最終更新日 2025-08-23

引田城

播磨灘の要衝、引田城 ― 戦国期四国の動乱を体現する織豊系海城の徹底研究

序章:引田城 ― 中世から近世への転換を刻む城

香川県の東端、播磨灘に鋭く突き出した岬の上に、引田城はその歴史を刻んでいる。この城は、単に一地方に存在した城郭という枠に収まらない。戦国時代末期から安土桃山時代にかけての、日本の政治、軍事、そして築城技術における劇的な変革を凝縮した、いわば「生きた史料」としての価値を有している。本報告書は、この引田城が持つ多層的な歴史的意義を、あらゆる角度から徹底的に分析し、その全貌を明らかにすることを目的とする。

引田城の特異性は、まずその地理的優位性にある。古来より瀬戸内海航路の「風待ち、潮待ちの港」として栄えた引田港を眼下に収めるこの地は、海上交通の結節点であり、軍事・経済の両面で計り知れない戦略的価値を持っていた 1 。この立地こそが、引田城が歴史の渦の中心に幾度となく引き寄せられた根源的な理由である。さらに、引田城の歴史は、在地領主が防衛のために築いた土塁中心の「土の城」から、豊臣政権の権威と先進技術の象徴である総石垣の「石の城」へと劇的な変貌を遂げた過程そのものである 2 。この物理的な変化は、中世的な地方分権の時代が終わり、中央集権的な近世社会へと移行していく日本の大きな歴史的転換点を、城郭という媒体を通じて如実に物語っている。

本報告書では、まず黎明期における讃岐国人の拠点としての姿を明らかにし、次いで三好、長宗我部、織田・豊臣といった巨大勢力が激突した動乱の時代、特に天下の趨勢と密接に連動した「引田の戦い」の真相に迫る。さらに、仙石秀久、そして生駒親正による織豊系城郭への大改修の実態を、残された石垣や発掘調査の成果から技術的に分析する。この城郭構造の解剖を通じて、単なる防御施設ではない、権威の象徴としての城の機能変遷を読み解く。最後に、一国一城令による廃城から、現代における国史跡としての再評価に至るまでの軌跡を追い、引田城が戦国史、ひいては日本史全体に投げかける問いを考察する。引田城の石垣の一つ一つ、曲輪の一区画一区画に刻まれた歴史の声を拾い上げ、その複合的な価値を多角的に論証していく。

第一章:引田城の黎明期 ― 讃岐国人の拠点として

引田城の歴史を理解するためには、まずその前史、すなわち在地勢力による支配の時代に遡る必要がある。織豊政権による大改修以前の引田城は、中央の政治動向とは比較的独立した、讃岐東部を治める国人領主の地域支配の拠点であった。その姿は、後の壮麗な石垣の城とは異なり、防衛機能に特化した中世的な「土の城」であったと推定される。

第一節:築城前史 ― 引田という土地の重要性

引田城が築かれた地は、城が存在する以前から、瀬戸内海交通における枢要な位置を占めていた。引田港は天然の良港であり、古くから播磨灘を航行する船が天候の回復や潮の流れを待つ「風待ち、潮待ちの港」として機能していた 1 。畿内と西国、そして四国を結ぶ海上交通路の結節点に位置することから、人、物資、情報が絶えず行き交う経済的・戦略的な要衝であった。この地理的特性が、やがてこの地に軍事拠点が置かれる必然性を生み出したのである。港を直接見下ろし、播磨灘を一望できる城山の立地は、海上交通網を監視し、支配下に置く上で、まさに理想的な場所であった 4

第二節:室町時代の讃岐と寒川氏の勢力

引田城が歴史の表舞台に登場するのは室町時代である。応仁元年(1467年)、在地領主である国人・寒川氏が引田を所領とした記録が残っている 4 。寒川氏は、現在のさぬき市を中心とする大内郡・寒川郡に加え、小豆島をも領有し、昼寝城や虎丸城などを拠点として東讃岐に大きな勢力を誇った有力な一族であった 6 。引田城の具体的な築城年は不明であるが、この寒川氏によって、東讃岐支配と引田港掌握のための拠点として築かれた可能性が極めて高いと考えられている 8

