最終更新日 2025-08-23

手取城

紀州手取城は、日高川流域を支配した玉置氏の拠点。広大な城域と緻密な縄張りを持つ。秀吉の紀州征伐で、玉置直和は恭順するも、同族湯川氏との「坂ノ瀬合戦」で落城。その後廃城となるも、遺構は残る。

紀州最大級の山城・手取城の興亡 ― 戦国末期、ある国衆の決断と悲劇

序章:忘れられた巨城 ― 紀州手取城の再発見

和歌山県日高郡日高川町和佐、日高川が紀伊水道へと注ぐ平野部を眼下に見下ろす城山に、手取城は存在する 1 。標高約171メートルの山頂から尾根筋にかけて築かれたこの城は、東西約500メートル、南北約250メートルにも及ぶ広大な城域を誇る、紀州最大規模の戦国山城である 3 。しかし、和歌山城のような近世城郭の知名度に比して、その存在は広く知られているとは言い難い。

手取城が歴史の表舞台で脚光を浴びた期間は、決して長くはない。その最期は、天正13年(1585年)、羽柴秀吉による紀州征伐という、戦国時代の終焉を告げる大きな動乱の中での悲劇的な落城であった。この出来事を境に城は廃され、歴史から姿を消す。だが、その「死」こそが、奇跡的なまでに良好な遺構の保存状態をもたらした。人の手による大規模な改変を免れた城跡は、堀切、土塁、曲輪群といった戦国期山城の構造をほぼ完全な形で現代に伝えている 3

本報告書は、この忘れられた巨城・手取城を対象に、その縄張りと構造を徹底的に分析し、城主であった玉置一族の興亡を追う。そして、戦国という時代の大きな転換点において、城主・玉置直和が下した決断と、それが引き起こした同族間の相克「坂ノ瀬合戦」の真相に迫る。山野に眠る石垣と土塁は、単なる過去の遺物ではない。それは、天下統一の奔流に飲み込まれた紀伊国衆の苦悩と選択を、今なお雄弁に物語る歴史の証言者なのである。

第一章:山野に眠る要害 ― 手取城の縄張りと構造

手取城は、単なる防御拠点としての「詰めの城」ではない。その壮大な規模と緻密な縄張りは、日高川流域一帯を支配する政治・軍事・情報の複合拠点として計画的に構築されたことを示している。

立地と全体構成

城は、日高川東岸にそびえる城山(標高171メートル、比高160メートル)の地形を巧みに利用して築かれている 7 。この場所からは、かつてのライバルであり姻戚関係でもあった湯川氏の居城・亀山城址を含む日高平野を一望でき、遠くは紀伊水道の向こうに四国の山々までを眺望することが可能である 3 。この卓越した眺望は、領国支配と防衛の両面において、極めて重要な戦略的価値を持っていた。

城郭は、山の尾根筋に沿って主要な曲輪を直線的に配置する連郭式を基本としながらも、東西に大きく広がる複雑な構造を持つ。城の中核を成すのは、最高所に位置する本丸(主郭)であり、その南北と東西の尾根に二の丸、東の丸、西の丸といった大規模な曲輪群が連なっている 4

主要曲輪の機能分析

各曲輪は、それぞれが異なる役割を担う独立した区画として機能しつつ、有機的に連携して城全体の防御力を高めていたと考えられる。

  • 本丸(主郭): 通称「天守台」とも呼ばれる城の最高所に位置する曲輪で、高さ7.5メートルに及ぶ切岸の上に築かれている 5 。内部には礎石が残り、何らかの中心的な建造物が存在したことを示唆している。北側直下には4条もの堀切と崩落した石垣が確認でき、城の中枢部がいかに厳重に防御されていたかを物語っている 9
  • 二の丸: 本丸の南側に広がる平坦地で、居住性の高い空間であったと推定される。この地からは素焼きの巴瓦や布目瓦などが多数出土しており、単なる軍事施設ではなく、恒常的な生活や政務の場として機能する瓦葺きの建物があった可能性が高い 5
  • 東の丸: 城内で最大の面積を持つ曲輪で、南北の長さは110メートルに達する 5 。その広さから、多くの兵を駐屯させる兵站基地としての役割が考えられる。また、北端には寺院跡が残っており、城内に宗教的・儀礼的な空間が設けられていたことを示している 5 。これは、城主が領民の信仰をも掌握する、領域支配者としての側面を象徴するものである。
  • 西の丸: 本丸・二の丸とは幅の広い巨大な堀切によって完全に分断されており、独立した防御ブロックを形成している 8 。日高川下流域、すなわち西側からの敵の侵攻に対する最前線であり、その防御思想は巨大な土塁群に見て取れる 8

