最終更新日 2025-08-22

安田城(越中国)

越中国安田城は、天正13年「富山の役」で秀吉軍が佐々成政を降伏させるため築いた陣城。短期間で築かれ、鉄砲戦を想定した幅広土塁が特徴。戦後は前田氏の越中支配の拠点となるも、近世初頭に廃城。良好な遺構が残り、戦国末期の築城技術を伝える貴重な史跡である。

越中国安田城の研究 — 戦国末期における戦略拠点の実像と歴史的価値

序論:戦国城郭史の「生きた標本」としての安田城

越中国婦負郡安田(現在の富山県富山市婦中町安田)に、戦国時代の終焉を告げる動乱の中で忽然と姿を現し、短期間でその役割を終えた一つの城がある。それが安田城である。この城の歴史的価値は、壮絶な攻防戦の記憶や著名な城主の逸話によって語られるものではない。むしろ、その真価は、存城期間が極めて短かったために後世の改変をほとんど受けることなく、築城当初の姿を驚くほど良好な状態で現代に伝えている点にある 1 。安田城跡は、いわば戦国末期の築城技術と思想が封じ込められた「タイムカプセル」であり、城郭史研究における「生きた標本」とも言うべき稀有な存在なのである。

本報告書は、この安田城が歴史の表舞台に登場する天正13年(1585年)の「富山の役」を主軸に据え、その築城背景、地政学的な重要性、そして戦闘拠点としての戦略的役割を多角的に分析する。さらに、発掘調査によって明らかになった城の構造的特徴を詳細に検討し、佐々成政の降伏後、前田氏の統治下でその役割がどのように変遷し、やがて廃城へと至ったのか、その歴史的道程を追跡する。これにより、安田城が国指定史跡として持つ学術的重要性を論証することを目的とする。

なお、日本各地には同名の「安田城」が複数存在する(例えば、越後国刈羽郡や蒲原郡、土佐国安芸郡、讃岐国小豆郡など) 3 。本報告書は、これらと明確に区別し、越中国の安田城にのみ焦点を当てたものであることを冒頭で断っておきたい。安田城の評価軸は、華々しい戦歴ではなく、考古学的な典型性にある。本報告書は、安田城を「戦いの舞台」としてよりも、「時代の技術と戦略思想を封じ込めた立体史料」として分析を進めていく。

第一章:安田城前史 — 動乱の越中と佐々成政の台頭

安田城の誕生を理解するためには、まずその前史、すなわち越中を巡る激しい権力闘争の歴史を概観する必要がある。戦国時代の越中は、一向一揆の勢力が根強く、在地領主が割拠する複雑な情勢にあった。この混乱に終止符を打ったのが、越後の上杉謙信である。謙信は数次にわたる越中出兵の末、天正4年(1576年)には越中一国をほぼ平定し、その支配下に置いた 7 。しかし、その支配は盤石ではなかった。天正6年(1578年)、謙信が急死すると、越中は再び権力の空白地帯となり、新たな動乱の時代へと突入する。

この機を捉えたのが、天下統一を推し進める織田信長であった。信長は、筆頭家老の柴田勝家を総大将とする北陸方面軍を派遣し、加賀の一向一揆を制圧すると、その勢いのまま越中へと侵攻した 10 。この方面軍にあって、黒母衣衆筆頭として武勇を馳せたのが佐々成政である。成政は、前田利家らと共に勝家の与力として数々の戦功を挙げ、天正9年(1581年)には、その功績を認められて越中一国を拝領し、富山城主となった 12 。成政は富山城を大改修し、治水事業にも力を注ぐなど、越中統治に辣腕を振るった。

