最終更新日 2025-08-18

城井谷城

豊前の要害、城井谷城は秀吉の九州平定に抵抗し、黒田官兵衛を苦しめた。武力では屈せぬも謀略により城主・鎮房は滅び、その悲劇は怨霊伝説として今に語り継がれる。

天然の要害 城井谷城-豊前宇都宮氏四百年の栄光と悲劇-

序章:難攻不落の城、悲劇の城主

日本の城郭史において、城井谷城(きいだにじょう)は特異な光彩を放つ存在である。それは、豊臣秀吉の天下統一事業の最終段階において、稀代の軍師と謳われた黒田官兵衛孝高(よしたか)とその嫡男・長政が率いる大軍の猛攻を、その堅牢さをもって悉く退けた「難攻不落の城」としての輝かしい武名である 1 。しかし、その武功の裏側には、武力では決して屈しなかった城主一族が、謀略の前に脆くも崩れ去り、根絶やしにされるという凄惨な悲劇が深く刻まれている 1

本報告書は、戦国時代という激動の時代を背景に、この城井谷城を多角的に分析するものである。単なる城郭の構造や合戦の経緯を追うに留まらず、城主であった豊前宇都宮氏(城井氏)四百年の歴史、城の構造に秘められた在地領主としての思想、そして中央集権化の巨大な波に翻弄された一族の運命を、詳細かつ徹底的に調査・考察する。武力では落ちず、謀略によって滅んだというこの城の物語は、戦国時代の終焉と近世大名権力の確立という、時代の大きな転換点を象徴する一つの縮図と言えるだろう。

第一部:城郭と城主

第一章:天然の要害-城井谷城の地勢と構造

地理的特徴と全体像

城井谷城は、現在の福岡県築上郡築上町、英彦山(ひこさん)系の修験の山として知られる求菩提山(くぼてさん)の西麓に広がる城井谷の最奥部にその跡を残す 4 。周囲を断崖絶壁の岩山に囲まれたこの地は、人の手を加える以前から、まさに天然の要害を形成していた 4

一般に「城井谷城」という名称は、単一の城郭建築を指すものではない。むしろ、城井谷全体に点在する防御施設群の総称と理解するのが適切である。その中核を成すのが、有事の際の籠城拠点として機能した「城井ノ上城(きいのこじょう)」であり、これは「萱切城(かやきりじょう)」とも呼ばれる山城である 1 。江戸時代の儒学者・貝原益軒(かいばらえきけん)が編纂に関わった『城井谷絵図』には、この城が「城井盾籠所(きいたてこもりしょ)」と記されている 7 。この記述は、城井ノ上城が恒常的な政庁や居館ではなく、戦乱の際に領民と共に避難し、立て籠もることに特化した施設であったことを明確に示唆している。

この城郭群の構造は、同時代の他の城に見られるような、権威を誇示するための天守や壮麗な石垣を持たない。この事実は、城井氏の統治思想を考察する上で極めて重要である。約四百年にわたりこの地を治めた彼らの権力基盤は、中央から派遣された支配者のような視覚的な権威の象徴ではなく、土地との深い結びつきと、領民からの支持にあったと考えられる。城の構造は、権威を示すためではなく、領民ごと谷に籠もり、地の利を最大限に活かして敵を撃退するという、極めて現実的で防衛に特化した思想を反映しているのである 2 。すなわち、城井谷城の構造は、城井氏が単なる「支配者」であると同時に、領民共同体の「防衛者」であったことを物語る物理的な証左と言えよう。

また、「城井谷城」という呼称が指し示す対象の多義性も指摘できる。『城井谷絵図』では、籠城施設としての「城井ノ上城」、本城機能を持った「城井城(大平城)」、そして平時の居館跡などが明確に区別して描かれている 7 。このことから、「城井谷城」という呼称は、特定の建造物を指す固有名詞としてよりも、城井氏が拠点とした城井谷全体の「要塞化された地域」を指す広義の概念として用いられていた可能性が高い。この理解は、後に黒田軍が単一の城を攻めあぐねたのではなく、谷全体に張り巡らされた防御網とゲリラ戦術の前に敗北したという、戦いの実態をより正確に捉える上で不可欠な視点である。

