最終更新日 2025-08-18

増山城

越中三大山城の一つ、増山城は上杉謙信が「嶮難之地」と評した難攻不落の要害。神保氏、上杉氏、佐々氏、前田氏と支配者が変遷し、戦国の歴史を刻んだ。今は国史跡として、その壮大な遺構が往時を伝える。

越中の要害・増山城 ― 戦国動乱を生き抜いた巨大山城の全貌

序章:難攻不落の城、増山

戦国時代の越後、春日山城にその覇威を轟かせた「越後の龍」上杉謙信。彼が敵対する城について、一通の書状の中に特別な評価を残している。「増山之事、元来嶮難之地」(増山城は、もともと険しく攻め難い土地である) 1 。この一文は、数多の城を攻略してきた当代随一の戦術家をして、その堅固さを認めさせた増山城の本質を、何よりも雄弁に物語っている。

富山県砺波市にその広大な遺構を残す増山城は、魚津市の松倉城、高岡市の守山城と並び「越中三大山城」の一つに数えられる名城である 4 。富山県内に確認されている400以上の城跡の中でも、その縄張りの規模は群を抜いており、戦国期越中における戦略的価値の高さが窺える 6

本報告書は、この増山城を単なる歴史上の城郭として概説するに留まらない。南北朝の黎明期から、越中守護代・神保氏の拠点となり、上杉、織田(佐々)、前田と支配者がめまぐるしく変わる中で、城郭そのものが時代の要請に応じていかに変容し、拡張されていったのか。その「歴史の積層」とも言うべき過程を、文献史料と考古学的知見の両面から解き明かすことを目的とする。増山城の土塁や堀切の一つひとつに刻まれた、戦国武将たちの野望と攻防の記憶を辿る旅に、読者を誘いたい。

増山城関連年表

西暦(和暦)

主要な出来事

関連人物

1363年(貞治2年)

史料に「和田城」として初見。増山城の前身とされる 1

桃井直常

15世紀後半

越中守護代・神保氏が支城として整備を開始。縄張りの基礎を築く 1

神保氏

1506年(永正3年)

神保慶宗、越後守護代・長尾能景と戦う 10

神保慶宗、長尾能景

1543年(天文12年)

神保長職が富山城を築き、本拠とする 1

神保長職

1560年(永禄3年)

長尾景虎(上杉謙信)が越中に侵攻。富山城を追われた長職は増山城へ敗走 1

神保長職、上杉謙信

1562年(永禄5年)

再起した長職に対し、謙信が再び増山城を攻撃。長職は降伏 11

神保長職、上杉謙信

1572年(元亀3年)

一向一揆勢力が増山城に拠る 1

一向一揆

1576年(天正4年)

謙信が能登・七尾城攻略の途上で増山城を攻略。上杉方の拠点となる 1

上杉謙信、吉江宗信

1581年(天正9年)

織田勢により増山城が焼き払われた可能性が指摘される 12

織田信長勢

1583年(天正11年)

佐々成政が越中を平定 9

佐々成政

1585年(天正13年)

成政、豊臣秀吉の侵攻に備え増山城を大規模に普請(改修) 1 。秀吉に降伏後、前田氏の支配下となり、中川光重が城主となる 4

佐々成政、豊臣秀吉、前田利家、中川光重

1593年(文禄2年)

城主不在の中、妻の蕭姫が城から祈願状を出す 9

蕭姫(増山殿)

1603年(慶長8年)

蕭姫が死去 9

蕭姫(増山殿)

1605年(慶長10年)頃

絵図に「増山古城」と記され、この頃には廃城状態だったと推定される 9

-

1615年(元和元年)

幕府の「一国一城令」により、公式に廃城となる 4

徳川家康

2009年(平成21年)

国の史跡に指定される 4

-

2017年(平成29年)

「続日本100名城」に選定される 16

-


第一部:歴史の奔流に浮かぶ城 ― 築城から廃城まで

第1章:増山城の黎明 ― 和田城から神保氏の拠点へ

増山城の歴史は、特定の築城者による一度の完成によって始まったわけではない。それは、時代の要請に応じて段階的に機能と規模を拡張させていった「成長する城郭」の物語である。その起源は、南北朝時代の動乱期にまで遡る。

