最終更新日 2025-08-23

徳山城

周防国徳山城の歴史的考察:戦国時代の記憶から泰平の府城へ

序章:徳山城への視座 — なぜ「戦国時代」から語る必要があるのか

山口県周南市にその跡を残す徳山城は、徳山藩毛利氏の居城として江戸時代を通じて地域の中心であり続けた。築城されたのは慶安2年(1649年)、初代藩主・毛利就隆によるものであり、時代区分としては江戸時代初期に属する 1 。したがって、徳山城そのものは「戦国時代の城」ではない。しかし、この城の本質を深く理解するためには、時計の針をさらに100年ほど遡り、戦国乱世の記憶が色濃く残る時代へと視点を移すことが不可欠である。

本報告書は、利用者様が既にご存知の概要、すなわち徳山城が壮大な規模を誇る陣屋形式の城であり、「日本三大陣屋」の一つに数えられるといった事実の先へと進むことを目的とする。そのために、単なる城郭の解説に留まらず、徳山城が築かれた土地、すなわち周防国都濃郡が戦国時代においてどのような戦略的価値を持ち、いかなる激動の歴史を経験したのかを徹底的に掘り下げる。

徳山城が立地する場所は、戦国期を通じて西国に覇を唱えた大内氏、その実権を掌握した重臣・陶氏、そして彼らを打倒し新たな支配者となった毛利氏による、まさに覇権争いの中心舞台であった 2 。この土地の記憶と戦略的重要性を抜きにして、なぜ徳山藩がこの地に府城を構えたのか、その真の理由は見えてこない。

本報告書は、第一部で徳山城が築かれる以前の「城なき地の戦国史」を詳述し、第二部で戦国の土壌の上に誕生した徳山藩の府城、すなわち壮大なる陣屋の実像に多角的に迫る。そして第三部では、物理的に失われた城が現代にどのようにその記憶を伝えているかを探る。これにより、戦国の動乱が終焉し、新たな支配体制が確立される過程を象-徴する存在としての徳山城の歴史的価値を明らかにすることを目指す。

報告全体の理解を助けるため、まず徳山周辺地域に関わる歴史年表を以下に示す。

【表1】徳山周辺地域・関連年表

年代(西暦)

元号

主な出来事

14世紀中頃

南北朝期

陶弘政、吉敷郡陶村より都濃郡富田保へ移る 2

1470年頃

文明2年頃

陶弘護、若山城を築城(有力説) 2

1551年

天文20年

大寧寺の変。陶隆房(晴賢)、主君・大内義隆を討つ 3

1555年

天文24年/弘治元年

厳島の戦い。陶晴賢、毛利元就に敗れ自刃 4 。毛利氏による防長経略が開始される。

1555年

弘治元年

杉重輔、若山城を急襲し、陶晴賢の子・長房が自刃。陶氏滅亡 7

1557年

弘治3年

須々万沼城が毛利軍の猛攻により落城 9

1617年

元和3年

毛利輝元の次男・就隆が3万石を分知され、徳山藩の原型が成立 11

1648年

慶安元年

毛利就隆、野上村(後の徳山)に陣屋の築城を開始 1

1649年

慶安2年

徳山陣屋(徳山城)が竣工 1

1650年

慶安3年

藩庁を下松から野上へ移し、地名を「徳山」と改称 12

1715年

正徳5年

万役山事件。萩藩との境界争いが原因で徳山藩が改易される 12

1719年

享保4年

領民の運動などにより徳山藩が再興される 12

1836年

天保7年

徳山藩主が「城主格」となり、陣屋が「御城」と呼ばれるようになる 1

1871年

明治4年

廃藩置県の直前、徳山藩は山口藩に合併される 13

1945年

昭和20年

徳山大空襲により、旧徳山城の建造物が焼失 13


第一部:城なき地の戦国史 — 徳山前史

徳山城が築かれる以前、その土地は戦国大名の興亡を映す鏡であった。ここでは、西国の雄・大内氏の時代から、毛利氏による新たな支配体制が確立されるまでの激動の歴史を追う。