しかし、天正10年(1582年)の本能寺の変が、成政の運命を大きく狂わせる。信長亡き後の織田家家中の主導権争いは、羽柴秀吉と柴田勝家の対立へと発展し、天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いで秀吉が勝利を収めた。勝方に与した成政は、上杉景勝への備えのために越中を動けず、この決戦に主体的に関与できなかった 10 。旧主・柴田勝家の滅亡により、成政は中央政界における強力な後ろ盾を失い、政治的に孤立していく。かつての同僚であった前田利家が早々に秀吉に恭順の意を示す一方で、成政は秀吉の台頭を快く思わず、反秀吉の姿勢を鮮明にした。そして、秀吉と対立する徳川家康との連携を求め、厳冬期の北アルプスを越えて浜松城の家康を訪れるという、いわゆる「さらさら越え」を敢行する 12 。この行動は、秀吉にとって看過できない敵対行為であり、天下統一事業の障害と見なされた。結果として、秀吉による大規模な越中討伐、すなわち「富山の役」は不可避となったのである。安田城の築城は、まさにこの佐々成政の戦略的判断が直接的にもたらした帰結であった。それは、本能寺の変以降の織田家家臣団の分裂と、それに続く天下統一戦争という大きな政治的文脈の中で、一人の武将の決断が具体的な形となって現れた「物証」に他ならない。

第二章:天正十三年「富山の役」と安田城の戦略的役割

天正13年(1585年)8月、羽柴秀吉は10万とも言われる大軍を率いて越中へと侵攻した。世に言う「富山の役」の始まりである。秀吉は、富山城の東に位置する呉羽丘陵の最高峰、城山に築かれた白鳥城に本陣を構え、富山城を包囲する態勢を整えた 15 。この秀吉の本陣を防衛し、富山城への圧力を強化するための前線拠点として、白鳥城の前面に二つの支城が整備された。その一つが安田城であり、もう一つが大峪城(富山市五福)であった 16

安田城が築かれた場所は、極めて戦略的な意味を持っていた。城は神通川の支流である井田川の左岸に位置し、当時、飛騨と越中を結ぶ重要な陸上交通路であった旧飛騨街道に面していた 18 。さらに、井田川自体も物資輸送に利用される河川交通路であった。つまり安田城は、陸路と水路の結節点を押さえることで、富山城への兵糧や援軍の補給路を遮断し、佐々成政を孤立させるという明確な戦略的意図のもとに配置されたのである 19

この重要な拠点の城主として配置されたのが、前田利家の家臣・岡嶋一吉であった 21 。岡嶋一吉は、永禄2年(1559年)生まれの武将で、若くして利家に仕え、佐々成政との戦いでも功績を挙げていた信頼の厚い人物である 23 。彼が最前線の城を任されたという事実は、この越中攻めの実質的な指揮を前田軍が担っていたことを示すと同時に、方面軍の司令官である利家が、最も重要な地点に腹心の部将を配置するという、堅実な用兵思想を持っていたことを物語っている。

注目すべきは、安田城を巡って大規模な戦闘が行われたという記録がほとんど見られないことである。秀吉の戦術は、力攻めによる消耗戦を避け、圧倒的な兵力と兵站で敵を包囲し、戦意を喪失させて降伏に追い込むことを得意とした。鳥取城の渇え殺しや備中高松城の水攻めがその好例である。富山の役における安田城の役割も、まさにこの秀吉流の戦術を体現するものであった。白鳥城を本陣とし、安田城・大峪城という支城網を迅速に構築することで、佐々成政に対して抵抗が無意味であることを悟らせる。物理的な兵站の遮断と、圧倒的な物量を見せつけることによる心理的圧迫。この二重の攻勢の前に、成政はなすすべもなく、秀吉の本陣到着からほどなくして剃髪し、降伏の意を示した 15 。したがって、安田城は敵兵を殺傷する「戦うための城」というよりも、敵の継戦能力を奪い、戦わずして勝利を確定させるための「勝つための城」であったと言える。それは、秀吉の合理的かつ近代的な戦争遂行術を象徴する城郭だったのである。

第三章:城の構造と縄張り — 発掘調査から見る実像

安田城は、その設計思想と構造において、戦国末期の平城の特徴を色濃く反映している。城は、神通川の支流である井田川が形成した氾濫低湿地帯に浮かぶ微高地を選んで築かれており、周囲の湿地を天然の堀として防御に利用する、典型的な平城の立地条件を備えている 18 。昭和52年(1977年)から翌年にかけて行われた発掘調査と、その後の整備事業により、その詳細な構造が明らかになっている。

