伯耆国の要衝、八橋城は行松氏が築き、尼子・毛利氏の支配下で戦略拠点となった。杉原盛重が城主を務め、対南条氏の最前線基地として激戦。近世城郭へ改修されるも廃城となり、後に陣屋として再生した。
伯耆国(現在の鳥取県中部・西部)に存在した八橋城は、戦国時代の動乱を語る上で欠かすことのできない重要な城郭である。その地理的条件は、この城が歴史の表舞台に立ち続けた根源的な理由を雄弁に物語っている。城は、山陰地方の東西を結ぶ大動脈である山陰道(伯耆街道)と、内陸部の倉吉方面へと通じる八橋往来が交差する結節点に築かれていた 1 。この立地は、単に防御に優れた丘陵(点)であるだけでなく、物流と軍勢の移動経路(線)を扼する戦略的価値を有していた。八橋城を制することは、伯耆国西部から中部にかけての広域(面)支配に直結するものであり、これが戦国大名たちの熾烈な争奪戦を招く要因となったのである。
古典籍においては、この城は「大江城(大江ノ城)」という名でも知られている 3 。この名称は、築城主とされる行松氏以前の、より古い時代の呼称や地名に由来する可能性を示唆しており、城の歴史的深度を物語るものである。
本報告書は、この八橋城が、一国人の拠点として築かれてから、尼子、毛利といった大勢力の方面軍司令部となり、織田勢力との最前線基地へと変貌し、近世初頭には一時的に藩庁が置かれ、最終的には陣屋として再生するまでの多層的な歴史を、史料に基づき詳細に解明することを目的とする。その変遷は、伯耆国ひいては山陰地方全体の戦国時代から近世に至るまでの政治・軍事史の縮図に他ならない。
表1:八橋城 城主変遷と主要関連事項年表
時代区分 |
年代(西暦) |
主要な城主・支配勢力 |
主要関連事項 |
室町時代 |
不明 |
行松氏 (行松正盛) |
伯耆守護・山名氏の被官として築城、または拠点化。「大江城」とも号される 3 。 |
戦国時代 |
1524年頃(大永4) |
尼子氏 (吉田左京亮義辰) |
「大永の五月崩れ」により尼子氏の支配下に入る(※年代には諸説あり) 5 。 |
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1565年(永禄8) |
毛利氏 (三村家親、杉原盛重) |
毛利方の攻撃により落城。対尼子氏戦線の拠点となる 4 。 |
安土桃山時代 |
1580年頃(天正8) |
(毛利氏と南条氏の争奪) |
織田方に付いた南条氏との最前線基地となる。激しい攻防が繰り返される 6 。 |
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1581年(天正9) |
(杉原盛重、八橋城にて病没) |
毛利方の伯耆方面司令官・杉原盛重が城内で死去 8 。 |
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1584年頃(天正12) |
南条氏 |
豊臣・毛利和睦後、南条氏が支配権を回復したと推定される 6 。 |
江戸時代 |
1600年(慶長5) |
中村氏 (中村一栄) |
関ヶ原の戦後、南条氏改易。米子藩領となり、中村一栄が3万石で入城 1 。 |
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1609年(慶長14) |
市橋氏 (市橋長勝) |
中村氏断絶後、市橋長勝が2万3千石で入封。「八橋藩」が立藩される 1 。 |
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(市橋氏統治期) |
(市橋長勝) |
近世城郭として石垣を用いる大規模な改修が行われる 1 。 |
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1617年(元和3) |
鳥取藩池田氏 |
市橋氏移封に伴い八橋藩は廃藩。一国一城令により八橋城は廃城となる 5 。 |
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1632年(寛永9) |
津田氏 (鳥取藩家老) |
池田光仲の入府後、津田氏が城跡に陣屋を構え、自分手政治を開始 1 。 |
明治維新 |
1869年(明治2) |
(廃藩置県) |
自分手政治が廃止され、陣屋としての役割を終える 11 。 |
八橋城の歴史は、伯耆国の有力国人であった行松(ゆきまつ)氏の台頭と密接に結びついている。行松氏は、伯耆守護であった山名氏の被官であり、現地の国人衆を束ねた「伯州衆」の中でも筆頭格に数えられるほどの勢力を有していた 12 。彼らの本拠地は西伯耆の尾高城(現在の米子市)に置かれていたが、東伯耆方面への影響力を確保し、同地域の南条氏など他の国人勢力と対峙するための戦略的拠点として、八橋城が機能していたと考えられる 12 。
