宮尾城
宮尾城は厳島合戦で毛利元就が陶晴賢を誘い込むため築いた海城。わずか300の兵で陶軍2万を釘付けにし、元就の奇襲を成功させた。戦後は役割を終え廃城となるも、その歴史は元就の知略と厳島合戦の勝利を象徴する。
軍略の枢軸、宮尾城 ― 厳島合戦の勝敗を決した海城の徹底分析
序論:歴史の転換点に立つ城
日本の戦国時代、数多の合戦が歴史の潮流を左右したが、その中でも一人の武将の運命を、ひいては西国全体の勢力図を劇的に塗り替えた戦いとして「厳島合戦」は特筆される。そして、この歴史的転換点の中心に位置しながら、その実像があまりにも単純化されて語られてきた城がある。それが、安芸国厳島(現在の広島県廿日市市宮島町)に築かれた宮尾城である。
通説において、宮尾城は毛利元就が優勢な敵将・陶晴賢を狭隘な島内へと誘い込むためだけに築いた「おとり城」として知られている 1 。この評価は、元就の類稀なる知略を象徴する逸話として魅力的ではあるが、宮尾城が果たした役割の多層性を見過ごす危険性を孕んでいる。この城は、単なる受動的な罠ではなく、元就の大戦略を具現化するために緻密に設計され、能動的に機能した多機能な軍事装置であった。
本報告書は、戦国時代という時代背景を基軸に、宮尾城の真実に迫ることを目的とする。その築城経緯に秘められた謎、瀬戸内海の制海権を意識した海城としての構造的特異性、厳島合戦の雌雄を決した十日間の攻防における多角的な役割、そして歴史的使命を終えた後の忘却に至るまで、あらゆる角度から徹底的に分析する。これにより、「おとり城」という一面的な評価を超克し、毛利元就の知略の結晶であり、戦国史の転換点を演出した戦略的要諦としての宮尾城の実像を明らかにするものである。
第一章:厳島前夜 ― 大内氏の凋落と毛利元就の台頭
宮尾城が歴史の表舞台に登場する背景には、西国における巨大な権力構造の変動があった。この城の築城は、決して偶発的な戦術行動ではなく、周防の大大名・大内氏の内部崩壊という未曾有の動乱を好機と捉えた毛利元就の、周到に準備された大戦略の一環であった。
第一節:西国の巨星、墜つ ― 大寧寺の変と陶晴賢の権力掌握
天文20年(1551年)、中国地方から北九州にまで権勢を誇った守護大名・大内義隆が、その重臣であった陶晴賢(当時は隆房)の謀反によって長門国大寧寺で自刃に追い込まれた 3 。この「大寧寺の変」は、西国に君臨した大内氏の支配体制を根底から揺るがす大事件であった。義隆の嫡男・義尊も殺害され、大内氏の正統な血筋は事実上ここで途絶えることとなる 4 。
晴賢は、豊後の大友宗麟の弟・晴英(後の大内義長)を傀儡の当主として周防に迎え入れ、大内氏の実権を完全に掌握した 4 。しかし、旧主を弑逆したという汚名は晴賢の権力基盤を脆弱なものにした。多くの国人領主たちが晴賢の強権に従う一方、その支配の正統性には常に疑問符が付きまとっていたのである。この権力の空白と正統性の欠如が、安芸国の一国人に過ぎなかった毛利元就に、千載一遇の機会をもたらすことになった。
第二節:防芸引分 ― 元就、独立への狼煙
当初、元就は大内氏の長年の盟友として、晴賢の新体制に協力的な姿勢を見せていた。しかし、天文23年(1554年)、元就は突如として晴賢に反旗を翻し、陶氏との関係を断絶する(防芸引分)。これを機に、元就は電光石火の速さで安芸国内における大内方の拠点、己斐城、草津城、そして厳島対岸の桜尾城を次々と攻略し、その支配下に置いた 5 。
この決断は、無謀とも言える賭けであった。陶晴賢が動員可能な兵力は約2万と推定されるのに対し、当時の毛利軍は3千から3千5百程度に過ぎず、その戦力差は圧倒的であった 1 。元就自身、平地における正面からの決戦では勝ち目がないことを痛感しており、この絶望的な兵力差を覆すためには、敵の力を削ぎ、味方の利を最大限に活かす奇策を用いる以外に道はなかった 3 。この状況認識こそが、後の厳島決戦と宮尾城築城へと繋がる戦略の原点となる。
