陸奥大館城は、岩城氏の本拠として南奥羽に栄華を誇るも、関ヶ原合戦後の改易で主を失う。徳川幕府の命で磐城平城が築かれ廃城となるが、その痕跡は今も残り、戦国の記憶を伝える。
陸奥国南部、現在の福島県いわき市にその痕跡を留める大館城(おおだてじょう)。別名を飯野平城(いいのたいらじょう)とも呼ばれるこの城は、戦国時代、南奥羽に覇を唱えた岩城氏の本拠地として、約120年間にわたり地域の政治、経済、そして文化の中心として栄華を極めた巨大城郭である 1 。しかし、その名は近世に築かれた後継の城「磐城平城(いわきたいらじょう)」の影に隠れ、その真価が十分に語られてきたとは言い難い。
本報告書は、この大館城を「戦国時代」という視点から徹底的に再検証し、その多岐にわたる役割と歴史的意義を明らかにすることを目的とする。まず、城の名称について明確にしておく必要がある。戦国期の岩城氏の城が「大館城」または「飯野平城」であり、関ヶ原合戦後に徳川譜代の鳥居氏が築いた近世城郭が「磐城平城」である 3 。この二つは連続した場所にありながら、その設計思想も歴史的背景も全く異なる、断絶した存在として理解されねばならない。
なぜ岩城氏はこの地に巨大な城を築いたのか。それは戦国大名としての岩城氏をどのように支え、またその運命をどう左右したのか。そして、なぜ忽然と歴史の表舞台から姿を消すことになったのか。本報告書は、最新の研究成果と考古学的知見を基に、これらの問いに答え、忘れられた巨城の全貌を解き明かすものである。
この部では、大館城が歴史の舞台に登場し、岩城氏の本拠地として機能し、そして廃城に至るまでの約120年間のドラマを時系列に沿って詳述する。それは、一地方豪族が戦国大名へと飛躍し、中央政権の波に翻弄され、やがて時代の転換点に消えていく、岩城一族の興亡の物語そのものである。
大館城の歴史を紐解く上で、まずその創始について正確に理解する必要がある。築城年代については諸説存在するが、最も有力視されているのは、岩城氏が戦国大名として大きく飛躍する時期と重なる。
一部で伝えられる1407年築城説は、信頼性の高い史料からは確認が難しい。現在、最も有力な説は、文明15年(1483年)、岩城常隆がそれまでの本拠地であった白土城(いわき市平)から拠点を移し、この地に本格的な城郭を築いたとするものである 1 。この年代は、岩城氏が周辺の豪族を次々と支配下に収め、領国支配体制を確立していく画期と完全に一致しており、その信憑性は高い。
しかし、1483年以前からこの地が岩城氏にとって重要な戦略拠点であった可能性も指摘されている。史料によれば、嘉吉2年(1442年)に岩城隆忠が、当時この地を支配していた岩崎氏を滅ぼし、拠点を手に入れたと記録されている 4 。これは、常隆による大規模な築城と政治中枢の移転に先立つ、段階的な拠点化の過程があったことを示唆している。つまり、隆忠による軍事的な制圧を経て、常隆の代に名実ともに岩城氏の本拠地として「大館城」が完成したと考えるのが妥当であろう。
岩城氏がこの地を新たな本拠地として選んだのには、明確な戦略的意図があった。磐城郡と磐前郡の境界に位置し、夏井川と好間川を天然の要害とするこの地は、領国全域への影響力を行使し、さらなる勢力拡大を目指す上で絶好の拠点であった 4 。
白土城からの拠点移転は、単なる引越しではない。それは、岩城氏の戦略思想が、内向きの守りから外向きの拡大へと大きく転換したことを象徴する出来事であった。大館城の築城は、物理的な建設行為に留まらず、周辺の佐竹氏、伊達氏、蘆名氏といった有力大名に対し、岩城氏が南奥羽の新たな主役として名乗りを上げた、極めて政治的な宣言だったのである。
大館城関連年表
年代(西暦) |
元号 |
主な出来事 |
関連資料 |
