最終更新日 2025-08-23

御着城

播磨御着城は、小寺氏の居城。山陽道の要衝に築かれ、総構えを持つ堅固な平城。黒田官兵衛を育むも、城主・小寺政職が織田信長に反旗を翻し、秀吉の攻撃で落城。その後廃城。

播磨の要衝 御着城 ― 黒田官兵衛を育み、戦国史に消えた名城の全貌

序章:播磨の歴史的舞台と御着城

戦国時代の日本列島において、播磨国(現在の兵庫県南西部)は、特異な地政学的状況下に置かれていた。西国に覇を唱える毛利氏と、天下布武を掲げ畿内から勢力を拡大する織田氏。この二大勢力が直接対峙する最前線として、播磨は常に緊張を強いられる地であった 1 。国内を山陽道が貫き、交通の要衝でもあるこの地は、その動向が天下の趨勢を左右するほどの戦略的重要性を秘めていたのである 2

この播磨国にあって、ひときわ大きな勢力を誇ったのが、小寺氏の居城たる御着城、別所氏が拠る三木城、そして英賀(あが)の三木氏が守る英賀城であった 2 。これらは「播磨三大城」と総称され、単にその規模や堅固さを示すだけでなく、織田信長の本格的な播磨侵攻以前における、この地域の政治的均衡を象徴する存在であった 5 。東播磨の別所氏、中播磨の小寺氏、西播磨の三木氏という三者が、播磨守護であった赤松氏の権威が衰退する中でそれぞれ自立し、互いに牽制しあうことで、播磨の秩序はかろうじて保たれていたのである 1

しかし、織田信長の中国方面軍司令官、羽柴秀吉の軍勢が播磨の地を踏んだ時、この均衡は脆くも崩れ去る。三大城は、あるいは織田に恭順し、あるいは毛利と結んで抵抗し、最終的にはいずれも秀吉の前に屈し、その歴史的役割を終えることとなる 1

本報告書は、この「播磨三大城」の一角をなし、後に天下人・豊臣秀吉の第一の軍師となる黒田官兵衛孝高を育んだ御着城に焦点を当てる。城主・小寺氏の興亡、稀代の軍師・黒田官兵衛の台頭と主家との相克、そして織田信長による天下統一事業の渦中で迎えた落城の悲劇。これらの複数の視点から御着城の歴史を重層的に解き明かし、戦国史の中に埋もれた名城の実像に迫るものである。御着城の物語は、一個の城郭の盛衰にとどまらず、戦国という時代の大きな転換点において、地方の旧勢力が如何にして中央の新興勢力に飲み込まれていったかという、普遍的な歴史の力学を我々に示してくれるであろう。


表1:播磨三大城の比較

城郭名

城主

所在地(当時)

戦略的重要性

織田・毛利への対応

最終的な運命

御着城

小寺氏

播磨国飾磨郡

中播磨の支配拠点、山陽道の要衝

当初は織田に従属するも、後に毛利方へ離反

天正7-8年、羽柴秀吉により落城、廃城

三木城

別所氏

播磨国美嚢郡

東播磨の最大拠点、摂津との結節点

当初は織田に従属するも、離反し毛利方と結ぶ

天正8年、秀吉の兵糧攻め(三木の干殺し)により落城

英賀城

三木氏

播磨国飾磨郡

西播磨の拠点、瀬戸内海の水運掌握

一貫して反織田・親毛利の姿勢を貫く

天正8年、三木城落城後に秀吉軍の攻撃を受け落城


第一章:御着城の黎明 ― 築城と小寺氏の台頭

御着城の歴史を語る上で、永正16年(1519年)の小寺政隆による築城は画期的な出来事であるが、その土地の重要性はさらに古くから認識されていた 2 。発掘調査の結果からも、御着の地には15世紀、すなわち嘉吉年間(1441-44)頃には既に何らかの「構居」(かまえい)、すなわち防御機能を持った施設が存在していたことが示唆されている 2 。さらに明応年間(1492-1501)には、播磨一国の統治機関である守護・赤松氏の「守護所」としての機能を有していたと考えられている 2 。この段階において、後に城主となる小寺氏は、赤松氏の家臣団の一員、すなわち守護所の運営を担う奉行人の一人に過ぎなかった 9

