最終更新日 2025-08-22

八王子城

後北条氏の巨城・八王子城は、氏照の野心と美意識が融合した傑作。豊臣軍の猛攻に一日で落城し、御主殿の滝の悲劇は語り継がれる。その歴史は、戦国時代の終焉と、武士の誇り、そして悲哀を語る。

八王子城:後北条氏の栄華と滅亡を刻んだ関東の巨城

序章:戦国末期、関東に聳えた巨城

天正18年(1590年)、日本の歴史は大きな転換点を迎えようとしていた。天下統一事業の最終段階にあった豊臣秀吉は、関東一円に覇を唱え、独立した「国家」ともいえる広大な領域を支配していた後北条氏に対し、その総力を結集した遠征軍を発動した 1 。これは、中央集権化を推し進める豊臣政権と、関東に独自の秩序を築き上げた後北条氏との、文字通り世界の衝突であった。この巨大な歴史のうねりの中で、後北条氏の百年にわたる栄華と、そのあまりにも脆い滅亡を象徴する存在として、一つの城が浮かび上がる。それが「八王子城」である。

小田原城の堅固な守りを支える広大な支城網の中でも、西の守りの要として、また甲斐・信濃方面への睨みを利かせる戦略拠点として築かれたこの巨大山城は、後北条氏の築城技術の粋を集めた傑作とされた。しかし、歴史の現実は非情であった。難攻不落を誇ったはずのこの城は、豊臣軍の猛攻の前に、わずか一日で凄惨な落城の悲劇に見舞われることになる。

なぜ後北条氏は、これほどまでに壮大な山城を築き上げる必要があったのか。そして、なぜその堅城がかくも容易く陥落するという結末を迎えたのか。本報告書では、城主・北条氏照という人物の実像、城の構造(縄張り)の緻密な分析、近年の考古学的発見が明らかにした城内の生活、そして落城の日の攻防を多角的に検証することで、八王子城が戦国史に刻んだ深い意味を徹底的に解き明かしていく。

第一章:城主・北条氏照の実像 ― 城に込められた野心と美意識

八王子城の性格を理解するためには、まずその築城主である北条氏照という人物を深く知る必要がある。城は城主を映す鏡と言われるように、八王子城の構造やそこでの営みは、氏照の持つ二面性、すなわち「勇猛な武人」としての顔と、「洗練された文化人」としての顔を色濃く反映している。

北条一門の戦略家

北条氏照は、天文11年(1542年)頃、後北条氏三代当主・北条氏康の三男として生まれた 3 。彼は早くからその才覚を現し、武蔵国の守護代であった大石氏の養子となる 4 。これは単なる家督相続ではなく、在地勢力を巧みに自らの支配体制に組み込むという、後北条氏の優れた統治戦略の一環であった。大石氏の名跡を継承することで、氏照は後北条氏の西武蔵における支配権を盤石なものとしたのである。

兄であり四代当主の氏政を補佐する立場になると、氏照の能力はさらに開花する。軍事面では、敵陣に切り込む先鋒部隊を率いて数々の武功を挙げ、外交面では、越後の上杉氏や中央の織田氏との複雑な交渉を担当するなど、名実ともに関東の政治・軍事の中心人物として活躍した 3 。彼の存在なくして、後北条氏が迎えた最大版図の実現はあり得なかったであろう。

文化人としての一面

戦場での勇猛さや、豊臣秀吉との対決において終始一貫して徹底抗戦を主張したとされる気性の激しさとは裏腹に、氏照は高い教養を持つ文化人でもあった 3 。彼は横笛の名手として知られ、中国から輸入された高価な陶磁器の収集や鷹狩りを嗜むなど、風流を解する一面を持っていた 3 。八王子市内には、氏照が月を眺めたという伝承が残る「月夜峰」という地名もあり、彼の洗練された美意識を今に伝えている 3 。この文化人としての側面は、後に八王子城跡の発掘調査で発見される数々の遺物によって、具体的に裏付けられることになる。