この行松氏の支配体制は、単一の城に依存するものではなく、西の尾高城と東の八橋城が連携する「戦略的複合拠点」として構築されていた点に本質がある。尾高城が西伯耆三郡(会見、汗入、日野)の支配を固める本営であるならば、八橋城は東伯耆三郡(八橋、河村、久米)への玄関口であり、軍事的・政治的な前線基地であった。この「二城一体」の支配構造は、伯耆国西部を安定的に統治するための極めて合理的な戦略であり、後に行松氏を駆逐した尼子氏や、さらにその後の毛利氏もこの体制をほぼそのまま踏襲している。この事実は、この戦略が特定の勢力によるものではなく、伯耆国の地政学的条件から導き出された普遍的なものであったことを示している。
初代城主として名を挙げられる行松正盛は、この戦略体制を確立した人物と目される 3 。彼は一貫して伯耆守護・山名尚之を支持する立場をとった 14 。しかし、この政治的選択が、やがて出雲から伯耆へと勢力を拡大する尼子氏との対立を決定づけ、彼が拠点を失う直接的な原因となるのである。この時期の八橋城は、まだ石垣などを持たない、土塁と堀を主とした典型的な中世の「土の城」であったと推定され、その縄張りは、後の大改修を経た城郭の原型をなしていたと考えられる。
行松氏による支配は、出雲の戦国大名・尼子経久の伯耆侵攻によって終焉を迎える。この政変を象徴する出来事として、後世の軍記物や地誌、特に『伯耆民談記』などでは、大永4年(1524年)の「大永の五月崩れ」が劇的に描かれている 15 。これによれば、尼子軍は電撃的な速さで伯耆国に侵攻し、八橋城や尾高城をはじめとする諸城を瞬く間に攻略、行松正盛をはじめとする山名方の国人衆は国外へ追放され、伯耆一円が尼子氏の支配下に入ったとされる 5 。
しかしながら、近年の研究ではこの通説に批判的な検討が加えられている。この「大永の五月崩れ」という一大事件を直接的に証明する同時代の一次史料は発見されておらず、尼子氏の伯耆進出は、大永4年という単一の時点で行われたものではなく、永正年間(1504-21年)から天文年間(1532-55年)にかけて、数多くの合戦を繰り返しながら段階的に進められたとする見方が有力となっている 6 。したがって、八橋城の落城も、1524年の劇的な事件というよりは、長期にわたる尼子氏の軍事・政治的圧力の結果であった可能性が高い。
この「大永の五月崩れ」という物語は、歴史的事実そのものというよりも、尼子氏の支配の正当性と、その圧倒的な武威を後世に伝えるための「物語的装置」として機能した側面が強い。複雑で長期にわたる漸進的な支配過程を、英雄・尼子経久による鮮やかな電撃作戦として集約し、単純化することで、尼子氏の支配が確立した後に、その始まりを神話化・伝説化する効果があったと考えられる。
伯耆国を掌握した尼子氏は、八橋城の城代として重臣の吉田左京亮義辰(よしとき)を配置した 3 。そして、西の尾高城には義辰の兄である吉田光倫を置き、兄弟で西伯耆三郡の統治を担わせた 4 。これは、前述した行松氏の「二城一体」支配体制を完全に踏襲するものであり、尼子氏が伯耆国の支配構造を的確に理解し、それを効率的に利用したことを示している。その後、義辰は播磨国での戦いで討死し、城主の座はその子である源四郎に引き継がれた 5 。
尼子氏による支配も、中国地方の新たな覇者・毛利氏の伸長によって終わりを告げる。永禄8年(1565年)、毛利方の備中松山城主・三村家親と、毛利氏家臣の香川光景が八橋城を攻撃した 4 。城主であった吉田源四郎は、落城必至と見るや、城兵二百余騎を率いて毛利軍の包囲網を強行突破し、尼子氏の本拠地である出雲・月山富田城へと落ち延びたという 5 。
八橋城を奪取した毛利氏は、この地を対尼子戦略の重要拠点と位置づけ、猛将として名高い杉原盛重を城将として配置した 7 。盛重は西伯耆の尾高城主も兼務しており 9 、事実上、毛利氏の伯耆方面軍司令官として、対尼子戦線のすべてを統括する役割を担った。彼の主たる任務は、尼子の本国・月山富田城への兵站線、特に日本海側からの補給路を完全に遮断することにあった 24 。盛重はその武勇を敵将であった吉川元春からも高く評価され、また、滅多に笑った顔を見せなかったことから「能面」とあだ名された逸話や、徳岡久兵衛をはじめとする忍び衆を駆使して諜報・破壊活動を行ったという記録も残っており、その特異な人物像がうかがえる 8 。
この伯耆支配の要であった杉原盛重の最期の地となったのが、八橋城であった。天正9年(1581年)、織田信長の中国方面軍との対決が激化する中、毛利氏の重鎮・吉川元春が軍議のために八橋城を訪れた。しかし、この時すでに盛重は重病の床にあり、軍の采配を息子たちに任せている状態であった 8 。そして同年12月25日、盛重は八橋城内にて病没した 8 。
