丹後の海城、宮津城は織田信長の命で細川藤孝が築き、明智光秀が関与した先進的な海城。関ヶ原合戦前夜、幽斎自ら焼き払い、細川家飛躍の礎となる。今は地下に遺構が眠る。
戦国時代の末期、丹後の地に彗星の如く現れ、わずか二十年という短い期間で歴史の表舞台からその姿を消した城がある。宮津城である。その存在は、当代きっての文化人武将・細川藤孝(幽斎)と、その子で激情の将・忠興という父子の丹後支配、そして天下分け目の関ヶ原合戦という時代の大きな動乱と分かちがたく結びついている。
天正8年(1580年)、織田信長の命により築かれたこの城は、関ヶ原合戦の前哨戦において、築城主である細川幽斎自らの手によって焼き払われるという劇的な最期を遂げた 1 。そのあまりに短い歴史と、決定的な史料の乏しさから、特に細川氏時代の宮津城は「謎多き城」として語られてきた 2 。しかし、近年に至り、断片的に残された絵図や文献、そして1980年代から続けられてきた発掘調査の成果によって、その実像が徐々に浮かび上がりつつある 1 。
本報告書は、これらの最新の研究成果を統合し、戦国時代という視点から宮津城の全貌を徹底的に解明することを目的とする。なぜ、細川藤孝は丹後の中心として宮津の地を選んだのか。明智光秀が関与したとされるその構造は、いかなる先進性を備えていたのか。そして何よりも、心血を注いで築いたはずの城を、なぜ築城主自らが焼き払わねばならなかったのか。これらの核心的な問いを解き明かすことを通じて、戦国史における宮津城の真の歴史的価値を再評価するものである。
宮津城の築城は、単なる一地方大名の拠点整備という次元に留まるものではない。それは、織田信長が推し進める天下統一事業という、より壮大な構想の一部として計画された、時代の要請そのものであった。本章では、宮津城が誕生するに至った地政学的背景と戦略的意図を明らかにする。
宮津の地は、古代より丹後国の国府が置かれた政治・文化の中心地であった 3 。室町時代には、幕府の四職に数えられた名門守護大名・一色氏が、明徳3年(1392年)以来、九代にわたってこの地を支配し、宮津周辺に本拠を構え、数多くの支城や砦を築いていた 3 。
しかし、戦国乱世の波は丹後にも及び、一色氏の支配力にも陰りが見え始める。天下統一を目前にする織田信長にとって、丹後は西国、特に強大な勢力を誇る毛利氏を攻略するための重要な戦略拠点であった。天正7年(1579年)、信長の命を受けた細川藤孝と、彼の盟友である明智光秀が丹後国へ侵攻を開始する 3 。これにより、二百年近く続いた旧国主・一色氏は滅亡の途を辿ることとなった。
この支配者交代は、極めて苛烈な形で行われた。伝承によれば、細川忠興は丹後平定後もなお勢力を維持していた一色氏最後の当主・一色義清(五郎)を宮津の地で謀殺したとされる 5 。後に宮津城の三の丸に、義清の霊を鎮めるための「一色稲荷神社」が祀られたという事実は、この権力移行がいかに血塗られたものであったかを静かに物語っている 4 。
丹後一国を与えられ、新たな国主となった細川藤孝が、当初拠点としたのは一色氏時代からの居城であった宮津八幡山城であった 2 。藤孝・忠興父子、そして忠興の妻である玉子(後の細川ガラシャ)も、丹後入国当初はこの山城で暮らしていたと推測される 2 。
しかし、信長の構想は、既存の山城を改修して安住することではなかった。彼は藤孝に対し、山麓の八幡山城ではなく、宮津湾に面した海岸部に全く新しい城を築くよう命じたのである 3 。この命令の背後には、明確な戦略的意図があった。当時、織田政権が対峙していた最大の敵は、中国地方に覇を唱える毛利氏であった。信長は、陸路からの攻撃に加え、日本海側から水軍を用いて毛利領を攻撃する、二正面作戦を構想していたのである。宮津湾は、その水軍の出撃拠点、そして兵站基地として、まさに理想的な地政学的位置を占めていた 1 。鳥取城をはじめとする毛利方の日本海側拠点を海上から脅かすための、一大軍事基地の建設。それが、宮津城に課せられた真の使命であった。