本拠地移転の決断 ― 滝山城から八王子城へ

氏照が当初、居城としていたのは、多摩川の断崖に築かれた平山城の滝山城であった 7 。しかし、永禄12年(1569年)、甲斐の武田信玄による小田原攻めの際、滝山城は攻撃を受け、その防御能力に限界があることを痛感させられた 9 。この戦いの教訓が、より防御力に優れた峻険な山城である八王子城への本拠地移転を決意させた直接的な契機となったと考えられている。

この移転は、単に戦術的な防御力を向上させるという目的だけに留まらない。当時の政治・軍事状況の変化に対応するための、より大きな戦略的判断があった。御館の乱以降、甲斐武田氏との同盟関係が破綻し、甲州方面からの軍事的脅威が再び高まっていた 9 。このような戦略環境の変化に対し、後北条氏の対甲州防衛ラインそのものを再構築する意図が、この大規模な本拠地移転には込められていたのである。八王子城は、氏照個人の城であると同時に、後北条氏の国家戦略を体現する城でもあった。

八王子城の構造は、こうした氏照の複合的な人物像を具現化したものと解釈できる。険しい自然地形を利用し、無数の曲輪や堀切で固められた戦闘本位の「要害地区」は、猛将としての氏照の「武」の側面を象徴している。一方で、壮麗な礎石建物や枯山水の庭園を備えた政治・文化の中心地「居館地区」は、文化人としての氏照の「文」の側面が投影された空間であった。八王子城を深く理解することは、戦国時代を生きた北条氏照という複雑で魅力的な武将の精神世界に触れることに他ならない。

第二章:八王子城の縄張と構造 ― 天然の要害と先進技術の融合

八王子城は、標高約460mの深沢山(現在の城山)を中心に、東西約3km、南北約2〜3kmという広大な範囲に及ぶ、戦国時代末期における最大級の山城である 10 。その縄張り(城の設計)は、山の尾根や谷といった複雑な地形を最大限に活用し、戦闘機能、政治・居住機能、そして城下町の機能を一体化させた壮大なものであった。近年の研究では、この城が伝統的な中世山城の築城術と、織田・豊臣政権下で発展した近世城郭の技術を融合させた、過渡期的な特徴を持つ「ハイブリッド城郭」であったことが明らかになっている。

城の全体像と設計思想

八王子城は、大きく分けて5つの地区から構成されている 12

  1. 要害地区 : 山頂部を中心に、戦闘時に要塞となる曲輪群。
  2. 居館地区 : 山腹に設けられた、城主・氏照の館である「御主殿」を中心とする政治・生活空間。
  3. 根小屋地区 : 山麓に広がる、家臣団の屋敷や城下町。
  4. 太鼓曲輪地区 : 居館地区の南側尾根に築かれた防御施設群。
  5. 御霊谷地区 : さらに南麓の防御を担った区域。

この多層的な防御網は、敵の侵攻を段階的に食い止め、消耗させることを意図して設計されている。特に、近年の赤色立体地図を用いた調査では、これまで知られていなかった連続竪堀などの遺構が発見されており、その防御システムの緻密さが改めて注目されている 13

戦闘区域「要害地区」の徹底分析

要害地区は、八王子城の軍事的中枢であり、氏照の「武」の思想が最も色濃く反映された空間である。

山頂本丸と曲輪群

山頂には城の最高所である「本丸」が置かれ、その周囲には「松木曲輪」「小宮曲輪」「腰曲輪」といった大小の平坦地(曲輪)が、山の斜面に沿って段々状に配置されている 14 。この配置は、下から攻め上る敵に対して、上方の複数の曲輪から同時に攻撃を加えることを可能にし、防御側が圧倒的に有利になるよう計算されている。

死の空間「キルゾーン」

特筆すべきは、本丸、松木曲輪、小宮曲輪の三つの主要な曲輪に三方から囲まれた窪地の存在である。この空間は、侵入した敵部隊を完全に包囲し、四方八方から矢や鉄砲による十字砲火を浴びせるための、意図的に設計された「キルゾーン(殺戮空間)」であった 9 。これは、集団戦術を前提とした、極めて近世的な戦闘思想の現れといえる。

