小弓城は、下総国に位置する城郭群。原氏の拠点として台頭し、足利義明が「小弓公方」を称して関東の政治的中心となる。北条と里見の激しい争奪戦の舞台となり、小田原征伐で廃城。南北二つの城が併存した「小弓城郭群」として、関東戦国史の縮図を今に伝える。
下総国(現在の千葉県北部)に位置した小弓城は、戦国時代の関東史において、しばしば「小弓公方」足利義明の拠点としてその名を刻んできた。しかし、その歴史的役割は、一時の公方の御所という一面的な理解に留まるものではない。近年の文献研究の深化と考古学的調査の進展は、小弓城がより複雑で重層的な歴史を持つ城郭群であったことを明らかにしつつある 1 。
かつては、千葉氏の重臣・原氏の居城であった「小弓城」が小弓公方の拠点となり、その滅亡後に廃城、その後北方に「生実城(おゆみじょう)」が新たに築かれたという、単線的な歴史観が主流であった。しかし、この通説は現在、大きな見直しを迫られている。生実城(北小弓城)の発掘調査や周辺城郭との関係性の研究から、南北二つの城が特定の時期に併存していた可能性が濃厚となったのである 2 。
この「二つの城」という視座は、小弓城をめぐる歴史認識を根底から覆すものである。本報告書は、この最新の研究動向を基軸とし、単一の城ではなく、政治・軍事機能が分化・連携した「小弓城郭群」という概念から、その歴史的実像を再構築する試みである。原氏の台頭から小弓公方の興亡、そして関東の二大勢力である北条氏と里見氏の角逐の舞台となるまでの激動の歴史を、関東全体の戦国史の中に位置づけ、その戦略的価値を徹底的に分析・考察する。
西暦(和暦) |
主要な出来事 |
関連人物・勢力 |
備考 |
1126年(大治元年) |
原常途が小弓城を築いたとの伝承が残る 1 。 |
千葉氏、原氏 |
築城の確たる史料はなく、あくまで伝承の域を出ない。 |
1455年(康正元年) |
享徳の乱が勃発。千葉氏宗家が内紛で弱体化し、家宰の原氏が台頭する 4 。 |
千葉氏、原氏 |
原氏が宗家を凌ぐ実力を蓄え、下克上の素地が形成される。 |
15世紀後半 |
千葉氏が本拠を本佐倉城へ移し、原氏が小弓城を拠点として周辺を支配する 5 。 |
千葉氏、原氏 |
小弓城が原氏の独立した政治・軍事拠点としての性格を強める。 |
1517年(永正14年) |
真里谷武田氏が小弓城を攻略し、原氏を追放する 5 。 |
真里谷武田氏、原氏 |
関東における勢力図の変動を象徴する事件。 |
1518年(永正15年) |
足利義明が真里谷武田氏の支援で小弓城に入り、「小弓公方」を称する 5 。 |
足利義明、真里谷武田氏 |
小弓が南関東の政治的中心地の一つとなる時代の幕開け。 |
1538年(天文7年) |
第一次国府台合戦。足利義明が北条氏綱軍に敗れ討死。小弓公方は滅亡する 5 。 |
足利義明、北条氏綱、里見義堯 |
北条氏の房総への影響力が決定的となり、関東の覇権争いが新たな局面へ。 |
1538年以降 |
北条氏の支援を受けた原氏が小弓城を奪還し、復帰する 5 。 |
原氏、北条氏 |
小弓地域は北条氏と里見氏の抗争の最前線となる。 |
1539年頃 |
北条氏が対里見氏の拠点として有吉城を築城。小弓城はその支城となる 9 。 |
北条氏、原氏 |
小弓地域全体の防衛体制が強化される。 |
1570年(元亀元年) |
里見氏の侵攻により小弓地域が占領され、原氏は臼井城へ本拠を移す 5 。 |
里見氏、原氏 |
房総半島における北条・里見間の勢力争いが激化。 |
1577年(天正5年) |
北条氏と里見氏の和睦(房相一和)により、原氏が小弓地域を回復する 5 。 |
北条氏、里見氏、原氏 |
一時的な和平が訪れるが、根本的な対立構造は変わらず。 |
1590年(天正18年) |
豊臣秀吉の小田原征伐で北条氏が滅亡。これに従っていた原氏も滅び、小弓城は廃城となる 1 。 |
豊臣秀吉、北条氏、原氏 |
小弓城の歴史が幕を閉じる。 |
小弓城の起源については、平安時代後期の大治元年(1126年)に、下総の名族・千葉氏の一族である原常途によって築かれたという伝承が存在する 1 。しかし、これは後世の記録に基づくものであり、戦国期以前の城郭の具体的な姿を裏付ける同時代の史料は確認されていない。確実な歴史の舞台として小弓城が登場するのは、戦国時代に入ってからである。