第三節:四宮右近の居城としての引田城 ― 土の城の時代

より具体的な城主として名が挙がるのが、永正年間(1504年~1521年)に信濃国から来住し、寒川氏の家臣となった四宮右近である 4 。彼が居城としたこの時代の引田城は、まだ石垣を持たず、自然地形を活かした土塁や堀切、削平地(曲輪)を主たる防御施設とする、典型的な中世山城であったと推定される。

その痕跡は、現在の引田城跡にも見て取ることができる。城内の他の主要な曲輪が壮麗な石垣で囲まれているのに対し、北西部に位置する「北曲輪」には石垣が築かれていない 2 。この区画こそ、後の生駒氏による大改修の手が及ばなかった、あるいは意図的に残された、寒川・四宮氏時代の「土の城」の遺構である可能性が指摘されている 2 。この時代の城は、支配者の権威を見せつけるというよりも、純粋に軍事的な防御機能に特化した、実用本位の砦であった。北曲輪の存在は、引田城が単一の思想で設計されたのではなく、異なる時代、異なる築城主によって段階的に拡張・改修されてきた「積層的な城郭」であることを示す、物理的な証拠と言える。それは、城そのものに刻まれた「成長の痕跡」なのである。


表1:引田城 関連年表

西暦(和暦)

主要な出来事

関連する城主・武将

備考(関連する国内の大きな出来事など)

典拠

1467年(応仁元年)

国人・寒川氏が引田を所領とする。

寒川氏

応仁の乱が勃発。戦国時代の始まり。

4

1504-1521年(永正年間)

信濃より来た四宮右近が寒川氏に属し、引田城を居城とする。

四宮右近

4

1570年(元亀元年)

阿波三好氏の侵攻により、寒川氏は城を明け渡す。

矢野駿河守(三好氏家臣)

織田信長と三好三人衆の対立が激化。

9

1577年(天正5年)

矢野駿河守が阿波へ引き揚げ、城主不在となる。

(不在)

織田信長の勢力拡大により三好氏が衰退。

4

1582年(天正10年)

土佐の長宗我部元親による讃岐侵攻が本格化。

長宗我部元親

本能寺の変。織田信長が死去。

4

1583年(天正11年)4月

羽柴秀吉の命で仙石秀久が入城。「引田の戦い」で長宗我部軍に敗北し敗走。

仙石秀久、長宗我部元親

同日、賤ヶ岳の戦いで秀吉が柴田勝家に勝利。

11

1585年(天正13年)

秀吉による四国平定後、仙石秀久が再び入城。

仙石秀久

豊臣秀吉、関白に就任。

9

1587年(天正15年)

生駒親正が讃岐一国を与えられ入城。織豊系城郭への大改修を開始。

生駒親正

九州平定。豊臣政権の支配が確立。

5

同年

生駒親正、拠点を聖通寺城(宇多津)へ移す。引田城は東讃の支城となる。

生駒親正

11

1615年(元和元年)

一国一城令により廃城となる。

大坂夏の陣。豊臣氏が滅亡。

11

2017年(平成29年)4月6日

「続日本100名城」(177番)に選定される。

11

2020年(令和2年)3月10日

国の史跡に指定される。

11


第二章:戦国の動乱と引田城 ― 三好、長宗我部、そして織田の影

室町後期の比較的平穏な時代が過ぎ去ると、引田城は四国全土を巻き込む戦乱の渦へと投げ込まれる。阿波の三好氏、土佐の長宗我部氏、そして中央の織田・豊臣政権という、当時の日本を動かした巨大勢力の思惑がこの地で交錯し、引田城は讃岐東部の軍事拠点として、その戦略的重要性を最大限に発揮することになる。特に、天正11年(1583年)の「引田の戦い」は、この城の歴史におけるクライマックスであり、同時に天下の趨勢を決定づけた中央の政争と密接に連動した、極めて重要な合戦であった。

第一節:阿波三好氏の進出と城主の変遷

戦国中期、畿内において強大な権勢を誇った阿波の三好氏は、その勢力を隣国の讃岐へも伸ばしてきた。元亀元年(1570年)、三好氏の侵攻を受け、長らくこの地を治めてきた寒川氏は引田城を明け渡さざるを得なくなった 9 。城主には三好氏の家臣である矢野駿河守が就いたが、その支配も長くは続かなかった。天正5年(1577年)、中央で織田信長の勢力が伸長し、三好氏の力が衰退すると、矢野氏は本国の阿波へと引き揚げ、引田城は一時的に城主不在の状態に陥った 4 。この権力の空白は、四国情勢の流動化を象徴するものであり、次なる覇者、土佐の長宗我部元親の進出を招く要因となった。