詰城「大天守」

要害地区の最西端には、「大天守」と呼ばれる一角が存在する 9 。これは、天守閣のような高層建築があったわけではなく、本丸が陥落した際に最後の抵抗拠点となる「詰城」としての機能を持っていた 7 。背後は深さ10mを超える巨大な堀切によって完全に遮断され、周囲は石垣や石塁で固められており、まさに最後の砦と呼ぶにふさわしい堅固な造りであった 7

政治と生活の場「居館地区」の詳説

山腹に位置する居館地区は、城主の権威と文化的な洗練を示す空間であり、その中心には氏照の館「御主殿」があった。

御主殿への道

城下から御主殿へ至る道筋(登城路)は、防御機能と儀礼的な演出が巧みに両立されている。

  • 古道と曳橋 : 谷を越える場所には、当時は簡素な木橋であった「曳橋」が架けられていた。この橋は、非常時には容易に破壊・撤去することが可能で、敵の侵入を物理的に遮断する役割を担っていた 9
  • 虎口と石垣 : 曳橋を渡った先には、城の正面玄関にあたる「虎口」が待ち構える。自然石をほぼ加工せずに積み上げる「野面積み」の技法で築かれた巨大な石垣が両脇を固め、その奥には復元された「冠木門」が聳え立つ 7 。虎口の内部は、敵の直進を阻むために道を何度も折り曲げた「枡形」と呼ばれる構造になっており、侵入した敵兵は動きを封じられ、周囲からの集中攻撃に晒される仕組みであった 7

中世と近世の技術が交差する城郭

八王子城の縄張りは、伝統的な中世山城の要素と、先進的な近世城郭の要素が混在している点に最大の特徴がある。尾根を断ち切る「堀切」や、山の斜面を敵が登れないように掘られた「竪堀」は、中世以来の典型的な防御手法である 9 。一方で、御主殿虎口に見られるような大規模な高石垣や、鉄砲による集団戦を前提とした「枡形虎口」「キルゾーン」の設計は、織田信長の安土城などに代表される中央の最新築城技術の影響を強く受けている 7

氏照は、武田信玄との戦いの教訓から、中世的な山城の堅固さを求めつつも、天下の趨勢を見据え、中央の新しい戦争の形に対応するための先進技術を積極的に導入しようとしていた。八王子城は、関東の覇者・後北条氏が、時代の変化に対応すべく生み出した、独自の進化を遂げた城郭形態の到達点であったと言えるだろう。

第三章:発掘調査が語る御主殿の栄華

八王子城の歴史を解明する上で、決定的に重要な役割を果たしたのが、昭和後期から平成にかけて行われた御主殿地区の発掘調査である。天正18年(1590年)の落城から400年を迎える記念事業を契機に本格化したこの調査は、江戸時代の古図「慶安古図」に記された城主の館の存在を科学的に裏付けるとともに、これまで想像の域を出なかった城主の華やかな生活と高い文化水準を、具体的な物証をもって明らかにした 12

壮麗な建築群

発掘調査により、御主殿の中心部には、礎石を用いた2棟の大型建物跡が存在したことが判明した 15 。規模の大きい東棟は、城主が政務を執り行い、公式な儀礼などを行った「主殿」と推定されている。一方、西棟は、重要な客人を迎え、饗応するための「会所」であったと考えられる 18 。これらの建物の礎石には、落城時の猛火によって柱が焼け落ちた痕跡が生々しく残っており、戦いの激しさを物語っている 18 。また、瓦が一枚も出土しなかったことから、屋根は檜皮葺や板葺きといった、当時の格式高い建築様式であったと推測されている 16

権威を象徴する庭園

会所の北側からは、大小の岩を巧みに配置した枯山水の庭園跡が発見された 12 。その後の追加調査では、水を湛えた池の跡も確認され、護岸の石組みや半島状に突き出た場所に景石が据えられるなど、非常に洗練された意匠であったことがわかっている 20 。戦国時代の武将にとって、壮麗な庭園を造営することは、単なる趣味に留まらず、自らの権威と高い教養を内外に示すための重要な政治的行為であった。八王子城の庭園は、氏照が中央の文化にも通じた一流の文化人であったことを示している。

