今浜城
今浜城は、佐々木道誉築城伝承を持つ古城。秀吉が長浜城と改め、琵琶湖水運を活かした新時代の拠点とした。天正地震で被災後、徳川幕府により廃城。その部材は彦根城へ転用され、歴史を今に伝える。
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近江今浜城の研究 ― 権力闘争の舞台から天下人の礎へ
序章:今浜から長浜へ ― 二つの名を持つ城の歴史的意義
近江国、琵琶湖の東北岸に位置した今浜城は、その名を長浜城と改め、戦国時代から江戸時代初期にかけて日本の歴史の転換点において重要な役割を果たした城郭である。この城の歴史は、大きく二つの時代に区分することができる。一つは、羽柴秀吉による築城以前、すなわち「今浜城」として、北近江における守護大名の権威失墜と国人領主の台頭、いわゆる下剋上の動乱を象徴する舞台であった時代である。もう一つは、秀吉がその地を戦略的拠点として選び、「長浜城」として近世的な城郭と城下町を築き上げた時代であり、これは彼の天下統一事業の原点となると同時に、日本の城郭史・都市史における画期的な一歩を記すものであった 1 。
今浜から長浜への名称の変遷は、単なる地名の変更に留まらない。それは、城の機能、ひいては支配の理念そのものが、中世的な在地領主の軍事拠点から、中央集権的な権力による広域支配のための政治・経済拠点へと根本的に転換したことを象徴している 3 。本報告では、この二つの名を持つ城の歴史を多角的に分析することで、一つの城郭が戦国時代の権力構造の変遷にいかに深く関わり、近世社会の礎を築く上でいかなる役割を果たしたかを明らかにすることを目的とする。今浜・長浜城の歴史は、戦国時代における「城」の役割の変化を凝縮したミクロコスモス(縮図)であり、その詳細な分析は、この時代の大きな歴史的動態を理解する上で不可欠な視座を提供するものである。
表1:今浜・長浜城 城主変遷と主要関連事項年表
年代(西暦/和暦) |
城主/支配勢力 |
主要な出来事 |
関連資料 |
1336 (建武3/延元元) |
(京極氏) |
佐々木道誉による今浜城築城伝承 |
5 |
1499 (明応8) |
上坂家信 (京極方) |
京極高清、今浜城に入る |
6 |
1523 (大永3) |
上坂信光 (京極方) |
「今浜城の戦い」。浅井亮政ら国人一揆が城を攻略 |
6 |
1523-1573 |
浅井氏 |
浅井氏が北近江を支配。本拠は小谷城 |
8 |
1573 (天正元) |
羽柴秀吉 |
浅井氏滅亡。秀吉が北近江三郡を拝領し小谷城入城 |
1 |
1574頃 (天正2頃) |
羽柴秀吉 |
今浜にて築城開始。「長浜」と改名 |
9 |
1582 (天正10) |
柴田勝豊 |
清洲会議の結果、城主となる |
3 |
1583 (天正11) |
(秀吉支配下) |
賤ヶ岳の戦い。勝豊は秀吉に降り、長浜城は秀吉方の拠点となる |
9 |
1585 (天正13) |
山内一豊 |
秀吉より2万石で長浜城主となる |
9 |
1586 (天正13) |
山内一豊 |
天正地震により城が全壊 |
2 |
1606 (慶長11) |
内藤信成 |
関ヶ原の戦後、徳川家臣の内藤氏が4万石で入封。長浜藩成立 |
3 |
1615 (元和元) |
(廃城) |
内藤信正が高槻へ移封。長浜城は廃城となる |
9 |
第一章:秀吉以前の今浜城 ― 北近江の動乱と在地領主の興亡
第一節:築城の伝承と実像 ― 佐々木道誉説の検討
羽柴秀吉が長浜城を築く以前、この地には「今浜城」と呼ばれる城が存在したとされる。その起源として広く知られているのが、南北朝時代の「婆娑羅大名」として名高い佐々木(京極)道誉が、建武3年(1336年)に築城したという説である 5 。この伝承によれば、道誉は家臣の今浜六郎左衛門を守将としてこの地に置き、それが「今浜」という地名の由来になったともいわれる 9 。
