最終更新日 2025-08-22

勝山城

越後国境の勝山城は、上杉謙信・景勝二代にわたり越中防衛の要衝。景勝が大改修し「勝山城」と改名、織田の脅威に備えた。秀吉との「落水盟約」は伝説だが、その歴史は上杉氏の戦略と誇りを語る。

越後国境の要塞「勝山城」の総合的研究 ―戦国期上杉氏の西進と防衛戦略の結節点―

第一章:序論 ―忘れられた国境の城、その再評価

第一節:勝山城の概要と歴史的意義

新潟県糸魚川市大字青海、日本海に屹立する標高328メートルの峻険な山容を誇る勝山に、戦国時代の山城、勝山城は築かれた 1 。この城は、越後の戦国大名である上杉謙信、そしてその後継者である上杉景勝の二代にわたり、西の隣国・越中との国境を防衛する上で極めて重要な役割を担った軍事拠点である 1 。単なる一山城としてではなく、上杉氏の領国経営と安全保障戦略において、西の玄関口を固める「国門」とも言うべき、国家レベルの戦略的価値を有していた。

その歴史の中でも特に、織田信長による越中侵攻の脅威が最高潮に達した天正年間後期、上杉景勝によって大規模な改修が施され、越後国の「絶対国防線」における最後の砦として位置づけられたことは、この城の重要性を物語っている 1 。また、後述する上杉景勝と豊臣秀吉の会見伝説の舞台として語り継がれ、歴史の劇的な一幕を今に伝える存在でもある 3 。本報告書は、この勝山城について、その歴史的変遷、地政学的価値、城郭構造、そして伝説の背景を多角的に分析し、戦国史におけるその真の意義を再評価することを目的とする。

第二節:別名「落水城」の由来に関する考察

勝山城は、当初「落水城(おちりみずじょう)」、あるいは「墜水城」の名で知られていた 1 。この一風変わった名称の由来については、城郭が位置する地理的環境にその手がかりを求めることができる。文献によれば、城の麓には「落水の滝」と呼ばれる滝が存在し、その傍らには不動堂が祀られていたと記録されている 5

中世・戦国期の城郭命名においては、近隣の著名な寺社や、山、川、滝といった特徴的な自然地理の名称を拝借する例が数多く見られる。この慣例に鑑みれば、「落水城」という名称は、単なる雅号や抽象的な呼称ではなく、麓に実在した「落水の滝」という具体的な地理的特徴に直接由来するものである可能性が極めて高い。このことは、城が単独の軍事施設としてではなく、周辺の地形や水系と一体となった防御システムとして、当時の人々に認識されていたことを示唆している。

第三節:同名城との識別

「勝山城」という名称を持つ城は、日本全国に複数存在する。例えば、甲斐国(山梨県)や越前国(福井県)、能登国(石川県)などにも同名の城跡が確認されている 6 。特に福井県勝山市の勝山城は、近世城郭として整備され、現在では博物館が建設されるなど著名であるため、混同されやすい 7

本報告書が対象とするのは、あくまで越後国頸城郡、現在の新潟県糸魚川市に存在した山城であり、他の同名城とはその歴史的背景、地理的条件、そして戦略的役割において全く異なるものである。読者の混乱を避け、分析の精度を担保するため、本稿で論じる「勝山城」が、この越後最西端の国境の城に限定されることを、ここに明確に定義する。

第二章:勝山城の歴史的変遷 ―源平の動乱から上杉の時代へ

第一節:築城伝説と初期の姿 ―木曾義仲と在地豪族の時代

勝山城の起源は、遠く平安時代末期の治承・寿永の乱、いわゆる源平合戦の時代にまで遡ると伝えられている 1 。伝説によれば、信濃を拠点に破竹の勢いで京を目指した木曾義仲の軍勢が北陸道を進軍するのを阻止するため、この地の在地豪族が砦を構えたのが始まりとされる 3