特異な防御施設

城井谷城の防御システムは、自然地形を最大限に利用した独創的なものであった。

  • 三丁弓の岩(さんちょうゆみのいわ)
    城井谷への入口に立ちはだかるようにそびえる独立した巨岩であり、最前線の天然城門として機能した 5。沢との間に道一本分の隙間が開いているのみで、わずか三張りの弓(弓兵三人)で守りを固めることができたという伝承から、この名が付けられた 2。敵の大軍にとって、ここは最初の、そして極めて厄介な障害となったであろう。
  • 表門・裏門
    城井ノ上城の出入り口は、人工的に築かれた門ではなく、巨岩が重なり合ってできた隙間や、岩が作り出した天然のアーチそのものであった 5。特に表門は、屈強な武者でも腰をかがめなければ通り抜けられないほど狭隘であり、一度に一人ずつしか進入できない構造は、攻め手にとって致命的であった 6。一方の裏門は、ほぼ垂直の断崖に鉄鎖と足をかける窪みが設けられているだけであり、これを登攀しての攻撃は不可能に近かった 6。
  • 城内の構造と周辺支城群
    城内は、一般的な山城に見られるような明確な曲輪(くるわ)の配置が確認しづらく、渓流が流れる谷そのものが城域となっている 6。これは、正規軍による大規模な攻城戦を想定した設計ではなく、地形に精通した城兵によるゲリラ戦や長期籠城に特化した構造であることを示している 5。

    さらに、城井谷の防衛システムは、城井ノ上城単体で完結するものではなかった。平時の居館であったとされる松丸の館跡 11、本城と目される大平城 7、そして東の中津方面からの攻撃に備えた釜倉城や、前線の出城としての役割を担った赤幡城など、複数の支城が谷の各所に配置されていた 7。これらの城砦群が有機的に連携し、城井谷全体を一個の巨大な要塞として機能させていたのである。

第二章:城井谷の主-豊前宇都宮四百年の系譜

起源と発展

城井谷を拠点とした城井氏の祖は、下野国(現在の栃木県)を本拠とした関東の名門・宇都宮氏の一族、宇都宮信房に遡る 12 。信房は源頼朝に仕え、源平合戦で活躍した功により、文治元年(1185年)ないし建久六年(1195年)頃、豊前守護に任じられた 6 。豊前の城井郷に居を定めたことから、その子孫は土着して「城井氏」を名乗るようになった 15

以来、約四百年の長きにわたり、城井氏は豊前国における大身の領主としてその勢力を保ち続けた。南北朝の動乱期には足利尊氏に味方し、その功績によって筑後・豊前両国の守護に補任されるなど、九州における有力武家として確固たる地位を築いた 13

戦国期の生存戦略

戦国時代に入ると、城井氏は西に周防の大内氏、東に豊後の大友氏という二大戦国大名に挟まれるという、極めて厳しい地政学的状況に置かれた 17 。一族の存続を図るため、彼らは巧みな外交戦略を展開する。当初は大内義隆に属していたが、天文二十年(1551年)に義隆が家臣の陶晴賢(すえはるかた)の謀反によって非業の死を遂げると、豊前へ勢力を伸長してきた大友宗麟に服属した 18 。さらに、天正六年(1578年)の耳川の戦いで大友氏が薩摩の島津氏に歴史的な大敗を喫し、その勢力が衰退すると、今度は島津義久に属するという、時勢を見極めた巧みな処世術を見せた 6

最後の当主・城井鎮房

城井氏第十六代当主であり、最後の城主となったのが城井鎮房(きいしげふさ)、またの名を宇都宮鎮房である。天文五年(1536年)に生まれ、怪力無双で強弓の使い手として知られた猛将であったと伝えられる 18 。彼は大友宗麟の妹を正室に迎え、宗麟から「鎮」の一字を拝領して「鎮房」と名乗るなど、一時は大友氏と極めて深い姻戚関係を結んでいた 18

