有岡城
摂津有岡城は、伊丹氏が築き、荒木村重が「惣構え」で大改修。日本最古級の天守を持つ堅城。信長に反旗を翻し、黒田官兵衛を幽閉。約1年間の籠城戦の末に落城し、悲劇の終焉。
有岡城総合研究報告書:戦国史における革新と悲劇の城郭
序章:戦国史における有岡城の位置づけ
日本の戦国時代、数多の城郭が興亡を繰り返す中で、有岡城(ありおかじょう)はひときわ異彩を放つ存在である。現在の兵庫県伊丹市に位置したこの城は、単なる一地方の拠点に留まらず、日本の城郭史、そして織田信長の天下統一事業において、極めて重要な意味を持つ。その価値を理解するためには、まず摂津国という土地が持つ地政学的な重要性から説き起こさねばならない。
摂津国の地政学的重要性
摂津国は、京、大坂、堺という当時の政治・経済の中心地を繋ぎ、西国街道が貫通する畿内の中枢であった 1 。この地を制することは、物流と交通の動脈を掌握し、天下統一を目指す上で不可欠な戦略的要件であった。織田信長がその重要拠点として有岡城(当時は伊丹城)を選び、腹心である荒木村重を配したことは、この地に対する信長の深い認識の表れに他ならない。
城郭史上の転換点としての意義
有岡城の歴史的価値は、その立地のみに起因するものではない。この城は、日本の城郭が中世的な山城から、政治・経済の拠点としての機能を持つ近世的な平城へと移行する、まさにその転換点に位置している 3 。特筆すべきは、城主の館のみならず、城下町全体を堀と土塁で囲い込む「惣構え(そうがまえ)」という防御思想を、日本史上でも極めて早期に、かつ大規模に実現した点である 4 。この革新的な構造は、城の役割が純粋な軍事拠点から、領国経営の中核をなす「城塞都市」へと変貌を遂げる過程を象徴している。本報告書では、伊丹氏による「伊丹城」の時代から、荒木村重による「有岡城」への変貌、そして信長との壮絶な籠城戦を経て廃城に至るまでの全貌を、史料に基づき徹底的に解明する。
第一章:伊丹城の黎明期 ― 伊丹氏の拠点として(南北朝時代~天正2年)
有岡城の歴史は、荒木村重の時代に突如として始まったわけではない。その礎には、約300年にもわたる伊丹氏の治世と、「伊丹城」として数多の戦火を潜り抜けてきた歴史の蓄積が存在する。有岡城の革新性を理解するためには、まずこの前史を紐解く必要がある。
1-1. 伊丹氏の台頭と築城
14世紀、南北朝の動乱期に、伊丹氏を名乗る武士団が摂津国に台頭した 1 。彼らは猪名川西岸に広がる伊丹段丘の東縁という、天然の要害を巧みに利用した地に伊丹城を築城した 4 。文献における伊丹城の初見は1353年(文和2年)であり、城主・伊丹基長が南朝勢力を撃退したという記録が残されていることから、築城当初より畿内における重要な軍事拠点として機能していたことがわかる 7 。以後、天正2年(1574年)に荒木村重によって追われるまで、伊丹氏はおよそ3世紀にわたりこの地を支配し、摂津国の3分の1を治めるほどの勢力を誇った 1 。その間、畿内は度重なる戦乱に見舞われ、その都度、伊丹城も防備が強化され、徐々に堅城としての名声を高めていった。
1-2. 戦国期の攻防と「難攻不落の城」
応仁の乱以降、畿内の政治情勢は混迷を極め、伊丹城は細川氏や三好氏といった有力大名の覇権争いの渦中に巻き込まれていく。その歴史は、まさに攻防の連続であった 7 。1511年(永正8年)には細川澄元・赤松義村連合軍に、1533年(天文2年)には一向一揆に包囲されるなど、枚挙に暇がない 7 。
特筆すべきは、その驚異的な防御能力である。1527年(大永7年)には三好元長の軍勢による1ヶ月以上にわたる猛攻に耐え抜き、さらに1549年(天文18年)からは、当時畿内に覇を唱えた三好長慶による半年以上もの長期包囲をも凌ぎきった 3。この度重なる攻防の歴史こそが、伊丹城を「難攻不落の城」と称されるほどの堅城へと鍛え上げていったのである。そして、この実績こそが、後に荒木村重が摂津支配の拠点としてこの城を選定する決定的な要因となったと考えられる。