第一章:西国に覇を唱えた大内氏と、その懐刀・陶氏

大内氏の支配と周防国

室町時代、周防・長門国(現在の山口県)を本拠とした大内氏は、大陸との貿易を掌握し、西国最強の大名と称されるほどの勢力を誇った 3 。その本拠地・山口は「西の京」と謳われ、雪舟などの文化人を庇護し、洗練された「大内文化」を開花させたことでも知られる 3 。大内氏は地方の役人出身でありながら、中央の幕府や海外との関係を巧みに利用し、高度な統治システムを構築していた 3

重臣・陶氏の台頭と富田への入部

この大内氏の繁栄を軍事面で支えたのが、一門衆筆頭であり、代々周防守護代を務めた陶氏であった 2 。陶氏は大内氏の分家・右田氏から分かれた一族で、当初は吉敷郡陶村を本拠としていた 5 。しかし、南北朝の動乱期、2代当主・陶弘政の代に、拠点を都濃郡富田保(現在の周南市の一部)へと移す 2 。この移転の背景には、当時、大内氏に対して反抗的な姿勢を見せていた同族の鷲頭氏(現在の下松市周辺を拠点)を牽制するという、明確な戦略的意図があったと考えられている 2 。これにより、後の徳山城が築かれる地は、陶氏による支配の拠点として、その歴史を本格的に始動させることとなる。

陶氏の本城・若山城

富田に入部した陶氏が、その権力の象徴として築いたのが若山城である 2 。築城時期については諸説あるが、応仁・文明の乱の最中であった文明2年(1470年)頃、7代当主・陶弘護が、乱に呼応した石見の吉見氏などへの備えとして築いたという説が有力である 2

若山城は、標高217メートルの山頂に本丸を置き、東西に伸びる尾根上に二の丸、三の丸、西の丸、蔵屋敷などを直線的に配置した「連郭式」と呼ばれる縄張りを持つ、典型的な中世山城であった 2 。城の各所には、敵の侵入を阻むための空堀(水を入れない堀)や竪堀(斜面に対して垂直に掘られた堀)、そして壇床(だんどこ)と呼ばれる階段状の平坦面など、高度な防御施設が設けられており、その遺構は現在も良好な状態で残されている 21 。この堅城は、山陽道や瀬戸内海を見下ろす交通の要衝に位置し、陶氏の軍事力と経済力を支える中心拠点として機能した。

陶氏の居館

一方で、若山城は険しい山城であり、日常的な政務や生活には不向きであった。そのため、陶氏は若山城の東麓、現在の周南市下上にある富岡公園付近に、平地の居館(平城)を構えていたと推定されている 23 。戦の際には山城である若山城に立て籠もり、平時には麓の居館で統治を行うという、中世武士の典型的な拠点形態がここにも見られる。この山城と居館が一体となって、周防東部における陶氏の支配体制を盤石なものとしていたのである。

第二章:激震・防長経略 — 毛利元就の周防平定

大内氏の重臣として権勢を振るった陶氏であったが、その運命は一人の英傑の台頭によって大きく揺らぐことになる。安芸の小領主から身を起こした毛利元就である。

厳島の戦いと陶晴賢の敗死

天文20年(1551年)、陶氏当主・陶隆房(後の晴賢)は、文治的傾向を強める主君・大内義隆に不満を抱き、謀反を起こして義隆を自刃に追い込んだ(大寧寺の変) 3 。これにより大内家の実権を掌握した晴賢であったが、この動きが毛利元就に介入の口実を与えることとなる。天文24年(1555年)、元就は周到な策略をもって晴賢を安芸国厳島へとおびき出し、奇襲攻撃によって陶軍を壊滅させた。総大将の陶晴賢もこの戦いで自刃し、西国に君臨した権力は一日にして崩壊した 3