城が位置するのは、下総台地が南に突き出した舌状台地上である。この地は、下総国と上総国の国境に近く、また古来より交通の要衝であった東京湾(当時は内海と呼ばれた)にも通じる戦略的に極めて重要な立地であった 3 。南の上総方面からの侵攻に対する防衛拠点として、また水上交通を介した経済活動の拠点として、その地理的価値は非常に高かったと考えられる。
小弓城の歴史を語る上で不可欠なのが、その初期の城主であった原氏の存在である。原氏は千葉氏の庶流であり、代々千葉宗家の家宰(筆頭重臣)を務める家柄であった 5 。室町時代中期、関東に30年近くに及ぶ大乱をもたらした享徳の乱(1455年〜)において、千葉氏宗家は内紛によって分裂し、その勢力を大きく減退させた 4 。この混乱に乗じ、原氏は家宰としての立場を巧みに利用して実力を蓄え、次第に主家である千葉氏を凌駕するほどの政治的・軍事的存在へと成長していく 3 。
15世紀後半、千葉氏が本拠を亥鼻(千葉市中央区)から内陸の本佐倉城(現在の酒々井町・佐倉市)へ移すと、権力の空白地帯となった旧本拠地周辺は原氏の支配下に置かれることとなった 5 。原氏は小弓城を自らの本拠とし、この地から周辺一帯に号令したのである。この時点で、小弓城はもはや千葉氏の単なる支城ではなく、半ば独立した戦国領主としての原氏の権力を象徴する政治・軍事拠点としての性格を明確に帯びるに至った。
原氏が宗家からの自立性を高め、下克上ともいえるほどの勢力拡大を成し遂げた背景には、小弓城の戦略的位置が大きく寄与していたと考えられる。宗家の本佐倉城が下総内陸部に位置するのに対し、小弓城は南の安房里見氏や上総の諸勢力との最前線に位置していた。この地理的条件は、原氏が宗家の意向とは別に、独自の軍事行動や外交を展開する機会を与えた。国境地帯の緊張は、原氏の軍事力を常に動員可能な状態に保ち、その実戦経験と発言力を増大させたのである。つまり、小弓城は単に原氏の居城であっただけでなく、原氏が千葉宗家から自立し、戦国領主へと変貌を遂げる過程における、その権力基盤そのものであったと言える。城の地理的価値が、城主の政治的地位を押し上げるという、戦国期における城と領主の密接な相互作用を示す好例である。
16世紀初頭の関東は、室町幕府の出先機関であった鎌倉公方の後身、古河公方家の内紛によって大きく揺れ動いていた。第2代古河公方・足利政氏とその子・高基が家督をめぐって争った「永正の乱」は、関東の諸将を二分する大乱となり、古河公方の権威を著しく失墜させた 10 。この混乱の渦中に登場するのが、政氏の子であり、高基の弟にあたる足利義明である 7 。
義明は当初、鶴岡八幡宮若宮別当として僧籍にあり、空然(こうねん)と名乗っていた 10 。しかし、古河公方家の内紛と、房総半島で急速に勢力を拡大していた上総の真里谷武田氏の当主・武田信清(恕鑑)の野心が、彼の運命を大きく変えることになる。古河公方と対立していた信清は、自らの勢力拡大の正当性を担保する「権威」を求めていた。そこで白羽の矢が立てられたのが、足利将軍家の血を引く義明であった。信清は義明を担ぎ出し、還俗させて古河公方に対抗する新たな勢力として擁立したのである 12 。
永正14年(1517年)、真里谷武田氏は小弓城を攻略して城主の原氏を追放 5 。翌永正15年(1518年)、満を持して足利義明をこの地に迎え入れた 5 。義明は小弓城を本拠とし、「小弓公方」あるいは「小弓御所」と称し、兄・高基が継いだ古河公方と関東の覇権を争うことを公然と宣言した 7 。
これにより、小弓地域はにわかに関東政治の表舞台へと躍り出ることになる。約20年間にわたり、小弓は古河に対抗する南関東の政治的中心地として機能し、その動向は関東全体の情勢を左右するほどの重要性を持った 5 。
当初、義明は真里谷氏の傀儡に近い存在であったと見られる。しかし、義明自身も非凡な野心と行動力を備えた人物であった。彼は、安房の里見氏や下総の臼井氏といった反古河公方・反北条勢力の支持を取り付けることに成功し、徐々に真里谷氏の思惑を超えて自立した権力者として台頭していく 7 。