城井(宇都宮)氏には、神功皇后の三韓征伐に由来するとも伝えられる、一子相伝の神聖な弓術儀式「艾蓬(がいほう)の射法」が継承されていた 18 。これは桑の弓と蓬の矢を用いて吉凶を占い、邪気を払い、戦勝を祈願する秘儀であり、室町時代には将軍家の御前で披露されることもあったという 13 。鎮房はこの秘儀の正統な継承者であり、この事実は、彼が自らを単なる一地方武将ではなく、神聖な伝統を担う特別な存在と認識していたことを示唆している。

鎮房が、後に豊臣秀吉から提示された、石高ではるかに優遇される伊予への国替えを頑なに拒絶した背景には、こうした精神的な支柱があった。彼の抵抗の根源は、単なる経済的利益の比較衡量では測れない。四百年続く「父祖伝来の地」への深い愛着と、鎌倉以来の名門・宇都宮氏の嫡流としての強烈な自負心である 2 。秀吉という成り上がりの天下人から、まるで物のように所領を取り上げられ、移転を命じられることは、彼の誇りとアイデンティティそのものを根底から否定されるに等しい、耐え難い屈辱であったに違いない。

第二部:動乱と滅亡

第三章:風雲急-豊臣政権と九州平定

豊臣秀吉の天下統一政策

天正十四年(1586年)、天下統一の総仕上げとして、豊臣秀吉は島津氏の討伐を名目に九州平定を開始した 21 。秀吉の政策の根幹には、全国の大名に対し、大名間の私的な合戦を禁じ、領国の境界確定をはじめとする一切の紛争解決を秀吉自身の裁定に委ねさせる「惣無事令(そうぶじれい)」があった 22 。これは、己の武力によって領地を切り拓いてきた旧来の在地領主の自律性を根本から否定する、画期的な政策であった。

九州平定後、秀吉は「国分け」と呼ばれる大規模な所領の再編を断行する。これは、服従した大名や国衆を旧来の所領から引き離し、新たな土地へ移封(転封)させることで、地域的な深い結びつきを断ち切り、豊臣政権への直接的な支配従属関係を全国に構築することを目的としていた 23

黒田官兵衛の豊前入部と城井氏への処遇

天正十五年(1587年)、九州平定が完了すると、秀吉の軍師として多大な功績を挙げた黒田官兵衛孝高が、豊前国のうち六郡、十二万石の領主として入部し、新たな拠点として中津城の築城を開始した 2

一方、城井鎮房は、九州平定への協力が不十分であったと見なされていた。島津氏との決戦に際し、病と称して自身は出馬せず、嫡男の朝房(ともふさ)に僅かな手勢を預けて参陣させただけであったため、秀吉の不信を招いたのである 6 。その結果、秀吉は鎮房に対し、父祖伝来の城井谷(推定三万石)から、四国の伊予十二万石への「栄転」という名目での国替えを命じた 2

この処遇は、豊臣政権の九州統治における、より大きな政治的意図を内包していた可能性が高い。当時、隣国の肥後では、新領主・佐々成政(さっさなりまさ)の失政から大規模な国衆一揆が勃発し、豊臣政権はその鎮圧に多大な労力を費やしていた 17 。政権にとって、九州の在地領主(国衆)たちの潜在的な抵抗は、天下の安定を確固たるものにする上で看過できない脅威であった。豊前最大の国人領主であった城井氏の動向は、他の国衆に絶大な影響を与え得た 1 。鎮房の抵抗に対し、秀吉が毛利輝元ら中国地方の大軍の投入を命じたこと 6 、そして最終的に黒田氏が下した一族根絶という徹底的な処置は、単なる一揆鎮圧の範疇を超えている。これは、豊前の他の国衆、ひいては全国の潜在的な反抗勢力に対し、「中央の命令に逆らえば、いかなる名門であろうと容赦なく滅ぼされる」という豊臣政権の断固たる意志を示すための、政治的な意図を持った「見せしめ」であったと解釈するのが妥当であろう。

対立の顕在化

鎮房にとって、この命令は到底受け入れられるものではなかった。先祖代々の土地と、それに根差した一族の誇りを奪う暴挙として、彼はこれを断固として拒絶した 2 。これにより、豊前の新領主となった黒田氏との間に、もはや回避不可能な対立が生じることとなったのである。

