最終更新日 2025-08-17

尾山御坊

尾山御坊は加賀一向一揆の拠点。守護を打倒し「百姓の持ちたる国」を築く。織田信長に攻められ落城後、金沢城として改修され、加賀百万石の礎となった。

戦国の要塞寺院 尾山御坊 ―「百姓の持ちたる国」の興亡と金沢の黎明―

序章:加賀に屹立した信仰の城

戦国時代、日本列島が群雄割拠の動乱に揺れる中、旧来の権威であった室町幕府や守護大名の支配体制は各地で崩壊し、新たな権力秩序が模索されていた。この下剋上の時代において、武力を持つ大名だけでなく、強固な信仰で結ばれた宗教勢力が一大政治・軍事勢力として歴史の表舞台に登場したことは、特筆すべき現象である。その最も先鋭的かつ大規模な事例が、浄土真宗本願寺教団(一向宗)が加賀国(現在の石川県南部)に築き上げた、約一世紀にわたる支配体制であった 1

この特異な統治体制の中枢として、軍事、政治、そして経済のあらゆる機能を一身に集約したのが「尾山御坊(おやまごぼう)」、別名「金沢御堂(かなざわみどう)」である 3 。それは単なる寺院ではなかった。天然の要害に築かれ、堀と土塁で固められた城郭であり、門前には寺内町が広がり、加賀一国に号令する政庁でもあった。応仁の乱以降、自衛の必要に迫られた人々が、蓮如の広めた教えの下に団結し、ついには守護大名を打倒して手にした支配権。その象徴こそが、この尾山御坊であった 5

本報告書は、この尾山御坊を単一の史跡としてではなく、戦国時代の宗教、政治、軍事が交錯する「現象」として捉え、その成立から終焉、そして後世への影響までを多角的に解明するものである。なぜ寺院が武装し、一国の支配拠点となり得たのか。約100年続いた「百姓の持ちたる国」の実態とは何だったのか。そして、織田信長の天下統一事業の中でいかにして終焉を迎え、後の加賀百万石の礎となったのか。その歴史の深層に迫ることで、戦国という時代の複雑な様相と、金沢という都市の黎明を明らかにしていく。


【尾山御坊関連略年表】

西暦

元号

尾山御坊・加賀一向一揆関連の出来事

日本国内の主要な出来事

1488年

長享2年

加賀一向一揆、守護・富樫政親を滅ぼす(長享の一揆)。「百姓の持ちたる国」が成立 7

1546年

天文15年

尾山御坊(金沢御堂)が建立される 3 。加賀支配の中核拠点となる。

1570年

元亀元年

石山合戦始まる(~1580年)。

1575年

天正3年

織田信長、越前一向一揆を殲滅。長篠の戦い。

1580年

天正8年

石山本願寺が織田信長に降伏(3月)。柴田勝家・佐久間盛政軍が加賀に侵攻し、 尾山御坊を攻略、陥落させる (4月説、11月説あり) 3

1582年

天正10年

白山麓の鳥越城などが陥落し、加賀一向一揆が完全に鎮圧される 10

本能寺の変。織田信長が死去。

1583年

天正11年

前田利家が金沢城(旧尾山御坊)に入城 7

賤ヶ岳の戦い。柴田勝家が滅亡。


第一章:「百姓の持ちたる国」の成立と実像

第一節:権力の空白と信仰の勃興

尾山御坊の建立を理解するためには、その前提となる加賀国の特殊な政治状況に遡る必要がある。室町時代、加賀は守護大名である富樫氏によって統治されていたが、応仁の乱以降、その支配力は著しく弱体化していた。この権力の空白期に、爆発的な勢いで民衆の間に浸透したのが、本願寺第8世宗主・蓮如による浄土真宗の教えであった 5

蓮如は越前の吉崎御坊を拠点に、平易な言葉で教えを説き、地侍から農民に至るまで幅広い階層を「講」という組織にまとめ上げた 12 。この強固な信仰による結束は、やがて既存の支配体制を揺るがすほどの強大な社会的・軍事的な力へと転化する。一向宗の弾圧を図った守護・富樫政親に対し、門徒たちは蜂起。長享2年(1488年)、数十万ともいわれる一揆勢は政親を高尾城に攻め滅ぼした(長享の一揆) 2 。これにより、加賀国は守護大名の支配から脱し、以後約一世紀にわたり、一向宗門徒による自治が行われる「百姓の持ちたる国」と呼ばれる時代に突入したのである 1