城の全体規模は、堀を含めて東西約150m、南北約240mに及ぶ 22 。縄張り(城の設計プラン)は、本丸、二の丸、右郭(みぎくるわ)と呼ばれる三つの主要な曲輪が南北に連なる「連郭式」と呼ばれる形式である 2 。この配置は、金沢市立図書館に所蔵される古絵図「安田古城之図」ともよく一致しており、築城当初の姿が忠実に残されていることを示している 2

各曲輪は、土塁と水堀によって厳重に区画されている。特に注目すべきは、城の中核をなす本丸の構造である。本丸は東西約90m、南北約80mの方形を呈しているが、その規模に比して、周囲を巡る土塁が極めて幅広に造られている 1 。土塁の基底部(裾の部分)の幅は、実に約14mにも達する。これは、居住性や郭内の空間効率をある程度犠牲にしてでも、防御力を最大限に高めようとする意図の表れである。この特異なまでに幅広の土塁は、当時普及しつつあった鉄砲の銃弾を防ぐための防御壁として、また土塁上に多数の兵士を配置して迎撃拠点とするための実用性を最優先した設計と考えられる。本丸の北東隅には、見張りや攻撃の拠点となる櫓が設けられていた可能性も指摘されている 1 。本丸の南東に位置する二の丸や、その西側の右郭にも、それぞれ土塁や虎口(出入り口)が設けられ、本丸を防衛・補助する機能を担っていたことが確認されている 26 。これらの曲輪群は、幅の広い水堀によって囲まれ、容易に敵の侵入を許さない堅固な構造となっていた。

曲輪名

推定規模(東西×南北)

主な特徴

根拠資料

本丸

約90m × 約80m

・基底部長約14mという特異な幅広土塁 ・方形の郭 ・北東隅に櫓台の推定

1

二の丸

(発掘調査に基づく)

・本丸の南東に位置 ・虎口、土塁の存在を確認

17

右郭

(発掘調査に基づく)

・二の丸の西側に位置

2

全体

約150m × 約240m (堀含む)

・連郭式の縄張り ・周囲を水堀で囲繞

22

安田城のこうした構造、特に本丸の設計は、長期的な統治拠点としての「居城」とは一線を画すものである。むしろその思想は、合戦に際して急造される「陣城(じんじろ)」に近い。特定の軍事作戦のために、短期間で最大の防御効果を発揮することに特化した、実用主義的な設計思想が貫かれている。安田城は、伝統的な中世城郭から、より火器への対応を重視した近世城郭へと移行する過渡期において、方面軍の前線拠点という特殊な目的のために築かれた「野戦陣地型城郭」の好例であり、その構造自体が天正13年という時代の軍事技術と築城思想を雄弁に物語っているのである。

第四章:佐々成政降伏後の前田氏による統治と安田城

天正13年(1585年)8月、佐々成政が秀吉に降伏したことで、「富山の役」は終結した。軍事拠点としての安田城の当初の目的は達成されたが、城は即座に廃城とはならなかった。むしろ、新たに越中の大部分を支配下に置いた前田氏にとって、この地域を掌握するための重要な前線拠点として、引き続きその機能を維持することになる 19

そのことを示す極めて重要な史料が存在する。城主であった岡嶋一吉が、成政降伏から3年後の天正18年(1588年)、安田城大門に隣接する中堂寺に田畑を寄進したことを記した文書(中堂寺文書写)である 19 。この文書の存在は、いくつかの重要な事実を我々に教えてくれる。第一に、天正15年(1587年)に佐々成政が肥後国へ転封となり、越中から完全にその影響力が排除された後も、岡嶋一吉がこの地に留まり、城主としての地位を保っていたこと。第二に、彼が地域の有力な寺社である中堂寺との関係を構築し、在地領主として振る舞っていたことである。