防御施設の思想

手取城の防御システムは、土木技術の粋を集めた堀と土塁、そして要所に配された石垣によって構築されている。

  • 堀切と土塁: 城の防御を語る上で最も特徴的なのが、尾根筋を幾重にも断ち切る堀切である 10 。特に本丸・二の丸と西の丸を隔てる大堀切は、仮に西の丸が突破されても、主郭部への侵攻を容易に許さない段階的な防御思想を明確に示している 8 。また、西の丸に築かれた巨大な土塁は、敵の侵攻を食い止め、土塁上からの効果的な迎撃を可能にするための設備であった 8
  • 石垣: 城内では、本丸北側や南麓の水の手曲輪などで石垣が確認できる 2 。これらは、土留めとしての機能に加え、切岸の角度を急峻にして防御力を高める役割や、城主の権威と普請能力を誇示する象徴的な意味合いも持っていたと考えられる。
  • のろし台: 西の丸の中心部には、上から見ると五角形を呈する特徴的な高台が存在し、「狼煙台」と伝えられている 5 。手取城は、山野の城山をはじめとする複数の支城群を周辺に有しており、この狼煙台はそれらの支城との情報伝達ネットワークの中核を担う、重要な通信拠点であったと推測される 5

これらの構造から浮かび上がるのは、手取城が単に籠城を目的とした閉鎖的な要塞ではないという事実である。日高平野全域を監視下に置き、のろし台を通じて情報網を形成し、城内には政務や儀礼の空間をも備えていた。これは、玉置氏が日高川流域の覇者として君臨するための「領域支配型拠点」として、この城を築き、経営していたことを強く示唆している。手取城の縄張りは、戦国時代後期における有力国衆の拠点城郭が到達した一つの完成形を示していると言えよう。


表1:手取城の主要な遺構と特徴

遺構名

位置

規模・特徴

推定される機能

本丸(主郭)

城内最高所

高さ7.5mの台地。礎石が残存。北側に4条の堀切と石垣。

城の中枢部。司令塔、最終防衛拠点。

二の丸

本丸南側

広大な平坦地。巴瓦、布目瓦が出土。

政務・居住空間。恒常的な生活の場。

東の丸

本丸東側の尾根

南北110mに及ぶ城内最大の曲輪。北端に寺院跡。

兵の駐屯地、兵站基地。宗教・儀礼空間。

西の丸

本丸西側(大堀切を挟む)

巨大な土塁群で防御された独立区画。

西側方面への最前線防御拠点。

狼煙台

西の丸中心部

高さ2.5mの五角形をした高台。

支城群との情報通信ネットワークの中核。

大堀切

本丸・二の丸と西の丸の間

幅の広い大規模な堀切。

城内をブロック化し、段階的防御を実現する要。

水の手曲輪

城南麓の溜池「風呂谷」の上部

石垣で補強された区画。

籠城時の生命線である水源の確保・防衛。


第二章:日高川の覇者 ― 城主・玉置一族の興亡

手取城の堅固な縄張りは、それを築き、拠点とした玉置一族の勢力の大きさを物語っている。彼らはいかにして紀伊国有数の国衆へと成長し、戦国の世を渡ったのであろうか。

玉置氏の出自と紀伊への進出

玉置氏の出自には諸説あり、家伝では平資盛の子孫が熊野に逃れたことに始まると伝えるものや、熊野別当家の庶流とする説などが存在するが、確たる証拠はない 5 。そのルーツが、大和国吉野郡十津川村の玉置山周辺にあることは、多くの記録が示唆するところである 12

