石見銀山を巡る攻防の要、山吹城は灰吹法導入で価値増大。大内・尼子・毛利の三大勢力が争奪し、本城常光と毛利元就の死闘の舞台となる。世界遺産にも登録された。
日本の戦国史において、一地方の山城でありながら、国家間の経済、ひいては世界史の動向にまで影響を及ぼした稀有な存在、それが石見国に築かれた山吹城である。本報告書は、この山吹城を単なる軍事拠点としてではなく、戦国時代の巨大な富の源泉であった石見銀山の支配権を巡る、政治、経済、軍事、技術が交錯した歴史の結節点として捉え、その全貌を徹底的に解明するものである。
山吹城は、現在の島根県大田市大森町に位置する、標高414メートル(一説には430メートル)の要害山(ようがいざん)、別名山吹山に築かれた山城である 1 。この城が戦略的に極めて重要であった理由は、その地理的優位性に集約される。要害山は独立した峻峰であり、その山頂からは、銀鉱脈を抱く仙ノ山、銀山経営と生活の中心地であった大森の集落、そして産出された銀を日本海へと運び出すための輸送街道のすべてを、遮るものなく一望することができた 3 。
この立地は、単に「見晴らしが良い」というレベルの話ではない。戦国時代において、銀の生産量、輸送ルート、労働者の動向はすべてが機密情報であり、経済的優位性の源泉そのものであった。山吹城を支配することは、これらの情報を独占し、敵の侵攻を早期に察知し、効率的な銀山経営を行うための「情報的優位」を確保することと同義であった。つまり、山吹城は物理的な要害であると同時に、石見銀山経済圏における情報の中枢、すなわち司令塔としての役割を担っていたのである。山吹城を制することが、石見銀山支配の絶対条件とされた所以はここにある。
戦国大名が群雄割拠した時代、合戦を遂行し、勢力を維持・拡大するためには、兵糧の確保、鉄砲や火薬といった最新兵器の購入、兵士の雇用など、莫大な軍事資金が不可欠であった 3 。石見銀山から産出される高品質な銀は、まさにその財源として、中国地方の大名たちにとって喉から手が出るほど渇望される戦略的資源であった。
したがって、本報告書では山吹城を「石見銀山という巨大な富を生み出す装置の防衛・制御システム」と定義する。その創築から争奪戦の激化、そして時代の変化に伴う廃城に至るまでの全史を、軍事、経済、技術、さらには世界史的文脈から多角的に分析し、この城が日本の歴史に刻んだ深い意義を明らかにしていく。
山吹城の起源にはいくつかの説が存在するが、その本格的な城郭化は、銀の精錬技術における革命的なイノベーションと密接に連動していた。本章では、諸説を検証し、技術革新が軍事要塞の進化をいかにして駆動したかを論証する。
山吹城の正確な築城年は不明であるが、いくつかの伝承と説が存在する。
山吹城が本格的な要塞へと変貌を遂げた背景には、画期的な技術革新があった。16世紀前半、博多の豪商・神屋寿禎(かみやじゅてい)によって、朝鮮半島から最新の銀精錬技術である「灰吹法(はいふきほう)」が導入されたのである 4 。
この技術は、銀鉱石を鉛と一緒に溶かし、特殊な灰の上で再び熱することで、鉛と不純物だけを灰に吸収させ、高純度の銀を取り出すというものであった。灰吹法の導入により、従来は分離が困難であった低品位の鉱石からも大量の銀を生産することが可能となり、石見銀山の産出量は文字通り爆発的に増大した。
この結果、石見銀山は単なる一鉱山から、支配者の財政を根底から支える「戦略的資源」へとその価値を劇的に高めた。そして、この経済的価値の爆発的増大こそが、周辺勢力からの軍事的脅威を招き、大内氏をして山吹城を大規模な軍事要塞へと改修せしめた最大の動機であった。つまり、山吹城の歴史は、技術革新が軍事要塞の進化を直接的に駆動したという、戦国時代における普遍的な法則を示す典型例なのである。城の価値は静的なものではなく、保護対象である石見銀山の経済的価値の変動に正比例して変化した。我々が知る「山吹城」を誕生させた真の触媒は、外的要因ではなく、この「灰吹法」という技術的要因であったと結論付けられる。