1-3. 日本史上最古級「天守」の謎
伊丹城が日本の城郭史において注目されるもう一つの理由が、「天守」の存在である。永正17年(1520年)、細川高国との戦いの様子を記した軍記物『細川両家記』には、敗れた伊丹方の武将が「天守にて腹切りぬ」という記述が見られる 3 。これは、文献史料において「天守(てんしゅ)」という言葉が用いられた、確認できる限りで最も古い事例の一つとされている 8 。
この「天守」が、安土城に代表されるような後世の高層建築物であったか、あるいは本丸に位置する中心的な櫓を指すものであったかは、発掘調査でも具体的な遺構が確認されておらず、未だ議論の途上にある 10。しかし、いずれにせよ、この時代に城の中核をなす建物を「天守」と呼称していたという事実自体が、伊丹城の構造的な先進性を示唆する重要な証左と言えよう。
このように、有岡城の革新性は荒木村重一人の功績によるものではなく、伊丹氏300年の歴史の中で培われた「難攻不落」という評価と、「天守」の存在に象徴される先進的な城郭機能という、強固な基盤の上に成り立っていたのである。
第二章:荒木村重の時代と有岡城の誕生(天正2年~天正6年)
天正2年(1574年)、伊丹城の永い歴史は大きな転換点を迎える。織田信長の家臣・荒木村重の登場により、城は「有岡城」として生まれ変わり、戦国末期の畿内史を揺るがす巨大な舞台へと変貌を遂げることになる。
2-1. 荒木村重の台頭と摂津平定
荒木村重は、摂津の国人領主である池田氏の家臣から身を起こし、下剋上の才覚をもって頭角を現した武将である 2 。織田信長が将軍・足利義昭を奉じて上洛すると、村重はいち早く信長に接近し、その家臣となった 13 。信長と義昭が対立するようになると、村重は信長方として働き、主家であった池田氏をも追放。天正2年(1574年)までには、和田氏、伊丹氏を含む「摂津三守護」を次々と打ち破り、信長の命のもと摂津一国を平定する大功を立てた 2 。
信長は村重の剛胆さを高く評価していたとされ、ある時、刀の先に刺した饅頭を差し出された村重が、臆することなく平然とそれを食べたという逸話が伝わっている。これに感心した信長は「日本一の器量なり」と絶賛したといい、両者の間には当初、強固な信頼関係が築かれていた 17。
2-2. 「有岡城」への改名と大改修
摂津一国の支配を任された村重は、天正2年(1574年)11月、最後の抵抗勢力であった伊丹氏を本拠の伊丹城から追放し、自らの居城を従来の池田城からこの地へと移した 1 。そして、城の名を「有岡城」と改めたのである 6 。この改名には、旧領主・伊丹氏の記憶を払拭し、摂津における自らの新しい支配体制の始まりを内外に宣言する、強い政治的意図があったと考えられる。
村重の事業は単なる改名に留まらなかった。彼は直ちに城の大規模な改修に着手する 3。伊丹氏が築いた堅固な城郭を基礎としながらも、自身の構想に基づき、全く新しい思想の城へと造り変えていった。この大改修こそが、伊丹城を戦国末期を代表する革新的な城郭「有岡城」へと昇華させたのである。
2-3. 宣教師フロイスの称賛
改修後の有岡城が、当時の人々にとっていかに壮麗なものであったかは、第三者の客観的な記録からも窺い知ることができる。天正5年(1577年)、畿内を訪れていたイエズス会の宣教師ルイス・フロイスは、有岡城を実見し、その著書『日本史』の中で「甚だ壮大にして見事なる城」と最大級の賛辞を贈っている 3 。西欧人の目から見ても、有岡城の規模、構造、そして城下町の賑わいは、驚嘆に値するものであった。