杉原盛重の死は、単なる一武将の死に留まらなかった。それは、毛利氏の伯耆国支配体制における構造的な脆弱性を露呈させ、対織田戦略に深刻な影響を与えた一大事件であった。盛重は、その卓越した軍事能力とカリスマによって伯耆の軍事・統治を一手に担っており、彼の存在そのものがこの地域の安定を担保していた。彼の死によって生じた権力の真空は、即座に後継者である息子たちの内紛を引き起こした。次男の景盛が兄の元盛を謀殺し、その景盛もまた毛利氏によって討伐されるという悲劇的な結末を迎え、伯耆杉原家は事実上崩壊した 6 。この混乱は、盛重個人の能力に過度に依存していた毛利氏の統治システムの脆さを示している。そしてこの内紛は、まさに対峙していた南条氏に絶好の機会を与えることとなり、毛利方の東方戦線における防衛力低下に直結した。八橋城は、この毛利方の戦略的後退の引き金が引かれた、まさにその舞台となったのである。
天正年間に入り、東伯耆の羽衣石城を拠点とする南条氏が、中央で勢力を拡大する織田信長に与する立場を鮮明にすると、八橋城の戦略的意味合いは再び大きく変化した。対尼子氏の拠点から、今度は対織田勢力の最前線基地へとその役割を変えたのである 7 。八橋城は、毛利領の東端、南条領との境界線上に位置する、極めて重要な軍事拠点となった。
この緊張関係を象徴する出来事が、天正8年(1580年)4月に行われた南条元続・元清兄弟による八橋城攻撃である。南条軍は二波にわたる攻撃を仕掛けたが、当時城を守っていた杉原盛重によって撃退された 6 。この戦いは、両勢力の衝突がいかに激しいものであったかを物語っている。
その後、豊臣秀吉と毛利氏との間に和睦が成立すると、八橋城は毛利領として安堵されたとみられる 6 。これにより、「南条氏の領国内に、旧敵対勢力である毛利氏の軍事拠点が孤立して存続する」という、極めて異例かつ緊張をはらんだ状況が生まれた。この事実は、八橋城が単なる一城郭ではなく、両勢力にとって譲ることのできない戦略的要衝であったことを示している。天正12年(1584年)頃には、南条氏が何らかの形で城を回復した可能性も史料から示唆されており 6 、和睦後もこの地を巡る水面下での駆け引きが続いていたことがうかがえる。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いは、八橋城の運命を再び大きく変えた。西軍に与した南条氏が改易されると、伯耆一国は戦功のあった中村一忠の所領となった 4 。これに伴い、八橋城には一忠の叔父である中村一栄が3万石の所領を与えられて入城した 1 。
しかし、中村氏の支配も長くは続かなかった。慶長14年(1609年)、中村氏が跡継ぎなく断絶すると、徳川家康は美濃国今尾城主であった市橋長勝を2万3千石で八橋に移封した 1 。これにより、八橋城を藩庁とする「八橋藩」が立藩され、城は新たな時代を迎えることになった。
市橋長勝は、戦乱の時代が終わり、新たな統治の時代が始まったことを示すべく、八橋城に大規模な改修を施したと伝えられている 1 。この改修の最大の特徴は、石垣の導入であった。現在も城跡の麓などにわずかに残る石垣は、この市橋氏による修築時のものと考えられている 7 。
この「石垣」の導入は、単なる防御力の向上以上の意味を持っていた。土塁と堀を主体とする中世城郭が純粋な「戦闘拠点」であったのに対し、石垣を多用する近世城郭は、高度な土木技術とそれを動員できる財力・権力を誇示する「統治の象徴」でもあった。市橋氏による改修は、八橋城の機能が、敵との戦闘を主目的とする軍事要塞から、新たに成立した「八橋藩」という政治的単位の中心地として、領民に支配者の権威を示すための政治拠点へと転換したことを物理的に象徴するものであった。八橋城に残る石垣は、この歴史的転換点を今に伝える貴重なモニュメントと言える。
しかし、この八橋藩は短命に終わる。元和2年(1616年)、市橋長勝は大坂の陣での戦功が認められ、越後国三条へ加増移封となった 1 。そして翌元和3年(1617年)、八橋の地は鳥取藩主・池田光政の所領となり、幕府が発した一国一城令に基づき、八橋城は廃城となった 3 。城郭としての八橋城の歴史は、ここに幕を閉じたのである。
八橋城の遺構は、明治時代の山陰本線敷設によって城のあった丘陵が南北に分断され、特に南側の多くが失われているため、その全体像を現地で把握することは困難である 1 。しかし、幸いにも江戸時代中期の地誌『伯耆民談記』にその詳細な構造が記録されており、往時の姿を復元する上で極めて重要な史料となっている 4 。
