曾根城(美濃国)
美濃国 曾根城 ―戦国乱世における戦略拠点の実像―
序章:美濃の地に刻まれた、知られざる要衝
美濃国、現在の岐阜県大垣市曽根町にその痕跡を留める曾根城 1 。壮大な天守閣を持つわけでも、著名な合戦の主戦場となったわけでもないこの城は、戦国史の表舞台で語られることは決して多くない。しかし、その歴史を深く掘り下げるとき、我々はこの城が単なる一地方の城郭ではなく、美濃をめぐる政治・軍事力学の中心に位置し、特に天下分け目の関ヶ原の戦いにおいて決定的な役割を果たした「戦略的ピボット(枢軸)」であった事実に突き当たる。
曾根城の歴史的重要性は、建造物としての規模や壮麗さにあるのではない。その真価は、時代時代の権力構造との「関係性」の中にこそ見出される。斎藤氏の支配下で誕生し、やがて織田信長の美濃攻略を決定づける内応の拠点となり、そして豊臣政権を経て、関ヶ原の戦いでは西軍本営・大垣城と対峙する東軍の最前線拠点へと、その役割を劇的に変化させた 2 。その時々の政治情勢に応じて戦略的価値を変転させ、歴史の転換点を演出する舞台となった点にこそ、この城の本質が存在する。本報告書は、この知られざる要衝・曾根城の築城から廃城に至るまでの軌跡を、城主たちの運命とともに多角的に分析し、その歴史的実像を解き明かすことを目的とする。
第一章:稲葉一鉄の台頭と曾根城の誕生
第一節:動乱の美濃と稲葉氏
曾根城の歴史は、戦国武将・稲葉良通(いなば よしみち)、後の稲葉一鉄(いなば いってつ)の生涯と分かちがたく結びついている。彼が歴史の表舞台に登場する16世紀中頃の美濃国は、下剋上を体現した斎藤道三とその子・義龍による内乱をはじめ、絶え間ない動乱の渦中にあった。このような混沌とした情勢の中、稲葉氏にも悲劇が襲う。1525年(大永5年)、稲葉一鉄の父・通則と5人の兄全員が戦死するという、一族滅亡の危機に瀕したのである 4 。
この未曾有の事態を受け、幼くして仏門に入っていた一鉄は急遽還俗し、わずか10歳(一説には11歳)で稲葉家の家督を継承、曾根城主となった 4 。彼の代名詞ともいえる「頑固一徹」という異名は、単なる生来の性格を示すものではない。それは、若くして一族の存亡という重責を一身に背負い、誰の庇護も受けることなく戦国の荒波に立ち向かわねばならなかった過酷な経験によって形成された、彼の生存戦略そのものであったと考察される。自らが一族の防波堤とならねばならぬという強烈なプレッシャーが、妥協を許さず、一つの信念を貫き通すという、彼の不屈の人格を形作ったのである 2 。
第二節:築城と城の構造
稲葉一鉄による曾根城の本格的な築城は、永禄年間(1558年~1569年)に行われたと記録されている 6 。この時期は、尾張の織田信長による美濃侵攻がまさに本格化しようとしていた頃であり、美濃国内の軍事的緊張が極度に高まっていた時代背景を持つ。そのような状況下で築かれた曾根城は、単なる領主の居館ではなく、来るべき大規模な戦闘を想定した、極めて堅固な軍事拠点であった。
城の構造は、現在城跡の本丸に位置する華渓寺(かけいじ)が所蔵する「濃州曽根古城跡図」や、後年行われた発掘調査によって、その詳細が明らかになっている 6 。それによれば、曾根城は平城でありながら、本丸(約1000坪)と二の丸を中心に、少なくとも三重の堀を巡らせ、さらに家臣団の屋敷や城下町までをも囲い込む広大な惣堀を備えていた 6 。山城に比べて防御上不利とされる平城において、これほど多重の堀と惣堀を配する設計は、当時の最新の築城術を反映したものである。これは、敵の侵攻を段階的に遅延させ消耗させる縦深防御の思想に基づき、領主だけでなく家臣団や領民をも含めた領域全体を防衛しようとする、先進的な思想の表れであった。この堅牢な縄張り(城郭設計)は、稲葉氏が当時、美濃国内でいかに重要な軍事力を保持し、またそれを維持するための高度な知識を有していたかを物語る物証と言える 8 。
