若狭武田氏が築いた後瀬山城は、小浜の要衝に位置し、文化と軍事の拠点として栄えた。内紛と織豊政権の波に翻弄され、近世城郭へと変貌後、廃城となるも、その遺構は今も往時を語る。
若狭国小浜は、古代より天皇の食膳を司る「御食国」として都と深く結びつき、また、日本海航路の要衝として大陸との交易の窓口でもあった 1 。この地政学的に極めて重要な地を掌握することは、若狭一国を支配するに留まらず、京都の政治情勢にも影響を及ぼしうるほどの意味を持っていた。この戦略的要地に、戦国時代中期の大永2年(1522年)、若狭守護・武田元光によって築かれたのが後瀬山城である 1 。
後瀬山城は、その築城から慶長6年(1601年)に廃城となるまでの約80年間、単なる軍事拠点としてだけでなく、若狭国の政治、経済、そして文化の中心地として機能した 4 。その歴史は、築城主である若狭武田氏の栄枯盛衰と軌を一にし、織田・豊臣政権下での中央集権化の波、そして関ヶ原の戦いを経て近世へと移行する時代の激動を色濃く映し出している。
本報告書は、この後瀬山城について、戦国時代という時代背景を主軸に据え、その城郭構造の特質、歴史的変遷、そして文化的意義を多角的に分析し、その全貌を徹底的に解明することを目的とする。若狭武田氏の興亡から、丹羽長秀による近世城郭への改修、そして廃城に至るまでの過程を、城郭構造の変遷と密接に関連付けながら論じることで、後瀬山城が戦国史において果たした役割の重要性を明らかにしていく。
後瀬山城が築かれた後瀬山は、小浜市街地の南に位置する標高約168mの秀麗な山である 3 。この地は、眼下に天然の良港である小浜湊と発展しつつあった市街地、そして西国とを結ぶ丹後街道を一望できる、まさに軍事・経済上の要害であった 7 。古くは万葉集にもその名が詠まれた歌枕でもあり、文化的にも象徴的な山であった 3 。
城郭の規模は、若狭国において最大級を誇り、城域は南北約500m、東西約350mに及ぶ広大なものであった 4 。その縄張り(城の設計)は、山頂に「御殿」とも通称される主郭を置き、そこから北東と北西に延びる二方向の尾根上に、多数の曲輪(平坦地)を連続的に配置する連郭式山城の典型を示している 8 。確認されている曲輪の数は110箇所、あるいは139箇所ともいわれ、その緻密さと規模の大きさが窺える 6 。
防御施設は、中世山城としての高度な技術が集約されている。尾根筋を分断するために設けられた堀切は52条にも及び、敵の直進を阻む 6 。さらに、斜面には敵兵の移動を困難にするための長大な竪堀が何本も穿たれていた 9 。特に注目すべきは、城の西側斜面に集中的に配置された畝状竪堀群である 9 。畝状竪堀は、斜面を横並びに登ってくる敵兵の連携を断ち切り、各個撃破を容易にする極めて効果的な防御施設である。この施設が西側に偏って構築されている点は、偶然の産物ではない。若狭武田氏は、西に隣接する丹後国の守護・一色氏と長年にわたり対立関係にあり、また、家臣である逸見氏が反乱を起こした際には丹後勢力が介入するなど、常に西からの軍事的脅威に晒されていた 13 。したがって、城の西側防御を重点的に強化した縄張りは、当時の緊迫した政治・軍事情勢を物理的な形で物語る、明確な意図を持った設計であったと考えられる。
後瀬山城の構造を理解する上で重要なのは、山頂部を中心とする山上の「詰城(つめのしろ)」と、山麓に設けられた大規模な「守護館(武田氏館)」とが一体となって機能する、二元的な構造を持っていた点である 1 。これは、有事の際に立て籠もる最終防衛拠点と、平時の政務や居住、賓客の応対などを行う空間とを分離・連携させる、戦国期の守護大名の拠点によく見られる形態である。