義明が持つ「足利氏一門」という貴種性は、房総の諸勢力にとって、古河公方や西から圧力を強める後北条氏に対抗するための絶好の「大義名分」となった 12 。義明自身もそのことを強く自覚しており、里見氏に宛てた書状では、千葉氏の本拠である本佐倉城や古河公方の重要拠点である関宿城への野心を示している 7 。
小弓公方の誕生は、単に真里谷武田氏という一勢力の野心によって「作られた権威」であったと見るだけでは、その本質を見誤る。むしろ、それは関東全体の政治的力学の中で生まれた「必然の勢力」であったと評価すべきである。永正の乱によって古河公方の権威が地に墜ちた結果、関東には権威の真空地帯が生まれていた。里見氏をはじめとする南関東の諸勢力は、この空白を埋め、北条氏の南下に対抗するための新たな求心力を渇望していた。そこに現れたのが、足利将軍家の血を引く義明であった。彼の登場は、時代の要請に応えるものであり、彼自身の野心と能力も相まって、小弓公方は一時、関東の勢力図を根底から塗り替えるほどの存在感を示すに至ったのである。
小弓公方・足利義明の勢力拡大は、西から関東への進出を着々と進める相模の後北条氏にとって、看過できない脅威となっていた。特に、大永4年(1524年)に北条氏綱が武蔵江戸城を攻略し、東京湾西岸を完全に制圧したことで、湾の東岸を勢力圏とする小弓公方や里見氏との軍事的衝突は不可避の情勢となった 7 。
両者の対立を決定的にしたのが、古河公方の動向である。義明の甥にあたる第4代古河公方・足利晴氏は、叔父である義明の存在を自らの正統性を脅かすものとして強く警戒していた。ここに、義明を排除したい古河公方と、房総への足掛かりを得たい北条氏の利害が一致する。晴氏は正式に氏綱へ義明討伐の御内書(命令書)を発し、ここに北条・古河公方連合が形成された 8 。房総の覇権をめぐる情勢は、義明率いる小弓公方・里見連合と、氏綱率いる北条・古河公方連合の全面対決へと突き進んでいった。
天文7年(1538年)10月、足利義明は安房の里見義堯、上総の真里谷信応らの軍勢を率いて西進し、下総国府台(現在の市川市)に着陣した 8 。軍勢の数については諸説あるが、約1万とされる 16 。これに対し、北条氏綱は嫡男の氏康(後の三代目当主)とともに出陣。江戸城に入り、対岸の国府台に陣取る義明と対峙した。北条方の兵力は約2万と、小弓公方軍を大きく上回っていた 15 。
両軍を隔てる江戸川(当時は太日川と呼ばれた)をいかに攻略するかが、戦いの鍵を握っていた。里見義堯は、北条軍が渡河している最中を攻撃すべきだと進言したが、自らの武勇に絶対の自信を持つ義明はこれを退け、敵全軍が渡り終えたところを平地で一気に撃滅する策を選んだとされる 15 。この作戦方針の不一致は、連合軍の足並みの乱れを露呈し、後の悲劇につながる伏線となった。
10月7日、北条軍は渡河を開始。一部の部隊を囮として松戸台(現在の松戸市)に上陸させ、義明の本隊を誘い出した 13 。義明がこれに食いつき、相模台(同)で戦闘が開始されると、密かに別動隊を動かしていた北条軍の主力が義明本隊の側面、あるいは背後を強襲した。完全に氏綱の術中にはまった小弓公方軍は、大混乱に陥った 13 。
激戦の中で、義明の弟・基頼、そして嫡男の義純が相次いで討死する 8 。自軍の敗色が濃厚となり、主力の里見義堯は義明を見殺しにする形で戦線を離脱、大きな損害を出すことなく安房へと撤退した 13 。もはやこれまでと覚悟した義明は、最後まで奮戦したものの、衆寡敵せず、国府台の地に散った 2 。ここに、約20年間にわたり南関東に君臨した小弓公方は、わずか一日、一代限りで滅亡したのである。
この第一次国府台合戦の勝利は、北条氏の関東における覇権確立の画期をなすものであった。房総半島への影響力を決定的に強め、古河公方を事実上の庇護下に置くことに成功した 13 。
