最終更新日 2025-08-22

大田原城

下野大田原城は、大田原資清が築いた下剋上の象徴。那須氏の実権を掌握し、奥州街道を抑える要衝となった。関ヶ原の戦いでは徳川方の最前線基地として大改修され、幕末まで大田原氏の居城として存続。その歴史は、激動の時代を生き抜いた大田原氏の軌跡を語る。

野州大田原城の研究 ―戦国期下野における戦略拠点の実像―

大田原城 関連年表

年代

主要な出来事

典拠

文明18年 (1486)

築城主・大田原資清、誕生。

1

天文11年 (1542)

大田原資清、下野に復帰し大関増次を討つ。長男・高増を大関氏の養子とする。

1

天文12年 (1543) もしくは 天文14年 (1545)

大田原資清、水口居館から移り、龍体山に大田原城を築城。

3

天文20年 (1551)

資清の子・綱清、主君・那須高資の謀殺に関与。資清の外孫・資胤が那須氏当主となる。

5

永禄3年 (1560)

大田原資清、死去。

1

天正13年 (1585)

大田原綱清、薄葉ヶ原の戦いで那須軍の中核として宇都宮軍を破る。

7

天正18年 (1590)

小田原征伐。城主・大田原晴清が豊臣秀吉に参陣し所領安堵。主家那須氏が改易され主従逆転。秀吉、会津へ向かう途上、大田原城に二泊する。

4

慶長5年 (1600)

関ヶ原の戦い。徳川家康の命により対上杉景勝の前線基地となり、城を大改修。石火箭が配備される。

4

寛永4年 (1627)

幕府より有事の際の詰米として米1,000石を預かり、千石倉を設置。

4

文政8年 (1825)

城下で発生した火災が城内にまで延焼する。

4

慶応4年 (1868)

戊辰戦争。新政府軍の拠点となり、会津藩の攻撃を受ける。城内の火薬庫が爆発し、落城を免れる。

3

明治4年 (1871)

廃藩置県により廃城となる。

3

明治5年 (1872)

城は兵部省に引き渡され、建造物が取り壊される。

3

明治19年 (1886)

元大蔵大臣・渡辺国武の所有となる。

3

昭和12年 (1937)

城跡が大田原町(当時)に寄付され、公園として整備が始まる。

4

昭和36年 (1961)

大田原市指定史跡となり、「龍城公園」と命名される。

4

序章:下野国の要衝、大田原城

下野国那須郡、現在の栃木県大田原市の中心市街地に隣接する標高約225メートル、比高約25メートルの龍体山に、大田原城は築かれた 12 。東に蛇尾川の断崖を天然の要害とし、西に広がる平野部には近世を通じて奥州街道が貫通する 4 。この城は、その複雑な縄張りが龍がとぐろを巻く姿に似ていることから「龍城」あるいは「龍体城」との異名を持つ 4 。この比喩的な名称は、単なる形状の描写にとどまらず、この城が内包する高度な防御思想と、300年以上にわたり下野北部の政治・軍事の中心であり続けた歴史的重みを象徴している。

本報告書は、特に戦国時代という視点から大田原城を徹底的に調査し、その築城の背景、城郭構造の特質、そして時代の転換点において果たした戦略的役割を多角的に分析することで、下野国におけるこの要衝の実像を明らかにすることを目的とする。

第一部:築城と大田原氏の勃興 ―下克上の時代―

大田原城は、単なる防御施設として地上に出現したのではない。それは、築城主である大田原資清という一人の武将の野心と権謀術数が具現化した、下克上という時代の象徴であった。城の物理的構造を理解するためには、まずその築城主の人物像と、彼が置かれた激動の時代背景を深く掘り下げる必要がある。

第一章:築城主・大田原資清の実像

大田原城の初代城主、大田原資清(1486-1560)は、戦国時代の典型的な国人領主の姿を体現する人物である 1 。当初、大俵氏を称したその家系は、下野国の有力大名・那須氏に仕える重臣団「那須七騎」の一つに数えられていた 1 。しかし、資清は主家に従属するだけの器ではなかった。

