最終更新日 2025-08-23

小倉城

小倉城研究報告:関門の要衝、四百年の軌跡

序章:関門海峡の要衝と小倉城の黎明

福岡県北九州市に位置する小倉城の歴史は、単一の城郭の物語に留まらない。それは、本州と九州を隔てる関門海峡という、日本の歴史において常に地政学的な重要性を持ち続けた場所の物語と不可分に結びついている。古代より陸海交通の結節点として栄え、また同時に、九州の覇権を狙う勢力と、大陸への足掛かりを求める中央の勢力が衝突する最前線でもあった 1 。この地に城が築かれ、幾度となくその姿を変え、時代の波に翻弄され続けたのは、この「場所が持つ力」に起因するのである。

細川忠興が築いた壮麗な近世城郭が有名であるが、この地の軍事拠点としての歴史はさらに古く、13世紀中ごろには既に紫川の河口西岸に城が築かれていたとの説も存在する 2 。戦国時代に至り、その戦略的価値は一層高まり、数多の豪族たちがこの地を巡って熾烈な攻防を繰り広げた 1 。小倉城の歴史を紐解くことは、すなわち、この関門の地がいかにして日本の歴史の転換点に関わり、その役割を変え続けてきたかを追跡する作業に他ならない。本報告書では、戦国時代の創始から、江戸時代の繁栄と動乱、そして近代を経て現代に至るまでの小倉城の四百有余年にわたる軌跡を、多角的な視点から徹底的に分析・詳述する。


表1:小倉城 城主変遷と主要年表

西暦

和暦

城主/管轄

主要な出来事

1569年

永禄12年

毛利氏(南条勘兵衛)

毛利元就が九州攻略の拠点として築城

1570年

元亀元年

高橋鑑種

毛利氏撤退後、城主となる

1587年

天正15年

毛利勝信

豊臣秀吉の九州平定後に入城。城を改修

1600年

慶長5年

(細川興元)

関ヶ原の戦いで西軍の毛利勝信が敗れ、黒田孝高により落城。戦後、細川忠興の所領となる

1602年

慶長7年

細川忠興

本格的な築城を開始(慶長12年頃完成)

1620年

元和6年

細川忠利

忠興の隠居に伴い、第2代藩主となる

1632年

寛永9年

小笠原忠真

細川氏の肥後転封に伴い、明石より入国。以後、小笠原氏が代々藩主を務める

1837年

天保8年

小笠原忠固

城内からの失火により天守閣を含む本丸を焼失

1866年

慶応2年

小笠原忠幹

第二次長州征討の拠点となるが、戦況悪化により自ら城に火を放ち撤退

1867年

慶応3年

小笠原忠忱

長州藩と和議が成立

1898年

明治31年

大日本帝国陸軍

陸軍第12師団司令部が城内に設置される

1945年

昭和20年

アメリカ軍

太平洋戦争後、米軍に接収される(昭和32年解除)

1959年

昭和34年

北九州市

市民の要望により天守閣が鉄筋コンクリートで再建(復興天守)

2019年

平成31年

北九州市

天守閣内部を全面リニューアル。観光施設「しろテラス」オープン

(出典:

3

第一部:戦国動乱と城の誕生(1569年~1600年)

第一章:毛利元就の九州進出と小倉城の創始

背景:大友氏と毛利氏による豊前国を巡る攻防

小倉城が歴史の表舞台に登場する直接的な契機は、中国地方の覇者となった毛利元就の九州への野心であった。元就は、中国一の大名としてその勢力を確立すると、次なる目標として九州、特に西国随一の商都・博多の掌握を見据えていた 4 。その野望の前に立ちはだかったのが、九州北部に広大な版図を誇る豊後の大友宗麟(義鎮)である。両者の勢力が国境を接するようになると、豊前国、とりわけ関門海峡の支配権を巡る衝突は避けられないものとなった 6

この対立を象徴するのが、永禄元年(1558年)から数年にわたり繰り広げられた「門司城の戦い」である 7 。関門海峡を扼する戦略拠点である門司城を巡り、両軍は一進一退の攻防を続けたが、毛利氏は巧みな戦術と水軍の活用により、最終的にこの要衝を確保することに成功する 8 。門司城の確保は、毛利氏にとって九州内部への侵攻を本格化させるための、極めて重要な橋頭堡の獲得を意味した。

