最終更新日 2025-08-23

大除城

伊予国境の要塞「大除城」の興亡 ― 戦国を生きた城主・大野氏三代の軌跡

序章:国境の山城、大除城 ― 伊予防衛の最前線

伊予国(現在の愛媛県)と土佐国(現在の高知県)を分かつ四国山地の奥深く、久万盆地の東縁に、戦国の世の緊張を今に伝える山城がある。その名を大除城(おおよけじょう)という。本報告書は、この城が単なる石と土の構造物ではなく、戦国という激動の時代において伊予国の命運を左右する戦略的要衝として機能し、城主であった大野氏一族の栄枯盛衰の舞台となった歴史的実体を解き明かすものである。城の名に込められた「敵を大いに除く」という気概は、土佐からの絶え間ない軍事的圧力に晒され続けた伊予国人たちの、並々ならぬ覚悟の表れであった 1

本報告は、まず大除城の地理的条件と城郭構造を分析し、その軍事的思想を読み解くことから始める。次いで、この城を託された武門・大野氏の系譜を室町時代まで遡り、彼らが如何にして国境防衛の任を担うに至ったかを明らかにする。報告の中核をなす部分では、大除城主三代、すなわち初代・直家(朝直)、二代・利直、そして三代・直昌の治世を詳細に追い、彼らが繰り広げた激闘と、その中で育まれた文化、そして一族を襲った悲劇を浮き彫りにする。最後に、長宗我部氏の四国統一戦と豊臣政権による天下統一という時代の奔流の中で迎えた落城の瞬間、そして軍事拠点としての役割を終えた後、地域の中でどのように記憶され、現代にその歴史を継承しているのかを論じる。この城の物語は、一地方城郭の歴史にとどまらず、戦国時代における国境地帯の力学と、そこに生きた人々の克明な記録なのである。

第一章:大除城の地理と構造 ― 戦略思想の具現

大除城の歴史的価値を理解するためには、まずその物理的特性、すなわち、なぜその場所に築かれ、どのような構造を持っていたのかを分析する必要がある。城の立地と縄張りは、築城主の戦略思想を雄弁に物語る無言の証言者である。

第一節:久万盆地を扼する戦略的要衝

大除城は、愛媛県上浮穴郡久万高原町の菅生地区、標高694.2メートル、麓からの比高約190メートルの山頂に築かれている 3 。この場所は、南北に広がる久万盆地を一望のもとに収めることができ、土佐から伊予への主要な侵攻経路の一つであった久万街道(現在の国道33号線沿いのルート)を直接監視し、統制下に置くための絶好の戦略拠点であった 4 。城の存在そのものが、土佐勢力に対する強力な牽制として機能したことは想像に難くない。

現在、城山の南面から西面にかけては砕石採取によって大きく削り取られており、往時の姿を完全に偲ぶことは困難となっている 4 。しかし、その特異な山容は遠方からでも容易に城跡であることを識別させ、かつての威容を物語っている 3 。この遺構の一部破壊は、歴史的遺産の保存と現代の産業活動との間に横たわる緊張関係を示す、今日的な課題を我々に突きつけている。

第二節:縄張りに見る防御思想

大除城は、山頂の主郭を中心に、そこから派生する複数の尾根上に曲輪を階段状に配置した、典型的な連郭式の山城である 3 。発掘調査の記録は確認されていないが、現存する遺構からその巧みな防御設計を読み取ることができる。

城の防御施設として、曲輪、石垣、石塁、土塁、そして尾根を分断する堀切が確認されている 3 。主郭の虎口(出入口)は、進入路を屈曲させて敵の侵入速度を削ぐための小さな内桝形状の構造を持ち、周囲は石垣で固められていたと推測される 3 。特に主郭東側面に残る上下二段の石積は保存状態が比較的良好で、当時の高度な築城技術を今に伝えている 3

さらに注目すべきは、斜面からの敵兵の移動を妨げるために築かれた竪石塁の存在である 3 。これは、単に水平方向の防御だけでなく、三次元的な防御網を構築しようとした築城主の意図を示すものである。また、城の北東約200メートル、標高約710メートルの地点には物見櫓跡も確認されており、大除城が単独で機能していたのではなく、周辺の監視施設と連携した広域的な防衛システムの中核を担っていたことがわかる 4