防長経略の開始

この歴史的な勝利を収めた元就は、間髪入れずに大内氏の領国である周防・長門への全面的な侵攻作戦、いわゆる「防長経略」を開始する 4 。これにより、徳山周辺地域は、再び戦乱の渦に巻き込まれていく。

徳山周辺の激戦地・須々万沼城

防長経略において、毛利軍が直面した最大の抵抗の一つが、須々万沼城(現在の周南市須々万)における攻防戦であった 4 。この城は三方を沼に囲まれた天然の要害であり、城将の山崎興盛や江良賢宣らが率いる大内方の兵に加え、周辺の百姓らも含む1万人以上が籠城したと伝えられる 4

毛利軍は小早川隆景や毛利隆元の部隊を次々と投入するも、沼沢地という地形に阻まれ攻略に手こずった 4 。弘治3年(1557年)、毛利軍は初めて火縄銃を本格的に実戦投入し、圧倒的な火力で城を攻め立てた 10 。激戦の末、城はついに落城。この時、籠城していた1,500人から3,000人ともいわれる非戦闘員の老若男女も斬殺されたという記録は、この戦いの凄惨さを物語っている 9

若山城の落城と陶氏の滅亡

一方、陶氏の本城であった若山城は、意外な形で終焉を迎える。厳島の戦いの直後、かつて父を陶晴賢に殺された恨みを持つ杉重輔が、手勢を率いて若山城を急襲したのである 7 。城を守っていた晴賢の子・長房は、この予期せぬ攻撃に抗しきれず城を脱出。菩提寺である龍文寺へと逃れたが、そこで追撃を受け自刃し、陶氏の嫡流はここに断絶した 7 。その後、防長経略を進める毛利氏の支配下に置かれた若山城は、その戦略的価値を失い、廃城とされた 7

新たな支配者・杉元相

陶氏が滅亡した後、徳山城が築かれることになる野上庄(のがみのしょう)は、毛利氏に恭順した杉元相の所領となった 27 。杉元相は、現在の徳山動物園第2駐車場付近に居館を構えたとされ、その地には今も屋敷跡を示す石碑が残されている 28

戦国時代を通じて周防東部の中心であった陶氏の支配は、毛利氏による壮絶な平定戦を経て終焉を迎えた。徳山藩がこの野上村に本拠を置いたのは、単なる地理的な選択ではなかった。それは、かつての敵対勢力の中心地であり、多大な犠牲を払って手に入れた因縁の地に拠点を構えることで、毛利本家による防長支配が盤石であることを内外に示す、強力な象徴的意味合いを持つ政治的決断であった。徳山城の築城は、戦国時代の勝利を恒久的な支配体制へと転換させるための、いわば歴史の転換点に打ち込まれた「楔」だったのである。


第二部:徳山藩の府城 — 壮大なる陣屋の実像

戦国の動乱が過ぎ去り、徳川の世が確立される中で、かつての戦場は新たな治世の拠点へと姿を変えた。ここでは、戦国の記憶を内包する土地の上に誕生した徳山城の実像に、その成立から構造、そして波乱に満ちた歴史まで、多角的に迫る。

第三章:徳山藩の誕生と築城

萩藩支藩としての成立

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで西軍の総大将を務めた毛利輝元は、戦後に大幅な減封処分を受け、周防・長門の二国、約37万石の大名となった 3 。輝元は本拠を広島から萩へと移し、長州藩(萩藩)が成立する。

徳山藩の歴史は、この萩藩の支藩として始まる。元和3年(1617年)、輝元は次男の就隆(なりたか)に対し、周防国都濃郡を中心に3万石余りを内分分知した 11 。これが徳山藩の原型である。その後、幕府から正式に大名として認められたのは寛永11年(1634年)のことであった 1

