室津城
播磨室津城は、瀬戸内海の海上交通を支配する要衝。浦上氏が関銭で富を蓄え、主家赤松氏を凌駕。浦上村宗が主君を幽閉・殺害した下克上の舞台。婚礼襲撃事件で炎上し、廃城。
播磨国・室津城の研究:戦国時代の権力闘争と海上交通の要衝
序論:海の要衝・室津と室津城の戦略的価値
播磨国、現在の兵庫県たつの市に位置する室津城(別名:室山城)は、戦国時代の激動を語る上で欠くことのできない重要な城郭である。瀬戸内海に面した天然の良港・室津を見下ろす丘陵に築かれたこの城は、単なる軍事拠点に留まらず、中世日本の経済と権力の動向を映し出す鏡であった。その歴史を深く掘り下げることは、戦国時代における権力闘争の本質、すなわち武力と経済力が如何に絡み合い、時代の趨勢を決定づけていったのかを理解する上で、極めて重要な意味を持つ。
室津港の歴史は古く、奈良時代に高僧・行基が瀬戸内海航路の要衝として定めた「摂播五泊(せっぱんごはく)」の一つに数えられている 1 。古代より畿内と西国を結ぶ海上交通の心臓部として機能し、平安時代には平清盛が厳島神社への参詣の途上で立ち寄るなど、貴族や有力武将にとって欠かせない寄港地であった 4 。その重要性は時代を経ても変わることなく、江戸時代には西国大名の参勤交代における主要な上陸地となり、また朝鮮通信使やオランダ商館長一行もこの港を利用した 2 。当時の繁栄は「室津千軒」と謳われるほどであり、人、物資、そして情報が絶えず集積する一大拠点であったことは想像に難くない 2 。
室津城は、この港湾機能を直接支配・防衛するために、室津港に突き出した半島状の丘陵(標高約53メートル)という絶好の立地に築かれた 7 。城から港を一望できるこの配置は、港に出入りする船舶を完全に掌握し、海上交易から得られる利益を独占することが可能であったことを物理的に示している。すなわち、室津城を支配することは、播磨灘の制海権を握り、ひいては播磨・備前地域の経済的生命線を牛耳ることに直結した。この地を巡る争いが、単なる領土紛争の域を超え、中世から近世へと移行する社会における「富の源泉」そのものを巡る闘争であったことは、特筆すべき点である。武士の権力基盤が、伝統的な米の収穫高、すなわち「石高」に代表される農業生産力から、商業・流通がもたらす「交易利権」へと拡大・移行していく時代の転換点において、室津城はその最前線に位置していたのである。
西暦(和暦) |
時代区分 |
主要な出来事 |
関連人物・勢力 |
1183年(寿永2年) |
平安時代 |
室山の戦い 。源行家軍が室山に布陣する平氏軍に敗れる。 |
源行家、平教盛、平重衡 |
1335年(建武2年) |
南北朝時代 |
赤松円心が、西下する新田義貞軍に対する防衛拠点として室津城を使用。長男・範資が守るも落城。 |
赤松円心、赤松範資、新田義貞 |
1336年(建武3年) |
南北朝時代 |
赤松円心、室津城を奪還。新田軍との間で再び戦闘が行われる。 |
赤松円心、新田義貞 |
1441年(嘉吉元年) |
室町時代 |
嘉吉の乱 で赤松氏が没落。播磨守護となった山名持豊(宗全)が室津城に山名政豊を置く。 |
山名持豊 |
1467年(応仁元年) |
室町時代 |
応仁の乱 後、赤松政則が播磨を回復。功臣の浦上則宗が室津城主となり、関所を設置して蓄財する。 |
赤松政則、浦上則宗 |
1521年(大永元年) |
戦国時代 |
浦上村宗が主君・赤松義村を室津に幽閉し、殺害。下剋上を完遂する。 |
浦上村宗、赤松義村 |
1531年(享禄4年) |
戦国時代 |
浦上村宗、摂津大物崩れで赤松晴政の裏切りに遭い戦死。家督は嫡男・政宗が継承。 |
浦上村宗、赤松晴政 |
1564年(永禄7年)頃 |
戦国時代 |
婚礼襲撃事件 。浦上政宗の子・清宗と黒田職隆の娘の婚礼の夜、赤松政秀が奇襲。政宗・清宗父子は討死し、室津城は炎上、廃城となる。 |
浦上政宗、浦上清宗、赤松政秀、黒田職隆 |
第一章:室津城の黎明期 ― 南北朝・室町時代における役割
