奥州探題大崎氏の本拠、名生城は古代官衙跡に築かれ、奥州の歴史を千年にわたり刻んだ。戦国期には伊達氏の台頭に苦悩し、大崎合戦で一矢報いるも、秀吉の天下統一の波に飲まれ、名門大崎氏と共に終焉を迎えた。
陸奥国北部に広がる大崎平野に、静かに佇む名生城跡。それは単に戦国時代の城跡という一言で語り尽くせる存在ではない。その大地の下には、古代律令国家が東北地方を治めた時代の息吹が眠り、その上には、奥州の覇権を巡る名門の栄光と悲劇、そして天下統一の激動に至るまでの物語が、幾重にも刻み込まれている。名生城は、稀有な「歴史の複合遺跡」であり、この地に刻まれた千年の物語を解き明かす鍵となる存在である。
この城の最大の特徴は、その歴史の重層性にある。7世紀末から平安時代にかけてこの地を治めた地方官衙、すなわち古代の役所であった「名生館官衙遺跡」のまさにその場所に、中世の城郭として名生城が築かれたのである 1 。これは単なる土地の再利用ではない。なぜこの地は、時代を超えて支配の拠点として選ばれ続けたのか。その答えは、この地が有する「場所の力」、すなわち支配の正統性を象徴的に示す地政学的な重要性に求めることができる。古代の権威の上に中世の権威を重ねることで、新たな支配者は自らの統治の正当性を領内に知らしめようとしたのである。
本報告書は、戦国時代というレンズを通して、この名生の地に眠る物語を多角的に分析するものである。まず城郭としての構造と地勢を明らかにし、次いで城主であった奥州探題大崎氏の成立から栄枯盛衰の軌跡を辿る。そして、豊臣秀吉による天下統一という時代の奔流の中で、名生城がいかにしてその歴史的役割を終え、また最後の輝きを放ったのかを詳述する。これにより、名生城が持つ真の歴史的意義を明らかにすることを目的としたい。
名生城は、江合川と鳴瀬川の二大河川が形成した肥沃な大崎平野の北西部にその地を占める 3 。具体的には、渋井川西岸に位置する標高約40メートルの台地上に築かれており、周囲の平地との比高は約10メートルを測る 2 。この地形は、領国を見渡し支配するには十分な高さを持ちながら、峻険すぎず、城下との連携や軍勢の展開にも適している。防御と統治という、中世城郭に求められる二つの要素を高いレベルで満たす、まさに要害の地であった。
この地は、古代より陸奥国の中心地の一つであり、交通の要衝でもあった。南約1.2キロメートルには、官衙の付属寺院とみられる伏見廃寺跡が存在することからも 2 、この一帯が長らく政治・軍事・文化の中心として機能してきたことが窺える。大崎氏がこの地を本拠として選んだのは、こうした地理的・歴史的背景を抜きにしては語れない。
名生城の規模は、南北1,100メートル、東西700メートルにも及び、古代の城柵としても中世の城郭としても広大な領域を誇る 2 。その縄張りは、台地の地形を巧みに利用した連郭式で、主要な郭(曲輪)は七つあったと伝えられている 6 。
中心となるのは本丸にあたる「大館」であり、その周囲に「内館」「小館」「北館」、そして西側に「二ノ構」「三ノ構」、南西部に「軍議評定丸」が配されていた 6 。大館は現在、宅地や畑地となっているが、かつては城の中枢として政務や城主の居住空間が置かれていたと考えられる 9 。北館の跡地には現在、曹洞宗の名生山浄泉院が建立されており、永正年間(1504年-1521年)頃の開山と伝わる 3 。また、小館の跡地には、大崎氏が篤く信仰した大崎神社が鎮座している 3 。このように、城の主要区画は後世の寺社や集落へと姿を変えながらも、その区画の名残を今に伝えている。
表1:名生城の主要七郭一覧
郭の名称 |
推定される機能 |
現在の状況 |
確認されている遺構 |
大館(おおだて) |
主郭(本丸)、政務・居住の中枢 |