膨大な出土遺物

御主殿跡からは、約7万点という膨大な数の遺物が出土した 18 。その大半は、中国(明)で生産された青磁や白磁、染付といった高級陶磁器の破片であり、後北条氏が有していた豊かな経済力と、広範な交易ネットワークを物語っている 19 。これらの舶来品に加えて、茶の湯で用いられた天目茶碗や茶臼、戦いに備えた鉄砲玉やその鋳型なども発見されており、風雅な文化的活動と、目前に迫った軍事的緊張が同居していた城内の日常がうかがえる 18

最大級の謎「ベネチア産レースガラス器」

数ある出土品の中でも、ひときわ異彩を放ち、専門家を驚かせたのが「ベネチア産レースガラス器」の破片の発見である 18 。繊細なレース模様がガラスに封じ込められたこの器は、16世紀のヨーロッパにおいても最高級の奢侈品であり、戦国時代の日本の城郭からの出土は、現在に至るまで八王子城が唯一の例である。

このガラス片の存在は、後北条氏を単なる「関東に割拠した地方大名」と見なす従来のイメージを根底から覆す、極めて重要な物証である。当時、このガラス器を入手するルートは、ポルトガル商人などを介した極めて限定的なものであった。これを所有できたということは、氏照、ひいては後北条氏が、莫大な富を有していただけでなく、南蛮貿易に関わる商人や、織田信長・豊臣秀吉といった中央の権力者との間に、何らかの独自のパイプを持っていた可能性を強く示唆する。

このガラス器は、単なる富の象徴ではない。会所での饗応の席で披露されることで、自らの権威が国際的な水準にあることを誇示する、高度な政治的パフォーマンスの道具としても機能したであろう。この小さなガラス片は、後北条氏が独自の経済圏と文化圏を確立し、天下人に対しても文化的・経済的に比肩しうる存在であったことの静かな、しかし雄弁な証左なのである。八王子城御主殿は、単なる居館ではなく、後北条氏の威信を内外に示すための華やかな「外交舞台」としての役割も担っていたのだ。

第四章:天正十八年六月二十三日、落城の一日

天正18年(1590年)6月23日、八王子城は運命の日を迎えた。城主・北条氏照が主力を率いて小田原城に籠る中、この関東最大級の支城は、豊臣秀吉が差し向けた北国・東山道軍の猛攻に晒された。この戦いは、城自体の構造的欠陥によるものではなく、後北条氏が堅持してきた「支城網による分散防御」という旧来の戦略思想が、豊臣秀吉の「圧倒的物量による同時多発的飽和攻撃」という新しい戦争の形態の前に、いかに無力であったかを象徴する戦いであった。

表:八王子城の戦い 両軍戦力比較

項目

豊臣軍(攻城側)

北条軍(守城側)

総兵力

約15,000名 22

約3,000名(領民含む) 22

総大将

(小田原征伐全体では豊臣秀吉)

北条氏照(小田原城に在城) 9

現場指揮官

前田利家、上杉景勝、真田昌幸など 9

城代:横地監物

その他:近藤綱秀、中山家範、狩野一庵など 9

この表が示す5対1という圧倒的な兵力差は、戦いの帰趨を決定づける上で最も重要な要因であった。後北条氏の戦略は、各地の支城が敵の進軍を遅滞させ、その間に小田原城の本隊が救援に向かうというものであった 2 。しかし、秀吉は18万ともいわれる空前の大軍を動員し、小田原城を完全に包囲しつつ、八王子城、鉢形城、忍城といった主要な支城を同時に、あるいは間髪入れずに攻撃した 1 。これにより、各支城は完全に孤立無援となり、後北条氏の防衛システムは根底から崩壊したのである。