この伝承の史実性を直接証明する一次史料は存在しないものの、日本海と険しい山々に挟まれたこの地が、古くから北陸道を押さえる軍事上の要衝として強く認識されていたことを物語るものと言えよう。源平の動乱期において、在地勢力によって築かれた見張り台や小規模な砦のような施設が、後の勝山城の原型となった可能性は十分に考えられる。

第二節:上杉謙信の越中戦略と勝山城

戦国時代に入り、春日山城を本拠として越後国を統一した上杉謙信の時代になると、落水城(当時の名称)は、上杉氏の西方防衛線における重要な拠点として、その役割を明確にする 3 。謙信は生涯にわたり、越中の支配権を巡って一向一揆勢や現地の国人衆と激しい戦いを繰り広げた 10

この越中戦略において、落水城は越中勢の越後への侵攻を食い止める最前線の監視拠点として機能した 3 。謙信は信頼の置ける家臣を城将として配置し、国境の防衛に当たらせたとされる 1 。この段階では、城は謙信が構築した広域防衛ネットワークの一環として、主に情報収集と警戒任務を担っていたと考えられる。

第三節:上杉景勝による大改修 ―織田信長の脅威と「絶対国防線」の構築

天正6年(1578年)の上杉謙信の急死は、上杉家の内外に大きな動揺をもたらした。家督を巡る「御館の乱」によって国力は疲弊し、その隙を突く形で、天下統一を目前にした織田信長の勢力が越後へと迫った 12 。織田軍の北陸方面司令官であった柴田勝家、そしてその与力である佐々成政の軍勢は、越中を席巻し、天正10年(1582年)には上杉方の重要拠点であった魚津城、松倉城を次々と攻略した 1 。魚津城では、籠城した上杉方の将兵が壮絶な玉砕を遂げるなど、上杉家は未曾有の存亡の危機に立たされた 12

この国家的危機に際し、上杉家の当主であった景勝は、越後防衛の最後の砦として、国境に位置する落水城の大規模な改修と機能強化を決断する 1 。この一大改修は、一説に天正10年(1582年)頃に行われたとされ、城は単なる監視拠点から、織田の大軍を迎え撃つための堅固な要塞へと生まれ変わった 13 。そしてこの時、城は「落水城」から「勝山城」へとその名を改められた 1

この改名には、景勝の強い政治的・軍事的意図が込められていたと考えられる。「落水」という名は、自然現象に由来し、どこか牧歌的で受動的な響きを持つ。それに対し、「勝山」は「勝利の山」を意味し、極めて直接的かつ力強い意志を示す名称である。絶望的な戦況の中、この改名は、疲弊した将兵の士気を鼓舞し、「この城こそが勝利の拠点であり、我々はここで断固として勝つ」という景勝の不退転の決意を内外に示すための、一種のプロパガンダであった。それは、防衛戦略の転換点を示す象徴的な出来事であり、城が国家の存亡を賭けた決戦の場へと、その性格を大きく変えた瞬間であった。

しかし、同年6月2日、本能寺の変によって織田信長が横死したため、織田軍の越後侵攻は頓挫し、勝山城が織田軍と直接干戈を交えることはなかった 12

第四節:終焉 ―上杉氏の会津移封と廃城

その後、豊臣秀吉の天下統一事業に協力し、その政権下で五大老の一人にまで列せられた上杉景勝であったが、慶長3年(1598年)、秀吉の命により、越後から会津120万石へと国替え(移封)されることとなった 1

上杉氏がその本拠地であった越後の地を去ったことにより、越中との国境を防衛するという勝山城の戦略的価値は完全に失われた。明確な軍事的目的のために存在した「境目の城」であったがゆえに、その目的が消滅すると同時に、城はその歴史的役割を終え、廃城となったのである 2 。これは、戦国時代に数多く築かれた国境の城が辿った、典型的な運命であった。現在、城跡の山頂には、昭和13年(1938年)に上杉氏ゆかりの春日山神社から勧請された祠が、静かに往時を伝えている 1