この評価は、城の物理的な壮大さだけでなく、城主・村重の権勢と、摂津国を安定的に統治する能力の高さをも物語っている。事実、村重は有岡城を政治・軍事の中心とするだけでなく、文化的なサロンとしても機能させていた。茶会記『天王寺屋会記』によれば、フロイスが訪れたのと同じ天正5年の12月には、当代随一の茶人である津田宗及や千利休が有岡城での茶会に招かれている記録が残っている 21。有岡城は、戦国の気風と桃山の文化が交差する、華やかで活気に満ちた空間だったのである。
第三章:城郭構造の革新性 ― 「惣構え」の徹底分析
荒木村重が築いた有岡城の最大の特徴であり、日本の城郭史における金字塔と評価されるのが、その「惣構え」の構造である。それは単に城を大きくしたという次元の話ではなく、城と町、軍事と経済、そして統治のあり方そのものを変革する、新しい時代の思想を具現化したものであった。
3-1. 「惣構え」の構造と規模
「惣構え」とは、城主や家臣が居住する主郭部や侍町だけでなく、商工業者が住まう町屋(城下町)までをも含めた広大な範囲を、一体的に堀や土塁といった防御施設で囲い込む城郭構造を指す 4 。有岡城は、この惣構えを極めて早期に、かつ徹底した形で導入した。
その規模は、南北約1.7km、東西約0.8kmにも及ぶ、南北に細長い巨大な城塞都市であった 6。これは後の徳川江戸城(総延長約15km)や豊臣大坂城(同約8km)には及ばないものの、当時の城郭としては破格のスケールであり、その思想の先進性を物語っている 24。1975年(昭和50年)以降の発掘調査では、この惣構えの遺構が良好な状態で発見され、現存が確認されるものとしては日本最古級と評価されており、国の史跡に指定される大きな要因となった 5。
3-2. 地形利用と防御拠点(縄張り)
有岡城の縄張り(設計)は、伊丹段丘という自然地形を最大限に活用した、極めて合理的なものであった 4 。
城の東側は、伊丹段丘の断崖と、その下を流れる猪名川や駄六川が天然の巨大な堀として機能し、敵の接近を阻んだ 6。一方、平坦な地形が続く西側と南側には、人工的に幅広の堀を幾重にも掘削し、堅固な防御ラインを構築した 6。
さらに、惣構えの要所には、独立した防御拠点である「砦」が三方に配置され、多層的な防衛網を形成していた 4。
表1:有岡城の惣構え 構成要素一覧 |
構成要素 |
主郭部(本丸) |
岸(きし)の砦 |
上臈塚(じょうろうづか)砦 |
鵯塚(ひよどりづか)砦 |
侍町・町屋 |
内堀・外堀 |
3-3. 実用性を追求した城郭
有岡城の惣構えは、単なる防御施設の拡大ではなかった。それは、軍事・政治・経済を一体化した「近世的城下町」の原型であり、領国経営の思想そのものを城郭という形で表現したものであった。城主はもはや山頂から領地を睥睨する存在ではなく、経済活動の中心に座し、その富と人を丸ごと守る存在へと変貌したのである。有岡城は、その思想的転換を日本で最も早く、かつ大規模に実現した城の一つと言える。
この思想は、同時期に信長が築城を開始した安土城との比較でより鮮明になる 3。安土城が、壮麗な天主を戴き天下人の権威を象徴する「見せる城」としての性格が強いのに対し、有岡城は、鉄砲戦を想定した平城の防御力を極限まで高めるという、実用性を徹底的に追求した城であった 3。この実用主義こそが、後に信長率いる5万の大軍による約1年間の包囲攻撃に耐え抜くことを可能にした最大の要因であった。
3-4. 発掘調査による知見
1975年(昭和50年)以降、継続的に行われている発掘調査は、有岡城の具体的な姿を次々と明らかにしている 4 。主郭部の周囲には、石垣を持たない素掘りの堀としては大規模な、幅約15m、深さ2.5m以上の内堀が巡っていたことが確認された 29 。また、侍町があったとされる区域では複数の堀跡が検出され、城内が幾重もの堀で厳重に区画されていたことが判明している 29 。