攻防の再現

夜陰と濃霧に紛れ、豊臣軍の攻撃は開始された。作戦は、東正面の「大手口」と、北側の「搦手口」からの二正面同時攻撃であった 9 。これは、数で劣る守備兵力を分散させ、城の防御機能を麻痺させるための定石である。江戸時代初期に描かれた「慶安古図」には、前田利家軍や上杉景勝軍の布陣が記されており、当時の攻防の様子を推測する上で貴重な手がかりとなっている 12

豊臣軍の主力は、山麓の居館地区を突破、あるいは迂回し、要害地区へと殺到した。最初の目標となったのは、三の丸にあたる「小宮曲輪」であった 25 。守将・狩野一庵の部隊は奮戦したが、圧倒的な兵力の前に防衛線は次々と破られた。一説には、上杉景勝配下の直江兼続らが率いる別働隊が、城の裏手から奇襲をかけたことが陥落の決定打になったともいわれる 25

小宮曲輪が陥落すると、戦いの焦点は二の丸である「松木曲輪」へと移った。ここで城兵を指揮した中山家範は、槍の名手として知られた猛将であった。彼は最後の兵になるまで戦い続け、攻城側の総大将である前田利家からの降伏勧告をも退け、壮絶な討死を遂げたと伝えられている 16

要害地区の中枢が次々と陥落する中、山麓の居館地区「御主殿」もまた、激しい戦場と化した。防衛線は完全に崩壊し、城内は阿鼻叫喚の地獄絵図と化したであろう。日の出と共に始まった戦いは、日暮れまでには決着がつき、堅固を誇った八王子城は、わずか一日で陥落した 9

この八王子城の悲報は、それに先立ってわずか半日で落城した山中城の凶報と合わせ、小田原城で籠城する後北条氏の首脳陣に深刻な衝撃を与えた 22 。個々の武将の勇猛さや、城の物理的な堅固さだけでは、国家総力戦ともいえる新しい戦争の奔流には抗えないという、戦国時代の終焉を告げる冷徹な現実を、彼らは突きつけられたのである。

第五章:御主殿の滝の悲劇と伝承

八王子城の落城は、単なる軍事的な敗北に留まらなかった。それは、この地に深い傷跡を残し、後世にまで語り継がれる悲劇的な物語を生み出した。その中心にあるのが、「御主殿の滝」にまつわる伝承である。この物語は、凄惨な歴史的「事実」が、地域社会の記憶の中でいかにして「伝説」へと昇華されていったかを示す、貴重な事例といえる。

伝承の詳細

城の防衛線が完全に崩壊し、豊臣軍の兵士たちが御主殿になだれ込んだ時、そこに残されていた城主・氏照の正室・比左をはじめとする婦女子、そして戦う術を失った将兵たちは、敵の手に落ちて辱めを受けることを拒み、最後の覚悟を決めたと伝わる 9 。彼らは、御主殿の背後にある断崖にかかる滝の上で自刃し、次々とその身を滝壺へと投じた 27

この集団自決によって流された血は、麓を流れる城山川の水を三日三晩、赤く染め上げたと語り継がれている 2 。そして、麓の村では、この川の水で米を炊くとご飯が赤く染まってしまう「赤まんま」になったという言い伝えが生まれた 2 。また、落城後、城山川には蛭が異常発生したが、不思議と北条方の領民の血は吸わず、豊臣方の兵士にだけ吸い付いたという話や、落城の命日である6月23日になると、城跡の古井戸から犠牲者の呻き声が聞こえるといった怪談も数多く残されている 26

史実性の検証

「御主殿の滝」の悲劇を、ありのままに記述した同時代の一次史料は、現在のところ確認されていない。しかし、これは伝承が全くの創作であることを意味するものではない。豊臣方の武将が書き残した史料にも、八王子城の戦いが小田原攻めの中でも屈指の激戦であり、攻守双方に多大な犠牲者が出たことが記されている 9 。また、御主殿跡の発掘調査では、落城時の猛火を物語る焼土層や炭化物が広範囲で確認されており、この一帯が凄惨な戦場となったことは考古学的にも裏付けられている 12 。婦女子を含む非戦闘員が多数犠牲になったであろうことは、状況証拠から十分に考えられる。