資清の台頭は、主家である那須氏の内部抗争に巧みに介入することから始まる。永正11年 (1514) の家督争いにおいて一方を支持して功を挙げ、那須家中での影響力を増大させた 1 。しかし、その智勇は同僚の讒言を招き、一時は失脚して出家、越前永平寺に潜伏するという苦難を経験する 1 。この雌伏の期間は、彼に再起への執念を植え付けた。

天文11年 (1542)、朝倉氏の援助を得て下野国に帰還した資清の行動は、迅速かつ冷徹であった 2 。かつての政敵であった大関宗増の嫡男・増次を奇襲によって討ち取ると、間髪入れずに自らの長男・高増を大関氏の養嗣子として送り込み、同家を乗っ取る 1 。さらに次男・資孝を福原氏の養子に入れることで、那須七騎のうち三家を事実上の支配下に収め、家中随一の実力者へと駆け上がった 1

資清の謀略の集大成は、主家そのものに向けられた。自らの娘を那須政資に嫁がせ、外孫にあたる那須資胤を次期当主とするべく画策。現当主である那須高資と対立すると、天文20年 (1551)、下野の雄・宇都宮氏の家臣である芳賀高定の調略に加担し、千本資俊を利用して高資を千本城にて謀殺させるに至る 5 。これにより、資清は自らの血を引く資胤を傀儡の当主として擁立し、那須氏の実権を完全に掌握したのである。

第二章:築城前夜の下野国と大田原城

大田原城が築かれた天文12年 (1543) 頃の下野国は、複数の勢力が複雑に入り乱れる、まさに群雄割拠の様相を呈していた。北には資清が実権を握る那須氏、中央には守護大名としての権威を保持する宇都宮氏、東には常陸から勢力を伸ばす佐竹氏、そして南からは小田原を拠点に関東制覇を目論む後北条氏が絶えず圧力をかけていた 16 。特に、那須氏と宇都宮氏との間では、天文18年 (1549) の五月女坂の戦いに代表されるように、領土をめぐる激しい武力衝突が頻発しており、軍事的緊張は極度に高まっていた 9

このような状況下で、資清はそれまでの本拠地であった蛇尾川東岸の水口居館(水口城)から、西岸の龍体山へと拠点を移すという重大な決断を下す 3 。この移転は、単なる引越しではなく、極めて高度な戦略的意図に基づいていた。水口城が防御性に劣る平地の居館であったのに対し、新たに築かれる大田原城は、比高約25メートルの丘陵を利用した堅固な平山城であった 12 。これは、謀略によって簒奪に近い形で手に入れた権力が、常に内外からの武力挑戦に晒される危険性をはらんでいることを資清自身が深く認識していたことを示している。新たに築く城は、自らが創出した新秩序を物理的に防衛するための「権力の要塞化」であり、その存続に不可欠な装置であった。

さらに、大田原城の立地は、地域の主要交通路である奥州街道を直接見下ろし、完全にその管理下に置くものであった 4 。これは、単に防御を固めるだけでなく、人、物資、情報の流通という経済的・情報的側面においても他勢力に対する優位性を確保しようとする、資清の深謀遠慮の表れであった。したがって、大田原城の築城は、資清による下克上プロセスの総仕上げであり、彼の権力基盤を盤石にするための、極めて戦略的な一手であったと結論付けられる。

第二部:城郭の構造と防御思想 ―土造りの城の到達点―

大田原城は、戦国期関東の城郭に特徴的な「土の城」として、極めて洗練された防御思想に基づいて設計されている。石垣を多用せず、地形を最大限に活かし、土塁と堀を巧みに組み合わせることで鉄壁の守りを実現しようとしたその構造は、当時の城郭技術の一つの到達点を示すものである。

第一章:縄張りの全体像 ―「龍がとぐろを巻く」構造―

大田原城の縄張り(城の設計)は、龍体山の地形を巧みに利用した複郭式平山城である。城域は東西約210メートルから300メートル、南北約330メートルから450メートルに及び、広大な敷地を有していた 13