第三章:地政学的に見た勝山城 ―「天下の険」が持つ戦略的価値

第一節:地理的条件と防御優位性 ―日本海と北陸道を扼する天然の要害

勝山城が上杉氏にとってなぜそれほどまでに重要視されたのか、その最大の理由は、他に類を見ない卓越した地理的条件にある。この城は、北アルプスの北端が日本海に落ち込む、まさにその場所に位置している 3 。北側は切り立った断崖絶壁となって海に面し、容易に人を寄せ付けない 4 。そして、その崖下には、京都と東国を結ぶ大動脈である北陸道(現在の国道8号線)が、細々と海岸線を縫うように走っている 3

城が築かれた勝山山頂は、標高こそ328メートルと傑出して高いわけではないが、周囲から独立した峰であるため、その眺望は絶大である 3 。眼下には北陸道の往来を手に取るように監視でき、北に目を向ければ広大な日本海、天候に恵まれれば遠く能登半島まで見渡すことができた 3 。東方には糸魚川市街から上杉氏の本拠地である春日山城方面の海岸線が続き、西方には親不知・子不知の天険が控える 3

まさに「一夫当関、万夫莫開」の地であり、陸路と海路の双方を同時に監視し、管制できるこの立地は、国境防衛拠点として理想的であった。少数の兵力で大軍の進攻を効果的に阻止し、時間を稼ぐことが可能な、まさに天然の要害であったと言える。

第二節:上杉氏の広域防衛網における役割 ―春日山城へと繋がる狼煙ネットワークの起点

勝山城の戦略的価値は、単体の要塞としての堅固さに留まらない。それは、上杉氏が領国全土に張り巡らせた広域防衛ネットワークにおいて、不可欠な構成要素として機能していた点にこそ、その本質がある。

上杉謙信の居城であった春日山城は、その規模に比して防御施設が比較的簡素であり、居住空間としての性格が強かったと指摘されている 18 。これは、武田氏や北条氏が築いた、馬出や横堀を多用した技巧的な城郭とは一線を画す特徴である。この事実は、上杉氏の防衛思想が、個々の城の堅固さ、すなわち「点」での防御に過度に依存するものではなかったことを示唆している。

その代わり、上杉氏が重視したのは、支城間の連携と情報伝達の速度であった 19 。特に、狼煙(のろし)を用いた情報伝達網は、領国防衛の生命線であった 21 。越中方面からの敵の侵攻や不穏な動きは、まず国境に位置する勝山城で察知される 3 。その情報は、直ちに狼煙によって東方の不動山城、次いで能生の徳合城へとリレーされ、最終的に本城である春日山城の景勝へと届けられた 15

このシステムにおいて、勝山城は敵と最初に接触する「センサー」であり、領国全体に警報を発する「西の目」であった。その存在は、上杉氏が、敵の動きを早期に察知し、本城からの機動的な兵力展開によって迎撃するという、柔軟かつ先進的なネットワーク型の防衛ドクトリンを構築していたことを証明している。勝山城の真価は、この広域防衛網の起点という役割を抜きにしては語れないのである。

第四章:城郭構造の分析 ―土の城に込められた上杉流築城術

第一節:縄張りの復元的考察 ―遺構から読み解く曲輪配置と防御動線

勝山城に関する詳細な発掘調査報告書や実測された縄張り図は、現時点では広く公開されていない。そのため、城の全体構造を完全に解明することは困難であるが、現存する遺構や訪問者の記録など、断片的な情報を統合することで、その概略を復元的に考察することは可能である。

勝山城は、標高328メートルの山頂に主郭(本丸)を置き、そこから延びる尾根筋に沿って複数の曲輪(郭)を配置した、典型的な戦国期の中世山城であった 13 。主郭へ至る登城路は、麓から尾根伝いに設けられており、これが大手道(主要な進入路)であったと考えられる 13