宅地、畑地、名生館官衙遺跡の案内板設置 |
V字型の堀跡(発掘調査による) |
内館(うちだて) |
主郭に隣接する重要区画 |
浄泉院南側の林 |
土塁、堀跡(最も遺構の残存状態が良い) |
小館(こだて) |
居住区画、祭祀の場 |
大崎神社社地 |
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北館(きただて) |
城の北端を守る防御拠点 |
浄泉院境内 |
三方を囲む土塁、南北に走る土塁 |
二ノ構(にのこう) |
大館西側の防御区画 |
水田、宅地 |
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三ノ構(さんのこう) |
城の西端を守る外郭 |
水田、宅地 |
- |
軍議評定丸(ぐんぎひょうじょうまる) |
軍議、評定などが行われた場 |
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3
名生城の遺構は、開発によって多くが失われたものの、今なお土塁や堀の痕跡を随所に見ることができる 3 。特に内館の西面と東面には、往時の姿を偲ばせる堀と土塁の一部が良好な状態で残存している 9 。これらの堀は、水を湛えた水堀と、空堀を巧みに使い分けていたと考えられている 3 。
さらに、昭和55年(1980年)に行われた発掘調査では、大館を区画していたとみられる防御施設の一端が明らかになった。この調査で発見されたのは、幅約9メートル、深さ約3.5メートルにも及ぶ巨大なV字型の溝であり、敵の侵入を阻むための極めて堅固な障壁であったことがわかる 8 。このような大規模な土木工事は、大崎氏が奥州探題として有した高い権力と動員力を物語っている。
名生城の歴史的価値を最も特徴づけているのは、その城域が国指定史跡「名生館官衙遺跡」とほぼ重なっているという事実である 2 。これは、7世紀末からこの地にあった古代の役所跡を、14世紀に大崎氏が城郭として再整備・拡張したことを意味する。さらに、天平九年(737年)の文献に多賀城と共にその名が見える古代城柵「玉造柵」の跡地がこの場所であるとする説も有力であり 3 、もし事実であれば、名生城は古代の軍事拠点としての機能をも引き継いだことになる。
大崎氏がこの地を選び、城を築いた行為は、単に軍事的に有利な場所を確保するという以上の、明確な政治的意図の表明であった。律令国家時代から続く行政の中心地に本拠を構えることは、室町幕府から任命された奥州探題という自らの公的権威を、在地社会に対して象徴的に示すための極めて有効な手段であった。古代の権威の上に中世の権威を重ね合わせることで、大崎氏はその支配の正統性を不動のものとしようとしたのである。名生城の構造は、こうした古代から続く「場所の力」を巧みに利用した、大崎氏の高度な統治戦略の現れと言えるだろう。
名生城を二百数十年にわたり本拠とした大崎氏は、その出自を清和源氏足利氏の流れを汲む室町幕府屈指の名門・斯波氏に持つ 10 。斯波氏は足利将軍家の一門として、管領を輩出するなど幕府の中枢で重きをなした。この輝かしい血筋こそが、大崎氏が後に奥州の統治者たる奥州探題に任じられる最大の背景であった。
南北朝の動乱期、観応二年(正平六年、1351年)、室町幕府初代将軍・足利尊氏は、奥州の安定化を図るため、斯波氏当主・高経の弟である斯波家兼を奥州管領(後の奥州探題)に任命し、この地へ派遣した 10 。家兼は当初、伊達郡の霊山城や志田郡の師山城などを拠点としたが、やがて大崎平野の中心であるこの地に移り、名生城を築城したと伝えられる 9 。