彼らが歴史の表舞台に本格的に登場するのは南北朝時代である。北朝方として軍功を挙げた玉置氏は、その恩賞として所領を得て紀伊国へと進出した 5 。そして、日高川を下り、在地の川上氏を攻めて勢力を拡大。一族の玉置大宣が和佐の地に手取城を築いたのが、日高川流域における覇権の始まりであった 5 。この頃、日高川上流の鶴ヶ城を拠点とする「山地玉置氏」と、手取城を拠点とする「和佐玉置氏」に分かれており、本稿で扱うのは後者である 13

幕府奉公衆としての地位

室町時代に入ると、玉置氏はその勢力をさらに伸長させる。彼らは紀伊国守護であった畠山氏の被官となる一方で、将軍に直属する武士団である「幕府奉公衆」としての地位を得た 6 。この奉公衆という立場は、守護の支配や介入をある程度排除できる特権であり、在地における玉置氏の自立性を高める上で極めて重要な役割を果たした。彼らは中央の足利将軍家と直接結びつくことで、守護畠山氏と対等に近い関係を築き、紀伊国内で独自の勢力圏を確立していったのである 12

しかし、この幕府奉公衆という栄誉ある地位は、戦国乱世が深まるにつれて、その意味合いを大きく変えていく。足利将軍の権威が失墜し、織田信長や羽柴秀吉といった新たな中央権力が台頭する時代になると、旧来の権威に依存してきた玉置氏は、自らの立ち位置を根本から問い直されることになった。他の国衆が守護や戦国大名との主従関係の中で生き残りを図る中、玉置氏は「旧体制」の有力者であったがゆえに、新しい天下人に対して、より困難で主体的な判断を迫られる立場に置かれたのである。この過去の栄光と現在の現実との乖離こそが、後の玉置直和の苦渋に満ちた決断の遠因となったと言えるかもしれない。

戦国末期の玉置直和

手取城最後の城主となる玉置直和の時代、玉置氏は日高郡・有田郡に一万石を領する紀伊有数の勢力となっていた 12 。直和は、日高地方のもう一方の実力者であった亀山城主・湯川直春の娘を妻に迎えることで、強固な婚姻同盟を構築した 5 。これにより、玉置・湯川両氏は日高地方を二分して支配する盤石な体制を築き上げたかに見えた。だが、この血縁によって固められたはずの絆は、天正13年(1585年)、天下統一の巨大な波の前に、脆くも崩れ去る運命にあった。

第三章:天正十三年の決断 ― 秀吉の紀州征伐と坂ノ瀬合戦

天正13年(1585年)、羽柴秀吉による紀州征伐は、手取城と玉置一族の運命を決定づける分水嶺となった。この戦役の中で、玉置直和は一族の存亡を賭けた重大な決断を下し、それは紀州の歴史に深く刻まれる悲劇「坂ノ瀬合戦」へと繋がっていく。

背景:天下人の紀州侵攻

天正10年(1582年)の本能寺の変後、天下人の地位を固めつつあった羽柴秀吉にとって、紀州は依然として厄介な存在であった。特に、強力な鉄砲傭兵集団である雑賀衆や根来寺の僧兵たちは、秀吉と敵対する勢力と結び、大坂の背後を脅かし続けていた 15 。小牧・長久手の戦いと連動した紀州勢の和泉侵攻は、秀吉に大規模な紀州征伐を決意させる決定打となった 18

天正13年3月、秀吉は10万とも言われる大軍を率いて紀州へ侵攻。和泉の城砦群を瞬く間に制圧すると、根来寺を焼き討ちにし、雑賀衆の本拠地である太田城を水攻めにした 17 。これと並行して、仙石秀久や杉若無心らが率いる別動隊が紀南へと進軍し、湯川氏や玉置氏といった国衆たちに降伏か抗戦かの選択を突きつけたのである 17