石垣からは、墓石や五輪塔といった石造物が転用されているのが多数発見された 27。これは、短期間で大規模な改修を行うため、手近な石材を急遽集めたことを示す物証であり、当時の緊迫した社会情勢を物語っている。近年の調査では、これまで知られていなかった幅約6.5m、深さ3mの新たな堀跡も発見されており 30、有岡城の全貌解明に向けた研究は今なお続いている。
第四章:有岡城の戦い ― 信長への謀反と籠城戦の全貌(天正6年~天正7年)
天正6年(1578年)、摂津支配を確立し、信長の重臣として順風満帆に見えた荒木村重は、突如として主君に反旗を翻す。この不可解な謀反に端を発した「有岡城の戦い」は、城郭の物理的な堅牢さだけでなく、戦国時代の調略や人間関係の複雑さを浮き彫りにする、歴史的な籠城戦となった。
4-1. 謀反に至る背景(諸説の検討)
同年10月、播磨の三木城を攻略中であった村重は、突如として戦線を離脱し、居城・有岡城へと兵を返した 31 。この報に最も驚いたのは、他ならぬ信長自身であったという 33 。その理由は単純なものではなく、複数の要因が複雑に絡み合っていたと考えられている。
- 本願寺・毛利方への内通説: 当時、信長と敵対していた石山本願寺に対し、村重の家臣(中川清秀とされる)が密かに兵糧を横流ししており、その発覚を恐れたという説 33 。また、毛利輝元や、毛利に庇護されていた将軍・足利義昭からの調略に応じ、反信長包囲網に加わったとする説もある 33 。事実、村重は本願寺宗主・顕如らに対し、同盟を誓う起請文を提出している 32 。
- 織田政権内での立場不安説: 石山本願寺攻めの総大将に佐久間信盛が任じられるなど、織田軍団内での自身の立場が相対的に低下し、将来に不安を抱いたという説 33 。
- 信長側近との対立説: 信長の側近であった長谷川秀一らから侮辱を受けるなど、個人的な対立があったとする説 33 。
- 摂津国人の動向説: 織田政権による中央集権的な支配強化に対し、摂津国内の国人衆や民衆の間に反発が広がっており、彼らの領主として村重がその動きに同調せざるを得なかったとする説 32 。
これらの要因が絡み合い、村重は信長への謀反という、後戻りのできない決断を下したのである。
4-2. 開戦と黒田官兵衛の幽閉
信長は当初、事を荒立てず、明智光秀らを派遣して村重の翻意を促した 17 。しかし、村重の決意は固く、交渉は決裂。さらに村重は、説得のために単身で有岡城を訪れた羽柴秀吉の腹心・小寺孝隆(後の黒田官兵衛)を捕らえ、城内の土牢に幽閉するという挙に出た 4 。この暴挙は、村重が信長と完全に袂を分かつ覚悟を決めたことを示す象徴的な出来事であった。官兵衛はその後、約1年間にわたる劣悪な環境下での幽閉生活を強いられ、救出された際には足が不自由になっていたと伝えられている 31 。
4-3. 織田軍の包囲と籠城戦の展開
交渉が決裂すると、信長は5万とも言われる大軍を動員し、有岡城を完全に包囲した 32 。天正6年12月8日、織田軍は総攻撃を仕掛けるが、有岡城の堅固な惣構えの前に多大な損害を被る 32 。この結果、力攻めの困難さを悟った信長は、戦術を長期的な兵糧攻めに転換 17 。有岡城の周囲には「二重、三重」の堀や柵、付城(つけじろ)を構築し、徹底的な封じ込めを図った 32 。
籠城する村重軍の士気は高く、天正7年(1579年)の正月明けには、信長の嫡男・織田信忠が率いる陣に夜襲をかけ、一時的に織田軍を混乱させるなど、激しい抵抗を続けた 32。
4-4. 高山右近・中川清秀の離反
約1年にわたる籠城戦の均衡を破ったのは、物理的な攻撃ではなく、信長の巧みな調略であった。戦局を決定づけたのは、村重の重要な与力であった高槻城主・高山右近と茨木城主・中川清秀の離反である 4 。
