安芸の要害、日野山城は毛利両川の雄、吉川元春が本拠とした巨大山城。堀切を持たぬ特異な構造は吉川氏の攻撃的戦闘思想を体現し、毛利氏の山陰制覇を支えた。秀吉の天下統一で廃城となる。
日本の戦国時代史において、安芸国(現在の広島県西部)に聳える日野山城は、単なる一地方の山城として語るにはあまりにも大きな存在である。この城は、中国地方の覇権を確立した毛利元就の次男であり、「毛利両川」の一翼を担った猛将・吉川元春が本拠地とした城郭である 1 。元春、そしてその子・元長、孫・広家と三代にわたる吉川氏の政治的・軍事的中心地として、約40年間にわたりその威容を誇った 1 。
日野山城は、標高700メートル、麓からの比高330メートルに及ぶ峻険な火野山の山頂部から、その尾根筋全体を巧みに利用して築かれた、広島県内でも最大級の規模を持つ巨大山城である 4 。その縄張は、山全体を要塞化するという壮大な構想のもとに設計されており、無数の曲輪群が有機的に連携し、鉄壁の防御網を形成している。
しかし、この城の真の特異性は、その規模だけに留まらない。戦国期の山城における防御の定石とも言える「堀切」がほとんど見られないという、城郭構造上の大きな謎を抱えているのである。この構造的特徴は、単なる築城技術の差異ではなく、城主であった吉川元春の戦闘思想そのものが色濃く反映された結果である可能性を示唆している。
本報告書は、この日野山城を多角的な視点から徹底的に分析・考察するものである。吉川元春が入城するに至った血塗られた歴史的背景から、石塁と曲輪が織りなす特異な城郭構造、毛利氏の中国地方支配戦略における軍事的機能、そして時代の変遷と共に迎えた終焉に至るまでを詳細に解き明かす。これにより、日野山城が戦国史に刻んだ真の価値と、その遺構が現代に語りかける歴史的意義を明らかにすることを目的とする。
日野山城の歴史は、吉川元春の入城によって本格的に幕を開ける。しかし、その入城は平穏な家督相続ではなく、戦国前期の安芸国を揺るがした二大勢力の角逐と、その中で暗躍した毛利元就の冷徹な調略が複雑に絡み合った、血塗られた権力闘争の帰結であった。
16世紀前半の安芸国は、西の周防国を本拠とする大内氏と、東の出雲国を本拠とする尼子氏という二大戦国大名の勢力が激しく衝突する最前線であった 7 。この巨大な二つの力の狭間で、毛利氏や吉川氏をはじめとする安芸国の国人領主たちは、自家の存続を賭けて絶えず難しい選択を迫られていた 10 。彼らは、ある時は大内氏に属し、またある時は尼子氏に与するなど、巧みな外交と離反を繰り返すことで、かろうじてその命脈を保っていたのである。
吉川氏は、鎌倉時代以来の名門であり、安芸国山県郡を本拠とする有力な国人領主であった。当時の当主・吉川興経は、大内義興と尼子経久という二人の傑物からそれぞれ一字を与えられた名が示す通り、両勢力の間で揺れ動く宿命を背負っていた 11 。彼の治世は、まさに安芸国の縮図であり、大国の思惑に翻弄されながらも独立を維持しようとする、苦難に満ちたものであった。
天文15年(1546年)、吉川氏の運命を大きく揺るがす事件が起こる。当主・興経の叔父にあたる吉川経世ら、家中の有力な家臣たちが興経に反旗を翻し、毛利元就と結託してクーデターを起こしたのである 7 。彼らは、興経の独断的な行動や外交方針への不満を募らせており、強大な勢力を築きつつあった毛利氏を後ろ盾とすることで、主家を乗っ取ろうと画策した。
この内紛に、毛利元就は巧みに介入する。彼は反興経派を支援し、興経に対して隠居と、自らの次男・元春を養子として吉川家の家督を継がせることを強く要求した。四面楚歌となった興経は、毛利氏との全面戦争を避けるため、苦渋の決断を下す。自らの生命と、実子・千法師の将来の安泰を保証するという元就の言葉を信じ、毛利方に対して決して裏切らないことを神仏に誓う起請文(吉川興経起請文)を提出し、隠居を受け入れた 7 。
