宿毛城
土佐国西端の要衝、宿毛城の興亡史 ―戦国から近世への転換点として―
宿毛城 関連年表
西暦 |
和暦 |
主要な出来事 |
関連人物 |
不明 |
- |
土豪・松田氏により松田城(後の宿毛城)が築城される。 |
松田兵庫 |
不明 |
- |
松田氏に代わり、一条氏配下の依岡伯耆守が城主となる。 |
依岡伯耆守 |
1574年 |
天正2年 |
長宗我部元親が土佐一条兼定を豊後国へ追放し、土佐国の実権を掌握する。 |
長宗我部元親、一条兼定 |
1575年 |
天正3年 |
四万十川の戦い。一条兼定の再起軍を元親が破り、土佐を完全に統一。この戦いの過程で宿毛城は落城し、城主・依岡伯耆守は戦死する。 |
長宗我部元親、一条兼定、依岡伯耆守 |
1575年以降 |
天正3年以降 |
長宗我部氏の一族・長宗我部右衛門大夫(宿毛右衛門大夫)が新城主となる。後に野田甚左衛門も在城。土佐西部の拠点となる。 |
長宗我部右衛門大夫、野田甚左衛門 |
1600年 |
慶長5年 |
関ヶ原の戦い。西軍に与した長宗我部盛親が改易される。 |
長宗我部盛親、徳川家康 |
1601年 |
慶長6年 |
山内一豊が土佐国に入封。甥の山内可氏(安東可氏)を宿毛6千石の領主とし、可氏は宿毛城に入城する。 |
山内一豊、山内可氏 |
1615年 |
元和元年 |
幕府の一国一城令により、宿毛城は廃城となる。 |
徳川家康、徳川秀忠 |
1615年以降 |
元和元年以降 |
山内可氏は山麓に「宿毛土居」を構え、統治の拠点とする。以後、宿毛山内氏(土居付家老)として代々宿毛を治め、城下町を形成する。 |
山内可氏 |
1869年 |
明治2年 |
版籍奉還に伴い、11代宿毛領主・山内氏理は本姓の「伊賀」に改姓し、高知へ移住。宿毛山内氏による統治が終焉する。 |
伊賀氏理(山内氏理) |
1969年 |
昭和44年 |
3月8日、「宿毛城跡」として宿毛市史跡に指定される。 |
- |
序章:宿毛城とは何か ―その地理的・歴史的特異性―
高知県宿毛市にその痕跡を留める宿毛城は、戦国時代から江戸時代初期にかけて、土佐国の歴史において重要な役割を果たした平山城である。別名を松田城といい、その名は最初の城主とされる在地土豪・松田氏に由来する 1 。城跡は松田川の西岸に位置する比高約20メートルの独立した丘陵に築かれ、現在は市史跡として指定されている 3 。
この城の歴史的価値を理解する上で不可欠なのは、宿毛という土地が持つ地政学的な特性である。土佐国の最西端に位置し、伊予国(現在の愛媛県)との国境に接する幡多郡の要衝であった宿毛は、常に国境防衛の最前線としての緊張を強いられる地であった 6 。さらに、松田川の河口部にあり、宿毛湾を通じて海上交通の結節点ともなりうる立地は、軍事のみならず経済、交通の面でも重要な意味を持っていた 8 。
宿毛城の歴史は、まさにこの「国境性」と「交通結節点」という二つの地理的特性によって規定されてきた。戦国時代、長宗我部氏がこの城を「西の拠点」として重視したのは、伊予の河野氏やその他の敵対勢力に対する防衛線として、また四国統一への足掛かりとして不可欠だったからに他ならない 1 。江戸時代に入り、土佐藩主となった山内氏が、藩の重臣をこの地に配置したのも、単なる地方統治に留まらず、隣接する伊予宇和島藩(伊達家)への軍事的な備えという明確な意図があった 6 。宿毛城の興亡史は、一地方の城の物語に終始するのではなく、土佐という「国」の境界線を守り、外部世界との交流と緊張を管理する、極めて重要な役割を担った施設の変遷の記録なのである。本報告書は、戦国という激動の時代を主軸に、宿毛城が果たした役割とその歴史的意義を多角的に解明するものである。
第一部:戦国乱世における宿毛城
第一章:城の起源と土佐一条氏の治世
築城主・松田兵庫の実像への探求
宿毛城の起源は、史料上、明確な築城年代を特定することはできない。しかし、多くの記録が一致して、この城が元来「松田城」と呼ばれ、松田兵庫なる人物の居城であったことを伝えている 3 。この松田氏は、幡多郡に根を張った在地土豪であったと考えられている。しかしながら、松田兵庫が「いつごろのいかなる人物かは定かでない」 8 とされるように、その具体的な人物像や活動時期は歴史の霧に包まれている。これは、戦国時代初期における地方史研究の困難さを象徴する事例と言える。中央の動乱から離れた地方では、記録に残りにくい小規模な領主たちが割拠しており、松田兵庫もそうした土豪の一人であったと推察される。彼の存在は、宿毛城が外部からの影響を受ける以前、純粋に地域の軍事・政治的必要性から生まれた拠点であったことを示唆している。