史料上の初見は、貞治2年(1363年)に記された「二宮円阿軍忠状」に見える「和田城」である 1 。この文書には、越中守護であった桃井直常の討伐に参加した二宮円阿が、この和田城を守ったと記されている。江戸時代の学者・森田柿園は、増山城周辺一帯がかつて上和田・中和田・下和田村と呼ばれていたとの伝承から、この和田城こそが増山城の前身であると推察した 1 。しかし、縄張りの特徴などから亀山城を比定する異説も存在し、その起源は今なお完全には解明されていない 1 。この時代の和田城は、おそらく大規模な城郭ではなく、地域の軍事動向に対応するための小規模な砦であったと考えるのが妥当であろう。

増山城が歴史の表舞台で本格的な役割を担い始めるのは、15世紀後半、室町時代に入ってからである。越中守護・畠山氏のもとで守護代として力を蓄え、婦負郡・射水郡に強固な地盤を築いた神保氏が、この地を戦略的拠点として着目した 1 。砺波・射水・婦負という越中西部の三郡が接する結節点に位置する増山は、領国支配を固め、勢力拡大を図る神保氏にとって、まさに要衝であった 2 。神保氏は、この地に恒久的な軍事拠点として城郭を整備し、これが現在に繋がる増山城の原型となった。発掘調査において16世紀中葉の土師器皿が出土している事実は、この神保氏による基礎造成の時期を裏付ける考古学的な証左と言える 12

神保氏の拠点となった増山城は、早くも戦乱の渦に巻き込まれる。永正年間(1504年〜)には、加賀に端を発した一向一揆の波が越中にも押し寄せ、増山城はその攻防の舞台の一つとなった 1 。さらに永正3年(1506年)には、神保慶宗が越後守護代・長尾能景(上杉謙信の祖父)とこの地で激突するなど、増山城は越中の覇権を巡る争いの最前線としての性格を帯びていく 10 。このように、増山城の歴史は「築城」という単一の時点ではなく、地域の政治・軍事状況の変化に対応しながら、拠点としての重要性を増していく「拠点化」という長期間のプロセスとして捉えるべきである。この視点は、戦国大名が領国支配を確立していく過程を、城郭という物理的な構造変化から読み解く上で極めて重要となる。

第2章:越中の覇権を巡る死闘 ― 上杉謙信、三度の侵攻

16世紀中葉、神保長職の代に神保氏はその勢力を頂点にまで高める。天文12年(1543年)、長職は富山城を築いて本拠を移し、越中統一へと大きく歩を進めた 1 。しかし、この神保氏の勢力拡大は、越中への影響力を強めようとする越後の上杉謙信との間に、避けられない緊張関係を生じさせることとなった。増山城を巡る両者の死闘は、単なる一武将の排除を目的とした戦術的なものではなく、越中西部の交通路を掌握し、神保氏と一向一揆勢力の連携を断ち切るという、謙信の広範な越中平定戦略の中核をなすものであった。

第一次侵攻は永禄3年(1560年)。当時まだ長尾景虎を名乗っていた謙信は、神保長職を討つべく越中へ大軍を進めた。長職は本拠の富山城を追われ、堅固な増山城へと敗走する 1 。しかし、謙信軍の猛攻は凄まじく、城周辺に火を放たれるなどして包囲された長職は、夜陰に紛れて城を脱出し、辛くも逃走した 1 。この一戦は、たとえ本拠を失っても、増山城という拠点がある限り再起が可能であることを示しており、謙信にその戦略的重要性を強く認識させる結果となった。

案の定、長職は再起を図る。これに対し謙信は、永禄5年(1562年)に再び増山城を攻撃。二度目の侵攻を受けた長職は、ついに降伏を余儀なくされた 11 。しかし、越中の情勢は複雑であった。神保氏は時に一向一揆と結び、また時には上杉氏と和睦して一向一揆と戦うなど、目まぐるしくその立場を変えた 1 。元亀3年(1572年)には、一向一揆勢力が一時的に増山城を占拠するなど、城は三つ巴の勢力争いの象徴的な存在となっていく 1

謙信による増山城への執着は、ついに三度目の攻撃へと繋がる。天正4年(1576年)、能登の畠山氏が籠る七尾城攻略という、より大きな戦略目標を掲げた謙信は、その途上で越中平定の総仕上げとして増山城を最終的に攻略した 1 。この勝利により、増山城は名実ともに上杉方の拠点となり、城将として吉江宗信が配された 1 。謙信が三度にわたってこの城を攻めたという事実は、彼が増山城を神保氏の手から完全に奪い取らない限り、越中の恒久的な支配は達成できないと深く認識していたことの証左である。増山城を巡る一連の攻防は、まさに戦国期越中における覇権の帰趨を決定づける「天王山」であったと言えよう。