山麓の守護館は、現在の空印寺および旧小浜小学校の敷地にあたり、大規模な水堀を二重に巡らせた堅固な構えであったと記録されている 1 。その規模は、当時の商人による「堀を二重に構え、町中不自由なり」という嘆きの記録が残るほどで、城下町の都市機能に影響を与えるほどの存在感を持っていた 15 。近年の発掘調査では、この守護館跡から笏谷石(しゃくだにいし)を用いたとみられる壮麗な門の遺構や、石垣を伴う深さ約3mの堀跡が確認されており、文献の記述を裏付けている 14 。
この「山上山下」の二元構造は、若狭武田氏の統治者としての性格を象徴している。彼らが単に山城に籠もる地方領主ではなく、港湾都市・小浜の経済を掌握し、城下町を形成・支配する「都市支配者」であったことを示している。山麓の館は、若狭国の政治・経済・文化の中心であり、山上の城郭は、その権威と安全を保障する強大な軍事的背景であった。この構造全体で、軍事・政治・経済を一体として統治する戦国大名としての複合的な支配体制を体現していたのである。
後瀬山城の歴史は、その築城主である若狭武田氏の歴史と分かち難く結びついている。城の築城から事実上の落城までの約46年間は、若狭武田氏が旧来の守護大名から戦国大名へと変質していく過渡期の苦悩と、その栄華、そして衰亡の軌跡そのものであった。
年代(西暦) |
元号 |
主要な出来事 |
1440年 |
永享12年 |
武田信栄、一色義貫を討ち、若狭守護職を得る。若狭武田氏の始まり。 |
1522年 |
大永2年 |
6代目当主・武田元光が後瀬山城を築城する。 |
1538年頃 |
天文7年頃 |
武田信豊が家督を継承。家中の内訌が続く。 |
1556年頃 |
弘治2年頃 |
信豊と嫡男・義統の間で家督を巡る対立が激化する。 |
1568年 |
永禄11年 |
越前の朝倉義景が若狭に侵攻。後瀬山城は開城し、当主・武田元明は越前に連行される。若狭武田氏による支配が事実上終焉する。 |
1573年 |
天正元年 |
織田信長が朝倉氏を滅ぼす。若狭は丹羽長秀に与えられ、長秀が後瀬山城主となる。石垣を用いた大改修が始まる。 |
1582年 |
天正10年 |
本能寺の変。武田元明は明智光秀に与するも、光秀の敗死後、自害に追い込まれ、若狭武田氏が滅亡する。 |
1587年 |
天正15年 |
浅野長政が城主となる。 |
1593年 |
文禄2年 |
木下勝俊が城主となる。 |
1600年 |
慶長5年 |
関ヶ原の戦い。戦功により京極高次が若狭一国を領し、後瀬山城に入る。 |
1601年 |
慶長6年 |
京極高次が小浜城(雲浜城)の築城を開始。これに伴い、後瀬山城は廃城となる。 |
1997年 |
平成9年 |
城跡が国の史跡に指定される。 |
2015年 |
平成27年 |
「海と都をつなぐ若狭の往来文化遺産群」の構成文化財として日本遺産に認定される。 |
若狭武田氏は、甲斐源氏武田氏の庶流である安芸武田氏から分かれた一族である 16 。永享12年(1440年)、安芸武田氏の武田信栄が室町幕府6代将軍・足利義教の命により、当時の若狭守護であった一色義貫を討伐した功績で、若狭守護職を与えられたことに始まる 13 。
その後、約80年を経て、6代目当主・武田元光が大永2年(1522年)に後瀬山城を築城した 1 。大規模な城の建設は、一見すると権勢の象徴と捉えられがちである。しかし、当時の若狭武田氏を取り巻く状況を詳細に分析すると、異なる側面が浮かび上がる。この時期、武田氏は度重なる隣国への出兵や、有力家臣である粟屋氏・逸見氏の反乱、そして一族間の内訌によって、その支配基盤は大きく揺らいでいた 13 。もはや、室町時代以来の伝統であった京都に在住して領国を遠隔統治する(在京守護)という旧来の体制では、国内を統制することが困難になっていたのである。