室津城の歴史は、特定の築城主による創建譚から始まるものではない。むしろ、古代から認識されてきたこの土地の地政学的な重要性が、各時代の権力者によって「軍事拠点として再発見・再利用され続ける」という形で、その歴史が形成されていったと捉えるべきである。明確な築城年代が定かではない 9 という事実自体が、この城の成り立ちを物語っている。
その軍事的重要性は、早くも源平合戦の時代に記録されている。寿永2年(1183年)、備中水島の戦いで勝利した平氏軍は、ここ室山に陣を構えた。これに対し、源頼朝の叔父にあたる源行家の軍勢が攻撃を仕掛けたが、平氏軍の前に大敗を喫した 11 。この「室山の戦い」は、木曽義仲の追討と並行して展開された源平の攻防の一環であり、後の「一ノ谷の合戦」へと続く重要な前哨戦であった 13 。この時点で、今日の我々が認識するような恒久的な城郭が存在したかは定かではないが、室津の丘陵が防御拠点として極めて優れた地形であったことは、当時の武将たちに広く認識されていたのである。
室津城が播磨の歴史の表舞台に明確に登場するのは、南北朝時代の動乱期である。建武2年(1335年)、鎌倉で挙兵した足利尊氏が京での戦いに敗れ九州へ西走する際、播磨守護であった赤松円心は、尊氏を追撃する新田義貞の大軍を食い止めるべく、播磨国内の防衛網を固めた 11 。円心自身は本拠である白旗城に籠り、長男の赤松範資に三千騎の兵を与え、この室津城の守備にあたらせた 9 。これは、室津城が播磨全体の防衛ラインにおいて、敵の進軍を阻むための戦略的要衝と位置づけられていたことを示している。しかし、新田軍の猛攻は凄まじく、範資は奮戦の末に敗れ、室津城は落城。範資は父のいる白旗城へと退却した 9 。
しかし、赤松氏にとって室津は決して諦めることのできない土地であった。九州で勢力を再編した足利尊氏が東上を開始すると、それに呼応した円心は反撃に転じ、室津城を奪還する。その後、円心は孫の本郷掃部助直頼と赤松雅楽助頼則を城の守りにつかせた 9 。一族の重要な人物を配置したこの措置は、赤松氏が室津を単なる一時的な防衛拠点ではなく、恒久的に確保すべき重要拠点と見なしていたことの証左である。
時代は下り、室町時代中期。将軍・足利義教を赤松満祐が暗殺した「嘉吉の乱」(1441年)により赤松宗家が一時滅亡すると、播磨は山名持豊(宗全)の支配下に入った。この時、室津城には山名一族の政豊が置かれ、山名氏による播磨支配の拠点の一つとなった 9 。しかし、それは同時に、赤松氏の残党による旧領回復運動の主要な標的であり続けることを意味した 9 。城の支配者がすなわち播磨の支配者であることを象徴するかのように、室津城は常に地域の覇権を巡る争いの中心にあり続けたのである。この城の歴史は、個々の城主の物語を超え、瀬戸内海の地政学という、より大きな構造の中で理解されるべきものである。城の存在そのものが、この土地の不変の戦略的価値を証明していると言えよう。
第二章:播磨の動乱と浦上氏の台頭 ― 戦国時代における城主の変遷
応仁・文明の乱(1467年-1477年)を経て戦国時代の幕が開くと、室津城の運命は、播磨の新たな実力者として台頭する浦上氏と深く結びついていく。浦上氏の興隆は、単なる軍事的な成功物語ではない。それは、室津城という「経済エンジン」を掌握し、財政的自立を成し遂げた者が、いかにして旧来の権力構造を覆していったかを示す、下剋上時代の典型的な事例であった。
応仁の乱後、赤松政則は幕府の支持を得て、山名氏から播磨・備前・美作三国の守護職を奪還する。この赤松家再興において、中心的な役割を果たしたのが重臣の浦上則宗であった 16 。則宗は、その絶大な功績により赤松家中で「年寄衆」筆頭の地位を確立し、主家の政治全般に強大な影響力を行使するに至る 17 。そして、この則宗が新たな拠点として与えられたのが、室津城であった 9 。
則宗は室津城を補修・強化すると、その地政学的な利点を最大限に活用した。彼は城下に瀬戸内海航路を通過する船舶に対する関所を設け、通行税(関銭)を徴収し始めたのである 9 。これが浦上氏の運命を決定づけた。室津港を経由する膨大な物流から上がる収益は、則宗に莫大な富をもたらした。この経済力こそが、浦上氏が主家である赤松氏をも凌駕する独自の権力基盤を築くための財政的礎となった。家臣団の維持・拡大、兵糧や最新の武具の購入など、則宗が得た富は、彼の軍事力を飛躍的に増大させた。
