平戸城は勝尾岳城、日の岳城、亀岡城の三つの歴史を持つ。松浦氏は国際貿易で栄え、日の岳城は自焼。亀岡城は山鹿流兵学で再建され、平戸の歴史を象徴する。
現在、長崎県平戸市の象徴として平戸瀬戸にその優美な姿を映す平戸城。一般的には、江戸時代中期、4代藩主松浦鎮信(まつらしげのぶ)の代に一国一城令の特例として築城が認められ、1718年(享保3年)に完成した「亀岡城」として知られている 1 。この認識は歴史的事実として正しい。しかし、それは平戸における城郭史の最終章に過ぎない。この泰平の世に築かれた城の影には、戦国時代の激動を生き抜き、国際貿易の富を背景に「西の都」とまで称された海洋領主・松浦氏の、より複雑でダイナミックな城郭の歴史が深く刻まれている。
本報告書は、「平戸城」を戦国時代という視点から徹底的に解明するものである。そのためには、単一の建造物としての「城」を追うのではなく、時代の要請に応じてその姿を変えていった一連の城郭群の歴史として捉え直す必要がある。具体的には、戦国期を通じて南蛮貿易の司令塔であった真の「戦国の城」たる 勝尾岳城(かつおだけじょう) 、天下統一の時代に松浦氏の威信をかけて築かれながらも悲劇的な運命を辿った近世城郭 日の岳城(ひのたけじょう) 、そして徳川の治世下で再建された**亀岡城(かめおかじょう)**という、三つの異なる城の興亡を辿る。
この変遷は、単なる建て替えの物語ではない。それは、松浦氏の政治的立場の変化、日本の対外政策の転換、そして「城」という存在意義そのものが軍事拠点から政治的シンボルへと変容していく、日本の近世国家形成史の縮図を、平戸という類稀な国際港を舞台に解き明かすための鍵となる。したがって、「平戸城」という呼称自体が、歴史の重層性を内包する多義的な言葉であり、その各層を丹念に紐解くことで、初めて戦国時代におけるその実像が明らかになるのである。
平戸城の歴史を理解する上で、その主である松浦氏の特異な成り立ちを把握することは不可欠である。彼らの権力基盤は、他の多くの戦国大名が依拠した広大な領地と米の収穫高(石高)ではなく、海を舞台とした卓越した航海術と武力、そして国際貿易の掌握による圧倒的な経済力にあった。
松浦氏の出自は、嵯峨源氏の末裔である源融(みなもとのとおる)に遡るとされ、平安時代末期にその子孫が肥前国松浦郡に土着し、在地領主として勢力を拡大したことに始まる 3 。彼らは単一の支配者ではなく、血縁と地縁で緩やかに結ばれた中小領主の連合体、すなわち「松浦党」と呼ばれる海の武士団を形成した 4 。鎌倉時代の元寇(蒙古襲来)においては、その水軍力を駆使して防衛の最前線で奮戦したが、戦後の恩賞は十分なものではなかった 7 。この経験は、彼らを中央政権に頼るのではなく、より一層、海を舞台とした独自の経済活動、すなわち交易や、時には倭寇としての活動へと駆り立てる要因となった可能性がある 5 。
松浦党の本拠地となった平戸は、古代より大陸との交通の要衝であった 10 。平戸瀬戸に面した港は、17世紀のオランダ人が「いかなる暴風も港内に影響を及ぼすことなし」と記したほどの天然の良港であり、遣唐使の時代から重要な寄港地としての役割を担ってきた 6 。中世には日明貿易の拠点となり、そして戦国時代には南蛮貿易の開港場として、日本の西の玄関口であり続けたその歴史的連続性こそが、平戸の最大の価値であった 6 。
室町時代に入ると、松浦党は現在の佐賀県唐津市周辺を拠点とする上松浦党と、平戸を中心とする下松浦党に大別され、内部抗争を繰り返した 4 。当初、下松浦党の中でも傍流であった平戸松浦氏は、平戸港がもたらす海外交易の利益を独占することで急速に力を蓄える 7 。そして、25代当主・松浦隆信(まつらたかのぶ)の時代、長きにわたり対立していた同族の相神浦(あいこうのうら)松浦氏を1563年(永禄6年)に従属させ、北松浦半島一帯の覇権を確立。ここに、一介の在地領主から戦国大名へと飛躍を遂げたのである 4 。