発掘調査では、本丸跡から石列や石敷遺構が確認されており、城の構造の一部を具体的に裏付けている 9 。これらの遺構は現在、保存のために埋め戻されているが、その位置は地上に復元表示され、往時の姿を偲ぶことができる 8 。
第三節:「西美濃三人衆」の決断
斎藤道三、義龍の死後、家督を継いだ斎藤龍興の治世下で、稲葉一鉄は北方城主・安藤守就(あんどう もりなり)、大垣城主・氏家卜全(うじいえ ぼくぜん)と共に「西美濃三人衆」と称され、国政の重鎮として大きな影響力を持っていた 2 。しかし、龍興が政務を顧みず一部の側近を重用するようになると、三人衆の間に主君への不満と斎藤家の将来に対する危機感が募っていく 12 。
この状況を好機と見たのが、美濃攻略を悲願とする織田信長であった。信長の巧みな調略に応じ、1567年(永禄10年)、稲葉一鉄ら西美濃三人衆は龍興を見限り、織田方へ内応することを決断する 13 。この行動は、単なる個々の武将の裏切りではない。西美濃という地域全体を支配する有力国衆が共同歩調をとり、主家を能動的に切り替えた、一種の「政治的クーデター」としての側面を持つ。彼らの連携行動は、斎藤家の軍事力を内部から完全に崩壊させ、難攻不落とされた稲葉山城(後の岐阜城)を、信長が比較的容易に手中に収める最大の要因となった 13 。一族の存亡を賭けた彼らの戦略的決断は、美濃の支配構造を根底から覆し、信長の天下統一事業を大きく前進させる歴史的な転換点となったのである。
第二章:天下統一の奔流の中で
第一節:織田・豊臣政権下の城主
織田信長に仕えた後、稲葉一鉄は各地の戦いで武功を挙げ、信長の天下統一事業に貢献した 11 。しかし、1582年(天正10年)の本能寺の変が、彼の運命に大きな転機をもたらす。変後、天下統一の主導権を握った羽柴(豊臣)秀吉との間に、次第に埋めがたい確執が生じていったのである。
両者の不和は、単なる個人的な感情のもつれに起因するものではない。それは、信長以前からの伝統を持つ美濃の有力国衆という「旧勢力」のプライドと、身分を超えて成り上がり強力な中央集権体制を目指す秀吉という「新興権力」との間に生じた、構造的な軋轢の象徴であった。その亀裂を決定的にした一因として、家臣の処遇をめぐる一件が挙げられる。かつて一鉄の家臣であった斎藤利三が明智光秀に仕官した際、一鉄はこれを不服として信長に直訴し、光秀と対立した経緯があった 14 。このことは、一鉄が自らの家臣団に対する排他的な支配権を当然のものと考えていたことを示している。一方、秀吉は天下統一の過程で、大名の家臣を直接引き抜くなどして既存の主従関係を切り崩し、自らへの忠誠を再編する手法を多用した。両者の価値観は根本的に相容れなかったのである。
結果として、一鉄は秀吉から「不審」の念を抱かれ、権力の中枢から遠ざけられていく 6 。秀吉から冷遇された一鉄が、無常観を詠んだ歌を引用して自身の心境を綴った書状も残されており、時代の変化に適応しきれなかった老将の悲哀が窺える 15 。やがて彼は、本拠地であった曾根城を離れ、揖斐郡清水へと退くこととなった 6 。
第二節:城主交代 ― 西尾光教の入城
稲葉一鉄が去った後の曾根城に、新たな城主として入城したのが西尾光教(にしお みつのり)であった。その時期は1588年(天正16年)とされている 6 。光教は、元々は斎藤道三に仕え、その後、織田信長、豊臣秀吉と、時の権力者に巧みに仕えながら戦国乱世を生き抜いてきた、処世術に長けた武将であった 17 。
秀吉が一鉄に代えて光教を曾根城主に据えた人事は、極めて計算された政治的采配であった。光教は、かつて西美濃三人衆の一人である氏家氏の被官であった経歴を持ち、美濃の地理や人間関係に精通していた 18 。一鉄のような強い在地性と独立性を持つ譜代の有力者ではなく、秀吉政権に忠実で実務能力の高い人物をこの戦略的要地に配置することで、地域の安定化と中央からの直接支配の強化を図ったのである。これは、旧来の有力者を転封・隠居させ、中央から派遣した武将を配置するという、豊臣政権が全国で展開した地方支配戦略の一環として理解することができる。こうして曾根城は、稲葉氏の時代から西尾氏の時代へと、新たな局面を迎えた。