永禄12年(1569年)の築城:九州攻略の橋頭堡

門司城を手中に収めた元就は、九州攻略をさらに推し進めるため、永禄12年(1569年)、現在の小倉城の地に新たな城を築いた 1 。これが記録に残る最初の小倉城である。宗像大社辺津宮に残された置札の記述によれば、この城は九州を攻撃するための足掛かりとしての「平城」であったとされている 4 。その構造は、漂着した舟の舟板などを再利用して築かれた急ごしらえのものであり、天守閣や本格的な石垣を備えたものではなかった 4 。これは、この時点での小倉城が、恒久的な統治拠点としてではなく、あくまで一時的な前線基地、兵站拠点としての性格しか持っていなかったことを示唆している。

毛利氏の九州撤退

しかし、毛利氏による九州制覇の夢は、この城の完成とほぼ同時に頓挫する。大友宗麟は、毛利軍主力が九州に釘付けにされている隙を突き、周防国に大内氏の残党である大内輝弘を送り込んで後方を攪乱させるという謀略を仕掛けた 12 。さらに、滅ぼしたはずの尼子氏の残党が山中幸盛らに率いられて出雲で挙兵し、毛利氏の本国を脅かした 5 。本国が危機に瀕したことで、元就は吉川元春・小早川隆景ら主力軍に九州からの全面撤退を命令せざるを得なくなった。こうして、九州攻略の拠点として築かれた最初の小倉城は、その役割をほとんど果たすことなく、築城主である毛利氏の手を離れることとなったのである。

第二章:激動の城主交代

高橋鑑種:大友と毛利の間で翻弄された初代城主

毛利軍が九州から引き揚げた後、小倉城に入ったのは高橋鑑種(あきたね)という武将であった 13 。彼の経歴は、戦国時代の武将がいかに激動の情勢の中で生き残りを図ったかを象徴している。鑑種は元々、大友氏の一族であり、その武勇を高く評価されて筑前国の守護代を務めるほどの重臣であった 13 。しかし、門司城の戦いなどで大友氏の勢いに陰りが見えると、元就の誘いに応じ、主君である大友宗麟に反旗を翻して毛利方へと寝返ったのである 13

ところが、彼が頼みとした毛利氏が九州から撤退したことで、鑑種は強力な後ろ盾を失い、孤立無援の状態に陥った。結局、彼は大友氏に降伏し、所領と高橋家の家督を没収され、筑前を追放される 13 。その結果として、いわば隠居同然の身で入ったのが小倉城であった。彼にとって小倉城は、栄光の拠点ではなく、政治的敗北の末にたどり着いた場所だったのである。その後も鑑種は、大友氏の衰退に乗じて再び毛利方につくなど、両勢力の間で巧みに立ち回り続けたが、天正7年(1579年)、波乱の生涯を小倉城で閉じた 13

毛利勝信:豊臣政権下での近世城郭への布石

高橋鑑種の死後、城は彼の養子である高橋元種(秋月種実の子)の所領となったが、あくまで支城としての扱いであった 13 。しかし、天正15年(1587年)、天下統一を目前にした豊臣秀吉が九州平定の軍を起こすと、元種は秀吉に降伏し、小倉城を開城する。そして、秀吉の家臣であった毛利勝信が新たな城主として入城した 13

勝信の入城は、小倉城の歴史における一つの転換点であった。彼は、それまでの急ごしらえの砦を大規模に改修し、石垣を設けるなど、織田・豊臣政権下で発展した近世城郭(織豊系城郭)としての体裁を整え始めた 2 。この勝信による改修が、後の細川忠興による大築城の重要な基礎となったことは、現在も城内に残る遺構が雄弁に物語っている。八坂神社側の多聞口門跡の石垣には、勝信時代のものと、後に忠興が築いた時代の石垣との明確な継ぎ目が見られ、歴史の積層を視覚的に確認することができる 13

しかし、毛利勝信の治世も長くは続かなかった。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで、勝信・勝永父子は石田三成率いる西軍に与した。西軍の敗北に伴い、九州では東軍についた黒田孝高(官兵衛)が破竹の勢いで西軍方の城を攻略し、その策略によって小倉城も落城。勝信父子は追放され、小倉城の戦国時代は終わりを告げた 14

