周防の天然要害、右田岳城は大内氏の支城として栄え、防長経略では毛利元就に開城。右田毛利家として存続し、一国一城令で廃城となるも、その峻険な山容は今も歴史を語る。
周防国、現在の山口県防府市にその威容を今に伝える右田岳城は、戦国時代の激動を語る上で欠かすことのできない重要な山城である 1 。佐波川の右岸に位置し、標高426メートルの峻険な右田ヶ岳に築かれたこの城は、西国の雄として君臨した大内氏の本拠地・山口と、瀬戸内海の海上交通路を結ぶ戦略的要衝を扼する位置にあった 2 。その地理的重要性から、大内氏の支配体制を支える上で不可欠な支城網の一角を成していた。
この城の最大の特徴は、人の手を加えた構築物以上に、その自然地形そのものが持つ圧倒的な防御能力にある。山肌を覆うのは、風雪に耐えた巨大な花崗岩の岩塊であり、そのゴツゴツとした勇壮な山容は、麓から見上げる者を畏怖させるとともに、攻め寄せる敵にとっては絶望的な障壁となった 4 。右田岳城は、まさに「天然の要塞」と呼ぶにふさわしい。その築城思想は、大規模な土木工事によって自然を改変するのではなく、ありのままの峻険な地形を最大限に活用し、最小限の人工的加工で防御機能を完成させるという、中世山城の合理的精神を色濃く反映している。
本報告書は、この周防の岩砦・右田岳城を多角的な視点から徹底的に分析するものである。鎌倉時代とされる築城の伝承から、城主・右田氏の出自と大内家臣団内での動向、戦国史の大きな転換点となった毛利元就による「防長経略」における開城の真相、そして毛利氏の支配下での変容と廃城、さらには史跡としての現代に至るまでの通史を、城郭構造、関連人物、歴史的事件との有機的な繋がりから解き明かすことを目的とする。
右田岳城の城郭としての本質を理解するためには、まずその縄張り、すなわち防御施設の配置計画が、いかに右田ヶ岳の特異な地形と一体化していたかを探る必要がある。この城は、近世城郭に見られるような壮麗な天守や高石垣を持たない。その代わり、山全体が一個の巨大な防御装置として設計されていた。
右田ヶ岳は、一つの山頂を持つ山ではなく、東峰、中峰、西峰と呼ばれる三つの主要な峰から構成されている 3 。城の中枢機能は、これらの峰のうち南西に位置する西峰に集中していたと伝えられている。西峰の山頂部が本丸(主郭)とされ、その北東下のやや平坦な地形が二の丸にあたると考えられている 5 。この配置は、麓からの主たる攻撃ルートを想定し、敵が本丸に到達するまでに複数の防御区画(曲輪)を突破しなければならないという、山城の基本的な防御思想に基づいている。仮に二の丸が突破されても、本丸はさらに一段高い位置にあるため、守備側は有利な状況で最後の抵抗を試みることができた。
一方で、中央に位置する中峰にも、観音堂に関連すると見られる石垣の痕跡が指摘されている 7 。これは、山城が単なる軍事施設であっただけでなく、山岳信仰の場としての性格を併せ持っていた可能性を示唆する。戦時における将兵の精神的な支柱として、あるいは平時における地域の信仰の中心として、城と宗教施設が融合していた事例は各地に見られ、右田岳城もその一つであったのかもしれない。
右田岳城の遺構として今日確認できるのは、主として兵士が駐屯したり、防御施設を置いたりしたであろう「削平地」と呼ばれる平坦面である 8 。一部の観光案内などでは「遺構は全くない」との記述も見られるが 4 、これは後世に築かれた城郭の壮大な石垣や堀を基準とした見方であり、中世山城の実態を正確に捉えたものとは言えない。むしろ、右田岳城の遺構が「少ない」と評されること自体が、この城の設計思想の核心を物語っている。
築城者は、大規模な堀切や土塁を造成する必要性を感じなかった。なぜなら、天然の断崖絶壁が堅固な城壁となり、露出した花崗岩の岩盤が敵兵の登攀を物理的に阻んだからである 5 。したがって、この城の「遺構」とは、山頂部に残るわずかな平坦地だけでなく、城へと至る険しい登山道や、防御に利用されたであろう岩塊群を含めた、山そのものと捉えるべきである。この視点に立つことで初めて、自然地形を巧みに「借用」し、最小限の労力で最大限の防御効果を発揮させた、中世の城郭技術者の合理的な思考を読み取ることができる。