第三節:決戦の地、厳島
圧倒的な兵力差を前に、元就が最終決戦の場として選んだのが、神の島・厳島であった。平地での会戦を避け、あえて狭隘な島を決戦場とすることで、大軍の利点を無力化し、奇襲を成功させやすい地形的優位性を確保しようとしたのである 1 。
この選択には、単なる地理的要因を超えた、深い戦略的意図が隠されていた。厳島は古来より神聖な地として崇敬を集め、安芸国一宮である厳島神社が鎮座する宗教的中心地であった 9 。同時に、大内氏にとっては瀬戸内海の海上交通を扼する要衝であり、安芸国支配における重要な拠点でもあった 7 。事実、大内軍が軍事行動を起こす際には、厳島に立ち寄り戦勝を祈願することが通例となっていたのである 5 。
元就による厳島の占拠は、この文脈においてこそ、その真の意味を理解することができる。それは単なる軍事拠点の確保に留まらなかった。大内氏の伝統的権威の象徴である厳島を奪うという行為は、晴賢の支配の正統性を根底から揺るがす、極めて効果的な政治的・心理的な挑戦状であった。晴賢にとって、厳島を毛利氏の手から奪還することは、軍事的な必要性以上に、自らの権威を守り、西国の支配者としての面子を保つために、絶対に果たさねばならない至上命題となった。元就は、物理的な城という「餌」を設置する以前に、敵の心理に訴えかけることで、厳島という広大な「罠」を仕掛けていたのである。
第二章:宮尾城の実像 ― 構造と築城を巡る言説の検証
毛利元就の戦略の要として歴史の表舞台に登場した宮尾城は、どのような城だったのか。その物理的な構造と、築城の経緯を巡る二つの主要な説を検証することで、この城に込められた元就の真の意図が浮き彫りになる。
第一節:海に浮かぶ要害 ― 地理的優位性と縄張り
宮尾城は、現在の宮島桟橋のすぐ南に位置する要害山(ようがいざん)と呼ばれる、標高約27メートルから30メートルの小高い丘に築かれた連郭式の平山城である 2 。現代では周囲の埋め立てが進んでいるが、築城当時は山麓まで海が迫り、三方が海に面した岬状の地形であった 11 。この立地は、宮尾城が単なる山城ではなく、味方の水軍(警固衆)との連携を前提とした「海城」としての特性を色濃く有していたことを示している 3 。海上からの補給や援軍の受け入れ、さらには万が一の際の脱出路確保において、この地理的条件は決定的な優位性をもたらした。
城の縄張り(設計)は、小丘の最高部(標高27.1メートル)に本丸を置き、その東側に二の丸、そして丘から伸びる西北と西南の尾根には出丸が配されていたと伝えられる 14 。これらの主要な曲輪は、帯曲輪や堀切によって巧みに分割・防御されており、小規模ながらも地形を最大限に活かした設計であったことが窺える 15 。特筆すべきは、この時期の城としては比較的珍しく、脆く崩れやすい地盤を補強するために石垣が用いられていた点である 5 。これは、急造の城でありながらも、陶の大軍による猛攻に一定期間耐えうるだけの防御力を確保しようとした、元就の現実的な工夫の表れと言えよう。
しかし、宮尾城の構造を詳細に分析すると、それが数万の敵軍による本格的な包囲戦を想定した、長期籠城型の堅固な要塞ではないことが明らかになる。むしろ、その設計思想は、陸からの攻撃を一時的に凌ぎつつ、海上からの支援を絶対的な前提とする「一時的な戦闘拠点(橋頭堡)」として最適化されていた。城単体での自己完結的な防御力に依存するのではなく、水軍という外部戦力との連携によって初めてその真価を発揮する、いわばネットワーク型防衛システムの中核をなす存在であった。この構造こそが、厳島合戦における宮尾城の役割を解き明かす鍵となる。
第二節:築城論争 ―「おとり城」説と「既存施設改修説」の比較検討
宮尾城の成り立ちについては、大きく分けて二つの説が存在し、長らく議論の対象となってきた。