この状況下で、領国の中心地である小浜に大規模な本城を築き、当主が常駐する「在国化」へと舵を切ったことは、避けられない選択であった。つまり、後瀬山城の築城は、武田氏の権勢が絶頂にあったことの証ではなく、むしろその支配の不安定化と衰退の兆候に対応するための、防衛的かつ内向きな必要性に迫られた結果であったと解釈できる。それは、旧来の守護大名が、実力主義が支配する戦国大名へと否応なく変質していく時代の過渡期を象徴する出来事であった。
軍事的な緊張が高まる一方で、後瀬山城、特に山麓の守護館は、若狭における華やかな文化の中心地でもあった。若狭武田氏は、武門の名家であると同時に、都の公家や一流の文化人たちと深く交流し、和歌や連歌を嗜む高い文化教養を代々受け継いでいた 5 。戦国時代に入り京都が戦乱で荒廃すると、多くの文化人や公家が武田氏を頼って若狭へ下向し、後瀬山城の館はさながら文化サロンの様相を呈した 8 。
その様子を伝える貴重な記録が、室町時代末期の連歌師・里村紹巴が若狭を訪れた際の紀行文『天橋立紀行』である 11 。紹巴は朽木、熊川といった若狭街道を経て小浜に入り、武田館にて7代目当主・信豊(出家して紹真と号した)やその夫人である松の丸と面会し、連歌会を催したことが記されている 8 。これは、後瀬山城が都の第一級の文化人を迎え入れるほどの文化的中心地であったことの何よりの証左である。
こうした文化的活動の隆盛は、近年の発掘調査によっても裏付けられている。城内の二の丸御殿跡からは庭園の遺構が発見されたほか、守護館跡からは多数の茶器が出土している 6 。中でも特筆すべきは、「瓦質の風炉」の発見である 14 。風炉は茶の湯で釜をかけて湯を沸かすための道具であるが、この瓦質の風炉は当時、非常に高級な品であり、城館や大寺院など、社会的に極めて身分の高い人物や場所でしか出土しない 14 。
この一つの遺物は、単なる茶道具以上の意味を持つ。それは、若狭武田氏が京都の最新文化を享受し、それを自らの政治的権威の演出に巧みに利用していたことを示す物証である。京都に最も近い日本海の港という地の利を活かし、都から最高級の文物を入手し、里村紹巴のような賓客を招いて茶会や連歌会を催す。こうした「もてなし」の外交は、武田氏の財力、文化的水準、そして中央政界との強固な繋がりを内外に示す、極めて有効なソフトパワー戦略であった。後瀬山城は、軍事要塞であると同時に、洗練された文化が花開く外交の舞台でもあったのである。
華やかな文化活動の裏で、若狭武田氏の支配体制は内部から崩壊しつつあった。元光から信豊へ、そして信豊から義統への家督相続は、いずれも一族や家臣団を巻き込む深刻な内訌を伴った 16 。特に、7代目当主・信豊と嫡男・義統の父子対立は、信豊が一時近江へ亡命する事態にまで発展し、武田家の結束を著しく損なった 13 。
こうした一族の内紛に乗じるように、粟屋氏や逸見氏といった譜代の有力家臣が度々反旗を翻した 9 。武田氏はもはや独力でこれらの反乱を鎮圧することができず、隣国である越前の朝倉氏に援軍を要請することで、かろうじて領国支配を維持している状態にまで追い込まれていた 13 。守護としての権威は失墜し、家臣団の統制もままならない状況であった。
この若狭武田氏の弱体化を見逃さなかったのが、越前の朝倉義景であった。永禄11年(1568年)、義統が没し、若年の武田元明が家督を継ぐと、義景は元明の「庇護」を名目として大軍を若狭へ侵攻させた 1 。もはや組織的な抵抗もできず、後瀬山城は開城を余儀なくされる。城主・元明は身柄を拘束され、人質として越前の一乗谷へと連れ去られた 6 。これにより、永享12年(1440年)以来、約128年間にわたった若狭武田氏による若狭支配は、事実上の終焉を迎えたのである。