1442年 |
嘉吉2年 |
岩城隆忠が岩崎氏を滅ぼし、大館城の地を入手したとされる。 |
4 |
1483年 |
文明15年 |
岩城常隆が白土城から移り、大館城(飯野平城)を本格的に築城。 |
1 |
1588年 |
天正16年 |
郡山合戦。岩城常隆が伊達政宗と佐竹・蘆名連合軍を仲介。 |
9 |
1590年 |
天正18年 |
小田原征伐。岩城常隆が参陣し所領安堵されるも、直後に病死。佐竹氏から貞隆が養子に入る。 |
10 |
1600年 |
慶長5年 |
関ヶ原合戦。岩城貞隆は徳川方に参陣せず。 |
12 |
1602年 |
慶長7年 |
岩城氏、改易。鳥居忠政が10万石で入封し、大館城に入る。 |
2 |
1603年 |
慶長8年 |
鳥居忠政が磐城平城の築城を開始。これに伴い大館城は廃城となる。 |
3 |
1625年 |
寛永2年 |
旧城郭内に法印宥浄が月山寺(後の湯殿山神社)を開く。 |
4 |
2017年 |
平成29年 |
「大館城跡」としていわき市の史跡に指定される。 |
3 |
大館城を新たな本拠地とした岩城氏は、その勢力を飛躍的に拡大させ、戦国大名としての黄金期を迎える。この城は、岩城氏の野望を支える軍事・政治の中心として、南奥羽の歴史に深くその名を刻んだ。
常隆、そして次代の盛隆の時代、岩城氏は大館城から出撃し、常陸国北部に進攻して守護の佐竹氏を一時的に服属させ、さらに白河郡の領主白川氏を攻略した 4 。これにより、岩城氏の勢力は陸奥・常陸・下野の三国に跨る広大なものとなり、石高は最盛期に12万石を有したと伝えられる 2 。大館城は、これらの軍事行動を支える司令塔であると同時に、拡大した領国から富が集積する経済の中心地としても機能した 1 。
大館城 岩城氏歴代城主一覧
代 |
城主名 |
在城期間(推定) |
主な事績 |
関連資料 |
- |
岩城隆忠 |
(1442年~) |
岩崎氏を滅ぼし、大館の地を支配下に置く。 |
4 |
15代 |
岩城常隆 |
1483年~1590年 |
大館城を本格的に築城・移転。佐竹氏を服従させ、勢力を最大化。小田原参陣直後に病死。 |
4 |
16代 |
岩城貞隆 |
1590年~1602年 |
佐竹氏より養子に入る。関ヶ原合戦での不参により改易される。 |
2 |
戦国時代後期の南奥羽は、伊達政宗の台頭によって勢力図が大きく塗り替えられていく。岩城氏は、政宗と敵対する佐竹氏や蘆名氏と姻戚関係を結びつつも、単なる従属関係にはなかった。その独立した外交姿勢を象徴するのが、天正16年(1588年)の「郡山合戦」である。この戦いで、岩城常隆は伊達軍と佐竹・蘆名連合軍との間に立ち、巧みに仲介役を務めた 9 。この事実は、岩城氏が周辺の巨大勢力からも一目置かれる存在であり、大館城が南奥羽のパワーバランスを左右する重要な外交の舞台であったことを示している。
天正18年(1590年)、豊臣秀吉による小田原征伐は、関東・奥羽の諸大名に臣従か滅亡かの過酷な選択を迫った。岩城常隆は、この歴史的な転換点において、病身を押して小田原に参陣するという決断を下す 10 。この迅速な対応により、秀吉から所領12万石を安堵され、岩城氏は家名の存続に成功した 11 。
しかし、その直後、常隆は相模国で病死するという悲劇に見舞われる。享年わずか24歳であった 10 。嫡男・政隆はまだ幼く、岩城家は突如として政治的な空白状態に陥った。この機を逃さなかったのが、隣国の佐竹義重である。義重は、豊臣秀吉の「取りなし」という中央の権威を背景に、三男・貞隆を常隆の養子として送り込み、岩城氏の家督を継がせた 10 。