しかし、この佐々木道誉築城説は、多くの文献において「伝わる」「といわれる」といった伝聞の形で記されており、同時代史料による明確な裏付けを欠いているのが現状である 9 。一部の記録では「今浜城の由緒については定かでない」と慎重な記述がなされており、学術的に確定した史実と見なすことは困難である 3 。また、後述する長浜城遺跡の発掘調査においても、南北朝時代に遡る大規模な城郭遺構は確認されておらず、この説の信憑性には疑問符が付く 14 。
これらの状況を鑑みると、佐々木道誉築城説は、史実そのものというよりは、むしろ後世、特に江戸時代以降に、地域の歴史を語る上で城の権威を高めるために、著名な歴史上の人物と結びつけられて形成された「創設神話」としての性格が強い可能性が考えられる。
むしろ、より実態に近いのは、特定の個人による一度の築城というより、今浜氏や上坂氏といった京極氏配下の在地領主が構えた館や砦が、地域の政治情勢の変化に応じて、徐々に軍事拠点としての性格を強めていったという漸進的な発展の過程であろう 5 。長浜城遺跡周辺の発掘調査では、14世紀から16世紀にかけての土師器や輸入陶磁器といった遺物が出土しており、この地に継続的な人の営みがあったことを裏付けている 15 。したがって、今浜城の起源は、「誰がいつ築城したか」という単一の問いで捉えるよりも、「在地勢力の拠点がいかにして戦略的な城郭へと発展していったか」というプロセスの中で理解するのがより適切であるといえる。
第二節:京極氏の衰退と国人一揆 ―「今浜城の戦い」の力学
室町時代を通じて北近江の守護職にあった京極氏の権威が揺らぎ始めると、今浜城は地域の権力闘争の渦中へと巻き込まれていく。その象徴的な事件が、大永3年(1523年)に勃発した「今浜城の戦い」である 6 。
この戦いの発端は、京極氏内部の家督相続問題と、それに伴う家臣団の権力闘争であった。当時の守護・京極高清は、重臣である上坂信光の強い影響下にあり、信光は高清を傀儡として家中を専横していたとされる 6 。高清が信光の意向を受けて自身の二男・高吉を後継者に推したことに対し、浅井亮政、浅見貞則、三田村忠政といった北近江の国人領主たちが猛反発したのである 6 。
彼らは浅見貞則を盟主として反上坂信光の一揆を結成し、高清の長男・高峰を旗頭に擁立することで大義名分を確保した 6 。『江北記』によれば、この談合は浅井郡の大吉寺梅本坊で行われたと記されている 6 。この動きを察知した上坂信光は、主君・高清と共に今浜城に軍兵を集めて迎え撃つも、国人一揆勢の猛攻の前に敗北。一揆勢は敗走する上坂勢を追撃し、その拠点であった今浜城を攻め落とした 6 。高清と信光は尾張国へと落ち延び、北近江における京極氏の支配力は事実上崩壊した 6 。
この「今浜城の戦い」は、単なる家臣同士の勢力争いに留まるものではない。それは、守護という旧来の権威が形骸化し、在地に根を張る国人領主層が新たな政治主体として自立していく、戦国時代を象徴する「下剋上」の典型的な現れであった。国人衆が「一揆」という形で団結し、守護家の内政に実力で介入してその支配者を追放したこの事件は、北近江の歴史における大きな転換点となった。
第三節:浅井氏の台頭と今浜城の位置づけ
今浜城の戦いにおける勝利は、国人一揆の中核を担った浅井亮政にとって、その後の飛躍の大きな足掛かりとなった。彼は京極氏の権威を背景から排除し、やがて北近江における実質的な支配者としての地位を確立していく 8 。
しかし、浅井氏は今浜城をその統治の中心拠点とはしなかった。彼らが本拠地として選んだのは、今浜の北方に位置する難攻不落の山城、小谷城であった 8 。この選択は、当時の戦国大名の戦略思想を如実に物語っている。琵琶湖に面した平城である今浜城は、経済や交通の面では優位性を持つものの、軍事的な防御力においては山城に劣る。南近江の六角氏をはじめとする周辺勢力との緊張関係が続く中、浅井氏が領国経営の安定のために、何よりもまず軍事的な安全性を優先したのは、合理的な判断であったといえる 16 。