第二節:「百姓の持ちたる国」の解釈

「百姓の持ちたる国」という言葉は、しばしば農民が主権を握った革命的な共和国であるかのように解釈されがちである。しかし、この言葉の原典とされる本願寺の僧・実悟が記した『実悟記拾遺』には、「百姓ノ持タル國ノヤウニナリ行キ候」とある 16 。これは文字通り「百姓が所有する国になった」と断定しているのではなく、「あたかも百姓が支配する国であるかのような状態になっていった」という、比喩的かつ状況を説明する表現であった 17

実際には、加賀の統治は単一の農民階級によって行われたわけではない。その実態は、本願寺宗主の代理人として派遣された僧侶(御堂衆)を頂点に、現地の有力門徒である国人(地侍)、寺内町に集住した商人や職人、そして広範な農民層が、信仰を紐帯として結びついた複合的な自治体制であったと見られている 3 。これは近代的な意味での「共和国」とは異なり、宗教的権威の下に各階層が連携して国を運営する、中世的な「連合体」に近いものであった。この統治システムにおいて、各勢力の意思決定を集約し、内外に権威を示す中枢機関が必要とされた。その要請に応える形で、支配開始から半世紀以上を経て、尾山御坊が建立されることとなるのである。

第二章:尾山御坊の建立 ― 戦略的要地の選定

第一節:建立の経緯と年代

加賀一向一揆が守護を打倒した後、しばらくは統治の中心が定まっていなかったが、天文15年(1546年)、新たな中核拠点として尾山御坊が建立された 3 。これは「金沢御堂」とも呼ばれ、以後、加賀国における本願寺の出先機関として、また一向一揆勢力の政庁として機能していくことになる 19

第二節:地政学的な意図

尾山御坊が築かれた場所は、金沢平野に突き出した小立野台地の先端部であった 3 。この地は、西に犀川、東に浅野川が流れる天然の要害であり、平野を一望できる軍事的に極めて優れた立地であった 3 。この選地は、単なる偶然とは考え難い。なぜなら、当時の一向宗の総本山であった大坂の石山本願寺もまた、淀川と旧大和川に挟まれた上町台地の先端に築かれた、難攻不落の要塞寺院だったからである 3 。この地理的類似性は、尾山御坊が石山本願寺の成功モデルを意識し、「北陸の石山本願寺」となるべく意図的に設計された戦略拠点であったことを強く示唆している。

建立された1546年という時期も、重要な意味を持つ。当時、加賀一向一揆は、隣国の越前を支配する朝倉氏や、越後の長尾氏(後の上杉氏)といった戦国大名との軍事的緊張を高めていた 24 。これまでの分散的な支配体制では、強力な大名の侵攻に対抗することが困難であるという認識が広まっていた可能性が高い。こうした状況下で、防衛と統治の中枢を一元化する必要に迫られた結果が、この要塞寺院の建立に繋がったと考えられる。つまり、尾山御坊の建設は、加賀一向一揆がより強固な中央集権的・軍事的防衛体制へと移行する、大きな政策転換の象徴であったと言えるだろう。

第三節:多様な名称の背景

尾山御坊には、複数の呼称が存在したことが記録から窺える。「金沢御堂」や「金沢坊」という名は、この地が古くから「金沢」と呼ばれていたことに由来し、本願寺の寺院(御堂)が置かれたことを示すものである 25 。一方で、「尾山御坊」という名称は、御坊が築かれた台地の通称が「尾山」であったことに由来する 25 。また、単に「御山(おやま)」と敬称されることもあり、これは信仰の対象であると同時に、支配の頂点に立つ権威の象徴としての意味合いを含んでいた 25 。これらの名称の併存は、この施設が宗教施設であると同時に、特定の地名を冠した政治・軍事拠点であったという二重の性格を物語っている。

第三章:信仰・政治・経済の拠点としての実像

第一節:城郭としての構造

尾山御坊は、その名に「坊」とあるものの、実態は寺院の域を遥かに超えた城郭そのものであった 6 。後の金沢城の中核部分にその跡地が求められるため、当時の正確な縄張り図は現存しないが、周囲に堀や土塁を巡らせ、内部は複数の曲輪に分かれていたと考えられている 22 。近年の金沢城跡における発掘調査では、近世の遺構の下層から、中世に遡る掘立柱建物や区画溝、井戸などが検出されている 28 。これらの遺構が、尾山御坊時代の建造物の一部である可能性も指摘されており、文献史料だけでは窺い知れない御坊の具体的な姿を解明する手がかりとして注目されている 31 。その構造は、信仰の場である本堂などを中心に据えつつも、有事の際には籠城戦が可能な、高度な防御機能を有していたと推察される。