主郭のほか、西側には西曲輪の存在が確認されており、これは越中方面からの攻撃を直接受け止めるための重要な防御区画であったと推測される 4 。また、主郭の北側には櫓台(やぐらだい)が設けられていたとの指摘もあり、発掘調査によって櫓の存在と、その下に食い違い虎口(こぐち、城の出入り口)があったことが示唆されている 24 。複数の曲輪や、曲輪の側面を帯状に削平した帯曲輪(おびぐるわ)、そしてそれらを結ぶ通路が有機的に配置され、敵の侵攻を段階的に遅滞させ、消耗させる構造になっていたと考えられる 24 。特に、西側(越中側)を強く意識した防御施設が集中していた可能性が高く、これは景勝による対織田戦を想定した改修の結果であろう 24

第二節:各防御施設の機能分析 ―堀切、土塁、石塁が語る攻防の様相

勝山城の防御施設は、石垣を多用した近世城郭とは異なり、自然地形を巧みに利用し、土木工事を主体とした「土の城」としての特徴を色濃く残している。現存する主な遺構として、堀切、土塁、そして石塁が挙げられる 4

  • 堀切(ほりきり): 敵が侵攻してくるであろう尾根筋を人工的に深く掘り下げて分断する防御施設。これにより、敵兵の直線的な進軍を阻み、移動を困難にさせる。勝山城においても、尾根上に複数の堀切が設けられていたと考えられる。
  • 土塁(どるい): 曲輪の縁辺部を土で高く盛り上げた土手。防御側の兵士が身を隠すための遮蔽物となると同時に、弓矢や鉄砲を放つための足場としても機能した。
  • 石塁(いしるい): 登城道の途中など、特に防御上重要な箇所や、土質が脆く崩れやすい斜面を石積みで補強した施設 4 。土塁よりも堅固であり、敵の攻撃に対する耐久性も高い。
  • 天然の堀: 城の南から西側にかけては、桂川の深い渓谷が天然の外堀としての役割を果たしていた 24 。さらに、幅30メートルに及ぶ人工的な外堀や、主郭部を守る内堀も設けられていたとされ、多重の防御ラインが構築されていたことが窺える 24

これらの防御施設は、上杉氏の他の城郭にも見られる典型的な特徴であり、自然地形を最大限に活用しつつ、最小限の人工的改変で防御効果を高めるという、合理的かつ実践的な上杉流の築城術を体現している 18

第三節:戦国期城郭技術の変遷と勝山城 ―対鉄砲戦を意識した改修の可能性

上杉景勝による勝山城の大規模改修が行われた天正10年(1582年)前後は、日本の築城史における大きな転換期であった。天正3年(1575年)の長篠の戦い以降、鉄砲は合戦の様相を一変させ、城郭のあり方にも根本的な変化を迫った 26

従来の弓矢を主とした戦闘とは異なり、鉄砲は高い破壊力と貫通力を持ち、単純な土塁や木の柵ではその攻撃を防ぐことは困難であった。城を攻める側も、守る側も、鉄砲の組織的運用を前提とした新たな戦術と、それに対応した城郭構造が求められたのである。

景勝が対峙した織田軍は、鉄砲の先進的な運用で天下にその名を轟かせており、その脅威は上杉方も痛いほど認識していたはずである。この状況を踏まえると、景勝による勝山城の改修は、単なる老朽化した施設の補強工事に留まらず、鉄砲戦という新たな戦術に対応するための「近代化改修」であった可能性が非常に高い。

訪問者の記録に見られる堅固な「石塁」の存在 4 、天然の地形に加えて構築された複雑な「内堀・外堀」 24 、そして物見と射撃拠点としての機能を持つ「櫓台」の設置 24 などは、いずれも鉄砲による集中射撃を想定し、防御力を格段に向上させるための工夫と考えられる。これらは、勝山城が戦国末期の最新の築城思想を取り入れ、来るべき織田軍との決戦に備えていたことを示す痕跡と言えよう。