第三節:築城を巡る諸説と「大除」の由来

大除城の正確な築城年代については、複数の説が伝えられており、このことは逆に城の歴史の重層性を示唆している。

  • 寛正五年(1464年)説 : 久万地方で勢力を張っていた久万出雲入道を討伐した大野氏の兄弟(通繁・綱直)が、この地に砦を構えたとする説 2 。これは大野氏による久万支配の端緒を示すもので、大除城の原初形態と見なすことができる。
  • 文亀元年(1501年)頃説 : 伊予守護の河野氏が、土佐国司であった一条氏の侵攻に備えるため本格的に築城し、重臣の大野直家(朝直)を城主として配置したとする説 3 。これが、組織的な国境防衛拠点としての大除城の始まりとして、最も広く知られている。
  • 天文年間(1532年-1554年)説 : 現地の案内板などに見られる説で、土佐の脅威が一条氏から、より強大な長宗我部氏へと移り変わる時期と符合する 4

これらの諸説は、必ずしも相互に排他的なものではない。むしろ、大除城が一度の普請で完成したのではなく、時代ごとの軍事的要請に応じて段階的に発展・強化されていった過程を示すものと解釈するのが最も合理的である。すなわち、15世紀半ばに大野氏による在地支配の拠点となる小規模な砦として誕生し、16世紀初頭に河野氏の国家戦略の一環として対一条氏の防衛拠点へと大規模に改修・拡張された。そして、天文年間に長宗我部氏の脅威が増大するのに伴い、さらなる防御機能の強化が図られた、という重層的な歴史像が浮かび上がる。この視点に立つことで、一見矛盾する記録が、城の約一世紀にわたる役割の変遷を物語る貴重な証言として統合されるのである。

城の名称である「大除」は、その目的を簡潔かつ力強く表している。「敵兵の害を大いに除く」という強い意志が込められており、この城が単なる支配拠点ではなく、伊予国の平和と安寧を土佐の脅威から守り抜くという、明確な使命を帯びていたことを示している 1

第二章:城主・大野氏の系譜と黎明 ― 久万山に根を張る武門

大除城の歴史は、その城主であった大野氏の歴史と分かち難く結びついている。伊予守護・河野氏が、なぜ大野氏という一族に国境防衛の最前線という重責を託したのか。その答えは、大野氏が室町時代の動乱期から戦国時代にかけて歩んだ、武門としての足跡の中にこそ見出すことができる。

第一節:大伴氏後裔の誇り

大野氏は、その出自を天智天皇の皇子・大友皇子に遡り、奈良時代の高官・大伴旅人を経る名門の系譜を称している 9 。この出自が歴史的事実であるかを検証することは困難であるが、重要なのは、彼ら自身がそう認識していたことである。その何よりの証拠が、二代城主・大野利直が天文17年(1548年)に寄進した梵鐘の銘文である。そこには「大旦那大伴朝臣大野紀易利直」と明確に刻まれており、自らを古代の名門・大伴氏の後裔と公に示している 2 。これは、戦国の世を生きる国人領主が、自らの権威と正統性を内外に誇示するための、意識的な出自の主張であったと考えられる。

大野氏が大除城に入る以前は、喜多郡宇津(現在の大洲市宇津)を本拠地としていたとされ、この地には現在も大野家住宅長屋門が国指定有形文化財として残っている 1

第二節:室町期の動乱と勢力拡大

大野氏が歴史の表舞台でその名を顕著にするのは室町時代である。応永25年(1418年)には将軍・足利義持から伊予国での軍功を賞されるなど、中央の政治動向とも密接に関わりながら活動していた 2

特に注目すべきは、彼らが早くから伊予・土佐国境地帯での軍事活動に関与していた点である。宝徳2年(1450年)、室町幕府は土佐国の有力国人であった津野氏の討伐を大野氏に命じている 2 。津野氏の所領は伊予国久万山と境を接しており、この幕命による土佐への出兵は、大野氏が対土佐戦における軍事的な専門知識と経験を蓄積する重要な機会となった。