松浦氏の権力構造は、土地からの年貢に依存する「領地支配」ではなく、制海権と交易ルートの支配に基づく「海域支配」であった。その本質は、中世ヨーロッパのヴェネツィアやジェノヴァといった海洋都市国家のそれに酷似している。彼らにとって城とは、農民を支配するための拠点という以上に、港湾機能を管理・防衛し、国際交易を統括するための司令塔としての意味合いが強かった。この特異な成り立ちこそが、後の平戸の歴史を大きく規定していくことになる。
表1:平戸松浦氏の主要拠点と関連年表
年代 |
主要な出来事 |
平戸松浦氏の拠点 |
主要人物 |
来航勢力・関連人物 |
南北朝時代 |
勝尾岳城(白狐山城)築城 |
勝尾岳城 |
松浦勝 |
- |
1541年 |
松浦隆信、家督相続 |
勝尾岳城 |
松浦隆信 |
- |
1542年頃 |
王直、平戸に来住 |
勝尾岳城 |
松浦隆信 |
王直(五峯) |
1550年 |
ポルトガル船、初入港。ザビエル来訪 |
勝尾岳城 |
松浦隆信 |
ポルトガル、F・ザビエル |
1563年 |
相神浦松浦氏を従属させる |
勝尾岳城 |
松浦隆信 |
- |
1568年 |
松浦鎮信、家督相続 |
勝尾岳城 |
松浦鎮信(法印) |
- |
1587年 |
豊臣秀吉の九州平定、所領安堵 |
勝尾岳城 |
松浦鎮信(法印) |
豊臣秀吉 |
1599年 |
日の岳城、築城開始 |
日の岳城 |
松浦鎮信(法印) |
- |
1600年 |
関ヶ原の戦い |
日の岳城 |
松浦鎮信(法印) |
徳川家康 |
1609年 |
オランダ商館、平戸に設置 |
日の岳城 |
松浦鎮信(法印) |
オランダ |
1613年 |
日の岳城、焼失。イギリス商館設置 |
中の館(御館) |
松浦鎮信(法印) |
イギリス |
1641年 |
オランダ商館、長崎出島へ移転 |
中の館(御館) |
松浦隆信(宗陽) |
- |
1704年 |
亀岡城(平戸城)、再築開始 |
亀岡城 |
松浦棟 |
- |
1718年 |
亀岡城(平戸城)、完成 |
亀岡城 |
松浦篤信 |
- |
「戦国時代の平戸城」を問うとき、その答えは現在の天守が立つ亀岡山ではなく、平戸港の西手、鏡川町に位置する標高約68メートルの丘、勝尾岳に築かれた城塞を指す 14 。南北朝時代に築かれたとされるこの「勝尾岳城」(別名:白狐山城)こそが、松浦隆信の時代に南蛮貿易の拠点として平戸の黄金期を現出した、真の戦国期の城であった。
勝尾岳城は、平戸港全体を見渡し、港に出入りする船を完全に掌握できる絶好の立地に築かれた中世の山城である 14 。現在では松浦隆信の墓所がある正宗寺の背後にあたり、山頂部は平坦に削られているものの、明確な遺構は少ない 16 。しかし記録によれば、城の東西にはそれぞれ「肥前堀」「筑後堀」と呼ばれる空堀が存在し、防御を固めていたことが知られている 14 。この城は、単なる軍事拠点に留まらず、眼下に広がる城下町と港湾施設、そしてそこで繰り広げられる国際交易の全てを統括する司令塔であった。
勝尾岳城がその重要性を最大限に発揮したのは、松浦隆信が後期倭寇の頭目であり、同時に東アジア最大級の貿易商人でもあった王直(五峯)を平戸に招き入れたことに始まる 6 。隆信は王直に勝尾岳の東麓に広大な屋敷を与え、彼を庇護下に置くことで、その巨大な交易ネットワークを掌握した 6 。王直の仲介により、1550年(天文19年)、ポルトガル船が初めて平戸に入港 18 。これを契機に、平戸は南蛮貿易の一大拠点として空前の繁栄を遂げる。中国の絹織物や陶磁器、南蛮の珍陀(ちんだ)な品々が次々と陸揚げされ、それらを求める京や堺の豪商、諸国の人々で城下はごった返し、「西の都」と称されるほどの賑わいを見せたのである 6 。
