十市城
大和十市城は、十市氏の本拠。奈良盆地の交通要衝に築かれ、惣構えを持つ大和最大級の平城。十市遠忠の時代に最盛期を迎え、龍王山城と連携。松永久秀の介入で一族分裂、信長の廃城令で終焉。
大和国人・十市氏の興亡と本拠「十市城」の全貌
序章:忘れられた平城、十市城の歴史的意義
奈良県橿原市の北東部、寺川の右岸に広がるのどかな田園風景の中に、一つの石碑が静かに佇んでいる。「十市城址」と刻まれたその碑は、かつてこの地が大和国(現在の奈良県)の覇権を巡る激しい争乱の中心地であったことを、今に伝える数少ない標である 1 。この穏やかな光景とは裏腹に、十市城は南北朝の動乱期に歴史の表舞台に登場して以来、戦国時代の終焉に至るまで、大和の有力国人・十市氏の本拠として、また畿内の政治力学を映し出す鏡として、重要な役割を果たした城郭であった。
しかし、その名は高取城や郡山城、あるいは松永久秀の信貴山城といった著名な城郭の影に隠れ、今日では歴史愛好家の間でも十分に知られているとは言い難い。物理的な遺構がほとんど現存しないことも、その忘却に拍車をかけている 1 。本報告書は、この忘れられた平城「十市城」を戦国時代という視座から再評価し、その構造、歴史、そして城主一族の栄光と悲劇の物語を、現存する史料、研究成果、そして発掘調査の知見に基づき、徹底的に解き明かすことを目的とする。
報告は三部構成を採る。第一部では、城郭の立地や縄張り、出土遺物といった物理的な側面から、十市城の構造と城主の権勢を分析する。第二部では、城主であった十市一族の年代記を追い、南北朝期から戦国末期に至るまでの興亡の軌跡、特に英主・十市遠忠による最盛期と、その子・遠勝の時代の激動、そして松永久秀や筒井順慶といった周辺勢力との複雑な関係性を詳述する。第三部では、十市城を、同時代に機能した龍王山城、筒井城、信貴山城といった周辺城郭との比較を通じて考察し、大和国におけるその戦略的意義を立体的に浮かび上がらせる。この多角的なアプローチにより、一つの平城が物語る大和戦国史の深層に迫りたい。
第一部:十市城の地理的・構造的分析
第一章:立地と縄張り ― 奈良盆地における戦略拠点
十市城の戦略的価値を理解するためには、まずその地理的条件と城郭構造を把握する必要がある。城は単なる軍事施設ではなく、その立地と縄張り(設計)自体が、城主の政治思想と支配の様態を雄弁に物語るからである。
地理的優位性
十市城跡は、奈良県橿原市の北東端、磯城郡田原本町との境界近くに位置する 4 。具体的には、寺川右岸の自然堤防上に立地しており、これは中世の城郭や集落にとって極めて重要な意味を持っていた 4 。奈良盆地を流れる河川はしばしば氾濫したが、周囲よりわずかに高い自然堤防上は洪水の被害を受けにくく、安定した居住空間を提供した。同時に、寺川という水路は、物資の輸送や灌漑用水の確保といった経済活動の生命線でもあった。現代の地理では、近鉄橿原線の新ノ口駅から北東へ約1キロメートルの地点にあたる 1 。この地は、古代から交通の要衝であり、歴史的に由緒ある土地であったことが、近年の周辺遺跡の発掘調査からも示唆されている。
城郭の形態と規模
十市城は、山城や丘城とは対照的な「平城」に分類される 2 。これは、大和国における中世城郭の典型的な形態の一つであり、特にライバル関係にあった筒井氏の本拠・筒井城(大和郡山市)としばしば比較される 4 。現在、城跡には石碑が立つのみで、昭和期の土地改良事業によって堀や土塁といった物理的な遺構はほぼ完全に消滅してしまった 1 。しかし、近年の研究や発掘調査、そして残された小字名などから、その壮大な規模が明らかになりつつある。
推定によれば、城の中心である主郭は、現在の十市町旧集落の北側に位置する一辺約70メートルの微高地であった 5 。しかし、十市城の特筆すべき点は、この主郭だけで完結していなかったことにある。主郭の周囲には家臣団の屋敷や商工業者が住む市場町が広がり、それら町場全体を堀と土塁で囲い込む「惣構え(そうがまえ)」と呼ばれる構造を持っていた。この惣構えを含めた城郭全体の規模は、東西約550メートル、南北約430メートルにも及んだと推察されている 5 。この規模は、大和国最大級の平城とされた筒井城(東西約500メートル、南北約400メートル)に匹敵するものであり、十市氏が筒井氏と肩を並べる有力国人であったことを城郭の規模からも裏付けている 6 。