『伯耆民談記』によれば、城は西側の本丸と、それより一段低い東側の二の丸を中核として構成されていた 4 。大手門は東側に設けられ、二の丸を経て本丸へと至る構造であった。その規模は具体的に記されており、麓から本丸までの高さは26間(約47メートル)、本丸の広さは南北32間(約58メートル)、東西23間(約42メートル)に及んだという 4 。
防御施設も巧みに配置されていた。城の南側には深さ2間(約3.6メートル)の空堀が、北側と東側には水堀が巡らされていた。さらに特筆すべきは、城の東北に存在した「川堀」である。これは長さ50間(約91メートル)、幅28間(約51メートル)という広大なもので、自然の河川を利用または改修した大規模な防御ラインであったと考えられる 4 。このように、地形を巧みに利用し、空堀、水堀、川堀という多重的な防御網を構築していたことが、八橋城が要害として重視された理由の一つであろう。
現在、城跡として残るのは、鉄道の北側に位置する二つの曲輪が主である 7 。二の丸跡には城山稲荷が祀られ、本丸跡(主郭部)には、昭和7年(1932年)にこの沖合で遭難した朝日新聞社の飛行士、酒井憲次郎と片桐庄平を悼む殉難碑が建てられている 1 。そして、山麓には市橋氏時代に築かれたとされる石垣が、わずかながらもその姿を留めている 7 。
表2:『伯耆民談記』に基づく八橋城の規模・構造一覧
施設 |
規模(原文:間) |
規模(メートル換算) |
備考 |
本丸 |
高さ:麓より26間 |
約47.3 m |
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境地:南北32間、東西23間 |
約58.2 m × 約41.8 m |
南隅に深さ5間の井戸があったが、当時は既に水無しと記録 4 。 |
二の丸 |
本丸より3間下 |
本丸より約5.5 m低い |
東西27間(約49.1 m)、南北22間(約40.0 m)。東に門跡あり 4 。 |
下の郭 |
二の丸より5間下 |
二の丸より約9.1 m低い |
東西58間(約105.5 m)、南北20間(約36.4 m) 4 。現在のJR八橋駅舎付近と推定。 |
南の堀(空堀) |
長さ96間、広さ3間、深さ2間 |
長さ 約174.5 m、幅 約5.5 m、深さ 約3.6 m |
水は無かったと記録 4 。 |
北の堀(水堀) |
長さ30間、広さ4間、深さ1間余 |
長さ 約54.5 m、幅 約7.3 m、深さ 約1.8 m以上 |
水があったと記録 4 。 |
東の堀(水堀) |
長さ50間、広さ6間、深さ1間 |
長さ 約90.9 m、幅 約10.9 m、深さ 約1.8 m |
水があったと記録 4 。 |
東北の川堀 |
長さ50間、広さ28間、深さ1間半 |
長さ 約90.9 m、幅 約50.9 m、深さ 約2.7 m |
大規模な堀であったことがうかがえる 4 。 |
注:1間 = 約1.818メートルとして換算。 |
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一国一城令によって廃城となり、城郭としての歴史に終止符を打った八橋城であったが、その地が持つ政治的・経済的な重要性が失われることはなかった。寛永9年(1632年)、鳥取藩主として池田光仲が入国すると、その家老である津田氏が八橋の地を領有することになった 1 。津田氏は、廃城となった八橋城の跡地に陣屋(政庁兼邸宅)を構え、この地を治めたのである 3 。
この津田氏による統治は、「自分手政治(じぶんてせいじ)」と呼ばれる特殊な形態をとっていた 11 。これは、藩主から領内の重要拠点(八橋のほか、米子や倉吉など)の統治を重臣に委任し、半独立的な行政権を認める制度であった 11 。津田氏は、独自の法令を定め、鳥取の城下町と同様の町奉行を置くなど、高度な自治を許されていた 11 。この制度は、軍事的な要衝を防衛するという意図から始まったものと推定されるが 28 、明治2年(1869年)に廃止されるまで約240年間も続いた。この事実は、城郭という物理的な軍事施設が失われた後も、八橋が地域の政治・経済の中心地としての役割を継続していたことを明確に示している。
結論として、八橋城の歴史的価値は、その多岐にわたる変遷の軌跡そのものにある。それは、中世における在地国人の拠点として始まり、戦国大名の方面軍司令部、織豊期の最前線基地、近世初頭の藩庁、そして江戸時代の地方行政拠点と、時代の要請に応じてその姿と機能を絶えず変え続けた。一つの城跡が、これほど多様な歴史的段階を経験した例は稀である。八橋城の栄枯盛衰の物語は、単なる一城郭の歴史に留まらず、伯耆国、ひいては山陰地方全体の戦国時代から近世に至るまでのダイナミックな政治・軍事史を凝縮した、貴重な歴史遺産であると言える。