最終更新日 2025-08-22

朝倉山城

越前朝倉山城は、朝倉氏の支城として一乗谷防衛網の西の要を担った。城主朝倉景連は文武両道の重臣。朝倉氏滅亡後、一向一揆の抵抗拠点となり、信長軍に攻められた。その歴史は、越前の戦国史を語る。

越前 朝倉山城 ―朝倉氏の支城から一向一揆の砦へ―

序論:越前「朝倉山城」の特定と歴史的意義

本報告書は、日本の戦国時代史において特異な位置を占める城郭、福井県福井市に所在する「朝倉山城」について、その構造、歴史的変遷、そして戦略的価値を多角的に分析し、徹底的に詳述するものである。

調査対象となる朝倉山城は、福井市北部の深坂町から浜別所町にかけて広がる標高約173メートルの朝倉山に築かれた山城である 1 。日本各地には「朝倉」の名を冠する城跡が複数存在するため、まず対象を明確化する必要がある。例えば、武田氏の狼煙台として知られる長野県茅野市の朝倉山城(別名:塩沢城) 3 や、秋月氏の拠点であった福岡県朝倉市の古処山城 6 など、他の著名な城郭とは明確に区別されねばならない。

本城の歴史的意義は、大きく二つの時代に集約される。第一に、越前の戦国大名・朝倉氏の統治下において、その一門であり政権の中枢を担った重臣・朝倉景連の居城として、一乗谷防衛網の西の要を担った側面である 1 。第二に、天正元年(1573年)に朝倉氏が織田信長によって滅ぼされた後、越前を席巻した一向一揆勢が、信長の再侵攻に抵抗するための最後の拠点の一つとしてこの城に立て籠もったという側面である 1

すなわち朝倉山城は、戦国大名による組織的な領国支配の象徴であると同時に、その支配体制が崩壊した後に生じた民衆の抵抗の舞台でもあった。この二重の歴史を内包する点にこそ、本城を考察する上での核心が存在する。本報告書では、城郭の物理的構造の分析から始め、城主の人物像、朝倉氏の防衛戦略における位置づけ、そして一向一揆との関わりへと論を進め、この城が越前の戦国史において果たした役割を明らかにしていく。


表1:朝倉山城の基本情報

項目

内容

典拠

所在地

福井県福井市深坂町~浜別所町

1

城郭形式

山城

1

標高・比高

標高約173m・比高約130m

1

主な城主

朝倉景連、越前一向一揆勢

1

主要な遺構

郭、土塁、空堀、切岸、石積み

1

時代

戦国時代

1


第一章:立地と縄張り ―九頭竜川河口域を見据える要害の構造

朝倉山城の軍事的価値を理解するためには、まずその地理的条件と城郭構造(縄張り)を詳細に分析する必要がある。城の設計思想は、築城者が何を脅威とみなし、いかにして領地を防衛しようとしたかを雄弁に物語るからである。

1.1 地理的条件と戦略的重要性

朝倉山城は、福井平野を貫流する越前の母なる川、九頭竜川が日本海へと注ぐ河口域の北岸に位置する。この立地は、単なる偶然ではなく、明確な戦略的意図に基づいている。当時の物流と軍事行動の要であった水運を直接監視下に置くことができるだけでなく、日本海からの敵勢力の上陸や侵攻をいち早く察知し、迎撃するための前線基地として、まさに理想的な場所であった。海岸線と主要街道の両方を睨むこの地点は、朝倉氏の領国経営において、経済的・軍事的に極めて重要な監視拠点であったと評価できる。

1.2 城郭構造(縄張り)の詳細分析

朝倉山城の縄張りは、比高130メートルほどの独立峰の地形を巧みに利用し、実戦を想定した技巧的な設計が随所に見て取れる。

山頂の最も高い部分を削平して造成された**主郭(本丸)**は、城の中枢であり、東西約90メートル、南北約100メートルの規模を持つ 2 。主郭の南東部には、土塁によってL字型に区画された内桝形(うちますがた)の虎口(城の出入り口)が確認できる 1 。これは敵兵の直進を阻み、狭い空間に誘い込んで側面から攻撃を加えるための先進的な防御施設であり、後世の改変の可能性も指摘されるものの、戦国中後期の築城技術の高さを窺わせる 1 。また、主郭の北側斜面には防御を固めるための石積みが現存している 2