義明の敗因は、しばしば彼の武勇への過信や慢心といった個人的資質に求められてきた 17 。しかし、より本質的な問題は、彼の率いた軍が構造的な弱点を抱えていた点にある。小弓公方軍は、利害の異なる諸将を「貴種性」という抽象的な権威のみで束ねた寄せ集めの連合軍であった。特に主力の里見義堯は、かつて里見氏の内紛(天文の内訌)で義明と間接的に対立した経緯があり、その戦意は決して高いものではなかった 8 。戦略上の不一致や、敗色濃厚と見るや即座に撤退した義堯の行動は、連合軍が強固な一枚岩ではなかったことを如実に物語っている。氏綱・氏康親子を中心とした強固な指揮系統の下、戦術的柔軟性に富んだ戦いを見せた北条軍に対し、内部に不協和音を抱えた小弓公方軍は、緒戦の不利を組織的に挽回する力を欠いていた。この敗戦は、戦国乱世において名目上の権威がいかに脆弱であり、実力に裏打ちされた組織力こそが勝敗を決するかの厳然たる事実を示す、象徴的な一戦であった。
第一次国府台合戦による小弓公方の滅亡は、小弓地域に一時的な権力の空白を生み出した。この機を逃さず、旧領回復を狙っていたのが、かつて足利義明に城を追われた原氏であった。国府台での勝利の勢いを駆った北条氏の強力な支援を受け、原氏は約20年ぶりに小弓城を奪還し、本拠地への帰還を果たした 5 。
しかし、原氏の復帰は安息を意味するものではなかった。国府台で主力を温存した安房の里見氏は、小弓公方が支配していた上総・下総の旧勢力圏への進出を虎視眈々と狙っており、小弓地域は瞬く間に、北条方の原氏と里見氏が激しく勢力を争う最前線へと変貌した 5 。
この新たな対立構造の中で、原氏は自らの領地を防衛するため、必然的に小田原北条氏との結びつきを一層強化せざるを得なくなった。原氏は房総半島における北条氏の最も重要な同盟者となり、小弓城は北条氏の対里見戦略における一大拠点としての役割を担うことになったのである 18 。
対里見氏の防衛体制を盤石にするため、北条氏は天文8年(1539年)頃、川越城主であった猛将・北条綱成を派遣し、小弓城の近隣に新たに有吉城を築かせたとされる 9 。これは、小弓城単体での防衛から、複数の城郭が連携して敵の侵攻を阻む、より高度な面的な防衛網を構築する意図があったと考えられる。この時期、小弓城は有吉城と連携する城郭群の一部、あるいはその後方支援を担う支城として位置づけられ、その役割も変化していったと推測される。
その後も房総をめぐる北条氏と里見氏の抗争は一進一退を続けた。元亀元年(1570年)、里見軍の大規模な侵攻によって小弓地域は一時的に占領され、原氏は本拠を北方の臼井城(佐倉市)へ移すことを余儀なくされた 5 。天正5年(1577年)、両勢力間で和睦(房相一和)が成立すると、原氏はようやく小弓地域を完全に取り戻すことができた 5 。
しかし、その平穏も長くは続かなかった。天正18年(1590年)、天下統一を進める豊臣秀吉による小田原征伐が開始される。宗主である北条氏が秀吉に敗北すると、その一翼を担っていた原氏もまた運命を共にし、歴史の表舞台から姿を消した 5 。主を失った小弓城もこの時に廃城となり、その軍事拠点としての長い歴史に幕を下ろしたと考えられている 1 。
原氏の歴史は、戦国時代の地方領主がたどった典型的な軌跡を象徴している。彼らは千葉氏の家臣という立場から実力で台頭し、一時は半ば独立した戦国領主としての地位を築いた。しかし、小弓公方という激動の時代を経て旧領を回復した時、それはもはや自力によるものではなく、北条氏というさらに強大な勢力の支援によるものであった。この瞬間から、原氏は北条氏の巨大な軍事・政治体制に組み込まれる「駒」となったのである。その後の原氏の存亡は、常に北条氏の房総戦略の一環として規定され、その終焉もまた、自らの選択ではなく、宗主の運命によって一方的に決定づけられた。小弓城への復帰は栄光の回復ではなく、より大きな権力構造への従属の始まりであり、その悲劇的な結末を暗示するものであった。
小弓城の歴史を理解する上で、最大の論点となっているのが「二つの城」の存在である。
従来の定説 では、城の歴史は時間的な変遷として捉えられてきた。すなわち、まず原氏の居城であった「小弓城」(現在の南小弓城跡)が存在し、これが小弓公方・足利義明の御所となった。そして公方滅亡後、この城は廃城となり、その後、復帰した原氏が北方に新たに「北小弓城」、すなわち「生実城」を築いて本拠を移した、という筋書きである 2 。
しかし、 近年の新説 は、この定説に根本的な修正を迫るものである。生実城(北小弓城)の発掘調査で比較的古い時代の遺物が発見されたことなどから、南小弓城が機能していた時期に、既に北小弓城も存在していたことが明らかになったのである 1 。現在では、二つの城が同時期に併存し、それぞれが異なる役割を担っていたという見方が有力となっている。