その結果、浅井氏の統治下において、今浜城は北近江支配の象徴的な獲得目標ではあったものの、その後の役割は小谷城を頂点とする支配体制下における、琵琶湖岸の一拠点という位置づけに留まったと考えられる。浅井氏の時代、北近江の政治・軍事の中心は、あくまで小谷城だったのである。
第二章:羽柴秀吉の長浜城 ― 新時代の城郭と都市経営の実験場
第一節:小谷から今浜へ ― 戦略的拠点移動の多角的分析
天正元年(1573年)、織田信長による小谷城攻めで浅井氏が滅亡すると、その戦功第一とされた羽柴秀吉は、浅井氏の旧領である北近江三郡(坂田・浅井・伊香)12万石を与えられ、初めて「一国一城の主」となった 1 。当初、秀吉は浅井氏の居城であった小谷城にそのまま入城したが、ほどなくしてその地を放棄し、琵琶湖岸の今浜に新たな城を築くという画期的な決断を下す 3 。
この拠点移動の背景には、秀吉の卓越した戦略眼と、時代の変化を的確に捉える先見性があった。その理由は、以下の多角的な視点から分析することができる 1 。
- 山城の限界と平城の可能性 : 小谷城は天険の要害を利用した典型的な山城であり、防御には優れるが、比高が大きく、平時の統治や大規模な城下町の経営には不便であった。
- 領国の中心性 : 秀吉が与えられた湖北三郡を統治する上で、小谷城はやや北に偏りすぎていた。
- 水陸交通の掌握 : 湖岸の今浜は、大量物資の輸送を可能にする琵琶湖の水運と、北陸へと繋がる陸上交通の要衝を同時に押さえることができる絶好の立地であった 9 。
- 産業の掌握 : 当時、先進的な武器であった鉄砲の一大生産地、国友村に近く、その鉄砲鍛冶集団を直接支配下に置きやすかった。
- 宗教勢力の監視 : 今浜周辺は、当時大きな勢力を持っていた一向一揆の中心的な寺院が集中する地域であり、その動向を監視する必要があった。
- 城下町建設の容易性 : 広大な平野が広がる今浜は、大規模な城下町を計画的に建設するのに適していた。
これらの理由は、秀吉の決断が単なる利便性の追求ではなく、主君・織田信長が進める統治理念を自らの領国で実践するものであったことを示している。信長は、旧来の山城に固執する守旧的な支配から脱却し、交通の要衝に城を築き、商業を振興して経済力を蓄え、それを強大な軍事力に転換するという新しい国家像を描いていた。秀吉の今浜への移転は、まさにこの信長の思想を忠実に、そして創造的に継承するものであり、近年では信長自身の意向が強く働いていたとする説も有力視されている 1 。この決断は、秀吉が単なる武将から、政治・経済・軍事を統合的に思考する近世的な統治者へと飛躍する、その第一歩を印すものだったのである。
第二節:「長浜」の誕生 ― 琵琶湖を掌握する水城の構造
天正2年(1574年)頃から、秀吉による新城の建設が本格的に開始された 9 。この時、秀吉は地名を「今浜」から「長浜」へと改めた。これは、主君である織田信長の「長」の一字を拝領したものであり、信長への忠誠を示すと同時に、この地が旧来の在地勢力のものではなく、織田政権の支配下に入ったことを内外に宣言する、巧みな政治的演出であった 3 。
築城にあたっては、解体された小谷城の部材が転用されたと伝えられている 17 。落城の際に焼失を免れた小谷城の資材を再利用することは、工期の短縮や費用の削減という現実的な利点があっただけでなく、旧支配者である浅井氏の権威の象徴を物理的に解体し、それを自らの城の礎とすることで、支配者の交代を視覚的に示す強力な政治的パフォーマンスでもあった 18 。