この一連の出来事は、戦国的な実力主義の世界が終わりを告げ、中央の権威が地方の勢力図を意のままに塗り替える新時代の到来を告げるものであった。秀吉にとって、奥羽地方を安定させるためには、伊達氏に対抗しうる佐竹氏の勢力圏を強化することが合理的であった。岩城氏の家督問題への介入は、その奥州仕置政策の一環であり、大館城の主の交代劇は、地方の論理が中央の論理に飲み込まれていく時代の象徴的な事件となったのである。
佐竹氏の影響下に置かれながらも、大館城を拠点に存続した岩城氏であったが、天下分け目の関ヶ原合戦がその運命を決定づけることになる。当主・岩城貞隆の政治的決断は、結果として約120年続いた大館城の歴史に終止符を打つこととなった。
慶長5年(1600年)、関ヶ原合戦が勃発すると、岩城貞隆は難しい立場に立たされた。当初は徳川家康方の東軍に与する姿勢を見せていたものの、実兄であり、石田三成と親交の深かった佐竹義宣が中立的な態度を取ると、その命に従い、家康が命じた上杉景勝征伐に参陣しなかったのである 2 。
この「不参」という決断が、戦後の徳川家康による論功行賞において致命的な失策となった。慶長7年(1602年)、岩城氏は「故なき不参」を理由に12万石の所領を全て没収(改易)され、当主・貞隆は江戸で浪人の身となった 2 。これにより、大館城は主を失い、岩城氏の時代は完全に終焉を迎えた。
岩城氏の旧領には、徳川家譜代の重臣である鳥居元忠の子、忠政が10万石で入封し、一時的に大館城を居城とした 3 。しかし、これはあくまで暫定的な措置に過ぎなかった。徳川幕府には、この地に新たな秩序を築くための壮大な計画があった。
鳥居忠政は、徳川幕府の命を受け、大館城の東に位置する物見ヶ岡に、全く新しい設計思想に基づく近世城郭「磐城平城」の築城を開始する 14 。この新城建設の背後には、北の雄・仙台藩の伊達政宗を牽制するという、幕府の明確な戦略的意図が存在した 14 。
12年の歳月を費やして磐城平城が完成すると、藩の政治中枢はそちらへ完全に移された。そして慶長8年(1603年)頃、戦国時代の栄華を誇った大館城は、その歴史的役割を終え、静かに廃城となったのである 3 。
大館城の廃城と磐城平城の築城は、単なる機能の陳腐化によるものではない。それは、岩城氏という旧来の地域権力の痕跡を意図的に消し去り、徳川の支配という新たな秩序をこの地に刻み込むための、極めて政治的な「破壊と創造」であった。大館城が自然地形を活かした中世的な山城であったのに対し、磐城平城は天守代わりの三層櫓と高石垣を備え、厳格な身分制度を反映した城下町を伴う近世城郭であった 14 。この転換は、戦の時代から治の時代へという、時代のパラダイムシフトを象徴する出来事であったと言えよう。
【比較分析】中世城郭「大館城」と近世城郭「磐城平城」
項目 |
大館城(飯野平城) |
磐城平城 |
時代区分 |
中世末期~戦国時代 |
江戸時代(近世) |
主な城主 |
岩城氏 |
鳥居氏、内藤氏、安藤氏 |
立地・分類 |
丘陵・台地を利用した 山城 |
台地の断崖を利用した 平山城 |
設計思想 |
自然地形を最大限活用した 防御拠点 |
権威の象徴と 政務・支配拠点 |
構造的特徴 |
土塁、空堀、曲輪群が中心。広大な城域。 |
高石垣、水堀、天守代用の三層櫓。 |
城下町 |
比較的有機的な「飯野平」 |
階層別に厳格に区画された「磐城平」 |
政治的背景 |
戦国大名の独立した本拠地 |
徳川幕府による対伊達政宗の 戦略拠点 |
終焉 |
磐城平城築城に伴い 廃城 |
戊辰戦争で焼失後、 廃城 |
この部では、大館城がどのような構造を持ち、いかにして戦国時代の拠点として機能したのかを、地理的条件、遺構、そして城下町の姿から具体的に明らかにする。その姿は、単なる軍事施設に留まらない、複合的な機能を持つ巨大な城塞都市であった。