松浦隆信の関心は、あくまで貿易がもたらす経済的利益にあった。そのため、ポルトガル船がもたらすもう一つのもの、すなわちキリスト教の布教に対しても寛容な姿勢を示した 17 。1550年、鹿児島から平戸を訪れたフランシスコ・ザビエルは隆信から布教の許可を得る 4 。ザビエルはわずか20日間ほどの滞在で、鹿児島での1年間の活動を上回る数の信者を獲得したとされ、平戸は日本におけるキリスト教布教の黎明期を飾る重要な拠点となった 22 。象徴的なのは、王直が明に捕らわれた後、その屋敷跡に平戸で最初の教会堂「天門寺」が建設されたことである 14 。これは、この時代の平戸において、交易と宗教がいかに表裏一体の関係にあったかを示している。
戦国期の平戸城下は、まさに多種多様な人々が交錯する坩堝であった。松浦氏という武士階級を頂点としながらも、その繁栄を実質的に支えていたのは、中国の海商王直、京や堺から富を求めて集まった商人たち、そして新たな信仰を携えたヨーロッパの宣教師たちであった 6 。仏教寺院の隣にキリスト教会が建てられ、武家の論理と商人の経済合理性がせめぎ合うこの空間は、既存の価値観が絶えず揺さぶられる、他に類を見ない「文化の実験場」としての様相を呈していた。領主・松浦隆信は、この混沌とした多様性を力で支配するのではなく、それぞれの活動を許容し、巧みに利害を調整することで、平戸全体の利益、すなわち貿易による富を最大化する、卓越した「経営者」としての手腕を発揮したのである。
時代が戦国乱世から天下統一へと大きく動く中で、松浦氏もまた新たな秩序への対応を迫られた。その象徴が、戦国期の拠点であった勝尾岳城に代わり、松浦氏の新たな権威を示すために計画された近世城郭「日の岳城」である。しかし、この壮麗な城は完成を目前にして、築城主自身の手によって焼き払われるという数奇な運命を辿ることになる。
1587年(天正15年)、豊臣秀吉による九州平定において、26代当主・松浦鎮信(法印、隆信の子)はいち早く秀吉に恭順の意を示し、所領を安堵された 4 。これにより戦国大名としての地位を確立した鎮信は、家臣団の再編と領国支配の強化、そして何よりも中央政権に対して松浦氏の威信を示すため、新たな城の築城を決意する 18 。慶長4年(1599年)、平戸港の入口を扼する戦略的要衝、亀岡山(当時の呼称は日の岳)において築城が開始された 1 。この場所の選定は、山上に籠る中世的な山城から、港と城下町を一体的に支配・防衛する近世城郭への移行を明確に示している。『壺陽録』によれば、この城は12年以上の歳月をかけて築かれたとされ、オランダの宣教師が残したスケッチには、ヨーロッパの城を彷彿とさせる壮麗な姿が描かれている 18 。
関ヶ原の戦い(1600年)では、嫡男・久信が独断で西軍に加担するという危機に直面するも、鎮信は東軍(徳川家康)への味方を貫き、本領を安堵された 5 。この時、家康への忠誠を示すために建設途中の城の一部を破却したという逸話は、来るべき悲劇の序章であった 24 。
そして慶長18年(1613年)8月、完成間近であった日の岳城は、鎮信自身が放った火によって一夜にして灰燼に帰した 7 。この不可解な行動の理由については、主に二つの説が伝えられている。
第一は、 政治的理由説 である。松浦氏は豊臣家との繋がりが深く、また海外貿易によって独自の経済力を持つ外様大名であったため、徳川幕府から常にその動向を警戒されていた 7 。大坂の陣を前に徳川と豊臣の緊張が極限まで高まる中、壮麗な城を完成させることは幕府への反意と受け取られかねない。そこで鎮信は、あえて城を焼き払うことで、徳川家への絶対的な恭順の意を示し、家名を守るための苦渋の決断を下したというものである 24 。
第二は、 個人的理由説 である。鎮信が家督を譲るはずだった最愛の嫡男・久信は、1602年(慶長7年)に父に先立って急逝していた 29 。『三光譜録』によれば、鎮信は「久信のために築いた城なのに」とその死を嘆き、生きる気力を失った末に、自らの手で城を破壊したとされている 24 。
この二つの説は、一見矛盾するように見えるが、むしろ表裏一体のものと捉えるべきであろう。久信の死から城の焼失までには11年もの歳月が流れており、単なる悲嘆による行動とは考えにくい 29 。1613年という時期は、政治的に極めて切迫した状況にあった。日の岳城の焼失は、戦国的な武力と城による威信の誇示という価値観の終焉と、徳川の秩序への絶対服従という新たな価値観の確立を象徴する、一種の儀式であった。鎮信は、嗣子を失ったという個人的な悲劇を、幕藩体制の中で松浦家が生き残るための、計算された政治的パフォーマンスとして昇華させた。それは、戦国の世を生き抜いた老練な武将の、最後の知略であったのかもしれない。
