と称されるほどの防御力を城に与えていた。
しかし、この地理的な優位性は、同時に城の運命を決定づける致命的な脆弱性を内包していた。城の防御を固める「川」という存在が、皮肉にも城の生命線を外部に晒すという構造的矛盾を生み出していたのである。複数の記録が示すように、二俣城は城内に良質な井戸を持たず、水の確保を天竜川からの取水に大きく依存していた 6 。城の北側崖下に「井戸櫓(水の手櫓)」と呼ばれる高層の取水施設を設け、そこから城内へ水を汲み上げていたのである 6 。地質学的な観点からも、城が位置する台地は、安定した水量を確保できる井戸を掘削するには不向きな地層であった可能性が指摘されている 8 。
結果として、城の最大の防御要素である天竜川が、同時に外部からの攻撃に対して最も無防備なアキレス腱となった。この構造的弱点を見抜いたのが、武田信玄であった。彼は、城壁を攻めるのではなく、城の生命線である「水」を断つという、常識を覆す戦術を考案する。二俣城の地理的特性こそが、戦国史に残る独創的な「水の手攻め」を生み出す土壌となったのであり、その強みは最大の弱点へと転化したのである 7 。
二俣城が戦国時代の歴史の表舞台に登場する以前、その起源は今川氏と斯波氏の抗争にまで遡る。
戦国時代初頭、遠江国の覇権を巡り、駿河を本拠とする今川氏と、遠江守護であった斯波氏の間で激しい争いが繰り広げられていた。この抗争の中で、今川氏が遠江における拠点を確保するために築いたとされるのが「笹岡古城」である 1 。この城館は、後の二俣城のように山上に築かれたものではなく、麓の平坦地、現在の浜松市天竜区役所(旧天竜支所)周辺にあったと考えられている 2 。この地で行われた事前発掘調査では、山茶碗や青磁、井戸の遺構などが発見されており、当時この場所に何らかの城館施設が存在していた可能性を裏付けている 2 。
今川義元の時代に入り、今川氏の勢力が遠江で盤石なものとなると、より堅固な城郭が求められるようになった。この時期に、今川氏の被官であった松井宗信、あるいはその後継者が、防御に適した現在の小山へ城を移し、本格的な築城を行ったと伝えられている 2 。ただし、この築城の経緯を直接的に示す確実な史料は現存していない。
1560年(永禄3年)の桶狭間の戦いで、当主・今川義元とともに城主格であった松井宗信も討死を遂げる 2 。今川氏の権威が大きく揺らぐ中、宗信の子である松井宗恒が跡を継ぎ、城の維持に努めた。しかし、1569年(永禄12年)、武田信玄と徳川家康による挟撃を受けて今川氏は滅亡。遠江に侵攻した家康の攻撃の前に松井氏は降伏し、二俣城は徳川氏の支配下に入ることとなった 2 。家康は当初、鵜殿氏長を城代として配置したが、武田氏との緊張が高まるにつれ、より信頼の厚い譜代の家臣である中根正照を城主とし、対武田の最前線拠点として防備を固めさせた 1 。
徳川の支配下に入った二俣城は、遠江の覇権を狙う武田信玄にとって、避けては通れない戦略拠点であった。ここから、二俣城を舞台とした両雄の死闘が始まる。
1572年(元亀3年)、甲斐の武田信玄は、上洛を目的とした大規模な軍事行動、いわゆる「西上作戦」を開始した。その進路上に位置する遠江国は、最初の主戦場となった。信玄にとって二俣城は、家康の本拠・浜松城と、東遠江の重要拠点である掛川城や高天神城との中間点にあり、これを奪取することは徳川軍の連絡網を分断し、自軍の補給路を確保するために不可欠な戦略目標であった 9 。
同年10月、信玄は二俣城を包囲。城将・中根正照と副将・青木貞治が率いる徳川方の兵力は約1,200であったのに対し、武田軍は馬場信春らの軍勢が合流し、総勢27,000という圧倒的な兵力であった 9 。しかし、二俣城の攻め口は北東の大手口に限られ、しかも急峻な坂道であったため、武田軍の力攻めは困難を極めた 9 。徳川方は家康や同盟者である織田信長の援軍を期待し、頑強に抵抗を続けた。
攻城戦が長引く中、信玄は二俣城の構造的弱点、すなわち天竜川から水を汲み上げる「井戸櫓」に目を付けた。彼は、力攻めではなく兵站、とりわけ水の供給を断つことで城を攻略するという独創的な戦術を考案する 7 。その方法は、天竜川の上流から大量の筏を流し、その衝撃で井戸櫓の支柱を破壊するという、前代未聞のものであった 10 。この作戦は功を奏し、井戸櫓は崩壊。城内の水の供給は完全に断たれた。城兵は桶に雨水を溜めるなどして必死に耐えたが、1,200人もの兵士を支えるには至らず、約2ヶ月にわたる籠城の末、ついに降伏・開城した 9 。