長浜城の最大の特徴は、琵琶湖の水を巧みに利用した「水城」であったことである。伝承や絵図によれば、城の石垣は直接湖水に浸され、城内に設けられた水門から船が直に出入りできる構造になっていたという 2 。これは、城が単に守りを固めるための施設ではなく、琵琶湖水運を最大限に活用する港湾施設、すなわち物流のハブとしての機能を併せ持っていたことを意味する。防御機能と経済機能を一体化させたこの革新的な設計思想は、軍事と経済の融合を目指す織田・豊臣政権の城郭観を明確に体現するものであった。
表2:小谷城と長浜城の比較分析表
比較項目 |
小谷城(浅井氏) |
長浜城(羽柴秀吉) |
思想的背景・意義 |
立地 |
山城(比高約200m以上) |
平城(琵琶湖岸) |
防御拠点から政治経済の中心地へ |
主要機能 |
軍事防衛、籠城 |
政治(統治)、経済(商業・物流)、軍事 |
機能の複合化・統合化 |
交通 |
防衛上、交通路から意図的に離隔 |
琵琶湖水運と陸上交通の結節点を掌握 |
交通ネットワークの支配を重視 |
城下町 |
山麓に形成、防衛的性格 |
城と一体化した計画都市、商業重視の街路 |
経済活動の効率性を最優先 |
経済政策 |
伝統的な年貢徴収 |
地子銭免除、楽市楽座の導入 |
領主による直接支配から、商業資本の育成・活用へ |
象徴性 |
在地領主の権威 |
中央権力(織田政権)の出先機関、天下人の礎 |
支配の正統性と権力の誇示 |
脆弱性 |
経済活動に不便、孤立の危険 |
自然災害(地震、水害)、平地ゆえの防御の難しさ |
利便性とリスクのトレードオフ |
第三節:城下町の経営 ― 地子銭免除がもたらしたもの
秀吉の革新性は、城郭の構造のみならず、城下町の経営手法において一層顕著に現れた。彼は、新たな城下町を繁栄させるため、当時としては画期的な経済政策を次々と打ち出した。その中でも特筆すべきは、城下の町人に対して屋敷地の年貢(地子銭)や諸役を免除したことである 20 。
この大胆な税制優遇措置は、小谷城下や周辺地域から商人や職人を引き寄せるための強力なインセンティブとなった。人々はこぞって長浜に移り住み、商いを始め、町は急速に活気を帯びていった 20 。これは、領主が領民から直接税を徴収するのではなく、城下全体の経済を活性化させることで、そこから生まれる富(軍事物資の調達、金融機能、情報集積など)を間接的に掌握するという、新しい統治手法の試みであった。この政策は、秀吉が後に天下人として発布する朱印状によって追認され、江戸時代に入っても「朱印地」としてその特権が維持された 20 。
さらに、長浜の町割り(都市計画)にも、秀吉の経済重視の姿勢が明確に表れている。江戸時代以降に作られた多くの城下町が、敵の侵入を妨げるために意図的に道を狭くしたり、鍵の手に曲げたりしているのに対し、長浜の町筋は比較的直線的で見通しが良い 21 。これは、防衛上の機能よりも、人や物資の円滑な移動、すなわち商業活動の効率性を優先した設計思想の現れである。城下町はもはや城の防衛を補う付属物ではなく、領国経営の原動力そのものであるという秀吉の先進的な認識が、この都市計画にはっきりと見て取れる。長浜で試みられたこれらの政策は、秀吉が後に大坂で展開する壮大な都市経営の、まさに雛形となったのである。
第四節:長浜時代の秀吉 ― 「一国一城の主」としての統治と文化
長浜城主時代(天正元年~天正10年)は、秀吉が天下人へと駆け上がる上で極めて重要な時期であった。彼はこの地で初めて大名としての領国経営を経験し、後の豊臣政権を支える多くの有能な人材を見出し、育成した。石田三成、加藤清正、福島正則といった子飼いの武将たちが、秀吉の小姓として仕え始めたのもこの頃である 11 。
私生活においては、長男とされる秀勝(石松丸)が誕生するも、夭折するという悲劇に見舞われている 3 。この秀勝の誕生を祝って、秀吉が城下の町衆に砂金を振る舞い、それを元手に町衆が山車を作って曳き回したのが、現在、日本三大山車祭の一つに数えられる「長浜曳山祭」の起源である、という伝承が残されている 3 。