第四章:落とせぬ城-豊前国人一揆と黒田軍の敗北

天正十五年(1587年)から翌年にかけて、城井谷を巡る情勢は目まぐるしく展開する。その複雑な経緯を以下に整理する。

年月

城井氏側の動向

黒田・豊臣側の動向

関連事項

天正15年 (1587)

7月頃

伊予への国替え命令を拒否。

黒田官兵衛が豊前6郡の領主として入部。

肥後国人一揆が勃発。

10月

毛利勝信の仲介で一度は城井谷城を明け渡すも、本領安堵が絶望的となり、城を急襲し奪還。籠城を開始。

官兵衛は肥後一揆鎮圧のため不在。嫡男・長政が対応。

鎮房に呼応し、豊前各地で国人衆が蜂起(豊前国人一揆)。

11月

岩丸山周辺で黒田軍を迎え撃ち、ゲリラ戦術で大勝(城井谷崩れ)。

黒田長政が城井谷に侵攻するも大敗。敗戦を恥じ剃髪。

秀吉、毛利輝元ら中国勢の出陣を命じる。

12月

黒田・毛利連合軍の圧力が増す中、和睦を受け入れる。

小川内城などの付城を築き、兵糧攻めを開始。周辺の国人一揆を鎮圧。

天正16年 (1588)

4月20日

和睦の礼のため中津城へ赴くが、酒宴の席で謀殺される。家臣団も合元寺で討滅。父・長房も城井谷で殺害される。

官兵衛の授けた謀略により、長政が鎮房を暗殺。

4月22日

娘・鶴姫が山国川の河原で処刑される。

時期不明

肥後に出陣中だった嫡男・朝房が官兵衛の命により暗殺される。

豊前宇都宮氏、滅亡。

一揆の勃発と城井谷城の奪還

鎮房の心情を深く理解していた小倉城主・毛利勝信の仲介により、鎮房は一度、城井谷城を黒田方に明け渡した。その上で勝信が秀吉に鎮房の本領安堵を嘆願したが、秀吉は頑としてこれを拒否した 1 。万策尽きた鎮房は、天正十五年十月、ついに実力行使に出る。電光石火の奇襲によって城井谷城を奪還し、籠城して黒田・豊臣軍に徹底抗戦の構えを見せたのである 1

鎮房の決起は、豊前の他の国人衆に大きな衝撃を与えた。黒田氏という新たな支配者に不満を抱いていた野仲氏、佐々木氏、緒方氏らが次々と鎮房に呼応して蜂起し、騒乱は豊前一円に広がる大規模な「豊前国人一揆」へと発展した 1

岩丸山の戦い(城井谷崩れ)

当時、父の官兵衛は肥後国人一揆の鎮圧のために豊前を離れていた。一揆鎮圧の総指揮を執ったのは、若き嫡男・黒田長政であった 16 。血気にはやる長政は、一揆軍の中核である城井鎮房を討つべく、自ら大軍を率いて城井谷へと侵攻した。

しかし、険しい山谷に誘い込まれた黒田軍を待ち受けていたのは、地の利を完璧に掌握した城井軍の巧妙なゲリラ戦術であった 1 。岩丸山(現在の福岡県みやこ町)周辺での合戦において、城井軍は神出鬼没の伏兵や奇襲攻撃を繰り返し、大軍ゆえに動きの鈍い黒田軍を翻弄した。結果、黒田軍は多数の死傷者を出す歴史的な大敗を喫し、総大将の長政自身も命からがら馬ヶ岳城へと敗走した 6 。この手痛い敗戦は「城井谷崩れ」として後世に伝わり、長政はこの失態を父・官兵衛に詫びるため、頭を丸めて謝罪したと伝えられている 2

攻防の膠着と黒田方の戦略転換

この敗戦により、黒田方は城井谷を武力で制圧することが極めて困難であることを痛感した。そこで官兵衛は、正面からの攻撃を避け、城井谷を見下ろす戦略拠点に小川内城(おがわうちじょう)などの「付城(つけじろ)」を築き、兵站線を断つ持久戦へと戦略を転換した 9 。さらに秀吉の命により、毛利輝元、吉川広家、小早川隆景といった中国地方の毛利勢が大軍を率いて豊前に着陣し、城井谷への包囲網は日増しに狭まっていった 6

