最終更新日 2025-08-22

宅田城

能登宅田城は、その実像が謎に包まれ、天堂城の別名か。1554年の畠山義続捕縛説は史実ではない。能登畠山氏の内乱、温井総貞と遊佐続光の権力闘争が激化し、弘治の内乱へと発展。その歴史は、下剋上の時代を物語る。

能登「宅田城」の謎と戦国期畠山氏の内乱 — 1554年をめぐる歴史的実像の探求

序章:輪島・宅田城をめぐる問い

石川県輪島市宅田町に存在したとされる山城「宅田城」。この城について、天文23年(1554年)8月に合戦の舞台となり、能登国守護大名であった畠山義続が捕縛された後、再び登用された、という情報が存在する。本調査は、この情報を出発点としつつも、その枠に留まらず、宅田城をめぐる歴史的実像をあらゆる角度から徹底的に探求することを目的とする。

しかし、調査を進める過程で、この核心的な情報、すなわち「1554年の宅田城における合戦と畠山義続の捕縛」という出来事が、信頼性の高い同時代の歴史資料からは直接的に確認できないという重大な問題が浮上した。一部に見られる類似の記述は、後世に成立した軍記物や、あるいは歴史シミュレーションゲームの展開に由来する情報が史実として流布したものである可能性が極めて高い 1

さらに、「宅田城」という名称自体、その実態が判然としない。文献史料や考古学的知見を精査すると、輪島市宅田町における「宅田城」の記録は断片的である一方、地理的に近接する同市別所谷町には、奥能登最大級の規模を誇る山城「天堂城(てんどうじょう)」の遺構が存在し、こちらは豊富な歴史的記録が付随している 2 。この名称の錯綜は、地域の歴史を理解する上で看過できない問題である。

したがって、本報告書ではまず、この「宅田城」と「天堂城」の関係性を解明し、戦国期の奥能登において政治・軍事の中心であった城郭を特定する。その上で、ユーザーが着目した1554年という年が、能登の歴史においてどのような意味を持つのかを、より大きな文脈の中に位置づけて分析する。この時代、能登国は守護・畠山氏の権威が失墜し、その重臣たちで構成される「畠山七人衆」が国政を壟断、さらにはその内部で激しい権力闘争が繰り広げられるという、まさに下剋上の動乱の渦中にあった 4

本報告書は、単に一つの城の来歴を追うのではなく、「宅田城」をめぐる情報の錯綜を解き明かすことを通じて、戦国時代における能登国の権力構造の変化と、名門守護大名・畠山氏が衰亡に至る内乱の実態を、多角的な視点から明らかにすることを試みるものである。

第一部:城郭の物理的・地理的考察

城郭を理解するためには、その物理的な構造(縄張り)と、それが置かれた地理的環境が持つ戦略的価値を分析することが不可欠である。ここでは、奥能登における戦国期の最重要拠点であったと考えられる天堂城と、謎に包まれた宅田城について考察する。

第一章:奥能登の要衝・天堂城

天堂城は、その規模と構造から、単なる軍事拠点ではなく、地域支配の中核を担った城郭であったことがうかがえる。

所在地と地理的環境

天堂城は、石川県輪島市別所谷町に位置し、鳳至(ふげし)川の西岸にそびえる標高約224mの山に築かれた山城である 2 。この立地は、軍事・経済の両面から極めて戦略的な意味を持っていた。

城の東麓を流れる鳳至川は、日本海に面した良港である輪島港へと通じている。戦国時代の能登半島は、大陸や日本列島各地を結ぶ日本海海上交通の要衝であり、その港湾は経済活動の拠点として重要な役割を果たしていた 8 。天堂城は、この輪島港とその背後地を掌握し、交易ルートを管理・防衛するための内陸拠点として機能していたと考えられる 12 。つまり、天堂城の城主は、山間部の領地支配のみならず、日本海交易から得られる経済的利益にも深く関与していた可能性が高い。

城郭構造(縄張り)の詳細分析

天堂城の城域は東西約1km、南北約2kmにも及び、奥能登地方では最大規模の城郭とされる 2 。この広大な城域は、複数の機能を持つ郭(くるわ)群で構成されており、城主であった温井氏の強大な勢力を物語る物的な証左と言える。現地の案内板などの情報によれば、城の構造は主に三つの郭群に大別できる 2