山上には石垣跡が現存するという記録も複数存在するが 3 、これが戦国期に築かれた本来の遺構なのか、あるいは後世の信仰施設などに関連して積まれたものなのかを断定することは、現状では困難である 9 。また、西峰と中峰を隔てる鞍部は、自然の窪地をそのまま利用した「天然の堀切」として、峰から峰への敵の移動を妨げる重要な役割を果たしたと推察される 7 。
右田岳城のような「詰城」、すなわち戦時に立て籠もるための山城には、平時に城主が居住し、政務を執るための居館が麓に設けられるのが一般的であった。右田氏の居館の正確な位置は特定されていないが、現在、右田毛利家の菩提寺となっている天徳寺の周辺が、その有力な候補地と見なされている 10 。天徳寺が右田ヶ岳への主要な登山口の一つとして現在も利用されている事実は 9 、麓の拠点と山上の城が一体的に運用されていた歴史的な名残と考えることができる。この居館を中心に、家臣団の屋敷や商人町が形成され、小規模ながらも城下町として機能していた可能性が高い。
右田岳城の歴史は、その城主であった右田一族の歴史と不可分である。大内氏の有力な庶流として栄え、戦国の動乱の中で幾多の苦難を乗り越え、そして新たな時代を生き抜いた右田氏の軌跡を追うことは、この城が果たした役割を理解する上で不可欠である。
右田氏の祖は、平安時代末期に周防国の在庁官人として勢力を伸ばした大内氏の当主・大内盛房の弟にあたる盛長に遡る 13 。盛長が佐波郡右田の地を所領として分家したのが、その始まりとされる。その後、鎌倉時代後半、弘俊の代になって初めて「右田」の名字を公称するようになり、大内一門の中で独自の家系としての地位を確立した 13 。
同じく大内氏の庶流であり、後に大内家中において守護代を世襲し最大の実力者となる陶氏とは、同族の間柄であった 15 。特に、戦国期に大内氏の実権を掌握する陶晴賢(隆房)の養母は右田氏の娘であり 17 、両家は複雑な姻戚関係で結ばれていた。これは、大内家中の権力構造において、右田氏が単なる一族というだけでなく、重要な政治的パートナーとして認識されていたことを示している。
戦国時代、右田氏は大内氏の有力な一門として、本拠地である山口を防衛する上で欠かせない軍事力を提供していた 6 。右田岳城の堅固さは、まさに大内氏の支配の安定を象徴するものであった。
しかし、その忠誠が試される事件が起こる。天文20年(1551年)、家中の主導権を巡る対立の末、重臣・陶晴賢が主君・大内義隆に対して謀反を起こした「大寧寺の変」である。この時、右田一族の一人であった右田隆次(たかつぐ)は、最後まで義隆の側に付き従い、長門の大寧寺で主君と共に討死を遂げた 18 。この殉死は、当時の右田氏が大内宗家に対して抱いていた強い忠誠心の証左であり、一族の義理堅さを示す逸話として記憶されている。
一方で、この事件は右田岳城の城主であった右田隆量(たかかず)を、極めて困難な立場に追い込んだ。正統な主君であった義隆は滅び、その主君を弑逆した同族の陶晴賢が新たな権力者として君臨したのである。隆量にとって、晴賢はもはや忠誠を誓うべき正統な主君ではなかった。表向きは晴賢が擁立した新当主・大内義長に従いつつも、その内面では旧主への思いと、弑逆者への複雑な感情が渦巻いていたと想像に難くない。大寧寺の変によって生じたこの精神的な亀裂と、忠誠を捧げる対象の喪失は、数年後に訪れる毛利氏の侵攻に際して、隆量が下す重大な決断に大きな影響を与えることとなる。一族の一人が旧主君に殉じたという事実と、その数年後に一族の当主が新たな勢力に降伏するという一見矛盾した行動は、大寧寺の変を境に大内家臣団の結束が内部から崩壊し、国人領主たちが忠誠の拠り所を失ったことの現れと解釈することができる。
年代(西暦) |
主な出来事 |
関連人物 |
典拠 |
鎌倉時代末期 |
右田岳城が築城されたと伝わる |
右田氏 |
21 |
天文20年(1551) |
大寧寺の変。右田隆次が大内義隆に殉死 |