この状況が一変するのが、永正16年(1519年)である。赤松氏の一族であり、西播磨の有力国人であった小寺政隆が、この地に本格的な城郭を築いた 4 。その背景には、当時の播磨国を揺るがした深刻な政治的対立があった。主君である播磨守護・赤松義村と、その重臣で実力者の浦上村宗との対立が激化する中で、政隆は浦上氏への備え、そして何よりも赤松惣領家からの政治的自立を目指して、この築城を断行したのである 2

この行為は、単なる防御施設の建設以上の意味を持っていた。播磨国全体の公的な統治拠点であった「守護所」を、小寺氏という一個人の私的な軍事拠点である「城」へと転換させること。それは、守護の権威が形骸化し、在地領主の実力が新たな支配の正当性となる「下剋上」の時代の到来を、まさに象徴する出来事であった。御着城の誕生は、小寺氏による政治的な「主権宣言」に他ならなかったのである。

こうして小寺氏の拠点となった御着城は、しかし、その後の播磨の激動と無縁ではいられなかった。

初代城主・ 小寺政隆 は、宿敵・浦上村宗の猛攻の前に、享禄3年(1530年)に城を枕に討ち死にするという悲劇的な最期を遂げる 10

しかし翌享禄4年(1531年)、浦上村宗が別の戦いで敗死すると、政隆の子である二代城主・ 小寺則職 が御着城主に復帰し、小寺家は再興を果たす 10 。この則職の時代に、後の黒田家の隆盛の礎を築く黒田官兵衛の祖父・重隆と父・職隆が小寺氏に仕え始める 11 。特に職隆は則職、そしてその子・政職から絶大な信頼を得て、姫路城代にまで抜擢された 11

そして、則職の子として家督を継いだのが、三代目にして最後の城主となる 小寺政職 である 8 。彼の治世下で御着城は最も栄えるが、同時に、織田信長の天下統一の嵐に巻き込まれ、滅びの道を歩むことになる。黒田官兵衛がその類稀なる智謀を発揮し、また主君との深刻な対立を経験するのも、この政職の時代であった 12

第二章:城郭の構造と変遷 ― 発掘調査が語る実像

御着城は、姫路平野東部に位置する茶臼山と呼ばれる小高い丘陵を利用して築かれた平城である 2 。その縄張り、すなわち城郭の設計は、当時の城としては極めて先進的かつ堅固なものであった。西側を蛇行して流れる天川を天然の外堀として巧みに取り込み、さらに西と南は二重、防御が手薄になりがちな北と東には実に四重もの堀を巡らせていた 2 。城内には、京都と西国を結ぶ大動脈である山陽道や城下町までをも取り込んだ「総構え」と呼ばれる構造を持ち、単なる軍事拠点ではなく、政治・経済の中心地としての機能も備えていたことがうかがえる 2 。その具体的な姿は、後年に描かれた『播州飾東郡府東御野庄御着茶臼山城地絵図』によって、今日に伝えられている 3

これらの文献史料が示す城の姿は、1977年(昭和52年)から3年間にわたって姫路市埋蔵文化財センターが実施した発掘調査によって、考古学的にも裏付けられた 2 。この調査は、御着城が静的な存在ではなく、時代の要請と小寺氏の勢力伸長に合わせて、ダイナミックにその姿を変えていったことを明らかにした。

発掘調査が描き出した城の変遷は、大きく三段階に分けられる。

第一段階は15世紀、小寺氏が本格的に城を構える以前の時代である。この時期の遺構は、柵を巡らせた砦規模の簡素なもので、在地領主の基本的な防御拠点としての姿を示している 2。

第二段階は、小寺氏が城主となってから16世紀中頃までの時期である。この段階になると、小型の堀や溝によって曲輪(くるわ)が区画され、城としての基本的な構造が整えられていく 15 。これは、小寺氏が在地領主として確固たる地位を築き、その権力基盤を固めていった過程と見事に同期している。