この起源譚の歴史的信憑性については、今日では疑問視されている 24 。しかし、重要なのは、なぜこのような伝承が生まれ、長きにわたって語り継がれてきたかという点である。それは、地子銭免除などの善政によって多大な恩恵を受けた長浜の町衆が、領主であった秀吉に対し、時代を超えて深い感謝と敬慕の念を抱き続けていたことの証左に他ならない 20 。為政者が民衆の祭りの起源と結びつけて語られることは、その統治が領民からいかに肯定的に受け止められていたかを物語っている。この伝承は、歴史的事実以上に、秀吉の長浜統治が人々の心に遺した影響の大きさを、文化史的な側面から雄弁に物語る貴重な史料といえるだろう。
第三章:激動の時代における長浜城 ― 秀吉退去後から廃城まで
第一節:城主の変転と賤ヶ岳の戦い
天正10年(1582年)、本能寺の変で織田信長が斃れると、長浜城は織田家の後継者をめぐる激しい政治闘争の渦に巻き込まれる。信長亡き後の遺領配分を定めた清洲会議において、長浜城は筆頭家老・柴田勝家の所領となり、勝家の甥で養子の柴田勝豊が城主として入城した 3 。
しかし、勝家と秀吉の対立が先鋭化する中、勝豊は叔父である勝家から冷遇されていたこともあり、秀吉の巧みな調略に応じて寝返ってしまう 3 。この勝豊の離反は、単なる個人的な不満に起因するものだけではない。長浜の元城主として地域の地理や人心を熟知し、町衆の支持も得ていた秀吉の優位性が、柴田家の内部結束力を上回った結果と見ることができる。
翌天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いにおいて、長浜城はその戦略的な位置から、秀吉軍の重要な前線拠点として機能した 9 。築城者である秀吉が、この重要な局面で再び長浜城をその手中に収めたことは、賤ヶ岳の戦いの帰趨を決定づける上で、極めて大きな意味を持っていたのである。
第二節:天正大地震の爪痕と山内一豊の時代
賤ヶ岳の戦いで勝利し、天下人への道を歩み始めた秀吉は、自らの拠点を大坂に移し、長浜城には譜代の家臣を配した。天正13年(1585年)、城主となったのが、後に土佐24万石の大名となる山内一豊である 9 。彼にとって長浜城は、初めて与えられた本格的な城であった 10 。
しかし、その翌年の天正13年(1586年)11月29日(旧暦)、中部地方を大規模な天正地震が襲う。この地震により、長浜城は城郭が全壊するほどの甚大な被害を受け、一豊は愛娘を失うという悲劇に見舞われた 2 。記録によれば、この地震による「側方流動」で城の一部が琵琶湖に水没したとされ、これが現在の琵琶湖湖底遺跡(西浜千軒遺跡)の成因ではないかと考えられている 2 。この出来事は、当時の建築技術の限界を示すと同時に、交通や経済の利便性を追求して湖岸の軟弱な地盤に築かれた平城が、山城にはない自然災害に対する潜在的な脆弱性を抱えていたことを露呈させる事件であった。
第三節:徳川の世へ ― 内藤氏の入城、そして廃城の決定
山内一豊が天正18年(1590年)に遠江掛川へ加増転封となった後、長浜城はしばらく城代が置かれるなどしたが、関ヶ原の戦いを経て、時代は豊臣から徳川へと大きく移り変わる。慶長11年(1606年)、徳川家康は異母弟である内藤信成を4万石で長浜城主とし、ここに長浜藩が成立した 3 。信成は城の大修築を行ったと伝えられている 9 。
しかし、長浜藩の歴史は短命に終わる。信成の子・信正の代、元和元年(1615年)に摂津高槻へ移封となり、わずか9年で廃藩。それに伴い、長浜城も廃城とすることが決定された 3 。
この廃城のタイミングは、極めて政治的な意味合いを持っていた。元和元年は、大坂夏の陣で豊臣宗家が滅亡した年である。長浜は、天下人・豊臣秀吉が最初に築いた「出世城」であり、豊臣氏の栄光を象徴する地であった。徳川幕府にとって、全国支配を盤石にする過程で、このような旧豊臣所縁の城を存続させることは、潜在的なリスクを内包していた。そこで、豊臣氏滅亡という決定的な節目に長浜城を廃し、その資材を譜代大名の筆頭である井伊氏が治める彦根城の築城に充てることで、物理的にも象徴的にも豊臣の記憶を解体し、徳川の新たな支配体制を近江の地に確立するという、高度な政治的判断が働いたと考えられる 19 。