特に熱心なキリシタンであった右近に対し、信長は宣教師オルガンティノを通じて「もし村重方に留まるならば、畿内におけるキリスト教の布教を一切禁じ、教会を破壊する」と圧力をかけた 17。信仰、主君への忠誠、そして人質となっていた家族の命との間で苦悩した右近は、最終的に自ら剃髪して武士の身分を捨て、信長に降伏するという道を選んだ 32。これに清秀も続き、有岡城は戦略的に完全に孤立。この離反は村重にとって「青天の霹靂」であり、籠城を続ける上で致命的な打撃となった 17。
4-5. 村重の脱出と落城
味方の離反と、一向に来ない毛利からの援軍に絶望した村重は、天正7年9月2日、妻子や家臣を残し、わずか数名の側近と共に有岡城を密かに脱出。嫡男・荒木村次が守る尼崎城へと逃れた 4 。この行動は、後世「敵前逃亡」と非難される一方、毛利氏との直接交渉や戦線の再構築を目指した戦略的判断であったとする見方もある 39 。
城主を失った有岡城の士気は急速に低下。織田方の将・滝川一益の調略によって城内から寝返る者(上臈塚砦守将・中西新八郎ら)が現れ、同年10月19日(一説には11月19日)、ついに堅城・有岡城は内部から崩壊し、落城した 32。この戦いは、物理的な城壁がいかに堅固であろうとも、人心という内なる城壁が崩れれば、いとも簡単に瓦解することを示す教訓となった。
第五章:落城の悲劇とその後
有岡城の落城は、戦闘の終結を意味しなかった。それは、戦国史上でも類を見ない、凄惨な悲劇の序幕であった。この事件は、織田信長の天下統一事業が持つ非情な論理と、時代の転換を象徴する出来事として、後世に語り継がれることになる。
5-1. 人質たちの惨劇
開城に際し、信長は「村重が尼崎城と花隈城を明け渡せば、有岡城に残る一族・家臣の命は保証する」という講和条件を提示した 39 。城を守っていた荒木久左衛門らは、この条件を携え尼崎城の村重を説得に向かったが、村重は頑としてこれを拒否。進退窮まった久左衛門らは、有岡城に残した妻子を見捨てて姿をくらましてしまった 33 。
報告を受けた信長は激怒し、裏切り者への見せしめとして、人質全員の処刑という苛烈な命令を下す 17。その規模と方法は、当時の価値観からしても異常なものであった。
- 七松での処刑: 天正7年12月13日、尼崎に近い七松という場所で、まず家臣の妻や子ら122名が磔にかけられ、鉄砲や長刀で次々と殺害された 33 。
- 焼殺: 次に、身分の低い家臣やその家族ら512名が、4軒の農家に押し込められ、生きたまま火を放たれ焼き殺された 14 。
- 六条河原での斬首: 村重の妻「だし」をはじめとする一族・重臣36名は、京都市中を引き回された上、六条河原の刑場で斬首に処された 14 。
この一連の処刑による犠牲者は600名以上にのぼった。『信長公記』は「見る人目もくれ心も消えて、感涙押さえ難し」とその惨状を記し、別の同時代史料も「仏の時代からして初めてのことだ」と、その前代未聞の残虐性を批判している 7 。この事件は、信長への謀反が「一族郎党の根絶」を意味するという恐怖を天下に知らしめ、中世的な価値観の終焉と、絶対権力者による近世的秩序の到来を告げる画期となった。
5-2. 城主・池田氏の時代と廃城
悲劇の舞台となった有岡城は、落城後の天正8年(1580年)、信長の家臣・池田恒興の嫡男である池田元助(之助)に与えられた 4 。しかし、その統治は長くは続かなかった。わずか3年後の天正11年(1583年)、池田氏が美濃国へ転封となると、有岡城に新たな城主が置かれることはなく、事実上廃城となったのである 7 。
荒木村重による大改修からわずか10年足らず。宣教師フロイスが「壮大にして見事」と称賛した名城は、その歴史的役割をあまりにも早く終えることとなった 18。
5-3. 荒木村重の後半生
一族を見捨て、悲劇の引き金となった村重は、その後も花隈城などで信長への抵抗を続けたが、やがて敗れ、毛利氏を頼って尾道の地に隠遁した 4 。