そして第三段階、黒田官兵衛が活躍した16世紀後半、城は最終的な完成形へと至る。この時期の地層からは、それまでの掘立柱建物に代わり、礎石を用いた本格的な建物跡が発見された 3 。さらに、大量の瓦が出土したことから、主要な建物は瓦葺きであったと考えられ、城の格式が飛躍的に向上したことがわかる 3 。瓦や礎石は、当時、高い富と技術力を要するものであり、領主の権威を内外に示す強力なシンボルであった。また、城内には排水と区画を兼ねた大規模な石組溝や、部分的な石垣も確認されており、多くの人々が居住し活動する「行政庁舎」としての高度な都市機能が整備されていたことを物語っている 3

出土遺物もまた、城内の豊かな生活を我々に伝えてくれる。備前焼や瀬戸美濃焼といった国産陶磁器、あるいは輸入陶磁器などの食器や茶器は、城主や上級家臣の洗練された文化的生活を示唆する 2 。とりわけ興味深いのは、将棋の駒や碁石といった遊戯具の発見である 2 。これらは、御着城が緊迫した軍事拠点であると同時に、武将たちが束の間の休息を楽しみ、あるいは客人を迎えて外交儀礼を行う社交場としての役割も担っていたことを生き生きと伝えている。

このように、御着城の地層に刻まれた考古学的変遷は、戦国期における城郭機能の進化そのものを体現している。それは、単なる「防御拠点」から、領国経営を司る「行政庁舎」へ、そして領主の威光を示す「シンボル」へと、その役割が重層化していく過程の、動かぬ証拠なのである。

第三章:激動の時代と最後の城主・小寺政職

天正年間に入ると、織田信長の勢力はついに播磨国にまで及ぶ。西の毛利、東の織田という二大勢力の狭間に立たされた播磨の国人領主たちは、生き残りを賭けた重大な選択を迫られた。御着城主・小寺政職もその例外ではなかった。

天正3年(1575年)、政職は、家臣である黒田官兵衛の卓越した先見性に基づく進言を受け入れ、織田信長に臣従することを決断する 8 。これは、当時としては時勢を読んだ現実的な判断であり、播磨の多くの国衆と同様の動きであった。しかし、この決断が、後に彼と御着城の運命を大きく狂わせる序章となる。

臣従からわずか3年後の天正6年(1578年)、播磨の情勢は一気に緊迫する。まず、東播磨の最大勢力であった三木城主・別所長治が突如として織田方に反旗を翻した 8 。さらに同年10月、信長の信頼厚く、摂津一国を任されていた荒木村重までもが、居城・有岡城にて謀反を起こしたのである 8

この二つの大事件は、小寺政職の心を激しく揺さぶった。彼は、織田方にとどまるか、あるいは別所・荒木に呼応して毛利方へと寝返るか、という究極の選択を迫られる。そして、熟慮の末に彼が下した決断は、織田からの離反であった 9

政職のこの決断は、単なる優柔不断や戦略ミスとして片付けることはできない。その背景には、摂津の荒木村重との間に結ばれた、極めて強固な同盟関係があった 21 。政職は、村重が翻意しない限り自分も織田方には戻らないと公言するなど、両者は運命共同体ともいえる間柄であった 22 。この播磨と摂津の有力国人による連携は、織田信長が進める支配体制に対する、旧来の地域勢力による最後の組織的抵抗という側面を持っていた。

信長の支配体制は、国人領主の独立性を認めず、自身の強力な家臣団に組み込む中央集権的なものであった。これは、代々その土地を治めてきた政職のような領主にとって、自らの存在意義を根底から覆されかねない脅威であった。一方で、毛利氏は、国人領主の独立性をある程度尊重する、より緩やかな連合体の盟主という性格が強かった。

荒木村重の離反は、政職にとって、信長の中央集権化の波に抗い、旧来の国人領主の独立性を維持するための「地域連合」を再構築する最後の好機と映ったのである。彼の離反は、個人的な資質の問題以上に、戦国時代末期の地方勢力が直面した「中央集権への屈服か、地域連合による抵抗か」という、構造的なジレンマを象徴する苦渋の決断であったと言えよう。しかし、この決断は、結果として彼の腹心であった黒田官兵衛との間に決定的な亀裂を生み、御着城を滅亡へと導くことになる。