第3章:天下布武の波及 ― 織田、そして佐々成政の時代

天正6年(1578年)の上杉謙信の急死は、北陸の勢力図を一変させた。上杉家の内紛(御館の乱)に乗じ、天下布武を掲げる織田信長の勢力が越中へと怒涛の如く進出する。柴田勝家を総大将とする織田の北陸方面軍、その中で頭角を現したのが佐々成政であった。

織田勢力の越中平定の過程で、増山城もまた戦火に包まれた。天正9年(1581年)、上杉方の拠点となっていた増山城は織田勢によって攻められ、焼き払われた可能性が指摘されている 12 。この説を裏付けるかのように、城跡の発掘調査では、厚さ40cmにも及ぶ焼土層が発見されており、これが当時の激しい戦闘の痕跡である可能性は高い 1

天正11年(1583年)、成政は越中一国を平定し、その支配者となった。彼は増山城の戦略的重要性を再認識し、自らの支配体制を固めるための重要拠点と位置づけた。特に、本能寺の変後、豊臣秀吉との対立が鮮明になると、その重要性はさらに増す。天正13年(1585年)、秀吉の大軍による越中侵攻に備え、成政は増山城に大規模な普請(改修工事)を命じた 1 。この改修は、単なる補修に留まるものではなかった。それは、対上杉氏を想定した神保・上杉時代の防御思想から、天下人・秀吉の大軍を迎え撃つための、より高度で規格化された防御思想への転換を意味していた。

成政は、織田信長のもとで培われた最新の築城技術を増山城に投入したと考えられる。従来の構造を活かしつつ、北に位置する亀山城や孫次山砦といった支城群を拡張・統合し、城郭群全体を一つの巨大な要塞として機能させる、いわば「総構え」に近い思想で改修を行ったのであろう 7 。現在見られる増山城の縄張りの多くは、この成政の時代に完成したと見てよい。発掘調査で出土する遺物の年代が、16世紀後半から末頃に集中しているという事実も、この時期に城が最も大規模に利用・改修されたことを物語っている 12

また、この改修で特筆すべきは、二ノ丸の虎口(出入り口)下に見られる小規模な石垣の存在である 1 。これは、防御機能の向上という実用的な目的以上に、織田政権の先進的な技術力と支配者の権威を誇示する象徴的な意味合いが強かったと分析される。増山城は、佐々成政の手によって、中世的な山城から、近世城郭の萌芽ともいえる「織豊系城郭」の要素を取り入れた、新たな姿へと生まれ変わったのである。

第4章:加賀藩の支城、そして終焉 ― 中川光重と蕭姫

佐々成政による大規模な改修も虚しく、天正13年(1585年)、豊臣秀吉は圧倒的な兵力で越中に侵攻。成政は降伏し、越中は前田利家・利長の支配下に入った。これに伴い、増山城には前田利家の重臣である中川光重(宗半)が城主(城代)として入城した 4 。増山城は、その歴史の最終章を前田家の支城として迎えることとなる。

しかし、この時期の増山城の歴史を語る上で欠かせないのが、城主・光重の妻であり、前田利家と正室まつの娘である蕭(しょう)姫の存在である。光重は朝鮮出兵への従軍やその他の役務で城を不在にすることが多かったため、実質的に城の管理・運営を担っていたのは蕭姫であった 5 。彼女は「増山殿」と呼ばれ、領民から慕われたと伝わる。文禄2年(1593年)には、蕭姫が城から近隣の神社へ祈願状を奉納したという記録も残されており、彼女が名実ともに城の管理者として機能していたことを示している 9

増山城の終焉は、慶長20年(1615年)の「一国一城令」という単一の法令によって突然訪れたわけではない。それは、時代の大きな流れの中で、軍事拠点としての役割を徐々に終えていく、いわば「安楽死」であった。関ヶ原の戦いを経て徳川の世が盤石となり、世の中が安定に向かうと、国境防衛を主目的とする大規模な山城を維持する必要性は急速に薄れていった。加賀藩の政治・経済の中心は、富山城や高岡城といった平城へと完全に移行していた 20