石見銀山の価値が飛躍的に高まると、その支配権を巡り、周防の大内氏、出雲の尼子氏、そして安芸から台頭した毛利氏という中国地方の三大勢力が、約30年間にわたり熾烈な争奪戦を繰り広げた。山吹城は、まさにその中心舞台であった。
灰吹法導入後、大内義隆は山吹城を拠点として銀山支配を強化した 5 。しかし、その富を狙う動きはすぐに表面化する。享禄3年(1530年)、石見の在地国人である小笠原長隆が銀山を一時的に占拠した 4 。これは中央の巨大権力と在地勢力との間に常に存在した緊張関係を示す象徴的な事件であった。大内氏は3年後の天文2年(1533年)にこれを奪回し、山吹城の防備を一層固めることとなる 4 。
天文6年(1537年)以降、出雲の戦国大名・尼子経久が石見へ本格的に侵攻を開始し、以後、大内氏との間で銀山を巡る一進一退の攻防が繰り返された 4 。この均衡が大きく崩れる契機となったのが、大内氏内部の動乱と、新たな覇者の登場であった。
天文20年(1551年)、大内義隆が家臣の陶晴賢の謀反によって自害(大寧寺の変)。これにより大内氏は著しく弱体化する。その好機を捉え、弘治元年(1555年)の厳島の戦いで陶晴賢を討ち果たしたのが、安芸の毛利元就であった 4 。元就は、大内氏に代わる中国地方の新たな覇者として、ただちに石見銀山争奪戦に参戦した。弘治2年(1556年)、毛利軍は当時の城主・刺賀長信(さっかながのぶ)を降伏させ、山吹城と銀山をその勢力下に置くことに成功した 4 。
約30年にわたる複雑な城主の変遷と主要な合戦を以下に要約する。
西暦(和暦) |
主要な出来事 |
城主(所属勢力) |
関連人物 |
1530年(享禄3年) |
小笠原長隆、銀山を占拠 |
小笠原長隆(小笠原氏) |
大内義興 |
1533年(天文2年) |
大内氏、銀山を奪回し山吹城を強化 |
(大内氏) |
大内義隆 |
1537年(天文6年) |
尼子経久、石見に侵攻し銀山を占領 |
(尼子氏) |
尼子経久 |
1556年(弘治2年) |
毛利氏、山吹城を攻略 |
刺賀長信(毛利氏へ降伏) |
毛利元就、吉川元春 |
1556年(弘治2年) |
忍原崩れ。尼子氏が奪回 |
本城常光(尼子氏) |
尼子晴久、宍戸隆家 |
1559年(永禄2年) |
降露坂の戦い。毛利軍を撃退 |
本城常光(尼子氏) |
毛利元就、本城常光 |
1562年(永禄5年) |
本城常光、毛利氏に降伏。元就が銀山を完全に掌握 |
森脇市郎左衛門(毛利氏) |
毛利元就、本城常光 |
毛利氏による支配も束の間、尼子氏の猛反撃が始まる。ここからの攻防は、尼子方の智将・本城常光(ほんじょうつねみつ)と、毛利元就の謀略が激突する、山吹城争奪戦のクライマックスであった。本城常光は、大内、尼子、毛利の間を渡り歩いた稀代の戦略家であり、自らの勢力維持のために最善の選択を模索し続けた、戦国武将の現実的な姿を体現する人物であった 10 。
しかし、物語はここで終わらない。降伏した常光であったが、元就はその卓越した武勇と影響力を将来の禍根と見なし、後に一族もろとも謀殺した 4 。これは、元就の冷徹なリアリズムと、戦国時代の非情さを示す逸話である。山吹城という物理的な障壁が、元就に戦術の転換を強いた結果、戦いの次元は武力衝突から、より高度な外交・謀略戦へと引き上げられた。城の存在そのものが、戦いの様相を規定したのである。
毛利元就を二度も退けた山吹城は、なぜ「難攻不落」と称されたのか。その秘密は、要害山の地形を最大限に活かした巧妙な城郭構造(縄張り)にある。本章では、その防御システムを詳細に分析する。
山吹城は、山頂に本丸(主郭)を置き、そこから南北に延びる尾根筋に沿って複数の曲輪(くるわ)を階段状に配置した、典型的な「連郭式」の山城である 3 。主郭は南北約52メートル、東西約33メートルの広さを持ち、北西隅には周囲を監視するための物見櫓台が一段高く設けられていた 3 。城全体の司令塔として機能していたと考えられる。