  • Ⅰ郭(南麓部): 山の南側麓に広がるこの区域には、「殿様屋敷」「園山」「銭倉」といった地名が残されている。これらの名称から、Ⅰ郭が城主の日常的な居館であり、政務を執り行う政治の中枢、そして物資や財貨を管理する経済機能の中心であったと推定される。この郭群は、東・北・西の三方を空堀で囲繞(いにょう)し、南東は鳳至川を天然の堀とするなど、強固な防御態勢が敷かれていた 2
  • Ⅱ郭(東麓部): 城の東側麓に位置し、「木戸元」という地名が残る。これは城の正門(大手口)が存在したことを示唆しており、城下からの主要な登城路がここに通じていたと考えられる。来訪者や物資の出入りを管理する、城の玄関口としての役割を担っていた区域である 2
  • Ⅲ郭(山頂部): 城内で最も高い山頂部付近には、「本丸」や「兵庫屋敷」と呼ばれる郭が存在した。ここは有事の際の最終防衛拠点であり、城の中核部であった。「兵庫屋敷」という名称は、城主であった温井氏が代々「兵庫助(ひょうごのすけ)」という官途名を名乗っていたことに由来しており、この区画が温井一族の私的な領域であったことを強く示唆している 2

これらの郭群は、土塁、大規模な空堀、そして一部には石垣といった防御施設によって堅固に守られていた 3 。天堂城の縄張りは、平時の居住・統治空間と、有事の際の軍事空間が一体となった複合的な構造を有している。これは、単なる臨時の砦ではなく、在地に深く根を張り、恒常的に領国経営を行う「国人領主」の拠点城郭としての典型的な特徴を示している。戦国大名が家臣団を本拠地の城下町に集住させて統制を強化した政策とは対照的に 14 、温井氏は自らの本拠である輪島周辺に強固な地盤を築き、天堂城をその支配の象徴としていたことが、城の構造そのものから読み取れるのである。

第二章:謎に包まれた宅田城

ユーザーが当初言及した「宅田城」は、その存在自体が謎に包まれている。

文献・伝承上の位置

「宅田城」が石川県輪島市宅田町に存在した山城であることは、いくつかの城郭リストで確認できる 16 。しかし、その具体的な築城年、城主、構造、そして歴史に関する信頼性の高い同時代の文献史料は、現在のところ見出すことができない。

宅田上野山遺跡との関連

一方で、城跡とされる宅田町周辺では、考古学的な発見が続いている。特に「宅田上野山遺跡」の発掘調査では、古代(奈良・平安時代)の有力豪族の居館跡とみられる大型の掘立柱建物群や、それ以前の縄文時代の遺物などが多数出土している 17 。これは、宅田の地が古代から人々が定住し、地域の中心地として機能してきた歴史を持つことを示している。このことから、「宅田城」という名称が、戦国時代に機能した特定の城郭のみを指すのではなく、この地域一帯に点在する古い城跡や屋敷跡の総称として、後世に伝承された可能性も考えられる。

天堂城との関係性の推論

宅田城に関する情報が極めて乏しいのに対し、戦国期の奥能登で温井氏の本拠として中心的な役割を果たしたのが天堂城であったことは明らかである。地理的に近接する両者の関係性については、現時点の資料から断定することは困難だが、以下の三つの仮説が立てられる。

  1. 別名・通称説: 「宅田城」は、より広範な城域を持つ「天堂城」の別名、あるいは地域住民による通称であった可能性。
  2. 支城・構成要素説: 「宅田城」は、奥能登最大級の規模を誇る天堂城の広大な城域に含まれる、特定の曲輪や出城、砦などを指す固有の名称であった可能性。
  3. 機能統合説: 「宅田城」は戦国時代以前に存在した古い城であり、温井氏が勢力を拡大する過程で、より大規模で戦略的な拠点である天堂城を築城・整備したことにより、その機能が統合・吸収され、廃城になった可能性。