第四章:黒田官兵衛、主君との相克

御着城は、黒田官兵衛という稀代の軍師が、その才能を開花させた原点の地である。彼は若き日に小寺政職の近習としてこの城に出仕し、武将としての第一歩を踏み出した 3 。官兵衛の父・職隆は、主君・政職から「小寺」の姓と名の一字「職」を与えられるほどの信任を得ており、姫路城代という重責を担っていた 11 。さらに官兵衛の正室・光は政職の養女であり、黒田家と小寺家は単なる主従関係を超えた、深い姻戚関係にもあった 13

しかし、この一見強固に見える主従関係は、その内実に複雑な力学をはらんでいた。黒田家の歴史を記した『黒田家譜』には、「(官兵衛は)小寺氏を主君として仕えたのではない。そのときの勢いに従って属したまでである」という、驚くべき一節が存在する 11 。これは、官兵衛が小寺氏の完全な配下ではなく、ある種の独立性を持った協力者に近い立場であったことを示唆している。

この見解を裏付ける事実は複数存在する。天正5年(1577年)の英賀合戦の後、織田信長は小寺政職の武功を賞賛する感状を送ると同時に、政職を介さず、荒木村重を通じて官兵衛の働きにも言及するよう指示している 11 。もし官兵衛が純粋な家臣であれば、主君を通じて賞賛を伝えるのが筋であり、この異例の対応は、信長が官兵衛を政職と並ぶ一将として認識していたことの証左である。さらに信長は、官兵衛個人に直接朱印状を送り、戦功を称え、別所長治の討伐を命じている 11 。極めつけは、官兵衛が息子・松寿丸(後の黒田長政)を人質として、主君・政職ではなく、信長自身に直接差し出している点である 11

これらの事実は、両者の関係が単なる「賢臣と愚主」という単純な構図ではなかったことを物語っている。官兵衛は、中央の新しい権力者である信長との直接的なパイプを築くことで、自らの価値を高めようとする、新しい時代の価値観を体現した「新興テクノクラート」であった。一方、政職は、播磨という地域社会の血縁と伝統的な秩序に根差す「伝統的領主」であった。官兵衛の行動は、政職の目には、主君を飛び越えて上位の権力者と結びつく、家中秩序を乱す許しがたい行為と映ったであろう。

この価値観の衝突は、天正6年(1578年)、政職が織田から離反した際に、決定的な破局を迎える。主君の翻意を信じ、翻意させようと、単身で荒木村重の居城・有岡城へ説得に向かった官兵衛。しかし、その裏では、政職がすでに村重と通じ、官兵衛の暗殺を依頼していたのである 22

官兵衛は殺害こそ免れたものの、村重に捕らえられ、有岡城の土牢に一年もの長きにわたり幽閉されるという悲劇に見舞われる 24 。この主君による裏切りは、両者の主従関係を完全に破壊した。官兵衛にとって、御着城はもはや帰るべき場所ではなくなったのである。この対立の本質は、個人的な不信感というよりも、中央の新しい秩序と地方の古い秩序との間に生じた、避けられないイデオロギー闘争であった。

第五章:羽柴秀吉の播磨平定と御着城の落日

黒田官兵衛が有岡城の土牢で苦しんでいる間、播磨の戦況は羽柴秀吉の主導のもと、着実に織田方優位へと傾いていった。秀吉は、反織田勢力の中核である別所長治が籠る三木城に対し、直接的な力攻めを避け、城を幾重にも包囲して兵糧の補給路を断つ、世に言う「三木の干殺し」という徹底した兵糧攻めを開始した 24

この大戦略の中で、秀吉は三木城を孤立させるため、周辺の反織田勢力を各個撃破していく。御着城もまた、その主要な標的の一つであった。秀吉軍は、三木城と御着城、そして英賀城との連絡網を巧みに遮断し、反織田連合の連携を分断したのである 6

孤立した御着城に対し、ついに秀吉軍の総攻撃が開始される。落城の時期については、天正7年(1579年)とする説と 2 、翌天正8年(1580年)1月とする説があるが 10 、いずれにせよ三木城が落城する直前の出来事であった。