南北二つの城が併存していたとすれば、両者はどのように使い分けられていたのであろうか。その縄張りや規模、立地から機能分担を推測することができる。
この新説は、小弓公方の御所がどこにあったかという論争にも影響を与えている。従来は南小弓城が御所跡とされてきたが、新説では、原氏の本城であった北小弓城(生実城)こそが、足利義明の政治拠点にふさわしいとして、こちらを御所跡とする見方が有力視されるようになった 2 。現在「本城公園」となっている一帯が、その主郭跡と推定されている 3 。
これらの研究成果は、「小弓城」という存在を根本から捉え直すことを我々に求める。すなわち、我々が「小弓城」と呼ぶべき対象は、単一の城郭ではなく、政治・居住機能を持つ本城(北小弓城)と、それを防衛するための複数の支城・砦(南小弓城、さらに周辺の長山砦や柏崎砦 2 など)から構成される、広域な**「小弓城郭群」**と理解すべきなのである。この視点に立つことで、単に城の所在地が二つあったという事実を超え、原氏や小弓公方がこの地をいかに重要視し、政治中枢と軍事拠点を分担させた体系的な防衛体制を構築していたかという、よりダイナミックで戦略的な歴史像が浮かび上がってくる。
「小弓城郭群」を構成した南北両城は、その構造においても明確な差異が見られる。
長年の宅地化や耕作により、両城ともに多くの遺構が失われているが、断片的ながら往時の姿を偲ばせる痕跡が残されている。
生実城(北小弓城)では部分的な発掘調査が行われており、戦国時代から江戸時代初期にかけての堀跡や井戸跡といった遺構のほか、当時の生活を物語る陶磁器などの遺物が出土している 26 。これらの出土品は、この城が一度きりの軍事施設ではなく、長期間にわたって人々の生活と政治の中心であったことを物理的に裏付けている。
南北両城に残された遺構の構造と保存状態の差異は、単なる偶然の結果ではない。それは、それぞれの城が歴史の中で担った役割の変遷を雄弁に物語る物証である。古風な縄張りを持つ南小弓城は、軍事拠点としての重要性を比較的早期に失い、大規模な改修が加えられることなく歴史の中に埋もれていった。一方で、先進的な縄張りを持つ北小弓城は、戦国末期に至るまで政治・軍事の中心として機能し続け、特に北条氏の支配下で対里見氏の最前線基地として重点的な改修・強化が施された。城の物理的な痕跡は、前章で論じた「機能分担」と、第四章で論じた「歴史的変遷」を裏付ける、何よりの証言者なのである。
かつて関東の政治と軍事の係争地であった小弓城郭群の跡地は、現在その多くが宅地、公園、農地、そして神社境内などへと姿を変え、往時の壮大な縄張りを現地で体感することは極めて困難となっている 22 。生実神社の空堀など、一部には目を見張る遺構が残存しているものの、その多くは断片的であり、史跡としての全体像を把握するのは容易ではない。一部ではゴミの散乱なども報告されており、歴史的遺産としての適切な保存・活用には多くの課題が残されているのが現状である 23 。
重要な歴史の舞台であったにもかかわらず、小弓城跡は国や千葉県の文化財指定を受けておらず、千葉市の史跡リストにもその名は見られない 1 。その歴史的価値が、必ずしも十分に認識されているとは言えない状況にある。
本報告書で詳述してきたように、小弓城は単なる一地方の城郭ではない。その歴史には、
といった、戦国時代の関東史を特徴づける主要な動向が凝縮されている。それはまさに関東戦国史の縮図ともいえる、極めて重要な歴史の舞台であった。
特に、南北両城が一体として機能した「小弓城郭群」という視点からこの城を捉え直すことで、その戦略的価値と歴史的意義はさらに深まる。それは、戦国期の領主たちが、いかに体系的かつ複合的な防衛思想に基づいて拠点を構築していたかを示す貴重な事例である。
失われた城郭の全貌を解き明かす試みは、まだ道半ばである。本報告書が、この忘れられた重要城郭群への歴史的理解を深め、その価値を再認識する一助となり、ひいては今後の更なる研究や、地域における保存活用への機運を高める一石となることを期待して、筆を置くこととしたい。