日の岳城の焼失後、平戸藩は新たな城を築くことなく、約100年間にわたる「城なき時代」を迎える。この間、松浦氏は物理的な城郭という権威の象徴を失いながらも、巧みな統治によって藩政を維持し、そして時代の大きな変化に対応していった。
日の岳城を失った松浦氏は、平戸港を挟んだ対岸の地、現在の松浦史料博物館がある場所に「中の館(御館)」と呼ばれる居館を構え、藩の政庁とした 18 。軍事的な防御機能を持つ「城」ではなく、行政機能に特化した「館」を藩庁としたことは、松浦氏がもはや独立した軍事勢力ではなく、徳川幕府の統治機構に組み込まれた一地方行政単位であることを内外に示すものであった。
興味深いことに、城を失った後も平戸の国際貿易は活況を呈した。1609年(慶長14年)にはオランダ商館が、1613年(慶長18年)にはイギリス商館が相次いで設置され、平戸はヨーロッパ諸国との貿易拠点として最盛期を迎える 33 。しかし、この繁栄は長くは続かなかった。幕府の鎖国政策が段階的に強化される中、1641年(寛永18年)、平戸オランダ商館は長崎の出島へ強制的に移転させられる 5 。これにより、平戸は中世以来の国際貿易港としての地位を完全に喪失し、藩の経済は深刻な打撃を受けた。
日の岳城という軍事力の象徴と、オランダ貿易という経済的基盤を相次いで失ったことは、平戸藩にとって存亡の危機であった。この危機に対し、4代藩主・松浦重信(しげのぶ、法号:天祥)は、藩政の抜本的な改革に着手する 5 。彼は農業や漁業といった国内産業の振興に力を注ぎ、藩の経済基盤を交易依存から内需主導へと転換させようと試みた。
同時に、重信(天祥)は文化的な権威の確立にも心血を注いだ。彼は茶道に深く傾倒し、片桐石州を基本としながら他流の長所を取り入れ、武家茶道「鎮信流」を創始した 18 。これは、失われた軍事的・経済的権威を、文化的な権威によって補い、藩の求心力を維持しようとする高度な統治戦略であった。この「城なき百年」は、松浦氏にとって単なる雌伏の時代ではなかった。それは、藩の体制を「軍事・交易国家」から、幕藩体制に適合した「内政・官僚国家」へと能動的に変革させる、極めて重要な「構造改革期」だったのである。
約一世紀にわたる城なき時代を経て、平戸に再び城が築かれることになる。しかし、それは戦国時代の城の復活ではなかった。江戸時代中期という泰平の世に再建された「亀岡城」は、徳川幕府の秩序の中に完全に組み込まれた、新たな時代の城郭であった。
元禄15年(1702年)、4代藩主・松浦重信(天祥)は幕府に平戸城の再築城を願い出る。武家諸法度により新規築城が厳しく制限されていた時代にあって、これは異例のことであった。しかし翌年、5代将軍・徳川綱吉によって築城は正式に許可される 18 。この背景には、二つの大きな理由があった。
第一に、 幕府との良好な関係 である。重信の子である5代藩主・松浦棟(たかし)は綱吉に重用され、外様大名としては極めて異例の寺社奉行に任命されていた 7 。また、松浦家は徳川家と姻戚関係を結ぶなど、幕閣との間に強いパイプを築いていた 24 。
第二に、 国防上の必要性 である。鎖国体制を維持する幕府にとって、東シナ海に面した平戸は、外国船の監視や沿岸警備を行う上で極めて重要な拠点であった 24 。平戸城の再建は、松浦氏一藩のためだけでなく、幕府の国家的な安全保障政策の一環として位置づけられていたのである。
再建される城の設計(縄張り)には、4代藩主・重信(天祥)が深く傾倒した儒学者・軍学者である山鹿素行の兵学思想が全面的に採用された 1 。これにより、平戸城は赤穂城(平城)と並び、平山城としては唯一の山鹿流軍学に基づく城郭という、際立った特徴を持つことになった 42 。山鹿流の縄張りは、実戦での防御を重視しており、特に城の出入り口である虎口(こぐち)を複雑に屈折させ、敵の侵入を阻む工夫や、城壁から側面攻撃を仕掛けるための枡形(ますがた)の多用などにその特徴が見られる 42 。