その後、一族は当主の急死などにより一時家が断絶するほどの苦難に見舞われるが、寛正3年(1462年)に家名を再興する 2 。この再興の過程で、彼らは小田地方の在地領主たちに新たな将として推戴され、当時久万地方で勢力を誇っていた久万出雲入道を寛正5年(1464年)に討伐。これにより、大野氏は久万・小田という、まさに土佐との国境地帯における支配権を自力で確立したのである 2

この一連の歴史的経緯を俯瞰すると、大野氏が大除城主に抜擢された背景が明確になる。それは単なる主君・河野氏による一方的な命令ではなく、むしろ必然的な帰結であった。伊予守護である河野氏にとって、土佐からの侵攻は常に領国経営における最大の懸念事項であった 2 。その国境防衛の責任者を選ぶにあたり、①幕府の命令で土佐の国人と戦った公式な軍事経験を持ち、②久万・小田という最前線地域の地理と人心を自力で掌握している、という二つの条件を完璧に満たす大野氏は、他に代えがたい最適な人材であった。大除城主への就任は、大野氏が数世代にわたって培ってきた武門としての専門性が最も活かされる役割であり、彼らのこれまでの歴史の到達点であったと言えよう。

第三章:大除城主三代の興亡 ― 激闘と悲劇の百年

大除城がその名を歴史に刻んだのは、城主としてこの地を治めた大野氏三代、すなわち直家(朝直)、利直、直昌の時代である。文亀元年(1501年)頃の初代就任から天正13年(1585年)の開城まで、約80年間にわたる彼らの治世は、伊予国境における激闘と、一族の栄光、そして悲劇の歴史そのものであった。

表1:大除城主大野氏三代の略年表

城主

時代

生没年

主要な事績・出来事

関連人物・勢力

初代

大野 直家(朝直)

文明3年(1471年) - 永正16年(1519年)

- 文亀元年(1501年)頃、初代大除城主として就任。対土佐防衛の礎を築く。 - 永正5年(1508年)、大内義興に従い上洛、三好氏との合戦に参加。 - 永正16年、49歳で死去。法名は口称院殿唯心即是大居士。

河野氏、一条氏、大内義興

二代

大野 利直

明応2年(1493年) - 天正8年(1580年)

- 父の跡を継ぎ二代城主となる。母は河野通秋の娘。 - 天文17年(1548年)、早逝した長男・友直の追善供養のため、菅生山大宝寺に梵鐘(国重文)を寄進。 - 棚居城主・平岡房実との不和、戒能氏との合戦など、伊予国内の勢力と激しく争う。 - 天文22年(1553年)、四男・直昌に家督を譲る。 - 天正8年、88歳で死去。

平岡房実、黒川通俊、戒能通運

三代

大野 直昌

享禄3年(1530年) - 天正17年(1589年)

- 家督相続時に兄・直秀との内紛が発生。 - 「父祖に超える武勇」と評され、数々の合戦で武功を挙げる。 - 天正2年(1574年)、笹ケ峠合戦で長宗我部元親の謀略にかかり、弟や家臣団の多くを失う壊滅的打撃を受ける。 - 天正13年(1585年)、豊臣秀吉の四国征伐に伴い、主家・河野氏と共に小早川隆景軍に降伏し、大除城を開城。 - 主君・河野通直に従い安芸国竹原へ移住し、天正17年に62歳で客死。

大野直之、長宗我部元親、河野通直、小早川隆景

第一節:初代・大野直家(朝直)の時代 ― 国境防衛の礎を築く

大野直家(史料によっては朝直とも記される)は、文明3年(1471年)に生まれた 2 。彼は伊予守護・河野氏の戦略的判断と、久万・小田地方の在地領主たちの衆望を担い、文亀元年(1501年)頃、初代大除城主として着任した 1 。彼の就任は、それまで散発的であったかもしれない対土佐防衛を、大除城を中核とする組織的な防衛線へと再編する画期的な出来事であった。彼は永正16年(1519年)に49歳で死去するまで、土佐からの侵攻を skutecznie 防ぎ、国境地帯の安定に大きく貢献したと伝えられる 2 。彼の治世によって築かれた安定基盤が、次代以降の大野氏の発展を可能にした。その法名「口称院殿唯心即是大居士」から、かつて入野村にあった口称院という小堂が彼の墓所であった可能性が指摘されており、その記憶は地域の寺院に受け継がれている 2