いずれの説が正しいにせよ、戦国時代の能登における重要な政治・軍事動向を考察する上では、その中心であった「天堂城」に焦点を当てるのが最も合理的である。したがって、本報告書で扱う「1554年前後の出来事」も、実際にはこの天堂城とその城主・温井氏をめぐる動向であったと考えるのが妥当であろう。

第二部:歴史的背景と動乱の実態

ユーザーが着目した1554年という年を正確に理解するためには、その前後の能登畠山氏内部の激しい権力闘争を把握することが不可欠である。ここでは、一次史料に基づき、守護大名家の権威が失墜し、家臣団による下剋上が進行した動乱の実態を解明する。


表1:能登畠山氏内紛関連年表(1545年〜1560年)

年号

西暦

主な出来事

関連人物

天文14年

1545年

能登畠山氏の全盛期を築いた7代当主・畠山義総が死去。

畠山義総

天文19年

1550年

七頭の乱 。重臣たちが8代当主・畠山義続に反旗を翻す。

遊佐続光、温井総貞

天文20年

1551年

七尾城が落城。義続は隠居させられ、幼い義綱が9代当主に擁立される。 畠山七人衆体制 が成立し、家臣団による合議制が始まる。

畠山義続、畠山義綱

天文22年

1553年

12月、 大槻・一宮の合戦 。温井総貞派が遊佐続光派を破る。遊佐続光は越後へ逃亡。第2次七人衆体制へ移行し、温井氏の権力が確立。

温井総貞、遊佐続光、畠山義続(徳祐)

天文23年

1554年

温井総貞が権力の絶頂期を迎える。畠山義綱の嫡男・義慶が誕生。

温井総貞、畠山義慶

弘治元年

1555年

畠山義綱が実権回復を目指し、重臣・長続連らと謀り 温井総貞を暗殺 。これを機に 弘治の内乱 が勃発。

畠山義綱、温井総貞、長続連

弘治3年

1557年

弘治の内乱において、義綱方が優勢となる。

畠山義綱、長続連

永禄3年

1560年

弘治の内乱が終結 。義綱が勝利し、一時的に大名専制支配を確立する。

畠山義綱


第三章:主家を凌駕する家臣団 — 能登畠山氏と「七人衆」体制

16世紀半ばの能登国は、守護大名・畠山氏の権力が内部から崩壊していく過程にあった。その象徴が「畠山七人衆」体制の成立である。

能登畠山氏の栄華と衰退

能登畠山氏は室町幕府の三管領家に連なる名門であり、7代当主・畠山義総(よしふさ)の治世(1515年〜1545年)にその全盛期を迎えた 19 。義総は巧みな政治手腕で領国を安定させ、京都から多くの公家や文化人を招いた。その結果、本拠地である七尾は「小京都」と称されるほどの文化的繁栄を遂げた 21

しかし、1545年に名君・義総が死去し、子の義続(よしつぐ)が8代当主となると、事態は一変する。義続は父ほどの統率力を持ち合わせず、家臣団内部の権力争いを抑えることができなかった 4 。これにより、守護大名の権威は急速に低下し、有力な家臣たちが国政の実権を握ろうと画策する下剋上の時代へと突入していく 24

「畠山七人衆」の成立と権力掌握

畠山氏の権威失墜を決定づけたのが、天文20年(1551年)に終結した「七頭の乱」である。これは、遊佐続光(ゆさ つぐみつ)や温井総貞(ぬくい ふささだ)といった有力重臣たちが結託し、当主・義続に反旗を翻した内乱であった 4 。この乱の結果、七尾城は重臣たちによって占拠され、義続は強制的に隠居させられた。そして、まだ幼い義続の子・義綱(よしつな)が9代当主として擁立され、政治の実権は7人の重臣による合議制、すなわち「畠山七人衆」体制へと移行した 6 。これは、主君を傀儡(かいらい)とし、家臣が領国を支配するという、戦国時代を象徴する出来事であった。

この七人衆体制を主導したのは、二人の実力者であった。一人は、代々能登守護代を務めた名門・遊佐氏の嫡流である遊佐続光 26 。もう一人は、本報告書で注目する天堂城を本拠とし、奥能登に強固な地盤を築いた在地国人領主の温井総貞である 2 。出自も権力基盤も異なるこの二人の対立が、その後の能登をさらなる内乱へと導くことになる 4


