萩城は関ヶ原で敗れた毛利氏が築き、見えぬ天守に苦渋を秘めた。城下町は維新の礎となり、藩庁移転と廃城を経て世界遺産に。その歴史は忠誠と変革を語る。
日本の城郭史において、「指月城」という名称は、歴史的に二つの異なる重要な城を指すため、研究の前提として両者を明確に区別する必要がある。一つは、本報告書の主題である、関ヶ原の戦い後に毛利輝元が長州藩(萩藩)の本拠として築いた山口県萩市の 萩城 の雅称である 1 。もう一つは、天下統一を目前にした豊臣秀吉が、京都の伏見に最初に築いた城、すなわち
指月伏見城 である 3 。
秀吉の指月伏見城は、文禄元年(1592年)頃から隠居屋敷として建設が始まり、その後、豊臣秀頼の誕生を機に本格的な城郭へと拡張された 4 。発掘調査では金箔瓦が多数出土しており、絢爛豪華な桃山文化を象徴する城であったことが窺える 3 。しかし、この壮麗な城は文禄5年(1596年)の慶長伏見地震によって倒壊し、秀吉は近隣の木幡山に新たな伏見城を再建することになる 4 。
このように、秀吉の指月城と毛利氏の指月城(萩城)は、築城者、時代、場所、そして歴史的役割が全く異なる別個の存在である。本報告では、利用者からの照会に基づき、戦国時代の終焉と江戸時代の幕開けという激動期に築かれた、山口県萩市の「指月城」、すなわち 萩城 に焦点を当て、その歴史的背景、構造、そして後世に与えた影響について、詳細かつ徹底的な分析を行う。
項目 |
指月伏見城 |
指月城(萩城) |
所在地 |
山城国伏見(現・京都府京都市伏見区) 3 |
長門国阿武郡萩(現・山口県萩市) 8 |
主な築城者 |
豊臣秀吉 4 |
毛利輝元 2 |
築城年代 |
文禄元年~文禄5年(1592年~1596年)頃 4 |
慶長9年~慶長13年(1604年~1608年)頃 9 |
主な特徴 |
金箔瓦を多用した豪華絢爛な城。秀吉の政庁・隠居城 3 。 |
指月山を要害とする平山城。防御を重視した実戦的な構造 9 。 |
歴史的役割 |
豊臣政権末期の政治的中心地 7 。 |
長州藩(萩藩)の藩庁として約260年間、藩政の中心を担う 11 。 |
末路 |
慶長伏見地震により倒壊・崩壊 4 。 |
幕末の藩庁移転後、明治7年(1874年)の廃城令により解体 1 。 |
現状 |
石垣の一部が発掘・保存されている 3 。 |
国の史跡「萩城跡」として整備(指月公園)。石垣や堀が現存 10 。 |
萩城の誕生は、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにおける西軍の敗北と、その総大将に祭り上げられた毛利輝元の戦後処理に直接起因する。戦国時代、毛利氏は祖父・元就の代に中国地方一円を支配下に収め、輝元の代には豊臣政権下で五大老の一角を占める120万石の大大名であった 14 。しかし、関ヶ原の本戦において輝元自身は大坂城に留まり、前線では一族の吉川広家が徳川家康と内通するなど、毛利家は主体的に戦うことなく敗戦を迎えた 14 。
この結果、徳川家康は戦後処理において毛利氏に対し、安芸広島を中心とした広大な領地を没収し、周防・長門の二国、約37万石へと大幅に減封するという極めて厳しい処分を下した 15 。これは、西国の雄であった毛利氏の力を根底から削ぐための措置であり、この屈辱は以降260年以上にわたり、長州藩の武士たちの心に深く刻み込まれ、幕末の倒幕運動に至る複雑な感情の源流となった。
減封後、輝元は新たな居城を築く必要に迫られ、領国の中心にあり交通の要衝でもある山口、あるいは防府を候補地として望んでいたとされる 17 。輝元はこれらを含む三か所の候補地を幕府に打診したが、家康が最終的に指定したのは、日本海に面し、三方を山に囲まれた辺鄙な地、萩であった 18 。
この選定は、家康の深謀遠慮に基づくものであった。山陰の僻地に毛利氏を封じ込めることで、政治的・経済的な発展を阻害し、中央への影響力を削ぐ狙いがあったと解釈されている 18 。毛利氏を江戸から遠く、交通の不便な土地に押し込めることは、徳川政権の安定化を図る上で重要な戦略であった。