下松から野上への移転

藩主となった就隆は、当初、周防国下松(現在の下松市)に陣屋を構え、藩政を開始した(下松藩) 30 。しかし、慶安元年(1648年)、就隆は本拠を野上村(のがみむら)へと移すことを決断し、新たな陣屋の築城を開始する 1 。陣屋は翌慶安2年(1649年)に竣工し、慶安3年(1650年)には藩庁も正式に移された 1 。この時、就隆は野上村の地名を「徳山」と改称し、ここに徳山藩が名実ともに誕生したのである 12 。この移転の背景には、第一部で述べた政治的・象徴的な意図に加え、水陸交通の便に優れ、城下町を建設するのに適した平地が確保できるといった地理的要因も考慮されたものと考えられる。

家臣団の構成

支藩として成立した徳山藩の家臣団は、その多くが関ヶ原の戦い後に浪人となった武士や、毛利本家の藩士の次男・三男などを新たに召し抱えることで編成された 31 。これは、独立した藩としての体裁を整える上での苦労と、新たな人材を登用しようとする初代藩主・就隆の意欲を同時に示している。

第四章:日本三大陣屋・徳山城の構造

「御舘」の全体像

徳山城は、一般的な城が持つ天守や高い石垣、広大な水堀といった防御施設を持たない、「陣屋(じんや)」と呼ばれる形式で築かれた 32 。空堀もなく、周囲を土塁で囲んだ比較的簡素な構造であったが、その敷地規模は陣屋としては比類なき壮大さを誇ったと伝えられている 34 。築城当初、この陣屋は敬意を込めて「御舘(おたて)」と呼ばれていた 13

陣屋という形式の意図と制約

徳山城が陣屋形式で築かれたのには、明確な理由がある。大坂の陣を経て豊臣家を滅ぼした徳川幕府は、慶長20年(1615年)に「一国一城令」を発布した 11 。これは、一つの国(藩)において大名が保有できる城を居城一つに限り、それ以外の城はすべて破却させるという法令であった 11 。これにより、全国の城郭は大幅に整理された。徳山藩のような支藩や、石高が5万石に満たない小藩では、新たに城を築くことは許されず、「城」の代わりに行政庁兼住居として「館」または「陣屋」を構えるのが一般的であった 11 。徳山藩もこの幕府の厳格な規定に従ったのである。しかし、その一方で、許された枠組みの中で最大限の規模と格式を追求し、藩の威信を示そうとした意図が、その壮大な造りから窺える。

日本三大陣屋

その壮大さから、徳山城(徳山陣屋)は、上総国(千葉県)の飯野陣屋、越前国(福井県)の敦賀陣屋とともに、「日本三大陣屋」と称されている 1 。この呼称がいつ、どのような根拠で定着したのかは必ずしも明確ではないが、それぞれの陣屋が持つ規模や格式、歴史的重要性が評価されたものと考えられる 37

徳山陣屋の特質を客観的に理解するため、他の二つの陣屋との比較を以下の表に示す。

【表2】日本三大陣屋 比較概要

項目

徳山陣屋(徳山城)

飯野陣屋

敦賀陣屋

所在地

周防国(山口県周南市)

上総国(千葉県富津市)

越前国(福井県敦賀市)

主な城主

徳山毛利氏

保科氏

敦賀酒井氏

藩の格式

萩藩支藩(外様)

譜代大名

小浜藩支藩(譜代)

主な石高

3万石 → 4万5千石 11

1万7千石 → 2万石 40

1万石 39

規模・特徴

土塁で囲まれ壮大な規模を誇る。庭園が残存。

土塁と水堀が完存。規模は約280m×350mと広大 45

陣屋規模は東西37間×南北31間と小規模。遺構はほぼない 44

この表から明らかなように、徳山藩は他の二藩に比べて石高が突出して高い。飯野藩や敦賀藩が1万石から2万石クラスであるのに対し、徳山藩は当初から3万石、後には4万5千石という、城を持つことが許されてもおかしくない規模の石高を有していた。この経済的・軍事的な基盤の大きさが、徳山陣屋の壮大さを支えていたと言える。毛利一門という高い家格と、それを裏付ける石高が、徳山陣屋を「日本三大陣屋」たらしめた根源であった。