この細川忠興以前の時代を通じて、小倉城は特定の領主が腰を据えて領国経営を行うための「居城」というよりも、常に外部の大きな軍事・政治的動向によってその役割と城主が規定される、純粋な「軍事・戦略拠点」としての性格が極めて強かった。毛利元就にとっては九州攻略の拠点、高橋鑑種にとっては政争の果ての避難場所、そして毛利勝信にとっては中央政権が打ち込んだ楔であった。この流動的な性格こそが、次代の細川忠興による「領主の城」、そして「藩都」への大転換を、より一層際立たせるのである。

第二部:近世城郭の完成と小倉藩の成立(1600年~1632年)

第一章:細川忠興による大改修

関ヶ原後の入封と築城計画

関ヶ原の戦いで徳川家康率いる東軍の勝利に大きく貢献した細川忠興は、その功績により豊前一国と豊後二郡(国東・速見郡)を与えられ、約39万9千石の大名となった 11 。当初は中津城に入った忠興であったが、領国全体の統治と関門海峡の重要性を鑑み、ほどなくして小倉に本拠を移すことを決断する。そして慶長7年(1602年)、戦国の世が終わり、新たな時代の幕開けを告げるかのように、小倉城の全面的な大改修に着手した。この築城事業は約7年の歳月を要し、それまでの砦とは全く異なる、壮大かつ独創的な近世城郭を誕生させることとなる 1

縄張と構造:広大な「総構え」の設計思想

忠興の築城計画の最大の特徴は、城郭本体だけでなく、城下町全体を堀と土塁で囲い込む「総構え(そうがまえ)」と呼ばれる壮大な防御構想にあった 18 。これは、来るべき泰平の世において、城が単なる軍事拠点ではなく、藩の政治・経済の中心地となることを見越した先進的な都市計画であった。

忠興は、城の東を流れる紫川、西を流れる板櫃川を巧みに利用して天然の外堀とし、さらに南の寒竹川から北の響灘に向かって新たな堀を掘削した 18 。これにより、城と城下町は海と川、そして人工の堀によって完全に囲郭され、周囲約8kmにも及ぶ難攻不落の巨大な城塞都市が形成されたのである 18 。特に、海に直接面した「海城」としての機能は、小田原城や大坂城といった他の総構えの城には見られない小倉城の際立った特色であった 18 。総構えの内部は、紫川を境に、本丸や武家屋敷が集中する「西曲輪」と、町人たちの居住・商業区域である「東曲輪」に明確に区画され、計画的な都市設計がなされていた 18

天守建築の白眉:「唐造り(南蛮造り)」の独創性

細川忠興の美意識と独創性が最も顕著に表れているのが、天守閣の建築様式である。小倉城の天守は「唐造り(からづくり)」あるいは「南蛮造り(なんばんづくり)」と称される、全国でも類を見ない特異な構造を持っていた 2 。その最大の特徴は、4重5階の構造のうち、最上階である5階がその下の4階よりも大きく外側に張り出している点にある 21 。通常の天守が上層に行くほど逓減していくのとは全く逆の発想であり、見る者に強烈な印象を与えた。さらに、4階と5階の間には屋根の庇がなく、すっきりとした外観を呈していた 20

この他に類を見ないデザインの由来については、当時交流のあったキリスト教宣教師から学んだ南蛮文化の影響とも、あるいは茶人・文化人としても一流であった忠興自身の、既成概念に囚われない進取の気性に富んだ美意識の表れとも言われている 19 。古絵図などから推定される本来の姿は、華美な装飾的破風を一切持たず、壁面は白漆喰で塗り込められ、最上階のみが黒い板張りという、極めてシンプルかつモダンな層塔型の天守であった 15 。この天守の設計図は、後に津山城天守を築く際に参考にされたと伝えられており、忠興がこの独創的な天守をいかに誇りに思っていたかが窺える 2

石垣普請:「野面積み」に見る美意識と技術

城の土台を固める石垣には、自然の石をほとんど加工せずにそのまま積み上げる「野面積み(のづらづみ)」という古式の技法が多用された 21 。一見、粗野で荒々しい印象を与えるが、排水性に優れ、堅固な石垣を築くことができる。この豪快な野面積みの石垣は、忠興の自慢の一つであったと伝えられている。

しかし、その中にも忠興ならではの美意識と遊び心が散りばめられている。石垣の一部には、見る角度によって虎の姿に見えることから「迎え虎」「送り虎」と名付けられた石が巧みに配置されている 22 。また、石垣の隅角部には、意匠上のアクセントとして、他の部分とは産地の異なる青白い花崗岩が用いられており、城郭の機能性だけでなく、視覚的な美しさにも細やかな配慮がなされていたことがわかる 27