第三章:天下分け目の関ヶ原 ― 曾根城、最大の舞台へ
第一節:東軍の最前線拠点として
1600年(慶長5年)、豊臣秀吉の死後に顕在化した徳川家康率いる東軍と、石田三成らを中心とする西軍の対立は、天下分け目の関ヶ原の戦いへと発展する。この国家的な動乱において、曾根城は、その歴史上最も重要な役割を担うこととなった。西軍の本営が置かれた大垣城とはわずか数キロメートルの距離にあり、その地政学的な重要性は計り知れないものであった 3 。
城主・西尾光教は、秀吉の死後、早くから家康に接近しており、この決戦に際しても迷わず東軍に与することを決断する 17 。これにより、曾根城は西軍本営の喉元に突きつけられた刃となり、東軍の最前線拠点へと変貌した。当然、西軍はこの危険な存在を黙って見過ごすはずはなかった。石田三成は近隣の諸将に曾根城の打ち壊しを命じ、西軍に属する島津義弘の部隊が城下に火を放ち銃撃を加えるなど、激しい示威行為と攻撃に晒された 3 。
しかし、曾根城の価値は単なる物理的な攻撃拠点に留まらなかった。大垣城の目と鼻の先に東軍の拠点が健在であること自体が、西軍に対する強烈な心理的プレッシャーとなった。また、美濃の地理に精通した西尾光教が在城することで、東軍は敵の動向を間近で監視し、正確な地域情報を得ることができ、情報戦においても優位に立つことができたのである 18 。
第二節:杭瀬川の戦いと周辺の攻防
関ヶ原の本戦に先立ち、9月14日に行われた「杭瀬川の戦い」は、戦いの前哨戦として知られている。この局地戦において、曾根城は東軍にとって不可欠な役割を果たした。島左近らの巧みな伏兵戦術により、東軍の中村一栄隊が手痛い打撃を受けた際、曾根城は敗走する部隊を収容し、体勢を立て直すための後方拠点として機能した 19 。
もし、この時に後方に曾根城という安全な退却拠点が存在しなければ、部隊は壊滅的な損害を被り、本戦を前に東軍の士気は大きく削がれていた可能性がある。東軍首脳部もこの城の重要性を正確に認識しており、水野勝成らを援軍として派遣し、城の防衛を固めている 6 。この事実は、曾根城が単なる前線基地ではなく、大垣城周辺で東軍が戦線を維持し、主導権を失わずに済んだ「生命線」であったことを明確に示している。
第三節:戦功と栄転
西尾光教の功績は、曾根城の防衛だけに留まらなかった。彼は関ヶ原の合戦全体を通じて、その情報収集能力と交渉能力を遺憾なく発揮した。岐阜城攻めにおいては、美濃の地理に詳しいことから福島正則と共に先鋒の案内役を務め、東軍の勝利に貢献した 21 。
さらに特筆すべきは、大垣城の開城交渉における働きである。本戦で西軍が敗れた後も大垣城に籠城していた敵将・福原長堯らを説得し、無血開城へと導いた 21 。これは、無用な流血を避け、戦後処理を円滑に進めたい家康の意向に沿うものであり、単なる戦闘での武功以上に高く評価された。これらの戦闘における武勇伝だけではない、「インテリジェンス活動」とも言うべき功績が認められ、戦後、西尾光教は1万石の加増を受け、合計3万石の大名として揖斐(いび)に新たな居城を構えることになったのである 6 。
第四章:城の終焉と後世への継承
第一節:廃城の決定
関ヶ原の戦いで輝かしい戦功を挙げた西尾光教は、揖斐藩の初代藩主となり、その拠点を揖斐陣屋(現在の揖斐川町三輪)へと移した 6 。これに伴い、彼の旧居城であった曾根城は、慶長5年(1600年)から慶長6年(1601年)頃に廃城となった 2 。関ヶ原であれほど重要な役割を果たした城が、戦後すぐにその役目を終えたのである。
この廃城は、単に城が不要になったから放置されたというわけではない。むしろ、その逆であった。関ヶ原の戦いで証明されたそのあまりにも高い戦略的価値ゆえに、新たな天下人である徳川家にとっては、将来的な反乱の拠点となりうる危険な存在と映ったのである。その軍事的機能を意図的に解体し、無力化すること自体が、戦乱の時代の終焉と、徳川幕府による新たな支配体制の構築を天下に示す、象徴的な政治行為であった。曾根城の廃城は、後に発令される「一国一城令」に先立つ、時代のパラダイムシフトを告げる出来事だったのである。