若狭武田氏の支配が終焉した後、後瀬山城は新たな時代の主を迎える。それは、戦国の動乱を終結させ、天下統一へと向かう織田・豊臣政権の武将たちであった。彼らの手によって、後瀬山城は中世山城から近世城郭へと、その姿を大きく変貌させていくことになる。
主要城主 |
在城期間(推定) |
特記事項 |
若狭武田氏(元光〜元明) |
1522年~1568年 |
築城主。中世的な山城と山麓の守護館で構成される。 |
丹羽長秀 |
1573年~1585年 |
織田信長の家臣。石垣を導入し、近世城郭へと大改修。天守の存在も伝わる。 |
浅野長政 |
1587年~1593年 |
豊臣秀吉の重臣。若狭統治の拠点として使用。 |
木下勝俊 |
1593年~1600年 |
豊臣秀吉の一族。引き続き若狭統治の拠点となる。 |
京極高次 |
1600年~1601年 |
関ヶ原の戦いの後に入封。小浜城築城を開始し、後瀬山城を廃城とする。 |
天正元年(1573年)、織田信長が朝倉義景を滅ぼすと、若狭一国は信長譜代の重臣である丹羽長秀に与えられた 6 。長秀は後瀬山城に入城し、若狭支配の拠点と定めた 1 。そして、彼はこの城に大規模な改修を施し、その性格を根本から変えた。
長秀による改修の最大の特徴は、石垣の全面的な導入である 1 。武田氏時代には土塁や切岸を主としていた城は、石垣で固められた豪壮な城郭へと生まれ変わった 1 。現在、主郭部周辺に残る壮麗な石垣の多くは、この丹羽長秀の時代に築かれたものと推測されている 9 。さらに、この時、信長の居城である安土城にならい、山頂に天守が造営されたという伝承も残っている 1 。これが事実であれば、後瀬山城は日本海側でも極めて早い段階で天守を備えた城郭の一つとなる。
この大改修は、単なる防御力向上のための軍事的な改修に留まるものではなかった。安土城の築城奉行も務めた長秀は、信長の城郭思想、すなわち城が軍事施設であると同時に支配者の権威を象徴する「見せるための城」であることを深く理解していた 16 。旧支配者である若狭武田氏が築いた土の城を、織田政権の先進性と絶対的な力を象徴する石垣と天守の城に造り変えること。それは、支配者が交代したという事実を、若狭の国人衆や民衆に対して誰の目にも明らかな形で示す、極めて政治的な意図を持った「視覚的デモンストレーション」であった。海上からでも望むことができたであろう山上の壮麗な石垣群は 25 、新たな時代の到来と、織田政権の揺るぎない支配を無言のうちに宣言していたのである。
丹羽長秀の後、本能寺の変や賤ヶ岳の戦いを経て天下人となった豊臣秀吉は、引き続き若狭国を重要拠点と位置づけた。京都に最も近い日本海側の港を押さえることは、秀吉政権にとっても戦略的に不可欠であった 7 。そのため、後瀬山城の城主には、秀吉の義弟(正室ねねの妹の夫)である浅野長政や、ねねの甥にあたる木下勝俊といった、豊臣一門の信頼厚い重臣が相次いで任命された 1 。
この時代、後瀬山城は引き続き若狭統治の拠点として機能し続けた 19 。丹羽長秀によって近世城郭として生まれ変わった城は、豊臣政権の西国支配と日本海交易を支える重要な一翼を担っていたのである。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いは、後瀬山城の運命に終止符を打つ契機となった。この戦いの功績により、若狭一国8万5千石は京極高次に与えられ、彼は後瀬山城に入城した 1 。しかし、高次が選んだ新たな統治の形は、山城に拠るものではなかった。