防御構造の痕跡
物理的な遺構が失われた今、十市城の防御思想を読み解く鍵は、現在の十市町の集落構造そのものに残されている。集落内の路地を歩くと、意図的に見通しを妨げるように道が直角に折れ曲がるクランク(折れ)や、行き止まり(袋小路)が数多く確認できる 5 。これは「遠見遮断」と呼ばれる、敵兵の侵入速度を遅らせ、集団での行動を困難にさせるための中世城郭都市特有の街路設計である。
この構造は、十市城が単なる城主の館(主郭)ではなく、政治・経済・居住空間が一体となった複合都市であったことを示している。城主の館を防衛するだけでなく、そこに住まう家臣や領民、そして彼らの経済活動の場である町全体を防衛線として取り込むという思想が、惣構えの根底にはあった。織田信長の命令によって城の軍事施設が破却された後も 5 、人々の生活空間の区画としてこの防御的な街路は生き残り、中世城郭都市の思想を現代に伝える「生きた遺構」となっているのである。
第二章:発掘された遺物から探る城主の権勢
城郭の規模や構造が城主の物理的な力を示すとすれば、そこから出土する遺物は、彼らの経済力や文化的背景、さらには対外的なネットワークを明らかにする貴重な手がかりとなる。十市城跡の発掘調査で発見された遺物は、十市氏が単なる一地方の武士ではなかったことを明確に物語っている。
出土遺物の分析
橿原市による調査では、十市城跡から中国製の白磁碗や青磁碗・盤、さらには高麗製の青磁壺といった、当時の最高級品である輸入磁器が多数出土している 4 。これらは、室町時代から戦国時代にかけて、将軍や有力守護大名、あるいは豪商といった限られた富裕層のみが手にすることができた奢侈品である。庶民が日常的に使う陶器とは一線を画すこれらの遺物は、十市城が単なる武士の砦ではなく、洗練された文化と富が集積する場所であったことを示している。
権勢の証明
これらの高級輸入磁器を所有できたという事実は、十市氏の権勢と財力が相当なものであったことの直接的な物証である 4 。彼らは興福寺大乗院の荘官として、大和国内の広大な荘園の管理・運営に携わることで経済的基盤を築いた 2 。さらに、これらの輸入品の存在は、興福寺や京の公家、あるいは堺の商人などを介した独自の交易ルートを確保していた可能性を示唆する。この強固な経済力こそが、十市氏が戦国乱世を生き抜き、筒井氏と並ぶ大和の有力国人としての地位を維持し得た原動力であった。
そして、この経済力は、軍事力の前提となるものであった。後に十市氏最盛期を築く十市遠忠が、奈良盆地を一望する龍王山に大和屈指の規模を誇る山城「龍王山城」を築城・改修できたのも 11 、平時の拠点である十市城を中心とした経済活動によって得られた莫大な富があったからに他ならない。すなわち、十市城は政治・居住の中心であると同時に、一族の軍事力を支える経済活動のハブとしての役割を担っていたのである。
周辺遺跡との関連
近年、十市城跡のすぐ近隣(株式会社ジェイテクト奈良工場敷地内)で、「十市蔵場遺跡」および「十市九ノ井田遺跡」と名付けられた新たな遺跡の発掘調査が進められている 13 。これらの遺跡から出土した遺物は古墳時代から奈良時代のものが中心であり、直接的に戦国期の十市城の遺物ではない。しかし、この発見は、十市氏が本拠とした地域が古代から連綿と続く重要な拠点であったことを裏付けるものであり、彼らが歴史的に由緒ある土地に根差した名族としての自負を持っていたことを窺わせる。
第二部:城主・十市一族の年代記
十市城の歴史は、その城主であった十市一族の歴史と不可分である。南北朝の動乱期に産声を上げ、戦国の荒波の中で栄光と悲劇を経験し、やがて歴史の舞台から姿を消していった一族の軌跡を追うことは、十市城という城郭の運命を理解する上で不可欠である。
第三章:十市氏の黎明 ― 南北朝から室町期へ
出自の謎