第五章:核心的伝承の徹底検証 ―「落水盟約」は史実か、それとも創作か

第一節:軍記物が描く「景勝・秀吉会見」の劇的構造

勝山城の名を後世に広く知らしめた最大の要因は、上杉景勝と羽柴(豊臣)秀吉がこの地で会見し、同盟を結んだという「落水盟約」の伝承である 1

この物語は、主に江戸時代に成立した『北越軍談』などの軍記物によって語り継がれてきた 3 。その内容は、天正13年(1585年)、越中の佐々成政を降伏させたばかりの秀吉が、突如として石田三成らわずかな供回りのみを連れて国境の勝山城に姿を現し、景勝との会見を申し入れた、というものである 3 。報せを受けた景勝も、腹心の直江兼続だけを伴って春日山城から駆けつけ、天下人と地方の雄が、それぞれの懐刀と共に四者のみで膝を交えたとされる 3 。この密談によって上杉家と豊臣家の同盟が成立し、秀吉は景勝を深く信頼し、後に五大老の一人に任じた、と物語は結ばれる 3

天下統一を目前にした最高権力者が、公式な儀礼を一切排し、単身に近い形で敵地の目前まで赴き、相手の度量を試す。そして、それに堂々と応じる若き大名。この劇的な構成は、物語として非常に魅力的であり、後年、大河ドラマ『天地人』などで映像化されたことも相まって、多くの人々の知るところとなった 3

第二節:一次史料との比較分析 ―天正13年と14年の政治情勢から見る矛盾点

しかし、この劇的な「落水盟約」の伝承は、当時の状況を記した一次史料と照らし合わせると、いくつかの重大な矛盾点と不自然な点が浮かび上がる。

史実として、上杉景勝が豊臣秀吉に臣従の意を明確に示したのは、伝承の翌年である天正14年(1586年)6月のことである。景勝はこの時、正式に上洛し、大坂城において秀吉と公式に接見している 12 。この上洛と謁見によって、景勝は豊臣政権下の大名としてその地位を公に認められ、秀吉から景勝に宛てた書状の宛名も、対等な相手に示す「上杉殿」から、家臣に示す「上杉とのへ」へと変化している 12 。これが、両者の関係を決定づけた公式な政治的行為であった。

天正13年(1585年)の段階では、秀吉はまだ徳川家康や北条氏といった巨大勢力と対峙しており、天下は完全に平定されていなかった。そのような緊迫した政治情勢の中で、天下人である秀吉が、護衛もほとんど付けずに国境の最前線まで赴き、非公式な会談を行うというのは、安全保障の観点からも、政治的儀礼の観点からも、極めて考えにくい。両者の交渉は、この時期、書状の往来を通じて慎重に進められており、直接会見したことを示す信頼性の高い一次史料は発見されていない 32

これらの史実と状況証拠は、「落水盟約」が後世に創作された物語である可能性が高いことを示唆している。

比較項目

軍記物などが描く「落水盟約」(伝承)

一次史料などが示す史実

時期

天正13年(1585年)

天正14年(1586年)6月

場所

越後国 勝山城(落水城)

摂津国 大坂城

参加者

秀吉、三成、景勝、兼続の四者のみ

景勝が上洛し、秀吉に公式に謁見

形式

非公式な密談

豊臣政権への臣従を誓う公式な儀礼

関係性の確立

対等な同盟の成立

秀吉を主君、景勝を家臣とする主従関係の確立

第三節:なぜ伝説は生まれたのか ―「落水盟約」の創作意図と歴史的背景の考察

では、なぜ史実とは異なる、このような劇的な物語が創作され、語り継がれてきたのだろうか。その背景には、物語の主要な語り手であった江戸時代の上杉家(米沢藩)が置かれた状況と、彼らの自己認識が深く関わっている。

関ヶ原の戦いで西軍に与した結果、上杉家は会津120万石から米沢30万石へと大幅に減封され、江戸時代を通じて徳川幕府の監視下に置かれた。そのような状況下で、米沢藩士たちにとって、かつての「軍神」上杉謙信の威光や、豊臣政権下で五大老にまで上り詰めた景勝時代の栄光は、藩のアイデンティティと誇りを支える重要な精神的支柱であった。

史実である「上洛臣従」は、景勝が秀吉のもとへ出向く形であり、両者の間には明確な上下関係が存在する。これは、上杉家が秀吉の軍門に降ったと解釈されかねない。一方で、伝説上の「落水盟約」では、天下人である秀吉の方がわざわざ国境まで「出向いてきた」ことになっており、両者が対等な立場で会見し、盟約を結んだかのような印象を与える。