しかし、この家康の「封じ込め」策は、二百数十年後、歴史の皮肉ともいえる結果を生む。萩という土地は、幕府の監視が及びにくい地理的隔絶性を持つと同時に、日本海を通じて大陸や他地域からの情報が入りやすいという側面も持っていた。さらに、三方を山に囲まれた地形は、陸路からの侵攻を防ぐ天然の要害でもあった 11 。結果として、毛利氏は外部からの干渉を受けにくく、独自の政治思想と軍事技術を醸成しやすい環境を得ることになった。家康の深慮が、奇しくも幕府を打倒する原動力を育む土壌を用意したのである。
萩城の築城主である毛利輝元は、栄光と苦渋に満ちた生涯を送った人物である。祖父・元就の有名な「三本の矢」の教えを受け、叔父である吉川元春・小早川隆景の「毛利両川」体制に支えられ、若くして毛利家の当主となった 14 。織田信長との激しい抗争を戦い抜き、その後は豊臣秀吉に臣従して五大老にまで上り詰めた 14 。
しかし、その栄華は関ヶ原での決断の誤りによって一転する。西軍総大将という立場でありながら戦局を主導できず、一門の繁栄を大きく損なったことへの悔恨は計り知れない。輝元にとって、萩城の築城は、失意の中での再起を期す一大事業であった 16 。家臣の妻を奪ったという逸話が残る一方で 22 、若き日には祖父・元就に後見役の継続を泣いて頼むなど 14 、その人物像は多面的である。萩城は、そんな輝元の苦渋と、毛利家再興への執念が込められた城であった。
萩城は、標高145mの指月山と、その南麓に広がる三角州の地形を巧みに利用して築かれた平山城である 9 。山頂に戦時の最終拠点である「詰丸」を、山麓に藩政の中枢である本丸、二の丸、三の丸を配し、平時の統治機能と有事の防御機能を両立させた構造となっている。
城の縄張りは、本丸を中心に曲輪を配置する梯郭式を採用している 9 。指月山の北側と西側は日本海の荒波が打ち寄せる断崖絶壁となっており、これを天然の要害とした 9 。城郭の周囲は内堀、中堀、外堀という三重の水堀によって厳重に守られ、陸からの攻撃に備えていた 9 。この堅固な防御態勢は、関ヶ原で敗れた外様大名としての毛利氏の、常に軍事的緊張を強いられていた立場を反映している。
指月山山頂に設けられた詰丸は、別名「要害」とも呼ばれ、萩城の防御における最後の切り札であった 9 。平時には日本海を航行する船舶や陸上を監視する純軍事的な施設として機能し、戦時には藩主らが籠城する「詰めの城」となることを想定していた 1 。
詰丸は、石垣と土塀で囲まれた本格的な山城であり、東側の上段を本丸、西側の下段を二の丸とする二つの郭で構成されていた 1 。内部には複数の櫓が配置され、飲料水や消火用水を確保するための貯水池、さらには築城時に石材を切り出した石切場の跡も現存している 9 。山麓から山頂へと続くつづら折りの登山道は、中世山城の面影を色濃く残しており、訪れる者に往時の緊張感を伝えている 9 。
萩城天守は、5層5階の複合式望楼型で、高さは約21メートルであった 1 。外壁は白漆喰で塗り固められ(総塗籠)、最上階には外廻縁と高欄が巡らされた、桃山時代の様式を色濃く残す優美な姿であったと伝わる 1 。
しかし、この天守には近世城郭として極めて異例な特徴があった。それは、 城下町のどこから見ても天守の姿を望むことができない 位置に建てられていたことである 1 。織田信長の安土城以来、天守は領民に対して領主の権威を視覚的に誇示する「見せる」ための装置としての役割が強まっていた 29 。萩城の「見えない天守」は、この常識から逸脱する設計思想を示している。