十市氏の出自は、複数の説が存在し、今なお謎に包まれている。一族が自称したとされる中原氏説(『群書類従』所収「十市遠忠自歌集」) 15 、古代の物部氏の流れを汲むとする物部氏族説(『五郡神社記』) 15 、さらには藤原氏の一族とする説(「和州十市城主氏姓伝」) 15 など、諸説紛々としている。また、この地を古くから治めた古代豪族・十市県主(あがたぬし)の後裔とする説もあり 16 、その出自の古さを窺わせる。
歴史への登場
確実な史料における十市氏の初見は、南北朝時代の正平2年(1347年)に遡る 15 。当時、南朝方として活動した十市新次郎入道が、北朝方への段米(軍税)を差し押さえたという記録が残されている。彼らは、大和国最大の権門であった興福寺、特にその大乗院方の荘官として頭角を現し、在地における実効支配を強めていった 2 。やがて、同じく秦氏の末裔を称する武士団である長谷川党を統べる棟梁(刀禰)となり、大和国における有力武士団としての地位を確立した 2 。
大和四家への道
室町時代に入ると、大和国は興福寺の衆徒や在地国人たちが離合集散を繰り返す、複雑な政治状況が続いた。その中で十市氏は、筒井氏、越智氏、箸尾氏といった有力国人と時に争い、時に結びながら、着実に勢力を拡大していく。応仁の乱(1467-1477年)を経て戦国時代に突入する頃には、これらの一族とともに大和国の政治を動かす「大和四家」の一角を占める存在として、その名を畿内に轟かせるに至った 16 。この間、彼らの本拠として機能し続けたのが、十市城であった。
第四章:最盛期を築いた英主・十市遠忠
戦国時代中期、十市氏の歴史において最も輝かしい時代が訪れる。一族の「中興の祖」と称される英主、十市遠忠(とおただ)の登場である 18 。彼の時代、十市氏はその勢力を最大に広げ、十市城もまた最も繁栄した時期を迎えた。
勢力拡大と龍王山城
天文3年(1534年)に家督を継いだ遠忠は 15 、卓越した軍事的才能と政治的センスを発揮し、支配領域を現在の桜井市、天理市、磯城郡田原本町一帯にまで拡大、「十市郷」と呼ばれる広大な勢力圏を築き上げた 18 。その石高は推定6万石に達し、一介の国人領主を超えて大名級の勢力を誇った 18 。
遠忠の戦略家としての慧眼を示す最大の功績が、龍王山城(天理市)の大規模な改修と、本拠機能の移転である 2 。当時、畿内では木沢長政が信貴山城を築くなど、城郭の軍事機能が飛躍的に高度化しつつあった。この時代の変化を敏感に察知した遠忠は、平地にあり防御上の弱点も持つ十市城を平時の居館・政庁としつつ、有事の際の軍事拠点として、奈良盆地を一望できる要害の地・龍王山に巨大な山城を整備したのである。この平城(根城)と山城(詰城)を併用する二元的な防衛体制への移行は、戦国大名としての彼の先進性を象徴するものであった。
文武両道の将
遠忠の非凡さは、武勇だけに留まらなかった。彼は和歌や書道にも深く通じた当代一流の文化人でもあった 16 。自らも二千首を超える和歌を詠み、「十市遠忠詠草」などの歌集を残したほか、南北朝時代の歌人・宗良親王の歌集『李花集』を筆写するなど、古典の保存にも多大な貢献を果たした 12 。この高い文化的素養は、興福寺や京の公家といった中央の権威との関係を構築する上でも有利に働き、彼の政治的地位を一層強固なものにしたと考えられる。武力と教養を兼ね備えた遠忠の存在は、十市氏の権威を内外に示威する上で絶大な効果を発揮した。
しかし、天文14年(1545年)、遠忠は49歳で病没する 16 。まさにこれから大和の覇者へと飛躍しようという矢先の急逝であった。傑出した指導者を失った十市氏と十市城の運命は、ここから大きく揺らぎ始めることになる。
第五章:激動と分裂 ― 悲運の当主・十市遠勝の時代
父・遠忠が築いた栄光は、その子・遠勝(とおかつ)の代で大きな試練に直面する。遠勝の時代、大和国は畿内の覇権を狙う三好長慶の家臣・松永久秀による侵攻という、未曾有の外的脅威に晒された 2 。この巨大な渦の中で、遠勝は一族の存亡をかけた苦渋の選択を迫られ続ける。
外部勢力の介入と揺れ動く立場
遠忠の死後、家督を継いだ遠勝は 15 、当初は父の代からの同盟関係にあった筒井順慶と歩調を合わせていた。しかし、筒井氏の急激な勢力拡大に危機感を抱いたのか、突如として同盟を破棄 12 。この行動が、彼の苦難に満ちた治世の始まりであった。筒井氏の反撃に遭い、本拠である十市城、龍王山城を放棄して逃亡を余儀なくされるなど、苦境に立たされる 12 。