第二節:引田の戦い(天正11年/1583年) ― 四国制覇を目論む長宗我部元親と羽柴秀吉の代理戦争

背景:本能寺の変後の四国情勢と賤ヶ岳の戦い

天正10年(1582年)6月、本能寺の変によって織田信長が非業の死を遂げると、日本の政治情勢は一変する。この事件は、信長の圧力下で四国統一を目前にしながらも停滞を余儀なくされていた長宗我部元親にとって、千載一遇の好機であった。元親はこれを機に、阿波・讃岐に残存する旧三好勢力の一掃を本格化させ、四国全土の完全掌握を目指した 12

一方、中央では信長の後継者の座を巡り、羽柴秀吉と筆頭家老の柴田勝家との対立が先鋭化していた。この織田家内の覇権争いにおいて、元親は勝家と連携し、秀吉と敵対する道を選択する 18 。讃岐の国人・十河存保は、元親の猛攻に耐えかねて秀吉に救援を要請。これに応える形で、秀吉は自らが柴田勝家と対峙する主戦線から兵力を割き、配下の猛将・仙石秀久を淡路国洲本から讃岐へと派遣した 5 。こうして引田の地は、秀吉と勝家の代理戦争、そして元親の四国統一の野望がぶつかり合う、熾烈な戦場と化したのである。

この戦いは、単なる四国内の領土紛争ではなかった。それは、秀吉の天下統一事業における、極めて重要な「第二戦線」としての意味合いを持っていた。元親の讃岐侵攻は、同盟者である柴田勝家を側面支援するための明確な戦略行動であり、秀吉軍の兵力を四国に引きつけ、賤ヶ岳の主戦線への集中を妨害する意図があった。元親は、秀吉と勝家が雌雄を決するであろう決戦のタイミングに合わせ、讃岐で軍事行動を起こすことで、秀吉を東西から挟撃する構図を作り出そうとしたのである。

両軍の戦略と戦闘経過

天正11年(1583年)4月、両軍は引田周辺で対峙した。

  • 仙石軍(秀吉方): 兵力は約2,000と、長宗我部軍に比べて劣勢であった 12 。仙石秀久は、海路を用いて引田港に直接上陸し、引田城を拠点とすることで、陸路を進む長宗我部軍の側面を突く戦略をとった。当初、秀久は伏兵を巧みに配置し、進軍してきた長宗我部軍の先遣隊に奇襲を仕掛け、一時的に戦いの主導権を握ることに成功した 13
  • 長宗我部軍: 兵力は阿讃勢のみで約5,000、土佐本隊を加えればそれを上回る圧倒的な兵力を有していた 12 。仙石軍の奇襲によって先遣隊が混乱に陥ったとの報を受けると、元親は即座に桑名太郎左衛門ら重臣を援軍として派遣。数的優位を活かして態勢を立て直し、猛烈な反撃に転じた。これにより形成は逆転し、仙石軍は総崩れとなった 13

戦いの帰結と歴史的影響

戦闘の結果は、長宗我部軍の圧勝に終わった。仙石軍は仙石勘解由や殿(しんがり)を務めた森権平といった将を討ち取られ、さらには軍の象徴である幟(のぼり)を奪われるという屈辱的な敗北を喫した 5 。総崩れとなった仙石秀久は、命からがら引田城から海上へ脱出し、小豆島へと敗走した。翌日、長宗我部軍は引田城を包囲・攻撃し、戦意を喪失した仙石方の残兵が退却したことで、城は元親の手に落ちた 18

元親は戦術的には完勝を収めた。しかし、この勝利が戦略的な意味を持つことはなかった。なぜなら、奇しくもこの引田で合戦が繰り広げられた同日、天正11年4月21日、遠く近江国の賤ヶ岳では、羽柴秀吉が柴田勝家に決定的な勝利を収めていたからである 12 。主戦場での勝家の敗北と自害により、元親は最も頼りとしていた同盟者を失った。引田での局地的な勝利は、天下分け目の大戦における秀吉の勝利という巨大な戦略的現実の前に、その価値を完全に失ってしまったのである。この事実は、戦国末期の合戦が、もはや一地方の動向だけでは完結せず、いかに広域的かつ中央政局と密接に連動していたかを雄弁に物語っている。引田城は、まさしく天下の趨勢を左右する、歴史の転換点の重要な舞台装置だったのである。