第二節:二代・大野利直の武威と信仰 ― 勢力圏の維持と文化的功績

父・直家の跡を継いだ二代城主・利直の時代は、大野氏の勢力が頂点に達した時期であった。明応2年(1493年)生まれの利直は、母が河野通秋の娘であったことから、主家である河野氏との血縁的な結びつきを一層強固なものにした 2

しかし、彼の治世は平穏ではなかった。土佐からの脅威に加え、伊予国内の他の有力国人との緊張関係が顕在化する。特に、同じく河野氏の重臣であった棚居城主・平岡房実との不和は深刻であった 2 。興味深いことに、利直の妻は平岡房実の娘であり、三代直昌を産んでいる 2 。この婚姻関係にもかかわらず両者は激しく対立し、利直は平岡一党である戒能氏の籠る大熊城などを攻撃している 2 。この事実は、戦国時代の国人領主が、主家に従属するだけでなく、独自の利害と判断基準で行動する半独立的な存在であったことを如実に示している 13

利直の時代を象徴するのが、文化的功績である。天文17年(1548年)、彼は若くして亡くなった長男・友直の菩提を弔うため、菅生山大宝寺に梵鐘を寄進した 2 。この梵鐘は現在、松山市の石手寺に所蔵され、国の重要文化財に指定されている 2 。鐘に刻まれた銘文は、大野氏の出自意識や当時の信仰を知る上で、他に代えがたい第一級の歴史資料である。

利直は天文22年(1553年)に四男・直昌に家督を譲った後も隠居として影響力を保ち、天正8年(1580年)、88歳という長寿を全うしてこの世を去った 2 。彼の長く安定した治世は、大野氏の最盛期そのものであった。

第三節:三代・大野直昌の激闘 ― 誉れ高き武将の悲劇

享禄3年(1530年)生まれの三代城主・大野直昌は、大野氏歴代の中でも最も武勇に優れた将として知られる 2 。『予陽河野家譜』は彼を「元来武勇父祖に超え度々無双の誉を抽て」と最大級の賛辞で評している 2 。しかし、彼の生涯は、その武名とは裏腹に、一族の悲劇と没落の時代に重なっていた。

家督相続は波乱の幕開けであった。直昌は正室の子であったが四男であり、これを不服とした庶兄の直秀が出奔するなど、家中に軋轢が生じた 2 。この内紛は、後のさらなる悲劇の遠因となる。城主となった直昌は、土佐一条勢の侵攻や、毛利氏、三好氏と結んだ勢力との戦いなど、伊予国をめぐる数多の合戦に出陣し、大除城を中核とする山方衆を率いて防衛の最前線で獅子奮迅の働きを見せた 2

しかし、天正2年(1574年)、大野氏の運命を暗転させる事件が起こる。「笹ケ峠合戦」である。この頃、弟の大野直之が主家である河野氏に背き、土佐の長宗我部元親を頼っていた。元親の仲介で、直昌と直之は和睦のため予土国境の笹ケ峠で会見することになった 2 。しかしこれは、元親が仕掛けた巧妙な罠であった。和睦の席に現れたのは土佐の伏兵であり、不意を突かれた大野勢は一方的に蹂躙された。この騙し討ちにより、直昌の弟・東筑前守をはじめ、大野氏を代々支えてきた日野、土居、林といった譜代の重臣70余名が討死するという、まさに壊滅的な打撃を受けたのである 2 。直昌自身は奮戦の末に九死に一生を得て生還したが、この一戦で失ったものはあまりにも大きかった。