しかし、家臣の急激な経済的自立は、主君の権威を根底から揺るがすものであった。則宗の蓄財は、やがて主君・赤松政則との間に深刻な対立を生む一因となった 9 。これは、守護代が独自の経済力を背景に守護大名から自立していくという、戦国時代特有の下剋上の萌芽を示す象徴的な出来事であった。室津城は、浦上氏にとって単なる軍事拠点である以上に、主家から独立した採算を可能にする「事業拠点」としての意味を持っていた。この経済的自立こそが、則宗の孫である浦上村宗による、より過激で決定的な下剋上への道を準備したのである。浦上氏の物語は、戦国時代において、武力だけでなく経済力の掌握がいかに重要であったかを如実に示している。
第三章:下剋上の舞台 ― 浦上村宗と主君殺害
浦上則宗が築いた経済的・軍事的基盤を受け継いだ孫の浦上村宗の時代、守護代による主家への介入は、ついに主君殺害という究極の下剋上へと至る。そして、その血塗られた歴史の舞台として選ばれたのが、浦上氏の富の源泉であり、支配の象徴でもあった室津であった。
当時の赤松家当主・赤松義村は、成長するにつれて、父の代から家中の実権を掌握してきた浦上氏の強大な権勢を深く警戒していた。彼は自らの権力を確立すべく、側近を重用し、浦上氏の影響力を削ごうと試みた 18 。永正14年(1517年)、義村は村宗に対して出仕差し止めを命じるなど、浦上氏の排斥を公然と開始する。しかし、この強硬策は、既に守護の権威を凌ぐ実力を持っていた村宗の猛烈な反発を招き、両者の対立を決定的なものとした 18 。
村宗は義村の仕置きに憤激し、家臣の宇喜多能家らと共に本拠地である備前の三石城へ帰還し、公然と赤松氏に反旗を翻した。義村はこれを好機と捉え、村宗討伐の軍を幾度となく派遣するが、村宗はこれをことごとく撃退。逆に播磨へと侵攻し、軍事的に義村を圧倒するに至った 18 。
永正17年(1520年)、完全に軍事的優位を確立した村宗は、義村を強制的に隠居させ、その幼い嫡子・才松丸(後の赤松晴政)に家督を継がせることで、赤松家を傀儡化した 16 。しかし、村宗はそれに飽き足らなかった。翌大永元年(1521年)、なおも再起の機会を窺う義村の存在を危険視した村宗は、和睦を装って義村を捕縛。そして、播磨の室津へと幽閉したのである 16 。
村宗が義村の幽閉、そして殺害の場所として室津を選んだのは、決して偶然ではなかった。室津は浦上氏が関所を置いて直接支配し、経済的にも完全に掌握している土地であった 9 。赤松氏の旧来の家臣団の影響が及びにくい、いわば浦上氏の「聖域」であり、外部からの干渉や救出の動きを遮断するには好都合な場所であった。港町という開かれた空間でありながら、支配者の意のままになる閉鎖的な空間にもなり得るという二面性が、この歴史的事件を可能にしたのである。
そして同年9月、村宗は非情な決断を下す。幽閉先の室津(一説には城下の見性寺とされる 9 )で、刺客を放ち主君・義村を暗殺させた 16 。これにより、浦上村宗は名実ともに播磨・備前・美作三国の支配権を掌握し、守護代から戦国大名へと完全に変貌を遂げた。富を生み出す経済の拠点が、権力を最終的に奪取するための処刑場へと変貌した瞬間であった。この事件は、戦国時代の下剋上を象徴する出来事として、長く記憶されることとなる。
第四章:悲劇の終焉 ― 浦上政宗の時代と婚礼襲撃事件
浦上村宗が下剋上によって築き上げた権勢は、しかし、その子・政宗の代に悲劇的な形で終焉を迎える。播磨の複雑な権力闘争の中で、室津城は再び歴史の重要な舞台となるが、それは栄光ではなく、滅亡の舞台であった。浦上氏本家の命運を賭けた政略結婚が、逆にその命脈を絶つという皮肉な結末を迎えるのである。
勢力 |
主要人物 |
拠点 |
主要な関係性 |
浦上惣領家 |
浦上政宗、浦上清宗 |
室津城 |
弟・宗景と敵対。黒田氏と婚姻同盟を結ぶ。 |
浦上分家 |
浦上宗景 |
備前・天神山城 |
兄・政宗と敵対。毛利氏と結ぶ。 |
赤松惣領家 |