第三章:織豊系城郭への大改修 ― 仙石秀久と生駒親正の時代

「引田の戦い」を経て、引田城は新たな時代を迎える。豊臣秀吉による天下統一事業が進行する中で、この城は在地領主の拠点という性格を脱し、中央政権の四国支配を担う先進的な城郭へと生まれ変わった。この変革を主導したのは、仙石秀久と生駒親正という二人の豊臣系大名である。彼らによって、土塁と空堀で構成された中世の「土の城」は、壮麗な石垣と瓦葺きの建物を備えた近世の「石の城」へと、その姿を劇的に変貌させた。

第一節:仙石秀久の入城と初期改修の可能性

天正13年(1585年)、秀吉自らが率いる大軍による四国征伐が行われ、長宗我部元親は降伏。四国は豊臣政権の支配下に入った。この戦功により、仙石秀久は讃岐一国を与えられ、かつて敗走した因縁の地、引田城に再び入城した 9

秀久は、讃岐入封以前に淡路国・洲本城の城主を務めており、そこでは石垣を持つ近世城郭への改修が行われていた 20 。この経験から、秀久が引田城においても石垣を用いた改修に着手した可能性は十分に考えられる。特に、現在の引田城跡の本丸に残る石垣は、隅部の積み方が古式であり、城内で最初に築かれたものとされている 2 。この石垣が、仙石秀久による初期的な改修の痕跡であるという見方も成り立つ。ただし、秀久の讃岐在封期間は短く、その後の戸次川の戦いでの失態により改易されたため 16 、引田城の本格的な織豊系城郭化は、次代の城主である生駒親正の手に委ねられることとなる。

第二節:生駒親正による本格的石垣城郭化 ― 讃岐支配の拠点として

天正15年(1587年)、九州平定を終えた豊臣秀吉は四国の国分けを新たに行い、腹心の将である生駒親正に讃岐一国を与えた。親正は播磨国・赤穂から海を渡り、引田城に入城した 4 。ここから、引田城史上最大の大改修が始まる。

生駒親正は、在地領主が築いた土の城を、全く新しい思想の下で造り変えた。それは、織田信長の安土城築城に始まり、豊臣政権下で全国に広まった「織豊系城郭」と呼ばれる、石垣を多用し、礎石の上に瓦葺きの恒久的な建物を建てるという、最新の築城技術であった 2 。引田城は、讃岐国において初めての総石垣の城として生まれ変わったのである 23 。この大事業は、単なる防御施設の強化に留まらず、豊臣政権の絶大な権威と、その代理人である生駒氏の支配者としての力を、讃岐の国人や民衆に視覚的に示すという、極めて政治的な意味合いを持つものであった。

この大規模な改修は、文献史料だけでなく、考古学的調査によっても裏付けられている。平成16年度から25年度にかけて行われた発掘調査では、城内の各曲輪から建物の礎石や大量の瓦が出土しており、かつてこの地に壮麗な瓦葺きの御殿や櫓が建ち並んでいたことが科学的に証明された 3 。生駒親正は、引田城を名実ともに近世城郭へと昇華させたのである。

第三節:讃岐統治拠点の移動 ― なぜ引田城から高松城へ移ったのか

しかし、これほどの大改修を施したにもかかわらず、生駒親正は引田城を長く本拠とすることはなかった。入城から「ほどなくして」、親正は讃岐国の中央部に位置する聖通寺城(現在の宇多津町)を経て、新たに築城した高松城へと拠点を移してしまう 5

この拠点移動の最大の理由は、引田城の地理的な位置にあった。引田城は讃岐国の東端に位置しており、阿波国との国境防衛や、畿内との海上交通路を抑える上では最適の地であったが、讃岐一国全体を統治・支配する行政の中心地としては、あまりにも東に偏りすぎていたのである 11 。戦乱が終息に向かい、大名に求められる役割が軍事指揮官から領国経営者へとシフトしていく中で、城の機能もまた、国境を守る「軍事拠点」から、領国全体の経済・行政を掌握する「統治拠点(首府)」へと変化する必要があった。