この二俣城の落城は、遠江におけるパワーバランスを決定的に武田方へ傾かせた。周辺で日和見を決め込んでいた国人領主たちが次々と信玄になびき、家康は遠江北部における足場を完全に失ったのである 9 。これにより、信玄の次の標的は家康の居城・浜松城となり、同年12月の三方ヶ原の戦いへと直結していく。二俣城の陥落は、家康生涯最大の敗戦の序曲となったのであった。
1575年(天正3年)5月、長篠の戦いで織田・徳川連合軍は武田勝頼率いる武田軍に壊滅的な打撃を与えた。この歴史的大勝利を機に、徳川家康は遠江における失地回復、すなわち武田方諸城の奪還へと乗り出す。その反攻作戦の最初の、そして最重要の目標が二俣城であった 12 。
家康は、かつて信玄に敗れた戦術を繰り返さなかった。彼は二俣城への直接攻撃を避け、長期的かつ組織的な包囲戦術を選択した。まず、二俣城の対岸に位置する鳥羽山に本陣を設置 12 。さらに、城の周囲に毘沙門堂砦、蜷原砦、和田ヶ島砦などを築き、二俣城を完全に包囲・孤立させる一大ネットワークを構築したのである 13 。この作戦の目的は、武力で城を陥とすのではなく、兵站と連絡を遮断し、敵を内部から枯渇させることにあった。家康はさらに、二俣城への補給路となりうる周辺の光明城などを先に攻略し、包囲網をより完璧なものとした 13 。
武田方の守将は、依田信蕃(のぶしげ)であった。彼は籠城中に父・信守を病で亡くすという不幸に見舞われながらも、その遺志を継ぎ、半年にわたって城を守り抜くという驚異的な粘りを見せた 13 。しかし、長篠で大敗した武田勝頼に後詰(援軍)を送る余力はなく、二俣城は完全に孤立無援となった。ついに援軍の見込みが絶たれると、信蕃は開城を決断。その際、城内を隅々まで清掃し、武士としての潔さを示してから城を明け渡したという逸話は、今なお語り継がれている 15 。
こうして二俣城を奪回した家康は、譜代の重臣である大久保忠世を城主として入城させ、遠江北部の防衛拠点として再整備した 12 。
この1572年と1575年の二度の攻防戦は、単なる城の奪い合いに留まらない。それは、武田信玄と徳川家康という、戦国時代を代表する二人の武将の将器と戦争哲学の違いを鮮明に映し出す鏡であった。信玄の戦術は、敵の構造的弱点を見抜き、筏攻撃という独創的な奇策を用いて短期決戦を図る、天才的な「戦術家」としての側面を際立たせる。その成功は、彼の類稀な着想力に大きく依存するものであった。一方、家康の戦術は、力攻めを避け、複数の砦を築いて包囲網を形成し、兵站を断つことで敵を屈服させるという、長期的かつ組織的な「戦略家」としての手法である。地味で時間を要するが、着実で再現性が高く、組織力と兵站管理能力に裏打ちされている。二俣城という一つの舞台が、彼らの本質的な違いを浮き彫りにしたのである。
天正7年(1579年)、二俣城は徳川家にとって忘れ得ぬ悲劇の舞台となる。家康の嫡男であり、将来を嘱望されていた松平信康が、この城で自刃に追い込まれたのである。この事件の真相については、古くから伝わる通説と、近年の研究で有力視される新説が存在する。
事件の経緯として最も広く知られているのが、織田信長の命令によって家康がやむなく妻子を処分したとする「信長命令説」である。
この説の根幹にあるのが、信康の正室であり信長の娘である徳姫が、父・信長に送ったとされる「十二箇条の訴状」の存在である 16 。この訴状は現存しないが、後世の記録によれば、その内容は、夫・信康の残忍で乱暴な振る舞いや、姑である築山殿が徳川家と敵対する武田家と内通している、といった告発であったとされる 17 。特に、築山殿が甲斐から来た医師と密通し、武田勝頼と通じているという嫌疑は、同盟関係において致命的なものであった 18 。