赤松義祐 |
置塩城 |
龍野赤松氏(政秀)と敵対。 |
龍野赤松家 |
赤松政秀 |
龍野城 |
赤松惣領家(義祐)と敵対。浦上政宗を奇襲。 |
小寺家 |
小寺政職 |
御着城 |
赤松惣領家の家臣。 |
黒田家 |
黒田職隆、黒田官兵衛 |
姫路城 |
小寺家の家臣。浦上政宗と婚姻同盟を結ぶ。 |
第一節:播磨の権力地図と政略結婚
浦上村宗が享禄4年(1531年)に「大物崩れ」で戦死すると、浦上氏の内部に深刻な亀裂が生じた。家督は嫡男の政宗が継承したが、弟の宗景は父の死を契機に備前で自立の動きを強め、やがて両者は公然と対立する関係となった 21 。この兄弟間の対立は、中国地方の覇権を争っていた尼子氏と毛利氏という二大勢力の代理戦争の様相を呈した。政宗が尼子氏と結んだのに対し、宗景は毛利氏の支援を取り付けて対抗し、備前の国人衆をも二分する泥沼の抗争へと発展していったのである 24 。
時を同じくして、浦上氏のかつての主家であった赤松氏もまた、深刻な内紛に揺れていた。赤松晴政(村宗に擁立された当主)の子・義祐が、父を追放して家督を奪うという事態が発生 26 。この時、追放された晴政を保護したのが、晴政の娘婿であり、西播磨に勢力を持つ龍野城主・赤松政秀であった。これにより、置塩城を本拠とする赤松惣領家(義祐)と、龍野城の赤松政秀は抜き差しならない敵対関係に陥った 26 。
このような状況下で、室津城を拠点とする浦上政宗は、極めて困難な立場に置かれた。東の備前には弟・宗景、北の置塩城には赤松義祐とその家臣である御着城主・小寺政職、そして西の龍野城には赤松政秀と、文字通り四方を敵に囲まれていたのである。この絶体絶命の包囲網を打破するため、政宗が打った起死回生の一手が、姫路城主・黒田職隆との同盟であった 28 。黒田氏は小寺氏の家臣でありながら、播磨西部で独自の勢力を築きつつあった。政宗は、この黒田氏を味方に引き入れることで、播磨における足場を固め、敵対勢力を牽制しようと図った。
この同盟を確固たるものにするため、政宗は自身の次男・浦上清宗と、黒田職隆の娘(後の軍師・黒田官兵衛の妹)との婚姻を成立させた 7 。これは、単なる勢力拡大策ではなく、滅亡の危機に瀕した浦上惣領家にとって、まさに生き残りを賭けた必死の「生存戦略」であった。しかし、この防衛的な一手は、隣接する最大の敵・赤松政秀の警戒心を極度に煽る結果となる。政秀にとって、浦上・黒田連合の誕生は、自らの存立を脅かす新たな脅威に他ならなかった。政宗の生存戦略が、皮肉にも自らの悲劇の引き金を引くことになったのである。
第二節:婚礼の夜の惨劇
永禄7年(1564年)1月(一説には永禄9年(1566年)とも 7 )、室津城は浦上清宗と黒田家の姫との婚礼の祝宴に沸いていた。城内の誰もが、この婚姻によって浦上家の未来が安泰になると信じていたであろう。しかし、その祝賀ムードこそが、赤松政秀が待ち望んでいた最大の隙であった。
政秀は、浦上・黒田の同盟が完全に機能し始める前に、その結節点である室津城を叩く必要があった。そして彼は、最も効果的かつ非情な戦術を選択する。婚礼当日の夜、祝宴で城内の警戒が最も緩んだ瞬間を狙い、龍野城から精鋭を率いて室津城に電撃的な奇襲をかけたのである 7 。
この戦術は、軍事的に極めて合理的であった。祝宴の最中であれば、城兵の抵抗は最小限に抑えられ、かつ城主である政宗と後継者である清宗が一堂に会している可能性が高い。不意を突かれた浦上方は組織的な抵抗もままならず、城内は大混乱に陥った。この奇襲により、城主・浦上政宗と、花婿であった息子の清宗は、なすすべもなく討死した 9 。一部の記録によれば、若干16歳であった花嫁、すなわち黒田官兵衛の妹も、この惨劇の中で命を落としたと伝えられている 11 。
祝言の場は一瞬にして血の海と化し、赤松軍によって放たれた火は城郭を包み、室津城は紅蓮の炎に飲み込まれた 7 。祝宴という最も神聖で喜ばしい儀式を標的とするこの攻撃は、目的のためにはいかなる手段も厭わない戦国武将の非情さと、敵の弱点を的確に突く冷徹な合理性が見事に融合したものであった。この一夜の惨劇は、浦上惣領家の歴史に終止符を打ち、室津城の運命を決定づけたのである。