その過程を象徴するのが、慶長8年(1603年)の蕭姫の死(享年41歳)である 9 。さらに、慶長10年(1605年)頃に作成されたとされる『越中国絵図』には、すでに「増山古城」と記されている 9 。この事実は決定的であり、この時点で増山城が軍事施設としての現役を退いていたことを示唆している。城主であった中川光重自身も慶長16年(1611年)に隠居し、慶長19年(1614年)に没しており、城の機能停止を加速させた 13

したがって、慶長20年(元和元年/1615年)の一国一城令は、すでに実質的な役割を終えていた増山城に対して、法的な最後通告を下したものに過ぎない。戦国の動乱と共にその重要性を高め、数々の武将たちの興亡を見つめてきた増山城は、平和な時代の到来と共に、静かにその歴史的使命を終えたのである。廃城後、城跡は加賀藩の「御林(おはやし)」として厳重に管理され、杉が植林された。これが後に富山県三大杉の一つ「マスヤマスギ」となり、城跡を新たな形で後世に伝えることとなった 1


第二部:城郭の構造と機能 ― 縄張りに秘められた思想

第5章:巨大山城の解剖 ― 増山城の縄張りと防御施設

増山城の真価は、その歴史だけでなく、今なお良好な状態で残る巨大な縄張り(城の設計)にある。その構造は、少数で大軍を迎え撃つことを目的とした戦国期山城の築城技術の粋を集めたものであり、上杉謙信が「嶮難之地」と評した理由を現代に伝えている。

城域は、砺波平野に面した丘陵上にあり、西側を蛇行して流れる和田川の東岸、南北約1.4km、東西約0.9kmという広大な範囲に及ぶ 12 。特筆すべきは、深い谷を形成する和田川そのものを天然の外堀として利用している点であり、そのスケールの大きさがまず来訪者を圧倒する 2

増山城は、天守閣を持つ近世城郭とは異なり、単一の城ではない。中央の主郭部を中心に、北に亀山城・孫次山砦、南に赤坂山屋敷・団子地山屋敷といった独立した城砦群が配置され、全体として一つの巨大な防御システムを形成している 6 。敵はまず和田川という大障害を克服し、上陸したとしても、これらの支城群からの横矢(側面攻撃)に晒されることになる。この極めて高度な「縦深防御」思想こそ、増山城の縄張りの核心である。

中心部は、最も防御が固められたエリアであり、複数の曲輪(郭:城内の区画された平坦地)が巧みに配置されている。興味深いことに、城の司令塔であった主郭は「二ノ丸」と呼ばれている 1 。これは、城下町から見て近い順に「一ノ丸」「二ノ丸」と名付けられたためという説があり、城の機能的中心と呼称が必ずしも一致しない中世城郭の特徴を示している 7 。この二ノ丸を中心に、「一ノ丸」「三ノ丸」「安室屋敷」「無常」といった曲輪群が、主郭を全方位から守るように配置されているのである 12

主要構成要素

規模・特徴

推定される機能

二ノ丸

標高最高所、東西90m×南北50mの最大規模。北東隅に櫓台(鐘楼堂)を設置 12

主郭(本丸)。城全体の司令塔。

一ノ丸

主郭の西側、城下を見下ろす位置にある曲輪。西側斜面に竪堀が存在 18

西方からの敵に対する最前線の防御拠点、物見。

三ノ丸

「オオヤシキ」とも呼ばれる。L字型の長大な堀を巡らす 18

城主や上級家臣の居住区、あるいは兵の駐屯地。

馬之背ゴ

西側の防御の要。土塁が馬の背中のように見えることから命名 5

七曲り口からの進攻路を監視・迎撃する拠点。

無常

主郭の南西を守る細長い曲輪。西側斜面に畝状竪堀群を設置 5

南西方面からの攻撃に対する防御線。

亀山城

増山城の北方に位置する支城。城跡群で最も高所に主郭がある 9

北方からの敵を警戒・迎撃する出城。射水方面への備え。

又兵衛清水

二ノ丸直下にある湧水。「とやま名水百選」の一つ 1

城内の生命線である重要な水源。

馬洗池

空堀を改変して作られたとされる池 18

馬の水浴びや、補助的な水源として利用。

これらの曲輪は、それぞれが独立して戦えるように設計されており、仮に一つの曲輪が突破されても、次々と現れる防御拠点と深い堀切によって、敵は消耗を強いられる。また、山城における生命線である水の確保も抜かりなく、「又兵衛清水」や「馬洗池」といった水源が城内に確保されていた 1 。この緻密に計算された縄張りこそ、増山城が難攻不落と謳われた最大の理由であった。