「川が三日三晩血に染まった」という表現は、文字通りの事実というよりは、夥しい数の犠牲者が出たという惨状を、後世に伝えるための象徴的な語り口であろう。同様に、婦女子の首を切り、小田原城の北条軍への見せしめとして送ったという伝承も存在するが 2 、これもまた、戦の残虐性を強調する形で語り継がれたものと考えられる。

記憶の継承 ― 社会的記憶装置としての伝説

八王子城の悲劇は、単なる過去の出来事として風化することはなかった。地域社会は、この甚大な精神的衝撃(トラウマ)を、様々な形で語り継いできた。犠牲者を供養するために「赤まんま」(赤飯)を炊く風習 2 、地元の寳生寺によって続けられている法要 9 、そして城跡に建てられた数々の慰霊碑 17 は、その代表例である。

これらの伝承や風習は、歴史の空白を埋め、共同体の感情を具体的な「行為」や「現象」に結びつけることで、記憶の風化を防ぐ「社会的記憶装置」として機能してきた。御主殿の滝の物語は、歴史的事実の記録という側面以上に、戦国時代の戦いが、勝者と敗者だけでなく、その地に生きる人々にいかに長く深い影響を与え続けたかを理解する上で、不可欠な文化的現象なのである。

終章:北条氏の終焉と史跡としての八王子城

八王子城の落城は、単なる一つの支城の陥落ではなかった。それは、百年にわたり関東に君臨した後北条氏の命運を決定づけ、戦国時代の終焉を告げる象徴的な出来事であった。廃城の時を経て、現代に蘇ったこの城跡は、我々に多くのことを語りかけている。

小田原城開城への決定打

関東最大級の規模を誇り、城主・北条氏照自身の拠点であった八王子城が、わずか一日で、しかも婦女子を巻き込む凄惨な形で陥落したという報は、小田原城で籠城する後北条氏首脳部に計り知れない心理的衝撃を与えた 2 。これにより、徹底抗戦を主張していた氏照ら強硬派の発言力は大きく削がれ、城内の戦意は急速に萎縮していった。八王子城の悲劇は、難攻不落と信じられていた小田原城の守りを内側から突き崩し、開城への流れを決定づける最後の一押しとなったのである。落城から約2週間後、北条氏政・氏直父子は降伏を決断し、後北条氏は滅亡した。

廃城から国史跡へ

小田原征伐後、関東の新領主となった徳川家康によって、八王子城は廃城とされた 2 。江戸時代を通じて、落城の悲劇から「祟りのある場所」として人々から畏怖され、大規模な開発の手が入らなかったことが、かえって城の遺構を良好な状態で今日まで残す結果となった 14

時代は下り、その歴史的価値が再評価されるようになると、昭和26年(1951年)に国の史跡に指定され、本格的な調査と整備が始まった 9 。平成18年(2006年)には「日本100名城」に選定され 9 、さらに令和2年(2020年)には、高尾山などと共に「日本遺産『霊気満山 高尾山 ~人々の祈りが紡ぐ桑都物語~』」の構成文化財として認定された 9 。これにより、八王子城は日本を代表する歴史遺産として、その価値を広く認められるに至った。

八王子城が現代に問いかけるもの

現在、八王子城跡は歴史公園として整備され、麓にはガイダンス施設が設けられ、来訪者にその歴史を伝えている 9 。ボランティアガイドによる案内も行われ、多くの人々が歴史学習や散策のためにこの地を訪れる 32 。しかしその一方で、特に山上の要害地区においては、樹木の繁茂や土砂崩れによる遺構の破壊が進行しており、貴重な文化遺産をいかにして次代に継承していくかという、保護と保全の課題も抱えている 9

八王子城は、後北条氏の栄華と、その滅亡に至る戦略、そして戦国という時代の終焉を物語る、他に代えがたい第一級の史料である。その堅固な縄張りは後北条氏の築城技術の到達点を示し、御主殿跡から出土した華やかな遺物は彼らの豊かな文化を伝える。そして、一日での落城とそれに伴う悲劇は、時代の大きな転換点における抗いがたい力の流れと、戦争がもたらす非情な現実を我々に突きつける。史跡・八王子城を訪れ、その歴史を学ぶことは、過去の栄光と悲劇を見つめ、現代に生きる我々が享受する平和の価値を再認識する、貴重な機会となるであろう。