大内義隆, 陶晴賢, 右田隆次 |
19 |
天文24年(1555) |
厳島の戦い。陶晴賢が毛利元就に敗れ自刃 |
陶晴賢, 毛利元就 |
21 |
弘治元年(1555) |
防長経略開始。毛利軍が周防へ侵攻 |
毛利元就 |
21 |
弘治3年(1557) |
右田岳城開城。右田隆量が毛利氏に降伏 |
右田隆量, 毛利元就 |
21 |
弘治3年(1557) |
右田岳城に南方就正が城番として入城 |
南方就正 |
23 |
江戸時代初期 |
右田隆量が毛利元就の七男・元政を養子に迎える |
右田隆量, 毛利元政 |
13 |
元和元年(1615) |
一国一城令発布。右田岳城も廃城になったと推定 |
徳川秀忠 |
25 |
寛永2年(1625) |
毛利元倶が右田に移り、天徳寺を菩提寺とする |
毛利元倶 |
27 |
天文24年(1555年)の厳島の戦いは、中国地方の勢力図を根底から覆す一大決戦であった。この戦いで安芸の毛利元就が、大内氏の実権を握る陶晴賢を討ち取ったことにより、西国に君臨した大内氏の権威は失墜し、その広大な領国は瞬く間に動揺に包まれた 21 。右田岳城と城主・右田隆量は、この歴史の転換点において、一族の存亡を賭けた重大な決断を迫られることになる。
氏名 |
所属/役職 |
右田岳城との関わり |
典拠 |
右田 隆量(みぎた たかかず) |
大内氏家臣→毛利氏家臣 |
防長経略時の城主。毛利氏に降伏し開城 |
13 |
右田 隆次(みぎた たかつぐ) |
大内氏家臣 |
隆量の一門。大寧寺の変で大内義隆に殉死 |
18 |
大内 義隆(おおうち よしたか) |
周防国守護大名 |
右田氏の主君。大寧寺の変で自刃 |
19 |
陶 晴賢(すえ はるかた) |
大内氏重臣 |
大寧寺の変を主導。厳島の戦いで敗死 |
19 |
毛利 元就(もうり もとなり) |
安芸国国人領主 |
防長経略を指揮。隆量を降伏させる |
13 |
南方 就正(みなかた なりまさ) |
毛利氏家臣 |
開城後の右田岳城に城番として入城 |
21 |
毛利 元政(もうり もとまさ) |
毛利元就の七男 |
後に隆量の養子となり右田氏を継承 |
13 |
厳島での劇的な勝利を収めた毛利元就は、間髪を入れず大内領の核心部である周防・長門両国への全面侵攻作戦、すなわち「防長経略」を開始した 23 。弘治元年(1555年)10月、毛利軍は周防東部の岩国に進駐し、玖珂郡の鞍掛山城などを次々と攻略、大内方の防衛線を突破していく 23 。大内氏の中核であった陶晴賢を失った大内軍にはもはや組織的な抵抗力はなく、各地の国人領主たちは、新興勢力である毛利氏に従うか、滅亡を覚悟で抵抗を続けるかの選択を迫られた。
毛利軍が周防中枢部へと迫る中、右田岳城主の右田隆量は、野田長房といった他の大内家臣らと共に城に立て籠もり、抵抗の意志を示した 21 。天然の要害である右田岳城は、籠城すれば相当期間の防戦が可能であったはずである。しかし、大内義長に領国全土を統率する力はなく、籠城を続けても後詰(援軍)が到着する見込みは絶望的であった。
このような状況下で、毛利元就は武力による攻略と並行して、巧みな調略を展開した。右田隆量に対しても降伏を促す勧告が送られたのである。この勧告がなされた正確な時期については、元就が須々万の富田若山城に入城した後とする説や、周辺の鷲頭・朝倉勢が毛利軍に敗れた後とする説などがあるが 23 、いずれにせよ、右田岳城が軍事的に孤立し、大内方の敗色が濃厚となった段階であったことは間違いない。
圧倒的な軍事力と、旧大内家臣団を巧みに切り崩していく元就の調略を前に、右田隆量はついに降伏を決断し、城を開け渡した。この無血開城は、単なる軍事的な敗北を意味するものではない。それは、右田隆量が下した、一族の血脈を未来へ繋ぐための、極めて高度な政治的判断であった。
無益な抵抗を続けて玉砕し、家名と領民を滅亡の淵に追いやる道もあった。しかし隆量は、滅びゆく大内氏に見切りをつけ、日の出の勢いにある毛利氏の将来性を見抜き、その新たな支配体制の中に組み込まれることで家の存続を図る道を選んだのである。これは、戦国時代の権力移行期における、地方領主の現実的かつ巧みな生存戦略を示す象徴的な出来事であった。武力のみならず、情勢を的確に分析する情報収集能力と、未来を見通す政治的判断力が、武将の命運を分けたのである。