第6章:鉄壁の守り ― 堀切、竪堀、そして石垣

増山城の防御施設は、石垣を多用する近世城郭とは異なり、自然の地形を最大限に利用し、土を掘り、盛り上げることで形成された「土の城」としての特徴が際立っている。その中でも、尾根筋を遮断するために掘られた巨大な堀は、見る者を圧倒する迫力を持つ。

城の最大の見所の一つが、東側から南側にかけて二重に穿たれた「大堀切」である 12 。その長さは300mにも及び、場所によっては幅16m、深さ10mに達する 5 。これは、尾根伝いに進軍してくる敵の大軍を物理的に分断し、その勢いを削ぐための決定的な防御施設であった。この巨大な人工の谷を前にすれば、いかなる屈強な兵士も足を止めざるを得なかったであろう。

斜面に対する防御も巧妙である。山の斜面を垂直に掘り下げた「竪堀」は、斜面を横移動する敵兵の動きを封じ込め、一列になったところを上から攻撃することを容易にする 23 。増山城では、特に南西側の「無常」の曲輪下の斜面に、この竪堀を幾重にも並べた「畝状竪堀群」が設けられている 12 。この畝状の凹凸は、大軍が一度に斜面を駆け上がることを不可能にし、防御側が圧倒的に有利な状況を作り出すための、戦国期山城の優れた発明であった。

さらに、曲輪を造成する際に生じる人工的な急斜面「切岸」も、基本的ながら極めて効果的な防御施設である 23 。自然の斜面をより急峻に削り出すことで、敵兵が容易に取り付くことを防いだ。増山城では、これらの堀切、竪堀、切岸が城全体に張り巡らされており、まさに鉄壁の防御網を構築していた。

一方で、石垣の使用は極めて限定的である。城内で唯一確認されているのは、主郭である二ノ丸の虎口(出入り口)下に見られる石垣跡のみである 18 。しかし、その規模は小さく、富山県内の森寺城に見られるような本格的な防御を目的としたものではない 22 。このことから、増山城の石垣は、佐々成政の時代に導入された先進技術の試験的な採用であり、虎口という最重要部を補強する実用的な意味合いと同時に、城主の権威と先進性を象徴するモニュメントとしての役割が大きかったと推測される 1 。土の防御技術が極限まで高められた城にあって、この小さな石垣は、まさに時代の転換点を物語る貴重な遺構と言えるだろう。

第7章:土の下の証言 ― 発掘調査が語る増山城

増山城の歴史と構造を解明する上で、文献史料と並んで決定的に重要な役割を果たしたのが、考古学的調査である。砺波市教育委員会は、平成9年(1997年)から平成15年(2003年)にかけて、測量、発掘、歴史、地理など多角的な視点からの総合調査を実施した 2 。この調査によって、土の下に眠っていた数々の事実が明らかになり、増山城の実像がより鮮明となった。

調査では、国産の陶磁器や中国産の磁器、釘、古銭、砥石、碁石、漆塗りの椀、そして炭化した米など、当時の城内での生活を偲ばせる多様な遺物が出土した 12 。これらの遺物の中で、年代を特定する上で特に重要なのが土師器の皿である。出土した土師器皿には、16世紀中葉、すなわち神保氏が城を拠点としていた時代に遡るものも含まれていた 12 。これは、神保氏が城の基礎を築いたという文献上の記述を、考古学的に裏付ける重要な証拠である。

しかし、出土遺物の主体は、16世紀後半から末頃、すなわち上杉氏、佐々氏、そして前田氏が城を支配した時代に集中していることが判明した 12 。この遺物の年代分布は、増山城が神保氏の時代に基礎を築かれ、その後の支配者たち、特に佐々成政と前田氏の時代に最も大規模な改修・拡充が行われ、城としての機能が頂点に達したという歴史的変遷を明確に示している。