しかし、これは元就が仕掛けた周到な謀略の序章に過ぎなかった。興経の存在そのものが、将来毛利氏にとって禍根となり得ると判断した元就は、彼を生かしておくつもりはなかったのである 7 。天文19年(1550年)、元春が小倉山城から日野山城へと正式に入城し、名実ともに吉川家の新当主となったのとほぼ時を同じくして、元就は非情な指令を下す。同年9月27日、熊谷信直や天野隆重らの軍勢が、興経が隠居していた深川(現在の広島市安佐北区)の館を急襲した 7 。
この襲撃は、用意周到に計画されていた。事前に買収されていた興経の家臣・村竹宗蔵らの手によって、興経愛用の刀の刃は潰され、弓の弦は切られていたという 12 。怪力で知られた興経は奮戦したものの、まともな武器も使えぬまま力尽き、嫡子の千法師もまた、乳母と共に逃げる途中で捕らえられ、惨殺された 7 。こうして、藤原氏を祖とする吉川氏の嫡流は断絶し、吉川家は完全に毛利氏の血統によって乗っ取られることとなった。
この一連の出来事は、単なる隣接勢力の排除や権力闘争に留まるものではない。これは、毛利元就が描いた壮大な国家構想、すなわち「毛利両川体制」を構築するための、冷徹かつ不可欠な布石であった。元就は、毛利本家を長男・隆元に継がせ、次男・元春を吉川氏へ、三男・隆景を小早川氏へと、それぞれ安芸国の有力国人の養子として送り込むことで、毛利宗家を両翼から支える強固な支配体制を確立しようとしていた 3 。この構想を実現するためには、吉川氏と小早川氏の現当主とその嫡流は、排除すべき「障害」に他ならなかった。興経とその息子・千法師を物理的に抹殺することで、元就は将来の禍根を断ち、元春を名実ともに吉川家の当主として、毛利家の支配体制に完全に組み込むことに成功したのである。興経の暗殺は、個人的な怨恨や偶発的な事件ではなく、毛利家の百年先を見据えた組織再編と権力基盤強化の一環として計画的に実行された、極めて戦略的な行為であったと言える。
吉川元春の入城後、日野山城は未曾有の大改修を受けることとなる。元々山頂にあった小規模な砦を核として、元春、元長、広家の三代にわたる約40年間の歳月をかけて、山全体を要塞化するという壮大な事業が推し進められた。その結果、日野山城は単なる山城の域を超え、吉川氏の権力と軍事思想を体現する巨大要塞へと変貌を遂げたのである。
日野山城は、標高705メートル、比高330メートルという、周囲を睥睨する峻険な火野山に築かれている 4 。その規模は東西約640メートルから800メートル、南北約450メートルにも及び、山頂の本丸を中心に、放射状に伸びる尾根筋や谷筋の全てに無数の曲輪(郭)が配置されている 5 。この「全山要塞化」という思想は、城の防御力を極限まで高めると同時に、多くの兵員を収容し、長期の籠城戦にも耐えうる一大軍事拠点を構築しようとする、吉川氏の強い意志の表れであった 4 。
日野山城の複雑な構造を理解するためには、その主要な郭群を、想定される登城ルートに沿って辿ることが有効である。
城への主たる進入路は、東麓にあった城下町「中山」から沢沿いに登る大手道であったと考えられている 5 。この道はまず、城の中腹に位置する「中城」地区へと至る。中城は、土塁や石積みによって固められた複数の郭から構成され、敵を迎え撃つ第一の防御拠点としての役割を担っていた 18 。
険しい坂道をさらに登ると、城の中核部への入口にあたる「大門の原」と呼ばれる広大な平坦地に出る 5 。その名の通り、かつてはここに大手門が威容を誇っていたと推測される。この大門の原の側面、より高い位置には「姫路丸」が控え、大手口に殺到する敵軍に対して、真上から効果的な側面攻撃を加えることが可能な設計となっている 5 。
