最終更新日 2025-08-23

周防高森城

周防高森城の興亡:戦国西国の地政学と城郭技術の変遷

序論:周防高森城の歴史的座標

山口県岩国市美和町生見、静かな山間に佇む周防高森城跡は、標高412メートルの山頂に築かれた中世の山城です 1 。その歴史は、西国に覇を唱えた周防の大内氏、そしてその後に取って代わった安芸の毛利氏という、二つの巨大勢力の興亡と密接に結びついています 3 。一見、地方の一城郭に過ぎないように見えるこの城も、その歴史を深く掘り下げることで、戦国時代の激しい権力闘争と戦略思想の変遷を映し出す、極めて重要な歴史の証人であることが明らかになります。

本報告書は、周防高森城を単独の史跡としてではなく、15世紀半ばから16世紀後半にかけての周防・安芸国境地帯における地政学的な要衝として捉え直すことを目的とします。具体的には、大内氏による「安芸進出の尖兵」としての役割から、毛利氏による「防長支配の楔」へと、その戦略的性格が劇的に変貌した歴史の転換点に焦点を当てます。城郭の構造変化、城主の交代、そして周辺勢力の動向を多角的に分析することで、高森城が単なる軍事拠点に留まらず、時代の要請を体現し続けた戦略的資産であったことを論証します。この城の盛衰の物語は、戦国西国のダイナミズムそのものを解き明かす鍵となるでしょう。

第一章:築城の背景 — 乱世の国境に立つ要害

第一節:室町中期の周防・安芸情勢

高森城が築かれたとされる宝徳元年(1449年)頃、日本各地では守護大名間の抗争が激化し、中央の室町幕府の権威は揺らぎ始めていました 4 。この時代、周防・長門国(現在の山口県)を本拠とする大内氏は、大陸との貿易を掌握し、文化・経済の両面で西国随一の勢力を誇っていました。しかし、その東方に位置する安芸国(現在の広島県西部)は、大内氏にとって常に不安定要因を抱える地でした。

安芸国は、大内氏の影響下にある国人衆と、山陰から勢力を伸ばす出雲の尼子氏に与する国人衆が混在し、両者の間で絶えず小競り合いが繰り返される係争地でした 5 。特に15世紀から16世紀にかけて、尼子氏は安芸国への介入を強め、大内氏との覇権争いは激化の一途をたどります 7 。大内氏にとって、安芸国を完全に勢力下に置くことは、東方への勢力拡大と、本拠地である周防の安全保障を確実にするための至上命題でした。

この戦略を遂行する上で、周防・安芸の国境地帯は、文字通り最前線となります。安芸国内の味方勢力への迅速な援軍派遣、敵対勢力への電撃的な軍事行動、そして尼子軍の周防侵攻に対する防衛網の構築、これらすべてを実現するためには、国境付近に強固な橋頭堡を確保することが不可欠でした 8 。高森城の築城は、まさにこの軍事的・戦略的要請に応える形で計画されたものと考えられます。それは単なる防衛拠点ではなく、安芸国への影響力を確固たるものにするための、大内氏の積極的な東方戦略の象徴だったのです。

第二節:地政学的要衝としての立地

高森城が築かれた場所は、当時の戦略思想を如実に物語っています。城は、生見川中流域に広がる谷底平野の西側にそびえる山地に立地しており、眼下の平野部を一望できる絶好の位置にあります 1 。この立地は、敵軍の侵攻をいち早く察知し、迎撃態勢を整える上で圧倒的な優位性をもたらしました。さらに、平野部を通過する人や物資の動きを完全に掌握できるため、情報収集や兵站管理の拠点としても理想的でした。

さらに重要なのは、城の近傍を、京都と九州を結ぶ当時の大動脈「西国街道(旧山陽道)」が通過していたことです。街道沿いには高森宿という宿場町も形成されており、この地域が交通の要衝であったことを示しています 10 。西国街道を抑えることは、軍隊の移動を迅速化し、敵の補給路を断つことを可能にするだけでなく、商業・物流を支配下に置くことにも繋がり、経済的にも極めて大きな意味を持ちました。高森城は、この西国街道という戦略的インフラを直接的、あるいは間接的に威圧し、支配するための拠点として、意図的にこの場所に築かれたのです。