この時代の要請を的確に理解していた生駒親正は、領国の中央部に位置し、広大な平野と港を持つ高松の地に、新たな統治拠点として高松城を築城した。そして、引田城は東讃の支城、新たに築いた丸亀城は西讃の支城、そして高松城を本城とする「讃岐三城体制」を確立し、効率的な領国支配体制を構築した 14 。引田城は、阿波方面への備えという重要な軍事的役割を担い続けたが、讃岐国の政治の中心としての地位を高松城に譲ることになった。この一連の動きは、豊臣政権下で確立されていく、近世的な領国支配体制のあり方を象徴する出来事であった。引田城は「戦の城」として完成度を高められたが、時代はすでに、城下町の繁栄を伴う「治世の城」を求めていたのである。


表2:生駒氏による讃岐三城(引田・高松・丸亀)の比較

項目

引田城

高松城(本城)

丸亀城

城郭名

引田城

高松城

丸亀城

所在地

讃岐国東端(東かがわ市)

讃岐国中央部(高松市)

讃岐国西部(丸亀市)

主な役割・機能

東讃の支城 ・対阿波国の軍事拠点 ・畿内航路の監視・掌握

讃岐国の本城 ・領国全体の統治拠点(政庁) ・城下町を伴う経済・流通の中心

西讃の支城 ・対伊予国の軍事拠点 ・西讃地域の支配拠点

城郭の形態

平山城、海城

平城、日本三大水城

平山城

主要な遺構・特徴

・自然地形を利用したU字型の縄張り ・野面積みの高石垣(特に北二の丸) ・織豊系城郭への改修痕跡が明瞭

・海水を引き込んだ三重の堀 ・舟入(港湾機能)を持つ ・月見櫓、水手御門が現存

・「扇の勾配」と呼ばれる優美な高石垣 ・現存12天守の一つである三重三階の天守

典拠

2

14

14


第四章:城郭構造の徹底解剖 ― 縄張りと石垣技術に見る引田城の神髄

引田城の真価は、その複雑な歴史だけでなく、今なお残る城郭遺構そのものにある。特に、生駒親正によって施された大改修は、戦国末期の最新築城技術の粋を集めたものであり、その縄張り(城の設計)と石垣には、築城主の明確な意図と時代の思想が色濃く反映されている。引田城の構造を詳細に分析することは、織豊系城郭の地方への伝播と、その中で城が担った軍事的・政治的役割を理解する上で不可欠である。

第一節:U字型に展開する曲輪配置とその機能(縄張り)

引田城の縄張りは、標高82メートルの城山の自然地形を最大限に活用している点に最大の特徴がある。引田港を囲むように突き出た岬の尾根を利用し、中央の谷を挟んでU字型(馬蹄形)に主要な曲輪を配置するという、極めて合理的かつ堅固な設計がなされている 2

  • 本丸: U字型の南側の尾根、引田の町と港を最も効果的に見下ろせる位置に築かれている。ここは城の心臓部であり、権威の象徴である天守、あるいはそれに準ずる中心的な建物が置かれたと推定される 5 。支配者が常に領地と領民を監視下に置いていることを示す、政治的な意味合いの強い配置である。
  • 二の丸(北二の丸・南二の丸): 城の正面玄関である大手門を挟んで、U字型の両翼を固めるように配置されている。ここは城主の居館である御殿など、居住空間や政務空間として機能したと考えられている。特に北二の丸では発掘調査により建物跡の礎石や多数の瓦が発見されており、大規模な殿舎が存在したことが確実視されている 2
  • 東の丸: U字型の北東端、岬の先端部に位置する広大な曲輪。上・中・下の三段で構成されており、その規模は本丸に匹敵する 28 。その位置と構造から、火薬や武具を保管した煙硝蔵(えんしょうぐら)や兵糧蔵など、兵站を担う重要な軍事施設が置かれていたと推定されている 2
  • 付属施設: これらの主要な曲輪群を支える施設も巧みに配置されている。本丸南側の尾根には、敵の来襲をいち早く知らせるための 狼煙台 が設けられていた 22 。また、山城の弱点である水の確保のために、中央の谷には
    化粧池 と呼ばれる人工の貯水池が築かれ、貴重な水源となっていた 2