城郭の核となるのは、丘陵の最高所に置かれた本丸である。その周囲に、南の二の丸、北の北曲輪、そして麓の平坦部に三の丸と西曲輪が有機的に配置されている 3 。全体で8つの主要な曲輪(防御区画)から構成されていたとの分析もある 4

この城が「龍がとぐろを巻く」と形容される所以は、単なる外見上の比喩ではない。それは、丘陵の尾根筋に沿って各曲輪を連続的に配置し、敵の侵攻路を意図的に長く、複雑にさせる設計思想そのものを指している。城の正面玄関である大手から本丸に至る動線は、麓の三の丸から二の丸を経由し、何度も屈曲を強いられる構造になっている 14 。直線的な突入を一切許さず、攻め手を引き回しながら消耗させるこの複雑な動線こそが「龍の身体」であり、城全体が一個の巨大な迎撃装置として機能するよう計算され尽くした設計であった。

第二章:防御施設の詳細分析

大田原城の防御システムは、土塁と空堀という基本的な要素を極限まで高めることで構築されている。

土塁と空堀:

城の防御の根幹をなすのは、高く、そして急峻に築かれた土塁と、深く掘り込まれた空堀(横堀)である。特に本丸を全周する土塁は圧巻であり、麓から見上げると圧倒的な高低差を生み出し、物理的にも心理的にも敵の戦意を削ぐ効果を持っていた 11。本丸と二の丸の間や、本丸の周囲を巡る空堀は、各曲輪を独立した防御ユニットとして機能させ、たとえ一郭が破られても、次々と連鎖的に陥落することを防ぐための重要な遮断線であった 11。

特筆すべきは、城の北側、台地続きの部分に設けられた大規模な堀切である。この堀切は尾根筋を完全に断ち切ることで陸続きの弱点を克服しており、さらにその堀底を奥州街道が通過するという極めて特異な構造を持つ 4 。これにより、街道の通行は平時においても戦時においても城の完全な監視下に置かれ、関所としての機能も果たしていたと考えられる。さらに、城の北方、菩提寺である光真寺の裏手には、関ヶ原の戦いに際して徳川家康の命で改修された際に築かれたと推定される、幅8メートルから12メートル、深さ5メートルから7メートルにも及ぶ大規模な外郭線(江戸堀跡)の遺構が残り、城の防御範囲が時代と共に拡大していったことを示している 4

虎口の工夫:

城の出入り口である虎口は、敵を誘い込み殲滅するための罠として巧妙に設計されていた。城の正面玄関にあたる西麓の坂下門は、巨大な枡形門であったとされ、侵入した敵を四方から攻撃できる構造になっていた 20。さらにその前面には三日月堀と呼ばれる水堀の痕跡が残り、門への接近を一層困難にしていた 11。

一方で、本丸南側の主たる入口であった台門は、この城で唯一石垣が用いられた重層の櫓門であったと伝わる 4 。土塁主体の城郭において、なぜこの一点にのみ石垣という高度な技術と多大な労力を要する施設が設けられたのか。これは、城の権威を象徴する役割と、本丸への最終防衛ラインとしての重要性を示すための意図的な設計であった可能性が高い。

このように、大田原城の縄張りは「通路そのものを死地(キルゾーン)とする」という思想を徹底した、立体的な迎撃システムであった。敵は城下に侵入した瞬間から鍵形の道で方向感覚を失い、城域に近づけば枡形虎口で閉じ込められ、曲輪と曲輪を結ぶ通路では常に土塁の上からの側面攻撃に晒される。石垣に頼らずとも、地形と土木技術を最大限に活用することで鉄壁の守りを実現した、戦国期関東の城郭技術の粋を集めた遺構と言える。

第三部:歴史の奔流と大田原城 ―時代の転換点における役割―

大田原城は、戦国時代の終焉から江戸幕藩体制の確立、そして幕末の動乱に至るまで、常に歴史の転換点において重要な役割を果たしてきた。その歴史は、城主・大田原氏がいかにして激動の時代を生き抜き、この城の持つ地政学的な価値を最大限に活用してきたかの証左である。