第二章:城下町の繁栄と文化の創造

細川忠興の事業は、単に巨大な城を建設することに留まらなかった。彼は、この城を中心とした新たな都市を創造し、そこに経済的な繁栄と豊かな文化を根付かせることにも情熱を注いだ。

商工業保護政策と町人町の形成

忠興は、城下町を活性化させるため、全国各地から優れた技術を持つ商人や職人を積極的に誘致し、手厚い保護政策を実施した 28 。紫川東岸の「東曲輪」には計画的に町人町が形成され、魚町、紺屋町、鍛冶町、大工町といった、それぞれの職業に由来する町名が付けられた。これらの町名は現在も小倉の地に残っており、忠興の都市計画が現代にまで続く街の骨格を形成したことを示している 25 。さらに、徳川家康から朱印船貿易の許可を得て、小倉の港は海外との交易拠点としても賑わい、南蛮文化がもたらされた 29

小倉祇園祭の創始

城下町の繁栄と領民の安寧を願う忠興の思いは、新たな祭りの創始にも繋がった。元和3年(1617年)あるいは元和4年(1618年)、忠興は城下の鋳物師町に祇園社(現在の八坂神社)を創建し、京都の祇園祭を小倉の地に取り入れた 30 。これは、無病息災を祈願すると同時に、祭りの賑わいを通じて城下に経済的な活気をもたらすという、優れた地域振興策でもあった。当初は鉦や鼓、笛を用いた「能」の形式に近い雅な祭りであったが、時代を経る中で、現在のような両面打ちの太鼓が勇壮に打ち鳴らされる「太鼓祇園」へと姿を変え、400年以上にわたり小倉の夏を彩る一大行事として受け継がれている 32

巌流島の決闘:小倉藩と二人の剣豪

細川氏治下の小倉藩が、武芸の中心地の一つであったことを示す象徴的な出来事が、慶長17年(1612年)に行われた宮本武蔵と佐々木小次郎の決闘である。当時、小倉藩領であった関門海峡に浮かぶ舟島(後の巌流島)を舞台に、二人の剣豪が雌雄を決したこの戦いは、あまりにも有名である 35 。佐々木小次郎は、秘剣「燕返し」を編み出した達人として知られ、小倉藩の剣術師範として細川家に仕えていたと伝えられている 36 。この決闘は藩の公認のもとで行われたとされ、小倉藩が当代随一の剣客を召し抱えるほどの、武を重んじる気風に満ちていたことを物語っている。

忠興による一連の事業は、単なる軍事要塞の建設ではなく、軍事、政治、経済、文化の各機能を一つの都市空間に計画的に統合する、極めて近代的な都市創造であった。城下町全体を守る「総構え」は領民全体の安全保障を、商工業の奨励は都市の経済基盤を、そして祇園祭の創始は共同体の文化的紐帯を、それぞれ意図したものであった。これにより、小倉城は戦国時代の純粋な軍事拠点から、泰平の世における藩の中心都市へと、その役割を大きく転換させたのである。

第三部:泰平の世と藩政の展開(1632年~1866年)

第一章:小笠原氏の治世

細川氏の熊本移封と小笠原忠真の入国

細川氏による小倉統治は30年で終わりを迎える。寛永9年(1632年)、2代藩主・細川忠利が、改易となった加藤忠広に代わり、肥後熊本54万石へと加増移封されたのである 3 。その後任として、播磨明石10万石の藩主であった譜代大名の小笠原忠真が、15万石で小倉に入国した。以後、明治維新に至るまで約240年間にわたり、小倉藩は小笠原氏によって治められることとなる 3

「九州探題職」としての役割と藩政の確立

小笠原忠真の小倉への配置は、単なる大名の移封以上の、重要な政治的意味合いを持っていた。忠真は入国に際し、3代将軍・徳川家光から直々に「小倉は西海道の咽喉(のど)なり。因て九州鎮護の為め卿をして之を扼(おさ)えしむ」との言葉を賜ったと伝えられている 40 。これは、江戸幕府が小倉の地政学的重要性を深く認識し、外様大名が多く割拠する九州の諸藩を監視・牽制する「九州探題職」に等しい重責を、信頼の厚い譜代大名である小笠原氏に託したことを意味する。小倉城は、再び西国鎮護の要としての役割を担うことになったのである。忠真は、この重責を果たすべく、家臣団の知行割り(給与制度の再編)や、「中老」といった新たな役職の設置など、藩の統治機構を精力的に整備し、小笠原藩の盤石な基礎を築いた 41