防御施設としては、尾根からの敵の侵攻を食い止める「堀切(ほりきり)」、斜面を人工的に削り出した崖である「切岸(きりぎし)」、城兵が身を隠しつつ攻撃するための土の壁「土塁(どるい)」、そして厳重に固められた出入り口「虎口(こぐち)」など、山城の基本的な防御要素が効果的に配置されていた 3 。
山吹城の防御思想を最も象徴するのが、城の南側斜面に構築された「畝状竪堀群(うねじょうたてぼりぐん)」である 3 。これは、斜面を垂直に下る空堀である竪堀と、その間の土塁を、まるで櫛の歯のように十数本以上も並べた特異な防御施設である 5 。
この構造の戦術的意図は、斜面を登ってくる敵兵の横移動を完全に封殺することにある 19 。敵兵は竪堀の底を一列になってまっすぐ登るしかなく、その無防備な状態を、城の上から弓矢や投石で効率的に攻撃できる。敵を分断し、各個撃破するための巧妙な「キルゾーン」であった 3 。この畝状竪堀群は、尼子氏の勢力圏の城郭にしばしば見られる特徴であり、城主であった本城常光が尼子方の武将であった時期に、その戦術思想に基づいて築かれた可能性が極めて高いと指摘されている 3 。毛利元就の軍勢を二度にわたり撃退した最大の要因の一つが、この先進的な防御施設にあったことは間違いない。
山吹城の遺構は、激しい争奪戦の歴史を物語るように、異なる時代の支配者の思想を反映している。
このように、山吹城には異なる時代、異なる城主によって築かれた防御施設が混在している。南側には戦闘(battle)を、北側には統治(governance)を目的とした構造が見られる。城そのものが、支配者の思想の変遷を刻み込んだ「生きた史料」なのである 3 。
戦乱の時代が終わりを告げると、山吹城はその軍事拠点としての役割を終え、新たな統治体制へとその役目を引き継いでいく。時代の要請の変化が、難攻不落の城を歴史の舞台から静かに退場させた。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにおいて、西軍の総大将であった毛利輝元は敗北。その結果、毛利氏は大幅に領地を削減され、国家財政の根幹をなす石見銀山は、徳川家康が率いる江戸幕府の直轄領(天領)となった 2 。
幕府は、徳川家康の腹心であり、鉱山開発に卓越した手腕を持つ大久保長安を初代の石見銀山奉行(後に代官)として派遣した 20 。長安は当初、山吹城に入り、城郭施設を改修して銀の精錬所である「吹屋(ふきや)」を設置したという記録が残っている 4 。これは、新体制への移行期における一時的な拠点として、既存の城の施設を再利用したものであろう。長安は奉行所による鉱山経営の直接管理や最新技術の導入といった積極的な政策を次々と打ち出し、銀の生産量を再び増大させ、江戸時代初期のシルバーラッシュをもたらした 20 。
しかし、山城である山吹城は、平時の行政・経済運営の拠点としては著しく非効率であった。大久保長安は着任の翌年には、山麓の平坦地である大森に本格的な奉行所(後の大森代官所)を設置し、統治の中心を完全に移した 4 。
もはや大規模な軍事的脅威が存在しない泰平の世においては、城の価値基準は「防御力」から「利便性・効率性」へと転換していた。日常的な統治や銀山経営には、麓の代官所の方がはるかに優れていたのである。その結果、山吹城はその歴史的役割を終え、1600年代前半には廃城となった 4 。山吹城の廃城は、時代のパラダイムシフトによって必然的にもたらされた、機能的陳腐化の結果であった。
なお、かつて城門の移築遺構と伝えられていた山麓の西本寺の山門は、その後の調査研究により、城とは無関係の江戸時代初期の建築であることが判明している 23 。