一条氏の支配下における城主・依岡伯耆守
松田氏の時代を経て、宿毛城の城主として次に名を現すのが依岡伯耆守である 2 。依岡氏は、土佐国人衆の一であり、この時期の幡多郡を支配していた公家大名・土佐一条氏の配下にあった 14 。城主が松田氏から依岡氏へと交代した背景には、幡多郡における一条氏の支配体制が強化され、在地土豪がその支配下に組み込まれていく過程があったと考えられる。すなわち、この城主交代は単なる個人的な権力の移譲ではなく、幡多郡が「土豪割拠」の状態から、一条氏を頂点とするより広域な「大名支配」へと移行していく時代の大きな流れを反映した出来事であった。宿毛城は、一条氏の勢力圏の西端を守る支城として、伊予方面への備えという新たな戦略的役割を担うことになったのである。
幡多郡の政治情勢
当時の土佐国西部、幡多郡は特異な政治状況下にあった。中央の公家五摂家の一つである一条家の当主・一条教房が応仁の乱の戦火を逃れ、自らの荘園であった幡多荘へ下向したことに始まる土佐一条氏が、地域の盟主として君臨していた 14 。彼らは京都の文化と権威を背景に「公家大名」として在地武士団を束ね、幡多郡に「小京都」と称されるほどの独自の文化圏を築き上げた。その本拠地は中村(現在の四万十市)に置かれ 9 、宿毛城は中村にとって西の玄関口であり、伊予国境を守る第一防衛線という極めて重要な位置を占めていた。依岡伯耆守が守る宿毛城は、一条氏の支配体制を軍事的に支える西の要だったのである。
第二章:長宗我部元親の侵攻と落城
土佐統一の最終局面「四万十川の戦い」
永禄年間より土佐中央部から勢力を拡大してきた長宗我部元親は、天正2年(1574年)、ついに土佐一条氏の当主・一条兼定を豊後国へ追放し、土佐国の実権を掌握した 14 。しかし、追放された兼定はそれで終わらなかった。翌天正3年(1575年)、妻の実家である九州の大友氏の支援を受け、旧領回復を目指して伊予国から土佐へ侵攻する。これに一条氏の旧臣や南伊予の諸将が呼応し、長宗我部軍との間で土佐の覇権を賭けた最後の大規模な合戦が勃発した。これが世に言う「四万十川の戦い(渡川の戦い)」である 8 。
依岡伯耆守の抵抗と宿毛城の攻防戦
この一条軍の侵攻ルートの正面に位置したのが、宿毛城であった。城主・依岡伯耆守は、旧主・一条兼定に忠義を尽くし、圧倒的な兵力で迫る長宗我部軍に対して果敢に抵抗した 8 。伝承によれば、伯耆守は籠城戦が不利と見るや、城に火を放って自焼させ、背後に控える詰城(本城山)に立て籠もって徹底抗戦を図ったという 8 。この行動は、宿毛城が平時の居館である「根城」と、有事の際の最終防衛拠点である「詰城」の二段構えで運用されていた、戦国期の典型的な防衛思想を物語っている 23 。しかし、衆寡敵せず、伯耆守とその将兵は主君・兼定を伊予方面へ逃がす時間を稼いだ後、ことごとく討ち死にしたと伝えられる 8 。
この宿毛城の落城は、単なる一つの城の陥落に留まらなかった。それは、土佐国において中世以来の公家という権威を背景とした一条氏の「旧秩序」が、実力主義に基づく戦国大名・長宗我部氏の「新秩序」によって完全に覆された瞬間を象徴する、決定的な出来事であった。依岡伯耆守の悲劇的な最期は、滅びゆく旧勢力の最後の抵抗の物語として、今に伝えられている。
落城後の幡多郡における勢力再編
四万十川の戦いに勝利し、宿毛城を制圧した長宗我部元親は、名実ともに土佐一国の統一を成し遂げた 21 。戦後、元親は幡多郡の支配体制を再編成する。武力で抵抗した者は容赦なく排除する一方、恭順の意を示した在地領主、例えば松田兵庫の一族とみられる松田伝大夫や、沖之島の三浦宗見などには旧領の一部を安堵し、巧みに支配体制に組み込んでいった 19 。そして、宿毛城のような戦略的要衝には、最も信頼のおける一族や重臣を新たに配置し、幡多郡全域を完全にその掌握下に置いたのである。
第三章:長宗我部氏の西の拠点として
新城主・長宗我部右衛門大夫と野田甚左衛門