主郭の周囲には、帯状の平坦地である 帯曲輪 が巡らされ、防御層を厚くしている。特に防御の要となる南西側には、空堀と土塁によって厳重に区画された 腰曲輪 が配置されている 2 。さらに南東側には、直線的ではない屈折した土塁を持つ曲輪が存在し、敵の動きを複雑にさせ、迎撃を容易にするための工夫が凝らされている 2

この城の防御思想を最も明確に示しているのは、防御施設の配置の偏りである。城の北側は天然の急斜面となっており、大規模な防御施設は見られない。一方で、比較的傾斜が緩やかで敵の主たる攻撃が予想される南側斜面には、 横堀 (斜面を横方向に掘った堀)と 竪堀 (斜面を縦方向に掘った堀)を組み合わせた強固な防御ラインが構築されている 2 。これは、築城者が侵攻ルートを正確に予測し、限られた労力と資源を最も効果的な場所に集中投下したことを示している。地形の利を最大限に活かし、弱点を人工的に補強するという、戦国期山城の合理的かつ実践的な設計思想の典型例と言えるだろう。

1.3 後世の改変とその影響

戦国時代の終焉と共に廃城となった朝倉山城であるが、後世、再び軍事的な役割を担うこととなった。第二次世界大戦中、山頂に 防空監視所 が設置され、その際に遺構の一部が改変を受けたとされる 1 。現在も山頂に残る無線中継塔や、建築現場の足場を利用して組まれた展望台は、往時の城郭景観を大きく変えている要素である 1

しかしながら、これらの改変は山頂部の一部に限定されており、城の骨格をなす主郭の形状、斜面に巡らされた空堀や土塁といった主要な遺構は、驚くほど良好な状態で現存している 2 。これらの遺構は、450年以上の時を経てなお、戦国武将たちの知恵と緊張感を現代に伝えている。

第二章:城主・朝倉景連 ―一乗谷四奉行の実像と権勢

城の性格は、その城主の人物像と密接に結びついている。朝倉山城の城主と伝えられる朝倉景連(あさくら かげつら)は、朝倉氏の政権運営において中心的な役割を果たした重要人物であり、彼の経歴を解明することは、城の役割を理解する上で不可欠である。

2.1 朝倉景連の出自と地位

朝倉景連は、朝倉宗家の一門である同名衆の出身であり、朝倉氏11代当主・義景の時代に重臣として活躍した武将である 11 。官途名は玄蕃助(げんばのすけ)と称し、代々、朝倉氏の奉行人(行政・司法官僚)を務める家柄に生まれたとされる 2 。彼の地位は、単なる一武将に留まらず、朝倉氏の領国経営そのものに深く関与するものであった。

2.2 「一乗谷四奉行」としての役割

景連の政治的手腕を最もよく示すのが、「一乗谷四奉行」の一人としての活動である。彼は、前波景定、小泉長利、河合吉統といった同僚たちと共に、朝倉氏の政務執行の中核を担った 1 。奉行人の職務は、当主の命令を奉じて、領国内の訴訟の審理や裁定の伝達、地方行政の監督など、内政・司法の全般に及んだ 13 。現存する古文書には、地方の役人である府中奉行人からの報告書の宛先として、景連ら四奉行の名が連記されているものがあり、彼らが中央官僚として地方統治の情報を集約し、当主の判断を補佐する立場にあったことを具体的に示している 14 。さらに、但馬国(現在の兵庫県北部)の赤渕神社へ書状を送るなど、外交の一端も担っていた記録があり、その活動範囲の広さが窺える 11