一つは、江戸時代の軍記物『陰徳太平記』などに記され、広く知られている「おとり城」説である 5 。これは、毛利元就が陶晴賢の大軍を厳島に誘引するという、ただ一つの目的のために、全く何もない場所に一から城を築いたとする説である 1 。この物語は、元就の「謀将」としてのイメージを劇的に演出し、厳島合戦の奇跡的な勝利をより一層際立たせるものとして、後世に受け入れられてきた。
もう一つは、より史実的・合理的な観点からの「既存施設改修説」である。これは、厳島が古来より瀬戸内海の海上交通の要衝であったことから、合戦以前からこの地には何らかの軍事施設、例えば瀬戸内を拠点とする水軍(海賊衆)の砦や物見櫓のようなものが存在しており、元就はそれを再利用、あるいは大規模に改修して宮尾城を完成させたとする説である 5 。この説は、元就の現実主義者としての一面、すなわち既存のインフラを効率的に活用して短期間で目的を達成しようとする合理的な思考を反映している。
これら二つの説は、一見すると対立するもののように思えるが、必ずしも排他的な関係にあるわけではない。むしろ、両者を統合的に解釈することによって、元就の戦略の深層に迫ることが可能となる。すなわち、元就は、もともと存在したであろう小規模な水軍施設を戦略的に選び出し、それを陶軍にとって「攻略は可能に見えるが、決して無視はできない」という絶妙な規模と防御力を持つ城へと、意図的に改修したのではないだろうか。つまり、「既存施設の改修」という現実的な手段を用いて、「おとり城」という戦略的な目的を達成した、と考えるのが最も妥当性が高い。元々が海賊の砦のような小規模な施設であったからこそ、陶晴賢に「寡兵で守るあの程度の城ならば、大軍で一気に攻め落とせる」という油断を生じさせ、元就の罠へと誘い込む上で、かえって好都合だったのである。
以下の表は、宮尾城の築城に関する諸説を比較検討したものである。
論点 |
おとり城説(新規築城説) |
既存施設改修説 |
統合的解釈(本報告書の見解) |
根拠 |
『陰徳太平記』などの軍記物 5 |
厳島が古来より交通の要衝であった事実、考古学的蓋然性 18 |
両説の蓋然性を考慮 |
元就の意図 |
陶軍を厳島に誘引するための純粋な謀略 1 |
既存インフラの効率的な活用 18 |
既存施設を「おとり」として最適化する謀略 |
城の評価 |
意図的に脆弱に作られた罠 |
元々存在した機能的施設 |
戦略目的に特化して改修された軍事装置 |
歴史的意義 |
元就の「謀将」としての側面を強調 |
元就の「現実主義者」としての側面を強調 |
元就の謀略と合理性を兼ね備えた多面性を証明 |
第三章:雌雄を決す十日間 ― 厳島合戦における宮尾城の役割
弘治元年(1555年)9月21日から10月1日にかけて繰り広げられた厳島合戦。この戦いにおいて、宮尾城は単なる防衛拠点の枠を超え、元就の奇襲作戦を成功に導くための時間稼ぎと敵軍の拘束という、極めて動的かつ決定的な役割を果たした。
第一節:籠城の将兵 ― 仕組まれた挑発
元就は、この決戦の鍵を握る宮尾城の守将として、己斐豊後守直之(こい ぶんごのかみ なおゆき)と新里宮内少輔元政(しんざと くないのしょう もとまさ)の二人を任命した 11 。この人選こそ、元就の謀略の真骨頂であった。彼らは単に武勇に優れた武将というだけではなかった。二人とも元は大内氏に仕え、それぞれ己斐城と桜尾城の守将であったが、ごく最近になって元就に降伏したばかりの人物だったのである 7 。
この人選が陶晴賢に与える心理的影響は計り知れない。晴賢から見れば、宮尾城に立て籠もっているのは、主家を裏切った許しがたい背信者たちである。したがって、宮尾城は単なる軍事目標であると同時に、自身の権威を内外に示し、裏切り者たちへの見せしめを行うための「処刑台」としての意味合いを帯びることになった。元就は、晴賢が兵糧攻めのような長期戦や、宮尾城を無視して毛利本領へ進撃するといった合理的な選択肢を取りにくくなるよう、彼の怒りと侮りを巧みに煽ったのである。城そのものだけでなく、城将の人選までもが、敵の判断を鈍らせ、宮尾城攻略という一点に固執させるための巧妙な「罠」として機能していた。