その後、大和に侵攻してきた松永久秀が台頭すると、遠勝は筒井氏と松永氏という二大勢力の間で、生き残りをかけて味方を変え続けることになる 12 。ある時は松永氏に降り、またある時は筒井氏に寝返るという彼の行動は、一見すると優柔不断にも映る。しかし、それは強大な外部勢力の狭間で自立を保とうとした弱小勢力の必死の生存戦略であったとも言える。だが、この揺れ動く姿勢が、結果的に一族の結束を蝕んでいく。
家中分裂と政略の駒
遠勝の度重なる方針転換は、十市家中を深刻な対立へと導いた。家中は、旧来の盟主である筒井氏を支持する「親筒井派」と、新興勢力の松永氏に与する「親松永派」に分裂してしまう 5 。親筒井派の中心は庶流の十市遠長(とおなが)、親松永派の中心は遠勝の妻である後室と、人質として松永氏のもとに送られていた娘のおなへであった 12 。
永禄12年(1569年)に遠勝が失意のうちに病没すると、この対立はついに表面化する 12 。親松永派は、一族の正統性を象徴する娘・おなへを松永久秀の嫡男・久通に嫁がせるという起死回生の一手を打つ。そして、その代償として、父・遠忠が築いた十市氏の軍事的中核である龍王山城を、久通に明け渡したのである 12 。これにより、十市氏の誇るべき堅城は松永氏の手に渡り、残された十市城は、両派による凄惨な争奪戦の舞台となった。この内乱で犠牲になった十市の人々の怨念が、夜な夜な現れる怪火「じゃんじゃん火」になったという伝承がこの地に残されているが 5 、それは一族の分裂がいかに悲劇的なものであったかを物語っている。城の所有権は、もはや一族のアイデンティティではなく、派閥争いを有利に進めるための政略の道具と化していた。龍王山城の譲渡は、十市氏が自立した国人領主から、より大きな権力に従属する存在へと変質した決定的な瞬間であった。
第六章:落日 ― 十市城の終焉と一族の行方
一族の分裂と外部勢力の介入により、十市氏の命運は風前の灯火となっていた。そして、畿内を揺るがす大きな時代のうねりが、十市城と一族に最後の時を告げる。
松永氏の滅亡と筒井氏への臣従
天正5年(1577年)、松永久秀・久通親子は、主君である織田信長に反旗を翻し、信貴山城に籠城するも、織田軍の猛攻の前に滅亡する 20 。これにより、おなへら親松永派は最大の後ろ盾を失った。絶体絶命の彼女らを保護したのは、意外にも長年敵対してきた筒井順慶であった 12 。順慶は、おなへを保護下に置くと、自らの配下である布施氏から養子・新二郎を迎え、おなへと結婚させて十市氏の家督を継がせた 12 。これは、名門・十市氏を完全に自らの被官として取り込むための、順慶の巧みな政治戦略であった。こうして、南北朝以来の誇り高き大和国人・十市氏は、完全に筒井氏の家臣団に組み込まれることとなった。
廃城令と歴史からの退場
城としての十市城の歴史も、まもなく幕を閉じる。天正8年(1580年)、天下統一を進める織田信長は、反乱の温床となりうる国中の城郭を統制するため、大和国においては郡山城以外の全ての城を破却するよう命じた 5 。これは後の「一国一城令」の先駆けともいえる政策であり、十市城もこの時に軍事施設が徹底的に破壊され、廃城になったと推定されている。
そして天正13年(1585年)、主家となった筒井氏が豊臣秀吉の命により伊賀国(現在の三重県西部)へ転封されると、十市新二郎ら一族の多くもそれに従い、先祖代々の地である大和国を離れた 2 。その後、慶長13年(1608年)に筒井氏が改易されると、十市氏も武士としての歴史を終え、一部は帰農したと伝えられる 15 。約250年にわたり、十市城を拠点として大和に君臨した名族は、こうして静かに歴史の表舞台から姿を消したのである。
第三部:十市城を巡る比較と考察
十市城の歴史的意義をより深く理解するためには、同時代に大和国で機能した他の城郭との比較が不可欠である。特に、十市氏自身が築いた龍王山城、ライバル筒井氏の本拠・筒井城、そして大和に新たな戦乱をもたらした松永久秀の信貴山城との関係性を分析することで、十市城の役割と、大和国における城郭の戦略的変遷がより鮮明になる。
第七章:比較城郭論 ― 龍王山城、筒井城、信貴山城との関係性