第三節:事件の余波と廃城
婚礼の夜の襲撃は、播磨の勢力図を一変させるほどの甚大な影響を及ぼした。城主・政宗とその後継者である清宗を同時に失ったことで、浦上村宗から続く浦上氏の惣領家は、この一夜にして事実上滅亡した 30 。
この権力の空白を埋めたのは、長年兄と対立してきた弟の浦上宗景であった。兄の死により、宗景は政宗の所領を併合し、分裂していた浦上氏の家督を一本化することに成功する。これにより、彼は備前・美作から西播磨にまで勢力を及ぼす、名実ともに戦国大名としての地位を確立した 21 。一方で、奇襲を成功させた赤松政秀は、西播磨における影響力を一時的に強めたものの、強大化した浦上宗景との対立は避けられず、最終的には元亀元年(1570年)に暗殺されたとも伝えられている 26 。
この事件で最も大きな痛手を被った勢力の一つが黒田氏である。婚姻によって結びつこうとした同盟相手を失い、一族の娘を無残に殺されたことは、計り知れない損失であった。この苦い経験は、若き日の黒田官兵衛の心に深く刻まれ、後の彼の慎重かつ現実的な戦略眼を形成する一因となった可能性は十分に考えられる。
そして、悲劇の舞台となった室津城は、この襲撃で炎上した後、二度と再建されることなく、歴史の表舞台から完全に姿を消した 7 。浦上氏の拠点が宗景の天神山城に一本化されたこと、そして播磨の政治情勢の中心が、赤松惣領家の置塩城、小寺氏の御着城、さらには羽柴秀吉の姫路城といった内陸の拠点へと移っていく中で、室津城が戦略拠点として再興されることはなかったのである。
室津城の廃城は、単に一つの城が破壊されたという物理的な事象に留まらない。それは、戦国時代後期の播磨において、権力の中心が、特定の港湾を直接支配する沿岸部の拠点から、広大な後背地を統治するのに適した大規模な内陸拠点へと移行したことを象徴する出来事であった。戦国時代の城郭機能が、局地的な防衛・経済拠点から、広域を支配する「方面軍司令部」へと進化していく中で、室津城はその歴史的役割を終えたのである。
第五章:城郭の構造と現在の姿 ― 考古学的視点と現存遺構
婚礼の夜の炎と共に歴史から姿を消した室津城は、現在、その往時の姿を偲ぶことは極めて困難である。しかし、残されたわずかな痕跡と地理的条件から、その構造と、なぜ遺構が残存しなかったのかを考察することは可能である。
室津城は、室津港に南へ突き出した半島状の丘陵という、典型的な海城の立地を占めている 8 。伝承によれば、標高約53メートルの丘陵最高所に本丸が置かれ、その北側のやや低い場所に二の丸が配されるという、直線的な連郭式の縄張りであったと推測される 8 。この構造は、港に対する防御と監視を最も効率的に行うための、機能的な設計であったと考えられる。
しかし、現在、城跡には曲輪や堀、土塁といった明瞭な城郭遺構はほとんど確認できない 7 。本丸があったとされる場所は、現在では宅地や畑として利用されており、その多くが私有地となっているため、詳細な調査も難しい状況にある 7 。城の存在を今に伝えるのは、道路脇にひっそりと立つ「室山城跡・遠見番所跡」と刻まれた石碑のみである 7 。この「遠見番所跡」という併記は、城としての機能が失われた江戸時代以降も、港を監視する番所としてこの地が利用され続けた可能性を示唆しており、興味深い。また、二の丸跡地は「室津二ノ丸公園」として整備されているが、城郭としての面影は薄く、案内板一つ設置されていないのが現状である 7 。
公式な発掘調査が行われたという記録は見当たらず、城の正確な規模や構造、瓦葺の建物が存在したか否かといった考古学的な知見は、現時点では皆無に等しい。ただ、一部の訪問者からは、本丸跡の斜面に古い石積みのような痕跡や、公園の藪の中に遺構らしき石を発見したという報告もあり 7 、地中には往時の痕跡が眠っている可能性は残されている。