高次は、慶長6年(1601年)、海岸沿いの雲浜(くもはま)と呼ばれる平地に、新たな城の築城を開始する 6 。これが後の小浜城である。この決断は、戦国時代から江戸時代への時代の大きな転換を象徴している。戦乱が絶えなかった時代には、防御に優れた山城が拠点の主流であった。しかし、徳川幕府による安定した統治体制が確立されつつある新たな時代(「元和偃武」へと向かう時代)において為政者に求められたのは、軍事的な防衛力よりも、城下町の整備や海運の管理を通じて領国経済を振興させる行政能力であった。その目的のためには、防衛には優れるが不便な山城よりも、港や市街地に隣接し、政治と経済の中心地として機能させやすい平城が遥かに適していた。
後瀬山城の廃城と小浜城の築城は、まさにこの城郭戦略思想の根本的な転換を示す出来事であった。新たな時代の拠点として小浜城の建設が進められるに伴い、後瀬山城はその歴史的役割を終え、廃城となったのである 3 。ただし、小浜城の普請は石材不足などから難航し、完成は後継の酒井氏の代にまでずれ込んだため、後瀬山城は近世初頭まで部分的に機能を保持していた可能性も指摘されている 1 。
廃城後、後瀬山城は歴史の表舞台から姿を消したが、その遺構は奇跡的に良好な状態で現代に伝えられた。小浜城築城の際に、予想されたほど大規模な石材の転用が行われなかったためか、丹羽長秀時代に築かれた壮大な石垣をはじめ、無数の曲輪群や堀切、竪堀などが、往時の姿を色濃く残している 7 。
一方、山麓の守護館跡地は、京極高次の菩提を弔う泰雲寺となり、後に藩主となった酒井家の菩提寺・空印寺となって現在に至っている 1 。館を囲んでいた壮大な水堀の一部は江戸時代を通じて残され、藩が有事の際には山上の古城跡と共に再利用する意図があったとも考えられている 1 。
これらの極めて良好に残存する遺構の歴史的価値が高く評価され、後瀬山城跡は平成9年(1997年)に国の史跡に指定された 1 。さらに平成27年(2015年)には、「海と都をつなぐ若狭の往来文化遺産群」の重要な構成文化財として、日本遺産にも認定されている 1 。現在、小浜市によって史跡の保存活用計画が策定され、将来に向けた整備が進められている 27 。また、かつての戦いの舞台は、今では市民が歴史に思いを馳せながら散策を楽しむ、憩いの場としても親しまれている 3 。
後瀬山城は、若狭国小浜という戦略的要地に築かれ、約80年という短い期間に戦国時代の激動を凝縮した稀有な城跡である。その歴史は、在地領主であった若狭武田氏の栄光と、内訌と家臣の離反に苦しんだ末の衰亡を物語る。そして、織田・豊臣政権による中央集権化の波が若狭に及んだ際には、丹羽長秀の手によって近世城郭へと劇的な変貌を遂げ、新たな支配体制の象徴となった。最後は、江戸という新たな時代の到来と共に、平城である小浜城にその役目を譲り、静かに歴史の舞台から姿を消した。
城郭史の観点から見ても、後瀬山城の価値は計り知れない。一つの城跡の中に、若狭武田氏が築いた中世的な土づくりの山城の構造と、丹羽長秀が改修した近世的な石垣づくりの城郭の要素が重層的に残されている。この変遷は、日本の城郭技術が戦国末期に遂げた飛躍的な発展を、一つの場所で具体的に示してくれる貴重な事例である。
後瀬山城は、単なる過去の遺物ではない。それは、若狭という地域の歴史的特質と、戦国という時代のダイナミズム、そしてそこに生きた武将たちの興亡を今に伝える、生きた歴史の証人である。その石垣や堀切の一つ一つが、若狭武田氏の苦悩、丹羽長秀の野心、そして時代の大きな転換点を、雄弁に語りかけている。