この物語は、上杉家の歴史を、単なる「臣従」の歴史ではなく、天下人と対等に渡り合った「誇り高き同盟」の歴史として再解釈し、後世に語り継ごうとする意図から創作、あるいは大幅に潤色されたものではないだろうか。徳川の世にあって、かつての栄光を記憶し、藩の権威と誇りを保つための物語として、「落水盟約」は必要とされたのである。そして、国境の要害であり、景勝の対織田戦への決意が込められた勝山城は、その「誇り高き同盟」を象徴する記念碑的な舞台として、物語の中に設定されたと考えられる。

第四節:伝承が持つ文化的価値と後世への影響

「落水盟約」が史実である可能性は低い。しかし、歴史研究において、伝説や伝承は、それが史実でないからといって無価値なわけではない。この物語は、上杉景勝と直江兼続という主従の人物像を英雄的に描き出し、歴史物語として多くの人々を魅了してきた。特に、大河ドラマ『天地人』でこのエピソードが大きく取り上げられたことにより、それまで一部の歴史愛好家にしか知られていなかった勝山城の知名度は飛躍的に向上した 3

史実性の検証とは別に、この伝承が勝山城という史跡に文化的・物語的な深みを与え、人々を惹きつける大きな要因となっていることは間違いない。史跡としての勝山城の価値を語る上で、この文化的側面は無視できない重要な要素なのである。

第六章:史跡としての勝山城 ―その現状と未来

第一節:現代に残る城跡の姿 ―遺構の保存状態と課題

慶長3年(1598年)に廃城となって以降、勝山城が再び歴史の表舞台に立つことはなかった。現在、城跡は「親不知子不知県立自然公園」の一部として管理されている 3 。山頂の本丸跡には、昭和13年(1938年)に青海町の青年会によって建立された石祠と、城の歴史を記した説明板が設置されているのみである 2

城郭としての遺構は、曲輪の削平地、土塁、堀切などが確認できるものの、大規模な復元整備は行われておらず、多くは自然の植生に覆われている 4 。往時の堅固な要塞の姿を具体的に思い描くには、ある程度の知識と想像力が必要となる。戦国末期の上杉氏の防衛戦略を物語る貴重な史跡として、その価値を後世に正確に伝えていくためには、詳細な学術調査や、遺構を保護するための適切な整備が今後の課題として望まれる。

第二節:登城体験から見る城の魅力と注意点

史跡・勝山城を訪れることは、単なる遺跡見学ではなく、一種の登山体験となる。登山口は交通量の多い国道8号線沿いにあり、青海駅から徒歩で約20分から25分の距離にある 3 。そこから山頂の本丸跡までは、休憩を含めて約40分から50分の登山が必要となる 3

その道のりは決して平坦ではない。訪問者の記録によれば、登山道は急峻で、途中には鎖が設置された岩場や、夏場には深い藪、雨後には非常に滑りやすい粘土質の土壌の箇所も存在する 1 。このため、登城に際しては、スパイク付きの登山靴、軍手、そして枝や虫から身を守るための長袖長ズボンといった、厳重な登山装備が必須である 1 。また、山頂には水場やトイレといった設備は一切なく、事前の準備が欠かせない 3 。さらに、春や秋にはクマやサル、イノシシといった野生動物が出没する可能性もあり、鈴やラジオを携行するなどの対策も推奨されている 3

しかし、この登城の困難さこそが、勝山城がなぜ難攻不落の天然の要害と呼ばれたのかを、身をもって体感させてくれる。そして、苦労の末に辿り着いた山頂から望む日本海と北陸道の絶景は、まさに格別であり、戦国時代の将兵が見たであろう景色に思いを馳せることができる 1