宿毛城を攻略した長宗我部元親は、この土佐西端の要衝に一族の「長宗我部右衛門大夫」を新たな城主として配置した 1 。この人物は「宿毛右衛門大夫」とも称され、その地の名を名乗ることで、長宗我部氏による直接支配を内外に示したと考えられる 19 。『宿毛市史』に掲載された長宗我部氏の系図によれば、元親の弟である香宗我部親泰の子・親清が「宿毛右衛門大夫」とされており、これが最も有力な候補と見なされる 19 。重要な拠点に信頼できる近親者を配置するのは、元親の一貫した統治戦略であった。
その後、同じく長宗我部氏の庶流であり、元親の信頼が厚かった野田甚左衛門も在城したと記録されている 2 。両者が同一人物であったか、あるいは相前後して城主を務めたかは定かではないが、いずれにせよ宿毛城には長宗我部一門が継続して置かれ、その支配が盤石であったことを示している。
対伊予方面の抑えとしての戦略的機能
土佐統一を成し遂げた元親にとって、次の目標は四国全土の制圧であった。その壮大な構想の中で、宿毛城は伊予国侵攻の拠点、そして南伊予の西園寺氏をはじめとする諸勢力に対する最前線の監視拠点として、極めて重要な「西の拠点」と位置づけられた 1 。長宗我部氏の勢力拡大に伴い、宿毛城の戦略的価値は一層高まったのである。幡多郡全体の支配は元親の弟・吉良親貞が城代を務めた中村城が中心であったが 19 、宿毛城はその支城ネットワークの中で、対外的軍事行動の起点となる役割を担っていた。
第二部:近世への移行と城の終焉
第四章:新領主・山内氏の入城
関ヶ原合戦後の土佐国
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いは、宿毛城、そして土佐国の運命を再び大きく変えた。長宗我部元親の後を継いだ盛親が西軍に与して敗れたため、長宗我部氏は改易、24万石の領地は没収された 28 。代わって土佐国の新たな支配者として入封したのが、徳川家康に与し、戦功を認められた遠江掛川城主・山内一豊であった 28 。
山内一豊の土佐支配戦略
広大かつ長宗我部氏の旧臣(一領具足)の抵抗が根強い土佐国を安定的に支配するため、山内一豊は巧みな配置戦略をとった。高知城を本城と定めるとともに、安芸、佐川、窪川、本山、そして宿毛という五つの要所に信頼できる重臣を配し、領内を分担して治めさせる体制を敷いたのである 11 。これは、軍事的な要衝を抑え、地方の反乱を未然に防ぐための極めて合理的な支配網であった。
初代宿毛領主・山内可氏の入城
この新たな支配体制において、土佐最西端の宿毛は特に重視された。一豊は慶長6年(1601年)、実の姉・通の子である甥の安東可氏(あんどうよしうじ)を宿毛6千石の領主として任命した 2 。可氏は一豊から山内姓を名乗ることを許され、初代宿毛山内氏として宿毛城に入城した 31 。血縁が深く、最も信頼できる人物を国境の要衝に配置することで、一豊は土佐藩の西の守りを盤石なものとしようとしたのである 6 。こうして宿毛城は、長宗我部氏の拠点から、土佐藩の重要な支城へとその姿を変えた。
第五章:一国一城令と「土居」への移行
元和元年(1615年)の廃城
山内氏の支城として新たな歴史を歩み始めた宿毛城であったが、その期間は長くはなかった。元和元年(1615年)、大坂夏の陣で豊臣氏が滅亡し、徳川幕府による全国支配体制が確立されると、幕府は諸大名の軍事力を削減し、謀反の可能性を根絶するために「一国一城令」を発布した。この法令により、大名は居城以外のすべての城を破却することが義務付けられ、土佐藩もこれに従い、宿毛城を含む領内の支城を取り壊した 1 。これは、宿毛城が軍事施設としての役割を終えたことを意味する、決定的な出来事であった。
城郭機能の解体と、山麓の「宿毛土居」への行政機能移管
城は失われたが、宿毛が土佐藩西部の要衝であることに変わりはなかった。初代領主・山内可氏とその子孫は、引き続きこの地の統治を担った。彼らは、破却された城の南麓にあった屋敷を改築・整備し、そこを「宿毛土居」と称して新たな政務の拠点とした 3 。この宿毛土居の跡地は、現在の宿毛保育園一帯にあたり、「伊賀家邸跡」の石碑が往時を偲ばせている 33 。
この「城」から「土居」への移行は、日本の歴史が「戦の時代」から「治の時代」へと大きく転換したことを象徴する物理的な証左である。山上の軍事要塞は放棄され、麓の平地に構えられた、軍事色を排した行政施設が地域の中心となった。これは、権力の源泉が純粋な武力から、安定した行政権へと移行したことを物語っている。
宿毛山内氏による城下町の形成と発展