1704年(元禄17年)に着工し、1718年(享保3年)に完成した亀岡城は、戦国時代の城とは決定的に異なる点があった。それは、権威の象徴である天守が意図的に建てられなかったことである 24 。代わりに、二の丸に建てられた三重三階の乾櫓(いぬいやぐら)がその代用とされた 24 。これは、幕府への恭順の意を示すための配慮であり、この城が個人の武威を誇示するためのものではなく、あくまで幕府の秩序の一部としての役割を担うものであることを象徴していた。
現在の平戸城天守は、昭和37年(1962年)に市民の熱意によって復元された模擬天守であり、史実とは異なるものである 3 。しかし、城内に現存する狸櫓(たぬきやぐら)と北虎口門(きたこぐちもん)は、江戸時代から残る貴重な遺構であり、山鹿流築城術の面影を今に伝えている 24 。亀岡城の築城は、松浦氏が「戦国大名」としての過去と完全に決別し、「徳川幕府の忠実な藩主」として西の海防を担うという新たなアイデンティティを確立したことを内外に示す、壮大な国家的事業だったのである。
表2:平戸における三つの主要城郭の比較
項目 |
勝尾岳城(白狐山城) |
日の岳城 |
亀岡城(現・平戸城) |
築城時期 |
南北朝時代~戦国時代 |
1599年(慶長4年)~ |
1704年(元禄17年)~1718年(享保3年) |
築城主 |
松浦勝、松浦隆信(改修) |
松浦鎮信(法印) |
松浦棟 |
立地 |
丘陵(標高約68m) |
丘陵(亀岡山) |
丘陵(亀岡山、日の岳城跡) |
城郭構造 |
中世山城 |
近世平山城 |
近世平山城 |
縄張りの特徴 |
不明(空堀の存在) |
不明(壮麗な近世城郭) |
山鹿流軍学 (複雑な虎口、枡形) |
主な役割 |
国際交易の司令塔 |
天下統一期における権威の象徴 |
藩庁機能、幕府の海防拠点 |
結末 |
日の岳城築城に伴い廃城 |
1613年(慶長18年)、 自焼 |
1871年(明治4年)、廃城 |
日本の戦国時代という視点から「平戸城」を紐解く試みは、我々を単一の城の歴史ではなく、一つの土地に刻まれた重層的な記憶へと導く。平戸に存在した三つの主要な城郭は、それぞれが時代の精神を色濃く反映し、日本の歴史が大きく転換する様を雄弁に物語っている。
勝尾岳城 が象徴するのは、後期倭寇、中国商人、ヨーロッパの宣教師が入り乱れる、自由闊達で混沌とした「大航海時代の平戸」である。そこでは、経済的利益が何よりも優先され、異文化の衝突と融合が新たな活力を生み出していた。
日の岳城 の栄光と悲劇が象徴するのは、天下統一と中央集権化という巨大な奔流に、地方の独立勢力が飲み込まれていく「過渡期の平戸」である。その壮麗な姿は戦国大名としての最後の矜持を示し、自らの手による焼失は徳川の秩序への完全な帰属を意味した。
そして、城を失った後の**「中の館」**の時代が象徴するのは、国際性を剥奪され、内向的な統治へと転換を迫られた「鎖国体制下の平戸」である。交易の富に代わり、内政と文化によって藩のアイデンティティを再構築しようとする苦闘の時代であった。
最後に、 亀岡城 の再建が象徴するのは、幕藩体制の中に完全に組み込まれ、西の海の守りという新たな国家的役割を与えられた「泰平の世の平戸」である。山鹿流兵学という理論に裏打ちされたその姿は、もはや戦のためではなく、秩序を維持するための城であった。
これらの城郭の変遷は、平戸がいかに時代の波に翻弄され、そしてその度に巧みに自己を変革し、生き抜いてきたかの証左である。今日、私たちが平戸城の天守から眺める穏やかな港と異国情緒あふれる街並みは、こうした幾重にも折り重なった歴史の記憶の上に成り立っている。戦国の熱気、統一の痛み、そして泰平の秩序。そのすべてが、平戸という土地には今なお息づいているのである。