同盟の崩壊:玉置と湯川の対立

秀吉軍の圧倒的な軍事力の前に、紀南の国衆たちの対応は二分された。日高郡に強大な勢力を持つ湯川直春は、紀州武士の意地と独立を守るため、徹底抗戦を主張した 12 。しかし、その娘婿であり、同盟者であったはずの手取城主・玉置直和は、彼我の戦力差を冷静に分析し、秀吉に恭順することが一族の生き残る唯一の道であると判断した 5

この決断は、単なる裏切りと断じることはできない。旧来の幕府奉公衆として中央の動向に敏感であった玉置氏にとって、秀吉の権力がもはや覆すことのできないものであることは明らかであった。直和の選択は、旧来の同盟関係よりも、新たな中央権力との関係を優先するという、戦国末期の武将としては極めて現実的な政治判断であった。

この対立は、単なる戦略上の意見の相違にとどまらなかった。湯川直春の娘であり、玉置直和の妻であった女性は、父から離縁して実家に戻るよう勧められたが、これを一蹴し、夫と共に手取城に残る決意をしたと伝えられている 9 。姻戚関係という最も強い絆が、天下統一の奔流の中で引き裂かれていく悲劇が、ここにあった。

坂ノ瀬合戦と手取城の落城

袂を分かった湯川直春は、秀吉軍本体と対峙する前に、背後を脅かす親秀吉勢力を排除する必要に迫られた。その矛先は、まず同じく秀吉に恭順した白樫氏らに向けられ、次いで娘婿の居城・手取城へと向けられた 12 。これは、秀吉が地方の対立構造を利用して抵抗勢力を自滅させるという、彼の得意とする戦略の術中にはまる形となった。坂ノ瀬合戦は、中央の巨大権力が引き起こした「地域内代理戦争」という側面を色濃く持っていたのである。

『玉置覚書』によれば、合戦の口火を切ったのは玉置勢による湯川領・小松原への放火であったという 18 。これに激怒した湯川勢8,000人と、玉置勢1,600人が、手取城近郊の坂ノ瀬で激突した。玉置勢は善戦したものの衆寡敵せず、83名の死者を出して敗走、手取城での籠城戦へと移行した 18

三日三夜にわたる攻防の末、手取城は湯川勢の猛攻により陥落し、城は焼き払われた 9 。この落城の際の玉置直和の消息については、史料によって記述が異なる。玉置家側の記録と考えられる『玉置覚書』では、直和は城を落ち延びたとされる一方、『田辺市誌』などでは討死したとも記されている 18 。この記述の相違は、単なる情報の混乱ではなく、合戦後のそれぞれの家の立場や正当性を主張するための、意図的な歴史叙述であった可能性も否定できない。いずれにせよ、玉置氏が代々の本拠地としてきた手取城が、同族の手によって灰燼に帰したことだけは、動かしがたい事実であった。


表2:坂ノ瀬合戦に関する諸記録の比較

項目

『玉置覚書』

『田辺市誌』など

考察

合戦年月日

天正13年3月21日

(詳細な日付の記述は異なる場合がある)

紀州征伐の最中であることは一致。

兵力

湯川勢 8,000人 vs 玉置勢 1,600人

(具体的な兵力数の記述は少ない)

玉置家側の記録として、自軍の奮戦を強調するため兵力差を誇張した可能性も考慮される。

戦闘経過

小松原への放火が発端。坂ノ瀬で野戦の後、手取城で三日三夜の籠城戦。

手取城が攻囲され、落城。

籠城戦の末に落城したという大筋は共通している。

玉置直和の結末

城を落ち延び、生存。

落城時に討死。

玉置家としては当主が生き延び豊臣政権下で家名を存続させたことを正当化する必要があり、敵対した側や周辺地域の記録では湯川氏の武威を示すため討死したと記した可能性がある。


第四章:城の終焉、一族の流転

手取城の落城は、玉置氏にとって本拠地を失うという直接的な打撃だけでなく、その後の運命を大きく左右する転機となった。一族は流転の道を歩み、手取城が再び歴史の舞台に上がることはなかった。