このように、高森城の立地選定は、単に地形的な険しさだけを求めたものではありませんでした。それは、眼下の平野という「面」と、西国街道という「線」を同時に支配下に置くための、計算され尽くした地政学的判断の結果でした。築城の時点から、この城は受動的な「守り」の城ではなく、安芸国への軍事行動を支える兵站基地、情報収集拠点、そして交通路支配の要という、極めて能動的で「攻め」の性格を帯びた戦略拠点として構想されていたと結論付けられます。

第二章:大内氏の尖兵 — 岐志氏と草創期の高森城

第一節:築城主・岐志氏の実像

高森城の築城主として、その名を史料に留めるのが、大内氏の家臣・岐志四郎左衛門通明(きし しろうざえもん みちあき)です 3 。『防長風土注進案』などの記録によれば、宝徳元年(1449年)頃、通明によってこの城が築かれたとされています 4 。岐志氏一族からは、通明の他に岐志左馬之介通之といった人物の名も伝わっており、彼らは大内氏の安芸経略の最前線を担う、国境の守将として重用されていたと考えられます 3 。大内氏という巨大な権力組織の末端にあって、その東方への膨張政策を実地で担う、重要な役割を果たした武士団でした。

しかし、岐志氏の運命は、主家である大内氏の内部崩壊によって暗転します。天文20年(1551年)、大内氏の重臣であった陶晴賢(当時は隆房)が主君・大内義隆に対して謀反を起こし、義隆を自刃に追い込む「大寧寺の変」が勃発します。この政変により、大内家の実権は陶晴賢が握ることになりました。多くの大内家臣がそうであったように、岐志氏もまた、この新たな権力構造に従わざるを得なかったと推測されます 2

その後の岐志氏の動向は、時代の大きなうねりに翻弄されることとなります。天文23年(1554年)、陶晴賢と、急速に台頭してきた安芸の毛利元就との間で行われた「折敷畑の戦い」において、築城主・通明の孫にあたる岐志甲斐守が、陶軍の部将・宮川房長の配下として出陣し、毛利軍との激戦の末に討死しました 3 。そして翌天文24年(1555年)、歴史的な「厳島の戦い」で陶晴賢が毛利元就に決定的な敗北を喫し、自刃したことで、陶氏の支配体制は崩壊します。主家を内部から崩壊させた陶氏に与した岐志氏は、その没落と共に力を失い、高森城の支配権も手放すことになったと考えられます。国境を守るために築いた城は、主家の内乱と新興勢力の台頭という激動の中で、その築城主一族の手を離れていきました。

第二節:創建当時の城郭構造の推定

毛利氏による後の大規模な改修が行われる以前、岐志氏が城主であった創建当初の高森城は、比較的簡素で小規模な城砦であったと推定されています 2 。その構造は、山頂部に位置する本丸(主郭)と、それに隣接して防御を固めるいくつかの曲輪(くるわ)から成っていたと考えられます。これは、恒久的な支配拠点というよりも、あくまで安芸方面への軍事行動を支援するための前線基地、あるいは国境の監視所としての機能に特化した、実用本位の造りであったことを示唆しています。

この時期の城は、大規模な石垣などを多用するものではなく、山の自然地形を巧みに利用し、土を削り、盛り上げることで造成された切岸(きりぎし)や土塁(どるい)、そして尾根を断ち切る堀切(ほりきり)などを主たる防御施設としていたでしょう。その目的は、少数の兵力で効率的に敵の攻撃を防ぎ、可能な限り長く持ちこたえること、そして狼煙(のろし)などを用いて後方の本拠地へ敵の侵攻を知らせることにありました。岐志氏時代の高森城は、華やかさとは無縁の、戦国の国境に立つにふさわしい、質実剛健な砦であったと想像されます。この草創期の城郭の上に、後の毛利氏が新たな時代の要請に応じた改修を重ねていくことになるのです。

第三章:毛利氏の経略拠点 — 坂氏と城の大改修

第一節:城主・坂元祐の生涯と役割

岐志氏に代わり、高森城の新たな主となったのは、毛利氏の家臣・坂新五左衛門元祐(さか しんござえもん もとすけ)でした 2 。彼の経歴は、戦国武将らしい波乱に満ちたものでした。元祐はもともと毛利氏の庶流である坂氏の出身でしたが、大永4年(1524年)、一族が毛利元就の異母弟・相合元綱を担いでクーデターを企てたものの失敗し、誅殺されるという事件が起こります。この時、元祐は難を逃れ、大内氏傘下の安芸国人・平賀隆宗のもとに身を寄せていました 13 。つまり、彼は一度毛利家を離反し、敵対勢力に属した過去を持つ人物だったのです。