第二節:遺構と現在の姿
廃城後、軍事拠点としての役割を終えた曾根城跡には、江戸時代中期に大きな変化が訪れる。初代城主・稲葉一鉄が母の菩提を弔うために建立した華渓寺が、本丸跡地へと移築されたのである 8 。これにより、かつての戦いの場は、祈りの場として新たな歴史を歩み始めた。
現在、城跡は「曽根城跡」として大垣市の史跡に指定され、隣接する曽根城公園と共に市民の憩いの場として整備されている 1 。往時の建物を直接示すものは残されていないが、本丸跡に立つ華渓寺の境内やその周辺には、城の面影を伝える堀跡や土塁の一部、そして発掘調査で確認された石列などが残り、訪れる人々に歴史を語りかけている 8 。城の歴史を解説する案内板や石碑も設置されており、その栄枯盛衰の物語を今に伝えている 9 。
項目 |
詳細 |
城名 |
曾根城(そねじょう) |
所在地 |
岐阜県大垣市曽根町1-716-1 1 |
城郭分類 |
平城 8 |
築城年 |
永禄年間(1558年~1569年) 6 |
築城主 |
稲葉良通(一鉄) 6 |
主な城主 |
稲葉氏、西尾氏 8 |
廃城年 |
慶長5年(1600年)~慶長6年(1601年)頃 6 |
主な遺構 |
堀跡、土塁、石列・石敷遺構(発掘後地上表示) 8 |
現在の状況 |
曽根城跡(大垣市史跡)、華渓寺、曽根城公園 1 |
第五章:曾根城をめぐる人々
第一節:「頑固一徹」の将、稲葉良通
曾根城の初代城主・稲葉一鉄は、その異名が示す通り、剛直で妥協を知らない武将であった 2 。若くして一族の命運を背負い、斎藤家、織田家と主君を変えながらも、自らの信念と家門の存続を第一に戦い抜いた。しかし、その「一徹」な気質は、豊臣秀吉が築こうとした新たな支配秩序とは相容れず、晩年は不遇のうちに過ごすこととなった 14 。彼の生涯は、戦国乱世の旧き価値観を体現する武将が、時代の大きな変化の波に乗り切れなかった悲劇性を物語っている。
第二節:乱世を渡りきった智将、西尾光教
稲葉一鉄とは対照的に、二代目の城主・西尾光教は、時代の流れを読み、巧みに立ち回ることで乱世を生き抜いた知将であった。斎藤、織田、豊臣、そして徳川と、主君を変えながらも着実に地位を築き、最終的には3万石の大名へと出世を遂げた 17 。特に関ヶ原の戦いでは、単なる武勇だけでなく、地理的知識や交渉能力を駆使して東軍の勝利に大きく貢献した 18 。彼の生涯は、力だけでは生き残れない戦国乱世において、情報と知略がいかに重要であったかを我々に教えてくれる。
第三節:春日局と斎藤利三の影
曾根城は、これら城主たちだけでなく、後の歴史に大きな影響を与えた人物たちの運命が交差する場所でもあった。徳川三代将軍・家光の乳母として絶大な権勢を振るった春日局である。彼女の父は、本能寺の変で明智光秀の重臣として活躍した斎藤利三であるが、この利三は元々、稲葉一鉄の家臣として曾根城に仕えていた 2 。
華渓寺所蔵の古図には、城内に斎藤利三の屋敷があったことが記されており、一説には春日局自身がこの地で生誕したとも伝えられている 2 。また、春日局の母は稲葉一鉄の娘であり、彼女は一鉄の外孫にあたる 6 。この事実は、曾根城が、戦国から江戸初期にかけての重要人物たちの人間関係の「結節点」であったことを示している。斎藤利三と稲葉一鉄の確執が本能寺の変の遠因の一つとなった可能性 14 、そして稲葉氏の血を引く春日局が後に徳川幕府の中枢で大きな力を持つに至るという歴史の伏線が、この曾根城という舞台で交差していたのである。
終章:歴史の証人として
美濃国・曾根城の歴史は、決して長くはない。永禄年間の築城から、関ヶ原の戦い直後の廃城まで、わずか半世紀にも満たない期間であった。しかし、その短い生涯のうちに、この城は日本の歴史における最も劇的な転換期を駆け抜けた。