山内可氏以降、宿毛山内氏は代々「土居付家老」として土佐藩内で高い家格を誇り、明治維新に至るまで宿毛の地を治めた 12 。彼らは「宿毛土居」を中心として、計画的な城下町の形成を進めた 3 。土居の南側に家臣たちの武家屋敷を配し、さらにその南に町人町を設けるという基本的な町割りは、この時代に築かれたものである 36 。延宝八年(1680年)頃に描かれた絵図には、土居の様子や整然とした町割り、さらには土佐藩の奉行・野中兼山による治水事業の成果である河戸堰などが描かれており、近世的な統治と開発が進展した様子が窺える 12 。
宿毛山内氏による約270年間の統治は、明治2年(1869年)の版籍奉還をもって終わりを告げる。11代当主・山内氏理は、遠祖の姓である「伊賀」に改め、宿毛の地を離れた 2 。しかし、彼らが築いた城下町の骨格は、今日の宿毛市街地にも色濃く受け継がれている。
第三部:宿毛城の構造と現在
第六章:城郭の縄張と遺構
立地と規模
宿毛城は、東側を流れる松田川を天然の堀とし、比高約20メートルの独立した丘陵上に占地する典型的な平山城である 4 。城の中核部である主郭(本丸)は、山頂の現在の石鎚神社が鎮座する平坦地に相当する 1 。しかし、その規模は東西約40メートル、南北約20メートルほどと非常に小さく、大規模な軍勢の駐留を想定したものではない 23 。このことから、宿毛城は単体で完結する要塞というよりは、砦に近い性格を持つ施設であったか、あるいは後述する詰城と一体で機能する拠点であった可能性が高い 12 。
曲輪の構成と推定される防御施設
現存する遺構や地形から、いくつかの防御施設を推定することができる。主郭の北端部分は周囲より一段高くなっており、物見や防戦の拠点となる櫓台が設けられていたと考えられる 4 。また、南西側には城内への主要な進入路であった虎口(出入口)の痕跡とみられる地形が残り、その両脇には防御のための石垣が部分的に現存している 23 。城全体の詳細な縄張り(設計)を明らかにするための本格的な発掘調査は行われていないが、比較的簡素な構造の城であったと推測される。
現存する石垣の分析
宿毛城跡で最も注目すべき遺構は、断続的に残る石垣である。特に保存状態が良好なのは、主郭の北西隅に見られる石垣で、苔むした石が往時の姿を伝えている 4 。これらの石垣には、角の部分を強化するために丁寧に加工された「隅石」が用いられている。このような技法は、戦国時代末期から江戸時代初期にかけての、いわゆる織豊系城郭に見られる特徴である。このことから、現存する石垣は、松田氏や依岡氏の時代のものではなく、慶長6年(1601年)に山内可氏が入城した際に、旧来の城を近世的な技術で改修した痕跡であると考察されている 8 。中世的な土の城から、近世的な石垣の城へと移行する過渡期の姿を留めている点で、この石垣は非常に貴重な遺構と言える。
背後の「本城山」との関連性
宿毛城の縄張りを考える上で、城の背後(北西)にそびえる、より標高の高い「本城山」の存在を無視することはできない 8 。天正3年(1575年)の長宗我部氏侵攻の際、城主・依岡伯耆守が宿毛城を自焼させた後に立て籠もったのが、この本城山であったと伝えられている 8 。この伝承は、平時の政務や居住の場である麓の宿毛城(根城)と、戦時の最終防衛拠点である山上の本城山(詰城)が、一体となった防衛システムを構築していたことを強く示唆している。このような「根城・詰城」のセット運用は、中世から戦国期にかけての山城に広く見られる形態であり、宿毛城もその典型例であったと考えられる。
第七章:史跡としての宿毛城
宿毛市指定史跡としての価値
宿毛城跡は、その歴史的重要性が認められ、昭和44年(1969年)3月8日付で宿毛市の史跡に指定された 5 。在地土豪の拠点に始まり、一条氏、長宗我部氏、山内氏という土佐の歴史を動かした三大勢力の支配の舞台となったこの場所は、宿毛の歴史を物語る上で欠くことのできない文化遺産として位置づけられている。
城跡の現状と保存状態
現在、城跡の主郭部分は石鎚神社の境内地となっている 1 。参道入口には城跡を示す石碑と説明板が設置されており、訪れる者にその歴史を伝えている 2 。しかし、訪問者の記録によれば、神社社殿はやや荒廃が進み、境内も時期によっては草木が生い茂り、散策が困難な状態になることもあるという 3 。歴史的価値を持つ一方で、史跡としての維持管理には課題も残されていることが窺える。
歴史的景観の中に宿毛城跡を訪ねて