この笹ケ峠合戦は、単なる一つの戦いではない。これは、長宗我部元親による、伊予侵攻のための極めて高度な戦略の一環であった。元親は、大野氏とその配下の山方衆が伊予国境防衛の要であることを熟知していた。そして、直昌と直之の兄弟間の不和という、大野氏が抱える内部の脆弱性を見抜き、これを最大限に利用した。和睦交渉という偽りの舞台設定で、大野氏の軍事的中核をなす指揮官層と歴戦の兵士たちを一挙に葬り去ったのである。これは、敵の頭脳と神経系を破壊する、見事なまでの戦略的 decapitation(斬首作戦)であった。この敗北により、大野氏の組織的抵抗力は著しく低下し、伊予の国境防衛網には修復不可能な穴が開いた。それは、後の元親による本格的な伊予侵攻を容易にするための、周到な地ならしであり、大野氏一族だけでなく、伊予国全体の運命を左右する決定的な転換点となったのである。

第四章:四国動乱と落日の刻 ― 天正の陣と開城

笹ケ峠の悲劇によって伊予国境の守りが弱体化した後、四国全土を巻き込む巨大な戦乱のうねりは、ついに大除城と城主・大野氏を飲み込んでいく。戦国時代の最終局面、それは個々の武将の武勇よりも、巨大な軍事力と政治力が全てを決する時代の到来であった。

第一節:長宗我部元親の伊予侵攻

笹ケ峠で大野氏に致命的な打撃を与えた長宗我部元親は、もはや久万山からの正面突破という困難な作戦に固執しなかった。彼は戦略を転換し、東予(四国中央市・新居浜市方面)及び南予(宇和島市方面)から伊予を大きく包囲・侵食していく大戦略へと打って出た 2 。この巧みな戦略により、伊予の国人たちは次々と元親の軍門に降り、主家である河野氏の勢力は急速に削がれていった。

長引く戦いで国力は疲弊し、かつての勢いを失った河野氏は、天正13年(1585年)春、ついに長宗我部元親に降伏した 15 。主家の降伏は、その一翼を担ってきた大除城にとって、存在意義そのものを揺るがす出来事であった。伊予防衛の最前線という使命は、その守るべき対象が敵の支配下に入ったことで、事実上消滅したのである。大除城は戦略的に完全に孤立した。

第二節:豊臣秀吉の四国征伐と大除城の終焉

元親による四国統一がまさに完成しようとしていた天正13年(1585年)夏、日本の政治情勢は新たな局面を迎えていた。中央で天下統一を進める豊臣秀吉が、元親の四国支配を認めず、10万ともいわれる大軍を四国へ派遣したのである。世に言う「天正の陣(四国攻め)」である 17

伊予方面には、毛利氏の重鎮であり、秀吉軍の総大将の一人であった小早川隆景が率いる大軍が上陸した 19 。長宗我部方に属していた伊予の諸城は次々と攻略されたが、大除城は戦火を交えることがなかった。その理由は、第一に、主君である河野通直がすでに元親に降伏しており、豊臣方から見れば敵方であったこと。第二に、小早川軍の兵力が圧倒的であり、籠城しても勝ち目がないことは明白であったことである。

大野直昌は、主家・河野氏と運命を共にすることを選び、小早川軍に降伏。大除城は戦うことなく開城された 3 。これは、個々の城の堅固さや城主の武勇よりも、大局的な政治・軍事バランスが勝敗を決するという、新しい時代の戦のあり方を象徴する出来事であった。

伊予一国は小早川隆景の所領となり、河野氏と大野氏は領地を全て失った。大野直昌は、最後まで主君・河野通直に付き従い、隆景の計らいで安芸国竹原(現在の広島県竹原市)へと移り住んだ 3 。伊予国境を守り抜き、数々の武功を挙げた名将は、再起の夢を果たすことなく、主君の死から二年後の天正17年(1589年)7月26日、62歳で異郷の地にて静かにその生涯を閉じた 2

第五章:城の終焉と記憶の継承 ― 歴史遺産としての大除城

天正13年の開城により、大除城は国境防衛の最前線という軍事的役割を終えた。しかし、城の物語はそこで終わったわけではない。近世大名の支配下での変遷、そして何よりも地域の人々の心の中に生き続けた記憶の継承は、大除城のもう一つの重要な歴史である。