この国家的な一大プロジェクトにおいて、設計指導者として重要な役割を果たしたのが、明智光秀であった 3 。信長の命により、藤孝は光秀の「指図」を仰ぎながら築城を進めたと記録されている 3 。光秀は、当代随一の築城の名手としても知られており、特に琵琶湖岸に築いた坂本城や丹波亀山城など、水利を巧みに利用した城郭建築を得意としていた 2 。
その先進的な築城術は、宮津城の設計にも遺憾なく発揮された。特筆すべきは、城の中枢である本丸を、直接海に面して配置した点である 2 。これは、城内から直接軍船を出し入れし、兵員や物資を迅速に海上輸送することを可能にする、極めて攻撃的かつ兵站重視の設計思想であった。宮津城は、単なる領国支配のための防御拠点ではなく、海を積極的に活用する攻撃拠点としての性格を色濃く持っていた。この点で、宮津城は近世に数多く築かれる「海城」の、まさに「本格的な先駆け」と評価することができる 1 。
このように、宮津城の誕生は、細川藤孝個人の意向を超え、織田信長の西国攻略という壮大な地政学的・軍事的要請によって決定づけられたものであった。それは、細川家の丹後支配の拠点であると同時に、織田政権の「西国方面軍・日本海海軍基地」という、より広域的な役割を担う城だったのである。戦国時代の戦いが、個々の領主間の局地的な争いから、広域を巻き込む天下統一戦争へと質的に変化していく、その時代の転換点を象徴する城郭、それが宮津城であった。
表1:宮津城関連年表(細川氏統治時代)
年代(西暦) |
元号 |
主な出来事 |
1579年 |
天正7年 |
細川藤孝・明智光秀、織田信長の命で丹後へ侵攻。旧国主・一色氏を滅ぼす 3 。 |
1580年 |
天正8年 |
細川藤孝、信長の命と光秀の指図により宮津城の築城を開始 1 。 |
1581年 |
天正9年 |
藤孝・忠興父子、明智光秀や津田宗及らを招き、天橋立で茶会・歌会を催す 4 。 |
1582年 |
天正10年 |
本能寺の変。藤孝は出家して幽斎と号し、田辺城へ隠居。宮津城は忠興の居城となる 3 。 |
1600年 |
慶長5年 |
関ヶ原合戦。忠興は東軍に参加し不在。留守を預かる幽斎は宮津城を自焼し、田辺城へ籠城 2 。 |
細川氏時代の宮津城は、関ヶ原合戦時の自焼によって灰燼に帰し、その詳細な姿を伝える直接的な史料は極めて少ない。しかし、後代に描かれた絵図や、近年の地道な発掘調査の成果を組み合わせることで、その「失われた縄張り」を科学的に推定することが可能である。本章では、これらの手がかりを基に、戦国末期の最先端を行く海城の実像に迫る。
細川氏時代の宮津城が持つ最大にして最も革新的な特徴は、前述の通り、城の中枢である本丸が直接宮津湾に面して築かれていた点にある 2 。この配置は、城が内陸の敵からの防御のみを想定したものではなく、外洋へのアクセスを最優先事項とする、外向きの性格を持っていたことを明確に示している。城内には船着き場が設けられ、有事の際には城から直接、軍船団が出撃できる体制が整えられていたと考えられる。これは、宮津城が対毛利戦役における水軍基地として計画されたという出自を、構造的に証明するものである。
天守の有無や、御殿などの具体的な建物の配置については、残念ながら史料がなく不明である 3 。しかし、同じ織田政権下で築かれた安土城や坂本城がそうであったように、権威の象徴として、また戦闘時の司令塔として、何らかの象徴的な高層建築が存在した可能性は十分に考えられる。石垣を多用した堅固な造りであったことも、発掘調査から明らかになっている。
宮津城は、西側を流れる大手川を天然の外堀として巧みに利用していた 9 。城郭の基本的な構造は、本丸の周囲を二の丸が囲み、さらに内堀を隔てて三の丸が西・南・東の三方を取り囲むという、輪郭式の縄張りであった 9 。
1980年代から始まった発掘調査は、地上から姿を消した宮津城が、地下には良好な状態で保存されていることを明らかにした 1 。宮津警察署の移転工事に伴う最初の調査では、想定通りに内堀と石垣が発見され、その後の調査で城の各所の遺構が次々と確認された 1 。石垣は、自然石をあまり加工せずに積み上げる「野面積み」という古風な技法が用いられていた 10 。