さらに元就は、重臣の桂元澄に偽の密書を持たせ、陶方に内応を約束させるという二重の計略を巡らせた 19 。これにより晴賢は、厳島に渡りさえすれば毛利を容易に打ち破れると確信し、元就の術中へと深く嵌っていくことになった。
第二節:嵐の前の攻防
弘治元年(1555年)9月21日、陶晴賢率いる2万余の大軍は、計画通り厳島に上陸を開始した 8 。晴賢は厳島神社を見下ろす高台、五重塔のある塔の岡に本陣を構え、眼下の宮尾城を完全な包囲下に置いた 3 。
これに対し、宮尾城に籠もる兵力は、わずか300から500名程度であった 3 。兵力差は実に40倍以上。しかし、己斐直之と新里元政に率いられた城兵は、決死の覚悟で防衛戦を展開した。特に副将の新里元政は怪力の持ち主として知られ、『陰徳太平記』には、彼が巨大な岩石を軽々と投げつけ、殺到する敵兵を盾ごと粉砕したという伝説的な奮戦ぶりが記されている 21 。
陶軍は5月と7月にも宮尾城へ攻撃を仕掛けていたが、いずれも撃退されていた 7 。本格的な包囲が始まってからも、陶軍は幾度となく総攻撃を敢行したが、城兵はこれをことごとく跳ね返し、驚異的な粘りを見せた。しかし、大軍による relentless な攻撃の前に、城の防御機能は徐々に失われていく。合戦終盤には、城の堀は埋め立てられ、水源も断たれるなど、陥落はもはや時間の問題という絶望的な状況に追い込まれていた 22 。この城兵たちの命を賭した時間稼ぎが、元就の奇襲を成功させるための、最後の、そして最も重要な布石となったのである。
第三節:勝利への協奏 ― 奇襲の鉄槌と金床
9月30日夜、折からの暴風雨が吹き荒れる中、元就の賭けが始まった。元就と三男の吉川元春が率いる主力部隊は、嵐と夜陰に乗じて陶軍の警戒網を潜り抜け、厳島神社の背後にあたる包ヶ浦への密かな上陸を敢行した 3 。
夜を徹して険しい山道(博奕尾)を越えた元就本隊は、翌10月1日の早朝、塔の岡に布陣する陶軍本陣の背後から、鬨の声とともに雪崩を打って奇襲した 8 。時を同じくして、元就の三男・小早川隆景が率いる水軍部隊が、大鳥居沖から陶軍の側面に攻撃を開始した 3 。そして、この奇襲に完璧に呼応したのが、宮尾城の籠城兵であった。彼らは城門を開いて打って出て、混乱する陶軍の正面に襲いかかったのである 3 。
これにより、陶軍は元就本隊(後方)、小早川水軍(側面)、そして宮尾城兵(前方)という三方からの挟撃を受け、完全に包囲される形となった。大軍ゆえに狭隘な地形で身動きが取れなくなった部隊は、指揮系統を失って大混乱に陥り、総崩れとなって海岸線へと敗走した 11 。この戦いで総大将の陶晴賢をはじめとする多くの将兵が討ち死にし、合戦は毛利方の一方的な大勝利に終わった 3 。
この一連の戦闘経過において、宮尾城は敵の主力を引きつけ、その場に釘付けにする「金床(アンビル)」としての役割を完璧に果たした。そして、背後から奇襲をかけた元就の本隊が、その金床の上で敵を打ち砕く「鉄槌(ハンマー)」であった。この古典的かつ効果的な「鉄槌と金床」戦術の成功に、宮尾城の存在は絶対不可欠だったのである。
第四章:合戦後の宮尾城 ― 歴史的役割の終焉と現代への継承
厳島合戦という歴史的な瞬間のために、その戦略的役割を全うした宮尾城は、その後どのような運命を辿ったのか。その終焉と、史跡としての現在の姿を考察する。
第一節:目的を達した城の行方
驚くべきことに、厳島合戦の勝利に決定的な貢献をしたにもかかわらず、合戦後の宮尾城がどのように処遇されたかについての明確な記録は、ほとんど残されていない 5 。築城年については弘治元年(1555年)5月頃とされる一方 3 、廃城年については「不明」とされている資料がほとんどである 8 。