室津城に明瞭な遺構が残らなかった理由は、二つの複合的な要因に帰することができる。第一に、その悲劇的な最期である。婚礼襲撃事件に伴う徹底的な破壊と炎上、そして意図的な廃城は、城の構造物を物理的に消滅させた 7 。再建されることがなかったため、残存した石垣なども、近隣の築城や土木工事のために転用された可能性も高い。第二に、城跡の立地そのものである。港を見下ろすこの一等地は、城が廃された後も、港町・室津の発展と共に住宅地や畑として利用され続けた 8 。人々の生活空間としての土地利用が、城郭遺構の保存を阻んだのである。
つまり、室津城の遺構の乏しさは、戦国時代の「破壊」と、近世以降の「生活」という、異なる時代の二つの力が重なった結果と言える。それは、城が歴史的役割を終えた後、その土地が港町の一部として新たな役割を担い続けたことの証左であり、城跡が「死んだ遺跡」ではなく、現代まで続く「生きた土地」であることを物語っている。
結論:戦国史における室津城の歴史的意義
播磨国・室津城の歴史は、瀬戸内海の一角で繰り広げられた一地方城郭の興亡史に留まらない。それは、日本の戦国時代という時代の精神と社会変動を凝縮した、一つの壮大な物語である。
第一に、室津城は単一の機能を持つ拠点ではなかった。古代からの海上交通の要衝を支配する「地政学的拠点」として、関銭を徴収し富を蓄積する「経済的拠点」として、そして主君殺害や政略結婚の舞台となった「政治的拠点」として、多様な顔を持つ複合的な存在であった。その価値の多面性こそが、多くの権力者を惹きつけ、激しい争奪戦の的となった根本的な理由である。
第二に、その歴史は下剋上という時代の力学を鮮やかに体現している。播磨守護・赤松氏の家臣に過ぎなかった浦上氏が、室津の港がもたらす経済力を背景に主家を凌駕し、ついには主君をこの地で手にかけた過程は、旧来の権威が実力によって覆されていく戦国時代の縮図そのものである。
第三に、婚礼の夜の惨劇という悲劇的な終焉は、戦国時代の非情さとダイナミズムを我々に突きつける。一つの政略が、当事者だけでなく、周辺の有力大名、ひいては播磨全体の勢力図を一夜にして塗り替えてしまう。そこには、目的のためには手段を選ばない冷徹な合理性と、人間的な情愛や儀礼が踏みにじられる時代の厳しさが凝縮されている。
室津城の栄枯盛衰は、権力の源泉が土地(農業)から富(商業)へと移行する時代の変化の中で、その流れを的確に掴んだ者が台頭し、油断した者や旧来の価値観に固執した者が滅び去るという、歴史の非情な法則を物語っている。今は静かな港町を見下ろす丘に、わずかな痕跡を残すのみのこの城は、かつて日本の歴史が大きく動いた重要な舞台であったことを、我々は記憶に留めるべきであろう。
引用文献
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- 青山・土器山の戦い - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%92%E5%B1%B1%E3%83%BB%E5%9C%9F%E5%99%A8%E5%B1%B1%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
- 青山合戦古戦場 | なんとなく城跡巡り - FC2 https://siroatomeguri.blog.fc2.com/blog-entry-164.html
- 悲劇の花嫁、室山(室津)城 - 武楽衆 甲冑制作・レンタル https://murakushu.net/blog/2022/02/23/murotsujyou/
- 花嫁の悲劇、室津城 - 武楽衆 甲冑制作・レンタル https://murakushu.net/blog/2015/12/28/muroyama/
- 浦上氏と赤松氏 - 日本実業出版社 https://www.njg.co.jp/column/morioka-2731/
- 赤松政秀 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%A4%E6%9D%BE%E6%94%BF%E7%A7%80
- 室山城 : 婚礼日に襲われた浦上氏 悲劇の城跡 - 城めぐりチャンネル https://akiou.wordpress.com/2014/01/20/muroyama/