特に注目されるのが、城の出入り口である虎口の構造である。関西電力の駐車場跡地などから、二つの門と石垣や塀で四角い空間(桝形)を設けた「桝形虎口」の遺構が発見されている 1 。これは、一の門を突破した敵をこの桝形内に閉じ込め、周囲から集中攻撃を加えて殲滅するための高度な防御施設であり、宮津城が戦国末期の最新の築城術に基づいて設計されていたことを示している。
また、細川氏は城の建設と並行して、城下町の整備も進めた。城の防御ラインの外側、大手川の西側には東西に伸びる通りに沿って町屋が建ち並び、城の東と南には家臣団の武家屋敷が配置された 1 。城と町が一体となった計画的な都市設計は、軍事拠点としてだけでなく、丹後国の政治経済の中心地としての機能も視野に入れていたことを物語っている。驚くべきことに、現在の宮津市街地の道路網は、この時に形成された町割りを色濃く残しており、江戸時代の地図を片手に往時の街並みを辿ることができるほどである 1 。
関ヶ原合戦後、細川氏に代わって丹後一国の主となった京極高知、そしてその子・高広は、灰燼と化した宮津城を再建し、さらに大規模な改修・拡張を行った 1 。この京極氏による再興は、宮津城の性格を根本的に変えるものであった。
最大の変更点は、本丸の位置である。海に面していた細川時代の本丸は放棄され、より内陸側に新たな本丸が築かれた。そして城全体が内堀と外堀によって同心円状に囲まれる、より内向きで防御的な縄張りに改められた。これは、戦乱の時代が終わり、泰平の世における藩庁としての役割が城に求められるようになったことの現れである。外洋への進出という攻撃的な機能はもはや不要となり、領内を安定的に統治するための権威の象徴、そして行政の中心地としての性格が強まったのである。
この京極時代の宮津城の姿は、正保年間(1645年頃)に幕府へ提出された城絵図の下書きである「正保宮津城絵図案」によって、その詳細を知ることができる 1 。この絵図は、細川時代の「失われた縄張り」を推定する上で、極めて重要な比較対象となる。両者を比較することで浮かび上がる構造上の差異は、単なる改築という言葉では説明できない。それは、「軍事要塞」から「統治拠点」へという、城の役割そのものの変容であり、戦国から江戸へという時代の大きな転換点を物語る、貴重な物証なのである。
表2:細川時代と京極時代の宮津城比較
項目 |
細川時代(戦国期) |
京極時代(江戸期) |
性格 |
対外的・攻撃的 |
内向き・統治的 |
築城目的 |
対毛利水軍の出撃・兵站拠点 |
丹後宮津藩の藩庁・行政中心 |
縄張りの特徴 |
海へのアクセスを最優先した直線的な配置 |
内堀・外堀で囲まれた同心円状の配置 |
本丸の位置 |
宮津湾に直接面する |
内陸部(二の丸の内側) |
城は単なる石と木の建造物ではない。そこは、時代の激動の中で生きた人々の喜び、悲しみ、野望、そして絶望が交錯する、人間ドラマの舞台でもあった。宮津城の短い歴史は、細川藤孝(幽斎)、忠興、そしてガラシャ(玉子)という、個性豊かな三人の主要人物の物語と深く結びついている。
築城主である細川藤孝は、優れた武将であると同時に、和歌や茶の湯などに通じた当代随一の文化人としてもその名を馳せていた。彼の文化的な権威は、丹後という新たな領国を治める上で、武力と同じくらい重要な役割を果たした。
その象徴的な出来事が、築城間もない天正9年(1581年)4月12日に催された、天橋立での一大文化イベントである。藤孝・忠興父子は、盟友の明智光秀、堺の豪商で茶人の津田宗及、連歌の第一人者である里村紹巴といった、当時の政治・経済・文化の各界を代表するトップリーダーたちを宮津に招いた 1 。一行は飾り船を浮かべて九世戸(天橋立の付け根の水路)を見物した後、智恩寺文殊堂で茶会や歌会を催した 1 。津田宗及の茶会記『宗及他会記』には、この日の様子が詳細に記録されている 8 。