第一章:戦国乱世から天下統一へ

築城後も、大田原城は那須氏と宇都宮氏との間の絶え間ない抗争における軍事拠点として機能した。天正13年 (1585) の薄葉ヶ原の戦いでは、城主・大田原綱清が那須軍の中核として宇都宮国綱の軍勢を破る上で、本城が後方支援と兵站の拠点として極めて重要な役割を果たしたことは想像に難くない 2

この城が歴史の表舞台に大きく登場するのは、天正18年 (1590) の豊臣秀吉による小田原征伐の時である。主家である那須氏が秀吉への参陣を躊躇し、結果的に改易処分を受ける一方、当主・大田原晴清は独自に小田原に参陣し、7,000石の所領を安堵された 6 。これにより、長きにわたった那須氏との主従関係は完全に逆転した。この歴史的な主従逆転を象徴するかのように、秀吉自身が奥州仕置のために会津へ向かう途上、大田原城に二泊している 4 。これは、秀吉が晴清を那須地域の新たな主導者として公に認めたことを意味し、大田原城が中央政権からも認められた戦略拠点となった瞬間であった。

さらに慶長5年 (1600) の関ヶ原の戦いでは、大田原城の戦略的価値は一層高まる。北の会津に拠る上杉景勝への備えとして、徳川家康から直接、城の大規模改修を命じられたのである 4 。この時、前述の江戸堀などが構築され、城の防御力は飛躍的に向上した 4 。家康の命で石火箭(原始的な火薬推進兵器か)が配備されたという記録は、この城が徳川方にとっての文字通り最前線基地であったことを物語っている 4 。この戦いにおける功績により、大田原氏は戦後加増され、1万2千石余の近世大名として大田原藩を立藩。大田原城はその藩庁として、新たな時代を迎えることとなった 11

第二章:近世大田原藩の藩庁として

江戸時代に入ると、大田原城の役割は軍事拠点から、大田原藩の行政と支配の中心地へと移行する。大田原氏は一度の国替えもなく、明治維新に至るまで300年以上にわたりこの地を治め続けた 11 。これは、江戸幕府が引き続き大田原城を奥州街道の要衝、そして仙台藩伊達氏をはじめとする北方の有力外様大名への「押さえ」として戦略的に重視していたことの証左である。寛永4年 (1627)、幕府の命により有事の際の兵糧米として1,000石を保管する「千石倉」が城内に設置されたことは、その象徴的な出来事であった 4

城の機能の変化に伴い、城下町の整備も進められた。奥州街道の宿場町としての機能を取り込み、城と町が一体となった都市計画が実行される 4 。街道沿いには間口が狭く奥行きの深い短冊形の地割で町人地が形成され、城の周辺には武家屋敷が配置された 23 。町中の道が意図的に直角に曲げられた「鍵形の道」の存在は、平時においてもなお、城下町全体に防御的な思想が貫かれていたことを示している 12

戦乱が収まった平時の城として、本丸には藩の政務を執り行う役所と藩主の居住空間が一体となった御殿が建てられた 4 。しかし、その一方で文政8年 (1825) には城下の大火が城内まで延焼するなど、平時ならではの災害にも見舞われた記録が残っている 4

大田原城の歴史的価値は、戦国期と近世という二つの異なる時代において、常に「境目の城」としての地政学的重要性を維持し続けた点にある。戦国期には那須氏と宇都宮氏という地域勢力間の「境目」に位置し、織豊期には関東と奥州という天下統一事業の「境目」の結節点となった。そして江戸時代には、幕府の支配が及ぶ江戸と、潜在的な脅威と見なされ続けた奥州の有力外様大名との間の「境目」を監視する戦略拠点であり続けた。城主・大田原氏の長期にわたる存続は、この城が持つ不変の地政学的優位性と、それを巧みに活用した歴代当主の優れた政治手腕の賜物であったと言えよう。