第五章:中津の悲劇-城井鎮房の謀殺と一族の滅亡

偽りの和睦

天正十五年十二月下旬、外部との連絡を絶たれ、兵糧も尽きかけた鎮房は、ついに和睦の申し入れを受け入れる。その条件は、城井氏の本領安堵を認め、その証として鎮房の十三歳になる娘・鶴姫を黒田長政の正室として迎え入れるというものであった 1 。しかし、これは城井一族を根絶やしにするために仕組まれた、官兵衛による冷徹な謀略の序章に過ぎなかった。

この謀略は、官兵衛の軍師としての合理性と、戦国武将としての非情さの極致を示すものである。「城井谷崩れ」の経験から、彼は城井谷を武力で制圧することのコスト(兵員の損耗、時間)とリスクを正確に計算した。彼にとって、城井鎮房はもはや交渉の相手ではなく、豊前統治を安定させるために「排除すべき障害」でしかなかった。最も低コストかつ確実に目的を達成する手段が「騙し討ち」であり、彼は武士の名誉よりも実利を取り、それを躊躇なく実行した。一族郎党の根絶やしという徹底的な処置は、将来の禍根を完全に断つという、彼の冷徹な現実主義に基づいている。この一件は、「天才軍師」という華やかなイメージの裏に隠された、目的のためには手段を選ばないマキャベリストとしての一面を浮き彫りにしている 30

中津城の謀略

和睦が成立した翌年の天正十六年(1588年)四月二十日、鎮房は長政との婚儀の打ち合わせと和睦の礼を述べるため、少数の供回りだけを連れて黒田氏の居城・中津城へと赴いた 3 。この時、家老の渡辺右京進(わたなべうきょうのしん)をはじめとする主だった家臣団は、城内が手狭であるとの理由で、城下の合元寺(ごうがんじ)に待機させられた 1 。これも全て、官兵衛が長政に授けた周到な計画の一部であった 1

城内で開かれた祝宴の席、酒が振る舞われ、鎮房が油断したその時、長政の合図と共に伏兵が一斉に襲いかかった。怪力無双を誇った鎮房も、丸腰の宴席ではなすすべもなく、謀殺された。享年五十三であった 3 。一説には、入浴を勧められ、無防備になったところを襲われたとも伝えられている 34

一族の根絶

鎮房暗殺と時を同じくして、黒田の軍勢が合元寺を急襲した。主君の凶変を察した城井家臣団は、死を覚悟して奮戦したが、衆寡敵せず、全員がその場で討ち死にした 18

この悲報が届かぬうちに、黒田の追討軍は城井谷にも殺到し、留守を守っていた鎮房の八十歳を超える老父・長房(ながふさ)も殺害された 1。

さらに、肥後国人一揆の鎮圧のため官兵衛と共に出陣していた嫡男の朝房(十八歳)も、父の死を知らぬまま、肥後の陣中にて官兵衛の命を受けた者たちによって暗殺された 1。

そして、和睦の証として黒田家にその身を委ねていた鶴姫もまた、用済みとして、山国川(やまくにがわ)の千本松河原で、付き従っていた十三人の侍女と共に磔(はりつけ)に処されるという、あまりにも惨い最期を遂げた 1。

こうして、鎌倉時代から四百年にわたり豊前の地に栄えた名門・豊前宇都宮氏は、黒田官兵衛・長政父子の謀略によって、歴史の表舞台からその姿を消したのである。

第三部:歴史の残響

第六章:残りし怨念-怨霊伝説と鎮魂の営み

城井一族の悲劇的な滅亡は、豊前の地に数々の怨霊伝説と鎮魂の物語を生み出した。これらの伝説は、勝者である黒田氏の公式記録(『黒田家譜』など)が語る「正当な平定事業」に対し、理不尽な虐殺としてこの事件を記憶した民衆の側からの、もう一つの歴史記述と言える。公然と新たな支配者を批判できない人々にとって、その怒り、悲しみ、そして正義感は、「祟り」や「怨霊」という超自然的な物語の形で表現され、語り継がれていったのである。