この事実は、安田城の歴史的役割が、「富山の役」という一過性の軍事行動のためだけの「点」の存在から、戦後の前田氏による越中支配体制を確立するための橋頭堡という「線」の歴史へと拡張されることを意味する。城は、純粋な軍事拠点から、婦負郡一帯を統治するための地域的な政治・行政拠点へと、その機能を徐々に変化させていたのである。豊臣政権下における方面軍の軍事行動が、そのまま戦後の新領土における統治体制の構築へと継ぎ目なく移行していく過程を、安田城と岡嶋一吉の動向は如実に示している。

ここで、安田城の築城年代に関するもう一つの説に触れておく必要がある。『越登賀三州志』などの一部の江戸時代の地誌は、天正7年(1579年)頃の文献に見える「安城」という城を安田城と同一視している 19 。もしこの説が正しければ、安田城はもともと佐々成政が上杉勢への備えとして築いたものを、天正13年に秀吉軍が接収し、改修して再利用したという可能性が浮上する。しかし、現在のところ「安城」が安田城であるという確証はなく、これは今後の研究を待つべき学術的課題と言えるだろう。いずれにせよ、天正13年以降、安田城が前田氏の越中支配の重要な一翼を担ったことは、中堂寺文書によって証明されているのである。

第五章:慶長年間の再利用と廃城への道程

佐々成政が越中を去った後、前田氏の支配下で存続した安田城であったが、その役割は時代と共に変化し、やがて廃城への道をたどることになる。天正15年(1587年)に成政が肥後へ転封されたことで、越中における軍事的な緊張は大幅に緩和され、最前線基地としての安田城の重要性は一時的に低下したと考えられる。

しかし、慶長年間(1596年-1615年)に入ると、安田城は再びその戦略的価値を見出される。慶長2年(1597年)、前田利家の嫡男・利長が、それまでの守山城から富山城へと本拠を移した 27 。さらに利長は、父・利家の死後、家督を継いで金沢城主となるが、慶長10年(1605年)には隠居城として再び富山城に戻り、大規模な改修を行っている 29 。この前田利長が富山城を拠点とした時期、安田城は富山城を守る支城として再びその機能を活性化させたと推測されている 32

その後の廃城時期については、明確な記録がなく、いくつかの説が存在する。

第一に、慶長4年(1599年)頃とする説である。記録上、この年まで城の存続が確認できるとする史料があり 33、この年は利長が家督を継いで本拠を金沢城へ正式に移した時期と重なる 35。この前田家の本拠地の移動に伴い、越中の支配体制が再編され、安田城はその役割を終えたとする見方である。

第二に、より幅広く慶長年間(1596年-1615年)に廃されたとする説である 18 。特に、慶長14年(1609年)に富山城が大火で焼失し、利長が高岡に新たな城(高岡城)を築いて移ったことが決定的な契機となった可能性が考えられる 27 。これにより、富山城を中心とした支城網の価値は失われ、安田城も自然に廃城状態になったと推測される。

第三に、元和元年(1615年)の「一国一城令」によって最終的に廃城となったとする説である 36 。これは徳川幕府が諸大名の軍事力を削減するために発した法令であり、多くの支城がこの時に破却された 37 。ただし、この時点では安田城はすでに城としての実態を失っていた可能性が高い。

これらの諸説が錯綜している背景には、安田城が一度の命令で破却されたのではなく、段階的にその機能を失っていった実態があると考えられる。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いを経て、前田家は加賀・越中・能登の三国を完全に掌握し、徳川幕藩体制下で最大の藩となる 39 。国内の軍事的脅威が薄れるにつれ、前田家の戦略的重心は、対外的な備えや藩内統治へとシフトしていった。利長の高岡築城は、その象徴的な動きであり、加賀藩の重心が越中東部(旧佐々領)から西部・加賀国境へと移ったことを示している。この戦略的重心の移動に伴い、安田城は急速にその存在意義を失い、一国一城令を待たずして事実上の廃城状態に陥ったと見るのが最も合理的であろう。