この背景には、関ヶ原の敗戦大名として、徳川幕府の厳しい監視下に置かれた毛利氏の政治的立場が深く関わっている。過度に壮麗な天守を誇示することは、幕府への反意と見なされかねないという、一種の政治的配慮、あるいは自己抑制の表れであったと考えられる。毛利氏は、天守という「点」による権威の誇示を避け、後述する城下町全体の「面」による統治体制の堅固さを示すことを選んだのである。この「見えない天守」は、単なる設計上の特異点ではなく、敗戦大名の置かれた政治的状況と、それに対応するための新たな統治イデオロギーの転換を物語る、象徴的な建造物であった。
萩城の石垣には、立地条件を克服するための高度な土木技術が見られる。
萩城の価値は、城郭そのものに留まらない。城と一体となって築かれた城下町は、江戸時代の封建社会の構造を体現する優れた計画都市であり、後の日本の近代化を準備する土壌となった。
萩の城下町は、城郭を中心に厳格な身分制度に基づいて設計されている。城に最も近い三の丸(堀内地区)には毛利家一門や重臣など上級武士の屋敷が広大な敷地を占め、外堀を隔てた外側には中・下級武士の屋敷や町人の住む町屋が、さらにその外縁部には寺社地が同心円状に配置されていた 26 。
武家地と町人地は外堀によって明確に区切られ、堀に架かる橋の袂には「総門」が設けられ、人の出入りが厳しく監視されていた 9 。このような空間構成は、領主を中心とした階層的な社会秩序を可視化するものであり、封建社会の理念を都市計画として具現化したものであった。
城下町の町筋は、一見すると整然とした碁盤目状に区画されている 33 。しかし、その随所には「鍵曲(かいまがり)」と呼ばれる、道を意図的に直角に曲げた見通しの悪い小路が設けられている 33 。これは、万が一敵が城下に侵入した際に、その進行を妨げ、方向感覚を失わせるための防御的な工夫である。白壁となまこ壁が続く美しい町並みは、現在でも江戸時代の古地図がそのまま使えるほど往時の姿を良好に留めており、都市としての完成度の高さを物語っている 33 。
2015年、萩城跡、旧上級武家地(堀内地区)、旧町人地を含む萩城下町は、「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」の構成資産の一つとして、ユネスコの世界文化遺産に登録された 26 。
この登録は、萩城下町が「産業化を試みた幕末の地域社会が有していた江戸時代の伝統と身分制、社会経済構造を非常によく示している」という価値に基づいている 27 。一見すると、厳格な身分制に基づく封建都市と、近代的な産業化は相容れない概念に思える。しかし、萩城下町の構造こそが、皮肉にも近代化の原動力を生み出す要因となった。
まず、計画的な都市設計は多くの藩士を城下に集住させ、厚い人材の層を形成した。この中から、幕末の変革期に吉田松陰、高杉晋作、木戸孝允、伊藤博文といった、日本の未来を切り拓く多様な才能が輩出された 26 。次に、旧町人地には藩の需要に応えるための職人たちが集まり、高度な「匠の技」が蓄積された 27 。この伝統技術の基盤があったからこそ、萩反射炉の建設に象徴されるような、西洋の科学技術の導入と国産化が可能となった。そして、藩の御用商人(菊屋家など)を中心とする商業活動は藩財政を支え、幕末の軍備増強や藩政改革の経済的基盤となった 34 。
つまり、萩城下町は、その閉鎖的で厳格な封建的秩序の中に、近代化に不可欠な「人材」「技術」「資本」という三要素を凝縮・蓄積していたのである。世界遺産登録は、この「封建から近代へのダイナミックな転換の舞台」としての価値を国際的に認めたものであり、萩という都市が持つ歴史の多層性を示している。
江戸時代を通じて長州藩の拠点であり続けた萩城は、幕末の動乱期にその役割を終え、新たな時代の中で変容を遂げていく。
幕末、ペリー来航以降、国内の政治情勢は緊迫の度を増す。文久2年(1862年)、長州藩は藩論を「破約攘夷」へと大きく転換し、幕府や列強との対決姿勢を鮮明にした 37 。この戦略的転換の中で、萩城の地理的な弱点が露呈する。日本海に面した萩城は、欧米列強の強力な艦船による艦砲射撃に対して極めて脆弱であった 37 。