大館城の縄張り(城の設計)は、戦国時代末期の城郭思想を色濃く反映しており、自然地形を最大限に活用した巧みな防御システムを構築していた。
大館城は、現在のいわき市平、好間、内郷にまたがる広大な台地と丘陵地帯に築かれた山城である 2 。その規模は東西約1500m、南北約300mにも及び、比高差は最大で70mに達する、まさに巨大城郭であった 20 。この広大な城域は、単一の城ではなく、複数の館や曲輪群から構成される「城郭群」としての性格を持っていたことを示唆している。資料によれば、「大館城」「高月館」「飯野八幡宮」を含む一帯を総称して飯野平城と呼んでいたとされ 6 、これは政務、居住、信仰といった多様な機能を持つ区画の集合体であったことを物語っている。この構造は、岩城氏の権力構造そのものを反映し、当主の住む主郭を中心に、一族や重臣たちがそれぞれの館を構える「領域支配」の思想が具現化されたものと考えられる。
城の防御思想の根幹は、自然地形の巧みな利用にある。城の周囲を流れる夏井川や好間川を天然の外堀として活用し、大規模な土木工事をせずとも広大な防御線を形成していた 8 。
城の中心部は、通称「千畳敷」と呼ばれる主郭(本丸)であり、権現山に位置していた 6 。その周囲には、複数の人工的な曲輪が階段状に配置され、主郭と二の郭の間は掘底道として利用されるなど、曲輪間の連絡と防御が一体化した設計が見られる 6 。現地には、これらの曲輪のほか、土塁、堀切、無数の竪堀、物見台の跡などが良好な状態で残存しており 3 、これらは敵の侵攻ルートを限定し、側面からの攻撃を可能にするための工夫であった。その構造は、実践を強く意識した戦国城郭の姿を今に伝えている。
大館城は、単なる軍事要塞ではなかった。その麓には「飯野平」と呼ばれる城下町が広がり、領国の政治、経済、そして文化の中心として活気に満ちていた。
大館城の麓には、政治経済の中心地として城下町「飯野平」が形成されていた 14 。後の磐城平城下町が、武士、町人、寺社といった身分によって居住区を厳格に分けた計画都市であったのに対し、飯野平はより有機的で、武士と町人の居住区が混在する中世的な特徴を持つ都市であったと推測される 14 。この町は、岩城氏の領国経営を支える商業と物流の拠点であった。
岩城氏は武勇だけでなく、文化を重んじる一面も持っていた。連歌師の猪苗代兼載や画僧・雪村などを大館城に招聘し、この地を文化振興の拠点とした 4 。これは、武力だけでなく文化的な権威によっても領国を治めようとする、戦国大名の洗練された姿を示している。
また、城は領民の信仰の中心でもあった。城内には、岩城氏の菩提寺として曹洞宗の青雲院、そして必勝と平和を祈願するために真言宗の長命寺が創建された 4 。特筆すべきは、関ヶ原合戦直前の時期に、浄土宗の高僧・袋中(たいちゅう)が当主・貞隆に招かれ、城内に設けられた菩提院の住職となったことである 2 。『寤寐集(ごびしゅう)』によれば、袋中は城内外で広く仏の教えを説き、多くの信者を得たという。さらに、疫病が流行した際には、人々に薬を施して多くの命を救ったと伝えられており 2 、大館城が領民にとって精神的な拠り所でもあったことを物語っている。
廃城から400年以上の時を経て、大館城はその多くが歴史の闇に埋もれた。しかし、近年の考古学的調査と史跡としての保存活動により、その姿は再び現代に語りかけ始めている。
いわき市内で行われた発掘調査は、文献資料だけでは知り得なかった大館城の具体的な姿を明らかにしつつある。土に眠っていた記憶は、岩城氏の時代の営みを鮮やかに蘇らせた。