2.3 軍事指揮官としての側面

景連は、優れた行政官であると同時に、戦場にあっては勇猛な武将でもあった。弘治元年(1555年)、朝倉氏の宿老であり名将として名高い朝倉宗滴が主導した加賀一向一揆討伐の際には、一軍を率いて従軍し、津葉城(現在の石川県加賀市にあった城)を攻め落とすという武功を挙げている 1 。この戦功は、景連が平時においては政務をこなし、有事においては軍を率いて前線に立つという、文武両道を体現した戦国期の理想的な武将であったことを証明している。彼の居城である朝倉山城が、行政の中心地である一乗谷から離れた軍事上の要衝に築かれているのは、まさに彼のこうした軍事司令官としての側面に深く関わっていると考えられる。

2.4 永禄四年の「犬追物」と景連の役割

永禄4年(1561年)4月、主君・義景は、坂井郡棗荘大窪ノ浜(現在の福井市沿岸部)において、1万人以上もの軍勢を動員した大規模な「犬追物(いぬおうもの)」を催した 15 。犬追物とは、馬上から犬を弓で射る武芸であり、武士の嗜みの一つであるが、この時の催しは、折しも武田信玄と上杉謙信が川中島で対峙していた時期に行われたこともあり、単なる遊興や武芸の披露に留まらない、高度な政治的・軍事的デモンストレーションであった。朝倉氏の強大な軍事力と安定した領国支配を内外に誇示する、一大軍事演習だったのである。

この重要な催しにおいて、朝倉景連は奉行として全体の差配を任された 12 。これは、彼が主君・義景から絶大な信頼を得ていたことの証左であると同時に、1万人規模の軍勢の動員や兵站を管理・運営する卓越した能力を持っていたことを示唆している。彼の奉行人としての能力が、司法・行政のみならず、軍政の分野にまで及んでいたことを物語る逸話である。

2.5 景連の最期

朝倉氏の重鎮として活躍した景連であったが、その名は史料上、永禄9年(1566年)を最後に奉行人の名簿から見えなくなる。さらに、永禄11年(1568年)に足利義昭が一乗谷を訪れた際の饗応の席にも彼の名は記されていないことから、この頃に死去したと推定されている 11 。したがって、後に詳述する天正3年(1575年)の一向一揆による朝倉山城籠城の際には、景連自身は既に関与していなかったことになる。

第三章:一乗谷防衛網における戦略的役割

朝倉山城の真の価値は、城単体としてではなく、朝倉氏の本拠地である一乗谷を中心とした広域防衛システムの一部として捉えることで初めて明らかになる。

3.1 朝倉氏の本拠地・一乗谷の防衛構想

戦国大名・朝倉氏が5代103年間にわたって本拠とした一乗谷は、福井平野の東南に位置する山間の谷である。その地形は天然の要害をなし、朝倉氏は谷の南北の狭まった地点に「上城戸」「下城戸」と呼ばれる巨大な土塁と城門を築き、谷全体を一つの巨大な城郭(惣構)として防衛していた 18 。さらに、谷の東側の山上には、詰城としての一乗谷城(山城)が控え、その斜面には約140条もの畝状竪堀群を穿つなど、鉄壁の守りを固めていた 18

3.2 支城ネットワークによる多層防御

しかし、朝倉氏の防衛思想は、本拠地に引き籠もって敵を待ち受けるという消極的なものではなかった。一乗谷の周辺には、朝倉一族や有力家臣が守る多数の「支城」が戦略的に配置され、敵の侵攻を幾重にも阻む多層的な防衛ラインを形成していたのである 19 。これらの支城群は、それぞれが独立した「点」として存在するだけでなく、相互に連携し、敵の侵攻ルートを限定させ、その戦力を消耗させる「線」としての役割を担っていた 19 。この防衛構想は、敵を領国の外縁部で早期に捕捉・迎撃し、本拠地への到達を許さないという、極めて能動的かつ高度な「積極的縦深防御」戦略であったと言える。