絵図から見る徳山城

徳山陣屋の具体的な配置や規模については、山口県文書館に所蔵されている「徳山毛利家文庫」の中に、その手がかりとなる資料が存在する可能性が高い 12 。特に「徳山藩御家中絵図」といった絵図類が確認されれば、屋敷や庭園、土塁の配置など、往時の姿をより詳細に復元することが可能となるであろう 47 。これらの古文書は、失われた陣屋の実像を解明する上で極めて重要な価値を持っている 49

第五章:藩の歩みと城の変遷

壮大な陣屋を構えた徳山藩であったが、その歴史は決して平坦なものではなかった。本家の萩藩との関係や幕府の政策に翻弄され、藩の存亡を揺るがす危機にも見舞われている。

万役山事件と改易

徳山藩の歴史における最大の事件が、3代藩主・毛利元次の時代に起こった「万役山事件」である。正徳5年(1715年)、本家である萩藩との領地の境界にあった万役山の松の木一本の伐採を巡って、両藩の間で深刻な対立が生じた 12 。この争いは幕府の裁定を仰ぐ事態にまで発展し、結果として徳山藩は「改易」、すなわち領地没収・取り潰しという最も厳しい処分を受けることとなった 12 。藩主元次は出羽国新庄藩主・戸沢家にお預けの身となり、徳山藩は一時的に消滅した。

藩の再興

しかし、藩が取り潰された後も、旧徳山藩の領民たちは藩の再興を強く願い、熱心な運動を展開した 32 。その甲斐あって、享保4年(1719年)、幕府は元次の子である元堯に家督を継がせる形で、3万石での藩の再興を許可した 12 。一度は完全に断絶した藩が再興されるのは異例のことであり、これは徳山藩の歴史における最大の危機と奇跡的な復活の物語として記憶されている。

「城主格」への昇格

再興を果たした徳山藩は、その後、藩の威信回復と家格の上昇を長年の悲願として追求し続けた。特に、城を持つことが許されない「無城大名」から、城主と同等の格式を持つ「城主格大名」への昇格は、藩にとって極めて重要な目標であった 11 。本家である萩藩もこの動きを後押しし、幕府への働きかけを続けた。

そして天保7年(1836年)、8代藩主・毛利広鎮の代(就任は9代就馴の隠居後だが、働きかけは広鎮の代から続いていた)、徳山藩はついに幕府から「城主格」として認められる 1 。これにより、徳山藩主は城主として遇され、陣屋でありながら公には城として扱われることとなった。呼称も、それまでの「御舘」から正式に「御城(おしろ)」へと改められたのである 13 。この知らせが徳山にもたらされると、家臣から町人、村役人、寺社の者までが祝いのために「登城」し、領内は祝賀ムードに包まれたという 11

この一連の出来事は、江戸時代の「城」が単なる軍事施設ではなく、大名の格式や威信を規定する極めて政治的な象徴であったことを示している。徳山藩は、物理的な天守や石垣を持つことは叶わなかったが、まず陣屋の「規模」によって、そして次に「格式」の獲得によって、その権威を粘り強く追求し続けた。建造物は何も変わらずとも、その建造物が持つ「意味」を変えることで、藩の威信を高めようとしたのである。これは、徳川幕府の厳格な統制下で、地方大名がいかにして自らの存在価値を示そうとしたかという、絶えざる努力の軌跡を物語っている。

幕末維新と終焉

幕末の動乱期、徳山藩は本家の長州藩と行動を共にし、第二次長州征討では芸州口や小倉口に出兵するなど、重要な役割を果たした 30 。明治維新後、明治4年(1871年)7月の廃藩置県を目前にした6月、徳山藩は本家である山口藩(旧萩藩)に合併される形で、その250年以上にわたる歴史に幕を下ろした 12


第三部:現代に息づく城の記憶

江戸時代を通じて地域の中心であった徳山城は、近代化の波と戦争の惨禍の中でその物理的な姿を失った。しかし、その記憶は形を変え、今なお周南市の中心部に深く息づいている。