第四部:終焉と現代への継承

300年以上にわたり大田原氏の居城としてあり続けた大田原城は、幕末の動乱の中で最後の役割を果たし、その歴史に幕を下ろした。しかし、城としての機能は失われた後も、その遺構は形を変えて現代に受け継がれている。

第一章:戊辰戦争の戦火

慶応4年 (1868) に戊辰戦争が勃発すると、大田原藩は早期に新政府軍への恭順を表明した。これにより、大田原城は奥州街道を押さえる地政学的な重要性から、会津藩を攻撃するための新政府軍の重要な前線基地となった 3

これを阻止すべく、会津藩兵を中核とする旧幕府軍は同年5月2日、大田原城に大規模な攻撃を仕掛けた 10 。城下はたちまち戦火に包まれ、下町、中町に火が放たれた。旧幕府軍は大手門や大久保門口から城内へ突入し、三の丸などが焼失する激しい攻防戦が繰り広げられた 5

城の命運が尽きようとしたその時、劇的な出来事が起こる。城兵が立てこもる華陽門内の作事場に旧幕府軍が火を放ったところ、そこに保管されていた新政府軍の小銃弾薬約5万発が誘爆し、轟音と共に大爆発を起こしたのである 10 。この予期せぬ爆発に驚愕した旧幕府軍は、これを地雷の爆発と誤認して大いに動揺し、混乱の末に撤退した 3 。この偶発的な出来事により、大田原城は落城を免れた。この逸話は、大田原城の長い歴史の最終章を飾る象徴的な出来事として語り継がれている。

第二章:廃城から史跡公園へ

戊辰戦争を乗り越えた大田原城であったが、城郭としての歴史は近代化の波と共に終わりを迎える。明治4年 (1871) の廃藩置県によって廃城となり、翌年には兵部省の所管となって城内の建造物はすべて取り壊された 3

その後、城跡は明治19年 (1886) に元大蔵大臣の渡辺国武の所有となるが、昭和12年 (1937) に大田原町(当時)へ寄付され、市民のための公園として新たな道を歩み始めることとなった 3 。戦時中には本丸土塁上に防空監視哨が置かれるなど、時代の要請に応じた利用もなされた 4

現在、城跡は「龍城公園」として整備され、桜やツツジが咲き誇る市民の憩いの場となっている 13 。しかしその地下には、戦国時代から続く歴史が眠っている。本丸、二の丸、北曲輪などに残る壮大な土塁や空堀は、往時の姿を非常によく留めており、昭和36年 (1961) には市の史跡に指定され、その歴史的価値が公式に認められている 4

皮肉なことに、戊辰戦争末期の「爆発」という破壊的な事象が、結果として城の完全破壊を食い止め、戦国期以来の土塁や堀といった城郭の基本構造を現代にまで良好な状態で残す一因となった。この歴史の逆説により、我々は今日、中世から近世への城郭変遷を物語る貴重な遺構を実見することができるのである。