第七章:総括 ―戦国史における勝山城の歴史的意義

本報告書で詳述してきたように、越後国境の勝山城は、単なる一地方の山城という枠組みを大きく超える、多層的な歴史的意義を持つ史跡である。

第一に、勝山城は上杉氏の国家防衛戦略、特に西方の脅威に対する最前線を担う、極めて重要な戦略拠点であった。その卓越した地政学的優位性は、陸路と海路を同時に扼し、国境防衛の要として比類なき価値を有していた。

第二に、その価値は、上杉氏が構築した広域防衛ネットワークの起点としての機能において最大限に発揮された。勝山城は「西の目」として敵の動向をいち早く察知し、狼煙によって春日山城へと情報を伝達する役割を担い、情報伝達の速度を重視した上杉氏の先進的な防衛思想を体現する存在であった。

第三に、上杉景勝による大規模改修と「勝山城」への改名は、織田信長という巨大権力に対峙した上杉家の存亡を賭けた決意の表れであり、鉄砲の普及という軍事革命に対応しようとした戦国末期の緊迫した政治・軍事状況を象徴する出来事であった。

第四に、「落水盟約」の伝説は、史実ではない可能性が高いものの、単なる誤伝として切り捨てるべきではない。それは、江戸時代という新たな治世の中で、上杉家が自らの歴史をどのように捉え、その誇りを後世に語り継ごうとしたかを示す、貴重な文化的遺産である。史実と伝説が交錯するこの場所は、歴史の多層性を我々に教えてくれる。

以上のように、勝山城は、戦国時代の地政学、城郭技術、政治史、そして歴史伝承の各側面から深く分析すべき、価値の高い研究対象であり、その歴史的意義は今後さらに評価されるべきである。


付録:勝山城 関連年表

年代(西暦/和暦)

出来事

関連人物

1180年頃(治承4年頃)

木曾義仲の北陸道進軍を阻止するため、在地豪族が砦を築いたと伝わる(築城伝説) 3

木曾義仲

戦国時代(謙信期)

落水城として、上杉氏の対越中防衛の要となる 3

上杉謙信

1578年(天正6年)

上杉謙信が急死。家督を巡り「御館の乱」が勃発。

上杉景勝、上杉景虎

1582年(天正10年)

織田軍が越中に侵攻し、魚津城が落城 1 。この脅威に対し、景勝が落水城を大改修し「勝山城」と改名したとされる 1

上杉景勝、織田信長、柴田勝家、佐々成政

1585年(天正13年)

羽柴秀吉が越中の佐々成政を征伐 1 。軍記物において、この年に秀吉と景勝が勝山城で会見した(落水盟約)と描かれる 3

豊臣秀吉、上杉景勝、佐々成政

1586年(天正14年)

上杉景勝が上洛し、大坂城で秀吉に公式に謁見。豊臣政権に臣従する 12

豊臣秀吉、上杉景勝

1598年(慶長3年)

上杉景勝が会津120万石へ移封。これに伴い、勝山城は廃城となる 1

上杉景勝、豊臣秀吉

1938年(昭和13年)