降伏後、右田隆量は毛利氏の家臣として迎えられた。そして、その忠誠の証を示すかのように、直後に行われた大内氏の本拠・山口への総攻撃では、毛利軍の先鋒部隊に加えられ、氷上山の砦を攻略するという戦功を挙げている 23 。これは、元就が降将を巧みに活用し、その働きを通じて他の旧大内家臣団の抵抗意欲を削ぐという、深謀遠慮の現れであった。
一方、主を失った右田岳城には、毛利家臣の南方就正(みなかたなりまさ)が城番として入城した 21 。これにより、かつて大内氏の山口防衛の要であったこの城は、皮肉にもその山口を攻略するための毛利軍の最前線基地へと姿を変えた。元就は防府の松崎天満宮(現在の防府天満宮)に本陣を置き、ここから山口への最終攻撃の指揮を執ったのである 23 。
防長経略を経て毛利氏の支配が確立すると、右田岳城とその城主一族は新たな時代を迎える。それは、大内氏の庶流「右田氏」から、毛利一門「右田毛利家」への変貌であり、同時に、戦国の山城としての右田岳城がその歴史的役割を終える過程でもあった。
毛利氏の家臣となった右田隆量は、戦国武将として一族の存続を確実なものにするため、深慮の末に一つの策を講じた。それは、新たな主君である毛利元就の七男・元政を自らの養子として迎え、右田氏の名跡を継承させることであった 13 。
この養子縁組は、双方にとって大きな利益をもたらした。右田氏にとっては、毛利宗家と直接的な血縁関係を結ぶことで、家臣団内での地位を盤石にし、家の永続を保証するものであった。一方、毛利氏にとっては、旧大内領の有力な名家の名跡を自らの一門に取り込むことで、在地勢力との融和を図り、新たな支配体制を円滑に浸透させる上で極めて有効な手段であった。こうして、大内氏の血を引く右田氏は、毛利一門「右田毛利家」として生まれ変わり、新たな歴史を歩み始めることになったのである 30 。なお、隆量の実子であった康政は、「御郷(みさと)」と改姓して毛利氏に仕え、その子孫は江戸時代を通じて三田尻の御舟手組(水軍)として存続したと伝えられている 13 。
江戸時代に入り、毛利氏が長州藩(萩藩)三十六万石の藩主となると、右田毛利家は藩主の支族である「一門家老」八家の一つとして、筆頭の宍戸家に次ぐ次席という高い家格を誇った 33 。当初は熊毛郡三丘(みつお)を領地としていたが、二代当主・元倶(もととも)の代に、宍戸氏との領地替えによって右田の地に移り、名実ともに右田の領主となった 30 。その後の右田毛利家は、長州藩の重臣として藩政を支え、幕末維新期には当主の毛利親信が戊辰戦争で戦功を挙げた。その功績により、明治維新後、右田毛利家は華族に列せられ、男爵家となっている 32 。
戦国乱世が終わりを告げ、徳川幕府による全国統治体制が確立されると、各地の城郭の運命も大きく変わった。慶長20年(1615年)、幕府は「元和一国一城令」を発布し、大名の居城以外の支城をすべて破却するよう命じた 25 。これは、地方に割拠する潜在的な反乱勢力の軍事拠点を解体し、幕府の支配を盤石にすることを目的としたものであった。
長州藩は周防・長門の二国を領有していたため、令制国ごとに一つの城、すなわち長門国の萩城と周防国の岩国城が存続対象とされた(岩国城は後に幕府への配慮から破却) 35 。右田岳城がこの一国一城令によって廃城となったことを直接的に示す史料は確認されていないが、藩の主要な城郭リストには含まれておらず、この法令の対象となり、その軍事的機能を完全に失ったと考えるのが自然である 6 。戦国の象徴であった山城は、平和な時代の到来とともにその役割を終え、歴史の舞台から静かに姿を消していった。山上に残されていた石垣などの施設も、この時期に破却された可能性が高い。