文化政策と逸話

小笠原氏は、鎌倉時代より続く武家の名門であり、弓馬術礼法(弓術・馬術・礼法)の宗家として知られていた。小倉藩は、この「小笠原流礼法」を継承する中心地となり、武士の礼儀作法の規範としてその名を高めた 42 。忠真自身も文化的な素養が高く、中国から伝わった黄檗宗の美術を保護・奨励した 11 。また、彼が糠漬けをこよなく愛し、転封の際には必ず糠床を持参したという微笑ましい逸話も残されている。この糠漬けは領民にも奨励され、「じんだ煮(ぬか炊き)」として小倉の郷土料理のルーツになったとも言われる 45 。後の5代藩主・小笠原忠総は、藩士の子弟教育のため藩校「思永斎」(後に思永館と改称)を設立するなど、小笠原氏は文武両道にわたって小倉の文化を豊かにした 3

第二章:天守の焼失と幕末の動乱

天保8年(1837年)の火災と天守の喪失

泰平の世が続いた小笠原氏の治世であったが、天保8年(1837年)、城内からの失火により、本丸御殿や櫓群、そして細川忠興が築いた独創的な天守閣が焼失するという悲劇に見舞われた 2 。本丸御殿は2年後に再建されたものの、藩の象徴であるべき天守閣が再建されることはなかった 47 。その直接的な原因は、当時の藩主・小笠原忠固が幕府の大老職に就くための運動などで多額の費用を費やした結果、藩が極度の財政難に陥っていたためである 47 。かつては九州鎮護の要とされた小倉藩の権威が、財政の悪化によってその象徴を失ったこの出来事は、江戸後期の武家社会が直面していた構造的な疲弊を象徴するものであった。

第二次長州征討:幕府軍の最前線基地

幕末の動乱期、小倉城は再び日本の歴史を揺るがす大きな渦の中心に置かれることとなる。“尊王倒幕”の旗印を掲げる長州藩に対し、江戸幕府は慶応2年(1866年)に第二次長州征討の軍を発令。関門海峡を挟んで長州藩と対峙する小倉藩は、九州諸藩を率いる幕府軍の最前線基地としての役割を担うことになった 1

慶応2年(1866年)の自焼:苦渋の戦略的撤退

しかし、戦況は幕府軍にとってあまりに不利であった。高杉晋作や山縣有朋らが率いる長州軍は、ミニエー銃などの最新兵器と西洋式の戦術を駆使し、旧態依然とした装備の幕府軍を圧倒した 48 。さらに、幕府軍の内部崩壊が敗北を決定的なものにする。征討軍の総督であった老中・小笠原長行(唐津藩主)は、戦況の不利を悟るや、あろうことか軍艦で戦線を離脱し、大坂へ逃亡してしまう 50 。指揮官を失ったことで幕府軍の統制は完全に崩壊し、主力と頼んでいた熊本藩をはじめとする九州諸藩も、戦意を喪失して次々と自領へ撤退していった 1

孤立無援となった小倉藩は、もはや城の防衛は不可能と判断。しかし、敵である長州軍に城を明け渡すことを潔しとせず、同年8月1日、自らの手で城内の御殿や櫓に火を放ち、藩主らを避難させた上で、内陸の香春(現在の田川郡)へと戦略的撤退を行った 1 。この時、天守閣は既に1837年の火災で失われていたため、燃えたのは再建された本丸御殿などであったが 48 、藩庁である城を自ら焼くというこの壮絶な決断は、徳川幕府の権威が完全に失墜し、その軍事システムが終焉を迎えたことを天下に示す、時代の転換点を象徴する出来事となった。

第四部:近代から現代への継承

第一章:軍都としての小倉城

明治維新後:大日本帝国陸軍第12師団の拠点

明治維新により江戸時代が終焉すると、小倉城はその役割を再び大きく変える。新政府は、関門海峡の地政学的重要性を引き続き重視し、小倉を国防の要衝と位置づけた。これにより、小倉は城下町から「軍都」としての性格を強めていくことになる 53