特にいわき市立平第一小学校の敷地内などで行われた調査では、城の中枢部にあたる遺構が確認された 2 。主郭部からは、15世紀から16世紀にかけての掘立柱建物跡や柵の列が検出されており 23 、これは城内に大規模な御殿や厳重な防御施設が存在したことを示す直接的な証拠である。これらの発見は、大館城が単なる砦ではなく、高度な政治活動が行われた「館(やかた)」としての性格を強く持っていたことを裏付けている。
調査区からは、当時の生活を物語る多くの遺物が出土している。特に注目されるのが、15世紀後半に位置づけられる「かわらけ」(素焼きの土器)の大量出土である 24 。かわらけは、宴会などの儀礼的な場で使い捨ての食器として用いられることが多く、その大量出土は、城内で家臣団を招いた饗宴などが頻繁に行われていたことを示唆する。これは、戦国大名が家臣団との結束を固めるための重要な政治儀礼の場として、大館城が機能していたことを物語る。
また、中国産の磁器なども見つかっており 23 、岩城氏が他地域と交易を行い、富を蓄積していたことがうかがえる。これらの考古学的成果は、文献資料に記された大館城の繁栄を物理的に証明するものであり、岩城氏がこの地で繰り広げた約120年間の歴史を、何よりも雄弁に物語っている。
廃城後、大館城跡は時代の変遷とともにその姿を変えてきたが、今なおその歴史を留め、地域の貴重な文化遺産として保護されている。
大館城が廃城となった後、その城跡は次第に自然に還り、また一部は人々の生活の場へと姿を変えていった。その中で特筆すべきは、寛永2年(1625年)、旧城郭内に法印宥浄によって月山寺が開かれ、湯殿山権現が祀られたことである 4 。これは明治時代の神仏分離令を経て、現在の湯殿山神社となり、今も城跡の一角に鎮座している 4 。
現在、城跡の中心部は公園として整備され、市民の憩いの場となっている 22 。城の入口にあたる場所や主郭部には、その歴史を後世に伝えるための石碑が建立されており、訪れる人々に往時を偲ばせている 1 。また、注意深く観察すれば、曲輪の平坦面や斜面の土塁、堀切の痕跡などを確認することができ、戦国城郭の息吹を感じることができる 3 。
大館城跡は、中世末期の城郭の構造を良好に留める貴重な遺跡として、その歴史的価値が評価され、2017年(平成29年)5月1日に「大館城跡」としていわき市の史跡に指定された 3 。この指定により、城跡は法的に保護され、地域の歴史を伝える文化遺産として未来へ継承される道が開かれた。
城跡へのアクセスは、JRいわき駅から車で約10分、常磐自動車道いわき中央ICからは約15分と比較的容易であり、駐車場も整備されている 1 。公共交通機関を利用する場合は、バス停「御台境入口」が最寄りとなる 22 。
陸奥大館城は、戦国大名・岩城氏の興亡と運命を共にした城であった。それは、南奥羽の覇権を争うための軍事拠点であり、12万石の領国を治める政治経済の中心であり、そして雪村のような文化人を迎えた文化の発信地でもあった。その歴史は、岩城氏一族の栄光と悲劇の物語であると同時に、日本史の大きな転換点を映し出す鏡でもある。
大館城の廃城と、それに続く近世城郭・磐城平城の築城は、単なる城の代替わりではない。それは、戦国乱世の終焉と、徳川幕府による新たな支配体制の確立という、時代のパラダイムシフトをこの地において象徴する出来事であった。旧来の地域権力(岩城氏)とその象徴(大館城)が、新たな中央権力(徳川氏・鳥居氏)とその象徴(磐城平城)によって意図的に取って代わられる過程は、まさにこの地で繰り広げられた「時代の交代劇」そのものであった。
廃城から400年以上の時を経て、今なお土塁や曲輪の痕跡を留め、発掘調査によって新たな顔を見せる大館城跡は、過去を学び、地域のアイデンティティを未来へと継承していくための、かけがえのない歴史遺産である。その土の下には、戦国の世を駆け抜けた人々の記憶が、今も静かに眠っている。