この催しは、単なる遊興ではない。細川氏の丹後支配が盤石であること、そしてその支配が武力だけでなく、京の都にも通じる高い文化によって支えられていることを、内外に強く印象づけるための、高度に計算された政治的パフォーマンスであった。宮津城は、最前線の軍事拠点であると同時に、日本の最先端の文化が交流するサロンでもあったのである。
父・藤孝が本能寺の変を機に隠居すると、宮津城は嫡男・忠興の居城となった 3 。忠興は、父とは対照的に、気性の激しい激情家の武将として知られている。彼は丹後支配を確固たるものにするため、時には冷徹な手段も辞さなかった。旧主・一色氏の縁者であり、自らの妹婿でもあった一色義定を宮津城に招き、誅殺したという逸話は、彼の性格を物語っている 11 。
しかし、その一方で、忠興は父から受け継いだ文化的な素養も深く身につけていた。特に茶の湯への傾倒は深く、千利休が最も高く評価した七人の高弟「利休七哲」の一人に数えられるほどの達人であった 11 。自らの号を冠した茶道の流派「三斎流」の開祖でもある 11 。宮津城内での彼の生活は、領国を治める武将としての厳しい緊張感と、茶の湯を嗜む文化人としての洗練された感性が、常に同居していたと考えられる。
明智光秀の三女として生まれた玉子は、織田信長の仲介で忠興に嫁ぎ、細川氏の丹後入国に伴って宮津の地で暮らした 12 。大手川のほとりに立つ現在のガラシャ像は、宮津城を眺めながら、夫と子供、そして宮津の民の幸せを願う若き日の彼女の姿をイメージして作られている 4 。後年の波乱に満ちた生涯を思うと、この宮津で過ごした日々は、彼女にとって「最も幸せな時期」であったと言われている 14 。
しかし、その幸福な日々は、天正10年(1582年)6月2日、父・光秀が起こした本能寺の変によって、突如として終わりを告げる。玉子の運命は、「信長の姪」から「逆臣の娘」へと一夜にして暗転した。夫・忠興は、妻への深い愛情と、細川家を守るという責務との間で苦悩する。結果として、彼は玉子と離縁することなく、丹後の山深い味土野(現在の京丹後市)の地に彼女を幽閉するという道を選んだ 13 。宮津城は、玉子にとって幸福の絶頂の象徴であると同時に、その後の過酷な運命の始まりを告げる場所ともなった。皮肉にも、前年に天橋立で催された華やかな茶会が、父・光秀との生前の最後の別れとなってしまったのである 4 。
宮津城は、このように単なる軍事施設ではなく、細川家の権力と威信を内外に示すための壮大な劇場であった。そこでは、一色氏誅殺のような政治的謀略、当代一流の文化人たちが集う文化的交流、そしてガラシャの物語に象徴される家族の愛憎劇が同時に繰り広げられていた。それは、戦国という時代の持つ多層性、すなわち「武」と「文」、政治と個人、栄光と悲劇が凝縮された空間だったのである。
築城からわずか二十年。丹後支配の拠点として、また織田・豊臣政権の日本海戦略の要として機能してきた宮津城は、なぜ灰燼に帰さねばならなかったのか。その背景には、天下分け目の大戦を前に、老将・細川幽斎が下した、非情にして極めて合理的な戦略的判断があった。
慶長5年(1600年)、豊臣秀吉の死後に顕在化した徳川家康と石田三成の対立は、ついに全国の大名を二分する戦いへと発展した。時の宮津城主・細川忠興は、早くから家康に与することを決意し、細川家の主力を率いて家康に従い、会津の上杉景勝討伐へと出陣していた 2 。
これにより、本拠地である丹後国は、極めて手薄な状態となった。忠興の留守を預かるのは、すでに家督を譲り、舞鶴の田辺城に隠居していた父・幽斎と、わずかな手勢のみであった 2 。三成ら西軍が挙兵すると、東軍に与した細川家の領国である丹後は、当然のことながら西軍の主要な攻撃目標の一つとなった。福知山城の小野木重勝、丹波の諸将、そして但馬の斎村政広(赤松広秀)ら、総勢1万5千ともいわれる西軍の大軍が、丹後へと迫っていた。
圧倒的な兵力差を前に、老将・幽斎は冷静に戦況を分析する。本城である宮津城と、自身の隠居城である田辺城の二つの城を、この寡兵で同時に守り切ることは不可能であると判断した 2 。どちらか一方に戦力を集中させ、徹底した籠城戦に持ち込むしかない。