3.3 防衛網における朝倉山城の位置づけ

この広域防衛網の中で、朝倉山城は極めて重要な役割を担っていた。一乗谷から北西約10キロメートル、九頭竜川下流域と日本海沿岸部を一望するこの城は、一乗谷の「西方防御線」の要となる戦略拠点であった。

具体的には、以下の三つの複合的な役割が想定される。

第一に、海路からの敵の接近や上陸を監視する「海の物見」。

第二に、九頭竜川を遡上して福井平野中心部への侵攻を図る敵軍に対する「川の抑え」。

第三に、敦賀方面から北上してくる敵が利用する北陸道(朝倉街道)方面への牽制。

このように、朝倉山城は、海・川・陸の三つの侵攻ルートを同時に扼する絶好の位置にあり、西方からのいかなる脅威にも対応できる前線基地であった。城主が朝倉政権の重鎮・朝倉景連であったという事実は、この城が単なる一国人の城砦ではなく、朝倉宗家がその戦略構想に基づいて意図的に配置した重要拠点であったことを何よりも雄弁に物語っている。


表2:一乗谷城と朝倉山城の比較

比較項目

一乗谷城(詰城)

朝倉山城(支城)

目的

本拠地の最終防衛、政治・居住の中心

特定方面(西方)の監視、前線拠点

標高

約473m 18

約173m 2

規模

谷全体を含む広大な城域 18

山頂部を中心とした比較的コンパクトな城域 10

防御施設

140条の畝状竪堀群など、最大級の防御 18

横堀・竪堀など、要点を固める効率的な防御 2

居住性

当主館、家臣屋敷群など高い居住機能 18

限定的な居住空間、軍事機能が主

役割

戦略的中枢

戦術的拠点


第四章:天正三年の攻防 ―越前一向一揆の拠点として

朝倉氏の栄華と共にあった朝倉山城は、主家の滅亡後、越前の歴史の激動の中で、全く異なる役割を担うことになる。それは、織田信長の天下統一に抵抗する、一向一揆勢の最後の砦としてであった。

4.1 背景:朝倉氏滅亡と「一揆持ちの国」の成立

天正元年(1573年)8月、織田信長の侵攻により、朝倉義景は自刃に追い込まれ、名門・朝倉氏は滅亡した 21 。信長は、越前の新たな支配者として、朝倉氏からの降将であった桂田長俊(前波吉継)を守護代に任じた。しかし、元々同輩であった桂田の尊大な統治は、他の旧朝倉家臣や在地領主たちの激しい反発を招いた 24

翌天正2年(1574年)1月、富田長繁らが反桂田の兵を挙げると、これに不満を抱いていた各地の土一揆勢が呼応し、桂田長俊は一乗谷で討ち取られた。権力の空白が生まれた越前では、これを好機と見た加賀の一向一揆勢力が介入。本願寺から派遣された下間頼照らを指導者として、瞬く間に越前全域を支配下に置いた。こうして越前は、歴史上稀に見る「一揆持ちの国」となったのである 24

4.2 一向一揆の防衛戦略と朝倉山城

天正3年(1575年)5月に長篠の戦いで武田勝頼を破り、東方の脅威を払拭した織田信長は、同年8月、満を持して越前一向一揆の殲滅へと乗り出した。その軍勢は3万とも10万とも言われる大軍であった 26

これに対し、一揆勢は越前の玄関口である木の芽峠一帯(現在の福井県南越前町)に防衛ラインを集中させ、鉢伏城や観音丸砦といった城塞群に立て籠もり、信長軍を迎え撃つ態勢を整えた 24