しかし、村重の人生はそこで終わらなかった。天正10年(1582年)の本能寺の変で信長が斃れると、村重は歴史の表舞台に再び姿を現す。彼は剃髪して「道薫(どうくん)」と号し、商人の町・堺に移り住み、茶人として第二の人生を歩み始めた 14。驚くべきことに、彼は千利休の高弟である「利休七哲」の一人に数えられるほどの優れた文化人となり、豊臣秀吉にも茶人として仕えた 17。武将としての栄光と破滅、そして文化人としての再生という、彼の数奇な運命は、戦国という時代の複雑さと人間の生存戦略の多様性を物語っている。
終章:廃城から史跡へ ― 有岡城が現代に語りかけるもの
有岡城は天正11年(1583年)に廃城となり、城郭としての生命を終えた。しかし、その土地に刻まれた歴史は消えることなく、形を変えながら現代にまで受け継がれている。廃城後の変遷と、史跡として再評価されるに至った経緯を辿ることは、有岡城が持つ多層的な価値を理解する上で不可欠である。
6-1. 伊丹郷町の発展と城跡の変遷
城は放棄されたが、惣構えの内側に形成されていた町人たちの町は「伊丹郷町」として存続し、発展を続けた 15 。江戸時代に入ると、この地は公家である近衛家の所領となり、その庇護のもとで酒造業が飛躍的に成長。「伊丹酒」の名は全国に知れ渡り、町は経済的な繁栄を謳歌した 4 。
この発展の過程で、有岡城の遺構は町のインフラとして転用されていった。発掘調査では、城の堀を埋め立てた跡地に、酒蔵からの排水を目的とした石造りの水路「大溝」が整備されていたことが判明している 4。城の防御施設が、平和な時代の産業基盤へと姿を変えた象徴的な事例である。
6-2. 近代以降の破壊と再発見
明治時代に入ると、有岡城跡は新たな危機に直面する。明治26年(1893年)、官設鉄道(現在のJR宝塚線)の敷設工事に伴い、城跡の東側、主郭部を含む広大な範囲が削り取られ、多くの貴重な遺構が永遠に失われてしまった 6 。
しかし、昭和に入り、都市化の波が再び城跡に及ぶと、その歴史的価値を保存しようとする動きが活発化する。昭和50年(1975年)、国鉄伊丹駅前の再開発事業に先立ち、本格的な発掘調査が開始された 4。この調査によって、惣構えの構造や主郭部の様子が科学的に解明され、有岡城の歴史的重要性があらためて認識されることとなった。そして、昭和54年(1979年)、有岡城跡は国の史跡に指定され、法的な保護のもとに置かれることとなった 6。
6-3. 現代に生きる有岡城
現在、有岡城の主郭部跡は「有岡城跡史跡公園」として美しく整備され、市民の憩いの場となっている 5 。公園内では、発掘調査に基づいて復元された石垣や土塁、礎石建物跡、井戸跡などを見学することができ、往時の姿を偲ぶことができる 19 。
また、惣構えの痕跡は伊丹の町中に今も点在している。北の砦跡とされる猪名野神社には土塁が残り 23、西の砦跡の墨染寺、そして町なかの道路や地形の僅かな高低差に、かつての巨大な城塞都市の名残を辿ることができる。市立伊丹ミュージアムでは、城跡からの出土品が常設展示されており、当時の陶磁器などを通じて、城内で繰り広げられたであろう人々の生活に思いを馳せることができる 15。
有岡城は、戦国の動乱を象徴する悲劇の舞台であると同時に、日本の城郭史における革新の象徴であり、さらには清酒の町・伊丹の歴史的ルーツでもある。その重層的な物語は、破壊と再生の歴史を経て、今なお私たちに多くのことを語りかけている。
表2:有岡城(伊丹城)関連年表 |
西暦(和暦) |
南北朝時代 |
1353年(文和2年) |
1520年(永正17年) |
1527年(大永7年) |
1549年(天文18年) |
1574年(天正2年) |
1578年(天正6年) |
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1579年(天正7年) |