十市城と龍王山城:「根城」と「詰城」の役割分担
十市遠忠が確立した、十市城と龍王山城の二元体制は、戦国中期の国人領主が採用した典型的な防衛戦略であった 1 。平地にあり、政治・経済活動の中心地として機能する十市城を「根城(ねじろ)」、あるいは「平時の居館」とする一方、有事の際には、山上にあり防御力に優れた龍王山城に立て籠もる。この龍王山城が「詰城(つめのしろ)」である。この役割分担は、平時における領国経営の利便性と、戦時における軍事的安全性の両立を図るための、極めて合理的なシステムであった。
比較項目 |
十市城 |
龍王山城 |
立地 |
奈良盆地内の平地(自然堤防上) |
奈良盆地東縁の山頂(標高586m) |
城郭分類 |
平城 |
山城 |
推定規模 |
東西約550m、南北約430m(惣構え) |
南北に連なる大規模な連郭式山城 |
主な役割 |
政庁、平時居館、経済拠点(市場町) |
軍事拠点、戦時司令部、最終防衛拠点 |
主要な使用者 |
十市氏歴代当主 |
十市遠忠、十市遠勝、松永久通 |
現状 |
城址碑のみ、遺構はほぼ消滅 |
土塁、堀切、郭などの遺構が良好に残存 |
【表1】十市城と龍王山城の機能比較
この表が示すように、両城は全く異なる性格を持ち、相互に補完し合う関係にあった。この体制の構築こそ、十市遠忠の戦略家としての非凡さを示すものであった。
十市城と筒井城:大和国における二大平城の比較
十市城は、しばしば筒井氏の筒井城と比較される 4 。両城は共に奈良盆地内の平地に築かれ、集落全体を堀で囲む「惣構え」の構造を持つなど、多くの共通点を有している 5 。規模においても、前述の通りほぼ同等であった。これは、戦国期の大和国において、有力国人が本拠とする平城の標準的な形態が、このような城郭都市であったことを示している。彼らの支配は、単に軍事力による点と線の支配ではなく、家臣団や領民を城郭内に取り込み、共同体の防衛と経済活動を一体化させる面的な支配であった。十市城と筒井城は、その支配様式を具現化した双子のような存在であったと言える。
龍王山城と信貴山城:ライバルが築いた巨大山城の比較
十市氏の詰城である龍王山城 11 と、松永久秀が拠点とした信貴山城 20 は、共に大和を代表する大規模な戦国期山城である。両城は、奈良盆地を挟んで東西に対峙する位置にあり、その構造にはそれぞれの築城主の軍事思想が反映されている。
龍王山城が南北二つの峰を利用した連郭式の堅実な縄張りを見せるのに対し、信貴山城は松永久秀によって大規模に改修され、四層の天守櫓が築かれるなど、より先進的で攻撃的な性格を持っていた 24 。これは、在地の国人である十市氏と、畿内中央の最新の軍事技術と情報に精通していた松永久秀との違いを反映している可能性がある。
大和国の城郭史を俯瞰すると、一つの傾向が見えてくる。十市遠忠による龍王山城の改修や松永久秀による信貴山城の築城は、畿内で進行していた最新の築城術(複雑な虎口構造、防御力を高める土塁配置など)を積極的に取り入れたものであった。しかしその一方で、彼らの根城である十市城や筒井城に見られる環濠集落を発展させた「惣構え」は、中世以来の在地的な共同体防衛の思想を色濃く残している。戦国期の大和国の城郭は、外部からもたらされた先進的な「個の拠点」としての城郭と、在地に根差した「共同体防衛」としての城郭という二つの要素が混在する、過渡的な姿を示していた。十市氏は、その両方のタイプの城を戦略的に使い分けることで、激動の時代を生き抜こうとしたのである。
結論:十市城が物語る大和戦国史
現在、橿原市の片隅に石碑が立つのみの十市城跡。しかし、その地層の下には、大和国人・十市氏の約250年にわたる栄光と苦悩、そして戦国という時代の激しい息吹が刻まれている。本報告書で詳述してきたように、十市城と城主一族の歴史は、大和国という一地域に閉じられた物語ではなく、細川氏、三好氏、松永氏、そして織田氏といった中央の覇権争いの動向が、地方の勢力図をいかに激しく揺さぶったかを示す縮図であった。
十市城は、その生涯を通じて、時代の要請に応じて姿を変え続けた。中世的な国人領主の館から、領民をも内包する惣構えの城郭都市へと発展し、最終的には戦略思想の変化(山城重視)によってその主たる役割を龍王山城に譲り、中央権力による破却という運命を辿った。その変遷は、戦国時代における城郭の機能と役割の変化そのものを体現している。