第二節:石垣に刻まれた歴史 ― 野面積みから高度な間詰技術まで

引田城の石垣は、単なる防御壁ではない。それは、築城技術の変遷と、築城主の意図を物語る「石で書かれた歴史書」である。城内には、異なる時代の技術で積まれた石垣が混在しており、その比較分析から多くのことが読み取れる。

  • 本丸の石垣: 城内で最も古い様式を持つとされる石垣である。自然石をあまり加工せずに積み上げる「野面積み」を基調とし、特に石垣の角(隅部)の積み方に特徴がある。長方形の石を交互に積む「算木積み」が未発達な段階であり、隅部に隙間が多く、そこを小さな石(間詰め石)で埋めるという、やや古風な技法が見られる 2 。これは、仙石秀久の時代、あるいは生駒氏による改修の初期段階に、急ごしらえで拠点化を進めた際のものである可能性が高い。
  • 北二の丸の高石垣: 引田城最大の見どころであり、生駒氏による本格改修期の技術の到達点を示す。大手道から城内に入ると、まずこの石垣が訪問者を圧倒する。上段(高さ2~3メートル)と下段(高さ5~6メートル)の二段構成となっており、合計で10メートル近い高さを誇る 2 。特に下段の石垣は、大きな石材が巧みに組み合わされ、その隙間には間詰め石が極めて丁寧に、かつ密に詰め込まれており、本丸の石垣とは比較にならないほどの技術的進歩が見て取れる 2

この本丸と北二の丸の石垣の明確な技術差は、引田城内で短期間のうちに築城技術が急速に発展したことを示している。これは、安土城に始まる織豊政権の先進的な築城技術が、いかに素早く地方の拠点城郭へ伝播し、定着・発展していったかを示す貴重な実物資料である。

さらに重要なのは、これらの石垣が持つ政治的な意味合いである。特に壮麗な北二の丸の高石垣は、大手道を進む登城者に対して最も効果的にその威容を見せつける位置に築かれている。これは、単なる軍事的な防御力以上に、見る者を心理的に圧倒し、新たな支配者である生駒氏の権威と財力を視覚的に誇示するための、「見せる石垣」としての意図が明確に込められた設計である。石垣の積み方一つ、配置一つに、戦国末期の城郭が担った複合的な役割が凝縮されているのである。

第五章:近世から現代へ ― 廃城、そして国史跡としての再評価

生駒親正による大改修によって、織豊系城郭として完成の域に達した引田城であったが、その栄華は長くは続かなかった。時代の大きな流れ、すなわち徳川幕府による全国統治体制の確立は、引田城のような支城の存在意義を根本から覆すものであった。廃城後、長く忘れ去られていた城は、近現代に至ってその歴史的価値が再発見され、今では地域の貴重な文化遺産として新たな役割を担っている。

第一節:一国一城令と廃城後の引田城

慶長20年(元和元年、1615年)、大坂夏の陣で豊臣氏を滅ぼし、名実ともに天下の支配者となった徳川家康は、全国の大名に対して「一国一城令」を発布した。これは、一国(一藩)につき居城は一つとし、それ以外の城はすべて破却することを命じた法令であり、地方勢力の軍事力を削ぎ、幕府への反乱を防ぐことを目的としていた。この法令により、讃岐国では生駒氏の本城である高松城のみが残され、東讃の支城であった引田城は、西讃の丸亀城とともに廃城の運命を辿った 9

城としての役目を終えた引田城は、その後、歴史の表舞台から姿を消す。しかし、城跡が完全に放棄されたわけではなかった。寛永20年(1643年)には、高松藩の初代藩主となった松平頼重(水戸光圀の兄)が、城山で鹿狩りを行ったという記録が残っている 4 。また、幕末の文久3年(1863年)には、外国船の来航に備えるため、海を見渡せる城山に警鐘を鳴らすための鐘つき堂が設けられるなど、その戦略的な立地は時代に応じて利用され続けていた 4

第二節:発掘調査が語るものと史跡としての保存・活用

明治以降、城山は公園として整備され、人々の憩いの場となったが 5 、その学術的な価値が本格的に注目されるのは20世紀後半以降のことである。特に、平成16年(2004年)から平成25年(2013年)にかけて、東かがわ市教育委員会によって実施された継続的な発掘調査は、引田城の歴史を解明する上で決定的な成果をもたらした 3