大門の原を抜けると、城内で最大級の広さを持つ「大広間の段(池の段)」が広がる 5 。ここは、兵士たちの駐屯地や武具の整備場、あるいは儀礼的な空間としても使用された多目的郭であったと考えられる。
そして、これらの郭群を抜けた先に、城の心臓部である本丸、二の丸、三の丸などが連なる主郭部が位置する。城の最高所に築かれた本丸は、複数の段郭が連なる連郭式の構造を持ち、最終防衛拠点としての機能を果たした 5 。本丸の周囲は二の丸や下り丸といった郭が厳重に固め、さらに南北に伸びる尾根上には、それぞれ遠方を監視するための三の丸と出丸が配置され、全方位に対する警戒網が敷かれていた 18 。これらの郭の端には、敵の侵入を阻むための土塁や、斜面の崩落を防ぐ土留めとしての石垣・石積みが随所に確認できる 18 。
日野山城の複雑な構造をより明確に理解するため、以下に主要な郭群の機能と特徴を一覧化する。
郭の名称 |
推定される機能 |
主な遺構・特徴 |
中城 |
登城路の第一防衛線、兵の駐屯 |
土塁、石列、石積み |
大門の原 |
城の中核部への大手口 |
広大な平坦地、門跡の推定 |
姫路丸 |
大手口の側面防御 |
登城路を見下ろす高所 |
大広間の段 |
居住空間、兵の駐屯、儀礼空間 |
城内最大級の広さを持つ郭 |
二の丸 |
本丸の防御 |
高い土塁、石積み虎口 |
本丸 |
城の最高司令部、最終拠点 |
複数の段郭から成る連郭式 |
三の丸・出丸 |
遠方監視、側面防御 |
本丸から南北の尾根上に配置 |
日野山城の縄張を分析する上で、最も注目すべき点は、その特異な防御思想にある。複数の踏査記録が一致して指摘するように、この巨大な山城には、戦国期山城の防御施設の基本であるはずの「堀切」「竪堀」「横堀」といった空堀が、全くと言っていいほど存在しないのである 5 。尾根を断ち切って敵の進軍を阻む堀切は、山城における最も効果的かつ一般的な防御手法であり、その不在は極めて異例である。この傾向は、安芸国北西部に点在する他の吉川氏関連の城郭にも見られることから、これは単なる偶然や技術的な制約ではなく、「吉川氏流築城術」とでも呼ぶべき、独自の戦闘思想に基づいた意図的な設計であった可能性が極めて高い 5 。
この特異な構造は、吉川氏、特に猛将として知られた元春の戦闘思想を色濃く反映していると考えられる。堀切は、尾根を物理的に分断し、敵の進軍を「遮断」することを目的とした、いわば受動的・静的な防御施設である 23 。敵を足止めし、その隙に上から攻撃を加えるのが基本的な戦術となる。
しかし、日野山城は堀切に頼る代わりに、急峻な自然地形を最大限に活かした切岸(人工的な急斜面)、そして複雑に配置された多数の曲輪と要所を固める石塁を多用している 4 。この縄張は、敵を城内にあえて引き込み、迷路のように入り組んだ郭群の中で方向感覚を麻痺させ、孤立した敵部隊を各個撃破することを意図した設計、すなわち城全体を一つの巨大な「キルゾーン(殺戮空間)」として構築する思想に基づいている。
このような戦術は、城兵が郭から郭へと柔軟かつ迅速に移動し、敵の側面や背後から積極的に出撃して攻撃を加える「積極的防御」を前提とする。城兵の自由な移動を阻害する堀切は、このような機動的な戦術とは相性が悪い。生涯を通じて一度も負けなかったと伝えられるほどの戦上手であった吉川元春 24 、そして毛利軍の主力を担った精強な吉川軍団にとって、彼らの本拠地は、ただ守り籠るための城ではなく、積極的に「戦うための城」として設計される必要があったのである。したがって、日野山城における堀切の不在は、吉川軍団の戦闘能力への絶対的な自信と、元春の攻撃的な戦闘教義が色濃く反映された、他に類を見ない築城思想の証左であると結論付けられる。
日野山城は、単に吉川氏の居城というだけでなく、毛利氏が中国地方の覇権を確立していく過程で、極めて重要な戦略的役割を担っていた。その役割は、毛利両川体制における吉川氏の位置づけと、時代の変化に応じて変遷していった。