第四節:解体された城 ― 彦根城天秤櫓への転生と遺構の行方
廃城となった長浜城の石垣や櫓、門などの部材の多くは、彦根城の築城資材として転用された 3 。これは、近江における豊臣色の城郭を一掃するという徳川幕府の方針の一環でもあった 26 。
中でも特に有名なのが、彦根城の重要文化財である天秤櫓が、長浜城の大手門を移築したものであるという伝承である 9 。この説は、井伊家の公式記録である『井伊年譜』にも「長濱大手の門之由」との記述が見られることから、古くから有力視されてきた 29 。さらに、昭和35年(1960年)に行われた天秤櫓の解体修理の際には、部材から移築を裏付ける墨書が発見され、伝承の信憑性を高めることとなった 31 。新時代の支配者である徳川・井伊氏が、旧時代の象徴である豊臣秀吉の城の最も重要な部分(大手門)を、自らの城の中核に組み込んだこの行為は、単なる資材の再利用という経済的側面を超え、旧権力を完全に乗り越え、その権威を吸収したことを示す象徴的な出来事であった。
また、長浜城の遺構は彦根城だけでなく、長浜市内にも移築されたと伝えられている。市内にある真宗大谷派長浜別院大通寺の台所門や、知善院の表門は、いずれも長浜城の城門を移したものであるとされ、往時の城の姿を偲ばせる貴重な遺構として現存している 9 。
第四章:史跡としての今浜・長浜城 ― 考古学と現代の視点から
第一節:発掘調査が語る土地の記憶 ― 長浜城以前と以後の様相
近代以降の市街地化や湖岸の埋め立てにより、長浜城の地上の遺構は極めて少なくなっている 3 。しかし、近年の継続的な発掘調査によって、失われた城と土地の記憶が少しずつ明らかになりつつある。
特に、長浜市教育委員会などが実施した長浜城遺跡第272次発掘調査報告書は、重要な知見を提供している 14 。この調査の特筆すべき点は、調査範囲内において「安土桃山時代の長浜城に直接かかわる遺構・遺物は検出していない」と結論づけられたことである 14 。これは一見すると成果がなかったように思えるが、むしろ元和元年の廃城に際して、再利用できない石垣や建物がいかに徹底的に破却され、整地されたか、そして近代以降の開発がいかに大規模であったかを物語る「不在の証明」として、歴史的に大きな意味を持つ。
一方で、この調査では大きな成果も得られた。一つは、弥生時代中期から平安・鎌倉時代に至るまでの遺構群が検出され、秀吉の築城以前からこの琵琶湖岸の微高地が、人々の生活の場として利用されてきた歴史が考古学的に裏付けられたことである 14 。
もう一つの重要な発見は、江戸時代の長浜の町を区切っていた堀の石垣が検出され、そのラインが秀吉時代の長浜城の外堀を踏襲して町割りがなされていた具体的な痕跡が確認されたことである 14 。これは、城という軍事施設は解体されても、秀吉が設計した都市の骨格(インフラ)は、彦根藩政下の港町として生き続け、地域の発展の基礎となったことを示している。秀吉の都市計画がいかに合理的で、後世にまで強い影響力を持っていたかを、考古学が証明したのである。
第二節:失われた城郭の姿を求めて ― 絵図と遺構からの考察
現存する遺構が乏しい中、往時の長浜城の全体像を復元する試みは、断片的な情報を繋ぎ合わせる地道な作業となる。城跡には、発掘調査で出土した石垣の根石や、太閤井戸と伝えられる井戸跡が残されている 3 。また、昭和44年(1969年)の湖岸埋め立て工事の際には、水底から約30メートルにわたって整然と並ぶ巨石列が発見されており、湖に突き出ていた石垣の一部ではないかと推測されている 32 。