地元の記録である『播磨鑑』は、二日間にわたる壮絶な攻防戦の様子を伝えている 9 。城兵は数で劣りながらも、城の堅固な守りを頼りに奮戦した。一時は城外の天川を渡って打って出るなど、果敢な反撃で秀吉軍を一時後退させるほどの戦いぶりを見せたという 9 。しかし、秀吉軍の圧倒的な兵力と、大筒(おおづつ)などの新兵器を用いた猛攻の前には、衆寡敵せず、もはやこれまでと判断した城主・小寺政職は、ついに開城を決意する 9

政職は燃え盛る城を後にして脱出し、西の英賀城を経て、毛利氏を頼って備後国(広島県東部)へと落ち延びた 8 。しかし、再起の夢は叶わず、天正10年(1582年)、失意のうちにその地で病死したと伝えられる 12

主を失った御着城は、天正8年(1580年)4月、秀吉の厳命により、周辺の諸城と共に徹底的に破却(城割り)された 6 。再び反乱の拠点となることを防ぐため、堀は埋められ、建物は破壊され、城はその歴史に幕を閉じたのである。

御着城の落城は、単一の城の攻防戦にとどまらない、より大きな戦略的意味を持っていた。これにより、播磨における反織田勢力の連携は完全に断ち切られ、兵糧攻めに苦しむ三木城の運命は事実上決定づけられた。秀吉の視点に立てば、御着城の攻略は、播磨平定という大目標を達成するための、極めて合理的かつ重要な一手に他ならなかった。播磨の旧勢力が、秀吉の巧みな戦略の前に一つ、また一つと撃破されていった過程を、御着城の落日は象徴している。

一方で、滅びた小寺氏の血脈が完全に途絶えたわけではなかった。政職の嫡男・氏職は、後に秀吉から赦免され、かつての家臣であった黒田官兵衛に招かれる 25 。彼は官兵衛に従って九州へ渡り、武人としてではなく、連歌や茶の湯を嗜む文化人として穏やかな余生を送り、太宰府でその生涯を終えた 25 。その子孫は福岡藩士として、黒田家に仕え続けたという 13 。主家と家臣の運命は、ここに数奇な逆転を見せたのである。

終章:廃城後の軌跡と現代に遺るもの

羽柴秀吉による徹底的な城割りによって廃城となった御着城は、その軍事的・政治的機能を完全に失い、永い時の流れの中に埋もれていった。しかし、その記憶は完全に消え去ったわけではない。かつての城跡は、形を変えながらも、今なお地域の歴史を静かに語り継いでいる。

現在、城の中枢であった本丸跡地は、御着城跡公園として整備され、姫路市役所東出張所および御国野公民館が建てられている 4 。出張所の建物は、往時の天守を模した城郭風の外観をしており、歴史的な建造物ではないものの、この地がかつて城であったことを示す地域のシンボルとなっている 4 。本丸の東に隣接していた二の丸跡は、現在広大なグラウンドとして利用され、子供たちの歓声が響く 8 。かつての堅固な城郭の面影はほとんど失われたが、公園内に移築された天川橋の下の窪みや、周辺の地形に、わずかに堀の痕跡を認めることができる 4

この城跡を訪れる者が注目すべきは、むしろ点在する二つの慰霊施設であろう。一つは、本丸跡のすぐ隣に位置する「黒田家廟所」である 4 。ここには、黒田官兵衛の祖父・重隆と母・明石氏が眠っている 9 。この廟所は、江戸時代に筑前福岡藩主となった黒田家によって再建され、その後も手厚く修復が重ねられてきた 2 。毎年4月29日には、末裔らによって盛大な法要が営まれており、歴史の「勝者」となった黒田家が、そのルーツを如何に大切に顕彰してきたかを物語っている 2

もう一つは、国道2号線を挟んだ南側にひっそりと佇む「小寺大明神」である 4 。ここには、城と運命を共にした最後の城主・小寺政職をはじめとする小寺一族が祀られている 4 。黒田家廟所と比べればささやかな祠であるが、歴史の表舞台から姿を消した「敗者」の記憶を、地元の人々や末裔が絶やすことなく受け継いできた証である。