軍事施設としての役割を終えた右田岳城は、しかし、それで歴史から忘れ去られたわけではなかった。むしろ、「城の死」は、その舞台となった右田ヶ岳が新たな価値をまとい、文化的に再生していく始まりであった。戦国の記憶を留めながら、山は信仰の場へ、そして現代市民の憩いの場へと、その姿を変貌させていったのである。
江戸時代、右田の地の政治的・文化的中心は、山上の城から麓へと移った。その象徴が、右田ヶ岳の南麓に佇む天徳寺である 12 。寛永2年(1625年)、右田領主となった毛利元倶が、この地にあった寺院を再興し、父であり右田毛利家初代である元政の法名「天徳性真禅定門」にちなんで「天徳寺」と改め、菩提寺と定めた 27 。
寺の東の山麓には、広大な右田毛利家の墓所が設けられ、初代元政をはじめとする歴代当主とその一族の墓石が整然と並んでいる 33 。この墓所の存在は、近世を通じて右田毛利家がこの地を拠点として栄えたことを雄弁に物語っており、城跡と並ぶ重要な歴史遺産となっている。
平和な時代が訪れると、かつて人を寄せ付けなかった険しい山は、人々の祈りを受け止める「聖域」としての性格を帯び始める。特に、天徳寺から前岳山頂へと続く登山道沿いには、自然の岩肌に直接彫り込まれた三十三体の観音像、すなわち磨崖仏が点在している 4 。
これらの磨崖仏は、天徳寺の住職の時代に、下関や防府の熱心な信者たちの寄進によって彫られたものと伝えられており 5 、江戸時代以降、右田ヶ岳が観音信仰の霊場として広く信仰を集めていたことを示している 22 。かつて武士たちが駆け上がったであろう道は、いつしか人々の祈りを運ぶ巡礼路へと姿を変えた。戦国の記憶の上に、近世の信仰の歴史が静かに積み重なっていったのである。
現代において、右田ヶ岳は防府市民にとって最も身近な自然であり、歴史遺産の一つとして深く親しまれている。防府市街地からのアクセスも良く、年間を通じて多くの人々が登山やハイキング、さらにはその岩場を利用したロッククライミングを楽しむ人気のスポットとなっている 4 。
天徳寺コース、塚原コース、勝坂コースなど、複数の登山ルートが整備されており、体力や経験に応じて楽しむことができる 5 。山頂に立てば、眼下に広がる防府の市街地と、その先にきらめく瀬戸内海の壮大なパノラマを一望することができる 5 。麓の右田小学校が登山者のために駐車場やトイレを開放するなど、地域社会全体でこの貴重な歴史的景観を守り、活用しようという姿勢が見られることも特筆に値する 11 。
右田岳城の事例は、一つの場所が時代の要請に応じてその役割をダイナミックに変化させてきた見事な証左である。戦国時代の軍事拠点としての記憶、近世における信仰の場の記憶、そして現代における市民のレクリエーションの場としての記憶。これら異なる時代の営みが同じ場所に重層的に存在していることこそが、史跡・右田岳城が持つ最大の文化的価値と言えるだろう。
周防の岩砦・右田岳城の歴史を詳細に紐解くとき、我々はその城が単なる過去の遺物ではなく、日本の歴史の大きなうねりを体現する生きた証人であったことを理解する。
第一に、右田岳城は、西国に一大王国を築いた大内氏の栄華とその支配体制を支えた、紛れもない要衝であった。その峻険な自然地形を最大限に活かした縄張りは、中世山城の合理的な築城思想を今に伝え、大内氏の軍事力を象徴する存在であった。
第二に、この城は、戦国武将のリアルな生存戦略を物語る歴史の舞台であった。大寧寺の変における右田隆次の殉死は、旧来の主君への忠義を貫く武士の姿を示す一方、防長経略における城主・右田隆量の無血開城という決断は、滅びゆく主家に見切りをつけ、新たな時代の覇者のもとで一族の存続を図るという、戦国乱世を生き抜くための冷徹なリアリズムと政治的判断力を示している。
そして最後に、右田岳城の歴史は、城としての役割を終えた後も、その舞台となった右田ヶ岳が信仰の場、そして市民の憩いの場として再生していく過程を通じて、一つの場所が持つ文化的な重層性を見事に示している。戦国の記憶、近世の信仰、現代の市民活動が融合したこの文化的景観は、我々が未来へと継承していくべき貴重な遺産である。右田岳城は、その岩肌に刻まれた幾多の歴史を通じて、これからも多くのことを我々に語りかけてくれるに違いない。