第二節:寺内町の形成と都市の萌芽

尾山御坊の建立は、金沢という都市の直接的な起源となった 18 。御坊の周囲には、門徒や商工業者が集住する「寺内町(じないまち)」が形成された 4 。現在の金沢市に残る近江町、西町、堤町、南町といった地名は、この寺内町に含まれていたとされ、当時の都市の骨格を今に伝えている 33

この寺内町は、単なる門前町ではなかった。それは、御坊を防衛する外郭としての軍事的な機能と、御坊の活動を支える兵站基地としての経済的な機能とを兼ね備えていた。記録によれば、御坊は醸造業を含む商工業を統制し、経済活動を積極的に管理していたとされる 4 。これは、寺内町から得られる富を、教団の維持や軍事力の強化に充当する仕組みが確立されていたことを意味する。信仰と経済が一体となった自己完結的な都市国家モデルは、石山本願寺をはじめとする各地の寺内町にも見られる特徴であり、尾山御坊もその典型であった 34 。この一向一揆が築いた都市基盤と経済的活力は、後の支配者である前田利家による城下町建設の際に、巧みに継承・再編されることとなる。利家はゼロから金沢を建設したのではなく、既に存在した「都市」を近世城下町へと発展させたのであり、この事実は金沢の都市史を理解する上で極めて重要である。

第三節:加賀支配のネットワーク

尾山御坊は、加賀一国を支配する統治ネットワークの頂点に君臨していた。その支配は、白山麓の鳥越城に代表されるような、各地に配置された支城群との連携によって成り立っていた 3 。これらの支城は、国境の防衛や地域支配の拠点として機能し、尾山御坊の指令の下、有機的に結びついていた。

その軍事力は周辺の戦国大名にとっても大きな脅威であり、例えば越後の上杉謙信は、一向一揆勢が多数の鉄砲を保有していることを強く警戒し、配下の将に注意を促す書状を残している 3 。これは、加賀一向一揆が当時最新の兵器を導入し、高度な軍事技術を有していたことを示す逸話である。尾山御坊は、この強力な軍事ネットワークの中枢司令部として、加賀一国の防衛と統治を担っていたのである。

第四章:織田信長との対峙と落城

第一節:天下布武の障壁

16世紀後半、尾張から台頭し、「天下布武」を掲げて統一事業を推し進める織田信長にとって、全国的なネットワークと強大な軍事力を有する本願寺教団は、最大の敵対勢力の一つであった。特に、畿内の中心部に位置する石山本願寺との10年に及ぶ抗争(石山合戦)は、信長の統一事業の成否を左右する最大の戦いであった 6 。信長は、自らの権威に従わない宗教勢力を徹底して弾圧する方針を採り、比叡山延暦寺の焼き討ちなど、苛烈な手段も辞さなかった。

第二節:石山本願寺の降伏と加賀侵攻

天正8年(1580年)3月、10年にわたる抵抗の末、石山本願寺はついに信長に降伏した 9 。これにより、信長は畿内における最大の懸念を取り除き、残存する一向一揆勢力の掃討作戦に本格的に乗り出すことが可能となった。その最大の標的とされたのが、依然として強固な支配体制を維持していた加賀国であった。信長は、北陸方面軍の総大将である柴田勝家に加賀平定を命じ、織田の大軍が国境に迫った 37

第三節:尾山御坊の終焉

柴田勝家率いる織田軍の主力は、勝家の甥であり猛将として知られる佐久間盛政が務めた 3 。天正8年、織田軍の侵攻に対し、尾山御坊を中心とする一揆勢は激しく抵抗したが、総本山である石山本願寺の降伏は、加賀の門徒たちの士気や結束に深刻な影響を与えたであろうことは想像に難くない。織田軍の圧倒的な軍事力の前に、同年、ついに尾山御坊は陥落した 7

この陥落をもって、加賀一向一揆が築き上げた約100年の支配体制は、事実上崩壊した。中枢を失った後も、白山麓の鳥越城などでは一部の門徒が抵抗を続けたが、それも天正10年(1582年)までには完全に鎮圧された 10 。尾山御坊の陥落は、単なる一つの拠点の喪失ではなく、「百姓の持ちたる国」という戦国史上類を見ない統治システムの終焉を告げる、決定的な出来事だったのである。