第六章:失われた御城と残された遺構

徳山大空襲による焼失

明治維新後も残されていた徳山城の建造物群は、昭和20年(1945年)7月26日の徳山大空襲によってそのほとんどが焼失し、往時の姿を完全に失ってしまった 13 。これにより、江戸時代から続いた「御城」の歴史は、物理的には終焉を迎えた。

現在の城跡地

かつて徳山城があった広大な敷地は、現在、周南市文化会館、祐綏(ゆうすい)神社、そして周南市徳山動物園として利用されており、市民の文化活動や憩いの中心地となっている 1 。城そのものは失われたが、その跡地は新たな役割を担い、地域社会に貢献し続けている。

現存する遺構と石碑

焼失を免れた一部の遺構や、後に建てられた石碑群が、かつてこの地に壮大な陣屋があったことを静かに物語っている。

  • 庭園跡: 周南市文化会館の南側に広がる前庭は、かつての徳山城の庭園の一部であり、往時の大名庭園の面影を今に伝える最も重要な遺構である 1 。園内には「徳山藩館邸跡」の碑が建てられ、在りし日の「館邸の門」や「毛利家館邸」の古写真が掲示されている 13
  • 祐綏(ゆうすい)神社: 城跡の西隣に位置するこの神社は、文化8年(1811年)に徳山毛利家の霊社として建立されたもので、初代藩主・毛利就隆と9代藩主・毛利元蕃を祭神として祀っている 1
  • 大坂城築城残石: 庭園跡の一角には、ひときわ大きな石が置かれている。これは、江戸時代初期に徳川幕府が諸大名に命じた大坂城再築工事の際、徳山藩が近隣の大津島から切り出して準備した石材の一つである 1 。石の側面には、毛利家の家紋である「一文字に三つ星」を簡略化した「一〇」の刻印がはっきりと見て取れる 13 。これは、徳山藩が幕府の公的な普請役(ふしんやく)を担う有力な藩であったことを示す、貴重な歴史の証人である。
  • 周辺の石碑群: 城跡の周辺、特に周南市美術博物館の付近には、「旧藩鐘楼跡(きゅうはんしょうろうあと)」「旧藩作事方跡(さくじかたあと)」「旧藩武方跡(ぶかたあと)」など、かつての城下町の施設配置を示す石碑が点在している 1 。これらを巡ることで、陣屋を中心とした藩の行政機構の広がりを体感することができる。
  • 杉家屋敷跡: 徳山動物園の第2駐車場付近には、戦国時代の末期にこの地を治めた杉元相の屋敷跡を示す石碑と説明板が建てられている 1 。これは、徳山城が築かれる以前の、戦国時代から江戸時代への移行期の歴史を今に伝える重要な史跡である。

第七章:混同されうる「徳山城」について

歴史を調査する上で、同名の城や氏族との混同を避けることは極めて重要である。「徳山城」という名称は、歴史上、周防国以外にも存在したため、ここで明確な区別を行っておく。

  • 他国の「徳山城」との区別:
  • 美濃国徳山城: 岐阜県揖斐郡揖斐川町(旧藤橋村)に存在した城。戦国時代には徳山氏の居城であったが、江戸時代には旗本徳山氏の陣屋が置かれた 55 。この地域は徳山ダムの建設により、城跡を含めて水没している 55
  • 遠江国徳山城: 静岡県榛原郡川根本町に存在した山城。南北朝時代に今川氏によって攻め落とされた記録が残る 57

本報告書の対象である周防国徳山城(山口県周南市)は、これら二つの城とは全く別の城郭である。

  • 旗本・徳山氏との関連性の否定:
    美濃国徳山城の城主であった徳山則秀は、斎藤氏、織田信長、柴田勝家、そして最終的には徳川家康に仕えた戦国武将である 58。その子孫は江戸時代を通じて5千石の旗本として存続し、美濃国と各務原市に陣屋を構えた 35。この旗本徳山氏と、毛利輝元の次男を祖とする外様大名・徳山藩毛利氏、およびその居城である周防国徳山城との間には、血縁的・歴史的な関係は一切存在しない。この区別は、専門的な歴史理解において不可欠な注意点である。