引用文献

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  2. 八王子城址 御主殿の滝 - 落城伝説の悲劇と怪談 - 日本伝承大鑑 https://japanmystery.com/toka/hatiouji.html
  3. 北条氏照は何をした人?「兄・氏政を分身のように補佐して盛衰の ... https://busho.fun/person/ujiteru-hojo
  4. 北条氏照 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E6%B0%8F%E7%85%A7
  5. 北条氏照 日本史辞典/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/history/history-important-word/hojo-ujiteru/
  6. 北条氏照 ~その生涯と業績 名将の足跡を辿る~ - 高尾山ナビ https://takao-fumoto.com/takaosan-navi/hojo-ujiteru/
  7. 八王子城の歴史と見どころを紹介/ホームメイト - 刀剣ワールド東京 https://www.tokyo-touken-world.jp/eastern-japan-castle/hachiojijo/
  8. 北条氏照はなぜ、滝山城から八王子城に本拠を移したか?戦略から ... https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/83698
  9. 八王子城 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E7%8E%8B%E5%AD%90%E5%9F%8E
  10. 八王子城 - 日本100名城ガイド https://www.100finecastles.com/castles/hachiojijo/
  11. ja.wikipedia.org https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E7%8E%8B%E5%AD%90%E5%9F%8E#:~:text=%E7%B8%84%E5%BC%B5%E3%82%8A%E3%81%AF%E5%8C%97%E6%B5%85%E5%B7%9D%E3%81%A8,%E5%B1%B1%E5%B7%9D%E3%81%AB%E6%B2%BF%E3%81%A3%E3%81%9F%E9%BA%93
  12. 八王子城の概要 http://tensho18.jp/k_bsiro.html
  13. 八王子城 公式ガイド http://tensho18.jp/
  14. 八王子城跡|日本遺産ポータルサイト - 文化庁 https://japan-heritage.bunka.go.jp/ja/culturalproperties/result/4891/
  15. 【八王子城】東国最強の山城を完全解説!関東にもあった石垣のお城!! - YouTube https://m.youtube.com/watch?v=JqNaCQGzlKA
  16. 八王子城(御主殿の滝・北条氏照の墓) | 筑後守の航海日誌 - 大坂の陣絵巻へ https://tikugo.com/blog/tokyo/musasi_hatiojijo/
  17. 八王子城 滝山城 高月城 片倉城 余湖 http://yogokun.my.coocan.jp/tokyo/hatioujisi.htm
  18. お城の現場より〜発掘・復元・整備の最前線:第25回 八王子城(東京都) https://shirobito.jp/article/600
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  21. 八王子城跡から出土した遺物を展示しています https://www.city.hachioji.tokyo.jp/kankobunka/003/001/p030644.html
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  23. 【日本100名城】東京高尾: 八王子城陷落十天後, 日本戰國落幕的濫觴 - 一個人意大利旅行 https://www.sharpelawtravel.com/?p=35853
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  29. 【日本百大名城22】關東篇-八王子城(Hachiouji Castle)~戰國末期關東巨大山城,悲劇與靈異之城(日本五大山城之一) - 忘路之遠近 https://look2uptravel.com/post-357528468/
  30. レファレンス,参照,FAQ - 八王子城跡三ッ鱗会 https://kessen.yahansugi.com/ix_xref.html
  31. 歴史を学ぶコース | 桑都物語公式ポータルサイト 日本遺産八王子 霊気満山 高尾山 ~人々の祈りが紡ぐ桑都物語~ https://japan-heritage-soto.jp/touring/learn/
  32. 八王子城跡|八王子市公式ホームページ https://www.city.hachioji.tokyo.jp/kurashi/kyoiku/005/bunkazaikanrenshisetsu/p005201.html