表2:畠山七人衆 構成員変遷表(1551年〜1555年)

時期

構成員

派閥・立場

備考

第1次七人衆 (1551-1553年)

遊佐 続光

遊佐派(筆頭格)

守護代家柄。

温井 総貞

温井派(筆頭格)

奥能登の有力国人。天堂城主。

長 続連

中立/実力者

在地国人。強力な軍事力を有す。

遊佐 宗円

遊佐派

遊佐一族。

三宅 総広

温井派

温井氏と縁戚関係。

伊丹 続堅

遊佐派

平 総知

遊佐派

第2次七人衆 (1553-1555年)

温井 続宗

温井派(筆頭格)

総貞の子。父の後継として七人衆入り。

飯川 光誠

守護方

義続・義綱派。権力回復の足掛かり。

長 続連

中立/実力者

留任。

遊佐 宗円

旧遊佐派/中立

留任。

三宅 総広

温井派

留任。

神保 総誠

守護方

新任。

三宅 綱賢

温井派

新任。

出典: 4 に基づき作成。


第四章:天文22年(1553年)「大槻・一宮の合戦」— 内乱の序曲

畠山七人衆による共同統治は、当初から内部対立をはらんでいた。そして成立からわずか2年後、その対立は能登国を二分する大規模な合戦へと発展する。

合戦の勃発

七人衆の双璧であった温井総貞と遊佐続光の権力闘争は、日増しに激化していった。天文22年(1553年)、ついに両者の対立は限界に達する。温井総貞によって能登から追放されていた遊佐続光が、隣国・加賀の一向一揆勢力の支援を取り付け、能登への逆侵攻を開始したのである 4 。これが「大槻・一宮の合戦」の始まりであった。

一次史料に基づく戦闘経緯

この合戦の時期については、後世に編纂された長氏の家史『長家家譜』などでは天文23年(1554年)と記されることが多かった 30 。しかし、本願寺の動向を記録した『天文日記』や、温井総貞自身が京都の東福寺塔頭栗棘庵(りっきょくあん)に戦勝報告として送った書状(「栗棘庵文書」)といった信頼性の高い一次史料によって、合戦は天文22年(1553年)12月に発生したことが確定している 30

戦闘の経過は以下の通りである。12月10日頃、遊佐続光軍は加賀から能登へ侵攻し、羽咋郡の一宮(現・羽咋市)を経て、鹿島郡の大槻(現・中能登町)や田鶴浜(現・七尾市)に布陣した 29 。これに対し、温井総貞の子・温井続宗を大将とし、長続連らが加わった畠山方の軍勢が七尾城から出撃。同月27日、両軍は大槻で激突した。この戦いは温井方の勝利に終わり、敗れた遊佐軍は加賀への退却を開始する。しかし、畠山方は追撃の手を緩めず、翌28日に一宮付近で退却中の遊佐軍を捕捉、壊滅的な打撃を与えた 29

この合戦で遊佐方は甚大な被害を被り、七人衆の一人であった伊丹続堅(いたみ つぐかた)をはじめ、河野続秀(こうの つぐひで)など多くの武将が討死した 29 。総大将の遊佐続光は辛うじて戦場を離脱し、越後国へと逃亡した 29

畠山義続の動向と「捕縛」説の源流

この重要な合戦において、名目上の総大将は、すでに出家して徳祐(とくゆう)と号していた前当主・畠山義続であった 5 。彼は温井派の旗頭として擁立され、出陣していた。しかし、彼の戦場での行動は、守護大名の権威が完全に失墜していたことを物語っている。

『長家家譜』には、大槻での戦闘中、畠山軍が一時的に劣勢となり後退した際、総大将であるはずの義続(徳祐)が身の危険を感じて戦線を離脱し、「民家の繁った椿に身を隠し危うく難を逃れた」という屈辱的な逸話が記録されている 30

この逸話こそが、ユーザーの知る「畠山義続の捕縛」という情報の源流である可能性が極めて高い。この出来事の解釈には、いくつかの段階が考えられる。

第一に、『長家家譜』は後に畠山氏を追放して能登の実権を握る長氏の視点で書かれた史料であり、旧主である畠山氏の当主の無能さや権威のなさを意図的に強調している可能性がある 30。