その象徴が、大日本帝国陸軍の師団設置である。日清戦争後の軍備拡張政策の一環として、明治31年(1898年)、新たに編成された陸軍第12師団の司令部が小倉城の本丸跡に置かれた 3 。九州北部を管轄するこの師団は、大陸への玄関口に位置することから、その後の日露戦争やシベリア出兵など、日本の対外戦争において重要な役割を果たした 55 。この時代、文豪・森鴎外が第12師団の軍医部長として小倉に赴任し、城内にあった司令部へ通勤していたという逸話は、小倉の軍都としての歴史の一幕を物語っている 53

現在も城内には、この時代の記憶を留める遺構が残されている。本丸跡に立つ重厚なレンガ造りの旧第12師団司令部正門跡や、松ノ丸跡に残る白い旧歩兵第12旅団本部の門柱は、小倉城が藩政の中心から近代国家の軍事拠点へと変貌を遂げた歴史を静かに伝えている 20 。なお、この師団司令部は、大正14年(1925年)の宇垣軍縮によって久留米市へ移転した 53

第二章:平和の象徴としての再建

戦後の市民運動と昭和34年(1959年)の天守閣再建

太平洋戦争が終結すると、小倉城跡は一時アメリカ軍に接収されたが、昭和32年(1957年)に接収が解除される 3 。戦争で大きな被害を受けた北九州市において、市民の間から復興のシンボルとして、そして平和の象徴として、失われた天守閣の再建を望む声が日増しに高まっていった。この市民の熱い要望に応える形で、市は天守閣の再建を決定。昭和34年(1959年)、6千万円の費用をかけて、鉄筋コンクリート構造の新たな天守閣が完成した 3

「復元」ではなく「復興」天守とされた理由

ここで重要なのは、昭和に再建された天守閣が、創建当時の姿を史料に基づき忠実に再現した「復元天守」ではなく、かつて天守があった場所に新たな解釈で建てられた「復興天守」に分類されるという点である 58 。これは、再建当時に創建時の天守の外観を示す詳細な図面や写真などの史料が不足していたことに加え、より大きな時代的背景が存在した。

太平洋戦争の敗戦と焦土からの復興を目指す当時の日本社会において、城の天守閣は、厳密な歴史的考証の対象である以上に、人々の心を一つにし、未来への希望を託すためのシンボルとしての役割が強く求められていた 59 。そのため、学術的な正確性よりも、多くの人々が抱く「お城らしい」威風堂々とした姿が優先されたのである。小倉城天守閣の再建は、歴史遺産の保存という観点だけでなく、戦後日本の社会復興の一環という側面を持つ事業であった。

本来の姿との比較:破風の追加という大きな変更

この「復興」という方針は、天守の外観に大きな変更をもたらした。細川忠興が築いた本来の天守が、装飾的な破風を一切持たない極めて斬新なデザインであったのに対し、再建された天守には、大入母屋破風や軒唐破風、比翼入母屋破風といった様々な種類の破風が取り付けられた 15 。これは、「破風のない城は天守らしくない」という当時の一般的なイメージに沿うための意図的なデザイン変更であった 20 。結果として、小倉城の最大の建築的個性であった「唐造り」の本来の姿は失われ、より伝統的で一般的な天守の姿へと変貌を遂げた。この事実は、歴史的真正性の追求と、大衆的なシンボルとしての役割との間に存在するジレンマを如実に示している。


表2:小倉城天守の比較:細川忠興創建時と昭和復興後

項目

創建時天守(推定)

復興天守(現存)

構造

4重5階 複合式層塔型

4重5階 連結式層塔型

建築様式

唐造り(南蛮造り)

(唐造りの特徴は一部残存)

外観的特徴

5階が4階より大きい

5階が4階より大きい

破風の有無

無し

大入母屋破風、軒唐破風、比翼入母屋破風などを追加

壁面の仕様

白漆喰総塗籠、最上階のみ黒板張り

白漆喰、最上階は黒板張り

建材

木造

鉄筋コンクリート造

(出典:

2

第三章:現代における小倉城の価値と活用

史跡としての保存と周辺整備

現在の小倉城跡は、市民の憩いの場である勝山公園として美しく整備されている 19 。城郭の遺構として、細川忠興自慢の野面積みの石垣や、広大な水堀の一部が良好な状態で保存されており、往時の姿を偲ぶことができる。