鎮房の祟りと城井神社

鎮房の死後、中津城では夜な夜な甲冑姿の鎮房の亡霊が出没し、嫡男の長政を大いに恐れさせたと伝えられる 18 。さすがの官兵衛も、戦国の世とはいえ、勇将であった鎮房を謀略をもって殺害したことに良心の呵責を感じたのか、その強大な怨念を鎮めるため、中津城内に鎮房の霊を祀る「城井神社」を創建した 4 。この神社は、後に関ヶ原の戦いの功績で黒田氏が筑前国(福岡)に移封された後も、新たな居城となった福岡城内にも分霊され、祀られている 18

合元寺の赤壁伝説

家臣団が最期の地とした合元寺には、ひときわ有名な伝説が残されている。黒田勢との激しい斬り合いの末、討ち死にした城井家臣たちの血潮が寺の白壁に飛び散り、壁一面を赤く染めた。その後、寺の者が何度壁を白く塗り替えても、無念の血の跡が赤く滲み出てくるため、ついに壁全体を赤色に塗るようになったという 18 。現在も「赤壁寺(あかかべでら)」の通称で知られるこの寺の壁は、当時の惨劇を無言で告発する、強力な記憶装置として機能している。境内の大黒柱には、今なお当時の激戦でついたとされる刀傷が生々しく残されている 34

鶴姫の悲劇と宇賀神社

磔という惨たらしい最期を遂げた鶴姫の悲劇もまた、人々の記憶に深く刻まれた。処刑された千本松河原には、その霊を祀るために「宇賀神社(うがじんじゃ)」が創建された 18 。その創建には、次のような奇譚が伝えられている。後年、この地から異形の怪蛇が現れ、これを退治したところ、当時の中津藩主・小笠原長円が突然発狂し、「我は宇都宮の息女、鶴姫である。七生(しちしょう)までも化け物に生まれ変わりて中津城の主を呪い殺さん」と、鶴姫の怨霊が乗り移ったかのように祟りの言葉を叫び続けた。これを鎮めるために怪蛇の亡骸を丁重に祀ったのが、神社の直接的な始まりであるという 43

黒田家への呪い

城井氏の怨念は、その後も長く黒田家を苛んだと噂された。江戸時代を通じて、黒田家で世継ぎが生まれずに養子が続いたり、藩を揺るがすお家騒動(黒田騒動)が起きたりするたびに、人々は「城井氏の祟りである」と囁き合った 13 。また、城井谷の住民たちは、鎮房の命日になると城跡に集い、野ばらの枝を地に突き刺して黒田家を呪い続けたという伝承も残されている 18

第七章:血脈の行方と歴史的評価

血脈の存続

黒田氏による徹底的な一族根絶の謀略にもかかわらず、城井氏の血脈はかろうじて未来へと繋がれた。城井谷が蹂躙された際、懐妊中であった嫡男・朝房の妻・竜子が、忠義な家臣の手引きによって城井谷を脱出。後に男子を出産し、この子が宇都宮朝末(ともすえ)と名乗った 15

朝末とその子・春房は、旧臣たちの支援を受けながら、粘り強く宇都宮家の再興運動を続けた 8 。その努力が実り、朝末の孫にあたる宇都宮信隆(高房)の代に、越前松平家に召し抱えられ、福井藩士として家名を存続させることに成功した 18 。また、鎮房の弟・弥次郎は難を逃れて薩摩の島津家に仕官し、その地で子孫を残したと伝えられる 18

歴史史料における記述と後世の関心

この事件は、勝者である黒田家の公式史書『黒田家譜』にも詳細に記録されているが、その記述は当然ながら、鎮房の度重なる裏切りに対する正当な誅伐という、黒田側の視点で貫かれている 9 。一方で、城井氏の旧臣の子孫によって書かれた『城井軍記実録』や『城井闘淨記』といった軍記物も現存しており、事件を敗者の側から伝える貴重な史料となっている 8