この記録の欠如は、単なる史料の散逸として片付けるべきではない。むしろ、この「記録のなさ」こそが、宮尾城の本質を雄弁に物語っている。宮尾城は、恒久的な支配拠点として築かれた城ではなかった。それは、厳島合戦というただ一つの特定の目的のためだけに機能した、いわば「特設の軍事施設」であり、戦術的な駒であった。合戦が終結し、その戦略的価値が完全に失われた瞬間、この城は維持・管理する必要がなくなり、意図的に放棄、あるいは破却された可能性が極めて高い。その役割が極めて限定的であったからこそ、後世に語り継がれるべき記録も残されなかった。宮尾城の歴史的役割は、厳島合戦の終結と共に、まさに火花のように消え去ったのである。
第二節:史跡としての現在
かつて血戦の舞台となった宮尾城跡は、現在「要害山」として公園整備され、宮島桟橋から厳島神社へと向かう観光客が気軽に立ち寄れる場所となっている 2 。宮島桟橋のすぐ背後にある小高い丘が城跡であり、急な階段を登れば数分で頂上に到達できる 2 。
しかし、現在の景観から往時の姿を想像するのは容易ではない。周囲は埋め立てによって陸地化し、三方を海に囲まれた海城としての面影は失われている 12 。城郭としての遺構も、曲輪や堀切の痕跡がわずかに残るのみで、城全体の構造を明確に把握することは困難である 23 。
城跡の山頂部には現在、東屋や今伊勢神社が建立されており 2 、中腹には修験道の祖である役行者を祀る行者堂もある 18 。歴史的空間の中に、後世の新たな信仰の場が形成されている様が見て取れる。
それでもなお、この場所が持つ歴史的価値は計り知れない。城跡の最高部からは、かつて陶晴賢が2万の大軍と共に本陣を構えた塔の岡(現在の豊国神社・五重塔が建つ場所)を一望することができる 2 。眼下に広がる景色を眺めれば、宮尾城に籠もった兵士たちと、それを包囲した陶軍との絶望的な対峙、そして元就の奇襲によって戦局が劇的に反転した、あの歴史的瞬間の地理的関係を、時空を超えて体感することができるだろう。
結論:宮尾城が戦国史に刻んだもの
宮尾城は、単に敵を誘い込むための「おとり」という一面的な評価では、その本質を捉えきれない。それは、毛利元就の類稀なる知略と、冷徹な現実主義が融合した、多層的な戦略意図が込められた軍事芸術の傑作であった。本報告書で検証した通り、宮尾城は少なくとも三つの重要な役割を果たした。
第一に、「心理戦の舞台装置」としてである。城の存在そのものと、城将に元大内家臣を任命するという人選を通じて、敵将・陶晴賢の怒りと油断を誘い、その合理的な判断を誤らせるための巧妙な罠であった。
第二に、「戦術的要衝」としてである。寡兵をもって敵の大軍を一定期間その場に拘束し、元就本隊による奇襲攻撃を成功させるための決定的な時間を稼ぎ出した。それは、合戦の勝敗を左右する「金床」としての、戦術上不可欠な役割であった。
第三に、「海陸共同作戦の拠点」としてである。水軍との連携を絶対的な前提として設計された海城であり、毛利氏が有する陸上戦力と海上戦力を結びつけ、その総合的な軍事力を厳島という限定された空間に結集させるための、重要な結節点として機能した。
宮尾城での奮戦なくして厳島合戦の勝利はなく、厳島合戦の勝利なくして毛利氏の中国地方制覇はあり得なかった。この歴史の表舞台に現れてからわずか数ヶ月でその役割を終えた小さな城は、安芸国の一国人領主に過ぎなかった毛利元就を、天下を窺う戦国大名へと飛躍させる、まさに「出世城」 3 であった。それは、日本の戦国史における最も劇的な転換点の一つを演出した、不朽の存在として記憶されるべきである。
引用文献
- 【特集】毛利元就の「三矢の訓」と三原の礎を築いた知将・小早川隆景 | 三原観光navi | 広島県三原市 観光情報サイト 海・山・空 夢ひらくまち https://www.mihara-kankou.com/fp-sp-sengoku