しかし、平賀隆宗の死後、元祐は毛利元就にその罪を赦され、毛利家への帰参を果たします 13 。そして、彼の運命を大きく変えたのが、天文24年(1555年)の厳島の戦いでした。この合戦で元祐は群を抜く武功を挙げ、その働きは毛利元就の嫡男・隆元から感状を与えられるほどでした 13 。元就は、元祐の過去を問うことなく、その実力と忠誠心を高く評価しました。そして、厳島の戦いに勝利し、大内氏の領土である周防・長門への侵攻(防長経略)を開始するにあたり、元就は元祐に極めて重要な任務を与えます。それが、玖珂郡山代地方の平定と、その拠点となる高森城の城主への任命でした 3

この抜擢は、毛利元就の卓越した人物眼と政治手腕を示す好例と言えます。一度は敵方に身を寄せた人物であっても、能力を示し忠誠を誓う者には重要な役割を与えることで、旧大内方の勢力を恐怖で支配するのではなく、巧みに自らの体制に組み込んでいこうとする元就の深謀遠慮が見て取れます。高森城主となった元祐は、その期待に応え、城を拠点として抵抗勢力であった山代一揆を鎮圧し、この地方に毛利氏の支配を確立しました 3 。高森城は、元祐の統治下で、旧大内領を安定させるための「楔」として機能したのです。

元祐の活躍は山代地方に留まりませんでした。彼はその後も毛利軍の主力として、九州における大友宗麟との戦いにも出陣し、豊前松山城や博多を抑える要衝・立花山城を攻略するなど、毛利氏の筑前国支配の中心人物として重きをなしました 13 。しかし、天正3年(1575年)に元祐が没し、跡を継いだ嫡子・宮千代も夭折、さらにその弟も幼少であったため、坂氏による山代の統治は終わりを告げました 3 。一人の武将の生涯は、毛利氏の勢力拡大の歴史そのものを体現するものでした。

第二節:毛利氏による城郭の拡張と整備

坂元祐が城主として入城した後、高森城は毛利氏の手によって大規模な改修と拡張を受けました。城の範囲は南北約390メートル、東西約280メートルに及び、現在見られる城跡の姿は、この時代に形成されたと考えられています 2 。この大改修の目的は、岐志氏時代の前線基地としての性格から脱却し、一帯を恒久的に支配するための地域拠点へと、城の機能を根本的に変革することにありました。

この改修で特筆すべきは、防御思想の進化です。まず、城内の各所で石積みが多用されるようになり、曲輪の防御力が格段に向上しました 3 。土を削り出しただけの切岸に比べ、石積みで補強された切岸は崩れにくく、より急峻な角度を保つことができます。これは、城の防御力を高める上で非常に効果的でした。

さらに重要なのが、戦国時代後期に発達した先進的な築城技術の導入です。特に、城の南側尾根に設けられた「畝状竪堀群(うねじょうたてぼりぐん)」や、北側尾根に見られる「連続竪堀」は、毛利氏の築城術の特徴を色濃く反映しています 3 。竪堀とは、山の斜面に対して垂直に掘られた空堀のことで、斜面を登ってくる敵兵の動きを阻害する目的で造られます。畝状竪堀群は、この竪堀を何本も並列させることで、敵兵が斜面を横に移動することを困難にし、動きを特定の場所に集中させて城内からの攻撃を容易にする、極めて効果的な防御施設でした。これらの遺構は、鉄砲の普及などにより合戦の形態が集団戦へと移行した時代に対応したものであり、毛利氏が高森城をいかに戦略的に重要視し、最新の軍事技術を投入したかを雄弁に物語っています。

第四章:城郭構造の徹底解剖 — 高森城の縄張と防御思想

第一節:曲輪群の構成と機能

毛利氏による改修後の高森城の縄張り(城の設計)は、機能的に分化した三つの主要な区画によって構成されています 2 。この構造は、城が持つ多面的な役割を効率的に果たすための、合理的な設計思想に基づいています。