十市氏の歴史はまた、リーダーシップの重要性を我々に教えてくれる。英主・十市遠忠という一個人の傑出した才能が、一族を最盛期へと導き、先進的な防衛体制を構築した。対照的に、その子・遠勝の時代には、強大な外部環境の変化に対応しきれず、彼の苦悩に満ちた決断が結果的に家中を分裂させ、衰亡を招いた。これは、戦国乱世における国人領主の栄枯盛衰の典型例と言えよう。
目に見える遺構が失われた今、十市城の歴史を偲ぶことは容易ではない。しかし、その背景にあった一族の存亡をかけた激しいドラマと、時代の大きなうねりに思いを馳せる時、田園に立つ一つの石碑は、単なる史跡の標から、大和戦国史の複雑さと奥深さを物語る、雄弁な語り部へと姿を変えるのである。
【参考資料】十市氏関連略年表(天文年間~天正年間)
西暦(和暦) |
十市氏の動向 |
関連する周辺勢力の動向 |
備考 |
1534(天文3) |
十市遠忠、家督を継ぐ。 |
筒井順昭、家督を継ぐ。 |
|
1536(天文5) |
|
木沢長政、信貴山城を築城。 |
大和における戦乱の質的変化。 |
c.1536-40 |
遠忠、十市城から龍王山城へ本拠を移し、大規模改修を行う。 |
遠忠、木沢長政・筒井氏と抗争。 |
平城と山城の二元体制を確立。 |
1542(天文11) |
遠忠、木沢方の二上山城、信貴山城を攻略。 |
木沢長政、太平寺の戦いで戦死。 |
遠忠、勢力を最大化(十市氏最盛期)。 |
1545(天文14) |
十市遠忠、病没。嫡男・遠勝が家督を継ぐ。 |
|
|
1546(天文15) |
遠勝、筒井氏と断交し敗北。十市城・龍王山城を放棄し逃亡。 |
筒井順昭、十市城・龍王山城を接収。 |
|
1559(永禄2) |
遠勝、松永久秀に降伏。 |
松永久秀、大和国へ侵攻を開始。 |
|
1565(永禄8) |
遠勝、娘・おなへを人質として松永氏へ送る。 |
|
家中が親松永派と親筒井派に分裂し始める。 |
1568(永禄11) |
遠勝、松永氏を裏切り筒井方へ寝返るも、敗北。龍王山城を秋山氏(松永方)に奪われる。 |
織田信長、足利義昭を奉じて上洛。 |
|
1569(永禄12) |
十市遠勝、病没。 |
親筒井派の手引きで筒井氏が十市城に入る。 |
|
1575(天正3) |
おなへ、松永久秀の嫡男・久通と結婚。久通が龍王山城主となる。 |
松永久通、親筒井派の十市遠長を攻撃し、十市城を攻略。 |
十市氏の軍事的中核が松永氏の手に渡る。 |
1577(天正5) |
|
松永久秀・久通親子、信長に反旗を翻し滅亡(信貴山城の戦い)。 |
おなへら、筒井順慶の保護下に入る。 |
1579(天正7) |
布施新二郎がおなへと結婚し、十市氏の家督を継ぐ。 |
|
十市氏、完全に筒井氏の被官となる。 |
1580(天正8) |
十市城、織田信長の命令により破却される。 |
郡山城を除く大和国内の諸城が破却される。 |
城としての歴史に幕を閉じる。 |
1585(天正13) |
十市一族、筒井氏の伊賀転封に従い大和を離れる。 |
筒井定次、伊賀へ転封。豊臣秀長が郡山城主となる。 |
|
【表2】十市氏関連略年表
引用文献
- 十市城の見所と写真・100人城主の評価(奈良県橿原市) - 攻城団 https://kojodan.jp/castle/674/
- 大和十市城 http://oshiro-tabi-nikki.com/tooiti.htm
- 大和 十市城-城郭放浪記 https://www.hb.pei.jp/shiro/yamato/toichi-jyo/
- 十市城跡/橿原市公式ホームページ https://www.city.kashihara.nara.jp/soshiki/1058/gyomu/3/2/4/3842.html
- 十市城~水田に消えた中世城郭の面影 - 大和徒然草子 https://www.yamatotsurezure.com/entry/toichi
- 筒井城の見所と写真・300人城主の評価(奈良県大和郡山市) - 攻城団 https://kojodan.jp/castle/362/