山吹城を巡る攻防は、単なる日本の地方的な紛争にとどまらなかった。この城が守り抜いた石見の銀は、16世紀の大航海時代における世界経済を動かす重要な要素の一つであった。本章では、視点を世界へと広げ、山吹城の歴史的意義を再評価する。
16世紀の世界は、大きな経済的変革期にあった。当時の中国(明)では、税制を銀で納めさせる「一条鞭法」への移行期にあり、国内で銀の需要が爆発的に増大していた 24 。一方、大航海時代を迎えたヨーロッパ諸国、特にポルトガルやスペインは、アジアとの交易で用いる決済手段として大量の銀を求めていた。
この世界的な銀需要に応えたのが、日本の銀であった。特に石見銀山で産出された高品質な銀は、ポルトガル商人らによる南蛮貿易を通じて、中国の生糸などと交換された 20 。この交易ルートによって、日本の銀は東アジア経済を潤し、さらにはヨーロッパの貿易活動を支える原動力の一部となった。16世紀後半には、世界で流通した銀の総量のうち、かなりの部分(一説には3分の1)を日本産出の銀が占め、その中心的存在が石見銀山であったと推測されている 7 。山吹城を巡る戦国大名たちの死闘は、結果としてこのグローバルな富の源泉の支配権を巡る争いであった。山吹城は、意図せずして世界経済の動向に深く関わる、極めて重要な場所だったのである。
こうした歴史的背景と、良好な遺跡の保存状態が評価され、2007年、「石見銀山遺跡とその文化的景観」はユネスコの世界遺産に登録された。山吹城跡は、銀生産に関わる遺跡群を包括する「銀山柵内」エリアの重要な構成資産として認定されている 4 。
世界遺産として特に評価された点は以下の通りである。
山吹城の歴史的意義は、戦国時代の軍事史にとどまらず、日本の前近代における資源管理と環境共生の思想、そして16世紀に始まったグローバル経済の形成史という、二つの大きな文脈の中に位置づけられるのである。
山吹城跡および山麓の下屋敷地区で実施された発掘調査では、当時の生活をうかがわせる遺物が出土している。唐津焼、志野焼、肥前磁器といった陶磁器類や、鉄釘、分銅などの金属製品が確認されている 28 。これらの出土品は、山吹城が単なる殺伐とした軍事拠点ではなく、銀山の富に支えられた一定の文化的豊かさを持つ生活空間でもあったことを示唆している 30 。
山吹城の創築から廃城に至るまでの歴史は、戦国という時代の本質を我々に雄弁に物語る。それは、理想や名誉だけでは動かない、極めて現実的な国家経営と生存競争の姿である。
山吹城を巡る約30年間の争奪戦は、石見銀山という巨大な経済的利益が、いかに熾烈な軍事衝突を引き起こすかを何よりも生々しく示している。戦国大名たちの行動原理の根底には、領国を富ませ、軍事力を維持するための財源確保という、極めて現実的な動機があった。資源を巡る争いが人間の歴史における普遍的なテーマであることを、山吹城の歴史は再認識させる。
最終的に石見銀山を完全に手中に収めた毛利元就の勝利は、単一の要因によるものではなかった。彼は、本城常光が守る山吹城の堅固な防御(城郭技術)と卓越した戦術の前に、二度も武力で敗れた。しかし、そこで力押しに固執することなく、外交と謀略という別の手段に活路を見出し、最終的な勝利を掴んだ。山吹城の歴史は、戦国時代の勝利が、武力、知力、政治力を総動員した結果もたらされる、複合的な事象であったことを教えてくれる。
廃城から400年以上の時を経た今、山吹城跡は、戦国武将たちの野望と戦略、そして名もなき兵士たちの攻防の痕跡を、その山肌に静かにとどめている。特に、南斜面を埋め尽くす畝状竪堀群や、北側に権威を示す石垣といった遺構は、文字史料だけではうかがい知ることのできない、当時の戦争のリアリティを我々に直接語りかけてくれる、他に代えがたい貴重な歴史遺産である。
山吹城の歴史を深く理解することは、戦国という時代のダイナミズム、そして資源を巡る人間の営みの本質を理解するための一助となるであろう。この城は、過去の遺物であると同時に、現代に生きる我々に多くの示唆を与え続けている。