毛利元就が構築した「毛利両川体制」において、吉川氏と小早川氏は毛利宗家を支える両翼とされた。知略と政務に長けた三男・小早川隆景が「知」を象徴する一方で、勇猛果敢な次男・吉川元春は軍事の要を担い、「武の吉川」としてその名を轟かせた 24 。
日野山城は、地理的に出雲国や石見国といった山陰方面への玄関口に位置していた。この立地は、毛利氏にとって最大の宿敵であった尼子氏を攻略する上で、絶好の戦略拠点であった。事実、元春は山陰方面軍の総大将として、尼子氏との間で繰り広げられた数々の熾烈な戦いを指揮した 24 。特に、難攻不落を誇った尼子氏の本拠・月山富田城を攻略する長期にわたる戦い(第二次月山富田城の戦い)において、日野山城は兵員の集結、兵糧や武具の集積、そして作戦の立案を行う司令部として、その機能を最大限に発揮したのである 26 。日野山城は、まさに毛利氏の山陰制覇を支えた軍事的中核であった。
吉川元春が入城した当初、日野山城は政治、軍事、そして生活の全てを担う「居城」であった 4 。しかし、天正10年(1582年)、元春が家督を嫡男・元長に譲って隠居すると、城の機能に大きな変化が生じる。元春は、日野山の南西麓に、平時の生活と政務を執り行うための壮大な隠居館(吉川元春館)の建設を開始した 20 。
この館の建設に伴い、吉川氏の日常的な生活や統治の拠点は、利便性の高い山麓の館へと移っていった。その結果、山上に位置する日野山城は、日常的な居住空間としての性格を薄め、有事の際に最後の拠点として籠城するための「詰の城」としての役割を強めていくことになった 4 。
この居城と詰の城の機能分化は、単なる元春の隠居に伴う生活様式の変化として捉えるべきではない。これは、吉川氏による領国支配が、常に敵の侵攻に備えなければならない臨戦態勢の時代から、より安定的で統治機構が整備された成熟期へと移行したことを示す、象徴的な出来事であった。戦国初期の領主は、生活空間と防御施設が一体化した山城に常住することが一般的であったが、元春が山麓に大規模な館を築くことができた背景には、毛利氏の勢力拡大によって吉川領の周辺が安定し、敵の急襲を受ける危険性が大幅に低下したという事実がある。
山麓の館は、家臣や商人、職人が集住しやすく、政務や経済活動を行う上で、山城とは比較にならないほどの利便性を持っていた。このように、「平時の政庁・居館(山麓)」と「戦時の要塞(山上)」を明確に分離する形態は、織田信長や豊臣秀吉の時代に見られる、近世城郭へと繋がる城郭思想の萌芽とも言える。日野山城の「詰の城」化は、毛利・吉川氏の権力が盤石となり、領国経営の重心が軍事優先から統治優先へとシフトしつつあった時代の過渡期を物語る、重要な画期であったと評価できる。
巨大な軍事拠点であった日野山城の機能は、それを支える経済基盤と、時代の大きな政治的潮流によって、その栄華と終焉を迎えることとなる。
日野山城のような大規模な山城が、その軍事力を長期間にわたって維持するためには、城内に駐屯する多数の兵士やその家族の生活を支える、安定した兵站(補給)システムが不可欠であった。その経済的基盤として重要な役割を担ったのが、日野山の東麓、大手道の起点に形成された市町「中山」である 5 。
中山には、食料や生活物資を商う商人、武具を製造・修理する職人など、様々な業種の人々が集住し、活気ある城下町を形成していたと伝えられている 5 。彼らは城に物資や労働力を提供する一方で、城の権威を背景に商業活動を行い、城と一体となって繁栄していた。日野山城の威容は、この中山の経済力によって支えられていたと言っても過言ではない。