攘夷を決行した場合に予想される外国からの報復攻撃、さらには幕府との武力衝突を想定した長州藩は、藩の政治・軍事拠点を沿岸部の萩から、四方を山に囲まれた内陸の山口へ移すことを決断する。これが「山口移鎮」である 38 。文久3年(1863年)、13代藩主・毛利敬親は「湯治」を名目に萩を離れ、山口に新たな政事堂(山口城)の建設を開始した 17 。これにより、萩城は築城から約260年で、藩政の中心としての政治的生命を終えたのである。この移転は、萩城が築かれた当初の「幕府への恭順と防御」という目的が、幕末の「対外・対幕府への能動的攻撃」という新たな戦略思想に対応できなくなったことを象徴する出来事であった。
明治維新が成り、新たな国民国家の建設が進む中、城郭は封建時代の象徴と見なされるようになった。明治政府による廃城令を受け、明治7年(1874年)、萩城は廃城となり、天守や櫓、門といった壮麗な建物群はすべて解体された 1 。一説には、明治新政府を主導した旧長州藩士たちが、自らの手で「武士の時代=城の時代」に終止符を打ち、近代社会の到来を視覚的に示すために、全国に先駆けて故郷の城を解体したとも言われる 27 。これは、城郭の物理的な「死」であると同時に、旧体制との決別を宣言する強い意志の表明であった。
建造物は失われたものの、壮大な石垣や堀は残り、旧本丸跡には毛利家の歴代藩主を祀る志都岐山神社が創建された 13 。その後、城跡一帯は「指月公園」として整備され、市民の憩いの場として新たな役割を担うことになる 13 。
昭和26年(1951年)、萩城跡は国の史跡に指定され、その歴史的価値が公的に認められた 1 。その後も、城下町(1967年)、指月山(1971年、国の天然記念物)などが次々と文化財指定を受け、地域全体で歴史的景観を保存する取り組みが進められた 1 。そして前述の通り、2015年には世界文化遺産に登録され、その価値は世界的なものとなった 40 。
萩城の歴史は、城郭のライフサイクル―誕生、機能、陳腐化、死、そして文化的シンボルとしての「再生」―を典型的に示している。特に、築城した勢力の子孫が自らその政治的役割を終わらせ、新たな時代の扉を開いたという点で、日本の城郭史において特異な事例と言えるだろう。
物理的な建造物が失われた後も、萩城はその場所にまつわる文化や伝説、そして豊かな自然景観によって、歴史の記憶を現代に伝え続けている。
萩城の別名である「指月」は、風光明媚な指月山に由来するが、同時に文化的な含意も持つ。仏教には「指月之教(しげつのをしえ)」という言葉があり、これは「月を指さす指に囚われず、その指が示す月(本質)を見よ」という教えである。毛利氏がこの名をどのような意図で用いたかは定かではないが、深い思索を誘う名称である。また、城下町の名である「萩」は、『枕草子』や『万葉集』の時代から和歌に詠まれ、日本の秋を象徴する風情ある植物として親しまれてきた 41 。武骨な城郭と、優雅な文化的イメージの対比は興味深い。
萩城には、長州藩が抱き続けたとされる幕府への反骨精神を象徴する、有名な伝説が語り継がれている。それは、毎年正月の藩主への挨拶の際に、主席家老が「今年は(倒幕は)いかがで…」と問いかけ、藩主が「時期尚早じゃ」と答えるという秘密の儀式が、幕末まで続けられたというものである 44 。
この逸話の史実としての真偽は不明である。しかし、関ヶ原の敗戦から明治維シンによる雪辱までの260年以上にわたる長州藩の歴史を、非常に分かりやすく象徴的なエピソードに凝縮している。人々はこの伝説を通じて、単なる石垣の遺跡に「臥薪嘗胆」の物語を重ね合わせ、歴史への想像力を掻き立てられる。
現在の萩城跡である指月公園は、四季折々の自然が美しい景勝地としても知られている。特に春には約600本のソメイヨシノが咲き誇る桜の名所であり、夜間にはライトアップされた石垣が水堀に映え、幻想的な風景を創り出す 2 。