それは、地方の有力国衆が自らの力で台頭した戦国中期の動乱に始まり、織田信長、豊臣秀吉による天下統一の奔流に飲み込まれ、そして徳川家康による新たな秩序の構築を見届けて終焉を迎えるという、まさに戦国という時代の縮図であった。一人の剛直な武将によって築かれ、一人の知略に長けた武将によってその最盛期を迎え、そして時代の要請によってその役割を終えた曾根城。その盛衰の物語は、一つの城郭の運命を通して、戦国という時代の本質、すなわち絶え間ない変化と、それに適応し、あるいは抗った人間たちの姿を、静かに、しかし雄弁に物語っている。今日、公園として穏やかな時を刻むその地は、紛れもなく、激動の時代を見つめ続けた「歴史の証人」なのである。
引用文献
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- 第54回:曽根城(西美濃三人衆 稲葉一鉄の居城) https://tkonish2.blog.fc2.com/blog-entry-58.html
- 曽根城跡|観光スポット|岐阜県観光公式サイト 「岐阜の旅ガイド」 https://www.kankou-gifu.jp/spot/detail_7006.html
- 稲葉一鉄(良通) 戦乱の世を頑固に生き抜いた一徹者の生涯 | 歴史の読み物 https://app.k-server.info/history/inaba_ittetsu/
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- 曽根城 - 古城巡り 写真館改 https://yamashiro2015.blog.fc2.com/blog-entry-664.html
- 曽根城 - 城びと https://shirobito.jp/castle/1647
- 曽根城の見所と写真・200人城主の評価(岐阜県大垣市) - 攻城団 https://kojodan.jp/castle/671/
- E.文化財調査報告書(10) | 大垣市公式ホームページ/水の都おおがき https://www.city.ogaki.lg.jp/0000033621.html
- 稲葉一鉄(イナバイッテツ)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E7%A8%B2%E8%91%89%E4%B8%80%E9%89%84-15441
- 信長いよいよ稲葉山城攻めへ - よしもと新聞舗:岐阜県瑞穂市情報お届けサイト https://www.yoshimoto-shinbun.com/history/%E4%BF%A1%E9%95%B7%E3%81%84%E3%82%88%E3%81%84%E3%82%88%E7%A8%B2%E8%91%89%E5%B1%B1%E5%9F%8E%E6%94%BB%E3%82%81%E3%81%B8/
- 歴史の渦に消えた若き龍、斎藤龍興の悲運と執念 - 戦国 BANASHI https://sengokubanashi.net/person/saitoutatsuoki/
- 明智光秀と稲葉一鉄の不仲が「本能寺の変」の原因?…『麒麟がくる』が描いた“微妙な伏線” https://shuchi.php.co.jp/article/7988?p=1
- 豊臣政権における稲葉氏の動向:稲葉重通を中心に - 岐阜県博物館 https://www.gifu-kenpaku.jp/wp-content/uploads/2023/03/1-14%E3%80%80%E8%B1%8A%E8%87%A3%E6%94%BF%E6%A8%A9%E3%81%AB%E3%81%8A%E3%81%91%E3%82%8B%E7%A8%B2%E8%91%89%E6%B0%8F%E3%81%AE%E5%8B%95%E5%90%91%E3%80%80%E7%A8%B2%E8%91%89%E9%87%8D%E9%80%9A%E3%82%92%E4%B8%AD%E5%BF%83%E3%81%AB.pdf
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