そして家兼は、この地を新たな本拠とするにあたり、自らの姓を「大崎」と改めた 10 。これは、先祖である足利家氏が下総国香取郡大崎を領していたことに由来するとされ 13 、新たな土地に根を下ろし、奥州に独自の支配圏を確立するという強い意志の表れであった。こうして、名門斯波氏の一族は「大崎氏」として、奥州の歴史にその名を刻み始めることとなる。
家兼の跡を継いだ嫡男・直持の代には、奥州管領の職は「奥州探題」として世襲されることとなり、大崎氏の権威は不動のものとなった 9 。その権勢は陸奥・出羽の両国に及び、奥州の諸大名を統率する立場として絶大な影響力を誇った。この最盛期において、大崎氏は巧みな一族配置戦略を展開する。直持は弟の兼頼を出羽国に分封し、羽州探題に任じた。この兼頼こそが、後の戦国大名・最上氏の祖である 9 。このように、奥羽両国に一族を配置することで、大崎氏は広域にわたる支配体制を盤石なものとしていった。
時代が下り、15世紀後半の大崎教兼の治世になると、より具体的な領国支配の強化策が見られる。教兼は九人もの男子に恵まれ、彼らを領内の要衝である一迫、高泉、中新田、古川といった地に配置し、在地支配の楔とした 14 。さらに、伊達氏や黒川氏といった周辺の有力国人と積極的に姻戚関係を結び、同盟関係を構築することで、領国の安定化を図った 14 。
しかし、その支配は決して平穏無事なものではなかった。栗原郡三迫の富沢氏のように、大崎氏の支配に抵抗する在地領主との武力衝突も絶えなかった 14 。また、隣接する葛西氏との間では、国境地帯である遠田郡などを巡って度々紛争が発生しており、大崎氏の領国支配は、常に緊張関係の中で維持されていたのである 14 。それでもなお、室町時代を通じて大崎氏は奥州探題の権威を背景に、奥州における随一の名門として君臨し続けた。その権威の象徴こそが、本拠地である名生城であった。
応仁の乱を契機に室町幕府の権威が失墜すると、その影響は遠く奥州の地にも及んだ。幕府の権威を拠り所としてきた奥州探題職もまた、次第にその実質的な力を失い、形骸化していく。かつては奥州の諸大名を統率する立場であった大崎氏は、大崎五郡を支配する一地域権力、すなわち戦国大名へとその姿を変えざるを得なかった 15 。大崎氏が歩んだ戦国時代とは、まさに「権威」と「実力」の乖離に翻弄され、名門の誇りと厳しい現実との間で苦悩し続けた時代であった。
大崎氏の権威が揺らぐ一方で、南奥州では伊達氏が着実に実力を蓄え、勢力を拡大していた。両者の力関係が決定的に逆転する事件が、天文五年(1536年)に発生する。「天文の内乱」である。
この年、第11代当主・大崎義直に対し、氏家氏や古川氏といった有力家臣が反乱を起こした 17 。義直はこの内乱を自力で鎮圧することができず、当時、陸奥国守護職に任じられ飛ぶ鳥を落とす勢いであった伊達稙宗に援軍を要請するという屈辱的な選択を迫られた 17 。稙宗はこの好機を逃さなかった。援軍と引き換えに、自らの次男・義宣を高兼(義直の兄)の娘婿として大崎氏に送り込み、養嗣子とさせたのである 15 。これにより、大崎氏は事実上、伊達氏の支配下に組み込まれることとなり、その独立性は大きく損なわれた。
ところが、その伊達氏内部で、当主・稙宗とその嫡男・晴宗が対立する大規模な内紛、世に言う「天文の乱」が勃発する 15 。この巨大な渦に、大崎氏も否応なく巻き込まれていった。当主・義直は晴宗方に味方し、一方で養子として送り込まれていた義宣は、実父である稙宗を支持したため、大崎家中は二つに分裂して争うこととなった 15 。