宿毛城跡を訪れる際には、城単体として見るだけでなく、麓に広がる歴史的景観と合わせて捉えることで、その価値をより深く理解することができる。城跡からは、かつての城下町である宿毛市街地や、天然の堀であった松田川の流れを一望できる 34 。そして、麓にある宿毛山内氏の政庁跡「宿毛土居」(現・宿毛保育園、伊賀邸跡)や、点在する武家屋敷跡、防御的な意図が感じられるT字路の多い町割りと合わせて巡ることで、山上の「城」と麓の「土居」、そして「城下町」が一体となって形成した、近世宿毛の統治の姿を立体的に体感することが可能となる 6 。
終章:宿毛城が物語るもの
宿毛城の歴史は、土佐国西端の一城郭の変遷に留まらず、日本の戦国時代から近世へと至る大きな時代の転換を凝縮した物語である。
その始まりは、歴史の記録にも名の朧げな在地土豪・松田氏の拠点であった。やがて、京の権威を背景とする公家大名・一条氏の支配下に入り、その支城として機能する。そして、戦国の梟雄・長宗我部元親による土佐統一の過程で、凄惨な攻防戦の舞台となり、落城。以後は長宗我部氏の四国制覇に向けた西の戦略拠点として重要な役割を担った。関ヶ原の戦いを経て、新たな支配者・山内氏の時代となると、土佐藩の西の守りを固める支城として位置づけられるが、それも束の間、徳川幕府による一国一城令によってその軍事施設としての歴史に幕を下ろす。
しかし、城の物理的な消滅は、宿毛の歴史の終わりを意味しなかった。むしろ、それは新たな時代の始まりであった。統治の機能は山上の城から麓の「土居」へと移り、それを中心に近世的な城下町が形成されていった。宿毛城の存在、そしてその終焉と土居への移行という一連の歴史的プロセスこそが、今日の宿毛という町の骨格を形成し、現在の歴史的景観の礎を築いたのである。
宿毛城は、戦国という激動の時代を駆け抜け、近世宿毛の誕生を準備した、まさにこの地域の歴史の凝縮点と言える。わずかに残る石垣や土壇は、幾多の武士たちの興亡と、時代の大きなうねりを静かに物語り続けている。
引用文献
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- 宿毛城/戦国の城を訪ねて https://www.oshiromeguri.net/sukumojo.html
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- その間長宗我部国親はまず永禄三年 - 高知市 https://www.city.kochi.kochi.jp/deeps/20/2019/muse/choshi/choshi011.pdf
- 土佐國 宿毛城 - FC2 http://oshiromeguri.web.fc2.com/tosa-kuni/sukumo/sukumo.html
- 長宗我部元親と土佐の戦国時代・史跡案内 - 高知県 https://www.pref.kochi.lg.jp/doc/kanko-chosogabe-shiseki/
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- 宿毛城跡 | 観光スポット検索 | 高知県観光情報Webサイト「こうち旅ネット」 https://kochi-tabi.jp/search_spot_sightseeing.html?id=253
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- 土佐 宿毛土居-城郭放浪記 https://www.hb.pei.jp/shiro/tosa/sukumo-doi/
- 宿毛城 - - お城散歩 - FC2 https://kahoo0516.blog.fc2.com/blog-entry-715.html
- 宿毛土居 ~宿毛統治の拠点~ | 城館探訪記 - FC2 http://kdshiro.blog.fc2.com/blog-entry-2819.html?sp
- 宿毛市:西幡の中心。浜田の泊り屋を訪れる。 - 高知県 - フォートラベル https://4travel.jp/travelogue/11910136
- 伊賀氏理 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E8%B3%80%E6%B0%8F%E7%90%86
- 宿毛の史跡 https://www.city.sukumo.kochi.jp/docs-26/p01080412.html