この訴状を受け取った信長は、信康と築山殿の処分を家康に厳命したとされる。当時の徳川家は、織田家とは対等な同盟関係というよりは、実質的に従属的な立場にあった。そのため、家康は信長の命令に逆らうことができなかったと考えられている。家臣の酒井忠次が安土城へ赴き、信康の弁明を試みたが、信長を説得することはできなかったという 17 。
その結果、天正7年8月29日、築山殿は浜松へ護送される途中、家康の命を受けた家臣によって殺害された 19 。そして、岡崎城から追放された信康は、大浜城、堀江城と身柄を移された後、最終的に二俣城へ幽閉され、9月15日に自刃を命じられた 6 。享年21であった。介錯を命じられた服部半蔵(正成)は、幼き頃より仕えた主君を斬ることができず、刀を投げ捨てて慟哭したという逸話も残されている 6 。
通説に対し、近年の研究では、この事件が信長の命令によるものではなく、徳川家内部の深刻な対立を背景とした、家康自身の主導による粛清であったとする「家康主導説」が有力視されている。
この説の背景には、当時の徳川家中の派閥対立がある。家康が本拠を岡崎から浜松へ移して以来、信康が城主を務める岡崎城を中心とした旧来の三河武士団「岡崎衆」と、家康の側近たちで固められた「浜松派」との間に、深刻な政治的対立が生じていた 20 。信康は武勇に優れ、岡崎衆からの人望も厚かったため、その存在が家康自身の権力を脅かす潜在的な脅威と見なされるようになった可能性がある 16 。事実、家康は事件に先立ち、岡崎の家臣たちに信康と内通しない旨を誓わせる起請文を提出させており、両者の対立が極めて深刻であったことを物語っている 22 。
この文脈で事件を捉え直すと、家康が徳川家中の権力闘争を収拾し、自身の権力基盤を盤石にするため、信長の権威を「大義名分」として利用し、信康とその支持勢力を一掃した、という構図が浮かび上がる。信康の死によって、徳川家中の権力は家康に一元化され、その後の徳川家の発展の礎が築かれたという政治的結果が、この説の妥当性を補強している。
そして、信康自刃の地に二俣城が選ばれたこと自体が、高度な政治的メッセージであったと考えられる。信康の権力基盤は岡崎城とその家臣団にあった。もし彼を岡崎で処分すれば、大規模な反乱に発展する危険性があった。そのため、家康は信康を岡崎から引き離し、大浜、堀江と移送することで、支持者から物理的に孤立させたのである。最終的な自刃の地となった二俣城は、城主が大久保忠世という家康腹心の将であり、武田との最前線として浜松の直接的な軍事管理下にある城であった 12 。つまり、信康を「武田との内通が疑われた地」である遠江の、しかも家康の支配が完全に行き届いた城で死なせることは、「岡崎」という信康の権力基盤を無力化し、「武田との内通」という罪状を象徴的に示すための、計算され尽くした政治的演出であった可能性が極めて高い。二俣城は単なる幽閉場所ではなく、家康の絶対的な権威を家中に見せつけるための劇場として選ばれたのである。
表2:徳川信康自刃事件に関する諸説の比較
項目 |
信長命令説(通説) |
家康主導説(近年の有力説) |
事件の主導者 |
織田信長 |
徳川家康 |
直接的な原因 |
徳姫が信長に送った「十二箇条の訴状」 |
徳川家中の派閥対立(岡崎派 vs 浜松派)と、家康・信康父子の確執 |
家康の立場 |
信長の命令に逆らえず、やむなく妻子を処分した悲劇の当事者 |
信長の権威を利用し、対立勢力を粛清した冷徹な政治家 |
主な論拠 |
『三河物語』などの後世の編纂物における記述、当時の織田・徳川の力関係 |
家康が岡崎衆に提出させた起請文の存在、事件後の徳川家中の権力一元化という政治的結果 |
事件の性格 |
織田・徳川の同盟関係に起因する外部要因による悲劇 |
徳川家の内部統制と権力継承を巡る内部要因による政変 |
信康の悲劇から約10年後、二俣城は新たな時代を迎える。それは戦国乱世の終焉と、統一政権下における城郭の役割の変化を象徴する時代であった。
天正18年(1590年)、豊臣秀吉による小田原征伐の後、徳川家康は関東へ移封された。これに伴い、家康の旧領である遠江国西部は、秀吉の配下である堀尾吉晴の所領となった 12 。吉晴は浜松城を本拠とし、要衝である二俣城には弟の堀尾宗光(氏光)を配置したとされている 23 。