約6年に及んだ乱は晴宗方の勝利に終わり、稙宗は隠居に追い込まれた。これにより、稙宗方であった義宣は大崎氏における立場を完全に失う。そして天文十九年(1550年)、義宣は実弟の葛西晴清を頼って逃れる途中、義直が差し向けた討手によって殺害されるという悲劇的な最期を遂げた 15 。この結果、大崎氏は伊達氏による乗っ取りという最悪の事態こそ免れ、義直の実子である義隆への家督継承の道が開かれた 19 。しかし、一度失われた権威と実力は回復せず、伊達氏への従属的な立場は変わることなく続いたのである。
大崎義隆の代になると、伊達氏の当主は若き伊達政宗へと代わっていた。義隆は、この状況を打開すべく、同族であり、妹(釈妙英)が嫁いでいた出羽の雄・最上義光と結び、伊達氏からの独立を模索する 15 。
天正十六年(1588年)、大崎氏の家臣・氏家吉継が政宗に救援を要請したことを口実に、政宗は約1万とも言われる大軍を率いて大崎領内へ侵攻した。これが「大崎合戦」である 22 。政宗は義隆の居城・名生城ではなく、防衛拠点の中新田城に攻め寄せた。しかし、大崎方は雪と湿地帯という地の利を活かして頑強に抵抗し、伊達軍の猛攻を頓挫させる 22 。さらに、当初は伊達方であった黒川晴氏が突如として大崎方へ寝返り、伊達軍の背後を襲ったことで戦況は一変した 11 。挟み撃ちにされた伊達軍は潰走し、大敗を喫したのである。
この合戦は、大崎氏が伊達政宗に一矢を報いた輝かしい勝利であった。しかし、その内実を冷静に分析すると、大崎氏の苦しい立場が浮き彫りになる。この勝利は、最上義光による5,000の援軍という強力な外部からの支援なくしてはあり得なかった 22 。もはや大崎氏は、単独で伊達氏の軍事的圧力に対抗する力を持っていなかったのである。この合戦は、大崎氏の防衛戦という側面と同時に、奥州の覇権を巡る伊達氏と最上氏の代理戦争という性格を色濃く帯びていた。大崎氏の勝利は、自らの実力によって勝ち取ったものというよりは、より大きな政治力学の狭間で、かろうじて得られた一時的な延命措置に過ぎなかったのである。
天正十八年(1590年)、豊臣秀吉は天下統一の総仕上げとして、関東の北条氏を攻める小田原征伐を敢行し、全国の諸大名に参陣を命じた。しかし、奥州探題大崎氏当主・大崎義隆は、この歴史的な大戦に参陣することができなかった 10 。これが、二百数十年続いた名門大崎氏の滅亡を決定づける直接的な引き金となった。
義隆がなぜ参陣できなかったのか。その背景には、長年にわたり大崎氏を圧迫し続けてきた伊達政宗の影がちらつく。政宗が意図的に大崎氏の参陣を妨害し、その旧領を我が物にしようと画策したという説は、これまでの両氏の複雑な関係性を鑑みれば、極めて説得力を持つ 23 。結果として、秀吉は小田原に参じなかった大崎氏に対し、奥州仕置において所領没収、すなわち改易という最も厳しい処分を下した 11 。義隆は上洛し、石田三成を通じて所領回復を嘆願したものの、時すでに遅く、戦国大名としての大崎氏はここに滅亡したのである 11 。
大崎氏の改易後、その旧領は秀吉の家臣である木村吉清に与えられた。しかし、新たな領主による急進的な検地や統治への反発から、旧大崎・葛西両氏の家臣や領民が蜂起し、大規模な一揆(葛西大崎一揆)が勃発した 3 。
一揆勢は瞬く間に旧領の主要拠点を制圧し、その中には大崎氏の旧居城であった名生城も含まれていた 25 。彼らはこの城を拠点の一つとし、一時的ながら旧領の統治権を回復するに至る 25 。こうして、主を失ったはずの名生城は、歴史の表舞台に再びその姿を現すことになった。
事態を重く見た豊臣政権は、会津の蒲生氏郷に一揆の鎮圧を命じた。氏郷はただちに軍を動かし、一揆勢の拠点となっていた名生城を攻略、これを占拠した 5 。しかし、ここから事態は単なる一揆鎮圧戦ではない、複雑な政治劇の様相を呈し始める。