地元の青海青年会により、山頂に春日山神社から勧請した祠が建立される 14

-

引用文献

  1. 勝山城(新潟県糸魚川市)の詳細情報・口コミ | ニッポン城めぐり https://cmeg.jp/w/castles/2986
  2. 勝山城 (越後国頸城郡) - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8B%9D%E5%B1%B1%E5%9F%8E_(%E8%B6%8A%E5%BE%8C%E5%9B%BD%E9%A0%B8%E5%9F%8E%E9%83%A1)
  3. 勝山城 - 文化財・伝統芸能 - 糸魚川観光ガイド https://www.itoigawa-kanko.net/trad/katsuyamajo/
  4. 勝山城 - 城びと https://shirobito.jp/castle/1132
  5. 落水(糸魚川市) - aikis http://www.aikis.or.jp/~kage-kan/15.Niigata/Itoigawa_Ochirimizu.html
  6. 勝山城 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8B%9D%E5%B1%B1%E5%9F%8E
  7. 展覧会情報 - 勝山城博物館 http://www.katsuyamajyou.com/exhibition.html
  8. 勝山 - 『福井県史』通史編3 近世一 https://www.library-archives.pref.fukui.lg.jp/fukui/07/kenshi/T3/T3-4-01-01-01-06.htm
  9. 古城盛衰記3 - 勝山城(糸魚川市) - Google Sites https://sites.google.com/onodenkan.net/hiro3/%E6%96%B0%E6%BD%9F%E7%9C%8C%E3%81%AE%E5%9F%8E/%E5%8B%9D%E5%B1%B1%E5%9F%8E%E7%B3%B8%E9%AD%9A%E5%B7%9D%E5%B8%82
  10. 越中の戦国時代と城館 https://sitereports.nabunken.go.jp/files/attach/58/58614/139009_2_%E9%A3%9B%E8%B6%8A%E3%81%AE%E6%88%A6%E5%9B%BD%E6%99%82%E4%BB%A3%E3%81%A8%E6%B1%9F%E9%A6%AC%E6%B0%8F%E3%81%AE%E5%9F%8E.pdf
  11. とやま文化財百選シリーズ (5) - 富山県 https://www.pref.toyama.jp/documents/14266/osiro.pdf
  12. 上杉景勝 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E6%9D%89%E6%99%AF%E5%8B%9D
  13. 越後 勝山城(糸魚川市) - 城郭放浪記 https://www.hb.pei.jp/shiro/echigo/oumi-katsuyama-jyo/
  14. 勝山城〔落水城〕(糸魚川市・旧青海町) | おすすめスポット - みんカラ https://minkara.carview.co.jp/userid/157690/spot/382762/
  15. 勝山城跡:北陸エリア - おでかけガイド https://guide.jr-odekake.net/spot/14707
  16. 新潟県糸魚川市の史跡「勝山城./親不知ジオサイト」 https://iwayado.toweb.top/?p=7898
  17. 勝山 http://apple2004.fem.jp/kaguyast/toti/yama/katuyama.html
  18. 逸話とゆかりの城で知る! 戦国武将 第1回【上杉謙信】最強武将の居城は意外と防御が薄かった!? - 城びと https://shirobito.jp/article/1351
  19. 戦国城郭の支城ネットワーク 日本の城研究記 https://takato.stars.ne.jp/kiji/sijonetworl.html
  20. 【敵を撃退】名城の防御設備と仕掛け|日本の城研究記 https://takato.stars.ne.jp/2023ver5/japancastlestorik.html
  21. 謙信公祭へ春日山で狼煙作り - 上越タウンジャーナル https://www.joetsutj.com/articles/51729544
  22. 「謙信公祭」開幕を告げる“狼煙上げ” 8月22日(日)午前9時は上越市の山城に注目! https://www.yukiguni-journey.jp/10639/
  23. 勝山 - 糸魚川登山情報サイト https://yama.geo-itoigawa.com/katsuyama/
  24. 【今も残る美しい曲輪と巨大空堀】山梨県・勝山城【山城を空から攻める】 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=6NLMg386iKw
  25. 魚津城と松倉城 https://www.city.uozu.toyama.jp/guide/svGuideDtl.aspx?servno=25191
  26. 鉄砲伝来と城の変化/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/113818/
  27. 市史編さん便り= 【57 号】令和 4 年 3 月 7 日(月)発行. - 土佐清水市 https://www.city.tosashimizu.kochi.jp/fs/4/1/9/3/6/2/_/hist_news_r3_57.pdf
  28. 【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】城の変化②鉄砲が登場して戦い方が変わった? - 攻城団ブログ https://kojodan.jp/blog/entry/2022/03/14/170000
  29. 北越軍談 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E8%B6%8A%E8%BB%8D%E8%AB%87
  30. 古文書の部屋 - 新潟市歴史博物館みなとぴあ https://www.nchm.jp/?p=2616
  31. 上杉景勝 - 川中島の戦い・主要人物 https://kawanakajima.nagano.jp/character/uesugi-kagekatsu/
  32. 1585年 – 86年 家康が秀吉に臣従 | 戦国時代勢力図と各大名の動向 https://sengokumap.net/history/1585/