第一節:近世大名支配下の城

四国平定後、伊予国は加藤嘉明の所領となった。文禄4年(1595年)、その重臣である佃十成(つくだかずなり)が六千石を与えられ、大除城代としてこの地に入った 3 。これは、大除城が依然として久万山地方を統治するための拠点として、一定の価値を認められていたことを示している。

しかし、その統治のあり方は、大野氏の時代とは大きく異なっていた。在地に深く根を下ろし、地域の国人たちを束ねていた大野氏に対し、佃十成は中央から派遣された支配者であった。彼の支配は厳しく、私腹を肥やすなどの悪政があったと伝えられ、ついには慶長年間に久万山の民衆が藩主・加藤嘉明に直訴する「佃十成排斥運動」にまで発展した 20 。この事件は、在地に根差した中世的な国人領主の統治と、中央集権的な近世大名の家臣による統治との間に生じた、文化や価値観の摩擦を示す興味深い事例と言える。

やがて加藤嘉明が松山城の築城を開始し、近世的な城郭配置の再編を進める中で、伊予国内の支城はその役割を終えていく。大除城もこの時代の流れの中で、正式に廃城となったと考えられる 21 。こうして、城は軍事施設としての歴史に幕を下ろした。

第二節:故山に還りし魂 ― 大野直昌位牌の発見

城が廃墟と化し、歳月が流れても、地域の人々は城主・大野氏の記憶を語り継いでいた。そして昭和29年(1954年)、その記憶が奇跡を呼び起こす。地元の郷土史家たちの熱心な調査により、大野直昌が最期を迎えた地、広島県竹原市の観音堂に、彼の位牌が三百数十年間、人知れず祀られていたことが発見されたのである 2

位牌には、表に「永称院殿直真宗昌大居士」という法名、裏には没年月日と共に「予州浮穴郡久万山大除城主大野山城守大伴直昌」という、彼の生涯を凝縮した肩書がはっきりと記されていた 2 。この発見は、文献史料の記述を裏付けるとともに、忘れ去られていた英雄の魂が確かに存在したことを証明するものであった。

地元住民の熱意と尽力により、位牌は同年10月15日、実に三百六十五年ぶりに故郷である久万の地へと帰還を果たした 2 。現在は、城の麓にある槻ノ沢地区の集会所に大切に安置されている。この出来事は、大除城の歴史が単なる過去の記録ではなく、現代に生きる地域の人々のアイデンティティと深く結びついた、生きた物語であることを何よりも雄弁に物語っている。

第三節:地域に根付く伝説と文化財

大野氏の記憶は、位牌だけでなく、様々な形で地域に根付いている。

  • 関連文化財 :
  • 大野直昌の位牌 : 前述の位牌は、歴史的価値が認められ、久万高原町の有形文化財(彫刻)に指定されている 4
  • 陣鐘(どら) : 直昌が戦場で合図に用いたと伝わる直径約30センチの青銅製の陣鐘も現存し、同じく町の有形文化財(工芸)に指定されている 4
  • 伝承 :
  • 直昌つつじ : 城跡に群生するヒカゲツツジは、地元で「直昌つつじ」と呼ばれている。このツツジを他の場所へ移植すると必ず枯れてしまうという伝説が古くから伝えられており、城主の魂が今なおこの地に留まっているという、地域の人々の深い思慕が反映された伝承であろう 2
  • 子孫たち : 大野氏の滅亡後、その一族や幕下の家臣の多くは、他国へ流浪することなく久万・小田の地に帰農した。彼らの中には、江戸時代に庄屋などの村役人を務めた者も多く、その家々によって大野氏の物語は語り継がれてきた 2

大除城の歴史を深く考察すると、そこには二重の構造が見えてくる。一つは、豊臣政権、そして加藤藩という中央権力によってその軍事的役割を剥奪され、廃城という形で終焉を迎える「公式の歴史」である。これは、中央集権化という、より大きな歴史の力学の結果であった 23