戦後の処遇と直和の晩年

秀吉への恭順という、一族の存続を賭けた決断を下したにもかかわらず、玉置直和に対する戦後の評価は厳しいものであった。恭順の意思を示しながらも、結果的に同族間の争いで居城を失ったことは、秀吉の目には力不足と映ったのかもしれない。戦後、手取城は返還されたものの、所領はかつての一万石から三千五百石へと大幅に削減された 15

この処遇に不満を抱いた直和は、秀吉の弟である羽柴秀長に仕えるが、やがて子の永直に家督を譲り、高野山に出家したと伝えられている 15 。戦国の世を生き抜くための苦渋の決断が、結果的に一族の勢力を削ぐことになり、失意のうちに俗世を離れた直和の胸中には、万感の思いがあったに違いない。

玉置一族のその後

父・直和の跡を継いだ玉置永直の生涯もまた、波乱に満ちたものであった。彼は慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにおいて西軍に与したため、戦後に改易され、所領をすべて失った 15 。その後、大坂の陣では豊臣方として大坂城に入城するも、豊臣家の滅亡と共に再び浪々の身となる。しかし、最終的には紀州徳川家の初代藩主・徳川頼宣に召し抱えられ、武士として家名を再興した 15

また、玉置一族のすべてが永直と運命を共にしたわけではない。一部は故郷である和佐の地を離れ、尾張徳川家や津藩藤堂家に仕官して新たな道を歩んだ 20 。一方で、在地に残り、紀州徳川家の地士として取り立てられた者もいたという 20 。こうして、日高川の覇者であった玉置一族は、戦国時代の終焉と共にその勢力を失い、各地へと散っていったのである。

手取城の廃城

天正13年の落城後、手取城が城として再び機能することはなかった。城主であった玉置氏が大幅に減封され、近世的な城郭を維持するだけの経済的・政治的基盤を失ったことが最大の理由である。その後、慶長20年(1615年)の一国一城令を待つまでもなく、手取城は事実上廃城となり、自然に還っていった。

しかし、この歴史からの退場こそが、手取城にとって最大の幸運であった。近世的な改修や、江戸時代の破却を免れたことで、戦国時代末期の山城の姿が、奇跡的にそのまま凍結保存されることになったのである。城の終焉が、その歴史的価値を未来永劫に伝える結果となったのは、歴史の皮肉と言えるだろう。

終章:現代に語りかける石垣 ― 史跡としての手取城

歴史の表舞台から姿を消した手取城は、長い年月を経て、戦国時代の息吹を今に伝える貴重な文化遺産として、再びその価値を見出されている。山中に眠る石垣や土塁は、地域の歴史を物語る雄弁な語り部である。

史跡としての価値と保存活動

手取城跡の最大の価値は、戦国時代末期の山城の構造が、ほとんど人為的な破壊を受けることなく、極めて良好な状態で残されている点にある 3 。その学術的価値は高く評価され、現在、日高川町の指定史跡となっている 7 。将来的には、県の指定文化財を目指す動きもあり、その歴史的重要性が再認識されつつある 21

この貴重な遺構を後世に伝えるため、地元では「手取城址保存会」が結成され、地道な活動が続けられている 5 。会員たちの手による下草刈りや、桜・山椿の植樹などの整備によって、城跡は公園化され、歴史愛好家や地域住民が訪れやすい環境が整えられている 4 。また、和歌山県立博物館には専門家の手による精巧な復元模型が展示され、往時の手取城の姿を視覚的に理解する助けとなっている 3 。これらの活動は、手取城が単なる遺跡ではなく、地域が誇る生きた歴史遺産であることを示している。

地域に根付く記憶と伝承

手取城の記憶は、物理的な遺構だけでなく、地域の地名や伝承の中にも生き続けている。城山の西麓には、玉置氏の菩提寺であった生蓮寺が現存し、直和の木像が安置されているほか、「土居」と呼ばれる地名は玉置氏の居館跡であったと伝えられている 5

さらに、落城の悲劇を物語る地名も残されている。城の北にある「泣き児ガ峠」は、落城の際に城から逃れる夫人や女たちが、幼子の泣き声に哀れを催したことから名付けられたという 5 。また、一族の女性たちが泣きながら逃げた道は「泣越」と呼ばれ、その記憶を今に伝えている 5 。これらの民話や伝承は、文献史料が語らない人々の感情や悲しみを、400年以上の時を超えて我々に語りかけてくる。