しかし、一揆勢の防衛拠点は木の芽峠だけではなかった。彼らは、広大な越前を実効支配し、信長軍の別動隊による側面攻撃や、主戦線が突破された後の抵抗に備えるため、各地に残る旧朝倉氏の城郭を再利用して拠点を確保した。朝倉山城に一揆勢が立て籠もったという記録 1 は、まさにこの文脈の中で理解されるべきである。一揆勢にとって、自ら新たな城を大規模に築く時間も資源もなかった。そのため、既存のインフラである城郭の中から、戦略的に価値の高いものを選択し、再利用することが最も合理的かつ現実的な選択であった。朝倉山城がその一つとして選ばれたという事実は、この城の設計の優秀さと立地の重要性が、敵であった一揆勢の目から見ても明らかであったことを証明している。城は、主を変えてもその軍事的価値を失わない。一揆勢は、かつての敵が築いた「優れた道具」を、自らの存亡をかけて利用したのである。

4.3 朝倉山城の役割と攻防の推察

一揆勢にとって朝倉山城は、福井平野北部から坂井郡沿岸部にかけての地域を支配下に置くための拠点として機能したと考えられる。また、木の芽峠の主力が敗れた際の予備拠点や、敗残兵の結集地としての役割も期待されていたであろう。

しかし、この城をめぐる具体的な戦闘の経過を記した一次史料は乏しい。『信長公記』にも、朝倉山城に関する直接的な記述は見当たらない 28 。だが、戦い全体の趨勢からその運命を推察することは可能である。

天正3年8月15日、信長軍は暴風雨をついて木の芽峠と杉津口の二方面から総攻撃を開始し、一揆勢の主防衛線をわずか一日で突破した 26 。その後、府中(現在の越前市)などで徹底的な残党狩りを行いながら、破竹の勢いで越前を平定していく 27 。この電撃的な作戦行動を鑑みれば、朝倉山城に籠もっていた一揆勢は、主戦線崩壊の報に接して戦わずして四散したか、あるいは圧倒的な兵力で包囲され、抵抗する間もなく短期間で殲滅されたかのいずれかであった可能性が極めて高い。朝倉山城の攻防は、信長による越前平定という、より大きな戦いの中の一幕として、その歴史に終止符を打ったのである。

第五章:城跡の現状と歴史的価値

戦国の動乱が終焉を迎えると、朝倉山城もまた歴史の表舞台から姿を消し、静かな眠りについた。本章では、廃城後の経緯と現在の城跡の姿、そして現代におけるその価値を考察する。

5.1 廃城後の経緯と現在の姿

天正3年(1575年)の一向一揆鎮圧後、織田信長は越前を柴田勝家に与え、勝家は北ノ庄(現在の福井市中心部)に新たな城を築き、そこを越前の政治・経済の中心とした 21 。これにより、一乗谷をはじめとする旧朝倉氏の拠点はその役割を終え、朝倉山城もまた歴史の中に埋もれ、廃城となったと考えられる。

現在、城跡は山林に覆われているが、地域住民の尽力により登山道が整備され、訪れることが可能である 1 。北麓の日吉神社付近に登城口があり、そこからつづら折りの山道を登ること約20分で主郭に到達できる 1 。山頂の主郭には、眺望を楽しむための鉄筋製の展望台と、登頂記念の鐘が設置されている 1 。展望台からは、眼下に広がる福井平野や九頭竜川の流れ、そして遠く日本海までを一望でき、この城がまさしく戦略的要衝であったことを実感できる。郭や土塁、空堀といった戦国時代の遺構も各所に残存しており、歴史探訪の対象となっているが、一部は藪に覆われている箇所も見受けられる 9

5.2 文化財としての位置づけ

朝倉山城は、その歴史的重要性にもかかわらず、国の特別史跡に指定されている一乗谷朝倉氏遺跡 18 や、福井県指定史跡である疋壇城 33 などとは異なり、国や県レベルでの史跡指定は受けていない(2024年現在) 34

しかし、これは城の価値が低いことを意味するものではない。福井県の遺跡地図には「朝倉山城跡」として正式に登録されており、文化財保護法における「周知の埋dataGridView財包蔵地」として、法的な保護の対象となっている 10 。したがって、城跡の範囲内で土木工事などを行う際には、事前の届け出が義務付けられている。