しかし、それと並行して、もう一つの歴史が存在する。それは、位牌の奇跡的な帰郷や「直昌つつじ」の伝説に象徴されるように、地域社会の中で城主・大野氏への敬愛と共に生き続ける「地域の記憶」である。権力者が記す「正史」からはこぼれ落ちたとしても、故郷を守るために戦った英雄の記憶は、民衆の心の中で世代を超えて生き続ける。大除城の真の価値は、朽ちていく石垣や土塁といった物理的な遺構だけでなく、この無形でありながらも強靭な「地域の記憶」の中にこそ、見出すことができるのである。

終章:大除城が語りかけるもの

伊予国境の山上に築かれた大除城の歴史は、伊予と土佐という二つの国の地理的・政治的条件が生み出した、戦国時代の縮図である。そこには、伊予守護・河野氏という伝統的権威の戦略、大野氏という在地に根差した国人領主の自立と忠誠、そして土佐の長宗我部氏という新興勢力の野望が交錯する、ダイナミックな歴史のドラマがあった。

一城郭の興亡を通じて、我々は戦国期における地方の軍事、政治、そして文化の様相を深く理解することができる。大除城は、国境防衛という明確な目的のために築かれ、その使命を全うするために城主三代が知勇を尽くした。笹ケ峠の悲劇は戦国の非情さを、そして三百六十五年の時を超えた位牌の帰郷は、歴史が単なる過去の事実の連なりではなく、人間の情念や記憶によって紡がれる生きた物語であることを我々に教えてくれる。

今日、砕石によってその姿を一部変えながらも、大除城跡は久万の里を静かに見下ろしている。それは、戦国乱世を駆け抜けた武士たちの記憶をとどめ、故郷の歴史を未来へと語り継ぐ、かけがえのない歴史の証人なのである。

引用文献

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  2. 第三章 大除城と大野氏 - 久万高原町 https://www.kumakogen.jp/uploaded/attachment/9613.pdf
  3. 伊予 大除城[縄張図あり]-城郭放浪記 https://www.hb.pei.jp/shiro/iyo/ohyoke-jyo/
  4. 伊予の隅々:久万高原町(旧・久万町) http://kotaro-iseki.net/sumizumi/11-kuma.html
  5. 大除城 余湖 http://mizuki.my.coocan.jp/ehime/kumakougen01.htm
  6. 大除城の見所と写真・全国の城好き達による評価(愛媛県久万高原町) - 攻城団 https://kojodan.jp/castle/2756/
  7. 大除城 - 城びと https://shirobito.jp/castle/2561
  8. 第二 - 久万高原町 https://www.kumakogen.jp/uploaded/attachment/9864.pdf
  9. 武家家伝_伊予大野氏 - harimaya.com http://www2.harimaya.com/sengoku/html/iyo_ohno.html
  10. 伊予の「大野」はどこからきたの?|ねこ先生の郷土史 - note https://note.com/kidszemi/n/nb58914268a5b
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  18. No.9 ”大味川六人衆”とは何者か?|くわな - note https://note.com/rain13915/n/nc0af2259374c
  19. 第二節 室町・戦国時代 - データベース『えひめの記憶』|生涯学習情報提供システム https://www.i-manabi.jp/system/regionals/regionals/ecode:3/40/view/11583
  20. 松山城主・加藤嘉明に直訴した久万山の百姓たちの決死の訴え - 弘形工芸 https://hirokata.com/kuma-kogen-kato-yoshiaki-jikiso/
  21. 平岡氏の城 - 久谷の里山 https://kutanisatoyama.com/Lower/hiraoka
  22. 大除城 - Mottyの旅日記 Archive https://mottystraveldiary.hatenablog.com/entry/2024/12/01/113300
  23. 歴史と人物 | 城探訪 | 四国・愛媛の松山城 https://www.matsuyamajo.jp/discover/history.html
  24. 第一二章 - 久万高原町 https://www.kumakogen.jp/uploaded/attachment/9627.pdf
  25. 町内にある指定文化財一覧 - 久万高原町ホームページ https://www.kumakogen.jp/site/education/6687.html
  26. 鎌倉時代の伊予大野氏|ねこ先生の郷土史 - note https://note.com/kidszemi/n/n8b2da42b6000