  1. 中心曲輪群: 城の心臓部にあたるのが、山頂の本丸(主郭I1)を中心に、そこから南北に伸びる尾根上に段々に配置された曲輪群です 3 。本丸には城主の居館や司令部が置かれ、その周囲の曲輪には兵士たちの詰所や食糧・武具を保管する蔵などが設けられていたと考えられます。城全体の指揮を執り、籠城戦の際には最終防衛ラインとなる、最も重要な区画です。現在、本丸の北東隅には後世のお堂が祀られていますが、その周辺には城の中枢部としての機能が凝縮されていました 3
  2. 西側曲輪群: 山頂の中心部から西側の尾根筋に展開するのが西側曲輪群(曲輪群IV)です 3 。この区画には東西二段の曲輪が確認でき、西の先端には石積みが、また北西に伸びる支尾根には二重の堀切であった可能性のある地形が残っています 3 。中心部を防衛するための前衛的な役割を担い、西方面からの敵の接近を警戒・迎撃するための拠点であったと推測されます。
  3. 北側曲輪群: 城の大手(正面玄関)にあたるのが、北側の尾根の先端に位置する北側曲輪群(曲輪V)です 3 。現在の登城口や駐車場が整備されている辺りがこの区画にあたり、城への出入りを管理する重要な場所でした 2 。平時には物資の搬入や人の往来の拠点となり、戦時には敵の主たる攻撃目標となるため、厳重な防御が施されていたと考えられます。

これら三つの曲輪群は、それぞれが独立した機能を持ちつつも、有機的に連携することで城全体の防御力を高めていました。この巧みな区画構成は、高森城が単なる砦ではなく、地域支配の拠点として複合的な機能を持つ、高度に設計された城郭であったことを示しています。

第二節:防御遺構に見る戦術思想

高森城に残る防御遺構は、戦国時代後期の戦闘、特に山城における攻防戦の実態を具体的に示唆する貴重な資料です。その中でも、斜面を駆け上がってくる敵兵をいかに効率的に食い止めるかという点に、設計者の明確な戦術思想が表れています。

高森城の防御システムを象徴するのが、斜面を無力化するために多用された竪堀です。特に南尾根の先端に設けられた「畝状竪堀群1」は圧巻です 3 。これは、山の斜面に畑の畝のように何本もの竪堀を並行して掘り込むことで、敵兵が集団で一気に駆け上がることを物理的に不可能にします。兵士たちは堀と土塁の連続する障害物を乗り越えなければならず、その間に速度と隊列の統制を失います。動きが鈍り、横方向への移動が制限された敵兵は、城の上方からの弓矢や鉄砲による格好の的となりました。同様に、北尾根にも二条の連続竪堀4や竪堀群5といった複数の縦溝が確認でき、敵の侵攻ルートを意図的に限定し、防御側の戦力を集中させるための工夫が見られます 3

尾根筋を直線的に進んでくる敵に対しては、尾根を断ち切るように掘られた「堀切」が有効な障害物となりました 3 。敵は一度堀の底まで下り、再び急斜面を登らなければならず、その間に大きな損害を被ることになります。また、主郭の側面や曲輪I6の斜面など、城内の随所に見られる石積みは、曲輪の土留めとしての機能だけでなく、切岸の角度をより急峻に保ち、敵が容易によじ登れないようにするための補強でした 3

さらに興味深いのは、曲輪IIと曲輪IIIで炭窯の跡が確認されている点です 3 。これは、長期間の籠城戦に備えて、暖房や炊事、武具の修理などに不可欠な燃料(木炭)を城内で自給自足していた可能性を示唆しています。あるいは平時から兵站活動の一環として木炭生産が行われていたのかもしれません。いずれにせよ、高森城が単なる戦闘拠点ではなく、自活能力をも備えた総合的な軍事施設として構想されていたことを示す痕跡です。

高森城の防御遺構群は、個々の兵士の武勇に頼る戦いから、地形と構造物を最大限に活用した組織的な集団戦法へと移行した、戦国時代後期の戦術思想を体現しています。それは、この城を改修した毛利氏が、数多の合戦経験から得た実践的な築城ノウハウを投入した結果であり、戦国時代の城郭技術の進化を示す貴重な標本と言えるでしょう。


表1:周防高森城の主要遺構と想定される機能

遺構の名称

位置

構造的特徴

想定される機能・目的

関連資料

中心曲輪群(本丸含む)