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1580年(天正8年) |
1583年(天正11年) |
1893年(明治26年) |
1975年(昭和50年) |
1979年(昭和54年) |
1993年(平成5年) |
引用文献
- 歴史/伊丹市 https://www.city.itami.lg.jp/mirai/sinosyoukai/21181.html
- 第1回伊丹市内にお城があった?! https://www.city.itami.lg.jp/SOSIKI/TOSHIKATSURYOKU/BUNKA/bunnkazai/KEIHATU_ZIGYO/ouchideariokajyou/1588040495758.html
- 池田城と伊丹・有岡城(池田城関係の図録) https://www.ikedaya.com/ikedatown/castle_pre/q.html
- 伊丹城(有岡城)~兵庫県伊丹市~ - 裏辺研究所「日本の城」 https://www.uraken.net/museum/castle/shiro204.html
- 有岡城(伊丹城)跡:近畿エリア - おでかけガイド https://guide.jr-odekake.net/spot/14514
- 伊丹城 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E4%B8%B9%E5%9F%8E
- 伊丹城(有岡城)の歴史 https://kojodan.jp/castle/201/memo/4320.html
- 【兵庫県】伊丹城(有岡城)の歴史 日本最古の天守を備えた城だっ ... https://sengoku-his.com/975
- 【理文先生のお城がっこう】城歩き編 第38回 天守の歴史1 - 城びと https://shirobito.jp/article/1337
- 天守 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E5%AE%88
- 中世城郭における天主とは何か・・・『信長公記』を参考に http://yogokun.my.coocan.jp/koukitenshu.htm
- 有岡城跡(伊丹城) | 場所と地図 - 歴史のあと https://rekishidou.com/ariokajo/
- 人質約700名の命と引き換えに逃亡。信長を裏切った戦国大名「荒木村重」【前編】 - Japaaan https://mag.japaaan.com/archives/131201
- 美人妻より「茶壺」を選んだ武将・荒木村重。一族を見捨てひとり生き延びたその価値観とは https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/82923/
- 歴史常設展示 | ミュージアムについて | I/M 市立伊丹ミュージアム https://itami-im.jp/about/permanent/
- リニューアル・オープン記念 信長と戦った武将、荒木村重展 | 展覧会 | I/M 市立伊丹ミュージアム https://itami-im.jp/exhibitions/%E3%83%AA%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%83%97%E3%83%B3%E8%A8%98%E5%BF%B5%E3%80%80%E4%BF%A1%E9%95%B7%E3%81%A8%E6%88%A6%E3%81%A3%E3%81%9F%E6%AD%A6%E5%B0%86/
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