第二に、たとえ誇張が含まれているとしても、「総大将が戦闘中に恐怖を感じて敵前逃亡し、民家に隠れてやり過ごした」という事実は、彼がもはや軍を統率する能力も威厳も失った、完全な傀儡であったことを示している。

第三に、この「総大将でありながら命からがら逃げ隠れた」という複雑で屈辱的な史実が、後世に語り継がれる過程で、特に歴史の背景を簡略化する傾向のある歴史シミュレーションゲームなどの媒体を通じて、「敵に捕らえられた」という、より単純で劇的な物語へと変容・単純化されたと推察される。

したがって、「畠山義続の捕縛」は史実ではなく、「大槻・一宮の合戦における権威失墜を象徴する敗走と潜伏」という出来事が歪曲されて伝わったものと結論付けるのが妥当である。

第五章:天文23年(1554年)の動向と「宅田城制圧」説の再検証

大槻・一宮の合戦が終結した翌年の天文23年(1554年)、能登の政治状況は新たな局面を迎えていた。この年の動向を分析することで、「宅田城制圧」説の妥当性を検証する。

合戦後の権力構造

1553年末の合戦でライバルであった遊佐続光派を一掃したことにより、1554年は温井総貞が能登畠山氏の家中で権力の絶頂を極めた年であった。この勝利を受けて畠山七人衆は再編され、遊佐続光、伊丹続堅、平総知の3名が失脚。代わりに、温井総貞の子である温井続宗が七人衆に加わり、総貞は七人衆の上に立つ実質的な最高権力者としての地位を確立した 4 。一方で、守護である畠山義綱方は、この再編に際して自派の飯川光誠(いいかわ みつまさ)や神保総誠(じんぼう ふさのぶ)を七人衆に送り込むことに成功しており、水面下での権力奪還の動きも始まっていた 4

この年、9代当主・畠山義綱に嫡男・義慶(よしのり)が誕生している 33 。これは、畠山家にとって次世代への継承という喜ばしい出来事であったが、その一方で、当主の実権は完全に家臣団、特に温井一派に掌握されているという、極めて歪な政治状況を象徴する出来事でもあった。

「宅田城制圧」説の再検証

このような政治状況を踏まえると、1554年8月に「宅田城が制圧された」という説は、歴史的蓋然性が皆無であると言わざるを得ない。

まず、宅田城(あるいはその実体である天堂城)は、当時権力の頂点にあった温井氏の本拠地である。この城を「制圧」しうる敵対勢力は、前年末の合戦で壊滅した遊佐派以外に能登国内には存在しない。また、温井派の傀儡であった畠山義続が、温井氏の本拠地で「捕縛」されるというシナリオも論理的に成り立たない。彼を捕縛する主体も動機も見当たらないからである。

結論として、1554年に宅田城で合戦があり、畠山義続が捕縛されたという説は、史料的根拠を欠くだけでなく、当時の能登国の政治力学からも完全に矛盾しており、史実とは考えられない。この情報は、前述の通り、1553年の出来事が誤って伝わったか、あるいは全くの創作である可能性が極めて高い。

第六章:弘治の内乱(1555年〜)— 権力闘争の最終局面

1554年の静寂は、次なる嵐の前の束の間のものに過ぎなかった。翌年、能登は再び血で血を洗う内乱の時代へと突入する。

温井総貞の暗殺

権力の絶頂を極め、専横の振る舞いが目立つようになった温井総貞に対し、傀儡の座に甘んじていた若き当主・畠山義綱が反撃の牙を研いでいた。義綱は、七人衆の中でも温井氏の台頭を快く思っていなかった長続連(ちょう つぐつら)らと密かに連携し、総貞の排除を画策する 34

そして弘治元年(1555年)、義綱は総貞を「連歌の会」と偽って居城である七尾城内の飯川光誠邸に誘い出し、その場で謀殺した 2 。これは、守護大名としての権力を家臣から取り戻すための、義綱によるクーデターであった。