第六章:史跡としての価値と現代における意義

短い歴史的役割を終えた安田城であったが、その真価は後世において見出されることとなる。戦国時代の平城は、近世以降の耕作や、近年の圃場整備・宅地造成によってその姿を失ったものが大半である 18 。そのような中で、安田城跡は奇跡的とも言えるほど良好な保存状態で残存していた。この学術的価値が認められ、昭和56年(1981年)2月23日、「安田城跡」の名称で国の史跡に指定された 1 。指定理由は、神通川支流の低湿地を防禦に利用した戦国末期の平城遺構の全体像が、非常によく残されている点にある 18

史跡指定後、平成2年(1990年)から4年にかけて保存整備事業が行われ、土塁や水堀が往時の姿に復元された 1 。現在、城跡は「富山市婦中安田城跡歴史の広場」として一般に公開されており、多くの歴史愛好家が訪れる場所となっている。

この歴史の広場において中核的な役割を担っているのが、併設された「安田城跡資料館」である。この資料館は、単なる展示施設に留まらない多機能性を有している。第一に、出土品や精巧な立体模型、映像資料を用いて、安田城の歴史的背景と構造を分かりやすく解説する展示・解説機能である 2 。第二に、資料館の2階に設けられた展望室から城跡全体を俯瞰できる展望機能であり、これにより来訪者は連郭式の縄張りを直感的に理解することができる 15

そして第三に、特筆すべき機能が、地域の城郭研究における拠点機能である。安田城跡資料館では、安田城だけでなく、富山市内および富山県内にある63もの城郭の縄張り図や関連資料を無料で配布している 17 。これは、単一の城跡資料館としては異例の手厚さであり、運営者が安田城を孤立した史跡としてではなく、富山県内に網の目のように広がる中世城郭ネットワークの一つとして位置づけていることを示している。

このことから、現代における安田城跡は、二重の意義を持っていると言える。一つは、その完璧な保存状態によって、戦国末期の平城の構造を学ぶための最適な「入門編」としての価値である。もう一つは、資料館の機能を通じて、来訪者が安田城を起点として県内全体の城郭探訪へと興味を広げるための「玄関口(ゲートウェイ)」としての役割である。その現代的意義は、自身の歴史的価値に留まらない、地域全体の歴史文化遺産への案内役という広がりを持っているのである。

結論

本報告書では、越中国安田城について、その歴史的背景、戦略的役割、構造、そして廃城に至る過程と現代的価値を詳細に検討した。その結果、以下の点が明らかになった。

安田城は、天正13年(1585年)の「富山の役」という特定の軍事作戦の遂行を目的として、羽柴(豊臣)秀吉軍によって築かれた、実用主義的な設計思想を持つ野戦陣地型の城郭であった。その立地は交通の要衝を扼し、構造は鉄砲戦を想定した堅固な防御力を誇る。それは、敵を殲滅するためではなく、兵站を断ち、心理的に圧迫して戦わずして降伏させるという、秀吉の合理的な戦争術を体現した戦略拠点であった。

戦後、安田城は即座に放棄されることなく、前田氏による越中支配の橋頭堡として、軍事拠点から地域的な行政拠点へとその役割を転換させた。しかし、関ヶ原の戦いを経て徳川幕藩体制が確立し、前田家の戦略的重心が変化する中で、その存在意義は次第に薄れていく。慶長年間に富山城の支城として一時的に再利用された後、近世初頭の政治情勢の安定化の中で、静かにその歴史的使命を終えた。その短い存城期間は、戦国乱世の終焉から近世へと移行する時代の権力構造と戦略思想のダイナミックな変遷を、凝縮して我々に示している。

そして今日、奇跡的に往時の姿を留める安田城跡は、文献史料だけでは窺い知ることのできない戦国時代の築城技術、兵站、そして戦略のリアリティを雄弁に物語る、第一級の「立体史料」として存在する。その学術的価値は計り知れず、戦国城郭史研究において、今後も重要な位置を占め続けることは間違いない。

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