作戦開始の前日、政宗の家臣である須田伯耆らが氏郷の陣を訪れ、「この一揆を裏で扇動しているのは伊達政宗である」と密告したのである 25 。この情報に、氏郷は政宗に対する強い疑念を抱いた。彼は、一揆勢だけでなく、背後にいるであろう政宗の動きを極度に警戒し、あえて名生城に兵を留め、籠城するという異例の行動に出た 24 。名生城は、この瞬間、豊臣中央政権の代理人である氏郷と、天下人の前でなお野心を隠さない奥州の雄・政宗とが、互いの腹を探り合い、睨み合う、緊迫した政治の最前線へと変貌したのである。
氏郷の警戒心は、政宗が一揆勢に包囲されていた木村父子を救出し、名生城まで送り届けた後も解けることはなかった 23 。氏郷は自軍の安全な帰還を保証するための人質を政宗に要求。これに対し政宗は、重臣中の重臣である伊達成実と叔父の国分盛重を人質として差し出すことで、ようやく氏郷を納得させた 25 。氏郷が名生城に籠城したまま越年するという異常事態を経て 24 、この緊迫した対峙はようやく終わりを告げた。
一揆の鎮圧後、論功行賞として旧大崎・葛西領は、一揆扇動の嫌疑がかけられながらも、最終的には伊達政宗に与えられた 25 。政宗は新たな本拠を岩出山城に定め、この地域の政治の中心はそちらへ移ることとなった。これにより、古代から続いた名生の地の歴史的役割は終わりを告げ、名生城もまた廃城となったと考えられている 3 。
しかし、城郭としての名生城の評価は、当時から非常に高かったことを示す逸話が残されている。一揆後、岩出山城を築城するにあたり、徳川家康やその重臣・榊原康政が、城の縄張り(設計)の参考とするために、わざわざ名生城に立ち寄ったと伝えられているのである 3 。これは、名生城が当時の最新の築城技術や戦略思想から見ても、優れた構造を持つ城であったことを示唆している。大崎氏滅亡後も、その居城は天下を代表する武将たちから注目されるほどの価値を有していたのである。
戦国時代の終焉と共にその軍事的な役割を終えた名生城は、現代において新たな価値を見出されている。昭和六十二年(1987年)8月17日、城跡一帯は「名生館官衙遺跡」として国の史跡に指定された 1 。これは、この地が単なる中世の城跡ではなく、7世紀末の古代官衙跡と一体となった複合遺跡であり、古代東北史を解明する上で欠かすことのできない学術的価値を持つことが認められたからに他ならない 1 。
城跡を歩けば、今なお歴史の息吹を感じることができる。かつて小館があった場所には、大崎氏が篤く信仰した大崎神社が鎮座し、地域の鎮守として人々の暮らしを見守っている 3 。また、北館跡には曹洞宗の名生山浄泉院が伽藍を構え、静かに時の流れを伝えている 3 。これらの寺社は、名生城の記憶を現代に受け継ぐ生きた証人と言えるだろう。
大崎市教育委員会などを中心に、この地では継続的な発掘調査が行われている 27 。これまでの調査により、大館を区画していたとみられる巨大なV字型の溝の発見や 8 、古代から中世にかけての土器などの遺物が出土しており 30 、文献資料だけでは知り得なかった名生の歴史が少しずつ明らかになりつつある。しかし、広大な城域の多くは未だ調査の手が及んでおらず、今後の調査によって、大崎氏時代の城郭の具体的な姿や、古代官衙との関係性について、新たな発見がなされることが大いに期待される。
名生城の歴史は、一つの城の物語に留まらない。それは、古代律令国家による東北経営に始まり、奥州探題という名門の栄光、戦国の動乱の中での権威と実力の乖離に苦悩する姿、そして天下統一という巨大な波に飲み込まれ終焉を迎えるまで、まさに奥州の歴史そのものの縮図である。古代と中世、中央と地方、権威と実力、そして栄光と悲劇。これほど多様で重層的な歴史をその内に秘めた史跡は、全国的にも稀有な存在である。だからこそ名生城は、訪れる我々に多くのことを語りかけ、日本の歴史の奥深さを教えてくれる第一級の歴史遺産なのである。