内乱の勃発と長期化

惣領を謀殺された温井一族は、ただちに反旗を翻した。縁戚関係にあった三宅一族もこれに同調し、能登国は再び大規模な内乱状態に陥った。これが「弘治の内乱」である 36

温井・三宅連合軍は、畠山一族の中から畠山晴俊(はたけやま はるとし)を新たな当主として擁立し、加賀の一向一揆勢力と結んで、能登全域で義綱方との戦闘を繰り広げた 36 。戦いは一進一退を続けたが、義綱方は長続連らの奮戦に加え、越後の長尾景虎(後の上杉謙信)から兵糧支援を受けるなど外交努力も実り、徐々に優勢となっていった 34

内乱は5年近くにも及んだが、1558年頃には反乱軍の主軸であった畠山晴俊や温井続宗らが相次いで戦死 34 。永禄3年(1560年)頃には、温井方の残党は能登から一掃され、内乱は義綱方の勝利で終結した 34

この一連の内紛は、能登畠山氏の国力を決定的に蝕んだ。大槻・一宮の合戦と弘治の内乱という二つの大きな戦乱を通じて、家中の対立は修復不可能なものとなり、多くの有能な人材が失われた。義綱は内乱に勝利し、一時的に大名による直接支配体制(大名専制)を確立することに成功するが 32 、その権力基盤はすでに砂上の楼閣であった。この深刻な内部崩壊があったからこそ、十数年後、上杉謙信が能登に侵攻した際(七尾城の戦い)、家臣団は親上杉派(遊佐・温井氏の残党)と親織田派(長氏)にあっけなく分裂し、難攻不落を誇った七尾城は内部から瓦解するという悲劇的な結末を迎えることになるのである 39

終章:結論 — 宅田城から読み解く能登戦国史

本報告書は、石川県輪島市の「宅田城」と、1554年に起きたとされる畠山義続の捕縛事件を起点として、戦国期能登国の歴史的実像を探求してきた。詳細な調査と分析の結果、以下の結論に至った。

第一に、「宅田城」の実像について、戦国時代の能登の歴史において中心的な役割を担った城郭としての具体的な記録は確認できなかった。その名称は、奥能登における温井氏の拠点城郭であった「天堂城」の別名、あるいはその広大な城域の一部を指す名称が、伝承の過程で誤って、あるいは混同されて伝わったものである可能性が極めて高い。戦国期の奥能登における政治・軍事の中心は、まぎれもなく天堂城であった。

第二に、「1554年の出来事」の真相について、この年に宅田城で合戦があり畠山義続が捕縛されたという劇的な事件は、史実ではないと結論付けられる。この情報は、天文22年(1553年)12月の「大槻・一宮の合戦」において、総大将であったにもかかわらず敗走し、民家に隠れて難を逃れたという、守護・畠山義続の権威失墜を象徴する出来事が、後世に単純化・脚色されて伝播したものであると強く推察される。1554年当時の能登は、この合戦の結果、温井総貞が権力の絶頂にあり、その本拠が制圧されるという状況は考えられない。

最終的に、1554年前後の能登国は、一つの城の攻防戦といった単純な構図では語ることができない、より深刻な状況にあった。それは、守護大名・畠山氏という統治機構そのものが、家臣団の権力闘争によって内部から崩壊していく過程であった。温井氏の拠点であった天堂城(宅田城)をめぐる歴史は、まさにその下剋上の渦の中心に位置していた。1550年代を通じて続いた一連の内紛こそが、名門・能登畠山氏の国力を決定的に削ぎ、後の上杉謙信による侵攻を前にして抗する術を失わせた根本的な要因であった。

「宅田城」という一つの城の名から始まった本調査は、結果として、戦国時代における地方権力の盛衰を解き明かす上での重要な一事例を浮き彫りにした。今後、宅田城と天堂城の正確な関係性や、その詳細な構造を解明するためには、さらなる文献史料の発見と共に、現地における考古学的な発掘調査の進展が待たれるところである 42

引用文献

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  2. 天堂城 - お城散歩 https://kahoo0516.blog.fc2.com/blog-entry-439.html
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  12. 天堂城 - 能登畠山氏七尾の歴史 https://nanao.sakura.ne.jp/noto_castle/tendo_jyo.html
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  41. 七尾城の歴史と見どころを紹介/ホームメイト https://www.touken-collection-nagoya.jp/chubu-castle/chubu-nanao-castle/
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