- 古城の歴史 筒井城 https://takayama.tonosama.jp/html/tsutsui.html
- 筒井城 - お城めぐりGPSスタンプラリー [ 戦国攻城記 ] https://kojoki.jp/%E7%AD%92%E4%BA%95%E5%9F%8E/
- 筒井城 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AD%92%E4%BA%95%E5%9F%8E
- 筒井城 - - お城散歩 - FC2 https://kahoo0516.blog.fc2.com/blog-entry-626.html
- 龍王山城跡 | 天理観光ガイド・天理市観光協会 https://kanko-tenri.jp/tourist-spots/south/ryuosanjoato/
- 戦国期大和の古豪にして磯城の王者・十市氏~大和武士の一族(2 ... https://www.yamatotsurezure.com/entry/yamatonobuke02_toichi
- 十 市 蔵 場 遺 跡 https://sitereports.nabunken.go.jp/files/attach/61/61539/139503_1_%E5%8D%81%E5%B8%82%E8%94%B5%E5%A0%B4%E9%81%BA%E8%B7%A1.pdf
- 十市蔵場遺跡 - 一工場増築工事に伴う発掘調査報告書 https://sitereports.nabunken.go.jp/files/attach_mobile/61/61539/139503_1_%E5%8D%81%E5%B8%82%E8%94%B5%E5%A0%B4%E9%81%BA%E8%B7%A1.pdf
- 十市氏 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E5%B8%82%E6%B0%8F
- 武家家伝_十市氏 - harimaya.com http://www2.harimaya.com/sengoku/html/10_iti.html
- 古代豪族 十市県主 今西家のあゆみ https://www.imanishike.or.jp/%E5%8D%81%E5%B8%82%E7%9C%8C%E4%B8%BB%E4%BB%8A%E8%A5%BF%E5%AE%B6%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2/
- 十市遠忠伝来の短刀 備前長船祐定/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/36276/
- 大和武士の十市氏 ―― 橿原市の十市城跡 - ディズカバー!奈良 奈良まほろばソムリエの会 https://www.stomo.jp/discover_nara/171026.html
- 光秀が若武者だった頃からの盟友・松永久秀の幻の天空城・信貴山城を行く【「麒麟がくる」光秀の足跡を辿る】 | サライ.jp https://serai.jp/hobby/1011605
- 龍王山城 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BE%8D%E7%8E%8B%E5%B1%B1%E5%9F%8E
- 筒井城の案内板 - 攻城団 https://kojodan.jp/castle/362/memo/1434.html
- 信貴山城 - お城めぐりFAN https://www.shirofan.com/shiro/kinki/shikizan/shikizan.html
- 信貴山城 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%A1%E8%B2%B4%E5%B1%B1%E5%9F%8E
- 松永久秀 壮絶最期の舞台となった信貴山城と新発見の肖像画でわかったこと【麒麟がくる 満喫リポート】 | サライ.jp https://serai.jp/hobby/1015511