下野国 中北部における主要城郭比較分析

項目

大田原城

宇都宮城

唐沢山城

立地

平山城 (比高約25m) 12

平城 27

山城 (標高247m) 28

築城・改修主体

大田原氏 (那須氏家臣→近世大名) 3

宇都宮氏 (守護大名)→近世譜代大名 (本多正純ら) 27

佐野氏 (国人領主→近世大名) 28

城郭構造

複郭式。土塁・空堀を主体とする「土の城」。本丸台門にのみ石垣を使用 4

輪郭梯郭複合式。広大な惣構えを持つ。土塁主体だが、近世改修で要所に石垣導入 27

連郭式。関東では珍しい高石垣を多用。天然の岩盤も防御に活用 31

戦略的役割

那須・宇都宮間の「境目の城」。奥州街道の押さえ。徳川政権の対北方拠点 4

下野国支配の中心拠点。日光社参時の将軍宿泊所 27

上杉・北条間の「境目の城」。関東一の山城と称される防御拠点 28

歴史的変遷

戦国期に築城。関ヶ原前に徳川氏により大改修。幕末まで大田原氏が藩庁を置く 4

平安期に起源。戦国期に拡張。江戸初期に本多正純が大改築し近世城郭として完成 27

平安期に起源伝承。戦国期に上杉謙信の猛攻を度々撃退。慶長7年に廃城 28

結論:大田原城の歴史的意義

大田原城の歴史を深く考察すると、その意義は三つの側面に集約される。

第一に、 下克上と権力闘争の象徴 である点だ。この城は、築城主・大田原資清の個人的な野心と、主家を凌駕し実権を掌握するという戦国乱世の権謀術数が結晶化したものである。その堅固な構造は、謀略によって得た不安定な権力を、武力によって維持しようとする強い意志の表れに他ならない。

第二に、 「境目の城」としての卓越した地政学的価値 である。地域紛争の最前線として誕生し、織豊政権下では関東と奥州を結ぶ結節点として、徳川政権下では江戸と北方を隔てる要衝として、そして幕末の内乱では新政府軍の対会津拠点として、大田原城は常に時代の転換点において重要な戦略拠点であり続けた。その300年以上にわたる歴史は、城主・大田原氏がこの城の持つ地政学的価値をいかに巧みに利用し、激動の時代を生き抜いたかを示す証左である。

第三に、 関東における「土の城」の優れた好例 である点だ。高石垣を多用することなく、地形を読み解き、土塁と堀という基本的な要素を高度に組み合わせることで鉄壁の防御を誇ったその縄張りは、戦国期関東の城郭技術の一つの到達点を示す貴重な遺構である。戊辰戦争の戦火を奇跡的に潜り抜け、今日まで良好な状態で保存されているその姿は、中世から近世へと移行する日本の城郭史を研究する上で、第一級の史料的価値を有している。

引用文献

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  3. 大田原城跡(おおたわらじょうあと) 市指定史跡 | 大田原市 https://www.city.ohtawara.tochigi.jp/docs/2013082778963/
  4. 大田原城と城下町 https://www.city.ohtawara.tochigi.jp/docs/2024052100035/file_contents/ohtawarajyouko-su2.pdf
  5. 大田原城:主家那須氏を欺き豊臣秀吉から所領を安堵された大田原氏の居城 大田原城【お城特集 日本の歴史】 https://www.jp-history.info/castle/5077.html
  6. 武家家伝_大田原氏 - harimaya.com http://www2.harimaya.com/sengoku/html/otawa_k.html
  7. 大田原綱清 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E7%94%B0%E5%8E%9F%E7%B6%B1%E6%B8%85
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  9. 武家家伝_大田原氏 - harimaya.com http://www.harimaya.com/o_kamon1/buke_keizu/html/otawa_k.html
  10. 第二章 幕兵の大田原城襲撃 - ADEAC https://adeac.jp/otawara-city/texthtml/d100010/mp000010-100010/ht080020
  11. 大田原城 - 城びと https://shirobito.jp/castle/632
  12. 大田原城の見所と写真・200人城主の評価(栃木県大田原市) - 攻城団 https://kojodan.jp/castle/387/
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  14. 関東の城(大田原城) https://tenjikuroujin.sakura.ne.jp/t03castle02/020504/sub020504.html
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  16. 下野勢力絵図 - 下野戦国争乱記 http://shimotsuke1000goku.g2.xrea.com/ryoudo.htm
  17. 東日本の戦国時代 https://umenoyaissei.com/higashinihonnosengokujidai.pdf
  18. 訪問記「早乙女坂古戦場」@喜連川早乙女|スキマニウム - note https://note.com/gensouseirei09/n/n7e222f94b734
  19. 大田原城の写真:縄張り図[てつさん] - 攻城団 https://kojodan.jp/castle/387/photo/155681.html
  20. 大田原1 - 栃木県の中世城郭 http://www.saichu.sakura.ne.jp/2019oodawara.html
  21. 日本の城探訪 大田原城 - FC2 https://castlejp.web.fc2.com/02-kantoukoushinetsu/108-ootawara/ootawara.html
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