山頂部

複数の段状曲輪で構成。一部に後世の改変あり。

城の中枢部。司令塔、兵の駐屯、物資の集積。

2

畝状竪堀群

南尾根先端

尾根筋に複数の竪堀を並列して造成。

尾根を伝う敵兵の集団移動を阻害し、側面からの攻撃を容易にする。毛利氏の特徴的な築城術。

3

連続竪堀・竪堀群

北尾根

二条の連続した竪堀や複数の縦溝。

敵の侵攻ルートを限定し、防御を集中させる。

3

石積

主郭側面、曲輪I6側面など

崩落を防ぎ、切岸の角度を維持するための石垣。

曲輪の補強、防御力の向上。

3

堀切

尾根筋各所

尾根を遮断する形で掘られた空堀。

尾根伝いの敵の進軍を阻止する。

3

炭窯跡

曲輪II、曲輪III

曲輪内に確認される窯の跡。

籠城時の燃料(木炭)生産、または平時の産業活動の痕跡。

3


第五章:周辺城郭との関係網 — 防長経略における高森城

第一節:防長経略の序盤戦 — 鞍掛山城と蓮華山城の攻防

高森城の歴史的役割を理解するためには、毛利氏による周防侵攻、すなわち「防長経略」の文脈の中に位置づける必要があります。厳島の戦いで陶晴賢を討ち取った毛利元就は、間髪入れずに周防国へと軍を進めます。その緒戦の舞台となり、防長経略の行方を占う上で象徴的な戦いとなったのが、高森城の西方、玖珂盆地に位置する鞍掛山城(くらかけやまじょう)を巡る攻防でした 15

当時の鞍掛山城主は、大内氏の重臣であった杉隆泰(すぎ たかやす)でした。そして、その鞍掛山城と目と鼻の先にある蓮華山城には、椙杜隆康(すぎのもり たかやす)が拠っていました 18 。この両者は、同じ地域の国人領主でありながら、かねてより険悪な仲であったと伝えられています 16 。毛利軍が周防に侵攻してくると、蓮華山城主の椙杜はいち早く毛利への内通を決め、恭順の意を示します。一方、鞍掛山城主の杉も、大勢を察して毛利への降伏を模索していたとされます。しかし、ここで両者の不仲が悲劇を生みます。椙杜は元就に対し、「杉の降伏は偽りであり、毛利の内部を探るための策略である」と讒言したのです 16

元就はこの情報を巧みに利用し、椙杜を道案内として鞍掛山城を急襲します。椙杜の手引きによって防御の薄い城の裏手(搦手)から攻め込まれた杉隆泰は、不意を突かれながらも奮戦しますが、衆寡敵せず討死し、鞍掛山城は落城しました(鞍掛合戦) 15 。この戦いは、毛利元就が、敵対勢力内部の対立や人間関係を巧みに利用して調略を仕掛け、最小限の損害で勝利を収めていく、彼の得意とする戦術の典型例でした。それはまた、旧来の国人領主たちが、毛利という新たな統一権力の前に、個々の私情や対立によって各個撃破されていく時代の転換点を象徴する出来事でもありました。

第二節:地域の城郭ネットワークにおける役割

鞍掛山城の攻防が、毛利氏による周防「制圧」の始まりを告げる戦いであったとすれば、その後に坂元祐が統治した高森城は、制圧した地域を安定的に「統治」するための拠点へと、その役割をシフトさせていきました。この二つの城の役割の対比は、毛利氏の支配戦略の段階的な移行を明確に示しています。

鞍掛山城や蓮華山城は、安芸国との国境に最も近い最前線に位置し、直接的な戦闘の舞台となりました。これに対し、やや後方に位置する高森城は、これらの最前線の城々を後方から支援し、兵站を確保し、そして山代地方全体の支配を盤石にするための司令塔としての機能を担ったと考えられます。つまり、この地域の城郭は、それぞれが孤立した「点」として存在していたのではなく、毛利氏の広域的な支配戦略の下で、役割を分担する一つの「城郭ネットワーク」を形成していたのです。

高森城は、このネットワークの中核に位置し、軍事的圧力と行政的支配の両面から地域を統括する拠点でした。坂元祐が山代一揆を鎮圧できたのも、高森城という強固な拠点と、それを支える毛利本体からの支援体制があったからに他なりません。鞍掛山城の悲劇が、旧時代の国人領主世界の終焉を象徴するものであるならば、坂元祐による高森城統治は、毛利氏という新たな戦国大名による領域支配体制、すなわち「新時代の統治」の始まりを告げるものでした。高森城は、まさにその歴史の過渡期の最前線に立ち、新たな支配秩序を確立するための礎となったのです。