また、城郭エリアは歴史と文化を学ぶゾーンとして総合的に整備されている。天守閣の東側には、江戸時代の小笠原氏の下屋敷跡に、大名庭園と書院造の屋敷を再現した「小倉城庭園」があり、武家文化の雅を今に伝えている 22 。さらに、隣接地には北九州市出身の文豪・松本清張の功績を顕彰する「北九州市立松本清張記念館」も開館しており 57 、一帯が魅力的な文化観光拠点を形成している。

文化観光拠点としての進化

現代の小倉城は、単に歴史を保存するだけの静的な史跡に留まってはいない。その歴史的資産を核としながら、常に時代に合わせて進化を続ける「生きた文化コンテンツ」としての役割を積極的に担っている。

天守閣の内部展示は、平成に入ってから複数回にわたる全面的なリニューアルを経て、単なる資料展示から、ジオラマやからくりシアター、体験型コンテンツを駆使したエンターテイメント性の高い施設へと変貌を遂げた 20 。2019年のリニューアルではエレベーターも新設され、誰もが楽しめる施設へと進化している 57

さらに、その活用方法は極めて多彩である。天守閣再建65周年を記念した「小倉城サイコー!! キャンペーン」では、プロレスラーの藤波辰爾氏を名誉城主に迎え、城内でのプロレス興行という前代未聞のイベントが企画された 63 。また、最新のXR(クロスリアリティ)技術を用いて、1837年の天守焼失をテーマにした体験型脱出ゲームを導入するなど、歴史と最新技術を融合させた新たな魅力創出にも意欲的である 64

来訪者へのおもてなしも充実している。本格的な甲冑を身にまとった「小倉城武将隊」が城内で来訪者を出迎え、パフォーマンスを披露するほか 19 、2019年には大手門広場に観光案内やお土産処、カフェを備えたおもてなしステーション「しろテラス」がオープンし、来訪者の満足度向上に貢献している 57 。これらの取り組みは、小倉城が静的な「史跡」であると同時に、現在進行形で新たな文化体験を提供する「テーマパーク」的な機能を併せ持つ、複合的な文化施設へと進化していることを示している。

結論:時代を映す鏡として

小倉城の四百有余年にわたる歴史は、関門海峡という不変の地政学的価値を舞台に、日本の歴史の大きなうねりを映し出してきた「鏡」であると言える。

その始まりは、戦国時代の覇権争いが生んだ純粋な軍事拠点であった。やがて、細川忠興という稀代の文化人武将の手によって、軍事・政治・経済・文化が統合された先進的な城塞都市へと昇華された。江戸の泰平の世では、小笠原氏のもとで西国鎮護の要として、また武家文化の中心として栄えた。しかし、時代の変化は城に二度の悲劇をもたらす。天保年間の天守焼失と再建断念は藩体制の限界を、そして幕末の自焼は徳川幕府そのものの終焉を象徴していた。

近代に入ると、城は国家の軍事拠点として再びその戦略的重要性を発揮し、戦後は市民の熱意によって平和のシンボルとして蘇った。その際、歴史的真正性よりも大衆的なイメージが優先され、破風を持つ現在の「復興天守」が誕生したという事実は、この城が常にその時代の要請や価値観を色濃く反映してきたことの証左である。

そして現代、小倉城は歴史遺産としての価値を保存継承しつつも、そこに安住することなく、最新技術や多様な文化と融合し、新たな魅力を創造し続ける「生きた文化コンテンツ」へと変貌を遂げている。その姿は、歴史的遺産がいかにして現代社会と共存し、未来へとその価値を繋いでいくことができるのか、一つの優れたモデルを示している。創建時の独創的な姿を失ったという事実はありながらも、市民に愛され、新たな物語を紡ぎ続ける小倉城は、これからも関門の地で、時代を映す鏡として輝き続けるであろう。

引用文献

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  63. 小倉城サイコー‼︎キャンペーン - 小倉城 公式ホームページ https://kokura-castle.jp/saiko-campaign/
  64. 小倉城 https://kokura-castle.jp/
  65. 福岡県唯一の天守閣!天守閣再建65周年を記念し、小倉城にて歴史と最新技術が融合した謎解き体験『XR脱出ゲーム~1837 小倉城 炎の天守閣から脱出せよ』が7月25日(金)より開催決定! | 株式会社ABALのプレスリリース - PR TIMES https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000025.000053239.html
  66. ふくおか 歴史文化遺産ウィーク in 福岡城・鴻臚館 https://fukuokajyo-event.com/