結論

手取城の歴史は、戦国乱世の終焉期における地方武士の苦悩と決断の縮図である。幕府奉公衆という旧来の権威と、天下統一という新たな時代の奔流との間で、城主・玉置直和が下した現実的な選択は、結果として同族間の悲劇的な争いと、本拠地の喪失を招いた。そして、その悲劇的な終焉という歴史的偶然こそが、手取城の遺構を奇跡的に保存し、現代の我々が戦国時代の山城の真髄に触れることを可能にしている。

手取城は、単なる過去の遺物ではない。それは、地域の歴史とアイデンティティを形成し、時代の転換点における人間の選択の重さを問いかける、貴重な文化遺産である。その価値を理解し、保存し、次代へと継承していくことは、自らの歴史を深く知る上で不可欠な営みなのである。

引用文献

  1. 手取城址 - 和歌山観光情報 https://wakayama-kanko.com/kankospot/222/
  2. 手取城 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%89%8B%E5%8F%96%E5%9F%8E
  3. コラム2(お城と城下町の話) - 和歌山県立博物館 https://hakubutu.wakayama.jp/information/%E3%82%B3%E3%83%A9%E3%83%A0%EF%BC%92%EF%BC%88%E3%81%8A%E5%9F%8E%E3%81%A8%E5%9F%8E%E4%B8%8B%E7%94%BA%E3%81%AE%E8%A9%B1%EF%BC%89/
  4. 手取城址保存会 https://wasatetori.exblog.jp/
  5. 手取城 ~川辺町(現日高川町)和佐~ - 生石高原の麓から https://oishikogennofumotokara.hatenablog.com/entry/2020/06/09/174100
  6. 玉置氏と手取城 https://www.hakubutu.wakayama-c.ed.jp/permanent/chusei2/10.htm
  7. 手取城の見所と写真・100人城主の評価(和歌山県日高川町) - 攻城団 https://kojodan.jp/castle/1548/
  8. 手取城 [1/3] 国人領主 玉置氏が築いた石垣造りの巨大山城 https://akiou.wordpress.com/2021/10/27/tedori/
  9. 紀伊 手取城 義父と袂を分かつ決意をした玉置直和の居城 | 久太郎の ... http://kyubay46.blog.fc2.com/blog-entry-269.html
  10. 都道府県別ベスト中世城郭(西日本編) *近世城郭はベストに入ってくるのが当然なので http://yogokun.my.coocan.jp/bestjou2.htm
  11. 手取城 ちえぞー!城行こまい http://chiezoikomai.umoretakojo.jp/kansai/wakayama/tedori.html
  12. 武家家伝_玉置氏 - harimaya.com http://www2.harimaya.com/sengoku/html/tamaki.html
  13. 玉置氏 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%89%E7%BD%AE%E6%B0%8F
  14. 手取城 - お城散歩 - FC2 https://kahoo0516.blog.fc2.com/blog-entry-325.html
  15. 戦国!室町時代・国巡り(9)紀伊編|影咲シオリ - note https://note.com/shiwori_game/n/n773451d5658f
  16. 玉置小平太の紹介 - 大坂の陣絵巻へ https://tikugo.com/osaka/busho/toyotomi/b-tamaki-kohei.html
  17. Kii route Wakayama-2 秀吉の紀州征伐 The Conquest of Wakayama by Hideyoshi Toyotomi https://wakigaaris.exblog.jp/27737685/
  18. 紀州征伐 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%80%E5%B7%9E%E5%BE%81%E4%BC%90
  19. 玉置直和 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%89%E7%BD%AE%E7%9B%B4%E5%92%8C
  20. 紀州武家列伝 - 紀伊国戦国時代勢力予想図 http://kisyujt.com/html/castle/top/kisyubukeretuzen.html
  21. ここが手取城の本丸跡です - 日高新報 https://hidakashimpo.co.jp/?p=82061