結論:戦国の動乱を映す山城の遺産

周防高森城の歴史は、15世紀半ばの大内氏による東方拡大戦略にその端を発し、16世紀半ばに起こった大内氏の劇的な崩壊と毛利氏の台頭という、西国史における最大の地殻変動を経て、毛利氏による新たな支配体制が確立されるに至るまでの、約130年間にわたる動乱の時代を凝縮しています。その存在と構造の変化は、時代の変遷を雄弁に物語る第一級の史料と言えるでしょう。大内氏の安芸進出を支える「攻め」の拠点から、毛利氏の防長支配を盤石にする「守り・治め」の拠点へとその役割を変貌させた軌跡は、戦国時代という時代の要請そのものでした。

築城主・岐志氏は主家の内乱に翻弄され没落し、二代目の城主・坂元祐は一度は主家を離反しながらも武功によって返り咲き、新時代の支配者毛利氏の尖兵として活躍しました。彼らの生涯は、高森城という舞台の上で繰り広げられた、戦国武将たちの野心と苦悩、そして時代の大きなうねりに翻弄される人間のドラマを我々に伝えてくれます。

現在、高森城跡は岩国市の史跡に指定され、登山道が整備されるなど、歴史を学ぶ場として地域に親しまれています 2 。城跡に明瞭に残る畝状竪堀群や石積、複雑な曲輪の配置は、戦国時代後期の卓越した築城技術と、その背景にある戦術思想を具体的に知る上で、極めて貴重な歴史遺産です。本報告書で論じたような、城の背後にある政治的・戦略的文脈を理解した上でこの地を訪れるとき、我々は単なる石や土の痕跡から、そこに生きた武将たちの息遣いと、西国の歴史を動かした時代のダイナミズムを肌で感じ取ることができるのです。

公式な発掘調査はまだ行われていないものの 1 、将来的な調査によって、創建当初の姿や毛利氏による改修の具体的な様相がさらに明らかになる可能性も秘めています。周防高森城は、今後も我々に戦国時代の真実を語り続けてくれる、重要な歴史の証人であり続けるでしょう。

引用文献

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  2. 岩国の城めぐり〜高 森城〜 - 岩国市 https://www.city.iwakuni.lg.jp/uploaded/attachment/43667.pdf
  3. 周防 高森城[縄張図あり]-城郭放浪記 https://www.hb.pei.jp/shiro/suo/takamori-jyo/
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  5. 大內氏 大内氏は、百済王族に出自を持つと伝えられ、平安時代には周防国府の有 - 東広島市 https://www.city.higashihiroshima.lg.jp/material/files/group/148/83431_189489_misc.pdf
  6. 大內氏 大内氏は、百済王族に出自を持つと伝えられ、平安時代には周防国府の有 - 東広島市 https://www.city.higashihiroshima.lg.jp/material/files/group/86/kagamiyamajoato.pdf
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  8. 岩国城(周防国/山口県) - 日本の城写真集 https://castle.jpn.org/suou/iwakuni/
  9. 岩国 いわくに - 戦国日本の津々浦々 ライト版 - はてなブログ https://kuregure.hatenablog.com/entry/2022/08/15/184633
  10. 西国街道16 宮浜宿→高森宿|樋口誠司/時速4kmの世界 - note https://note.com/sh173/n/n93132b4f4f7f
  11. 山口県岩国市 高森宿跡 | 試撃行 https://access21-co.xsrv.jp/shigekikou/archives/18863
  12. 山陽道・周防高森~徳山|街道を歩く旅 ウォーキング記録 https://kaidoaruki.com/area_chugoku/sanyodo/sanyoudo015.html
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  15. 鞍掛城 ちえぞー!城行こまい http://chiezoikomai.umoretakojo.jp/chugoku/yamaguti/kurakake.html
  16. 鞍掛山城跡(山口県岩国市玖珂町)の歴史、観光情報、所在地 ... https://suoyamaguchi-palace.com/sue-castle/kurakakeyama-castle/
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  18. 蓮華山 (れんげさん):576m - 山と溪谷オンライン https://www.yamakei-online.com/yamanavi/yama.php?yama_id=20067
  19. 蓮華山城跡(山口県岩国市玖珂町)の歴史、観光情報、所在地 ... https://suoyamaguchi-palace.com/sue-castle/rengezan-castle-ruins/