現在までのところ、朝倉山城単体を対象とした本格的な発掘調査の公式な報告書は確認されていない。一方で、一乗谷朝倉氏遺跡全体としては、半世紀以上にわたる継続的な調査が実施され、膨大な知見が蓄積され続けている 38

朝倉山城の現代における価値は、二つの側面に大別できる。一つは、保存状態の良い土塁や堀が残る「考古学的価値」。もう一つは、朝倉氏の家臣団による領国統治と、その崩壊後に起こった一向一揆の抵抗という、越前戦国史の二つの重要な局面を物語る「歴史的証人としての価値」である。公的な史跡指定を受けていない現状は、むしろ今後の調査・研究によって新たな歴史的事実が解明される可能性を秘めていることを示唆しており、研究者や歴史愛好家にとって、未だ多くの謎を秘めた魅力的なフィールドであり続けている。

結論:朝倉氏の支城、そして一揆の砦としての二重の価値

本報告を通じて、福井に所在する朝倉山城が、戦国時代の越前において果たした多角的かつ重要な役割が明らかになった。この城の歴史は、単一の物語ではなく、時代の転換期に生きた二つの異なる勢力の思惑が交差する、重層的な物語である。

第一に、朝倉山城は、戦国大名・朝倉氏の高度な領国支配システムを体現する「秩序の砦」であった。その技巧的な縄張りは、敵の侵攻を予測し、効率的に迎撃しようとする合理的な設計思想の産物である。城主・朝倉景連は、行政と軍事の両面に優れた能力を発揮した朝倉政権の重鎮であり、この城は彼の権勢の象徴であると同時に、一乗谷を中心とする広域防衛網の西の要として、領国の安定に不可欠な戦略拠点であった。

第二に、朝倉氏の滅亡後、この城は全く逆の性格を帯びることになる。すなわち、新たな支配者である織田信長に抵抗する越前一向一揆勢の拠点、いわば「抵抗の砦」へと変貌した。既存の城郭を再利用するという一揆勢の現実的な選択は、この城の軍事的価値が、その主の如何に関わらず普遍的であったことを証明している。

結論として、朝倉山城の真価は、単体の城郭としてではなく、朝倉氏の領国支配システムと、その崩壊後に生じた権力闘争という、二つの大きな歴史的文脈の中で捉えることによって初めて理解される。それは、栄華を極めた戦国大名の統治の一端を担う拠点であり、その秩序が崩壊した後に新たな支配を拒んだ民衆の抵抗の拠点でもあった。この二重の歴史を、その土塁と空堀の内に静かに刻み込んでいることこそ、朝倉山城が持つ不変の価値であると言えよう。

引用文献

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  8. 朝倉山城(福井県福井市)の詳細情報・口コミ | ニッポン城めぐり https://cmeg.jp/w/castles/3905
  9. 朝倉山城 - 城びと https://shirobito.jp/castle/1429
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  37. 【文化財保護課】埋蔵文化財関係の手続き - 福井市 https://www.city.fukui.lg.jp/kankou/bunka/bunkazai/p018696.html
  38. 朝倉氏 一乗谷遺跡 http://fukuihis.web.fc2.com/remains/re001.html
  39. 朝倉氏遺跡発掘調杏報告 I https://sitereports.nabunken.go.jp/files/attach/65/65565/140807_1_%E7%89%B9%E5%88%A5%E5%8F%B2%E8%B7%A1%E4%B8%80%E4%B9%97%E8%B0%B7%E6%9C%9D%E5%80%89%E6%B0%8F%E9%81%BA%E8%B7%A1%E7%99%BA%E6%8E%98%E8%AA%BF%E6%9F%BB%E5%A0%B1%E5%91%8A.pdf
  40. 第 39 回 福井県発掘調査報告会資料 https://www.pref.fukui.lg.jp/doc/maibun-c/event/r6events_d/fil/39thExReport240801.pdf
  41. 一乗谷朝倉氏遺跡出土の鉛地金について https://kpu-his.jp/wp/wp-content/uploads/2025/04/34-23.pdf