この悲劇は後世の知識人の関心も引きつけた。事件から約百年後の元禄七年(1694年)、福岡藩の碩学・貝原益軒が藩命により城井谷を訪れ、詳細な史跡調査を行っている。彼が同行の絵師に描かせた『城井谷絵図』は、合戦当時の城井谷の様子や諸城の配置を知る上で、第一級の史料的価値を持つ 7 。近年行われた発掘調査では、平時の居館跡とされる松丸の台地から、十四世紀から十六世紀にかけての大規模な館の遺構が検出されたが、残念ながら調査後すぐに埋め戻され、現在地表にその遺構を見ることはできない 11

終章:城井谷が物語るもの

城井谷城と、その主であった豊前宇都宮氏一族の歴史は、単なる一地方領主の栄枯盛衰の物語に留まるものではない。それは、中世以来の伝統的秩序、すなわち「土地と不可分な在地領主のあり方」が、豊臣秀吉によって強力に推進された近世的な「中央集権と大名の道具的支配」という新しい時代の論理と正面から衝突し、悲劇的な終焉を迎えた、時代の巨大な転換点を象徴する事例である。

武力では決して屈することのなかった城井谷の天然の要害と、謀略の前にあまりにも脆く崩れ去った城主一族の運命。この鮮烈な対比は、戦国乱世の終焉が、武勇や名誉といった旧来の価値観だけでは生き残れない、冷徹な政治の時代の到来であったことを我々に突きつける。そして、その理不尽な最期が、数々の怨霊伝説として人々の記憶に深く刻まれ、語り継がれることで、勝者の公式記録とは異なるもう一つの歴史が形成された。城井谷の物語は、歴史の敗者の声に耳を傾けることの重要性を、今なお静かに、しかし力強く訴えかけているのである。

引用文献

  1. 城井谷城 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9F%8E%E4%BA%95%E8%B0%B7%E5%9F%8E
  2. 【城井ノ上城址】アクセス・営業時間・料金情報 - じゃらんnet https://www.jalan.net/kankou/spt_40643af2170134241/
  3. 軍師官兵衛 宇都宮鎮房ゆかりの地 - 吉富町 https://www.town.yoshitomi.lg.jp/kanko/enjoy/history/gunshikanbei/
  4. 城井谷城 - ニッポン旅マガジン https://tabi-mag.jp/fu0321/
  5. 城井谷城の見所と写真・100人城主の評価(福岡県築上町) - 攻城団 https://kojodan.jp/castle/1682/
  6. 城井ノ上城 http://kojousi.sakura.ne.jp/kojousi.kiinoko.htm
  7. 宇都宮氏の歴史 戦国のムラ城井谷 - 築上町 https://www.town.chikujo.fukuoka.jp/s047/010/110/020/070/1.pdf
  8. 歴史を物語る|戦国のムラ 城井谷|歴史と人物 - 築上町歴史散歩ホームページ https://www.chikujo-rekishi.jp/history/kiidani/k004.html
  9. 館と山城|戦国のムラ 城井谷|歴史と人物 - 築上町歴史散歩ホームページ https://www.chikujo-rekishi.jp/history/kiidani/k002.html
  10. 城井ノ上城(福岡県築上郡築上町大字寒田) - 西国の山城 http://saigokunoyamajiro.blogspot.com/2015/10/blog-post_13.html
  11. 城井氏館 http://kojousi.sakura.ne.jp/kojousi.kiishi.htm
  12. 城井ノ上城址 | 観光スポット | 【公式】福岡県の観光/旅行情報サイト「クロスロードふくおか」 https://www.crossroadfukuoka.jp/spot/11405
  13. 武家家伝_城井宇都宮氏 - harimaya.com http://www2.harimaya.com/sengoku/html/kii_k.html
  14. 天才軍師 黒田官兵衛 最大の宿敵 宇都宮鎮房|TOPICS|華マルシェKYUSYU https://hanamarche.jp/topics/detail.php?seq=17
  15. 城井ノ上城 / 城井谷城 / 萱切城 / 城井郷城(福岡県) | いるかも 山城、平城、平山城、日本のお城の記事サイト irukamo https://jh.irukamo.com/kiinokojo/
  16. レポート ・黒田官兵衛と宇都宮鎮房 https://washimo-web.jp/Report/Mag-Utsunomiya.htm
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