結論:戦国の動乱から泰平の象徴へ — 徳山城が物語る歴史の連続性

本報告書は、「戦国時代という視点」から徳山城を多角的に分析してきた。その結果、この城が単に江戸時代に築かれた一つの陣屋ではなく、より深く、重層的な歴史を内包する存在であることが明らかになった。

徳山城が築かれた土地は、戦国時代に大内氏の懐刀・陶氏が覇権を競い、毛利氏が多大な犠牲を払って平定した、まさに戦略的要衝であった。その因縁の地に、毛利一門の支藩が壮大な府城を構えたという事実は、戦国時代の勝利を徳川治世下の恒久的な支配体制へと昇華させる、極めて象徴的な行為であったと言える。

城の構造そのものも、歴史の転換を雄弁に物語っている。天守や石垣を持たない簡素な土塁と、壮大な屋敷群という組み合わせは、幕府による厳格な統制(一国一城令)と、それに屈することなく自らの威信を最大限に示そうとする藩の気概という、二つの相反する力が均衡した結果生まれた、江戸時代特有の形態であった。さらに、万役山事件による一度の改易と奇跡的な再興、そして長年の悲願であった「城主格」への昇格という波乱の歴史は、江戸時代の藩がいかにして自らの存続と格式の向上に心血を注いだかを如実に示している。

昭和の戦禍によって物理的な姿は失われたものの、徳山城の記憶は消え去ってはいない。残された庭園跡や神社、そして点在する石碑群は、歴史の証人として静かに佇んでいる。そして何より、かつての城跡が市民の文化と憩いの中心地として再生され、親しまれている現代の姿は、徳山城が持つ歴史的価値が、形を変えながらも地域社会に深く根付き、継承されていることを示している。

戦国の記憶、江戸の治世、そして現代の市民生活へ。徳山城が我々に語りかけるのは、断絶ではなく、一つの土地を舞台に繰り広げられてきた、この壮大で連続的な歴史の物語なのである。

引用文献

  1. 徳山城の見所と写真・100人城主の評価(山口県周南市) - 攻城団 https://kojodan.jp/castle/2016/
  2. 若山城跡 - 周防山口館 https://suoyamaguchi-palace.com/sue-castle/wakayama-castle/
  3. 山口県の歴史【第1回|中世編】大内氏-毛利氏~中世史から見えた、近代の先鋭的な政治力 https://discoverjapan-web.com/article/46435
  4. 「防長経略(1555-57年)」毛利元就、かつての主君・大内を滅ぼす | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/77
  5. 【陶氏と若山城】 - ADEAC https://adeac.jp/kudamatsu-city/text-list/d100010/ht020200
  6. 若山城跡 - 山口県の文化財 https://bunkazai.pref.yamaguchi.lg.jp/bunkazai/detail.asp?mid=100027&pid=bl
  7. 若山城(山口県周南市)の詳細情報・口コミ | ニッポン城めぐり https://cmeg.jp/w/castles/7859
  8. 若山城跡(わかやまじょうせき) - 山口県周南市 https://www.city.shunan.lg.jp/soshiki/107/3435.html
  9. 須々万沼城 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A0%88%E3%80%85%E4%B8%87%E6%B2%BC%E5%9F%8E
  10. 防長経略 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%B2%E9%95%B7%E7%B5%8C%E7%95%A5
  11. 「徳山城」のはじまり - 山口県文書館 http://archives.pref.yamaguchi.lg.jp/user_data/upload/File/smallexhibition/r05-03.pdf
  12. 徳山藩について調べる - 周南市立図書館 https://shunan-library.jp/wp-content/uploads/2024/10/shunan_01.pdf
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