この調査により、城内の各所から多量の瓦や建物の礎石が発見され、文献史料にあった「瓦葺きの礎石建物」が実際に存在したことが考古学的に裏付けられた 4 。これにより、生駒氏による織豊系城郭への改修の実態が具体的に明らかとなり、引田城が持つ学術的価値は飛躍的に高まった。

こうした学術的成果と、良好に残る石垣遺構が評価され、引田城は現代において再び脚光を浴びることとなる。2000年(平成12年)にまず市の史跡に指定され 11 、2017年(平成29年)には公益財団法人日本城郭協会によって「続日本100名城」に選定された 11 。そして、その価値が全国的に認められる決定打となったのが、2020年(令和2年)3月10日の国の史跡への指定である。これは東かがわ市にとって初となる国指定史跡であり、引田城が地域だけでなく、日本の歴史を語る上で重要な遺産であることが公に認定された瞬間であった 1

現在、引田城跡は遊歩道が整備され、歴史ファンやハイキング客が気軽に訪れることができる史跡公園となっている 35 。また、予約制でボランティアガイドによる詳細な案内も行われており、地域の歴史教育や観光振興の核として、その保存と活用が積極的に図られている 23 。廃城から400年の時を経て、引田城は歴史を物語る文化遺産として、新たな生命を吹き込まれているのである。

終章:引田城が戦国史に問いかけるもの

引田城の歴史を多角的に検証してきた本報告の結論として、この城が持つ比類なき歴史的価値を総括したい。引田城は、単なる過去の遺物ではなく、戦国時代から近世へと至る日本の大きな社会変革のダイナミズムを、今に伝える力強い証言者である。

引田城の歴史的価値は、主に三つの側面に集約される。第一に、瀬戸内海の地政学的重要性を体現する「海城」としての価値である。古代から続く海上交通の要衝を抑えるという地理的優位性が、この城の歴史の全ての起点となった。第二に、中世から近世への城郭技術の劇的な変遷を示す「生きた見本」としての価値である。在地領主による土の城の痕跡と、豊臣政権下で築かれた壮大な石垣の城が同一の城内に併存する様は、日本の築城史における転換点を物理的に示している。そして第三に、中央政権の動乱が地方の戦況を瞬時に覆した「歴史の交差点」としての価値である。「引田の戦い」と「賤ヶ岳の戦い」の連動性は、戦国末期の日本がいかに統合された一つの政治空間であったかを物語っている。これら三つの価値が複合的に、そして凝縮された形で存在している点にこそ、引田城の特質がある。

最終的に、引田城の盛衰の物語は、中央集権化という日本史の大きな潮流を映し出す鏡であると言える。在地国人による地域支配の象徴であった城が、豊臣政権による統一的な領国支配の拠点へと造り変えられ、そして最終的には徳川幕府の一国一城令によってその軍事機能を剥奪される。この一連の過程は、多様な地方権力が乱立した中世社会が終焉を迎え、統一された権力の下で安定を目指す近世社会がいかにして形成されていったのかを、一つの城の運命を通じて雄弁に物語っている。引田城は、播磨灘の風を受けながら、我々に戦国という時代の激しさと、その先に来る新しい時代の胎動を、静かに、しかし力強く語りかけ続けているのである。

引用文献

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  9. 引田城 ちえぞー!城行こまい http://chiezoikomai.umoretakojo.jp/sikoku/kagawa/hiketa.html
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  21. 洲本城 [2/6] 壮大な高石垣と武者走台を持つ立派な本丸へ。 https://akiou.wordpress.com/2016/08/07/sumotojo-p2/
  22. 引田城の駐車場や御城印、本丸や北二の丸の石垣などの見どころを ... https://okaneosiroblog.com/kagawa-hiketa-castle/
  23. 引田城跡(城山) - うどん県旅ネット https://www.my-kagawa.jp/point/481/
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  26. 【ホームメイト】香川県の著名な城3選 https://www.homemate-research-castle.com/shiro-sanpo/263/
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  34. 讃岐国府跡や引田城跡が「国の史跡」指定へ 文化審議会が文科大臣に答申 香川 | KSBニュース https://news.ksb.co.jp/article/13848545
  35. 【引田城跡】アクセス・営業時間・料金情報 - じゃらんnet https://www.jalan.net/kankou/spt_37207af2172110178/