- 宮尾城跡 クチコミ・アクセス・営業時間|宮島・厳島神社 - フォートラベル https://4travel.jp/dm_shisetsu/11288445
- 宮尾城(2007年11月24日)広島県廿日市市宮島町要害山 - 旦 ... https://lunaticrosier.blog.fc2.com/blog-entry-387.html
- 大内義長 大友家の人・子孫は東広島で名家に - 周防山口館 https://suoyamaguchi-palace.com/otomo-harufusa/
- 宮尾城 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E5%B0%BE%E5%9F%8E
- 宮尾城 - - お城散歩 - FC2 https://kahoo0516.blog.fc2.com/blog-entry-637.html
- 地御前神社の西側に、 「皇威輝八紘」の碑が建立されている。 この碑は https://www.city.hatsukaichi.hiroshima.jp/uploaded/attachment/35881.pdf
- 宮尾城(宮尾ノ城、要害山) - あの頂を越えて https://onedayhik.com/recView?recid=r2016082903
- 戦国大名による流通統制と都市支配 : - 安芸国厳島を例に https://ocu-omu.repo.nii.ac.jp/record/2018001/files/111E0000014-19-01.pdf
- 戦国時代の宮島さんの神主が語る厳島神社の歴史と信仰 - 福原元澄館 http://fukubara.web.fc2.com/htm/20120902x3.htm
- 古城の歴史 宮尾城 https://takayama.tonosama.jp/html/miyao.html
- 広島城 宮尾城 因島水軍城 青影城 余湖 http://mizuki.my.coocan.jp/saigoku/hirosimasi.htm
- 宮尾城(広島県廿日市市)の詳細情報・口コミ | ニッポン城めぐり https://cmeg.jp/w/castles/7510
- 宮尾城跡/要害山 | 【公式】広島の観光・旅行情報サイト Dive ... https://dive-hiroshima.com/explore/2377/
- [宮尾城] - 城びと https://shirobito.jp/castle/2347
- 安芸 宮尾城-城郭放浪記 https://www.hb.pei.jp/shiro/aki/miyao-jyo/
- 宮尾城(広島県廿日市市宮島町) - 観測所雑記帳 http://stelo.sblo.jp/article/189766818.html
- 要害山(広島県廿日市市宮島町)の歴史、観光情報、所在地 ... https://suoyamaguchi-palace.com/sue-castle/miyao-castle/
- 戦国武将の失敗学③ 陶晴賢が見抜けなかった「状況の変化」|Biz Clip(ビズクリップ) https://business.ntt-west.co.jp/bizclip/articles/bcl00007-086.html
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- 宮尾城の見所と写真・300人城主の評価(広島県廿日市市) - 攻城団 https://kojodan.jp/castle/211/
- 宮尾城 - 裏辺研究所 https://www.uraken.net/museum/castle/shiro55.html