この御着城跡という空間は、歴史の勝者と敗者、二つの対照的な物語が共存する象徴的な場所と言える。一方は、天下に名を馳せた黒田家の栄光の原点として。もう一方は、時代の奔流に飲み込まれ滅び去った小寺氏の終焉の地として。この地に立つことは、単に城の遺構を偲ぶだけでなく、歴史の多面性と、記憶の継承のあり方そのものに思いを馳せる経験となるであろう。黒田官兵衛の出発点として、そして播磨の戦国史を語る上で不可欠な場所として、御着城の歴史的価値は、これからも色褪せることはない。


表2:御着城 関連年表

西暦(和暦)

主な出来事

1441-44年(嘉吉年間)

この頃、御着の地に「構居」が存在したとされる 8

1492-1501年(明応年間)

赤松氏の播磨支配の拠点として「守護所」が置かれる 8

1519年(永正16年)

赤松氏の一族・小寺政隆が御着城を築城する 2

1530年(享禄3年)

浦上村宗の攻撃により落城。城主・小寺政隆は自害する 10

1531年(享禄4年)

浦上氏の敗死後、小寺則職が城主に復帰する 10

1546年(天文15年)

黒田官兵衛(孝高)が姫路で誕生する 12

1567年(永禄10年)

黒田官兵衛、家督を継ぎ、小寺政職の養女・光と結婚 19

1575年(天正3年)

城主・小寺政職、黒田官兵衛の進言により織田信長に臣従する 8

1578年(天正6年)

別所長治、荒木村重が相次いで織田方に離反。政職もこれに呼応し毛利方へ寝返る 8

1579-80年(天正7-8年)

羽柴秀吉軍の攻撃を受け、御着城は落城。政職は毛利氏のもとへ逃亡する 8

1580年(天正8年)4月

秀吉の命により城は破却され、廃城となる 6

1582年(天正10年)

小寺政職が備後国にて病死したとされる 25

1802年(享和2年)

福岡藩主・黒田斉清により、黒田家廟所が再建される 2

1977-79年(昭和52-54年)

姫路市埋蔵文化財センターによる大規模な発掘調査が実施される 2

現在

本丸跡は御着城跡公園として整備され、市民の憩いの場となっている 4

引用文献

  1. 【三木合戦】播磨三城の戦い - 武楽衆 甲冑制作・レンタル https://murakushu.net/blog/2022/07/30/mikikassen_gochaku_aga/
  2. 御着城 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E7%9D%80%E5%9F%8E
  3. 黒田官兵衛ゆかりの地“御着城” https://sirohoumon.secret.jp/gochakujo.html
  4. 御着城の見所と写真・400人城主の評価(兵庫県姫路市) - 攻城団 https://kojodan.jp/castle/204/
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  6. 【兵庫県】御着城の歴史 播磨国守護・赤松氏の一族、小寺氏の居城! - 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/986
  7. 武家家伝_小寺氏-ダイジェスト- http://www2.harimaya.com/sengoku/html/kodera_k_dj.html
  8. 御着城(播磨国・兵庫県姫路市)別名:茶臼山城、天川城 - 戦国探求 https://sengokutan9.com/Oshiro/Hyougo/Gocyakujyou.html
  9. 御着城の戦い(姫路市) | 五郎のロマンチック歴史街道 https://rekishigoro.amebaownd.com/posts/8401470/
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  14. 御着城> ”軍師官兵衛”で有名になった小寺氏のお城 https://ameblo.jp/highhillhide/entry-12867089930.html
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  16. [大河SP] 御着城跡展 〜黒田官兵衛起つ - 城めぐりチャンネル - WordPress.com https://akiou.wordpress.com/2014/01/13/%E5%BE%A1%E7%9D%80%E5%9F%8E%E8%B7%A1%E5%B1%95/
  17. 御着城 - 城びと https://shirobito.jp/castle/1977
  18. 御着城跡発掘調査概報 - 全国文化財総覧 https://sitereports.nabunken.go.jp/48457
  19. 黒田官兵衛とは - 九州旅ネット https://www.welcomekyushu.jp/kanbei/abouts.html
  20. 黒田官兵衛 名軍師/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/90105/
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  22. 有岡城の戦いが勃発した際、荒木村重に謀反を思いとどまるよう説得に向かった智将とは? https://www.rekishijin.com/16222
  23. 黒田官兵衛・有岡城幽閉の中で到達した思いとは - WEB歴史街道 https://rekishikaido.php.co.jp/detail/1895
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