さらに、調査は城郭本体に留まらず、和田川の西岸にも及んだ。その結果、堀と土塁で区画された「城下町」の存在が確認されたのである 12 。この城下町遺跡からは16世紀末から17世紀初頭にかけての遺物が豊富に出土し、佐々氏から前田氏の時代にかけて本格的に整備されたことが明らかになった 12 。この発見は、増山城が単なる山上の軍事要塞ではなく、家臣団や商工業者が集住する、地域の政治・経済の中心地としての機能をも備えていたことを示している。特に、城下町の形成が戦国末期から織豊期にかけて本格化したという事実は、城郭の機能が純粋な軍事拠点から、領国経営の拠点へと変化していく時代の大きな流れを反映していると言える。

しかし、この城下町の繁栄は長くは続かなかった。城が廃城となり、その核としての機能を失うと、人々は新たな生活の場を求めて移住していった。特に寛文3年(1663年)の芹谷野用水の開削は、人々の移住を加速させ、城下町は急速に寂れていったとみられる 1 。城と城下町の興亡は一体であり、増山城跡の研究は、城郭そのものだけでなく、それを取り巻く地域社会の歴史を理解する上でも、不可欠な視点を提供してくれるのである。


第三部:現代に生きる城跡

第8章:文化遺産としての価値と継承

戦国時代の終焉と共にその役目を終えた増山城は、長い眠りの時を経て、現代において新たな価値を見出されている。それは、日本の歴史を物語る貴重な文化遺産としての価値である。

その価値が公に認められたのが、平成21年(2009年)7月23日の国の史跡指定である 4 。文化庁は指定の理由として、「戦国期から織豊期に北陸地方の覇権形成において重要な役割を果たし、富山県内屈指の規模と防御機能が発達した縄張を有する越中を代表する中世城郭である」と評価した 12 。これは、増山城が単なる一地方の城跡ではなく、日本の戦国史を理解する上で欠かせない重要な遺跡であることを国が認めたことを意味する。

さらに平成29年(2017年)には、公益財団法人日本城郭協会によって「続日本100名城」(135番)に選定された 3 。この選定は、全国の城郭ファンからの注目度を高めるとともに、その遺構の保存状態の良さが専門家からも高く評価された結果であった 16

増山城跡の特筆すべき点は、こうした公的な評価に留まらず、地域社会に深く根差し、人々の手によって大切に守り、活用されていることである。毎年秋には、地元住民が甲冑姿で練り歩く「増山城戦国祭り」が盛大に開催され、多くの人々で賑わう 4 。また、ウォーキングイベントや自然観察会なども開かれ、歴史学習の場としてだけでなく、市民の憩いの場としても親しまれている 12

こうした活動の中心を担っているのが、平成22年(2010年)に結成されたボランティアガイドグループ「曲輪の会」である 12 。専門的な知識を持つガイドの案内は、来訪者が複雑な縄張りや歴史的背景を深く理解する上で大きな助けとなっており、増山城の魅力を伝える上で欠かせない存在となっている 29

来訪者の利便性を高めるための整備も進んでいる。登城口にはトイレを備えた休憩施設「増山陣屋」が設けられ、各種パンフレットや杖の貸し出しも行われている 16 。さらに、現代のニーズに応えるべく、名誉城主である落語家の春風亭昇太師匠による音声ガイド「ますナビ」や、AR(拡張現実)技術を活用したスマートフォンアプリ「城ポジ 増山城-謙信の秘刀-」なども導入されており、楽しみながら歴史を学べる工夫が凝らされている 16

続日本100名城のスタンプや、近年人気を集めている「御城印」、「とやま城郭カード」などは、麓にある砺波市埋蔵文化財センターで入手することができる 3 。このセンターでは、増山城の巨大なジオラマ模型や出土遺物も展示されており、登城前に訪れることで、城の全体像を把握し、より深い理解を得ることが可能である 16 。これらの多岐にわたる取り組みは、増山城跡が過去の遺産として静態的に保存されるだけでなく、地域文化の核として未来へ継承されていく、生きた文化財であることを示している。