これらの考古学的知見に、江戸時代から明治時代にかけて描かれた「長浜町略絵図」などの古絵図を重ね合わせることで、城の縄張りの大枠が推定されている 13 。それらによれば、長浜城は二重の外堀と内堀に囲まれ、本丸や二の丸が湖に浮かぶ島のように配置された、大規模な水城であったと考えられている 13 。しかし、これらの復元はあくまで推定の域を出ず、文献史学、考古学、地理情報などを統合した、さらなる学際的なアプローチによる研究が今後の課題となっている。
第三節:現代に蘇った天守 ― 長浜城歴史博物館の役割と課題
現在の長浜城跡、豊公園内に聳える三層五階の天守は、昭和58年(1983年)に市民の熱意によって再興されたものである 9 。これは、犬山城や伏見城などをモデルとして設計された模擬天守であり、市立長浜城歴史博物館として運営されている 2 。
この天守は、史実に基づいて正確に復元されたものではない。江戸時代の資料によれば、本来の天守台は現在の模擬天守の位置とは異なり、より北西の琵琶湖側にあったとされ、その規模も大きく異なっていた可能性が高い 34 。そもそも、秀吉時代に天守閣が存在したかどうかについても、確たる史料がなく、学術的には断定されていない 40 。
したがって、現在の天守は、厳密な意味での史跡の復元とはいえない。しかし、物理的な遺構がほとんど失われた今日において、この天守が長浜の歴史、特に「秀吉公の城下町」としての記憶を現代に伝え、地域の歴史的アイデンティティを形成する上で、極めて重要な「象徴」としての役割を果たしていることは紛れもない事実である。史跡の活用において、学術的な正確性の追求と、地域振興や歴史教育といった社会的な要請との間でいかにバランスを取るか。長浜城の模擬天守は、現代における文化財保護のあり方を考える上での一つの示唆的な事例といえるだろう。
終章:今浜・長浜城が歴史に刻んだもの
近江今浜城の歴史を紐解くことは、戦国時代という激動の時代が内包していた、二つの大きな歴史的潮流を辿ることに他ならない。
一つは、秀吉以前の「今浜城」が象徴する、中世的権力構造の崩壊と新たな地域権力の誕生である。守護・京極氏の権威が失墜し、在地国人である浅井氏が下剋上によって覇権を握る過程で、今浜城はその権力移行の結節点として重要な役割を果たした。それは、旧来の秩序が解体され、実力主義の新しい時代が到来したことを告げる、動乱の時代の証人であった。
そしてもう一つは、秀吉による「長浜城」への転換が示す、近世的支配体制の萌芽である。秀吉は、山城という旧来の軍事思想と決別し、琵琶湖の水運と陸上交通の結節点という経済的・地政学的な合理性に基づいて、平地に新たな城を築いた。地子銭免除という革新的な政策によって城下町を繁栄させ、軍事・政治・経済を一体化した拠点を作り上げた。この長浜における統治の経験は、秀吉の天下取りの原点となり、その後の日本の城郭史、そして都市史のあり方を決定づける画期的な転換点となった。
元和元年に廃城となり、物理的には地上から姿を消した長浜城。しかし、その城が歴史に刻んだものは、決して消え去ってはいない。その部材は彦根城天秤櫓として今なお国宝の城の一角をなし、その都市計画の骨格は現在の長浜の町並みのうちに息づき、そしてその城主への敬慕の念は長浜曳山祭という華やかな文化の中に生き続けている。今浜・長浜城は、単なる過去の遺物ではなく、その歴史的遺産を通じて、現代にまで多大な影響を与え続ける、日本の歴史における重要なマイルストーンなのである。
引用文献
- 11月17日(日)まで。第五回テーマ展「羽柴秀吉の長浜城・城下町 ... https://sengokudama.jugem.jp/?eid=3177
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- 長浜城 http://kojousi.sakura.ne.jp/kojousi.ohminagahama.htm
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