第五章:金沢城への転生と遺産

第一節:佐久間盛政による占領と改称

尾山御坊を制圧した佐久間盛政は、その地を自らの居城とした。盛政は、一向一揆の残党による反撃を警戒し、直ちに堀や土塁の改修・強化に着手した 3 。そして、この城を新たに「金沢城」と改称した 21 。これが、現在に続く金沢城の直接的な始まりである。盛政による整備は、宗教施設であった尾山御坊を、純然たる軍事拠点である近世城郭へと転換させる第一歩であった 22

第二節:前田利家の入城と大改修

金沢城の歴史は、本能寺の変後の権力闘争の中で、新たな局面を迎える。天正11年(1583年)、信長の後継者の座を巡る賤ヶ岳の戦いで柴田勝家が羽柴秀吉に敗れると、秀吉方についた前田利家が加賀国を与えられ、金沢城に入城した 3

加賀百万石の礎を築くことになる利家は、金沢城を自らの本拠にふさわしい壮大な城郭へと大改修することを計画する。その際、築城術に優れたキリシタン大名・高山右近を客将として招聘し、彼の先進的な知識と技術を導入して、城の近代化を推し進めた 22 。この大規模な改修により、天守が築かれ、曲輪が拡張され、尾山御坊時代の痕跡は物理的に次々と上書きされていった。支配者が一向宗門徒から織田の将へ、そして豊臣の大名へと変わる中で、この地は支配者の権威を示すための空間として再編成され続けたのである。

第三節:地層に刻まれた記憶

城郭の姿は大きく変貌したが、尾山御坊時代の記憶が完全に消え去ったわけではない。金沢城の本丸と二の丸を結ぶ「極楽橋」という名称は、この地が寺院であった頃の名残であると伝えられている 3 。また、前述の通り、金沢の城下町の基本的な骨格は、尾山御坊の寺内町を基礎としている 33

金沢城の歴史は、尾山御坊という下地の上に、佐久間盛政、そして前田利家という新たな権力者が次々と書き重ねていった「パリンプセスト(重ね書きされた羊皮紙)」に喩えることができる。支配者は変わっても、この土地が持つ地政学的な重要性は不変であった。前田氏による壮麗な城郭の建設は、旧支配者である一向一揆の記憶を払拭し、新たな支配者の絶対的な権威を視覚的に誇示するための、意図的な空間の再構築であった。しかし、その物理的な遺構は乏しくとも、名称や都市構造といった無形の遺産は、尾山御坊の存在を今に伝えている。加賀百万石の華やかな文化は、一向一揆が約100年かけて育んだ民衆のエネルギーと経済的基盤という豊かな土壌の上に花開いた側面を持つ。尾山御坊の歴史を理解することなくして、金沢という都市の成り立ちを重層的に捉えることはできないのである。

終章:戦国史における尾山御坊の意義

本報告書で詳述してきた通り、尾山御坊は戦国史において極めて重要な意義を持つ存在である。その歴史的意義は、以下の三点に集約することができる。

第一に、尾山御坊は、中世から近世への移行期において、宗教勢力が守護大名を打倒し、一国規模の領国支配を確立したという、日本史上稀有な実例の中枢であった。それは「百姓の持ちたる国」という特異な統治システムの司令塔であり、信仰が政治・軍事権力と化した時代の象徴であった。

第二に、尾山御坊は、織田信長の天下統一事業における重要な打倒目標であった。信長にとって、全国に広がる本願寺教団のネットワークは、自らの権威を脅かす最大の障壁であり、その北陸における最大拠点であった尾山御坊の制圧は、統一事業の完遂に向けた不可欠な一歩であった。その落城は、戦国大名の前に宗教勢力が屈服していく時代の大きな流れを決定づけた。

第三に、尾山御坊は、後の加賀百万石の拠点・金沢城と城下町金沢の直接的な前身であった。前田利家は、尾山御坊が築かれた戦略的要地と、その周囲に形成された寺内町の都市基盤を継承し、それを近世的な城郭と城下町へと発展させた。尾山御坊の存在なくして、今日の金沢の都市構造を語ることはできない。

一向宗門徒が抱いた理想と、彼らが築き上げた現実は、戦国という時代の激しい潮流の中で潰えた。しかし、その中枢であった尾山御坊の記憶は、壮麗な金沢城の石垣の下に、そして加賀百万石の栄華を今に伝える都市の成り立ちの中に、歴史の地層として深く刻み込まれているのである。

引用文献

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