天正19年(1591年)、日本の政治状況は大きく変化していた。豊臣秀吉による天下統一事業が成り、全国の大名は秀吉の意向によって配置転換される時代となっていた。この年、吉川元春の孫であり、吉川家の当主であった吉川広家は、秀吉の命により、出雲国・月山富田城へと移封されることとなった 2 。
この移封により、日野山城はその城主を失い、吉川氏三代、約40年間にわたる本拠地としての歴史に幕を下ろすこととなる。政治と軍事の中心が新たな領地へと移ったことで、日野山城はその存在意義を完全に失い、やがて放棄され、廃城となった 2 。戦国の動乱期に、毛利氏の勢力拡大を象徴する巨大要塞として築かれた日野山城が、天下統一という新たな時代の到来によってその役目を終えたことは、多くの戦国期の城郭が辿った運命を象徴する出来事であった。
安芸・日野山城は、単なる山中の廃城跡ではない。その歴史と構造を深く考察することで、戦国時代の政治、軍事、そして社会のダイナミズムを雄弁に物語る、第一級の歴史遺産としての価値が明らかになる。
第一に、日野山城は、毛利元就の冷徹な謀略と、それによって確立された「毛利両川体制」という、戦国史上稀に見る統治システムの誕生を象徴する舞台であった。吉川興経の悲劇は、地方の国人領主が淘汰され、より強大な権力構造へと再編されていく戦国時代の非情な現実を物語っている。
第二に、この城は「武の吉川」と称された猛将・吉川元春の武威と、その精強な軍団の戦略的拠り所であった。山陰方面攻略の司令拠点として、毛利氏の中国地方制覇に決定的な役割を果たしたその軍事的価値は計り知れない。
第三に、城郭構造の観点から見れば、日野山城は極めて特異な存在である。「堀切の不在」という常識を覆す縄張は、守り籠るのではなく、城全体を戦場として積極的に敵を殲滅するという、吉川氏独自の攻撃的な戦闘思想を具現化したものであり、日本の城郭史において特筆すべき事例である。
第四に、居城から詰の城へとその主たる機能を変化させていった過程は、戦国時代後期における城郭機能の分化と、領国支配が軍事優先から統治優先へと移行していく社会の変化を示す好例である。
以上の点を総合すると、日野山城は、戦国時代の権力闘争、軍事戦略、築城技術、そして社会構造の変遷を立体的に解き明かすための、極めて重要な鍵を握る史跡である。その峻険な山肌に残る無数の曲輪と石塁は、今なお、中国地方の覇権を巡る激動の時代を生きた人々の息遣いを我々に伝えている。
日野山城の歴史的価値は高く評価されており、昭和61年(1986年)8月28日、「日山城跡」の名称で国の史跡に指定された 4 。しかし、長年の風雪により、城跡全体は藪化が進行しており、特に夏季の見学には相応の準備と注意が必要な状況である 2 。
この史跡指定は、日野山城単独のものではない。平成9年(1997年)には指定範囲が拡大され、吉川氏の初期の居城である「駿河丸城跡」「小倉山城跡」、山麓の政庁・居館であった「吉川元春館跡」、菩提寺であった「万徳院跡」など、周辺に点在する関連遺跡群を含めた合計9遺跡が、国史跡「吉川氏城館跡」として一体的に保存・活用が図られている 4 。これにより、吉川氏の領域支配の歴史を、単一の城という「点」ではなく、居城の変遷や菩提寺、館跡といった関連施設群を含む「面」として、総合的に理解することが可能となっている。
特に、日野山城と併せて訪れるべき重要な史跡が、南西麓に位置する「吉川元春館跡」である。ここは、発掘調査の成果に基づき、往時の壮大な石垣が修復され、庭園や台所などの建物の一部が復元されている 28 。また、隣接地には「戦国の庭 歴史館」が建設されており、吉川氏城館跡から出土した遺物や、当時の武将の生活に関する資料が展示されている 29 。
山上の軍事要塞である日野山城と、山麓の政治・生活空間である吉川元春館跡を併せて見学することで、戦国武将の権力の有り様と、彼らが築いた「戦い」と「暮らし」の空間を、より立体的かつ深く理解することができるであろう。