中でも特筆すべきは、園内にただ一本だけ存在する「ミドリヨシノ」という珍しい桜である 2 。この桜は日本で萩にしか自生しないとされ、山口県の天然記念物に指定されている 2 。純白の花びらと緑色の萼(がく)のコントラストが特徴で、その希少性と美しさが多くの人々を惹きつける。
物理的な城郭が失われた現在、萩城跡は、壮大な石垣という遺構、語り継がれる伝説、そしてミドリヨシノに代表される唯一無二の自然景観が一体となって、訪れる人々の心に歴史的記憶を喚起する強力な「記憶の場」として機能しているのである。
萩城は、日本の近世城郭史において、そして日本の近代化の過程において、特異かつ重要な位置を占める城である。
その「見えない天守」は、敗戦大名としての政治的制約の中から生まれた独自の設計思想を体現し、権威の表象が「点」から「面」へと移行する、新たな統治のあり方を示唆していた。また、三角州の軟弱地盤を克服した「扇の勾配」を持つ石垣は、厳しい自然条件に適応した高度な土木技術の結晶である。
しかし、萩城の真の価値は、城郭単体ではなく、それと一体となって形成された城下町との関係性の中に見出される。厳格な身分制度を空間化した封建都市は、結果として、幕末の日本を動かすことになる「人材」「技術」「資本」を育む揺りかごとなった。関ヶ原の敗者の城が、二百数十年を経て、次の時代の勝者を生み出す起点となったという歴史のダイナミズムは、萩城が持つ最も重要な物語である。
藩庁移転による政治的生命の終焉、廃城令による物理的解体を乗り越え、史跡として、そして世界遺産として再生を遂げた萩城の歴史は、一つの城が時代と共にその役割を変えながら、いかにして後世に記憶を継承していくかという普遍的な問いを我々に投げかけている。
年代(西暦/和暦) |
主な出来事 |
関連人物 |
1600年(慶長5年) |
関ヶ原の戦い。西軍総大将の毛利輝元が敗れ、防長二国に減封される 15 。 |
毛利輝元、徳川家康 |
1604年(慶長9年) |
徳川幕府の命により、萩での築城を開始 10 。 |
毛利輝元 |
1608年(慶長13年) |
萩城天守が完成 9 。 |
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1837年(天保8年) |
長州藩の債務が巨額に達し、藩政改革が始まる 19 。 |
村田清風 |
1856年(安政3年) |
海防強化のため、萩に反射炉を建設 27 。 |
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1862年(文久2年) |
長州藩、藩論を「破約攘夷」に転換 37 。 |
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1863年(文久3年) |
藩庁を萩から山口へ移す「山口移鎮」を決定。萩城は藩庁としての役割を終える 37 。 |
毛利敬親 |
1866年(慶応2年) |
第二次長州征伐(四境戦争)で幕府軍に勝利 19 。 |
高杉晋作、大村益次郎 |
1874年(明治7年) |
廃城令により、萩城の天守や櫓などの建造物が解体される 1 。 |
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1879年(明治12年) |
旧本丸跡に歴代藩主を祀る志都岐山神社が創建される 13 。 |
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1951年(昭和26年) |
萩城跡が国の史跡に指定される 1 。 |
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2015年(平成27年) |
萩城下町を含む「明治日本の産業革命遺産」が世界文化遺産に登録される 1 。 |
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