堀尾氏の時代、二俣城はそれまでの土塁や堀切を主体とした中世的な山城から、石垣や瓦葺きの建物を備えた近世城郭へと大規模な改修を受けた 4 。現在、城跡に残る野面積みの石垣や、静岡県内でも最古級とされる天守台は、この時期に築かれたものである 12 。この大改修は、単に城の防御力を向上させるためだけではなかった。それは、この地がもはや武田と徳川が争う国境の最前線ではなく、豊臣政権の支配下にある安定した領域へと変わったことを示すものであった。
この建築様式の変化は、二俣城の役割が「国境を守る軍事拠点」から「領域を支配する行政拠点」へと質的に転換したことを示す物的証拠である。徳川・武田時代、二俣城の価値はその地形を活かした防御力にあった。しかし、豊臣政権の支配が確立すると、城は「戦うための砦」から、領民に権威を示し、統治を行うための「見せるための城」へとその性格を変貌させたのである。石垣で城を固め、天守を上げるという行為は、まさしく新たな支配者である豊臣政権の権威を遠江の地に示すための政治的シンボルであった。発掘調査で瓦や天目茶碗などが出土していることも 4 、城内に文化的・政治的な空間が存在したことを示唆しており、この時代の大きな潮流を反映している。
1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いの後、堀尾氏は戦功により出雲国松江へ転封となった 23 。江戸幕府が成立し、世の中が安定期に入ると、二俣城の戦略的重要性は急速に失われていった。城はもはやその軍事的役割を終え、慶長年間、遅くとも元和元年(1615年)の一国一城令までには廃城になったと考えられている 12 。
現在の二俣城跡に残る遺構と、近年の発掘調査の成果は、文献史料だけでは知り得ない城の実像を我々に伝えてくれる。
二俣城の縄張り(城の設計)は、丘陵の尾根上に本丸、二の丸、南の丸、西の丸といった主要な曲輪(区画)を直線的に配置した「連郭式」と呼ばれる形式である 4 。本丸と二の丸の間を深く掘り下げた堀切など、敵の侵攻を段階的に食い止めるための工夫が随所に見られ、中世山城としての防御思想が色濃く残っている 5 。これらの基本的な構造は、今川氏や徳川氏の時代に形成されたものとみられる 4 。
二俣城の歴史を考古学的に解明する上で大きな役割を果たしたのが、2009年(平成21年)以降、浜松市教育委員会によって継続的に実施されている発掘調査である 4 。これらの調査により、特に堀尾氏による大改修の実態が具体的に明らかになった。
主な調査成果は以下の通りである。
これらの調査結果は、二俣城が文献史料に記された歴史を裏付けるだけでなく、戦国時代末期から織豊期にかけての城郭技術の変遷を具体的に示す、極めて重要な考古学的遺産であることを証明している 23 。
数々の歴史の舞台となった二俣城は、現在、その価値を認められ、未来へと継承されるべき文化遺産として保護されている。
二俣城跡は、1575年の奪回作戦の際に徳川家康が本陣を置いた対岸の鳥羽山城跡と一体で、「二俣城跡及び鳥羽山城跡」として国の史跡に指定されている 2 。軍事拠点としての二俣城と、居館としての性格も持つ鳥羽山城が、機能的に連携して一つの城郭群を形成していた歴史的背景が評価されたものである 23 。この一体的な保護は、戦国時代の城郭のあり方を理解する上で非常に重要である。
現在、城跡には堀尾氏時代に築かれた天守台や野面積みの石垣、そして徳川・武田の攻防の時代を偲ばせる土塁や堀切が良好な状態で残されている 3 。特に天守台からの天竜川の眺めは美しく、この城が川と共にあったことを実感させる 28 。また、城の麓にある清瀧寺には、信玄の「水の手攻め」で破壊された井戸櫓が復元されており、往時の戦術を具体的にイメージすることができる 6 。
これらの遺構を訪れることは、単に過去の出来事を確認する作業ではない。ある歴史研究者が述べたように、こうした城跡は、その背景にある歴史を知り、当時の情景に思いを馳せることで、初めてその価値が理解できる 30 。二俣城跡は、単なる「土と石が積まれた公園」ではない。それは、戦国武将たちの戦略、城郭技術の進化、天下統一へと向かう時代のうねり、そして権力の中で翻弄された人々の悲劇を、時を超えて我々に語りかける貴重な歴史の証言者なのである。