終章:増山城が後世に伝えるもの

越中の要害、増山城。その歴史は、戦国という時代の激しい潮流を一身に映し出す鏡であった。越中守護代・神保氏が地域に覇を唱えんとした野望の拠点として整備され、越後の龍・上杉謙信が越中平定の鍵と見なして執拗に攻め立てた戦略目標となり、天下布武の波に乗る佐々成政が天下人に対抗すべく最新技術で改修した決戦の砦となり、そして加賀百万石の礎を築いた前田氏が近世的支配体制の中で静かにその役目を終えさせた平穏の象徴となった。増山城の土塁と堀切には、戦国時代の主要な権力者たちの思惑と、時代の変遷そのものが刻み込まれている。まさに、戦国の「歴史の縮図」と呼ぶにふさわしい城郭である。

その縄張りは、単なる過去の遺構ではない。自然の地形を巧みに読み解き、土と木という素朴な材料だけで、これほどまでに巨大で複雑な防御システムを構築した先人たちの知恵と技術力は、現代の我々にも驚きと感銘を与える。それは、戦国の世に生きた人々の、生き残りをかけた創造力の結晶であり、土木技術の粋を集めた「巨大構造物」として、今なお圧倒的な存在感を放っている。

そして何よりも重要なのは、この貴重な文化遺産が、地域の人々の情熱と努力によって守り継がれ、活用されているという事実である。祭りで歓声が響き、子供たちが歴史を学び、ボランティアガイドがその物語を語り継ぐ。増山城は、もはや単なる過去の遺跡ではない。それは、地域の歴史と文化への誇りを育み、人々の繋がりを生み出し、そのアイデンティティを未来へと継承していくための、文化的な核として力強く生き続けている。増山城が後世に伝えるもの、それは戦国の記憶だけではなく、遺産を愛し、未来へ繋ごうとする人々の心の物語でもあるのだ。

引用文献

  1. 高岡市の守山城と並び「越中三大 山城」に数えられる。 https://www.city.tonami.lg.jp/kanko/wp-content/uploads/masuyamajyou_202006.pdf
  2. 增山城跡総合調查報告書 〔本文編〕 https://sitereports.nabunken.go.jp/files/attach/39/39524/82478_1_%E5%A2%97%E5%B1%B1%E5%9F%8E.pdf
  3. 国指定史跡 増山城跡 - 砺波市観光協会 https://www.tonami-kankou.org/osusume/4052/
  4. 増山城の見所と写真・900人城主の評価(富山県砺波市) - 攻城団 https://kojodan.jp/castle/430/
  5. 続100名城を巡る「増山城」 - 武将愛 https://busho-heart.jp/archives/13929
  6. 増山城跡のパンフレット | 増山城のガイド - 攻城団 https://kojodan.jp/castle/430/memo/2745.html
  7. 増山城 - 城びと https://shirobito.jp/castle/135
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  9. 国指定史跡 増山城跡ガイドブック(PDF/1.1MB) - 砺波市の文化を https://1073shoso.jp/www/book/ctrl.jsp?id=16066&keyword=
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  18. 増山城 - - お城散歩 - FC2 https://kahoo0516.blog.fc2.com/blog-entry-672.html
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  21. 国史跡 増山城跡 http://www.pcpulab.mydns.jp/main/masuyamajyo.htm
  22. 【富山県のお城】隣国の武将たちが覇権を争い、築かれたお城の数は約400! - 城びと https://shirobito.jp/article/1851
  23. とやまの城 | 特集ページ https://toyama-bunkaisan.jp/features/2843/
  24. 増山城跡 | 文化遺産検索 https://toyama-bunkaisan.jp/search/1654/
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  26. 増山城跡発掘調査報告 - 奈良文化財研究所 https://sitereports.nabunken.go.jp/files/attach/18/18300/13788_1_%E5%AF%8C%E5%B1%B1%E7%9C%8C%E7%A0%BA%E6%B3%A2%E5%B8%82%E5%A2%97%E5%B1%B1%E5%9F%8E%E8%B7%A1%E7%99%BA%E6%8E%98%E8%AA%BF%E6%9F%BB%E5%A0%B1%E5%91%8A.pdf
  27. 増山城跡 - 文化遺産オンライン https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/164811
  28. 増山城跡 | スポット・体験 | 【公式】富山県の観光/旅行サイト「とやま観光ナビ」 https://www.info-toyama.com/attractions/41101
  29. 増山城跡解説ボランティア 曲輪の会 - - 砺波市 https://www.city.tonami.lg.jp/blog/kuruwa/
  30. [お知らせ]増山城跡のガイドをご希望の方へ - 砺波市役所 https://www.city.tonami.lg.jp/info/5692p/