ここで幽斎は、驚くべき決断を下す。本城であり、堅固な海城でもある宮津城を放棄し、田辺城に籠城することを選んだのである。さらに彼は、単に城を明け渡すのではなく、自らの手で宮津城に火を放ち、焼き払うことを命じた 2 。これは、丹後支配の象徴を失うことを意味する、苦渋の決断であった。しかし、この行動には明確な戦略的意図があった。第一に、戦力を田辺城一点に集中させること。第二に、そしてこれがより重要であるが、最新鋭の海城である宮津城を西軍の手に渡し、彼らの拠点として利用されることを防ぐ焦土作戦であった。宮津城の港湾機能と堅固な防御施設が敵の手に渡れば、西軍は日本海側の兵站・補給基地を得ることになり、戦況は東軍にとって著しく不利になる。幽斎は、それを未然に防ぐために、あえて自らの城を破壊するという非情な選択をしたのである。
幽斎の読みは的中した。彼は田辺城に籠城し、約二ヶ月にわたり西軍の大軍を釘付けにした(田辺城の戦い)。この籠城戦は、西軍の兵力の一部を関ヶ原の本戦から引き離す効果を持ち、間接的に東軍の勝利に貢献した。
最終的に、幽斎は敵将の中にいた弟子たちの計らいと、彼の文化的な権威(『古今和歌集』の秘伝「古今伝授」の唯一の継承者)を惜しんだ後陽成天皇の勅命によって、城を開城し、九死に一生を得る 3 。そして、関ヶ原での東軍勝利の報が届くと、この田辺城での奮戦は徳川家康から高く評価された。結果として、細川家は丹後一国を失うことにはなったが、その代償として豊前国中津(後に小倉)三十九万九千石という、以前とは比較にならないほどの大々名へと大出世を遂げることになったのである 3 。
この一連の経緯を俯瞰すると、宮津城の自焼は、単なる敗北や退却ではなかったことがわかる。それは、目先の城一つという戦術的な損失を甘受することで、一族の存続と戦後の飛躍という、より大きな戦略的勝利を掴むための、計算され尽くした「戦略的放棄」であった。宮津城の炎は、細川家の丹後時代の終わりを告げる悲しい狼煙であると同時に、彼らが近世大名として新たな時代へと飛躍するための、輝かしい幕開けを照らす光でもあったのだ。
細川氏が去った後も、宮津城の歴史は終わらなかった。関ヶ原の戦功により丹後一国を与えられた京極高知は、焼け跡となっていた宮津城を再建し、新たな丹後支配の拠点とした 1 。その子・高広はさらに城を大規模に改修・拡張し、本丸に七基の二重櫓を上げるなど、近世城郭としての威容を整えた 3 。以後、城主は京極氏から永井氏、阿部氏、奥平氏、青山氏、そして本庄松平氏へとめまぐるしく変わるが、宮津城は幕末に至るまで宮津藩の藩庁として機能し続けた 9 。特に江戸時代には、宮津湊が北前船の寄港地として大いに栄え、城は丹後の政治経済の中心として重要な役割を果たした 3 。
しかし、明治維新を迎えると、宮津城にも廃城の時が訪れる。明治の廃城令の後、城の建造物は取り壊され、堀は埋め立てられた。特に大正13年(1924年)に宮津駅が開業すると、城跡は市街地と駅を結ぶエリアとなり、都市化の波の中でその姿を完全に地上から消してしまった 1 。
人々の記憶からも消えかけていた宮津城が、再び脚光を浴びるのは、1980年代からのことである。継続的な発掘調査によって、地下に眠る堀や石垣の遺構が次々と発見され、失われた城郭の姿が学術的に明らかになってきた 1 。これに呼応するように、市民有志によるコンピュータグラフィックスを用いた復元作業も進められ、宮津城は現代に蘇りつつある 1 。
地上から姿を消したとはいえ、注意深く街を歩けば、今なお宮津城の「残響」を随所に見出すことができる。
戦国時代の宮津城は、織田信長の天下統一戦略が生んだ、時代の最先端を行く海城であった。そのわずか二十年の歴史は、細川家の栄枯盛衰と、戦国から近世へと移行する時代のダイナミズムを色濃く映し出している。地上からその壮麗な姿を消した今もなお、宮津の地に点在する痕跡と、それを守り伝えようとする人々の営みの中に、この謎多き海城の記憶は確かに生き続けているのである。